k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りを楽しむために学んだことを公開している「学習メモ」です。

2021年に読んだ後期室町・前期戦国関連本の感想

新年度明けましておめでとうございます。

昨年は例年に増して出会いの多い年でした。今回はそれを振り返りつつ、久々にブログを更新します。

後期室町・前期戦国オタク需要を狙った(?)書籍が続々刊行

2021年は、僕のような 室町後期~戦国前期オタク にとって、非常に実りの多い1年になりました。

極めて個人的かつ近視眼的な感想ばかりですが、雑感を述べて参ります。(2020年に発売され、2021年に読んだものもいくつか含みます)

河村昭一『若狭武田氏と家臣団』

今やすっかりお馴染みとなった戎光祥出版から、1月に刊行されたのが、 河村昭一『若狭武田氏と家臣団』

河村昭一先生ご自身の成果も含めた先行研究の総まとめにとどまらず、刺激的な新説も含まれており、とても面白い内容でした。

中でも、最推しに足利義稙を掲げている僕としては、 明応の政変における武田元信の動向 が興味深かったです。

若狭武田氏はそもそも、武田信栄が細川持常と共に将軍義教の命を受け、大和の陣中で一色義貫を誅伐した功績により、一色氏旧領のうち、武田氏が若狭と丹後を、阿波細川氏(讃州家)が三河を与えられたことから始まり、応仁・文明の乱を通じて、若狭武田氏と細川氏は常に共闘関係にありました。

明応の政変後も細川政元と共に在京して義澄政権の一翼を担い、永正4年には京兆家と讃州家が一体となって若狭武田氏の丹後攻略に協力することになるわけで、なんとなく、明応の政変にも積極的に協力したものと捉えていましたが……実は、京都を脱出した前将軍義材に被官を随行させるとともに、越中下向後も義材陣営と連絡を取っていたというのです。これには、目から鱗が落ちる思いでした。

以前から、明応の政変で義澄支持に回った諸大名の中にも、最初から義材を見捨てるつもりではなく、十分に状況を把握できないまま結果的に荷担してしまった者が多かったのではないか、と感じていましたが……この武田元信の行動を知り、それがますます補強されました。

その他には、逸見氏と並ぶ宿老・粟屋氏の一族で、大永期から天文にかけて京都周辺で活動した、 粟屋孫四郎勝春 の生涯が強く印象に残りました。

粟屋勝春は、武田家が桂川合戦の敗退で大打撃を受けて帰国した後も、たびたび細川高国の元へ派遣されており、享禄3年末頃には、播磨から上洛戦の途上にあった高国を支援すべく、内藤彦七と共に勝軍山城に籠もり、木沢長政や柳本甚次郎らと交戦。

大物崩れで高国が敗死したことを受けて一旦若狭へ帰国した後、高国の弟・八郎晴国に伴って丹波へ入国し、波多野秀忠の支援を受けて挙兵。晴国に従って畿内を転戦したのですが、天文3年に一旦和睦した際、主家である武田家が将軍義晴・細川六郎(晴元)方に付いたにもかかわらず、なお晴国と共に畿内で戦い続け、天文4年7月に討死したそうです。

この頃の本願寺は天文4年6月12日、大坂において一揆勢五、六百人が討死する大敗を喫しており、これで一向衆は滅亡したかとまで言われる状況でしたので、本願寺首脳陣も一気に晴元方との和睦に傾いたのでしょう。これに伴って、旧高国党で晴国を支援していた丹波国衆や摂津国衆たちも、その多くが幕府に帰参しました。

丹波で晴国の挙兵を支援した波多野秀忠も、天文4年7月1日には3千の兵と共に子息・太藤丸を上洛させており、それまでには晴元に帰参していたようです。)

そんな中、粟屋勝春は若狭武田氏の被官であったにもかかわらず、最期まで晴国を支え続けたのです。

家の存続こそが第一義であったこの時代、劣勢に陥ってもなお細川高国・晴国に肩入れして我が身を滅ぼした彼の行動は、決して賢明とは言えず、主家である武田家の利益にも反していたかもしれません。

しかし、細川政元の横死後ますます激化した幕府の分裂抗争、とりわけ京兆家領国である丹波や摂津においては、叛服常無き国人たちの生存競争が繰り広げられた中、彼のように一途な生涯には一服の清涼剤といった趣を覚えました。

若狭武田氏に限らず、当該期の幕府や細川京兆家に興味がある方にも、大いに得るところがあるこの一冊、未読の方には今からでも入手をおすすめします。

吉川弘文館「列島の戦国史」シリーズ完結

2020年から吉川弘文館より刊行されていた通史「列島の戦国史」シリーズが完結しました。

このシリーズでは、僕も重点して学んでいる時代から、 天野忠幸『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』 (第4巻、2020年8月)と、 大薮海『応仁・文明の乱と明応の政変 (第2巻、2021年3月)を併せて購入しました。

第4巻『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』は、足利義稙の将軍復位から織田信長の上洛までと、非常に広範囲な時代を扱いつつ、幕府の分裂抗争における武将や大名たちの動向だけではなく、宗教勢力や都市の発展、東アジアとの通交、公家の生活や荘園などなど、京都を中心とする当時の社会を様々な切り口で解説されており、実に読み応えがありました。

天野忠幸先生は、三好氏の研究をリードされていること(そして、足利義輝への辛口評価)で戦国オタクに著名ですが、これまで執筆された三好関連の書籍でも、宗教や寺内町の発展など畿内特有の社会情勢を分かりやすく解説されていましたし、週刊ビジュアル『戦国王』第65号で担当された細川一族、細川勝元山名宗全や、『室町幕府全将軍・管領列伝』で担当された細川勝元などを読んでも、三好氏台頭以前の時代の先行研究にも丁寧に目配りされていると感じてきました。その集大成が、この『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』と言っていいと思います。

同じ天野先生の中公新書『三好一族』で初めてこの時代に興味を持った方には、更に深く学ぶため、おすすめの一冊です。

第2巻『応仁・文明の乱と明応の政変』は、僕がこの時代に入門するきっかけとなり、その後も積極的に学び続けてきた、嘉吉の乱以後の赤松家再興運動の背景や、前述しました『若狭武田氏と家臣団』を補間する内容でもあり、興味深く読みました。

中でも特に印象に残ったのは、相国寺蔭凉軒の復活と季瓊真蘂の軒主職再任、そして室町殿の再建開始など、長禄2年を区切りとして、将軍義政が体制の一新を図ったという話です。

本書では赤松家再興問題と関連付けた説明はされていないのですが、同じく長禄2年に行われた山名宗全の赦免や、赤松遺臣が奪還した神璽(いわゆる「三種の神器」の一つ)の内裏への帰還も併せて考えると、この時点での義政の意向は、赤松・山名両氏の和解を図り、宗全に赤松問題への妥協を促すという穏当なものだったと考えます。

要するに、義政は少なくとも応仁の乱勃発までは、宗全を刺激しないよう気を遣っており、だからこそ、宗全の婿たる細川勝元も、赤松家の再興には同意せざるを得なかったと理解しました。

次第に本の感想から逸脱してきましたが、親赤松アンチ宗全派(?)な僕としては、なぜ赤松氏が応仁・文明の乱の東西和睦に強硬に反対したのかを、赤松家再興の経緯と絡めて説明していただきたかった……そんな無念を強く覚えるほど、広く読まれるに相応しい一冊と感じた次第です。

また、応仁・文明の乱で激化した対立構造の各地方への波及について、多くの頁を費やして説明されていることも本書の特徴で、元々興味があって調べていた地域だけでなく、あまり知らなかった地域についても、興味を深められました。

三好一族がついに一般層の読者に広まった!?天野忠幸『三好一族 ―戦国最初の「天下人」』

中公新書から10月に刊行されたのが、 天野忠幸『三好一族 ―戦国最初の「天下人」』

三好長慶といえば、戦国オタクの間ではすでに、織田信長に先んじた畿内の覇者と認知されて久しい状況ですが、超メジャーレーベルの中公新書から「三好一族」を冠するこのタイトルが登場したのは、大きなインパクトでした。

おそらく、2020年の大河ドラマ麒麟がくる』に三好長慶が登場したことや、その側近である松永久秀が主人公の明智光秀と関わりの深い役回りだったこと、向井理さんが演じた将軍足利義輝の儚い美しさもあって、室町幕府の崩壊過程に注目が集まったことも影響したのでしょう。Twitter上の反応を見ても、これまで三好氏に注目してこなかった方にまで、この新書が広く届いていることが窺えました。

三好長慶の登場以前、将軍家および細川京兆家の分裂抗争に重点を置いている僕としては、長慶の曽祖父・三好之長が阿波守護家(讃州家)当主の近臣として台頭した経緯から始まり、 京兆家と讃州家の立場の違いや両者の関係の変化 について、先行研究を取り込みつつ要点を絞り、平易かつ論理的で読みやすい文章で、因果関係を分かりやすく解説されていることが、とても嬉しかったです。

個人的に最も感動したのが、 永正元年の薬師寺元一の乱 に関する記述です。

この乱は、薬師寺元一が籠もった淀城が早期鎮圧されたためか、あまり重要視されていないのが現状ですが……僕はこの事件について学んだ結果、これは守護代による単なる下剋上未遂事件、あるいは細川政元の後継者を巡る京兆家の内訌に留まらず、明応の政変から始まり船岡山合戦まで続いた、義澄派 vs 義稙派という将軍家分裂問題において、一大転機となる可能性があった重要な事件と捉えるに至っています。

また、細川政元が妻帯せず実子を作らないまま死去したから、3人も養子を迎えたから、後継者争いが起きたのだと、そういった意見もよく見掛けます。これは典型的な誤解なのですが、そのような誤解が生じるのは、文亀3年から永正2年頃にかけての京兆家がいかに綱渡り状態であったかが充分に知られていないこと、そして、「京兆専制」論の影響が今もなお強く残っていることもあり、義澄派 vs 義稙派の対立が視野に入っていないためでしょう。足利義稙を最推し公方と心に定めている僕としては、この現状に長らく不満を抱いてきました。

天野先生の前著『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』でも、薬師寺元一の乱については、細川政元&新参内衆(澄之派) vs 細川一門&譜代内衆(澄元派)という構図を前提として、あくまで京兆家の後継者問題の解説に留められていたのですが……それが今度の『三好一族』では、薬師寺元一は将軍義澄と政元の対立を好機と見て、讃州家から澄元を後継者に迎えるとともに、帰洛の機会を窺っていた前将軍義稙を迎え入れようとしたのだろうと、そう説明されていたのです。

以下、『三好一族』より引用します。

薬師寺元一は、政元と親政を目指す将軍義澄の対立から、阿波守護家と提携して、義稙の京都復帰を目指していたようだ。すなわち、公家出身の澄之ではなく、義稙に重用された細川義春の子澄元こそが、京兆家の家督にふさわしいと考えたのである。

(中略)

政元の後継者争いは、義澄を擁する政元と、義稙に心を寄せる成之の対立と、密接に連関していたのである。

広く初学者に向けて著された新書で、このような前提が共有されることになろうとは……まことに、感無量です。

これは、先に述べた 京兆家と讃州家の立場の違いや両者の関係の変化 を分かりやすく解説された一例でもあります。

この乱を鎮圧した細川政元は、典厩家当主の細川政賢を烏帽子親として澄之を元服させたことで、改めて自身の後継者は澄之であると示したものの、翌年の讃州家討伐に失敗するや、今度は讃州家を懐柔するべく180度方針転換し、結局、薬師寺元一の主導で文亀3年頃から進めていた通り、澄元を猶子に迎えることになります。それに伴い、澄元の側近として再び上洛したのが三好之長で、三好氏はこれを契機として、讃州家にとどまらず京兆家の一員として台頭することになりました。

つまり、薬師寺元一の乱を前後の経緯も含めた大きな流れで把握することは、将軍家および京兆家の分裂問題と、その中で飛躍を遂げた三好氏の動向を理解する上で、とても重要なのです。

いささか脱線が過ぎましたが、この『三好一族 ―戦国最初の「天下人」』、三好氏を主題とした新書としては、2007年に洋泉社から復刊された、今谷明『戦国 三好一族』から大幅に更新する、信長以前の畿内戦国史入門に相応しい一冊です。間違いありません。

木下昌規『足利義輝と三好一族 ―崩壊間際の室町幕府

『三好一族』に続く形で、戎光祥出版より11月に刊行されたのが、 木下昌規『足利義輝と三好一族 ―崩壊間際の室町幕府

戦国オタクにはお馴染みの「中世武士選書」シリーズは、中公新書ほど広く一般に読まれることは難しいかもしれませんが、他社とはいえ「三好一族」を冠したタイトルが立て続けに刊行されたことは、三好贔屓にとって非常に喜ばしい出来事でした。

畿内大名の抗争が幕府や将軍の有り様にどう影響したのか、論者によって見解が異なる点も示した上で解説されていて、木下先生の誠実さと優れた「まとめ力」(?)が窺えるとともに、義輝陣営も一枚岩ではなく、いわゆる「親三好派」の幕臣でも要所々々の行動は様々であった例が丁寧に説明され、それを踏まえた上で、永禄の和睦以後の三好氏との協調関係の捉え方にも納得感がありました。

そして、この本ならではの特徴と感じたのは、従来「親三好派」の代表として解されがちだった、 伊勢貞孝の立場の変化 を丁寧に説明されているところです。

伊勢貞孝は政所執事職を世襲した伊勢氏の当主ですが、そもそも歴代の伊勢守は、将軍家の分裂により義材以来たびたび生じた将軍の都落ちに際して、これに追随せず在京し続けることが多く、その一方で一族の多くが奉公衆の構成員であったこともあり、都落ちした側の陣営にも一族を随行させています。

個人的には、将軍の都落ちが常態化したことで、そのような伊勢一族の振る舞いも「裏切り」と捉えられることはなかったのではと考えていたのですが……三好政権下で「狭義の幕府」を支えた伊勢貞孝の真意はどうあれ、将軍からは「裏切り」と見なされて信頼を失ったために、永禄の和睦後は三好氏からも軽視され、ついには敵方と結んで挙兵に至ったという説明には、説得力を感じました。

本書の刊行を知って以来、最も気になっていた、伊勢貞孝が天文20年1月に一色藤長、進士賢光ら一部の奉公衆とともに将軍義輝を京都へ拉致しようとした事件と、その2ヶ月後に進士賢光が起こした三好長慶暗殺未遂事件についても、本書では、貞孝は義輝から拒否されたにもかかわらず帰洛したことから、明確な裏切り行為と断定され、進士賢光は三好方の京都支配に加担する貞孝への反発から長慶を殺害しようとしたものと推測されていました。

この件も個人的には、貞孝は将軍を見限って帰洛したわけではなく、義輝を帰洛させるべく晴元排除の政治工作を進めた結果、翌天文21年に義輝と細川氏綱三好長慶方の和睦が成立したものと捉えていました。これは前述の通り歴代伊勢守の動向を踏まえたもので、すなわち、明応の政変に加担して義澄政権の中核を担ったにもかかわらず義稙に赦免された伊勢貞宗・貞陸父子や、桂川合戦の敗北で坂本へ退去した義晴に随伴せず帰洛し、入京を果たした晴元方との和睦交渉を図った伊勢貞忠(貞孝の義父)と同じく、幕府の存在意義に関わる洛中統治を重んじたゆえの行動との解釈です。(繰り返しますが、あくまで 個人的な解釈 です)

本書読了後もその基本的な考えは変わっていませんが、朽木谷への挨拶を怠った公卿達への義輝の姿勢を見ると、義輝が自分を差し置いて先行帰洛した行為に不満を抱いていたことは間違いなく、義輝に近侍していた親晴元派の幕臣たちにとっても、貞孝の行動は利敵行為にほかならず、彼らから様々に言い含められていたからこそ、義輝も翌天文22年7月には和睦を破り、再び晴元との提携に踏み切ったということが、よく分かりました。

なお、本書で貞孝の決定的な裏切り行為として挙げられていた、義維の擁立計画を支持した件と、義輝の信頼を失った証拠として挙げられていた、御料所の代官職を剥奪された件は、今回初めて知ったのですが、どちらも天文22年の和睦破綻後の出来事なので、むしろ、義輝が再び朽木谷への退去に追い込まれた天文22年8月こそが、両者の信頼関係が決裂した時期として鮮明に感じられました。

また脱線が過ぎましたが、この『足利義輝と三好一族』は、義輝期将軍家を取り巻く厳しい実情を直視しつつも、 義輝の心情に寄り添った木下先生の優しい視線 が感じられるとともに、これまで天野忠幸先生が展開されてきた義輝への辛口評価に再考を促すような指摘も多く含まれており、まさに前記『三好一族』と併読することで相乗効果を生む一冊だと感じました。

「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(後編)澄元方の上洛戦敗退と将軍義稙の淡路出奔事件の顛末

以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 では、永正10年(1513)に将軍がわずかな供だけを連れて突如京都から出奔した珍事件の背景や、細川高国が京兆家当主となってから内衆の再編が進んでいたことなどを紹介しつつ、「義稙」と改名した将軍がどのような政権構想を抱いていたのかを探りました。

そして、大内義興が帰国した経緯については独立した記事として 『大内義興が帰国に至った背景―在京中に起きた「安芸国人一揆」と「有田合戦」の関係、遣明船の永代管掌権を獲得した件について』 で考察しました。

今回は主にその後の話、阿波より機を窺っていた細川澄元とその与党による上洛戦を通じて起きた将軍義稙と細川高国の関係の変化、そして澄元と将軍義稙を仲介した赤松義村とその重臣浦上村宗の対立を併せて見つつ、なぜ高国と対立して出奔した将軍義稙の復帰が叶わず、高国に擁立された義晴が新たな将軍として受け入れられたのか、そしてその後の義稙の動向が「阿波公方」にどう繋がったのかを考察します。

同シリーズ記事

最後となる今回はデータ量にして前編や中編の3倍以上と、かなりの長文になっていますので、覚悟の上でどうぞ……。

写真は阿波平島にある阿波公方足利家の菩提寺、西光寺の義稙、義冬、義栄三代廟所。

忙しい人のための、義稙の行動について検討すべき疑問点まとめ

全部読むのはしんどい方のために、対象を義稙の行動に絞って、この記事で検討の必要性を訴えているいくつかの疑問点について、まとめておきます。

澄元方の上洛戦の際に京都に残った義稙は高国を見捨てたのか?

高国が義稙を残して近江へと逃れた直後には、澄元から義稙に恭順を申し出る書状が送られており、また、三好之長が入京するまでの間には、義稙の方からも澄元派の赤松義村より「京都無事」を祝って太刀や馬が贈られたことへの返礼を送っている。これらのことから、京都に残留した義稙が澄元を受け入れる姿勢を見せていたのは間違いない。

しかし義稙は同時に、澄元に与する畠山義英の攻撃を受け河内高屋城に籠城していた畠山稙長を激励しており、近江に同行しなかったことをもって高国を見捨て澄元を支持したと断ずるのは妥当ではない。

また、高国はその後近江で両佐々木氏など近国からの援軍を得て帰還するわけだが、そもそも高国の敗退以前に両佐々木氏に支援を要請したのは義稙自身であり、そのような展開は想定できたはず。

そして、澄元死去の噂が流れていたことも合わせて考えると、京都に残留した義稙は高国が戻るまで時間を稼いでいたか、あるいは澄元と高国を両天秤にかけつつ状況を静観していたと見るのが妥当ではないか。

義稙は高国の専横を嫌って出奔したのか?

義稙は出奔に際して思い通りに執政できないことの不満を書き残しているが、高国の専横と評すべき行動や対立要因を具体的に挙げるのは難しい。

ただ、出奔直後から讃州家を頼り、約二ヶ月後には明確に高国の討伐を謳っていることから、義稙の側には高国への不満があったようだ。

出奔に際しての公卿の反応からは、両者が対立関係にあったと見られていることと、義稙側近の畠山式部少輔が反感を集めていたことが窺えるが、実際のところはよく分からない。

義稙は自身の後継者をどのように考えていたのか?

現在の通説では義稙が義維を養子としたために将軍家の分裂が継続したと捉えられて、義澄系(義澄→義晴→義輝→義昭)と義稙系(義稙→義維→義栄)に分類されている。

しかし、義稙と義維の親子関係を伝えるのは史料としては良質とは言えない軍記や伝承のみで、当時の一次史料によるとむしろ義稙は出奔以前から義晴を後継者に迎えようとした形跡がある。

また、出奔の翌月には義晴擁立が進められ、そのまま抵抗なく受け入れられたことを考えると、義晴を次期将軍候補とすることは以前からの既定路線であった可能性が高いのではないか。

義稙は将軍復帰の意志を義維に託したのか?

義稙は大永元年10月から11月にかけての堺上陸時の和睦交渉失敗により淡路へ退去して以後、大永3年4月に死去するまでの間、帰洛に向けて活動した形跡はなく、将軍復帰はもとより帰洛を望んでいたかどうかも分からない。

そもそも、今のところ信頼できる史料で義維の存在が確認できるのは義稙死後の大永7年3月以降であり、義稙の死が京都に伝わったのもその後であった。

義稙の遺臣が讃州家を頼り、義維を義稙の「猶子」として擁立したのは確かだが、実際には義稙が義維と対面したかどうかすら分からない。

目次

今回の記事はとても長いので目次を用意しました。

将軍・足利義稙が有力守護による連合体制からの脱却を図り、側近の畠山式部少輔順光を引き立てたこと

将軍義稙は永正10(1513)年に出奔事件を起こし、これによって細川高国大内義興、畠山義元、畠山尚順の四人に対して「諸事不可背御成敗之由申入云々」と、自身の裁定に従うことを約束させたのですが(中編『都を仰天させた将軍義尹の甲賀出奔と、帰洛の様子に見る幕閣の構成』)、永正15年(1518)8月に大内義興が帰国した時点で、すでに京都に残留しているのは細川高国ただ一人となっていました。

実は大内義興の帰国以前にも、能登守護の畠山義元は領国の錯乱を受けて永正10(1513)年10月に帰国した後、永正12年(1515)9月には死去していて、後継者の義総も引き続き能登への在国を余儀なくされていたのです。

また、畠山尾州家の当主・畠山尚順(すでに出家して「卜山」と号していました)も、永正12年頃には嫡子の次郎稙長の元服に伴って自身は京都を去り、領国紀伊の広城を拠点としてその統治に力を注いでいました。

永正15年(1518)の段階で、将軍義稙のもとで幕政に参加していた有力守護の多くがすでに京都を去り、領国統治のために在国せざるを得なくなっていたわけです。

そして、義稙もこの状況に何も手を打たなかったわけではなく、彼ら有力大名に頼らない独自の権力基盤を形成しようと考えたようで、そのために重用されたのが「明応の政変」以来、父と共に義稙(義材・義尹)に近侍していたという、畠山式部少輔順光でした。

この畠山順光の経歴はとても興味深いもので、明応2年(1493)5月、細川政元が義稙(義材)の身柄を龍安寺から側近の上原元秀邸へと移した際、身の回りの世話をする役目を受けたのが同朋衆の木阿弥で、順光はその息子でした。つまり、彼は元々奉公衆のような名のある武家の出身ではなかったのです。

この時、義稙(義材)が越中に脱走したために木阿弥父子は逮捕されて拷問を受けたのですが、彼らはその後も義稙(義材)からの信頼に応え、明応8年(1499)に河内で挙兵した畠山尚順と連携して上洛戦を展開した時には連絡役を務めました。

永正5年(1508)6月についに義稙(義尹)が京都帰還となり、父の木阿弥と共にその忠義を愛された順光は、この時に「畠山」の名字を賜ったとのことです。畠山家の惣領である尚順に無断で与えられたとは思えませんし、両者は共に義稙(義材・義尹)と強固な信頼関係を築いていたことを考えると、「順光」という名も尚順から偏諱を授かったものでしょうか。

そのような経歴を持つ畠山順光は永正14年(1517)4月、義稙の命を受けて将軍上使として大内義興の兵と共に大和へ侵攻、大和国内の武士たちの抗争を鎮圧しました。順光はこの時、興福寺の「官府衆徒」の地位をも獲得しようとしたそうです。

中世の「南都」大和国は守護を設置せず興福寺が支配権を持っていた特別な土地であり、衆徒というのは興福寺領の在地領主など半僧半俗の有力武士のことで、その代表者で構成されるのが「官府衆徒」あるいは「衆中」と呼ばれる機関でした。奈良市中の警固や犯罪人の検断を担っていたこの機関に将軍直臣の畠山順光が名を連ねるということはすなわち、将軍による大和支配への介入を意味していたと思われます。


余談: 興福寺の官府衆徒としては筒井氏や古市氏が有名ですが、彼らは応仁・文明の乱を通じて東軍方と西軍方に分かれて対立し、畠山政長尾州家)と畠山義就総州家)の争いにも積極的に加わった末に、管領細川政元の頃にはその武力介入を招き、大和は幾度となく赤沢宗益(赤沢朝経、澤蔵軒宗益)の猛攻にさらされて甚大な被害を受けました。

その後も古市氏や越智氏は畠山総州家(義英)と共に澄元方に与しており、義稙が畠山順光に大和侵攻を命じたのも、旧義澄派である澄元与党の鎮圧が目的であったとも考えられます。

なお、後年の三好政権における大和支配の責任者となった松永久秀は、永禄5年から6年頃には正式に官府衆徒の棟梁である「官務」の地位を獲得しており、大和においては戦国時代も末期に至ってなお、興福寺を中心とした在地支配の枠組が必要とされていたことが窺えます。


畠山順光の官府衆徒への就任は義稙の目論見通りにはいかなかったようですが、その翌年の永正15年(1518)3月17日、畠山順光の邸宅にて異例の将軍御成が行われました。

明応2年の政変以後、これまで将軍御成の対象とされたのは管領を務めた当時の細川政元細川高国、代々政所頭人を務めた伊勢守家当主の伊勢貞宗と伊勢貞陸の他には、永正5年(1508)8月の畠山尚順、永正7年(1510)10月の大内義興、永正9年(1512)4月の畠山義元といった有力守護に対して恩賞として一度だけ行われたものでした。

そのような先例の中で、元々武家の出身ではない畠山順光の邸宅への御成は、鷲尾隆康の日記『二水記』に「不慮の果報、不思議」と記されたように、特異な事件として受け止められたようです。

どうも義稙は良く言えば親愛の情が厚い、悪く言えば贔屓が過ぎるところがあったようで、かつては側近として重用した廷臣の葉室光忠が多くの大名たちから恨みを買ったことが「明応の政変」を招いた要因になりました。

詳しくは後述しますが、畠山順光も後に義稙が京都を出奔した理由として『二水記』に名指しでその振る舞いが非難され、今度の御成が行われた順光の邸宅も荒らされることになります。順光もまた葉室光忠と同様にしがらみの無さから義稙の代行者として重用され、そのために恨みを買う立場になってしまったものでしょうか。

『塵塚物語』の義稙評として「御こころ正直にして、やさしき御むまれつきなり」というのがありますが、実際、幼少期を父の義視とともに美濃で過ごした義稙は、生粋の京都育ちの将軍とは異なる価値観を持っていたように感じます。それは義稙が「下剋上」の時代に相応しい将軍のあり方を模索する中で得たものだと考えますが、少なからぬ京都の人々にとっては忌避すべきものでもあったのでしょう。

大内義興、畠山義元、畠山尚順らの相次ぐ帰国により、有力守護による連合体制から脱却せざるを得なくなった将軍義稙は、このように「明応の政変」以来の忠臣である畠山順光を特別に引き立てることで、言わば側近政治による体制強化を図ったものと考えられています。(山田康弘『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』)

しかし、西国一の大大名である大内義興の帰国は、永正8年(1511)の船岡山での手痛い敗戦以来、阿波から動いていなかった細川澄元とその与党を再び活気づかせ、将軍義稙と管領細川高国はその対応に追われることとなるのです。


余談: なお、畠山順光邸への御成には、永正8年に澄元方として葦屋河原合戦にも参戦した淡路守護・細川淡路守尚春の子息と思われる「細川淡路」が出席しています。

細川尚春はこの前年の永正14年9月、三好之長によって淡路を追われて堺へと逃亡しており、『細川両家記』によると更にこの翌年の永正16年5月11日、之長によって殺害されるという最期を遂げました。これにより、之長は淡路水軍を傘下に収めたと言われています。

細川家一門の尚春に対して、澄元の部下である三好之長が独断でそこまで横暴に振る舞ったとはちょっと信じがたいところですが、之長の行動は因果応報として、等持院合戦に敗れて高国に投降した彼の身に降り掛かることになります。


各地の反幕府勢力と呼応して再び上洛戦を展開した、細川澄元と三好之長

永正16年(1519)10月のこと、細川澄元を大将とする四国勢の進軍に先駆けて、かつて細川高国が将軍義澄を見捨てて義稙(義尹)方に身を投じた際に標的とされた池田筑後守貞正の遺児・三郎五郎(後の池田信正)が、有馬郡の田中城に拠って挙兵しました。

これに対して、越水城主・河原林対馬守正頼ら高国方の摂津国人たちが協力して攻め寄せたものの、寄手の中には城方と同じ池田一族の池田民部丞の軍勢があり、その中に旧主である三郎五郎に「返り忠」を起こす者が現れたことから軍は混乱し、城方の逆襲を受けて敗退してしまいました。

そして11月には、三好之長をはじめとする四国勢の本隊も兵庫津から上陸し、澄元は神呪寺に陣を構えた後、今度は逆に一万余騎の軍勢でもって、河原林正頼が守る越水城を包囲させました。

(なお、河原林対馬守正頼は一般的には「瓦林正頼」あるいは「瓦林政頼」と表記されることが多いようですが、彼の名字は当時の史料では一貫して「河原林」と記されているため、当ブログではこれに習った表記とします。)

この越水城は、船岡山に敗れて失敗に終わった永正8年(1511)の澄元方上洛戦の後、四国勢の上陸拠点の一つ兵庫津と京都を結ぶ交通の要衝である西宮の防衛拠点として、細川高国が西摂随一の有力国人・河原林正頼に命じて築かせたもので、攻める澄元、守る高国どちらの陣営にとっても極めて重要な城でした。

高国は越水城を救援するため、守護代・内藤備前守丹波勢を主力とする4、5千の軍勢を編成して12月に池田城に入った後、後詰めのために武庫川沿いに布陣し、越水城の東側に展開した澄元方と対峙する形となりました。そして、越水城を巡る攻防はこの後も翌年の2月3日に開城するまで続けられることになります。

一方『御内書案』によると、永正16年(1519)10月の摂津における池田三郎五郎の挙兵に先んじて、同年8月に大和にて牢人たちが蜂起したため、義稙側近の畠山順光が鎮圧に向かったらしく、細川高国に宛てて順光への協力を依頼する御内書が残されています。これもおそらく、澄元率いる本隊を支援するための陽動だったのでしょう。

そして、翌永正17年(1520)2月には、阿波に退去していた畠山総州家の義英が大和国人の越智氏などと連携し、尾州家の稙長が守る河内高屋城に攻め寄せました。

義英は永正8年(1511)7月にも澄元方の上洛戦に呼応して挙兵しており、義就流の総州家と政長流の尾州家に分裂した畠山家において、「明応の政変」の経緯から義澄方となっていた総州家の義英は、今度もいわば同じ負け組として澄元と共闘関係にあったようです。畠山尚順が自ら下向して領国紀伊の支配を強化しようとしたのも、彼らに対する備えを固めるためだったのかもしれません。

このように、幕府は永正16年(1519)から17年(1520)にかけて細川澄元とその与党による波状攻撃を受けて動揺し、将軍義稙は12月8日に摂津で陣中にあった細川高国に宛てて「其後者時宜如何候哉。無心元候。早速勝利被待思食候。」と戦況を案じつつ、12月28日には佐々木四郎(六角定頼)に宛てて「連々不可存疎略之由。被聞召訖。彌致忠節者可為神妙候也。」と、支援を命じる御内書を送っています。

(後述しますが、六角氏への援軍要請がすでにこの段階で将軍義稙の意志によって行われていたことは、義稙と高国の関係を考えるに当たって重要なポイントだと思います。)


余談: 幕府の苦境は京都から遠く離れた駿河の今川家にも伝わっていたようで、永正17年(1520)正月13日には今川修理大夫(=氏親。大河ドラマおんな城主 直虎』で浅丘ルリ子が熱演した寿桂尼の夫。)に宛てた「就澄元摂州出張之儀。飛脚到来。尤神妙候也。」という内容の御内書案が残されています。


澄元は義稙(当時は義尹)の将軍再任以来、幕府に敵対する形となっていましたが、それは彼が細川政元の後を継いだ成り行きによるもので、義澄亡き今となっては(澄元は義澄の将軍在任中にも義稙との和睦を進言したことがあったほどです)、彼個人には将軍義稙への逆意など無かったでしょう。

しかし、「船岡山合戦」など義稙方との戦いで犠牲となった者たちの無念を背負う立場には違いなく、麾下の国人たちの中には一族が高国派と澄元派に分裂して争った結果、讃州家を頼って阿波への退去を余儀なくされた者もおりました。(「船岡山合戦」に敗死した細川政賢の子で典厩家当主の座を尹賢に奪われていた細川澄賢、前述した摂津瓦林氏の一族なども同様で、阿波に逼塞していました。)

そんな現状を打開するためにも、力ずくで高国を排除して再び京兆家の当主の座につき、将軍義稙の許しを得た上で幕府に復帰する……今度の澄元の上洛戦は、そのような戦いであったわけです。

細川澄元と結んだ赤松義村の事情……浦上村宗との対立の始まり

ここで、今度の澄元の上洛戦とその後の展開に大きな影響を与えることになる、赤松義村浦上村宗の対立を中心に、赤松家の動向を確認しておきます。

赤松家では、永正3年(1506)頃から前当主・赤松政則の未亡人である洞松院が当主の義村に代わり、守護の意を奉じて黒印状を発給する体制が継続していました。

義村の生年は確実な史料からは不明(系図や軍記類には文明4年、延徳2年、明応3年の記述あり)ですが、『御内書案』によると、永正3年(1506)3月14日付で将軍義澄から赤松伊豆守宛で出された御内書にはまだ「道祖」と幼名で記されているものの、永正5年(1508)2月23日付で将軍義澄が赤松重臣たちに宛てた御内書には、浦上村宗が「浦上幸松」と幼名で記されている一方で義村は「次郎」と記されており、この頃には成人していたものと思われます。

そして、永正9年(1512)に浦上村宗がまだ10代前半の若さで名代として上洛している(中編『将軍義尹が赤松氏を赦免して義澄の遺児亀王丸と和睦したことの意味、その陰で軋轢を深めていた大内義興』)のに対して、守護であるはずの義村はまだ洞松院から権限を委譲されていない状況だったことが窺えます。

かつて、明応5年(1496)に赤松政則が死去した際、5人の重臣たち(浦上則宗、別所則治、赤松則貞、小寺則職、薬師寺貴能)が道祖松丸(後の次郎義村)の守護就任を幕府に要請したのですが、義村を擁立しつつ政局を主導する浦上則宗に反発した一部の重臣たちが赤松播磨守勝範を担ぎ出し、更に別所則治が洞松院を支持したことで赤松家中は分裂し、「東西取合合戦」と呼ばれる播磨の内戦へと発展した経緯がありました。

(なお、永正9年(1512)に浦上村宗と共に上洛した別所則治は翌永正10年に死去しており、その子か孫と見られる後継者の村治は義村からの偏諱を授かっています。別所氏は次第に赤松氏から独立していったとされますが、この頃の動向は定かではないようです。)

洞松院による執政期、義村はたびたび置塩館に歌人冷泉為広を招いて親交を深めるなど、和歌三昧の生活を送っていたと言われていますが、永正12年(1515)頃には側近として三人の奉行を編成して式目を定めるなど、ようやく守護として活動するようになります。

やがて義村は浦上村宗を遠ざけ、村宗と同じ宿老格の小寺則職を重用するようになるのですが、永正15年(1518)7月には村宗の出仕を停止したばかりか、翌永正16年(1519)11月9日、義村は自ら軍を率いて置塩城から出陣し、村宗の本拠地である備前三石城下まで押し寄せ、これを包囲したのです。

背景には赤松家中における高国派と澄元派の対立があり、義村がこの時機に兵を動かしたのは、澄元方の上洛戦を支援するためだったようです。

この三石城攻略戦は、義村側近の奉行・櫛橋則高の計らいによって村宗が降参する形で和睦が結ばれ、義村は12月末に帰陣したのですが、翌永正17年(1520)の2月2日(越水城開城の前日になります)には播磨太山寺に澄元戦勝の祈祷を依頼しており、義村が引き続き澄元と提携していたことは間違いありません。

(なお、『実隆公記』には「浦上勝利」と記されているそうで、三石城の戦いは和睦に終わったとはいえ、義村が村宗の討伐という目的を果たせなかった点で赤松の敗北と見なされたのでしょう。そして、両者の対決は京都でも注目されていたことが窺えます。)

これまで将軍義稙は義村に対して、永正15年(1518)12月2日、永正16年(1519)5月23日、永正16年(1519)11月3日と三度に渡って御内書を送り、澄元に与する被官の成敗や高国との和睦を命じていたのですが、義村は将軍の意に逆らってまでも澄元に肩入れし続けたわけです。

義村がそこまで澄元を支持した理由は定かではありませんが、義村の姉は澄元の実兄に当たる讃州家当主・細川之持に嫁いでいたこともあり、家中にも讃州家との繋がりを持つ者が多かったのでしょうか。

あるいは義村としても、本来中継ぎであったはずの洞松院の執政が長期間に渡ったために、その影響力を家中から排除するには、京兆家の補佐を務めてきた野州家出身の高国よりも、讃州家出身の澄元が幕府中枢に復帰してくれた方が良いと考えたのかもしれません。

(洞松院は細川政元の姉妹、つまりあの細川勝元の娘であり、「船岡山合戦」で澄元方に与した赤松家が後に幕府から赦免されたのも、洞松院と高国のコネに依るところが大きかったようです。)

義村が浦上村宗を排除しようとした理由について、『赤松記』は「浦上掃部助村宗と上の御間、不思議の雑説出来」と、曖昧な記述に留めています。通説的には義村は守護として自立するために村宗からの「下剋上」に対抗したとされていますが、当時の状況を鑑みれば「下剋上」というよりも、澄元との提携を推進する義村にとって、村宗は放置できない存在であったためではないかと考えます。

この後、村宗は洞松院や義村の嫡子・才松丸(後の赤松晴政)だけでなく、前将軍義澄の遺児・亀王丸(後の将軍義晴)をも手中に収めて、高国派として最大の功績を上げることになりますが、前述の通りすでに上洛も経験していた村宗は、早くから高国と関係を持っていたのかもしれません。

細川高国が近江へと逃れた一方で、京都に残留した将軍・足利義稙の真意とは?

さて、永正16年(1519)11月から続いていた越水城の攻囲戦ですが、『細川両家記』によると、年が明けて間もない正月10日のこと、高国方は2万余騎で攻め寄せたものの戦況を覆すことはできず、やがて城方の気力が尽きたために開城する運びとなりました。

永正17年(1520)2月3日夜半、城主の河原林正頼は逃亡して落ち延び、老臣の若槻伊豆守長澄は一人城に残って堂々と十文字に切腹し、後世の語り草となりました。『重編応仁記』には伊豆守の辞世の歌として「花咲かぬ今の憂き身も古へも 身のなる果は変はらざりけり」が伝えられています。

(『細川両家記』が描く越水城の攻囲戦には、城方で剛弓を讃えられた一宮三郎の活躍など見どころが色々あります。細川両家記を読む が詳しいです。)

そして、引き続き『細川両家記』によると、後詰めの高国勢もやむなく池田・伊丹・久々知・長洲・尼崎へと陣を後退、これに応じて陣を進めた三好之長は2月16日に1万7千余で尼崎・長洲へと攻め寄せ、「大物北の横堤」にて香西与四郎と三好孫四郎が太刀打ちしてどちらも名を上げたが、日が暮れて雨も降ってきたので双方兵を引き、その後高国は各城に連絡して京都へ撤退したとあります。(高国の敗因は越水城の攻囲戦の際、正月10日の西宮戎神社の神事、忌籠りの日に戦闘を仕掛けた罰だと噂されたそうです。)

このような戦況の悪化に加えて、京都では正月12日に土一揆が蜂起、28日には将軍第の木屋に放火される事件も起きており、義稙は2月6日に佐々木中務少輔(京極高清)宛で「京都忩劇之條。不移時日令参洛。抽忠節者可為神妙候也。」との御内書を送り、江南の六角氏に続いて江北の京極氏に対しても、速やかに上洛して支援するよう依頼したようです。

また、義稙は高国に対しても2月8日に「越水城不慮之儀無心元候。雖然諸陣堅固之由可然候。勝利被待思食候。」と、越水城の開城後もまだ勝利を期待していると激励していたのですが、前述の通り高国は2月16日に摂津で敗れて陣を退いたばかりか、池田城伊丹城などの重要拠点も放棄し、総退却する結果となってしまったのです。

京都に戻った高国は「誘引申室町殿可落行云々、雖然室町殿無御招引」(『元長卿記』2月17日条)と将軍に共に落ち延びるよう求めたものの拒否されたらしく、将軍を三条御所に残したまま近江へと落ちて行きました。

『祐維記抄』には「十六日、酉刻、津國細川方陣破、細川方散々打死了、則細川右京大夫高国近江ヘ落行給云々、公方様ハ無殊儀京都ニ御座候也、六郎殿同三好ハ未津國在之」とあり、摂津で散々に敗れた高国は近江へと逃れたが、将軍義稙は京都に健在であること、澄元と三好之長はまだ摂津にいることが伝えられています。

幕府軍の主力たる高国勢の敗退によって追い詰められたはずの将軍義稙は、なぜ京都に残留したのでしょうか。

実は、義稙の元には澄元からの書状が届いていたようで、2月17日付で畠山式部少輔に宛てた以下のような内容が記されています。(『後法成寺関白記』2月20日条)

奉対上意連々無疎略之通、以赤松兵部令申候処、被達上聞由候条、至摂州令入国、爰元大略雖属本意候、公儀憚存不罷上候、此砌一途被仰出候者、毎事任上意可相働候、此事之次第急度御入魂憑入候、猶委曲荻野左衛門大夫可申候、恐々謹言、

澄元は以前から将軍の命令を疎かにはしないと赤松兵部少輔(義村)を通じて上申していたらしく、今度摂津を平定しても上洛しなかったのは将軍を憚ったためで、何事も将軍の命令に従うと申し出ていたというのです。

後世に編纂された軍記とはいえ『細川両家記』にも「今度公方様澄元一味にて京に御座候也」と、この動きを裏付ける記述があり、後に高国が京都を奪還して義稙は京都を出奔するという展開を知っていると尚更、義稙はすでに澄元に通じていたために、高国を見捨てて京都に残ったのだと考えてしまいそうです。

しかし、これまでの経緯と義稙の立場を考えると、この時点ではまだそのように断定はできません。

そもそも前年の末頃には六角氏に、またこのわずか10日程前にも京極氏に対して支援を要請したのは他ならぬ義稙自身でした。近江へ逃れた高国も2月22日に尼子某に対して「誠今度儀、不慮之題目、口惜候、仍至当国令下著候、此時別而中書江被加異見、入魂頼入存候」(片岡文書)と、今度の都落ちの無念を訴えるとともに、再び「中書」(佐々木中務少輔=京極高清)に協力を依頼しています。

少なくとも高国の方は、義稙の京都残留をもって自分が見捨てられたとは考えておらず、永正8年(1511)の「船岡山合戦」に至った澄元方の上洛戦の時と同様に、周辺勢力の助力を得て態勢を立て直し、再び京都奪還の機会を狙っていたのでしょう。

しかし、今回の状況が永正8年(1511)と大きく違うのは、対抗勢力の求心力の源泉であった前将軍義澄がすでに存命ではないことです。義澄の二人の遺児が赤松家と細川讃州家に庇護されていたものの、今は義稙が唯一の将軍であり、後継者として相応しい縁者もいなかったため、高国と澄元の京兆家家督を巡る争いがどう展開しようとも、血筋において義稙の立場が脅かされることはなかったのです。

(むしろ、すでに齢五十を越えていた義稙が正室すら迎えることなく、将軍家としての重責を一身に負っているというのは異例の事態で、彼は将軍家の分裂を忌避して意図的にそのような状況を保っていたと見るべきかもしれません。)

そして、高国を退けた澄元の方でも大きな問題が起きていました。

『祐維記抄』には翌3月16日の風聞として「河内高屋城落畢、御曹司、同遊佐、越智請取落シ被申訖、当國一圓ニ越智進止也、武家一向ニ不及入部者也、六郎殿ハ、去二月十六日夜尼崎舟沈テ他界云々、未諸人六郎殿ヲ見ル者一人モ無之云々」と記しており、高屋城が落城して御曹司=畠山稙長および遊佐氏から越智氏の手に渡り、大和国一円に越智氏の支配が及ぶこととなったが、武家は一向に入部に及んでいないこと、また(その理由としてでしょうか?)、六郎殿=澄元は先月の尼崎の戦いで死んだという噂があったことが分かります。

『細川両家記』が伝える2月16日の「大物北の横堤」での戦いには「その日は暮。雨もふりければ。両方互に引たり。」ともあり、澄元は悪天候の中で大物浦からの上陸戦を敢行し高国勢を撤退に追い込んだものの、実際のところ死んでいてもおかしくない事態に陥ったのかもしれません。

また『細川両家記』には「然に同二月廿七日に難波より三好筑前守之長。京へ上り給ひ。都にて威勢申計なし。」ともあり、三好之長が2月27日にはすでに難波を発って京都に入ったかのように記していますが、実際には三好之長は2月20日大山崎に入ったもののすぐには上洛せず、ここで約1ヶ月滞在したようです。

そして同じく『細川両家記』によると、澄元は3月16日に伊丹城へ入ったようなのですが、そこから一向に動かず、3月27日に三好之長が2万に及ぶ軍勢を率いて洛中を行進した時にも姿を見せなかったため、京都の人々からこのような噂が広まっていたのです。(なお『祐維記抄』からは、澄元死去の噂は実に5月に至っても続いていたことが分かります。)

以前より澄元方と交渉していた将軍義稙が、そのような噂を知らなかった、気に掛けなかったとは思えません。

また、高屋城が落城する以前の2月29日、将軍義稙は高屋城を守り続けていた畠山次郎(稙長)に宛てて「高屋城事。于今堅固之由。尤神妙候。彌被官人等励戦功之様。可被加懇詞候也。」と、その防戦ぶりを賞賛する御内書を送っています。

この時、稙長は澄元に与する総州家とその与党・越智氏によって高屋城を攻められており、『祐維記抄』に「尾州無合力」「筒井順興モ陣立無之」とあるように、父の尾州入道(卜山)や以前より義材派=尾州派であった筒井氏からの支援も期待できない状況だったことが窺えます。

そんな苦境にあった畠山稙長を励ましている義稙が、実はそれ以前より澄元を受け入れていたというのでしょうか。だとすると、このような対応はあまりにも場当たり的で不審に感じられます。

その一方で義稙は3月3日、赤松兵部少輔(義村)に宛てて「就今度京都無事之儀。太刀一腰。西長。馬一疋鹿毛。到来。悦喜候也。」と、「京都無事」を祝って太刀や馬が贈られたことへの返礼を送っています。

前述したように、将軍義稙は赤松義村が家中に澄元派を抱えていた事情を知りながら、再三に渡り、澄元と手を切って高国と和解するよう促していたのですが、義村は再び今度の澄元方の上洛戦を支援したばかりか、恭順の意志を示す澄元を受け入れるよう義稙に申し出たのでしょう。そんな赤松義村に対するこの義稙の態度も、すなわち澄元を受け入れたことの表明にも思えます。

義稙はこのわずか数日前に、高屋城で澄元方への抗戦を続ける畠山稙長を激励したばかりで、まだ落城もしていないはず。これは一体どういうことなのでしょうか。

これまで見た状況を義稙の立場で考えてみると、近江へと逃れた高国には同行しなかったものの、畠山尾州家など従来からの支持勢力との関係は維持しようと努め、その一方で生死定かならぬ澄元方との交渉も続けつつ、情勢の把握に努めていたというのが実際のところではないでしょうか。もちろん、高国が援軍を得て戻ってくる可能性も想定しつつ、です。

幕府の主導権は京兆家が掌握しており、将軍はその傀儡に過ぎなかった……そのように捉えるならば、義稙の態度は理解できないかもしれません。

しかし、京兆家家督を巡る高国と澄元の争いに左右されることなく、自らが築いた三条御所に泰然として留まり続けることこそが、将軍として示すべき天下静謐への道だと考えていたのだとすると、あながち一貫性のない姿勢とも言えないでしょう。

細川澄元と三好之長の主従が死去し、細川高国が京都に復帰したこと

永正17年(1520)2月17日に京都を脱出して以後、大津の園城寺に滞在していたという細川高国は、各所に軍勢催促を行った結果、両佐々木氏(六角、京極)の支援を取り付けます。

諸史料に3万、4万、あるいは7万とも伝えられる大軍(この数字には高国麾下の兵と両佐々木氏からの援軍のほか、近江の朽木氏、越前の朝倉氏、美濃の土岐氏など周辺他国の兵が含まれるようです)を坂本に集結させた高国方は、5月2日から3日にかけて如意ヶ嶽など東山方面に進出、京都を制圧していた三好之長ら澄元勢を威圧しました。

『祐維記抄』には5月1日の記録として「去十六日ニ細川高国江州守山ノ八日市迄出頭」とあり、おそらく4月16日には八日市まで赴いて近江勢と合流した後、越前や美濃の諸勢も加えて坂本で陣容を整え、内藤貞正ら丹波勢とも示し合わせて反撃を開始したのでしょう。

高国方の大軍勢の様子は京都にいた公卿の日記に記されていますが、とりわけ『後法成寺関白記』5月3日条の「東西南北燧無是非、即諸軍勢如意寺峯以下所々陣取、驚目者也、及晩有時声、」という記述がよく伝わってきます。

一方、入京時には足軽を含めて2万人と伝えられた三好勢は、大軍による篝火と鬨の声に圧倒されたのか多くの脱落者を出したようで、この時点で4千、あるいは5千程にまで減っていたと伝えられています。

三好之長は5月1日、主君の澄元が京兆家家督を認められたことへの御礼のため、将軍義稙の元に出仕して礼物を贈ったばかりでしたが、そのわずか2日後にはこのような窮地に立たされることとなったのです。

『拾芥記』には「三好衆三条等持院并膏薬道場陣取之、奉頼三条之御所」とあり、之長は将軍義稙の支援を期待して三条御所に近い等持院と膏薬道場に陣取ったようですが、義稙はなぜか加勢しようとはしませんでした。

そればかりか、澄元麾下で名のある武将たちの中にも高国方へと降参する者が続出したらしく、『応仁後記』には「同四日、希雲カ一味ニ頼切タル香川安富久米川村等九頭ノ者共、敵方ヘ降参シテ弥々無勢ニナリニケリ」とあり、香川氏・安富氏・久米氏・川村氏といった名前が挙げられています。

このような状況で始まった合戦は『後法成寺関白記』には「諸陣川原江寄陣於云々、時声無是非、今日者足軽計合戦云々」(5月4日条)、また「諸陣猶東川原口江寄陣於、時声驚耳目也、今日モ川原ニテ足軽相戦云々、酉剋許諸陣所ノクト云々」(5月5日条)とあり、東山から陣を寄せた高国勢の鬨の声が聞かれるとともに、川原で足軽同士が戦う様子が見られたようですが、5月5日の夕暮れ時にはいずれも陣を退き、『実隆公記』によると「高国陣取、及昏引退、入夜三吉逐電云々」と、その夜には三好之長が行方をくらましたようです。

『祐維記抄』5月6日条は「細川高国七万騎余有之云々、吉田ニ高国ハ被取陣、諸勢ハ京中ヘ入、爰三好ガシウト界敷ハ打死ニト云々、其外高国ヘ裏帰面々十人余有之云々」と、之長を見限って高国に付いた者が十人以上いたことを報じるとともに、「六郎殿ハ未被見之、去二月十六日ニ海沈給事一定々々」と、やはり澄元が2月16日の尼崎における戦いで溺死したという噂を記しています。

以前に細川成之が高国への書状で反省したように(前編『「明応の政変」による讃州家の立場の変化と、一門の長老・細川成之の憂い』)、政元の頃から三好之長の増長を快く思わない者が多かった上に、澄元死去の噂まで流れたことで、諸将の離反に拍車が掛かったのでしょう。

『応仁後記』に挙げられているうち香川氏、安富氏などは讃岐守護代かつ京兆家譜代内衆でもある一族なので、離反するのも分からなくはありませんが、久米氏などは阿波の有力な国人であり讃州家の被官と思われます。いずれにせよ、彼らの多くは三好之長の部下ではなく、まして澄元が死去したとあれば、窮地の之長に従う義理などないという道理でしょうか。

三好之長は2人の子息(芥川二郎、三好孫四郎)や甥(三好新五郎)とともに、三条東洞院にある通玄寺塔頭・曇華院(将軍家ゆかりの尼寺で、義稙の妹である祝渓聖寿が入寺していました)に匿われていましたが、5月8日にはその噂が知られ、9日には高国に露顕して包囲されました。

祝渓聖寿は三好父子の引き渡しを拒み続けたものの、之長もついに腹をくくったものか、10日に子息両人を投降させた後、11日には自ら寺を出て、百万遍の講堂(知恩寺)にて甥の介錯により切腹するという結末を迎えたのです。(『祐維記抄』5月12日条によると、三好新五郎は之長の首を落とした後「我こそ三好が内者よ、自害これ見よ」と大音声で呼ばわり、立ったまま切腹するという勇ましい最期を見せて語り草となったようです。)

『細川両家記』には、高国は詫びを入れて降参してきた三好之長父子に対して赦免を約束したものの、之長を父(淡路守護・細川淡路守尚春)の仇と恨む細川彦四郎の訴えにより、奇しくも前年に尚春が之長によって殺害されたのと同日の5月11日に甥の新四郎ともども切腹させられ、子息の次郎・孫四郎兄弟もまた細川彦四郎から高国へ申し入れたため、翌12日に国元への手紙を書き残してそれぞれ切腹したとあり、不思議な因果を感じさせられます。(『続応仁後記』では「于時五月十一日、父子三人同日ニ滅亡ス」と更に劇的な内容に変わっていますが……甥の新五郎はどこへ……?)


余談: 今谷明先生は『戦国 三好一族』の中で、奉公衆として側に仕えていた細川彦四郎からの訴えを受けて、将軍義稙が之長と子息らの処分を決めたかのように書かれていますが、元ネタと思われる『細川両家記』には「同子息次郎孫四郎事も彦四郎殿より高国へ色々申されける。降参人いかゞと思召けれ共。さあらば生害させられよと御返事有ければ。」とあるように、高国の判断で切腹させたように読めます。

もしかすると、写本による違いや一次史料の内容と整合させた結果なのかもしれませんが、これまでの経緯を踏まえると、之長の処刑を決めたのが義稙か高国かでは大きく印象が異なりますので、ここに指摘しておきます。


このように悲劇的な最期を迎えた三好之長に対して、半井保房は『聾盲記』で「合戦ニハ三好ト申大強ノ物ナレ共、天罰ニテ如此」と辛辣な評価を下すとともに、之長を項羽に、高国を劉邦に喩えつつ「今三好ハ大悪ノ大出ナル者也、皆人々無不悦喜也」などと記しており、都の人々から忌み嫌われた三好一族の悪評ぶりが窺えます。

京都における澄元方の敗退は河内や大和での戦況にも影響したようで、『祐維記抄』によると、三好之長が逐電した翌日の5月6日には畠山総州(義英)が河内から没落し、9日には越智氏の調法により吉野まで逃れ、10日には入れ替わるように畠山尾州御曹司(稙長)とその被官の遊佐氏が河内に復帰、大和では筒井氏の軍勢によって古市氏の「山ノ城」が攻め落とされました。

そして、摂津では澄元与党が悉く退散して高国方が復帰し、畿内の治安が回復して寺社本所領も相違ないことが報じられ、大和・河内においても遊佐氏の仲介によって筒井氏と越智氏の和睦が進められたのです。

伊丹城に留まっていたという細川澄元も之長の敗報を聞いて阿波へと撤退しましたが、2月に尼崎で溺死した噂されていた澄元は、実際に容態が悪かったのでしょう。之長の死からわずか1ヶ月後となる永正17年6月10日に、32歳の若さで死去しました。

さて、細川澄元の代理として上洛した三好之長を受け入れ、「上意之趣與三好無二之御同心也云々」(『二水記』5月3日条)などと噂されていたにもかかわらず、結果的にこれを見捨て、細川高国の帰京を迎えるに至った将軍義稙は、どうなったのでしょうか。

京都に復帰した高国は5月12日には早速、将軍に対面していましたが(『実隆公記』5月12日条)、特に咎め立てたりすることはなかったようです。

前述したように、高国が京都を捨てて近江に落ちたのは両佐々木氏への援軍要請という当初の予定通りの行動であって、将軍もそれを承知で京都に残ったのであれば、帰還した高国が何事もなかったかのように面会していることも、おかしな話ではないのかもしれません。

ただ、もしそうであったとしても、将軍が一旦は澄元の京兆家家督を認めたことは事実でした。

また、義稙が三好之長を受け入れた際、公卿の中に高国への同情の声があったことは確かで、祝渓聖寿が之長父子の引き渡しを拒んだのも、掌を返すかのような兄の態度には承服できなかったためとも考えられます。

背信行為とも見られた義稙の行動を高国がどのように捉えていたのかは定かではありませんが、『祐維記抄』5月8日条は「公方様并式部少輔無殊儀者也」と、将軍が側近の畠山式部少輔ともども無事であったことと合わせて、「勢州ヨリ公方様ヘ不可有御仰天旨被申云々」と、伊勢守(伊勢貞陸)が「不可有御仰天」つまり動揺しないよう将軍に言い含めたことを伝えています。

伊勢貞陸は前将軍義澄の頃から細川高国と親しかったらしく、永正5年に高国が義澄を見限って義尹方に身を投じた時には、貞陸の口添えがあったのではないかと推測されています。(山田康弘『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』)

そのような経緯があったからこそ、貞陸は今度も自分が仲介して高国に釈明することで、将軍義稙の背信とも言える行為は不問のまま落ち着くだろうと判断したのかもしれません。

あるいは、摂津で敗北した高国が一旦京都に戻った際、伊勢貞陸と高国が相諮った上での窮余の一策として、御所に留まって一旦は澄元を受け入れるよう義稙に促した可能性も考えられなくはありません。

結果的には、義稙がこの後1年も経たず京都を出奔し、高国打倒のため旧澄元派に支援を要請した一方、伊勢貞陸は高国の元に残ることになるので、彼の意図は不明と言うほか無いのですが……。

なお、『祐維記抄』には「次六郎殿ハ、去二月十六日海ヘ沈給フ、主従共以終畢」と、この段階においてもまだ澄元がすでに尼崎の戦いで溺死していたと信じられており、之長の最期をもって主従がともに滅びたこと、そして「次三好跡ヲバ、今度ウラガヘリノ面々ニ被下ト云々」と、高国によって三好氏の領地(畿内における領地でしょうか?)が寝返った者たちに下されたことなどが伝えられています。

浦上村宗と戦い続けた赤松義村を支えたものは何だったのか

一時は京都制圧に至った澄元方も今や畿内から悉く撤退してしまい、まさに永正8年の船岡山合戦の際と同様の結果に終わったわけですが、今度もまた澄元に与した赤松義村はどうなったのでしょうか。

前述した通り、宿老の浦上村宗と対立した赤松義村は永正16年(1519)末にはいったん和睦した後、翌永正17年(1520)2月末頃には将軍義稙に対して京都の無事を祝して太刀や馬を贈ったのですが、同年3月に今度は赤松家被官であった美作守護代・中村則久が義村を裏切って浦上氏に味方したことから、赤松義村浦上村宗の戦いが再燃することになりました。

永正17年(1520)4月、討伐軍を起こした赤松義村は白旗城まで出陣し、4月20日には小寺則職を大将とする軍勢を美作に差し向けましたが、対する中村則久は要害である岩屋城に篭もって頑強に抵抗しました。

義村方による岩屋城の攻囲は二百余日に及ぶ長期戦となりましたが、その間に畿内では三好之長の敗死によって細川澄元が阿波へ退去し間もなく死没、細川高国が再び京都に復帰するという大きな戦況の変化がありました。

(なお『二水記』8月4日条からは「又近日右京大夫可遣勢於播磨国云々」と、細川高国が播磨に軍勢を派遣する計画があったことが窺え、その後の展開も考えると、これは重要な情報だと感じます。この動きに将軍義稙の思惑が絡んでいるのかどうかは分かりませんが……。)

義村が肩入れしていた澄元の敗退という時勢も影響したのでしょうか、義村方は7月8日の飯岡原の合戦に敗北し、10月3日には村宗および松田元陸の援軍が岩屋城の攻囲軍を後巻したことで形勢は逆転し、6日に義村方は数百名が討死、大将の小寺則職が自刃する程の大敗を喫してしまいました。

そして、勢い付いた村宗方は室津まで攻め上ってこれを制圧し、追い詰められた義村は永正17年(1520)11月、義母の洞松院と正室の瑞松院(まつ)、嫡子・才松丸(後の赤松政村、晴政)を守護所である置塩館から室津に移すとともに、「性因」と号して出家することとなったのです。

『赤松記』には洞松院と瑞松院は以前から村宗と同心していたともあり、それが事実だとすれば、洞松院たちは義村の敗北によってやむなく村宗の人質となったのではなく、むしろ義村を見捨てて隠居に追い込んだ側であったことになります。

併せて注目したいのは、赤松義村浦上村宗の対立では、浦上氏の一族も決して一枚岩ではなかったことです。

浦上村宗は当初、浦上氏でも有名な則宗則宗は村宗の大伯父に当たると伝えられています)と同じく赤松家当主の側で宿老として活動していたため、守護所である置塩館に出仕していたようで、浦上氏が実効支配を及ぼし国人を被官化していたという備前国内の統治については、守護代として村宗の弟に当たる浦上宗久が担当していました。

赤松家において浦上氏は宿老としての立場と備前国守護代としての立場の両方を任されており、当初はこれを村宗・宗久兄弟が分担していたわけですが、前述した永正16年(1519)11月の三石城攻囲戦の際、香登城主であった弟の宗久は義村に味方したようで、『宇喜多能家画像賛』には、宗久の元にいた宇喜多能家が香登城を脱出し、村宗に味方する備前西部の国人・松田元陸の援軍を募って、三石城の救援に貢献したと伝えられています。(落ち穂ひろい より 浦上宗久

また、浦上氏の庶流と見られる有力者、浦上村国も義村に味方した一人です。

浦上村国は大永元年9月に義村が村宗によって暗殺された後も、小寺則職の後継者・村職とともに淡路に逃れ、反村宗派として活動を続けていくことになりますが、村国はかつて幼少の二郎(義村)を擁立する浦上則宗に対抗して、赤松(大河内)播磨守勝範を奉じたと伝えられているので、赤松家への忠義というよりも、元々浦上惣領家に反抗的な立場であったのかもしれません。(「嘉吉の乱」における赤松満政しかり、赤松惣領家に対する大河内家はまさにそのような立場でした。)

いずれにせよ、浦上氏が起こした「下剋上」に義村が抵抗を試みて敗れたという見方は妥当ではなく、おそらくは、畿内における澄元方の一斉敗退と澄元の死去に続き、村宗と並ぶ宿老で義村にとっては強力な味方であった小寺則職の敗死によって、赤松家における澄元派と高国派の力関係が逆転したため、洞松院は澄元派の旗頭であった義村を隠居させ、才松丸への代替わりによって家中の抗争を終わらせようと図ったのではないでしょうか。

このような経緯があり、義村(改め性因)はもはや表舞台に立つことは困難に思われましたが、決して諦めることはありませんでした。『赤松記』によると隠居の翌月の12月26日、赤松家で庇護されていた前将軍義澄の遺児・亀王丸を連れて密かに置塩館を抜け出し、明石の端谷(櫨谷)にある衣笠五郎左衛門(赤松家の年寄衆の一人)の館に入って再起を図ったのです。

義村は翌18年(1521)1月末には御着城に着陣、龍野赤松氏の赤松下野守村秀と、その下で郡代を務めていた御一家衆の広岡村宣を先陣として、広岡氏の居城・太田城まで軍を進めました。

しかし、村宗も備前三石城から室津へと進軍し、いよいよ両軍が対決となったところで、広岡村宣の裏切りによって先陣が混乱に陥ったため、義村はまたしても村宗討伐を断念せざるを得ず、2月11日の夜には亀王丸を連れて御着を脱出し、東条の玉泉寺へと逃れる結果に終わってしまいました。

義村は今度の敗戦にもなお諦めなかったらしく、義村が残した書状や禁制を見ると、永正18年(1521)1月12日時点では隠居号の「性因」と署名していたものが、2月18日、3月19日時点では「兵部少輔」と署名しており、隠居を撤回して当主復帰の意志を示していることが窺えます。

─── ここからは、これまで以上に妄想全開で仮説を展開していきますので、鵜呑みにしないようご注意ください。 ───

さて、ここまで播磨における赤松義村浦上村宗の対立を見てきましたが、三度の敗戦を経て、養母や妻に見捨てられて嫡子も人質に取られるという危機に陥りながらも、なぜ義村はここまで執拗に戦い続けたのでしょうか。

これについては、義村には前将軍義澄の遺児・亀王丸という最後の切り札があったからだと説明されることがありますが、よく考えるとその理屈には納得できないものがあります。

後世の我々は、将軍義稙の最後の出奔と帰洛計画の失敗によって亀王丸に将軍への道が開くことを知っていればこそ、特に疑問を抱くことなくそのような解釈を受け入れてしまいがちですが、義稙が生前に後継者を定めた確かな形跡はないようです。

そして、義村が亀王丸を連れて置塩館を脱出した永正17年末頃、将軍義稙はまだ細川高国と共に京都にいたわけですから、亀王丸の立場はこれまでと何ら変わらなかったはずです。

そこで考えたのは、この頃には将軍義稙と細川高国の信頼関係はすでに破綻しており、義稙は密かに旧澄元派との提携を進めていたのではないかということです。

前述したように、将軍義稙は義村に対して再三に渡り澄元と手を切って高国と和睦するよう命じましたが、義村はおそらく永正16年末頃には逆に義稙に対して澄元を受け入れるよう働きかけ、義稙の方も永正17年2月の高国敗退によって澄元を支持せざるを得なくなったという経緯がありました。

その前提によって赤松義村を「澄元派」とみなし、義村から討伐対象とされた浦上村宗および義村を見捨てた洞松院の両者を「高国派」と仮定して説明してきたのですが、もし将軍義稙と高国の関係が破綻していたとすれば、亀王丸は高国にとっても次期将軍候補として重要な存在になっていたはずです。

だからこそ、赤松義村は次期政権において再び守護として返り咲くために、隠居を撤回して「兵部少輔」に名乗りを戻すとともに、将軍義稙の後継者として亀王丸を擁立した、というわけです。

すなわち、将軍義稙が幕政から高国を排除するために再び旧澄元派との提携を選んだことによって、赤松家における対立は洞松院と浦上村宗の「高国派」に対して、赤松義村は旧澄元派も含めて反高国で連合する「義稙派」という構図に変化するとともに、次期将軍候補である亀王丸の争奪戦が始まったのです。

突拍子もない妄想と思われるかもしれませんが、この仮説を補強する材料は他にもいくつかありますので、次項では将軍義稙が出奔に至った経緯とその後の展開を見ていきます。

将軍・足利義稙が旧澄元派を頼って細川高国を討つために京都を脱出したこと

永正17年(1520)5月に畿内から敗退した澄元に代わって高国が再び京兆家家督への復帰を果たし、政所頭人・伊勢貞陸の説得もあってか、将軍義稙と高国の関係も元の鞘に収まったかに見えました。

実際、8月22日に高国の主催によって将軍御所にて催された猿楽興行では、義稙は大いに満足した様子であったと伝えられており、両者の関係が良好であったことが窺えます。

この頃には周防在国中の大内義興からも「当年之祝儀」として「太刀一腰(國吉)、鵞眼(銭)二千疋」が贈られてきたようで、8月30日付で返礼として太刀一振を贈ったとの御内書が残されており、かつて義稙の政権を支えた後に帰国した大名たちからも、幕府は元通りに治まったと受け止められていたようです。

また、9月14日には将軍御所において今度は伊勢貞陸の主催で猿楽興行が催されており、この際には細川高国のみならず嫡子の稙国や典厩家当主の尹賢も将軍に伺候し、その翌日にも再び貞陸邸で囃物が行われて、大勢の見物衆が集まって死者を出すほどの盛り上がりを見せたらしく、高国も「大飲」つまり大いに楽しんだ様子であったとのことです。

史料からは将軍義稙と高国が対立に至るような具体的な問題は見えてきませんが、10月に入ると、旧澄元派からの離反工作があったことを臭わせる事件が起きています。

10月14日、これまで高国の麾下で働きを重ねてきた西摂随一の国人で、越水城主を務めていた河原林対馬守正頼(入道宗芸)が、「与敵通達之儀依露顕也」すなわち旧澄元派への内通を理由として、高国の命によって切腹させられたのです。

高国と正頼の両者と親交があった三条西実隆はその死に際し、歌集『再昌草』に「十月十五日河原林対馬入道宗芸生涯の事きゝて」として「洛中にことしハ種々の大はやし 河原はやしそ興ハさめけり」との歌を詠んでいます。高国の判断を暗に批判したものでしょうか。

後の大永3年(1523)正月、正頼とも親交のあった旧芥川城主・能勢因幡守頼則の追善のために実隆が主催した千句連歌には、正頼の後継者らしき「河原林対馬守」が列席、その翌4年3月には高国とともに実隆と会飲しており、更に大永6年に波多野元清と柳本賢治の兄弟が晴元方に通じて謀叛した時には、河原林対馬守が八上城の討伐軍を率いていることから、事実この時の正頼への疑いは濡れ衣であり、高国も反省してその後継者を重用したのでしょう。

しかし、正頼の一族には以前から澄元派であった者もあり(この人物については後述します)、旧澄元派としても調略しやすい立場ではありました。2月の越水城開城の経緯も合わせて考えると、疑いの目を向けられるのもやむを得なかったかもしれません。

ただ澄元の嫡子・聡明丸(後の六郎晴元)は幼く、強力な戦力であった三好一族も多くが敗死して、まだ立ち直るには早いこの時期に動く必然性は無いようにも感じますが……もし、将軍義稙の側からのアプローチがあったとするならば、話は別です。

この頃の高国は疑心暗鬼に陥っていたとか、あるいはこの事件を高国の専横化の動きと評価されることもありますが、いずれにせよ、すでに将軍義稙との仲がこじれ始めていて、実際に義稙方からの働きかけを受けた旧澄元派による調略があったとすれば、高国が判断を誤ってしまうこともあり得るのではないでしょうか。

(なお『東寺過去帳』によると、この時には河原林正頼だけではなく、利倉民部丞、中尾、稲荷出羽守、石井美作入道、その子中将が高国によって処刑されたそうです。「利倉民部丞」は山城国上久世庄の国人、「稲荷出羽守」は稲荷社の祠官・羽倉出羽守でしょうか?彼ら全てが内通を疑われたのかは分かりませんが……。)

それから5ヶ月間、将軍義稙と高国の関係が悪化した過程は明確ではありませんが、義稙は翌永正18年(1521)3月7日の夜、畠山式部少輔順光をはじめとする側近と、一部の奉行人を連れて密かに京都を出奔しました。(『二条寺主家記抜粋』では畠山順光の他に、西郡杉原四郎、下津屋修理、畠山七郎の名が見えるほか、奉行人では斎藤基躬、斎藤基雄、斎藤時基、飯尾之秀らが義稙を追って京都を離れたようです。参考:室町幕府奉行人一覧

将軍義稙は以前、永正10年(1513)にも同じように京都を出奔する事件を起こしていましたが(中編『都を仰天させた将軍義尹の甲賀出奔と、帰洛の様子に見る幕閣の構成』)、今回はもその時と同様に御内書を残して出奔しており、その中で「世上之儀、万不応成敗候之間、令退屈、ふと思たち候」と、何事も執政が思い通りに運ばれないので嫌気が差し、思い立って出奔したと述べています。

『二水記』3月8日条には「定当時不随御成敗事等多端、此儀御退屈之故歟、又式部少輔無遠慮之所為歟、言語道断之次第也」と、執政が思い通りにならない不満のほか、畠山順光の思慮の無い振る舞いが理由に挙げられています。

これについては『二水記』4月8日条に「此次下京式部少輔家見之、内作之様美麗驚目了、但戸障子大略破取跡有之」と、順光の邸宅跡の内装が驚くほど美麗であったが戸障子はほとんど破り取られていたともあり、畠山順光は成り上がり者の寵臣と蔑まれていたものか、あまり都の公卿たちからは快く思われていなかったことが察せられます。

なお、軍記『足利季世記』では、義稙が畠山順光を贔屓するあまりに管領を与えたいと考えたため、高国との仲がこじれたという筋書きになっています。管領云々はあり得ない作り話だとしても、順光への寵愛はそれだけ多くの者が不相応に感じ、疎ましく思われてもいたということでしょう。

また、『壬生于恒記』3月8日条には「将軍御所存併悪思食右京兆故云々」と、将軍の出奔は高国への不満によるものと見られていたらしく、どうも永正10年の出奔時と同じように受け止められていた節も感じられます。

しかし、出奔後の動向を見ると、時機的には突然のことであったにせよ、今回は義稙自身が書き残したような衝動的な理由によるものではなく、最初から帰洛を前提として外部の協力者を頼っていることから、以前から進めていた計画に沿った行動の可能性が高いと考えます。

『二条寺主家記抜粋』には3月7日の出来事として「淡路ニアタ木ト云海賊ヲ御頼アリテ御座云々」と、義稙は堺を経て淡路へと逃れるにあたり、安宅水軍を頼ったと記されています。安宅氏は淡路島の海上交通の要衝であった由良を本拠地とする海賊で、永正15年に三好之長が細川淡路守尚春を討って以来、三好一族の勢力下にありました。

そして義稙は3月25日に瓦林日向守在時(国時とも)に宛てて、「就御帰洛之儀、別而致忠節者、可為神妙候也」(末吉文書)と、早くも帰洛への協力を命じる御内書を送っているのです。

この瓦林日向守は前述の河原林対馬守正頼の同族に当たりますが、正頼とは異なり永正8年の上洛戦から一貫して澄元に従ってきた一派で、この頃には澄元の嫡子・聡明丸(後の細川晴元。以下、便宜上「晴元」とします)の側近で奉行人を務めていたようです。

つまり、義稙は澄元の敗退後も交渉経路を閉ざすことなく、意地悪な言い方をすれば、以前から澄元(晴元)と高国を両天秤にかけた状態を継続していたことになります。

(後の展開も考えると、先の澄元上洛戦から引き続き、側近の畠山順光が澄元派との交渉に携わっていたのではないでしょうか。だとすると、『足利季世記』が高国と義稙の対立要因として順光の名を挙げているのも、あながち的外れではないのかもしれません。)

そして、同じく晴元を補佐していた細川澄賢(船岡山合戦で討死した典厩家の細川政賢の嫡子)は、4月3日付で大和国人の藤林勘解由左衛門尉に宛てて、以下のような軍勢催促状を出しています。

公方様至淡州被移御座、既来十六日被挙御旗、聡明殿被召具、御入洛上者、此砌可被抽忠節事専一候、於望之儀者、可申達候、恐々謹言

漆原徹『緒方家の中世文書』より)

すなわち、出奔の翌月には早くも淡路へ移っていた義稙が「御旗」を挙げ、「聡明殿」晴元を供に引き連れて上洛する計画が立てられていたことが分かります。御旗を掲げるとはすなわち敵対者たる細川高国を幕敵とすることであり、晴元上洛の目的も当然、高国に代わって京兆家の当主となり、将軍義稙を補佐することでしょう。

藤林氏は永正8年(1511)4月27日にも上洛戦に先駆けて澄元からの軍勢催促を受けているほか、天文年間にも晴元から藤林勘解由に宛てた「今度馳加味方之由註進到来、尤以神妙之至候」との書状を受けており、一貫して澄元・晴元党であったようです。今回も晴元上洛に際して、藤林氏をはじめとする畿内の旧澄元派に号令が掛けられたものでしょう。

そして、義稙の協力者は旧澄元派だけではなく、「明応の政変」以降長年に渡って義稙を支え続けてきた畠山卜山(尚順)も加わっていました。

卜山は前年8月に領国紀伊で内衆に謀叛を起こされ、この頃にはわずかな人数で堺へ落ち延びるという危機の最中にあったのですが、『祐維記抄』には「堺迄御出アリテ、尾州ト御同心アル歟之由風聞之、淡路嶋ヘ御出ト云々」とあり、淡路へと向かった義稙がまず堺へ赴いたのも、卜山を頼ったためと見られていたことが窺えます。

(なお『祐維記抄』は卜山が紀伊を追われた件について、「尾州近年当国ヲ林堂并熊野衆以下ニ被出之、及度度寺社領押領」と、卜山が側近に登用した大和出身の国人・林堂山樹と熊野衆による興福寺・春日社領の押領を許したことを理由に「大明神御罰」と記しており、興福寺としては卜山が領国統治に失敗したのも自業自得と捉えていたようです。)

また『二条寺主家記抜粋』3月7日条には「尾州総州被迎合可有御入洛御用意云々」ともあり、これまで仇敵の関係にあった畠山卜山と畠山義英が義稙の帰洛支援のために和睦したとの噂も伝えられていたようです。

そして、5月3日に義稙の奉行人から旧澄元派の甲賀武士・佐治氏に宛てた軍勢催促状では「就高国退治、至淡州被移御座、近日御帰洛上者」(佐治文書)と、明確に高国の討伐を謳っており、これには畠山卜山が添状を認めています。

『祐維記抄』によると、卜山は5月には梶原氏と共に紀伊に帰国して広城へ入ったものの、戦いに敗れて再び淡路へと逃れたようで、以後は義稙の帰洛支援のため行動を共にすることになりました。

(なお、河内には卜山の嫡子・稙長が健在でしたが、父が義稙帰洛のために畠山義英と和睦したのに対して、稙長はその半年後には高国からの要請を受けて畠山義英と戦っており、結果的に父子は袂を分かつこととなります。)

その一方で、永正17年5月の高国復帰以来、将軍義稙と高国の間を取り持っていたはずの政所頭人・伊勢貞陸は、嫡子の貞忠とともに京都に残留したことから、義稙は高国との対立によって幕臣を十分に掌握できない事態に陥っていたとして、「義稙は高国との幕政の主導権をめぐる権力闘争に敗れた結果、出奔せざるを得なくなった」とする指摘があります。(浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』)

高国が義稙を追い詰めたと断じるには証拠不足と感じますが、ともあれ、将軍義稙は再び上洛して高国を討つ計画のもと、晴元をはじめとする旧澄元派および畠山卜山ら外部勢力を頼みとして、いわば一時避難のために、信頼できる少数の側近だけを連れて京都を脱出したと見るのが妥当ではないでしょうか。

亀王丸が次期将軍「義晴」として擁立されてなお諦めなかった赤松義村の最期(妄想注意)

ここまで、将軍義稙の出奔後の動きを見てきた中で、旧澄元派を「義稙派」と捉えるべきことには納得していただけると思いますが、これに前項で説明した亀王丸と赤松義村の動向が関わっていたのかというと……残念ながら、具体的な証拠を挙げることは困難です。

しかし、赤松義村が永正16年頃から畠山順光を取次として将軍義稙と細川澄元を結びつける役割を果たしてきたこと、義稙出奔のわずか1ヶ月前に亀王丸を連れて玉泉寺に避難しつつ、その後「兵部少輔」と名乗りを戻していることを考えると、やはり仮説として前述した通り、この時期にはすでに「義稙派」として動いていたと見る方が辻褄が合うのではないでしょうか。

そして、出奔翌月の4月にはすでに将軍義稙が細川晴元の供奉によって帰洛する計画が動いており、5月には明確に高国討伐を謳って支援を募っていたわけですが……『赤松記』によると、なぜか赤松義村はこれまで戦い続けてきた浦上村宗の申し出を信用して和睦し、4月2日には亀王丸の御供として英賀の遊清院に出た後、片島の長福寺へと移ったのです。

『伊勢貞助記』によると4月18日には高国が「若公様於御入洛」の件について協議するために、若狭守護・武田伊豆守に上洛を促しており、おそらく村宗は高国からの依頼を受けて動いたのでしょう。(伊勢家庶流と思われる貞助が承知していることから、「伊勢守」貞陸父子が関わっていた可能性も高いと考えられます。)村宗との間にどのようなやり取りがあったのかは定かではありませんが、義村はあろうことか切り札であったはずの亀王丸を引き渡してしまったのです。

その結果、7月6日には村宗の手引によって亀王丸が播磨から上洛、将軍義稙から名指しで討伐対象とされるに至っていた高国は、義稙に代わって亀王丸を擁立しました。上洛にあたって、細川右馬頭尹賢や丹波守護代・内藤備前守貞正が京都から出迎えに行ったとも伝えられています。

亀王丸入洛の様子は当時の様々な日記に記されていますが、それらの内容からは、亀王丸が近江で死去した前将軍・義澄の子息であり10歳ないし11歳とまだ少年であること、幼少期から赤松兵部少輔(義村)が養育していたこと、仮御所として岩栖院(細川満元ゆかりの寺院であり、京兆家の管理下にあったのでしょう)に入ったことなどが、広く伝わっていたことが窺えます。(『二水記』『菅別記』『拾芥記』『経尋記』など)

その様子を見物した鷲尾隆康は『二水記』7月6日条に「御輿被上簾了、御容顔美麗成」そして「不慮之御運誠以奇特也」と感想を記しており、都の人々からは好意的に受け取られていたようですが、その一方で『祐維記抄』7月条には「次アワチの公方様モ御出陣アルヘキ由其聞在之」と、淡路へ出奔中の将軍義稙が出陣してくるとの噂もあり、このままでは済まないとの不安も広がっていたようです。

─── ここから再び、妄想全開で仮説を展開していきますので、鵜呑みにしないようご注意ください。 ───

そして、亀王丸の上洛から10日後、長年亀王丸に付き従っていた側近たち数名が切腹するという不審な事件が起きました。

『二水記』7月16日条には「今度奉附若公衆五六人、於相国寺切腹云々、造意事依露顕如此云々」とあり、何らかの企てが明らかとなったためと公表されていたようですが、鷲尾隆康は「数年令奉公、此砌生涯之条、不便之次第也」と、彼らが数年来奉公してようやく念願の帰洛が叶ったこの時に命を奪われたことに対して、同情を寄せています。

義村がこの期に及んで我が身を惜しんで亀王丸を引き渡したとは考え辛いところですし、義村が逆転を狙った最後の一手が亀王丸の上洛だったとすると、彼ら側近たちに最後の希望を託したのではと、妄想せずにはいられません。

すなわち、義村は旧澄元派による将軍義稙と晴元の上洛計画に望みをかけて、現将軍義稙と次期将軍候補たる亀王丸の帰洛を同時に実現させることを目論んでいたのではないでしょうか。

そもそも、将軍義稙自身も赤松家に庇護されている亀王丸をいずれは後継者とする腹積もりであったと考えると、義稙が永正8年の船岡山合戦の際に敵方として働いた赤松家を罰することなく、むしろ将軍家の通字「義」と「兵部少輔」の官位を与えて厚遇したことや、義稙が嫡子のいないまま正室を迎えることもしなかったことも、納得できます。

義村は元々彼自身の(あるいは赤松家臣たちの)都合で澄元支持にこだわっていたために、将軍義稙から再三求められた高国との和睦要請を無視していたわけですが、義稙と高国が決裂に至ったことでこの頃には両者の利害が一致していたのだとすると、洞松院にも見捨てられて隠居へと追い込まれた義村が、次期将軍候補となり得る亀王丸を擁立したのも、道理だと考えます。(『菅別記』7月6日条には亀王丸のことを「先年嶋御所御養子也」と記されており、この推測を裏付ける情報の一つと考えます。)

また、『二水記』6月28日条には近日の風聞として、「淡路御所今日御上洛云々、雖然雑説也、但延引云々、終以可令物忩、恐怖此事也」とあり、雑説つまり根拠のない噂話に終わったものの、亀王丸の上洛直前にも将軍義稙が帰洛するという噂で都の人々が不安になっていたことが窺えます。

しかし、旧澄元派による将軍義稙の帰洛計画は実行に移されぬまま頓挫し、義稙も8月28日付で奉行人の斎藤基躬、斎藤時基から丹波の小畠一族に宛てて「御帰洛事、既近日条、被抽忠節者、可為神妙之由」(小畠文書)と軍勢催促を行うなど、帰洛に向けた働きかけを続けていたものの、この後10月23日に再び淡路から堺へと上陸するまでの間、具体的な動きは見いだせません。

一方、上洛した亀王丸は7月26日には読書始、7月28日には将軍就任の先例に従ってまずは従五位下に叙せられるとともに、武家伝奏・広橋守光の命を受けた東坊城和長の撰により名を「義晴」と改めました。公卿では冷泉為広、三条西公條、日野内光、阿野季時、烏丸光康ら、武家からは高国とその嫡子稙国が礼参に訪れ、高国は太刀を進上しました。

(なお、義晴の名字選定については東坊城和長の案に対して内々に高国が異論を申し立て、自身の案を和長の勘文に加えさせたようです。和長によると「晴」字を上に置くのは不適切であり、義晴から一字拝領した場合に迷惑になると懸念されたものの、どうも高国が強引に押し通した模様。)

義晴の正五位下・左馬頭への叙任は11月25日、義稙の解任を伴う正式な将軍への就任は12月25日とまだ先のことになるのですが、現役の将軍である義稙が不在のまま、この段階ですでに亀王丸「義晴」の次期将軍就任はほぼ確実となったのです。

なお、将軍義稙と高国の仲を取り持っていたはずの政所頭人・伊勢貞陸は、高国による義晴の擁立を見届けた翌8月7日に死去し、嫡子の貞忠はその後、義晴に仕えました。差出人は不明ながら、7月10日付で伊勢守に宛てて「若公様御上洛、千秋萬歳目出存候、仍以誉田三郎左衛門尉御礼申上候」と、亀王丸の上洛を祝福する書状が残されており(雑々書札)、やはりその経緯には伊勢貞陸も関わっていたと推察しますが、真相は分かりません。

こうして目論見が外れた義村は、村宗の支配下にある室津で浦上被官の実佐寺氏の館に囚人のような扱いで押し込められたまま、約5ヶ月の時を過ごしました。

その間、8月22日には細川高国が進上した太刀が義晴から村宗へと下賜され、翌8月23日には幕府からの奏上により永正から「大永」と改元されました。この改元には「此間之年號雖無殊難、依将軍御他國、為奉立他主君、所用新號之由、細川右京大夫源高國申沙汰相談」(『宣胤卿記抜書』8月23日条)とあり、義稙の留守中に義晴を擁立した高国の意向によって、着々と新体制が整えられていったことが窺えます。

そして大永元年(1521)9月17日の夜、義村は村宗が送り込んだ軍勢の手によって殺害されてしまったのです。『赤松記』は義村が刺客の一人・岩井弥六の左手首を撃ち落として最後まで抵抗したこと、「是程御働比類なく候へとも、大勢不叶御果被成候」と伝えています。

なお、『播陽智恵袋』(播陽万宝智恵袋)には義村の作と伝わる歌がいくつか収録されていますが、義村が室津へ押し込められた時に「立よりて影もうつさし流てハ浮世を出る谷川の水」(たちよりてかげもうつさじ ながれては うきよをいづるたにがはのみづ)との歌を詠んで自筆の短尺を英賀城へ送り、三木東水が今も所持していると記しており、これが義村の辞世の句とされています。(「三木東水」は英賀城主・三木氏の一族で、宝暦の頃に播磨の伝説を書物にまとめた三木通識という人物のようです。参考:県史収載縁起目録

しかし、半ば囚われの身となった義村の心境が本当に「浮世を出る谷川の水」のようであったならば、村宗の刺客に対して激しい抵抗などせず、静かに自決したのではないでしょうか……義村は将軍義稙の帰洛という逆転の可能性に賭けて最後まで諦めなかったと、そのように感じられてなりません。

また『赤松記』は義村に味方した者たちは他国へ逃れたこと、その逃亡先として「淡路其ほかおもひおもひに居られ候」と、真っ先に淡路が挙げられています。これは旧澄元派との連携を示すとともに、義村が将軍義稙の帰洛を支援すべく動いていたことの証左とも考えられるのではないでしょうか。

赤松義村と将軍義稙を繋ぐ線はおぼろげではありますが、義稙出奔から亀王丸(義晴)上洛に至るまでとその前後の動向からは、義稙が高国に代わって旧澄元派を引き入れる形で幕府を再編しようとした構想が浮かび上がってきます。

すなわち、高国に代えて幼少の晴元を新たな京兆家当主に据えるとともに、赤松義村の支援によって養子とした亀王丸を次期将軍候補に迎えることです。更にその先を読めば、讃州家にて養育されていた亀王丸の弟(後の「堺公方」義維)とも和睦して上洛させるか、あるいは後顧の憂いを断つべく、出家させることになっていたのかもしれません。

高国がどれほど幕臣や公卿たちとの間に強固な関係を築き得たとしても、次期将軍候補である亀王丸の擁立なくして天下を預かる大義はないわけで、大義がないままでは畠山稙長も父の卜山に習って総州家と和睦せざるを得なかったでしょう。

将軍義稙が高国を孤立させるためには、亀王丸を預かる赤松家の動向が極めて重要でしたが、赤松義村が軍事的にも政治的にも浦上村宗に完敗したことで、亀王丸は高国の主導によって現役の将軍が不在のまま将軍候補として擁立され、更に「大永」改元によってその代替わりが広く公知されてしまいました。そして、すでに用済みとされた義村は非業の最期を遂げてしまったのです。

(なお、浦上村宗をはじめその後の赤松家については、こちらの過去記事でも紹介しています。現在では見解が変わった部分も多々ありますが、参考まで。大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)・続

細川高国による新将軍の擁立が人々の支持を得た一方、高国打倒を諦めた義稙が畠山卜山とともに淡路に退去したこと

これまで見てきたように、出奔した将軍義稙が細川高国の討伐を呼びかけて自身の帰洛に協力するよう依頼していたことは明らかですが、なぜこれに応じる動きがほとんど見られず、その一方で高国に擁立された亀王丸が次期将軍として抵抗なく受け入れられたのでしょうか。

高国には目立った戦功こそありませんでしたが、右京大夫に任じられた直後の永正5年(1508)8月より犬追物の興行を復活させたほか、その後も頻繁に猿楽や連歌会を開催し、文化の興隆に力を尽くすことで都の人々の支持を集めるとともに、幕臣や在京大名とその重臣あるいは公卿たちと親しく交流し、儀礼を通じて人脈を広げる中で政治的地位を高めてきました。

高国の義父・細川政元管領でありながら儀礼を嫌い、修験道に執心して女性を寄せ付けない等、色々な意味で協調性に欠けるところが目立ちましたが、高国はそんな政元を反面教師としたものか、対照的な資質を備えていったようです。

半井保房は『聾盲記』で三好之長の死に際し、之長を項羽、高国を劉邦に喩え、「信ニ細川高国ハ一人ヲモ不殺而大敵ヲ滅ス事ハ神変也」そして「高祖ハ有徳ノ人ナル間、天下ヲ被有也」と、高国の勝利に賛意を示しました。また、この澄元の上洛戦で義稙が之長を受け入れた際、公卿たちから高国に対する同情の声が上がっていたことも見逃せません。

高国は政元のように世評を顧みず我意を通すようなところがなく、社交性にも長けていたために、京都の人々から高く評価されたのでしょう。

そんな高国は義稙の出奔から間もない3月22日、明応9年(1500)の践祚以来すでに20年、長らく延引されてきた後柏原天皇即位式を挙行しました。

永正16年(1519)9月のこと、天皇は義満以来の先例に従って義稙を源氏長者に就任させ即位式の催行を促し、義稙もこれに応えようとしましたが、(澄元の上洛戦に伴う混乱もあったため無理もないとは思いますが)やはり費用の徴収には難儀したようで、永正17年(1520)8月に年内の延引を申し入れたものの結局叶わないまま、出奔の前月となる永正18年(1521)2月に一万疋を進上したところでした。

京都と各地を結ぶ流通拠点である兵庫・尼崎・堺を抑えていた京兆家は、幕府以上の資金力を持っていたという話かもしれませんが、高国は不在中の将軍に代わって秩序回復に尽力する姿勢を広く都の内外に示したわけで、出奔した義稙としては幾分と間の悪いことになってしまったのです。

先に述べたように、このような将軍交代期における最大のキーマンと言ってよい「伊勢守」伊勢貞陸が、亀王丸の擁立に協力した節があることも重要です。

そして、義稙が以前から亀王丸を後継者に据えることを望んでおり、貞陸や高国ら関係者もそれを承諾していたのであれば、義稙出奔のわずか1ヶ月後に亀王丸の上洛計画が進められたのも自然な成り行きであり、高国が個人的な野心から幼少の将軍を立てようと企んだわけではないことになります。

要するに、高国が以前からその政治力を高く評価されていたことに加えて、出奔した将軍義稙に代わって後柏原天皇即位式を挙行して世論を味方に付けたこと、更には、義稙出奔以前から、亀王丸を将軍の後継者に迎えることが幕府の既定路線であったために、結果として、高国による事実上の将軍のすげ替えが抵抗なく受け入れられたものと考えます。

三条西実隆は大永元年(1521)10月23日に義稙が帰洛を目指して再び堺に上陸した事件を報じ、『実隆公記』に「抑前将軍御出境南庄云々、大變事也」と記していますが、義晴がまだ左馬頭にも任じられていない時期であったにもかかわらず、現役の将軍であるはずの義稙のことを「前将軍」と記していることからも、その認識が窺えます。(一方で『祐維記抄』には義稙のことを「公方様」、義晴のことを「京ノ公方様」と記しており、京都と奈良では温度差があったのかもしれません。)

この大永元年(1521)10月から11月にかけて帰洛を試みた義稙の行動については『祐維記抄』が様々な風聞を伝えていますが、それによると、義稙は10月23日に再び堺へ上陸し、翌24日には「カタキ屋」に御所を移しました。畠山義英も仇敵である畠山卜山と再び和睦して大和へと軍を進めたようです。

京都の現状を知って義稙も態度を軟化させたようで「京ノ公方様ト御和談」の話も進められたのですが、条件が合意に至らなかったのでしょうか、畠山義英は兵を引くことなく大和へ侵攻し、大和の国人にもこれに与する者が現れたため、11月には幕府から畠山稙長が差し向けられ、筒井氏や越智氏と協力して大軍をもって総州勢を迎撃、これを撃退するに至りました。

(なお『祐維記抄』は、この時に稙長の父卜山は出陣していなかったことや、卜山に澄元後室への婿入りの話があったことも伝えています。卜山は稙長と対立して稙長派に追い出されたとの解釈もあるようですが、卜山はあくまで個人的な義理を貫くために義稙に追随しただけで、尾州家の更なる分裂抗争を望んだわけではなく、稙長も父の考えを汲んでいたのではないかと考えます。)

また、義稙が堺「カタキ屋」の御所を出て和泉の「カリノヲ」あるいは「マキヲ」に進出したとの風聞もあり、いよいよ京都へ攻め込んで来るかと心配されたものの、「公方様へ引及諸大名一人モ無之」と、味方する大名が一人も現れなかったためか、義稙も諦めて再び淡路へと退去したと伝えています。

高国贔屓の三条西実隆もこの顛末は予想外だったのでしょうか、『実隆公記』10月29日条に「前将軍昨日又去堺給云々、不可説々々々」と記しました。

出奔当初から義稙の帰洛を支援していたはずの晴元や讃州家が何をしていたのかは分かりませんが、おそらく軍を出さなかったのではないでしょうか。

将軍の出奔直後の状況であれば、その帰洛という大義名分によって高国を孤立させ、幕府からの排除を図ることもできましたが、高国によって擁立された義晴が将軍候補として受け入れられている状況ではそれも難しく、だからこそ義稙も和睦の道を探ろうとしたものと考えます。

すでに時代は変わってしまった、そのような空気であったからこそ、義稙の高国打倒の掛け声に応じる勢力は充分に集まらず、讃州家もこの時点での上洛計画を断念せざるを得なかったのではないでしょうか。彼らを頼って出奔した義稙としては、まさに梯子を外されることになってしまったわけです。

そもそも、永正16年から17年にかけての上洛戦敗退からもまだ満足に立ち直れていない状況で、旧領回復のために戦いは避けられない畠山総州家や旧澄元派の国人たち、そして高国打倒が叶わなければ幕府への復帰も望めない晴元の立場では、義稙と共闘することは難しかったとも考えられます。

そしてこれを最後に、義稙の帰洛に向けた活動は見えなくなり、大永元年(1521)12月25日に義晴が正式に征夷大将軍に就任、同時に義稙はこれを解任されることとなったのです。

義晴は将軍就任の前日、大勢の見物人が見守る中で仮御所の岩栖院から三条御所へと移り、高国を加冠役として元服しましたが、これに先立つ12月12日、高国は従四位下に叙されるとともに武蔵守に兼ねて任ぜられています。『菅別記』によると、この高国への叙位は三条西実隆の内奏によって実現したようです。

従四位下・武蔵守は3代将軍・足利義満管領として仕えた頼之以来の細川家の先例であり、幼少の義満「春王丸」が元服する際に加冠役を務めたのも細川頼之でした。義晴「亀王丸」の元服年齢もほぼ同じであり、一時期ではありますが同じ赤松家に庇護されていたことも思い起こされたでしょう。

高国は義晴の将軍就任に際して、足利将軍家の全盛期を築いた初代「室町殿」義満と、自身の先祖である細川頼之の先例を強く意識していたのではないでしょうか。

長くなりましたが、こうして、高国討伐を謳って京都を出奔した義稙はこれを諦めざるを得なくなり、結果的には高国の完勝に終わってしまったのです。

旧来からの通説ではこの結果をもって、高国は幕政の壟断を目論んで義稙を追放し、幼少の義晴を傀儡将軍として迎えたという解釈がなされています。

しかし、これまで述べてきましたように、当時の史料から高国の「専横」を示す具体的な証拠を挙げることは難しく、そのような見方は結果から推測されたものに過ぎないと感じます。

いわゆる「京兆専制」論が妥当ではないことが明らかにされてきたことを踏まえても、義稙が澄元を受け入れたことで生じた信頼関係の綻びが、高国の保守政治家としての非凡な資質(あるいは人心収攬術と言い換えるべきかもしれませんが)も相まって、このような結果を招いてしまったと捉える方が適切ではないでしょうか。

義稙の遺臣たちが「堺公方」義維を擁立し、義稙の系譜が「阿波公方」家に伝承されたこと

最後に、再び淡路へ退去した義稙の結末とともに、義稙の遺臣たちによって擁立された義澄のもう一人の子息で、通説において義稙の後継者とされている義維と、その子孫が「阿波公方」と呼ばれるに至ったことについて、簡単に紹介します。

大永2年(1522)3月18日、邸主を失った前将軍義稙の三条御所を伏見宮貞敦親王が見物に訪れました。義稙は京都の人々にとってはすでに過去の人となったのでしょう。

将軍義晴が岩栖院から移ったという三条御所は、義稙邸とは別だったのでしょうか?ともあれ、義晴の三条御所も大永5年(1525)には、細川高国の意向により京兆家内衆の邸宅跡を利用して造営された新邸、柳原御所(柳の御所)に移築されることになりますので、その頃には義稙邸も無くなってしまったと思われます。

義稙に最後まで付き添った畠山卜山は翌大永2年(1522)7月17日に淡路で死去したらしく、『経尋記』8月27日条に「畠山尾州入道卜山、去月十七日逝去之由風聞、事実云々、不審也、」とあり、また『祐維記抄』8月27日条には「近般当国へ可被打入旨用意之處、萬歳也、偏神慮云々、」と、再侵攻の計画途中で死去したらしいことも伝えられています。

これがただの噂話だったのか事実なのかは分かりませんが、ともかく「明応の政変」による受難以来、ずっと自分を支え続けてくれた卜山の死には、義稙も気力を失ったのではないでしょうか。

大永元年(1521)11月に卜山とともに淡路へと退いて以後、義稙から帰洛支援を命じた御内書などは残っていないようですが、大永2年(1522)10月28日、丹波の国人・池上与四郎盛宗に対して、義稙方の奉行人(斎藤時基、斎藤基雄)から以下のような充行状が送られています。

去年至淡州被移御座處、馳参忠節、尤以神妙、因茲丹波國瓦屋南荘内成時名地頭職事、為御所御修理料由緒云々、被仰付池上與四郎盛宗訖、早全領知、任先例可被其沙汰由、所被仰下也、仍下知如件、

(『大日本史料』大永2年10月28日1条より)

池上家は将軍家に代々棟梁として仕えた室町幕府御大工の家柄らしく、この地頭職は後に「御大工棟梁」として足利義昭の新御所造営を務めたという池上五郎右衛門(『信長公記』)に継承されているそうで、与四郎盛宗もこの一族と思われます。(参考:池上五郎右衛門(いけがみ ごろうえもん)とは - コトバンク

すでに将軍を解任された義稙からの充行状が実際に効力を持ったのかどうかは分かりませんが、自分を将軍と慕って淡路まで馳せ参じてくれたことに対して、感謝の気持ちを示したかったのでしょうか。

畠山卜山を見送った義稙はその後、阿波国撫養(現在の徳島県鳴門市)に移り、大永3年(1523)4月9日に死去したと伝えられていますが、晩年をどのように過ごしたかは明確ではありません。

おそらく『足利季世記』の「淡路ノ武島ヘ御渡海アリ」という記述からでしょうか、義稙は撫養に移るまでの数年間、淡路の沼島で過ごしたとも伝えられ、そこには義稙ゆかりと推定された庭園跡もあるようですが、これは室町期ではなく江戸初期のものであるとも言われています。

その頃にはもう義稙の消息が都で噂されることもなくなっていたようで、『公卿補任』において引き続き従二位、奨学淳和両院別当・源氏長者と記録されていた義稙の経歴に訂正が加えられたのは、死後4年を経た大永7年(1527)4月のことでした。

ちょうどその頃、高国に反乱を起こした丹波の波多野元清、柳本賢治兄弟に呼応して、細川晴元を旗頭とする阿波勢が畿内に上陸して戦いを展開していましたが、彼らは讃州家に庇護されていた義晴の弟・義維を「義稙の猶子」として擁立していたようで、この陣営にはかつて義稙とともに京都を出奔した奉行人たちや、あの畠山式部少輔順光の姿もありました。

(『二水記』によると畠山順光は大永6年(1526)12月14日に四国衆と共に堺へ上陸した後、翌大永7年(1527)1月20日に畠山上総介によって殺害されたと伝えられており、それが事実であれば同年2月の桂川合戦で義維方の優勢が決まる前に、すでに死去していたことになりますが……。)

義澄の子で義晴の異母兄弟とされる義維は、当時の史料では「南方武家」「四國若公」あるいは「堺武家」などと称されており、将軍義晴に対抗して堺に御所を構えました。そして、かつて淡路で義稙に仕えていた奉行人たちが義維の元で幕府と同じように奉行人奉書を発給していることから、これを一つの政権と捉えるとともに「堺幕府」と呼ばれることもあります。

『二水記』大永7年(1527)7月13日条は義維について「南方御事、去三月廿四日和泉堺御着岸、未及御上洛、法住院殿御息、江州武家御舎弟也、嶋御所為御猶子分歟」と伝えています。(「法住院殿」とは義澄を、「江州武家」とは大永7年(1527)2月の桂川合戦での敗北により近江へ逃れていた将軍義晴を、「嶋御所」とは説明するまでもないとは思いますが、淡路島に隠棲した義稙を指します。)

また『二水記』には、義維は初名を義賢といい、堺に入って元服するとともに、義晴と同じく東坊城和長の撰によって名を「義維」と改めたともあります。

義稙の遺臣たちを味方に付けた細川晴元丹波勢と共闘の末、享禄4年(1531)6月4日「大物崩れ」でついに高国打倒に成功したものの、政権の内部対立によって堺の御所は崩壊、天文元年(1532)に義維は阿波への没落を余儀なくされ、更に晴元が義晴方の最有力大名・六角定頼と手を結び将軍義晴と和睦したことによって、その存在意義は全く失われてしまい、讃州家当主・細川持隆の庇護のもと阿波平島に逼塞することになります。

義維はその後も何度か上洛を試みたものの、細川晴元細川氏綱など当時の京兆家当主、その後に畿内の覇者となった三好長慶も義維を支援することはなく、三好政権は永禄元年(1558)の末に将軍義輝と和睦して以後、幕府との協調路線を歩みました。

30年以上もの長きに渡り無念の日々を送った義維でしたが、長慶の死後に後継者の三好義継が起こした、永録9年(1566)5月19日の将軍義輝殺害事件「永録の変」の成り行きの果てに、思いがけずその大願は成就されます。

三好政権から離反した松永久秀や畠山氏をはじめ、義輝の弟・義昭(初名は義秋)を支持する勢力も畿内周辺には健在でしたが、以前から義維擁立を目論んでいた阿波三好家の宿老・篠原長房は、政変後の畿内制圧に多大な功績を上げたことから一躍、三好政権を主導する立場となり、義維の嫡子・義栄(初名は義親)を新たな将軍候補として擁立したのです。(なお、これに伴って三好宗家の当主・三好義継は松永久秀を頼って義昭方に走ることとなり、彼が起こした「永禄の変」は本末転倒な結果に終わってしまいました。)

そして永録11年(1568)2月8日、義栄は摂津富田の普賢寺で待望の征夷大将軍への就任を果たしました。その傍らに仕えていたのは、畠山式部少輔入道安枕斎守肱。父の木阿弥とともに流浪期の義稙を支え、その側近として権勢を振るった、畠山式部少輔順光の後継者でした。

しかし、義栄の時代はわずか半年で幕を閉じることになります。

永禄11年(1568)9月、織田信長の供奉によって義昭の上洛戦が展開された結果、三好政権の崩壊とともに義栄は上洛も叶わないまま若くして病死し、失意の義維は再び阿波平島へ退去、その子孫は以後も「阿波公方」と称して逼塞することとなったのです。

─── ここからは願望を交えつつ通説に逆らって蛇足を続けていきますので、ご注意ください。 ───

義稙の永正5年の将軍復帰に至るまでの動向から窺えるのは、まさしく激しい「執念」ですが、それに比べると、世間から顧みられることもなく、ひっそりと死去した最期には、あまりに静かな印象を受けます。

はたして晩年の義稙は将軍復帰の意志を持ち続けていたのだろうかと、そんな疑問が浮かんできます。

あるいは、義稙は幼い義晴が高国の元で立派に将軍職を務めていることを知り、将軍家の分裂を終わらせるためにも、これ以上は世間を騒がせるべきではないと考えて、ひっそりと隠棲していたのではないかと……。

阿波公方家が由緒として伝える義稙と義維(阿波公方の史料では「義冬」と名を改めたとされていますが、ここでは引き続き「義維」とします)の下向のいきさつは、一次史料が伝えている時代背景との齟齬が目立つことから、創作が加えられていることは明らかで、義稙と義維の関係についても確かなことは分かりません。

今のところ信頼できる史料で義維の存在が確認できるのは、大永7年3月の堺上陸以降であり、それまでの経緯を伝えているのは、後世の軍記や伝承史料だけです。つまり、淡路あるいは阿波に退いた義稙が義維を養子に迎えたという現在の通説に、確かな根拠はありません。

義稙の死後に遺臣たちが義維を奉じたことは間違いないものの、義稙本人がそれを望んだのかどうかは定かではなく、義稙が将軍復帰への執念を義維に託したという解釈も、推測に過ぎないのです。

父の義視と義政の望まぬ対立によって生まれた不幸を身をもって体感してきた義稙は、将軍家の分裂を次代に持ち越すことを望まなかったのでは……そのような考えに至った今、義稙と義維の親子関係というのは、行き場を失った義稙の遺臣たちを取り込んだ讃州家が、将軍義晴に対抗し得る正当性を喧伝するために言い出した虚言ではないか、との疑念すら抱きつつあります。

たとえば『細川三好合戦記』には「先御所義稙公阿波國ニテ御他界アリ、然シトモ三好方ノ計ヒニテ、人ニカクシケレハ、世ニ披露ハナカリケル、」とあるそうです。(『大日本史料』大永3年4月9日2条より)つまり、義稙の死が世間に知られることは、三好方(讃州家)にとって都合が悪かったのではないでしょうか。

また、これまで述べたように、義稙が義晴を養子に迎えて後継者にするべく働きかけていたことを前提とするなら、たとえ義稙が義維を「猶子」に迎えたことが事実であったとしても、それは義晴に対抗するためではなく、義維を懐柔して後に禍根を残さないためだったと考えます。

(『実隆公記』享禄2年4月8日条には、義維方が義稙の七回忌に際して仏事料を納めたとあり、義維が名実ともに義稙の猶子として振る舞っていたことは確かなようです。)

このシリーズ記事を書き始めた頃はそのタイトル通り、「流れ公方」と呼ばれた義稙の執念が義維に引き継がれた結果、「阿波公方」の伝承を生んだと考えていましたが、ここに至って当初の思惑から大きく外れてしまいました。

しかし、天下静謐に責を負う将軍家の宿命に従いつつも、先例に囚われず、乱世における将軍の在り方を模索し続けた……そんな義稙の生涯を省みると、そこに込められた意志は「執念」と呼ぶに相応しいものではなかったか、とも感じるのです。

そして義稙の遺臣たち、特に義稙の忠実な代行者で最後の側近となった畠山式部少輔順光が義維を擁立したこともまた事実であり、その後継者である畠山安枕斎が義維の上洛や義栄の将軍就任のために奔走したことも踏まえると、やはり義稙の執念が「阿波公方」を生んだと言っても良いのかもしれません。


余談: 畠山式部少輔入道安枕斎守肱について、本文では軽く触れるに留めましたが、安枕斎は義稙と畠山式部少輔順光の関係と同様に義栄の側近取次を務めており、義栄政権における重要人物の一人でした。

フロイス『日本史』第77章には「当時公方様と共に津の国越水の城に在りし、公方様の大執事アンシン」とあり、松永久秀が進めた「大ウス逐払」(『言継卿記』永録8年7月5日条)によって京都の会堂から追放されていたバードレが帰還を望んだ際、キリスト教に好意的であった篠原長房が、安枕斎にバードレを紹介したという話が書かれています。

義栄が越水城に在城していたのは永録9年9月23日の入城から同年12月7日に普門寺に移るまでの間であり、まだ将軍はもとより次期将軍たる従五位下、左馬頭への叙任も果たしていませんでしたが、フロイスは義栄のことを「公方様」と記しています。

「永録の変」で将軍義輝が殺害されて以来、将軍不在の状況が続いていましたが、松永久秀父子と対立した三好三人衆が、義栄擁立を主導する篠原長房の力を借りて摂津から京都を制圧するに及び、実質的に義栄が将軍として扱われていたことが窺えます。

(「永禄の変」については将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情も合わせて読んでいただけると幸いです。)

なお、安枕斎の素性について確かなことは分かりませんが、畠山式部少輔順光とともに義稙に従って京都を出奔したとして『二条寺主家記抜粋』に挙げられている「畠山七郎」のことで、順光の子息ではないかと考えます。(畠山七郎は永正15年の順光邸への将軍御成にも同席しています。)

また、同様に名前を挙げられている、杉原四郎、下津屋修理については、おそらく「明応の政変」以来、義稙(義材)に扈従し続けた奉公衆四番衆の関係者ではないかと考えます。(参考:羽田聡『足利義材の西国廻りと吉見氏』

下津屋修理は大永7年5月2日の足利義維奉行人(斉藤基速・斉藤誠基)連署奉書に「下津屋修理進重信」として名前が出ており、畠山順光と同じく義稙没後も義維・晴元方に加わっていたようです。(参考:日本古文書ユニオンカタログ


義稙終焉の地・撫養にある撫養城跡を巡ってみた

義稙に執心して以来ずっと行きたかった義稙終焉の地・撫養に、ようやく訪れることができました。

以下の写真は、2017年5月の訪問時に撮影したものです。

撫養城跡とされている妙見山。地元では「妙見山公園」として親しまれてきた場所だそうです。

いつも、このお城っぽい展望台(?)が高速道路(神戸淡路鳴門自動車道)の上から見えてて、ずっと気になってたんですが……そこがあの撫養城跡だったとは。

車を止めて同行者に待ってもらってたので、急いで目の前の丘を登ったんですが……。

どこで道を誤ったのか、何だかあらぬところから侵入した感じになってしまい……。

ぐるっと回って正面へ。

元は鳥居記念博物館という施設だった(徳島市内に移転済み)名残なのか、「トリーデなると」っていう名前が付いています。

現在は展望台兼多目的ホールという位置付けの施設のようです。

鳥居記念博物館は昭和40年開館ということで、時代的にも鉄筋コンクリート製の城郭風建築あるいは模擬天守が流行していたのでしょう。

参考:旧館(徳島県立鳥居記念博物館)の概要

館内(城内?)では「Narustagram」という企画の展示が行われていました。

※この企画は2018年1月現在も実施されているようです。Narustagram(ナルスタグラム)【鳴門で写真動画コンテスト】|渦の国 鳴門|

妙見山のある撫養岡崎から小鳴門海峡を挟んで向かいが、土佐泊になります。撫養と土佐泊はいずれも紀伊水道播磨灘を繋ぐ要衝であり、四国の玄関口でもありました。

土佐泊は三好氏に仕えた阿波水軍の森一族が拠点としたことでも知られており、森志摩守村春は長宗我部元親の阿波侵攻の際、秀吉の援助を受けながらここで最後まで抵抗しました。

(なお、森村春の子孫は蜂須賀氏に仕えて椿泊に移住し、代々甚五兵衛を名乗って阿波水軍を統括しました。「信長の野望201X」にも「森甚五兵衛」の名で登場していますね。)

こちらは紀伊水道のある東側の眺め。たぶん、右半分の住宅地になってるところも昔は海だったんでしょうね。

鳴門海峡北西側の眺め。手前の破風のある建物が、史蹟・撫養城址に比定されている妙見神社です。

妙見神社天御中主神事代主命を祀る神社で、天保元年(1830)に、旧撫養城主・四宮加賀守の子孫である四宮三郎左衛門と、撫養林崎の豪商・近藤利兵衛氏が再建したものとのこと。

「再建」とはどういうことかというと、撫養で没したとされている義稙や義栄が妙見信仰(北辰信仰)で知られる大内氏に頼っていた過去から、守護神として受けた妙見尊星をここに勧進した、という伝承があるようです。

また、妙見山と峯続きの宝珠寺跡には「宝珠寺裏山古墳」という古代の古墳があり、これを地元では「将軍塚」と呼んでいたらしく、寛政7年に成立した撫養の地誌には以下のような記述があるとのことです。

古城山峯つゝきにして、寶珠寺てふ境内にあり、むかしより将軍塚といひ伝え、恐らくは是足利将軍義稙公の御廟所ならんか、 大永元年三月廿九日、将軍義稙公京都御退出の時、寵士村上山城守雅房・嫡子兵部義忠等、始終供奉したまふ、三年四月九日、行歳五十八歳にして、阿波国撫養において薨御し給ふと云々、

(『大日本史料』大永3年4月9日2条より)

なお、将軍塚については鳴門市の公式見解(?)が以下のブログに掲載されています。

(参考: 鳴門市への質問の返事の抜粋 ( 徳島県 ) - 瑞雲一揆 - Yahoo!ブログ

「西光寺の墓所は、もと撫養にあったものが後世移転されたものと言われていますが、撫養の墓所自体が現在は特定できなくなっています。」とあるのも興味深い話です。

ちなみに別説として、西条益美『鳴門海峡』によれば、鳴門市鳴門町高島にある八幡神社は大正5年に近在の神社5社から合祀されたもので、その中に足利義稙を祀る社があるらしく、これは元々「武山」と呼ばれる小山にあった義稙の墓所から移されたものとする説もあるようです。

(参考:武島神社について (訂正): うるめしま

『陰徳太平記』により流布された有名な狂歌「たぞやこの鳴門の沖に御所めくは 泊り定めぬ流れ公方か」から、大永元年11月に堺から退去した義稙の寄寓地を鳴門の「武島」(たけしま)=「高島」とする説は興味深いですね。

淡路へ退去したとされる義稙は最後に撫養で死去していることから、讃州家を頼って阿波へ向かう途中で死去したとの見方がなされることがありますが、元々鳴門の武島に寄寓していたのであれば撫養は目と鼻の先ですし、殊更に政治的な意図を汲む必要は無いのかもしれません。(『公卿補任』が大永元年12月の将軍罷免の件で「于時在四國」とするなど、一次史料でも淡路と阿波を混同しているのか、あまり区別して見てないのか……という感じもありますし。)

寛永15年(1638)に破却され、「社殿後方の城石は当時の面影を残している。」なるほど……?

玉垣大阪市の庄野さんの名があるのが気になりますね。庄野といえば阿波篠原氏に仕えた一族ですが、撫養城で四宮氏に仕えた人もいたのでしょうか。

いますね庄野さん。こういう、城主の子孫が城跡に建てた系の神社では、奉納者の名前を逐一チェックしてしまいます。(笑)狛犬備前焼かな?

こちらが社殿です。撫養で死去したという義稙が撫養城に滞在したのかどうかも定かではありませんが、帰路の無事とともに義稙の冥福を祈っておきました。

撫養の墓所はすでに特定できなくなっているようですし、ともかく、これで終焉の地をお参りできたということにしておきましょう。

「社殿後方の城石」というのはこの辺の石垣のことでしょうか?

最後期の撫養城の面影を残しているという、石垣群。

外側にも何かの跡が見受けられますが、よく分かりません。

むむむ……。

公園の方に出てきてしまいました。「天下泰平」「海上安全」妙見神社事代主命が祀られたのは、港があったからなのかな?

撫養警察署の「紀元二千六百年」記念碑などもあり。

裸婦像よりも義稙像を!といった運動は起きなかったのでしょうか。今のような室町ブームの真っ只中(?)であればと思うと、誠に無念です……。

経緯は分かりませんが、公園内にはステージ観覧席のような物も用意されています。

とりあえず上ってみました。(そして、ここでタイムアップです。)

現在の撫養はこんな立地でした。JR鳴門駅が徒歩圏内にあるようなので一応、鉄道でも来ることはできそうです。(関西からだと瀬戸大橋経由でかなり西に遠回りしますが……。)

なお、記事冒頭に掲載した阿波公方家の菩提寺である西光寺には、以前、阿波公方民俗資料館と併せて訪れていたのですが、その時のことはまた別の機会に取っておきます。

参考書籍、史料、論文、Webサイト等

浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版

在京大名細川京兆家の政治史的研究

在京大名細川京兆家の政治史的研究

このシリーズ記事を書くに当たって、最も多くの気付きと学びを得られたのがこちらの論文集です。

今回の記事内容に関しては、永正17年2月17日に細川澄元から畠山式部少輔に宛てた例の書状の紹介から、将軍義稙が澄元の二度目の上洛戦以前から赤松義村を通じて澄元と交渉していたことを知ったのが一番の収穫でした。

(実は、そこからの妄想が止まらなくなってこのシリーズ記事を始めようと思ったわけですが、結果的には当初の妄想は方向性を変えて更に飛躍することになりました……。)

また、猿楽興行や大名邸御成の主客一覧からは、畠山式部少輔や浦上村宗への将軍御成がいかに異例のものであったのかがよく分かりました。これらの儀礼が行われた時期から、背景の政治的な事件との関わりを想像することもでき、とても面白いです。

義澄、義晴、義輝の元服についても京兆家による幕府儀礼の一例として取り上げられていて、元服儀礼の流れや幕政における意義についても学ぶことができ、今回の記事内容にも反映されています。

東坊城和長が義晴の名字選定に際して「晴」の字が上に来るのは不吉だと懸念を示した話もこちらからで、細川晴国、細川晴元赤松晴政、大内晴持、陶晴賢などのことが一瞬頭を過りましたが、むしろ一生を通して吉な人の方が少数派なのでたぶん気のせい。

そして記事中でも触れましたが、将軍義稙が出奔に至ったのは細川高国との権力闘争に敗れた結果と捉えられ、その原因についてもいくつか根拠を挙げつつ考察されています。

個人的には高国が野心をもって義晴を将軍として擁立するに至ったとは考えていませんが、政元とは対照的な資質を持つ高国が様々な幕府儀礼を通じて人脈を広げ、幕政を主導する立場を獲得したことについては非常に納得するとともに、高国の見方が大きく変わりました。

今のところ、細川高国の真価に触れることができる唯一無二の一冊だと思いますので、特に以前の僕と同じように三好氏からの視点で「大内義興に便乗して権力を握った要領のいいやつ」と捉えている方には、是非ともご一読いただきたいです。

ちなみに、この本を通じて僕の高国のイメージは「調整型リーダーシップに長けた真のコミュニケーション強者」となり、コミュ障としてその資質に妬ましさを感じつつも、もしかして細川高国って理想の上司じゃね?という感想に至っています。

山田康弘『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』(戎光祥出版

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

足利義稙だけではなく、父の木阿弥と共に畠山式部少輔順光の活躍も多く紹介されており、このシリーズ記事を書き上げるに当たって大いに学ばせていただきました。木阿弥・順光父子の興味深い経歴はほぼこちらの内容からです。

戦国期の将軍とはどういった存在なのか、そして中央と地方の有力者の関わりも満遍なく紹介されていて、この時代の入門書にも適した内容なので、このブログで初めて「応仁の乱」からの前期戦国時代に興味を持っていただいた方にもおすすめの一冊です。

この本で「堺公方足利義維との関係には一切触れず、義稙が後継者を定めた形跡はないと書かれていることがずっと気になっていましたが、この件は記事でも述べた通り、近世の阿波公方側の伝承や軍記など良質とは言えない史料だけが伝えているためと判断しました。

そして、晴元を頼った義稙の遺臣たちが義維を後継者と称しただけなのかも知れない、との疑いを持つに至ったわけですが……どうでしょうか。

今谷明『戦国 三好一族』(洋泉社

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

細川氏と三好氏を中心に畿内の情勢を把握する上で、常々参考にしているものです。今回は特に澄元方上洛戦の経緯と三好之長の動向について参考にしました。

義稙後期の幕府を「京兆専制」の枠で捉えられている点など、義稙贔屓となった今では支持できない部分もありますが、この本で「堺公方」の存在を知ったことは今回の記事の原点と言えます。

この本にある「澄元が義維を播磨から阿波へ拉致」という記述がずっと気になっているのですが、今のところその根拠と思われる情報を見つけることができていません。もし心当たりのある方がいらっしゃったら、ご教示いただけると嬉しいです。

清水克行・榎原雅治(編)『室町幕府将軍列伝』(戎光祥出版

室町幕府将軍列伝

室町幕府将軍列伝

室町幕府の歴代将軍に関して、各担当の研究者がそれぞれ様々な視点で語られていますが、義視や義維といった将軍には就任せずとも政局に影響を与えた兄弟をについても「コラム」という形で書かれており、とても読み応えのある一冊です。

このシリーズ記事に関連する部分の担当者は、義稙・義維…木下昌規、義澄…浜口誠至、義晴…西島太郎、義栄…天野忠幸、となっていますが、各先生方のこれまでの研究分野と被る部分がありつつ、ちょうど将軍家の分裂期で時代が重なっていることもあり、同じ事件でも捉え方の違いが見られて面白いです。

今回の記事に関連するところでは、室町幕府における足利将軍家とはどういう存在なのか、そして義稙が二度将軍に就任した状況や前後の経緯について改めて確認し、義稙が将軍家の分裂問題にどう対処しようとしたのかを考えるヒントを得られたように感じます。

木下先生の義維のコラムは、現時点での研究成果の状況が分かりやすくまとめられていて、参考になりました。(なお、その中でも「堺幕府」の呼称については不適切と断じられていました。)

ただ期待していた、義維が讃州家に庇護された経緯と、義稙との猶子あるいは養子関係の究明については、残念ながら未解決のままとなりました。

渡邊大門『備前 浦上氏』(戎光祥出版

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

赤松氏の内情や浦上村宗に関する概略は、この本を参考にしています。

ただし、兵庫県史等でも言及されている赤松氏の動向と畿内政権との関連には触れられておらず、おそらく意図的に避けているような印象を受け、その点は浜口先生の論調とは対照的に感じます。

播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)

- 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
- 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本

赤松義村と洞松院に関することは、こちらも併せて参照しています。

一般に義村は浦上氏の「下克上」を許したとされ後世の評価は低いのですが、再評価して欲しいと思うきっかけを得た本でもあります。

義村と村宗の関係には、政則・則宗主従とはまた違った面白さを感じるので、もっと世間で流行って欲しいのですが……。

大石泰史編『全国国衆ガイド 戦国の "地元の殿様" たち』(講談社

全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)

全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2015/08/26
  • メディア: 新書

複数の執筆者で書かれている本ですが、特に畿内の国人については澄元(晴元)派 or 高国(氏綱)派、あるいは一族がそれぞれに分裂していたのか、といった点に触れていることが多いので、「両細川の乱」における京兆家内衆の動向を把握する上で参考になります。

ちなみに、畿内地域の担当は『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』の浜口誠至氏です。

この本では「丹波荻野氏」の紹介で、細川澄元から畠山式部少輔に宛てた件の書状を届けたと思われる「荻野左衛門大夫」は澄元の側近で、澄元派と高国派に分裂していた荻野氏の一族と説明されていました。

その通りだとすると、京兆家麾下の国人の中には摂津や和泉だけではなく丹波でも澄元に味方して阿波まで没落した者がいたわけで、興味深い話です。

若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』(戎光祥出版

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

「永禄の変」後の三好政権分裂騒動における篠原長房の活躍および、当時の畠山式部少輔入道安枕斎守肱の活動については、この本から学びました。

現在の篠原長房への評価は『昔阿波物語』などの軍記に引きずられているようで、それすらも一般にはまだまだ知られていない状況ですが、長房が阿波三好家を代表して義栄を擁立するに至った経緯など、今後の研究の進展によってその評価も変わってくるんじゃないでしょうか。

特に昨今「忠臣説」が話題になっている松永久秀との対比という点でも(義輝と久秀、義栄と長房、キリスト教への姿勢など)、ぜひ多くの方に注目していただきたいです。

(長房は背が高いとか、宣教師のマントを褒めたという話もあるので、『昔阿波物語』ベースのTVドラマでもやって、背の高い俳優さんが一般イメージの信長ばりに黒マント着用で長房の最期を演じてくれたら、間違いなく人気出るんじゃないかと思ってるのですが……。)

あと、「秋山家文書」所収の永正18年9月13日付連署奉書で篠原左京進之良と瓦林日向守が連署していることに気付き、これまで高国派とされてきた瓦林日向守が義稙から御内書を受け取っていることとの矛盾に不審を感じるに至ったのは、この本に連署奉書の内容が掲載されていたおかげです。(後述しますが、この件については馬部隆弘先生が解明されています。)

那賀川町史編さん室『平島公方史料集』

阿南市立阿波公方・民俗資料館にて購入したものです。

「平嶋記」などの阿波公方側の伝承史料のほか、義稙および義維(阿波公方側では義冬とされる)の動向を確認できる史料の抜粋が翻刻文で掲載されており、今回の記事でも参考としました。

阿波公方側の伝承史料は、他の史料の内容とは辻褄が合わないところや明確な誤りも多く、鵜呑みには出来ないのですが、積もり積もった蜂須賀家への不満を爆発させて京都へ移住したという阿波公方9代・足利義根が、祖先の事跡をまとめるに当たって誤りを訂正した形跡なども窺え、面白いです。

なお、義稙の死後、大内義隆三条西実隆に尋ねてその肖像画を制作した件をこの本で知って以来、大内義興が義稙と仲違いして帰国したとか、見捨てたというのは当たらないのではないかと考えるようになりました。

京都府教育委員会京都府中世城館跡調査報告書 第3冊(山城編1)』『第4冊(山城編2)』

史跡探索の助けになればと、たまたま地元近くの図書館で読んでみたものですが、1107年から1600年台に至るまでの軍記を含む文献史料に登場する城館や邸宅、寺の名前と史料名と年月日、翻刻文の簡潔な引用が掲載されており、思いがけず本記事の役に立ちました。

特に永正17年5月の「等持院合戦」前後の動向に関して、『後法成寺関白記』『実隆公記』『拾芥記』『元長卿記』といった当時の日記の記述内容と、『応仁後記』『続応仁後記』『足利季世記』といった軍記の記述内容を比較して読むことができました。

調査の手は絵画資料の書き込み内容にまで及んでおり、参考資料を広げる索引としても役立ちそうです。

兵庫県史編集専門委員会『兵庫県史 通史編 第三巻』

昭和53年と若干古い本ですが、いわゆる両細川の乱についてまとまった内容があります。本記事に関連する部分の執筆は石田善人先生、Wikipediaによると神戸出身の歴史学者で中世惣村の研究で有名な方のようです。

永正16年秋からの澄元方上洛戦の経緯についても、兵庫県にゆかりの深い赤松氏や瓦林氏が関わった関係から、一般向けの新書などよりもかなり詳細に記されています。

赤松義村は洞松院と高国の和議に反して終始、澄元派であったとして、赤松家中の対立が中央の政権争奪に関わっていたという視点もあり、案外古くからそのような見方をされていたという事実も興味深いです。

亀王丸の上洛に付き従った側近たちが相国寺切腹した事件への「原因は赤松義村浦上村宗の対立抗争」という指摘に妄想を掻き立てられたことも、今回の記事内容に大きく影響しました。

西宮市史編集委員会『西宮市史 第一巻』『第四巻 資料編1』

こちらも昭和34年と更に古い本ですが、地元だけあって特に河原林(瓦林)氏に関する貴重な資料や考察がまとまっています。おそらく本記事に関連する部分の執筆は永島福太郎先生です。(現在、呉座勇一先生の新書『応仁の乱』が大人気ですが、そのずっと前に同タイトルの新書を出された方です。僕はまだ入手できていませんが……。)

資料編には当時の史料から河原林(瓦林)氏が登場する部分の引用が多数掲載されており、特に直接読むのは難しい一次史料に関しては今回の記事でも参考にしました。

国書刊行会編『続々群書類従 第三 史伝部2』(続群書類従完成会

『祐維記抄』を含む『続南行雑録』が収録されています。

この記事の中に『祐維記抄』と多く記載しているように、永正16年から17年にかけての澄元方の上洛戦に関する情報や、将軍義稙の出奔後の動向、また両畠山家の動向については一貫して詳しく記されており、参考になります。

オンデマンド版を発行している八木書店によると、『続南行雑録』は「水戸の儒臣佐々宗淳が元禄年間に奈良で採訪した春日若宮社司家代々の記録と寺社の由緒故事」というもので、おそらく興福寺の情報網によってもたらされた伝聞を多く含んでいるのでしょう。

赤沢朝経(澤蔵軒宗益)・長経父子の後継者と思われる「赤澤新兵衛」がたびたび登場しており、彼らにとって「赤澤」の名は災厄の象徴として記憶に刻まれていたことなども窺えて、興味深いです。

塙保己一編『続群書類従 第二十三輯下 武家部』(続群書類従完成会

幕府の年中行事や将軍御成の記録、武家故実を主としている武家部ですが、この中に義稙期のものを含む『御内書案』が収録されています。

この記事中に「御内書」と書いている部分は、ここから読み取ったものです。(こんな良い史料が近くの図書館で読めたのに、割と最近まで気付いていませんでした……。)

嬉しいことに「国立国会図書館デジタルコレクション」でも読めます。永正16年はこのページ辺りから。続群書類従. 第23輯ノ下 武家部

塙保己一編『群書類従 第二十一輯 合戦部』(続群書類従完成会

赤松家に仕えていた得平定阿の筆による『赤松記』が収録されています。

ジャンル的には軍記に分類されていますが、創作というよりも覚書的な要素が強い内容のため、参考史料として扱われることが多いようです。

赤松義村が永正16年末に亀王丸を伴って脱出して以後の動向については、この記事ではほぼこちらの内容に従っています。(得平定阿が仕えていたのは義村の後継者・赤松晴政とその子義祐なので、当事者による情報ではありませんが)

なお『赤松記』は「国立国会図書館デジタルコレクション」でも一応読めますが、活字ではないので僕には厳しかったです……。群書類従. 第453-498冊(巻369-399 合戦部)

高橋遼「戦国期大和国における松永久秀の正当性─ 興福寺との関係を中心に─」

畠山式部少輔順光が獲得しようとした「官府衆徒」とは何ぞや?という疑問から、こちらの論文に学びました。

三好政権における松永久秀と併せて、細川晴元期の木沢長政についても解説されていますので、そちらに興味のある方にも参考になるかと思います。

西原正洋「永正の錯乱以降における細川氏の本庶関係―典厩家を軸として―」

細川京兆家が澄元派と高国派に分裂したことで、細川一門の「同族連合体制」が変質していった過程を、典厩家を中心として庶流家の視点から説いた論文です。

特に一貫して澄元派であった政賢の嫡子・澄賢が、阿波へ逼塞してからも旧来の家格を認められて、幼い晴元を補佐する地位にあったことを学びました。

三好長慶細川氏綱派に離反して以降は氏綱の弟にあたる藤賢が復権を果たし、織田信長の供奉による足利義昭上洛後は京兆家からも独立して、御供衆の筆頭というべき地位を利用して存続を図っていたという点も、興味深いです。

馬部隆弘『細川晴元の取次と内衆の対立構造』ヒストリア 258号 (2016.10)

細川京兆家、とりわけ高国、晴国、氏綱、国慶といった高国党の希少な研究成果を発表されている点で個人的に注目している、馬部隆弘先生の論文です。

論文の本題は晴元の取次と内衆の世代間対立についての考察ですが、思いがけず瓦林日向守の経歴について知ることができました。

これまで「細川高国在京奉行人連署奉書」として紹介されてきた史料、永正18年9月13日の瓦林日向守、湯浅弾正忠、篠原左京進による連署状が、阿波に在国していた細川六郎(晴元)周辺から出されたものという説明は納得できるものです。

三者の経歴および、こちらの某年6月23日付の瓦林日向守、湯浅弾正忠、古津修理進から秋山幸久に宛てた連署状の内容から明らかにされています。秋山家文書 文化遺産オンライン

これによって、これまで『細川両家記』等の記述から高国派と見られていた瓦林日向守が、将軍義稙から帰洛支援を求める御内書を受け取っていることの矛盾や、明らかに讃州家の被官と思われる篠原左京進之良がなぜ「高国在京奉行人」とされているのかという疑問が一度に氷解するとともに、義稙の最後の出奔は旧澄元派と示し合わせた計画的なものであったと判断するに至りました。

その点、今回の記事を書くに当たって、この論文から得られたものはとても大きかったです。普段はなかなか大学図書館などを利用できる機会がなく、論文についてはWebで公開されている数少ないものだけが頼りなのですが、偶然が重なってこれを読むことができたのは本当に幸運でした。

落ち穂ひろい

赤松・浦上・宇喜多関連で、手元の資料にない情報で気になることがあれば、真っ先に確認させていただいているサイトです。

特に永正16年から18年の赤松義村浦上村宗の対立について、以下のページを参考にさせていただきました。

また、「御一家衆」と呼ばれる庶流家や「年寄衆」と呼ばれる宿老など赤松家の事情については、こちらの 赤松氏の家臣団構成 からも学ばせていただきました。

やまんなか: 亀王丸と義村

赤松義村のことをWebで調べていて、一番印象に残っている記事です。(初見は旧サイトで3つの記事に分かれていましたが、移転の際に統合されたようです。)

義村というと浦上村宗との対立関係ばかりが採り上げられますが、幼少の亀王丸(義晴)にとっては置塩館で共に過ごした義村との思い出もあるはずで、義村殺害の首謀者たる村宗への将軍御成が高国邸で催された時、義晴は何を思ったのでしょうか。そして「大物崩れ」で村宗や高国が死んだ時は……この記事の視点からは、そのような事に思いを馳せざるを得ませんでした。

二周年です(…のおまけ): Muromachi通り

中編でも参考記事として挙げさせていただきましたが、今回は義稙出奔を巡る畠山尚順の動向やその解釈について多くを学びました。

以前は知識不足のため理解できないところが多かったこちらの記事も、実際に『続南行雑録』の『祐維記抄』を読み進めた後、改めて記事を読み直すと、その解釈には納得できる部分が多かったです。

特に、大永元年10月から11月にかけての帰洛計画を最後に、義稙と尚順はともに淡路で静かに隠棲したという見方については、こちらの記事というか管理人さんから全面的に影響を受けたものと言って良いです。

室町幕府奉行人一覧

中世公家日記研究会を紹介されているサイト『中世史の部屋』内のコンテンツですが、文明元年から天文23年までの幕府関係の引付史料に登場する奉行人を年次でリスト化されています。

前年に奉行人として見えない者、翌年から奉行人として見えなくなる者、前年・翌年ともに奉行人として見えない者を色分けして記載されているため、特に永正5年(1508)の義稙帰洛に伴う政権交代が目に見えて分かるようで興味深いです。

幕府分裂期の明応3年から永正8年、大永元年、大永6年から天文元年には非主流派の奉行人として「足利義稙・義澄右筆方奉行人」や「足利義維右筆方奉行人」が別枠で掲載されており、参考になります。

東京大学史料編纂所データベース

特に『大日本史料』の綱文・書名・本文・索引語から人名や出来事を検索できる「大日本史料総合データベース」が非常に有用です。

素人が直接確認することが難しい史料からの翻刻・引用文も多数収録されています。綱文については今では解釈が誤っている部分も見受けられますし、新出の史料をフォローできていない部分もあるでしょうけど、調査の取っ掛かりとしては十分でしょう。

今回の記事では執筆終盤にこのサービスを知ったため、内容への反映は主に「将軍・足利義稙が旧澄元派を頼って細川高国を討つために京都を脱出したこと」以降で、それ以前は数ヶ所を手直しするに留まっています。(見直し出すとキリが無さそうで……すみません。)

いやはや、こんな便利なサービスの存在を今まで知らなかったとは……たぶん基本レベルですよね、これ。

なお、『塵塚物語』の義稙に関する記事「恵林院殿御事」も、このデータベース経由で知りました。義稙に興味を持った方はぜひご一読ください。

(『大日本史料』では有名人の逝去日付の記事において、関連する花押や系図あるいは様々な伝承が掲載されていて、参考になります。義稙の養子・猶子関連の記述も充実しており興味深いです。)

その他

今回の記事執筆は約1年半と非常に長期間に渡ったのですが、調査と執筆を繰り返す中で閃いたり疑問に感じたことを、Twitterで呟いたりしました。その中で賛意や補足情報などいくつかの反応をいただくことがあり、より考察を深めたり整理することができました。

具体的にどの方のどのツイートと挙げることは難しいですが、Twitterで反応をくださった皆様には感謝いたします。

同シリーズ記事

「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景

以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(前編)~義尹上洛から船岡山合戦まで「明応の政変」も振り返りつつ』 に続き、永正8年の船岡山合戦における勝利の立役者となったものの将軍との軋轢が生じていった大内義興、分裂弱体化した細川一門をまとめて京兆家当主・管領として幕府への影響力を強めていく細川高国、そして出奔という大胆な行動に出た将軍足利義尹の三者を中心に、前将軍義澄の遺児亀王丸を庇護したことで今後重要な役割を担っていく赤松家の内情にも触れつつ、帰京した将軍が「義稙」と改名するまでの背景で起きていた変化を読み取ります。

※なお、「流れ公方」こと足利義尹は一般には最後の名乗りである「義稙」、あるいは明応の政変により将軍職を失った時の「義材」として知られますが、改名の経緯も重要だと考えますので、ここでは主に当時の名乗り「義尹」で表記しています。

同シリーズ記事

将軍義尹が赤松氏を赦免して義澄の遺児亀王丸と和睦したことの意味、その陰で軋轢を深めていた大内義興

永正8年(1511)8月の船岡山合戦に至る前将軍義澄・澄元方の反攻において、赤松氏は高国方の瓦林政頼が守る摂津鷹尾城を攻略するなど、澄元方の一員として戦いました。
その後、前将軍義澄は決戦前に急死、細川政賢を大将とする澄元方の上洛軍も船岡山合戦で壊滅的な惨敗を喫したため、赤松氏は窮地に立たされたわけですが、永正9年(1512)閏4月、将軍義尹は赤松氏を赦免するとの御内書を細川高国大内義興に発給しました。

その陰では、細川政元の姉で赤松政則の未亡人・洞松院の働きかけがあったようで、同年6月に洞松院は尼崎において細川高国と直接会談に及んでいます。
高国は代々京兆家を補佐する立場であった野州家の出身であり、以前から洞松院と面識があったのかもしれません。
8月末には当主赤松次郎の名代として別所則治と浦上村宗が上洛し、礼物を献じて謝意を表した結果、赤松次郎は兵部少輔の官位と共に将軍義尹から「義」の一字を授かり、赤松義村と名を改めることになりました。

別所則治は今はなき浦上則宗と共に赤松政則を支えて主家再興に尽力し東播八郡の守護代に任じられた重臣でしたが、政則の死後に起きた播磨国の内乱「東西取合合戦」では、次郎を後継者に据えた浦上則宗とは対立し、洞松院を支持していました。
一方の浦上村宗則宗の甥孫に当たり、備前守護代であった父の宗助の死後にその地位を継ぐと共に、則宗が京兆家内衆の安富氏から養子に迎えていた祐宗の死去に伴い、当主の地位を継いだと見られています。

この浦上村宗は後に赤松家の実権を掌握し、義澄の遺児亀王丸(義晴)を新将軍に擁立する高国政権において最大の威勢を持つに至った人物ですが、『二水記』にはその大永3年(1523)時点で「二十四、五才の男」と記されており、逆算すると永正9年(1512)の上洛時点ではまだ十代前半の少年であったことになります。
義尹の上洛を受けた将軍義澄が永正5年(1508)に赤松重臣達に宛てた御内書には「浦上幸松」と幼名で記されており、実際に史料上に「村宗」の名が確認できるのは永正13年頃からだそうで、おそらく赤松次郎が義村と名を改めた後、元服に際してその偏諱を賜ったのでしょう。


余談ですが、上洛した村宗は大内義興と共に在京していた周防守護代陶興房の面識を得て、将軍義尹の馬の管理を行っていた三上氏の邸宅を訪問したことが記録されているそうです。
村宗と興房は親子以上の年齢差があったと思われますが、後に尼子経久・詮久父子と激戦を繰り広げることになる名将興房と、どんな会話を交わしたんでしょうか。


すでに成人していたはずの当主ではなく、かつて洞松院を支持した宿老の別所則治と、別所氏と対立した浦上則宗の後継者でまだ少年の浦上村宗が上洛したという事実には、赤松家のいびつな権力構造が現れているようにも感じます。

赤松氏の赦免に伴って、赤松氏が本拠地の置塩館に御所を構えて庇護していた亀王丸との関係修復も進んだようで、永正10年(1513)2月14日には亀王丸との「御合体之儀」について幕府と赤松氏の間で交渉された結果、将軍義尹と亀王丸の和睦が成立しました。
この時、義村の名代として上洛した赤松庶流家の在田式部少輔は、将軍に謁見して馬や太刀を献上しましたが、その場には管領細川高国と共に大内義興が侍していたにもかかわらず、義村からの礼状の宛所は「右京兆人々御中」つまり高国のみであり、赤松氏は大内義興の幕府内での立場を認めていなかったようです。

大内義興はかつて「明応の政変」において赤松政則に翻弄された苦い経験がありましたが、その政則は晩年に異例と言われた従三位への上階を果たしました。義興も自身の上階に際して、赤松氏の先例を意識したに違いありません。
しかし、赤松氏の方は義興の立場を認めていなかったわけで、義興は内心穏やかではなかったでしょう。
義興は亀王丸との和睦交渉直前に当たる2月6日、将軍義尹の怒りを買って下国を命じられており、後日そのことへの不満を細川高国に漏らしています。
あるいは、義興は赤松氏の赦免に当たり、その厚遇に異議を唱えて不興を買っていたのかもしれません。

そして、義興が従三位上階に至った経緯においても、将軍義尹との微妙な関係を窺わせるやり取りがありました。
義興が三条西実隆を通じて上階を所望した際、義尹はその意向を伺った武家伝奏橋守光に対して「天皇の意向に任せる」と消極的な返答をしつつ、それを義興には内密にするよう述べていたのです。
本来は将軍による推挙の上で行われるべき叙位を朝廷に直接働きかけた義興の方にも問題はあったのですが、結局は後柏原天皇の勅諚によって上階が実現したわけです。

かつて大内義興を朝敵に指定した天皇の態度が一変したのは、大内氏が引き続き在京して政情安定に寄与することを期待したものでしょう。
それに比べると将軍義尹には、上洛直後にも真っ先に畠山尚順への御成を行って義興と高国の反発を招いたことからも分かるように、多大な功績があるはずの義興を軽んじているように感じます。

赤松氏の赦免と義澄の子亀王丸との和睦については、かつて「明応の政変」で管領細川政元が義遐(後の義澄)を擁立した際、当初は将軍義材に味方した赤松政則大内義興が仲介役となり、義遐を義材の猶子に迎えることで事態を収拾しようとしたことが思い起こされます。
あの時は元々赤松家の再興を通じて京兆家との関係を深めていた赤松政則細川政元の意向を受け入れざるを得ず、結果的に将軍義材と大内義興を裏切る形となったわけですが、今度の和睦には誰の思惑が絡んでいたのでしょうか。

直接交渉に当たった経緯から、これを推進したのが管領細川高国だったとすると、播磨と海を隔てた阿波にて反撃の機を窺う細川澄元と、その支持基盤である讃州家に対抗させるために、洞松院を通じて赤松家中への影響力を強めようとしたことが考えられそうです。

一方で、この動きは何よりも将軍義尹の意志が反映されたものと捉えることも可能だと思います。
義尹の立場からすると、前将軍義澄の遺児である亀王丸を味方につけることは、自身の政権を安定させる上で重要だったはずです。

また、赤松氏に将軍家の通字である「義」の一字が与えられたのは、かつて将軍義満の元で幕政に参画し「明徳の乱」でも活躍した赤松義則以来のことで、義尹は幕府を支える大名として赤松氏の復権を望んだことが窺えます。
通説では将軍義尹は専制志向が強かったと捉えられていますが、そうではなく、一部の有力大名に権力が集中することがないよう、大名間の勢力均衡を作ろうとしたものと考えると、上洛直後に畠山尚順への御成を優先したことや、政権の安定を決定付けた船岡山合戦では敵方に付いた赤松義村に対し、過剰とも思える配慮を示した理由が理解できるのではないでしょうか。

そして、阿波平島公方家に伝えられた『平島記』(平島殿先祖并細川家三好家覚書)や「寛永諸家系図伝」提出の系譜(恵林院殿より相続候次第)には、義尹は在京時から義晴(亀王丸)を後継者に考えていたと記されているのです。
『平島記』は不確かな内容や明らかな誤りも見える史料ですが、平島公方家の祖である義維(義冬)の正統性を損ねかねない記述を伝えているところは、信憑性を感じさせられます。


なお、鷲尾隆康の日記『二水記』に義維の母は「武衛腹」とあり斯波氏出身の女性と見られていますが、『平島記』では細川成之の娘で義尹の正室である清雲院が義冬の母とされ、義冬は京都で生まれたが「狂乱」のため母子ともども将軍に疎まれて阿波へ下国したと説明されています。
平島公方家では9代義根の時に阿波を退去して京都へと移住したため、先祖の出自を京都に求めつつ阿波へ下ったもっともらしい理由として後世に創作された話の可能性も考えられますし、詳しい事情は分かりません。


かつて、義尹の父義視は将軍義政の後継者の地位にありながら、応仁・文明の乱の成り行きで西軍方の将軍として擁立され、東西和睦後も義政との仲は修復されることなく、幼少の義尹と共に十年以上もの間、美濃土岐氏の元で過ごしたという経緯がありました。
義尹は足利家一族の分裂という悲劇を繰り返さないために、あえて自身の子を持たず、赤松家を取り込んだ上で亀王丸(義晴)を後継者に据えるつもりだったのかもしれません。

都を仰天させた将軍義尹の甲賀出奔と、帰洛の様子に見る幕閣の構成

永正10年(1513)3月17日のこと、将軍義尹は突如わずかな供の者を連れて近江甲賀へと出奔してしまい、京都は騒然となりました。
関白近衛尚通は『後法成寺関白記』に「言語道斷次第也、京都仰天、無是非者也」と感想を述べています。尚通は家僕の北小路俊永を将軍の側近である畠山式部少輔の元へと遣わしましたが、当の義尹が飛脚の派遣や奉公衆の参上を禁ずる御内書を残していたため、対応に苦慮したようです。

3月19日には管領細川高国能登守護畠山義元と当時上洛していた畠山尚順が協議の末、将軍の帰洛を求めて使者を派遣した結果、4月3日に将軍から詳細は不明ですが「従江州大樹御返事旨七ヶ條云々」と、七ヶ条の要求が返されたようです。
これに対して細川高国大内義興、畠山義元、畠山尚順の四大名は「諸事不可背御成敗之由申入云々」と、何事も将軍の裁定に従うことを起請文に認めて提出することになったのです。

そして5月1日には「今日為御迎、細川右京大夫、畠山尾張入道、同修理大夫、大内左京大夫等、大津、坂本邊祇候云々、大樹亦今日甲賀御立云々」と、甲賀で病気になったと称して園城寺へと移っていた義尹を迎えるため、四大名たちが大津、坂本に赴きました。

ここに至ってようやく怒りを治めた将軍は、諸大名および奉公衆たち総勢三万人に及ぶ大行列で帰洛し、大勢の見物人に迎えられました。

大樹御歸洛也、供奉衆細川右馬頭、畠山次郎、同式部少輔、大館刑部大輔、一色兵部大輔、伊勢守以下十ニ三騎、奉公衆、御輿前二行、七八十人云々、板輿也、甲賀奉公衆種村刑部少輔父子以下御先ニ馬上也、畠山修理大夫ヌリ輿、騎馬四五騎也、次大樹、御後、細川安房入道塗輿、騎馬四五騎也、其後和泉守護彌九郎、次畠山尾州馬上、後騎十二騎也、次大内左京兆ヌリ輿、後騎十一ニ騎也、次細川右京兆ヌリ輿、後騎十二三騎也、人數三萬餘人計歟、見物衆如竹葦云々

『後法成寺関白記』永正十年五月三日条(那賀川町史編さん室『平島公方史料集』)

帰洛した諸大名の様子からは、当時の幕府における有力者とその序列を窺い知ることができます。

「ヌリ輿」(塗輿)は白傘袋、毛氈鞍覆と並んで守護の家格にのみ認められたもので、「大樹」(将軍)の前の畠山修理大夫、後ろの細川安房入道、そして最後の大内左京兆、細川右京兆が使用しています。

両京兆の二人は説明するまでもないでしょう、その他の代表的な人物を簡単に紹介していきます。

先頭の細川右馬頭(尹賢)は、細川政賢が船岡山合戦で討死した後、典厩家を継いだ高国の従弟です。
尹賢は後に高国派の後継者となる細川氏綱の父でもあり、「大物崩れ」に至る流れの発端となった事件の当事者にもなる重要人物です。

畠山次郎は畠山尾州家の尚順の嫡子で、後の稙長でしょうか。
能登守護・畠山義元の養子、後の義総も当時は次郎と名乗っており、両方の解釈があるようです。

畠山式部少輔(順光)は義尹の山口下向にも扈従し、幕府申次を務めた人物で、後には異例の将軍御成も受けています。
赤松氏を通じて澄元方との交渉を担当したという側近中の側近で、彼の生涯は本シリーズ記事のテーマとも合致するため、改めて取り上げる予定です。

大館刑部大輔(政信)、一色兵部大輔(尹泰)についてはよく分かりませんが、両者は船岡山合戦後の細川高国邸への御成にも随伴しており、特に一色尹泰は義尹の山口下向にも扈従してその偏諱を授かっていることから、その寵臣の一人だったようです。

「伊勢守」は政所頭人世襲する伊勢惣領家の当主のことですが、当時は伊勢貞陸でしょうか。

種村刑部少輔(視久)も義尹の山口下向に扈従した側近の一人で、幕府申次を務めました。子の種村三郎は今度の突然の甲賀出奔にも同行していることから、特に義尹の寵愛を受けていたことが窺えます。
「視久」という名から、おそらく義尹の父義視以来の近臣と思われます。

畠山修理大夫(義元)も明応の政変以来の義材派で、能登国の守護ですがこの頃は在京して幕閣に加わっており、船岡山合戦にも参戦したため、細川高国に続いて将軍義尹の御成を受けました。
高国・義興と共に起請文を提出した四大名の一人です。

細川安房入道(政春)は高国、晴国兄弟の実父で野州家当主の細川政春です。
野州家は代々守護職を持たず京兆家を補佐したという家柄ですが、塗輿の使用を認められている点は注目すべきでしょうか。

「和泉守護彌九郎」は和泉下守護家を継いだ細川尹賢の弟・高基のようです。とすると高国の従弟ですね。
和泉国は上下半国守護制が採られていました)

馬上の「畠山尾州」が義尹の将軍復帰後に最初の御成を受けた、畠山尚順です。五月一日に「畠山尾張入道」と記されている通り、当時すでに出家していたようです。
(そう考えると「畠山次郎」は家督を継いでいた稙長のことでしょうか?)
高国・義興と共に起請文を提出した四大名の一人です。

以上の顔ぶれからは、当時の幕府において、旧義材派の守護大名大内義興、畠山義元、畠山尚順父子)、将軍の古くからの近臣(畠山順光、大館政信、一色尹泰、種村視久)、そして管領細川高国とその親族(細川尹賢、細川政春、細川高基)が重要な地位にあったことが窺えます。


ちなみに「伊勢守」伊勢貞陸は父の貞宗と共に「明応の政変」にも深く関わっていたはずですが、義尹の上洛後も引き続き政所頭人を務めています。この一族は派閥など関係なく幕府運営には欠かせない別格の存在だったのでしょうか。


公卿たちが見た将軍義尹出奔の理由と、丹波内藤氏の復権に象徴される京兆家内衆の変化

関白近衛尚通は、先の将軍出奔の原因を「對此間兩京兆御述懐云々」つまり細川高国大内義興への不満と記している他、醍醐寺理性院の厳助が「対細川御述懐之故、御発心云々」と高国への不満、甘露寺元長が「対諸大名可被仰子細有之云々」と諸大名への不満を記しており、公卿達は将軍に諸大名、とりわけ細川高国に対して何か鬱積したものがあったと考えたようです。

しかし、高国はまだ当主として京兆家の体制を充分に固められていなかったはずで、政権樹立の功労者である大内義興をはじめ、前将軍義澄在任の頃から義尹を支えてきた大名達も在京している中、彼らを差し置いて権勢を振るうことができた訳はないでしょう。
かつて細川政元が赤沢宗益や上原賢家・元秀父子など新参の家臣を側近に起用して譜代内衆の反発を招いたことや、晩年に澄之に代えて澄元を後継者としたために讃州家と京兆家の対立が激化し、その中で命を落とすに至ったことも、高国に自制を促したに違いありません。

また、永正9年時点で従二位の将軍義尹、従三位大内義興に比べて、高国は参内しているものの大永元年11月の従四位下叙位まで「歴名士代」に記載がないそうで、位階においても両者への遠慮が窺えます。
この時点ではとても、後世に伝えられているような「将軍に対する専横」の気配は感じられません。

一方で、義尹の将軍復帰以後に行われた幕府儀礼の中で、大名邸における猿楽興行の回数が義澄期と比べて明らかに多くなっていることから、高国が京兆家当主という最も高い家格を有することを利用して、積極的に猿楽興行を開催することで在京大名間の序列形成を図ったとの指摘もあります。
(浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』)

猿楽興行は永正5年から永正9年までの間に、将軍御所で10回、細川高国邸で2回、大内義興邸で1回行われており、将軍の他には細川高国大内義興、畠山稙長、畠山義元という、義尹出奔の際に起請文を提出した四人の在京大名が主催あるいは共催しています。
その中でも気になるのが、永正9年2月15日に細川高国邸において行われた猿楽興行で、これを主催したのは高国ではなく京兆家の分国丹波守護代、内藤備前守貞正でした。

内藤氏は関東御家人の流れで古くから丹波に土着していた武士ですが、南北朝の動乱期を通じて丹波を代表する国人へと成長し、細川勝元に従って応仁の乱で戦功を立てた内藤元貞は丹波守護代、また京兆家内衆として強い発言力を持ちました。
細川京兆家の通字である「元」を与えられていることからも、勝元から相応の信頼を受けていたことが窺えます)

この内藤元貞が深く関わり、京兆家当主と内衆の関係を知る上でも重要な「細川政元拉致事件」について紹介します。
文明11年(1479)12月、勝元の跡を継いだ政元はまだ15歳、修験道の回国修行と称して丹波へ赴いた際、被官の一宮宮内大輔が守護代内藤元貞への反発から、政元を拉致して謀反を起こす事件が起きました。
この非常事態にはなかなか解決の道筋が立たなかったようですが、翌年2月までには「細川事一宮責之、一門各同心。九郎定而可生涯条不能左右、野州息六郎可還俗分一決旨」(『大乗院寺社雑事記』文明12年2月4日条)と、ついに政元を見捨てて、勝元のかつての猶子で当時出家していた細川勝之を還俗させることとして、一宮氏への攻撃が開始されました。
その後また1ヶ月膠着状態が続いたようですが、内藤元貞が京都で集めた牢人達を乱入させて徳政一揆を起こさせた一方で、一宮備後守が宮内少輔を裏切って内藤に通じたため、その混乱に乗じて安富新左衛門尉元家、荘伊豆守元資らが討ち入り、政元は約100日を経てようやく救出されました。
(参考:細川政元掠奪事件

そもそもこの事件の発端は、一宮氏に与えられた闕所への年貢免除を認めず一宮方を三十人ばかり討ったという、内藤元貞による一宮氏への横暴であり、政元はそのとばっちりを受けたようなものでした。
しかし、まだ若い政元には信頼できる家臣も少なく、先代の細川勝元から信任されていた元貞を容易には処分できなかったのでしょう。
そして事件の終結から2年を経た文明14年、政元は突如元貞を更迭し、丹波出身の側近・上原元秀を守護代に任じたのです。


なお、事件の際に細川勝之の擁立を主張したのも内藤元貞だったようですが、勝之は野州家の出身で高国の伯父に当たり、勝之の妻は丹波世木城主の湯浅氏出身、勝之の実子も湯浅氏を継いでいたことからも窺えるように、内藤氏麾下の丹波衆が当初から野州家との繋がりが強かったことが影響したように感じます。
事件当時の野州家当主は高国の祖父教春でしたが、その教春も応仁の乱の際には丹波衆を率いて参戦したと伝わっています。
船岡山合戦の前に劣勢となった義尹方が京都から一旦退いた際、避難先に選んだのが丹波の宇津という事実からも、丹波野州家にとって安定した支持基盤であったことが窺えます。


このような経緯でしばらく政権中枢から遠ざかっていた内藤氏ですが、それがかえって幸いしたというべきか、澄之派と澄元派の争いにはどちらにも深入りすることなく、澄之派による政元の暗殺と澄元派の京都没落という状況の急変に際して、いち早く高国を支持しました。
内藤貞正は、船岡山合戦においても柳本又次郎入道宗雄と共に丹波衆を率いて戦っており、京兆家内衆の中でも第一の功績と認められたのでしょう。
主君の邸宅を借りる形で、おそらく少数の客を招いての開催とはいえ、守護代格による猿楽興行の主催は他に例が見られず、貞正は大いに面目を施したと思われます。

かつて「細川四天王」と称された安富氏、香西氏、奈良氏、香川氏など讃岐に本拠地を持つ内衆の多くが勢力を減退させた一方で、高国の元で京兆家の宿老として復権を果たした内藤貞正は京都に邸宅を構え、主君の高国ともども、当代随一の文化人として名高い公卿・三条西実隆と交流することになるのです。


細川高国が義晴を将軍に擁立し、新御所「柳之御所」が完成した大永6年頃の京都を描いたと見られる『歴博甲本 洛中洛外図屏風』において、典厩邸の向かいに描かれている邸宅が内藤邸で、その場所は現在も「内藤町」と呼ばれているそうです。
また、「柳之御所」の造営には香川氏らかつての有力内衆たち(京兆之北、香川、安富、秋庭、上野以下)の邸宅跡が利用されたそうで、これも高国への代替わりで起きた内衆の変化を象徴しているように感じます。
(小島道裕『洛中洛外図屏風: つくられた〈京都〉を読み解く』)


都の公卿たちが将軍義尹出奔の原因を高国への不満と考えたのは、高国の親族(細川尹賢、細川政春、細川高基)がいずれも重要な地位にあっただけでなく、内藤貞正に代表されるような地方の国人上がりの武士までもが京都の政局への影響力を増していたことを、他ならぬ公卿たち自身が不満に感じていたためではないでしょうか。

将軍義尹の狙いは幕府の主導権を確保するところにあった?

前述の通り、将軍義尹の出奔は細川高国大内義興への不満に因るものと噂されたわけですが、赤松氏の赦免と亀王丸との和睦の件でも述べたように、義尹が政権安定の手段として一部の有力大名に権力が集中しないよう配慮していたと考えると、別の理由も浮かびます。
実は義尹は本心から遁世しようとしたわけではなく、自身の存在の重みを在京大名達に思い知らせつつ、幕府の主導権を自身の手に確保するため、あえて職務放棄という非常手段に訴えたのではないでしょうか。

そう考えると、この出奔の結果として諸大名から「諸事不可背御成敗」=何事も自身の裁定に従うことを誓わせると共に、大勢の見物人が集まる中で将軍としての威厳を示すに至ったわけで、将軍の目論見は達成されたと見ることもできそうです。

そして、将軍義尹は甲賀への出奔から帰京して半年を経た永正10年11月9日、名を「義稙」と改めました。
「日野豊田系図」にはその理由として「天下の政務に倦み給う故」と伝えられていますが、実際のところそのような理由とはとても思えません。

義稙は永正12年7月5日に「北は三条坊門、南は姉小路、東は富小路、西は万里小路」に囲まれた地に新邸(三条御所、三条万里小路御亭)の造営を開始しており、甲賀からの帰京後も意欲的に活動していることが窺えます。

永正5年の上洛時に仮御所とした一条室町の吉良邸は、船岡山合戦の前に丹波へと脱出した際に自焼しており、その後も長らく二条西洞院の妙本寺を仮御所としていたようで、これを機に自ら新たな御所を築くことは、将軍の復権を心中に期する義稙にとって極めて重要だったのでしょう。
義稙は同年12月2日には三条御所へと移り、以後大永元年3月7日に二度目の出奔に至るまで、この新御所で政務を執ることになります。

しかし、その一方で、後柏原天皇即位式は前将軍義澄の時代に細川政元の反対によって沙汰止みとなって以来、資金不足のため長らく延引されたままであり、そのことで高国・義興が新邸造営に反対したために、将軍が不満を募らせたのではないかとも推測されています。
実際、大内義興は12月3日に行われた新御所での初目見得を病気と称して欠席したそうで、義興の将軍への不信感は義稙が思っている以上に深刻だったのかもしれません。
そして、将軍との軋轢が直接の原因ではないと思いますが、陶興房太宰府天満宮に宛てた書状によると、義興は永正12年10月頃には国許に対して帰国の意志を示していたようです。
(藤井崇『大内義興』)

義興は以前にも何度か帰国をほのめかしており、何らかの譲歩を引き出すための方便という意味もあったようですが、義尹と共に上洛して以来早7年を過ぎた今、国許の情勢は決して平穏とは言えない状況となっていました。
そして、義興の帰国を契機として、阿波の細川澄元と三好之長は再び反撃を開始することになります。

前編・中編・後編の3回に分ける予定で書いてきましたが、今回は残念ながら記事に関係する史跡を紹介できなかったので、次の更新では番外編として、京兆家内衆の香西氏とその関連史跡を紹介しようと思います。

祝『足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍-』発売!!

実はこの記事、書き出してからもう半年以上かけてしまったわけですが、その間に待ちに待った一冊が発売されました。

戦国時代の足利将軍家といえばこの方、山田康弘先生の『足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍-』です!

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

5月下旬の発売ですでに入手しているのですが、読むと著しく影響を受けてしまうことは間違いなく、それまでの間に書き溜めていた記事の訂正が大量発生しそうなので、あえて積んだままにしています。

実際のところは 前編 の内容についても、現在では印象が変わっているところもあったりするんですが。(特に細川高国

今回の記事についても、自分の学習の軌跡、ひとまず現時点でのまとめとして考えていますので、よっぽど恥ずかしい誤りを指摘されでもしない限り、訂正はしないと思います。

記事の続きは、この山田先生の本を読み終えてから書こうと思います。

参考にさせていただいた書籍、資料、Webサイト等の紹介

浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版

在京大名細川京兆家の政治史的研究

在京大名細川京兆家の政治史的研究

細川高国の幕府儀礼への関わりに注目され、詳細に検討された論文が掲載されています。
この本で船岡山合戦の直後に内藤貞正が猿楽興行を主催していることを知り、細川政元の時代における京兆家内衆の対立状態からの変化の流れを、義尹帰還からの高国の台頭と結びつけて捉えるきっかけとなりました。
ずっと違和感を覚えていた、通説における「高国の専横」への疑問をある程度払拭することもできました。

将軍出奔の理由を細川高国大内義興への不満として、高国の立場からその背景の考察が詳しくなされていましたが、時期的には出奔後に起こった出来事も含まれており疑問に感じるところもあります。
そこで、そもそも将軍は本心から遁世しようとしたわけではなく、一度目の出奔(今回扱った甲賀への出奔)と二度目の出奔(次回で扱う予定の淡路への出奔)も性質が異なるものではと思い至り、今回の記事は前回から方向性を変えました。

僕のような素人には少々難解でお値段も高めですが、書店で普通に購入できる本で、細川高国の真価を知るには今のところ最適な一冊だと思っています。

藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』(戎光祥出版

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

赤松氏赦免と亀王丸との和睦について、大内氏の視点での考察を参考にさせていただきました。
義尹の出奔については「無責任」そして「軽薄な貴人」と厳しい目が向けられていて、義尹の行動に呆れ果てた義興は帰国までの数年間、幕府のためというより大内家の権益拡大のために在京していたとの論調で、今のところそこはちょっと素直には同意できない感じ。

小島道裕『洛中洛外図屏風: つくられた〈京都〉を読み解く』(吉川弘文館

最近購入した本ですが、『洛中洛外図屏風』が描かれた背景を文書史料や先行して描かれた作品と合わせて読むことで、多くの示唆が得られることが実感できるという、とても面白い内容です。これで、洛中洛外図屏風の見方が一変しそうな勢いです。
特に、歴博甲本から細川高国の新政権樹立の背景を読むところに多くを学びました。
以下の歴博公式Webサイトの記事も面白いですよ。

大石泰史編『全国国衆ガイド 戦国の "地元の殿様" たち』(講談社

全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)

全国国衆ガイド 戦国の‘‘地元の殿様’’たち (星海社新書)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2015/08/26
  • メディア: 新書

複数の執筆者で書かれている本ですが、「両細川の乱」における京兆家内衆の動向、特に手元に資料が皆無だった香西氏や内藤氏について調べる取っ掛かりとして役立ちました。
ちなみに、畿内地域の担当は『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』の浜口誠至氏です。

渡邊大門『備前 浦上氏』(戎光祥出版

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

赤松氏の内情や浦上村宗に関することは、ほぼこの本を参考にしています。
ただし、兵庫県史等でも言及されている赤松氏の動向と畿内政権との関連には触れられておらず、おそらく意図的に避けているような印象を受け、その点は浜口誠至氏とは対照的に感じます。

播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)

  • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
  • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本

赤松義村と洞松院、そして浦上村宗に関することは、こちらも併せて参照しています。
一般に義村は浦上氏の「下克上」を許したとされ後世の評価は低いのですが、再評価して欲しいと思うきっかけを得た本でもあります。

那賀川町史編さん室『平島公方史料集』

阿南市立阿波公方・民俗資料館にて購入したものです。
平島公方(阿波公方)の立場からは義冬(義維)を初代と数えますが、その先代として義稙の事跡にも触れられており、今回の記事で主に扱った甲賀出奔に関する『後法成寺関白記』からの翻刻文が掲載されています。
また、『平島記』は阿波公方誕生の経緯がどのように伝えられているのかという点でも、興味深い内容です。

兵庫県史編集専門委員会『兵庫県史 通史編 第三巻』

昭和53年と古めの本ですが、両細川の乱についてまとまった内容があります。
赤松氏の動向は勿論ですが、丹波の国人についても多く扱われており、特に内藤氏の経歴や内藤貞正と細川政元の因縁について学びました。
なお、今回の記事で扱った政元拉致事件の背景については、以下のWebサイトが詳しいです。
八犬伝の解説サイトのようですが、こんな記事が読めるとは…)

Papathana's ブログ

今年に入って「明応軍乱編」の掲載が始まり、非常に刺激を受けました。
一連の記事で明応の政変の背景、特に政元の時代の特質や政元晩年の讃州家の地位向上に至る流れを知り、義尹政権において高国が求められた役割や内藤氏復権の背景が見えてきたように感じました。

赤澤宗益や古市澄胤のプロフィールも興味深いです。
古市氏については地元での応仁・文明の乱と山城国一揆に関連することもあり以前から少し学んでいましたが、より理解が深まりました。

二周年です(…のおまけ): Muromachi通り

義材(義尹・義稙)といえばこのサイト、というくらい個人的に影響を受けてリスペクトしている『戦国黎明記』管理人さんのブログ記事ですが、義尹政権における畠山尚順細川高国のポジションについて分かりやすく解説されていて、特に今回の記事で扱っている時期、大内義興帰国以前の高国について考え直すきっかけをいただきました。
上の『Papathana's ブログ』の赤澤宗益や古市澄胤の記事と併せて読むと、義尹上洛までの畠山尚順の動きがよく分かり、味わい深くなると思います。

同シリーズ記事

「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(前編) 義尹上洛から船岡山合戦までを明応の政変も振り返りつつ

前回の記事『将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情』 では、松永久秀三好三人衆との対立に至った経緯について考えてみました。

しかし、それ以前の三好長慶がまだ細川晴元の麾下にあった天文年間、「天文の錯乱」を経て足利義晴を将軍と認めたはずの細川讃州家がなぜ「阿波公方」足利義維・義栄父子を庇護し続けたのかという疑問が湧き、讃州家当主の細川持隆の室と義維の室が共に大内義隆の姉妹、つまりかつて足利義稙の上洛を支えた大内義興の娘であったことや、義稙の死後に大内義隆がその肖像画を制作したこと、また畠山式部少輔父子のように義稙の父義視の代から義栄まで扈従し続けた忠臣の存在などを知るにつれ、義稙から義維へと受け継がれたものの大きさを意識するようになりました。

そして、義稙を中心に据えて諸勢力の繋がりを見ることが、「両細川の乱」つまり澄元と高国の家督争いとして捉えられてきた戦乱の複雑さを読み解く一つの道標になるんじゃないか、そんな風に考えるようになったのです。

『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」』と題して、まずは永正5年(1508)に義稙(当時は義尹)が将軍への復職を果たした頃の情勢を中心に、その前提となる「明応の政変」での動向も振り返りながら書き連ねていきます。

※なお、「流れ公方」こと足利義尹は一般には最後の名乗りである「義稙」、あるいは明応の政変により将軍職を失った時の「義材」として知られますが、改名の経緯も重要だと考えますので、ここでは主に当時の名乗り「義尹」で表記しています。

同シリーズ記事

前将軍義尹が大内義興に奉じられて上洛し将軍に復職するも、早くも現れていた冷戦の前兆

永正5年(1508)6月8日、大内義興の供奉により前将軍義尹が上洛しました。明応2年(1493)4月の「明応の政変」によって将軍を退位させられて以来、15年の長きに渡って諸国を渡り歩き「流れ公方」と呼ばれた義尹が、ようやく京都に帰還したのです。

その義尹を迎えたのは皮肉なことに、「明応の政変」の首謀者たる細川政元の後継者候補の一人、細川氏庶流の野州家出身の細川高国でした。

高国は永正4年(1507)6月に起きた政元暗殺事件の後、阿波守護・讃州家出身の澄元を支持して畿内の国人達を糾合、関白九条家出身の澄之を擁立して政元殺害を主導した、薬師寺長忠と香西元長を破る原動力となったのですが、大内氏の供奉により義尹の上洛が確実な情勢になると、澄元を見限って義尹に味方したのです。

当時の公家の日記によると、大勢の見物人が群れをなす中で義尹が5,6千の供回りと共に入洛を果たし、一条室町の吉良邸に入った後、その日の晩には義興が6,7千の兵と走衆1000を率いて入洛、6月14日には畠山尚順も1万の軍勢を率いて入洛したそうで、高国の兵1万を合わせると総勢3万に及ぶ大軍が京都に集結していたようです。

そして7月1日、義尹は従三位大納言に叙任され、念願の征夷大将軍への復職を果たしました。すでに義尹より京兆家の家督を認められていた細川高国は併せて管領に就任し、大内義興は山城守護職を与えられました。

しかし、新体制となった幕府では早くも義尹と高国・義興の間で不穏な出来事がありました。義尹の将軍復帰から1ヶ月を経た8月11日、東福寺海蔵院において畠山尚順の主催で復帰後初めての将軍御成が行われると、その際に御相伴衆として出席した高国と義興が、尚順との不仲により揃って退出する事件が起きたのです。

義尹上洛の最大の功労者は紛れも無く大内義興で、明応8年(1499)末頃に義尹が周防山口に亡命して以来、管領政元の策謀によって天皇から朝敵とされながらも義尹を支持してきたのです。世間でも「筑紫之御所」「九州大樹」などと呼ばれていた通り、京都を離れた義尹が変わらず将軍として扱われたのも、大内氏の庇護あればこそでしょう。

また、一族内に支持基盤の乏しい高国が畿内の国人達を糾合できたのも、高国自身の実力だけではなく、義尹を奉じる大内氏の威勢があったからです。

しかし、義尹は「明応の政変」以来、畠山政長重臣神保長誠を介して越中へと逃れた自分を支援してくれ、上洛後も河内に転戦して澄元派の重鎮・赤沢長経や古市澄胤を討った畠山尚順こそが第一の功労者と考えたようです。将軍に復職して最初の御成は、新幕府に名を連ねる諸侯の序列を天下に示す意味があり、それだけ義尹が尚順に寄せる信頼は大きいものだったのでしょう。

(なお、赤沢長経は細川政元の下で武勇を買われて成り上がり大和へ侵攻した赤沢宗益の養子、古市澄胤は「明応の政変」で伊勢貞陸の麾下に入り南山城へと侵攻して「山城国一揆」を解体せしめた人物で、いずれも尚順にとって宿敵と言える存在でした。)

対する義興の反発も理解できますが、それにしても御成で主人を置いて退席するなど、将軍義尹の面目は丸潰れです。このような行動は尚順への不満というよりも、義尹への不満を露わにしたものでしょう。義興の退席が突発的なものだったのかは分かりませんが、これを宥めるべき立場の高国までもが同調するとは只事ではありません。

将軍親政を志向する義尹にとって、このような高国と義興の意思表明は受け入れがたいものだったに違いありません。

この数年後、義尹は高国と義興への不満を理由として京都を出奔、『後法成寺関白記』に「言語道斷次第也、京都仰天、無是非者也」と記される珍事を起こしますが、上洛直後からすでにその前兆とも言える事件が起きていたわけです。

また、義興は上洛から約2ヶ月を経た7月23日にはすでに帰国をほのめかしており、約1万に及ぶ軍勢の滞在費用にも苦慮したものと思われますが、山城守護に就任してからもその領国化を進めた形跡がなく、上洛当初は幕政に積極参加する意志を持っていなかったようです。かつては義興を朝敵に指定した後柏原天皇ですが、今度はその帰国を思い止まらせようとしたものか、9月14日には義興を従四位上に昇進させると共に、10月14日には義興の亡父政弘に従三位を追贈しました。

一方の畠山尚順総州家の畠山義英との戦いもあり、落ち着いて在京する余裕はなかったようですが、このような事態を憂慮していたのか、嫡子の次郎を上洛させ、能登守護家の畠山義元と共に、将軍義尹の元で幕政に参加させています。

(なお、大内義興の母・今小路は応仁・文明の乱の末期に、同じ西軍であった能登守護の畠山義統が養女として大内政弘に嫁がせた女性です。義統の子である義元もまた尚順と共に「明応の政変」以後も義材派の一員でした。尚順は義尹の上洛に先立って妹を義興に嫁がせており、義尹陣営の融和に心を砕いていた様子が窺えます。)

義尹の帰還前後に見える、将軍義澄と管領澄元の微妙な関係

一方、義尹陣営の対抗勢力である義澄と澄元の関係はどうだったのでしょうか。

義尹上洛から約1年を遡った永正4年(1507)8月、澄元と高国が協力して、管領細川政元を暗殺した澄之一派を攻め滅ぼし、澄元が管領職と京兆家の家督を将軍義澄より認められた直後のこと。当時、前将軍の義尹はすでに大内氏の元で京都奪還の計画を進めていましたが、義澄に謁見した澄元は、その義尹をこちらから呼び寄せて和睦するよう進言しました。

しかし「筑紫之御所御上洛事ハ不可叶旨被仰定」ということで、澄元の提案は将軍には受け入れられなかったようです。

そもそも天龍寺香厳院で僧籍にあった義澄(清晃、還俗して義遐→義高)が将軍に就任したのは、明応2年(1493)4月、前将軍義尚の母日野富子政所執事伊勢貞宗・貞陸父子、管領細川政元らが謀議によって当時の将軍義材(後の義尹、義稙)と前管領畠山政長らを陥れた「明応の政変」によるものであり、以来15年もの長きに渡る亡命生活を余儀なくされてきた義尹にとって、義澄は不倶戴天の関係でした。当然、義澄にとってもそれは同様だったのでしょう。

今なお将軍として扱われている義尹を、西国最強の勢力を持つ大内氏の元に放置していれば、「明応の政変」で義材と命運を共にした政長流畠山尾州家や、その分家の能登畠山氏、越前朝倉氏など、これまで義尹を支持してきた諸勢力が連合を組み、幕府を脅かすことにもなりかねません。

永正2年(1505)12月には、義尹からの上洛への協力要請を受けた畠山総州家の義英(義就の孫)が、宿敵であった畠山尾州家の尚慶(後の尚順)と和睦し、共に義尹の上洛に協力する姿勢を見せていました。また永正3年には、義澄方から転じて義尹方となった今川氏親と伊勢宗瑞が、讃州家が守護を務める三河に侵攻を開始しており、義尹方による反攻の動きは政元の生前から各地で起きていたのです。

澄元にとってはこれ以上事態が悪化する前に、かつて父の義視と共に美濃に亡命していた義尹が、将軍義尚の猶子となって帰京したのと同じように、義澄との和睦を前提に義尹を上洛させることで再び将軍家を一つにできれば、引き続き幕政における細川氏の地位を確保できると考えたのかもしれません。

しかし、すでに上洛準備を整えていた大内義興は永正4年(1507)11月、肥後の相良氏に対して「公方様御上洛、四海泰平、時節純熟」「いよいよ天下静謐肝要に候」と書き送っているように、時勢は義尹に傾きつつありました。そのような状況を感じて高国は将軍義澄を見限り、義尹上洛の露払いをすべく動き出したのです。

永正4年(1507)12月末頃には義尹と義興が山口から安芸へと移動したとの知らせが伝わり、翌年2月には将軍義澄が諸大名に対して軍勢の動員を求めましたが、高国は3月19日に伊勢参宮と称して京都を抜け出し、従弟である伊賀守護の仁木高長の元に逃げ込んでしまいました。

高国は畿内に領国を持たず細川一門の支持も得られていなかったのですが、もちろん単身で離反したわけではなく、丹波守護代の内藤氏や摂津の伊丹氏や瓦林氏など畿内とその周辺に基盤を持つ国人達を味方に付けていたのです。その兵力は1万に及ぶと噂されました。

形勢不利と見た澄元とその重臣三好之長(長慶の曽祖父)は4月9日に自邸を焼き、将軍を見捨てて近江坂本へと逃れます。その翌日には高国が大軍を率いて入京したため、進退窮まった将軍義澄は4月16日の夜、密かに京都を脱出して近江水茎岡山城の九里氏の元へと難を逃れました。そして、高国は摂津方面へと向かい、4月21日から5月12日にかけて澄元方の池田貞正が籠もる池田城を攻略した後、再び一足早く入京し、堺から上洛する義尹と義興を出迎えたのです。

義尹上洛の後も近江坂本に逃れて反撃の機会を伺っていた澄元は永正6年(1509)6月、三好之長父子らと共に如意ヶ嶽へ進出します。しかし、畿内に支持勢力を欠いていた状況では如何ともし難く、3千程の軍勢で義尹方の細川高国畠山尚順大内義興の総勢2、3万の大軍と交戦して大敗を喫し、夜半の悪天候の中、戦場を脱出するのが精一杯でした。

(なお、三好之長の嫡子長秀はこの敗戦後、逃亡先の伊勢で北畠材親に拘束され、31歳の若さで自害させられました。そのため後年に之長が死去した際、その家督は之長の嫡孫元長が継ぐことになります。)

澄元は何とか窮地を脱して本国阿波へと帰還したのですが、一方で頼るべき勢力の中核を畿内から失った義澄は、非常の手段に及びます。永正6年(1509)10月、義澄は「夜討上手」と評された和田円珍をはじめとする刺客を遣わし、将軍義尹の寝込みを襲わせたのです。側近達との酒宴の後でしたが、自ら剣を取って応戦した義尹は八、九ヶ所の傷を受けながらも刺客達を撃退しました。酔い潰れて目を覚まさなかった側近達は後日、全員が遁世したそうです。

この頃の幕府分裂の様相は将軍と管領の関係を主軸として、義澄・澄元 vs 義尹(義稙)・高国という構図で説明されることが多いですが、前述したように義尹と高国・義興の関係は上洛直後から芳しくなく、また澄元の方もその動きをよく見ると、決して義澄とは一蓮托生の関係ではなかったことが分かります。

なお、義澄は永正7年(1510)1月29日、水茎岡山城にて高国が率いる討伐軍を撃退したものの、「船岡山合戦」の直前となる永正8年(1511)8月14日、京都への帰還が叶わぬまま急死することになります。しかし、嫡子の亀王丸はすでに3月には母と共に播磨へと下向しており、その後しばらく赤松氏の元で御所を構えて幼年期を過ごすことになります。

義澄は、かつて南朝方によって京都を追われ近江に逃れた二代将軍義詮が、嫡子春王丸(後の義満)を播磨の赤松則祐の元に預けた故事に思いを馳せていたのではないでしょうか。その遺志は奇しくも、自身を裏切った高国によって達せられることになるのです。

(なお、義澄の二人の子は兄が義晴、弟が義維とされていますが、先に近江で生まれて播磨に下向したのは義維の方で、実は義晴は播磨で生まれたとの説があります。史料に「亀王丸」の名で現れる人物は両者が混同されて伝わっているようですが、今回はひとまず亀王丸=義晴としておきます。)

明応の政変」による讃州家の立場の変化と、一門の長老・細川成之の憂い

高国によって京兆家の家督を奪われた澄元ですが、その出身である讃州家は「明応の政変」以前、京兆家の政元からは一歩引いた立場であり、当時の当主之勝(澄元の父)は将軍義材から厚い信頼を受けていました。

延徳3年(1491)6月に之勝は将軍家の通字である「義」の一字を賜って義春と名を改めており、政元が反対していた近江六角氏討伐にも参加、明応2年(1493)正月、伊勢備中守邸にて義材の主催で行われた猿楽の宴にも出席し、斯波義寛畠山政長山名政豊大内政弘といった面々と共に相伴衆を務めています。

このように京兆家の意向に反して将軍義材に接近していた讃州家でしたが、「明応の政変」を招くきっかけとなった明応2年(1493)2月からの河内親征では、義材との決裂に至る転機が訪れます。

三好衆ら阿波勢を率いて参加していた義春は、将軍が畠山政長陣所の正覚寺へと陣替えを行うと、敵方畠山基家が籠もる誉田城付近まで進出して積極的な姿勢を見せたものの、畠山政長が更に前線を進めて誉田城との戦闘を開始した途端、不審な動きを取っています。義春は淡路守護の細川尚春や若狭守護の武田国信と共に後方の住吉へと陣替えを行った後、京都において政変が勃発すると、「公方治罰」のため河内へと向かった京兆家の軍勢と入れ替わるように京都へ帰還したのです。

この戦いは「細川京兆以下大内・赤松其外近習外様悉迷惑之処」と言われた通り、敵方畠山総州家と争う畠山政長以外の諸侯にとっては意義のないもので、元々義材とは不仲であった細川政元は勿論、これまで義材を支持していた大内氏や赤松氏ですら消極的な動きを見せました。(この時の大内氏と赤松氏の動きについては後述します)

同様に、これまで京兆家とは距離を置いてきた讃州家も、政元が日野富子政所執事の伊勢父子といった幕政の中枢を握る面々と協同するに及び、将軍義材と管領政長を幕府から排除するという目的のもと、再び応仁・文明の乱以来の細川一族の団結を図ることとなったのでしょう。

その応仁・文明の乱において讃州家当主として阿波勢を率いて東軍方で活躍した細川成之は、すでに出家して隠居の身ながら、義春が若くして死去した後、讃州家を継いだ嫡孫の之持を後見しつつ、京兆家の後継者候補となったもう一人の孫、六郎澄元の補佐役として被官の三好之長を重用するようになりました。

しかし、澄元派と関白九条家からの養子澄之派に分かれて内衆同士の権力争いが激化した結果、ついに政元が暗殺され、澄之方との争いを制した矢先に、今度は澄元を支持していたはずの高国が不穏な動きを見せ始めたわけです。

そのような折、細川一門の長老たる成之は、高国に宛ててこのような書状を送りました。

三好筑前守之長連々対愚老・同故右京兆、雖緩怠子細条々候、令堪忍于今遊(宥)免候処、結句六郎身体之儀、重悪之申勧、天下静謐無期候、如此候上者、上下両家其外一門、皆々被者依違乱、弥不可有正体候条、当国之事者一枝申付候、尚為一家、面々被加成敗、先祖如忠儀、六郎堅固家護候様、各御指南可為肝要候、恐々謹言、

三月五日 道空(花押)

民部少輔殿

天野忠幸編『戰國遺文 三好氏編 第一巻』(東京堂出版)より

永正5年(1508)3月5日といえば、高国が将軍義澄と澄元を見限って京都を出奔するわずか2週間前のこと。

高国達の離反は、三好之長とその家臣達が横暴な振る舞いにより反感を買ったことも一因だったようで、文章の細かい解釈は分かりませんが、之長の増長を見過ごしてきたことを反省し、「天下静謐」のため六郎澄元を中心に再び細川一門の結束を図ろうとする成之の思いが伝わってきます。

残念ながら成之の思いは高国には届かなかったようですが、同じ書状を受け取った典厩家当主の細川政賢は澄元を支える道を選び、永正8年(1511)7月から行われた澄元方の反攻で京都入りを果たした末、「船岡山合戦」で最期を迎えることになります。

義尹と義澄の間で板挟みにあった赤松氏と、「明応の政変」以来の義尹・義興との因縁

永正8年(1511)3月、水茎岡山城へと逃れた前将軍義澄の子・亀王丸が母と共に播磨赤松氏の元へと下向した経緯は前述しましたが、実は3年前の義尹上洛の際、赤松氏は義尹に味方していました。

赤松氏は永正5年(1508)1月に義尹から、2月には義澄からそれぞれ協力を依頼され両者の間で板挟みとなっていましたが、4月にはついに去就を決し、大内氏に対して上洛への協力を申し出ました。そのために瀬戸内海を東進する大内水軍は難なく堺へと上陸を果たすことができたはずですが、その赤松氏がなぜ義澄の遺児を預かることになったのでしょうか。

当時の赤松氏は幼少の当主次郎(後の義村)を前当主政則の後室で細川政元の姉である洞松院が後見していましたが、そもそも洞松院が赤松政則に嫁いだのは、「明応の政変」を主導した政元が赤松氏を懐柔するためだったのです。

明応2年(1493)3月、龍安寺で尼として父勝元の菩提を弔っていた洞松院は、将軍義材の河内親征に参加して堺で陣中にあった政則の元に輿入れしました。美男子として名高い政則の元に嫁ぐからにはさぞかし美しい女性であろうとの期待があったのか、陣の近くには 「天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな」 との落首が貼られた逸話が伝わっています。

そして洞松院の輿入れが決まった直後の3月20日、畠山総州家方の越智家栄・古市澄胤の元に伊勢氏から清晃の擁立計画が伝えられ、翌4月22日に政変が決行されたのです。その後政元への御礼のために上洛した赤松氏の重臣、浦上則宗と別所則治は、翌閏4月3日には上原元秀・安富元家と共に河内へ戻っており、この時点で赤松氏が清晃の擁立に賛同していたことが窺えます。

堺には赤松氏の他に、当時まだ10代の若さで父政弘の名代として参加していた大内義興が陣を構えていましたが、義興も当初は親征に消極的な動きを見せていたためか、政元方に付いたと噂されました。しかし、政変翌月の閏4月8日には「赤松・大内加州大樹之御方之由」つまり赤松氏と大内氏が共に義材を擁護しようとしているとして、赤松勢の寄宿所と見られた法華宗の三箇寺を破却すべし、との噂が立つ事態となっています。

政変直後の4月末時点で奉公衆の大半だけでなく800人に上る近習さえもが離脱し、閏4月3日には讃州家や武田勢などの諸将が帰陣している状況であり、将軍義材も動揺していたことは間違いありません。しかし、京都での政変から正覚寺の義材本陣への攻撃が開始されるまで実に一ヶ月の時間が過ぎています。

この一ヶ月間に、大内義興は戦線を離脱した安芸・石見の国人達を収容して兵庫津へ移動し、政則と義興を仲介として義遐を義材の猶子とする計画が立てられたり、両者が連合して京都へ攻め上るとの噂が流れています。この政変の鍵を握っていたのは、兵庫津で待機する大内氏と、堺で在陣を続ける赤松氏の動向でした。

赤松氏は再び政元と交渉した末、先の近江親征における戦功で義材から拝領した所領の安堵を承認されるに及び、ついに去就を明らかにします。赤松勢が堺で政長方の根来衆と交戦を開始して連携を断つと、斯波勢と京極勢もそれに呼応するかのように正覚寺を包囲したのです。そして、閏4月25日には上原元秀率いる京兆家の軍勢が正覚寺を攻撃し、政長は嫡子尚慶(後の尚順)を逃がして自害、将軍義材は元秀によって捕らえられ、京都へ護送されることとなりました。

おそらく赤松氏と大内氏は共に河内親征には消極的だったものの、将軍義材の排除に至る計画の全てを知らなかったのでしょう。しかし、政則が土壇場で政元方に付いたのに対して、義興は兵庫に駐留したまま、6月に義材が上原元秀邸を脱出して北陸に向かった後もなお動こうとはしませんでした。京都では義興が禁中へ乱入して三種の神器を奪おうとするのではとの噂も飛び交ったようですが、結局何もできないまま帰国することになったのです。

(政元と赤松氏に翻弄させられる結果に終わった義興を叱責したものか、国許の政弘からの命令で義興の供が三、四人切腹させられたそうです。)

こうして細川京兆家との絆を深めた赤松政則は、明応5年(1496)に異例の従三位上階を果たし、その2ヶ月後に死去したのですが、政則の前妻との間に生まれていた娘の婿養子として迎えられたのが、赤松七条家(赤松円心の嫡孫に当たる光範の家系)出身の道祖松丸、後の赤松義村でした。

義尹が将軍に復職して間もない永正5年(1508)9月、赤松氏の御一家衆である播磨守家の当主・赤松勝範が家督を望んで挙兵する事件が起きました。謀叛は当主の次郎(道祖松丸、後の義村)によって鎮圧されましたが、実はこの赤松勝範は、政則の死後明応7年(1498)頃から起きた「東西取合」と呼ばれる播磨の内乱において、道祖松丸を擁立する浦上則宗に反発して挙兵した大河内家の出身で、かつて義尹の山口下向に扈従した側近達の一人でもあったのです。

(なお、大河内家は嘉吉の乱の際にも赤松満政が将軍義教の近習を務めて惣領家に敵対しており、惣領家への対抗意識があったようです。)

そして、当主の後見役として実権を握っていたのは、あの「明応の政変」を主導した細川政元の姉である洞松院でした。赤松氏の協力もあって無事に上洛を果たしたとはいえ、義尹と大内義興の赤松氏への不信感は拭い去れるものではなかったでしょう。逆に赤松氏の方でも、播磨守の謀叛に将軍義尹の意向が関わっていると考えるのは自然なことです。

また、赤松次郎の姉は讃州家を継いだ細川之持(澄元の兄)に嫁いでいたようで、そのことが影響したのかもしれません。

澄元方が赤松氏と連携して反撃するも「船岡山合戦」に敗北

赤松氏という強力な味方を得た澄元は、永正8年(1511)7月から反撃を開始し、淡路守護の細川尚春が高国方の瓦林正頼を摂津鷹尾城に攻囲します。7月26日の芦屋河原の合戦では高国方の波多野元清ら丹波勢を中心とする軍勢により一旦敗退したものの、赤松勢の合流によって総勢2万に及ぶ大軍となったため、一転して鷹尾城に猛攻を加えて8月11日に落城させました。

一方で、前述した細川成之の書状を受け取った典厩家当主の細川政賢を大将として、和泉上守護の細川元常、更に甲賀の国人山中為俊や畠山総州家の重臣遊佐印叟も加わった澄元方の混成軍は7月13日、和泉深井郡で高国方の摂津勢を撃破した後、摂津中島城まで進出しています。

二手に分かれた澄元方の軍勢がいよいよ摂津から京都へと迫る事態となったため、その勢いを恐れた将軍義尹は後柏原天皇に退京を通告した後、細川高国大内義興、畠山義元、畠山次郎(尚順の嫡子、後の稙長)らと共に、総勢2万5千に及ぶ大軍で丹波へと落ちて行きました。

細川政賢率いる澄元方の軍勢は8月16日に京都へ進出したものの、すでに義尹・高国方は丹波へ向けて脱出した後でもぬけの殻でした。政賢は将軍義尹の邸宅に火を放ち、高国の邸宅を打ち壊して気勢を上げますが、赤松勢はまだ摂津で伊丹城を攻囲中のため進軍できず、肝心の澄元も阿波から動かなかったため、京都の軍勢は合わせて約6千と心許ないものでした。何より、澄元方の求心力となる前将軍義澄が8月14日に近江で急死していたこともあって、澄元方の足並みは乱れていたようです。

(なお、義澄は澄元方の戦況を聞いて側近の奉行人・松田頼亮を京都へと遣わし、京都の治安を乱さないよう配慮しています。また、頼亮は義澄の死を知っていたようなのですが、それを秘匿したまま船岡山に参陣して討死してしまいました。)

一方、丹波で態勢を整えた義尹・高国方の軍勢は反撃を開始、8月23日には大内勢が北山から長坂口へと進んで京都奪還を図ったため、細川政賢もこれに応じて船岡山および今宮林に布陣して迎撃、翌8月24日に「船岡山合戦」の決戦に至ります。しかし多勢に無勢では如何ともしがたく、大内勢の猛攻を受けた船岡山の政賢本陣は総崩れとなり、総大将の政賢が退却の際に羅漢橋で討死したほか、山中為俊、遊佐印叟など主だった大将もことごとく敗死するという惨状でした。討ち取られた兵は3千人に上ったと伝わっています。

そして、赤松勢も京都での敗報を受けて伊丹城の攻囲を解き撤退、永正8年の澄元方の反撃は失敗に終わったのです。

永正8年の澄元方の敗因として、義澄の急死による士気の低下や勇将・三好之長の不参加が挙げられていますが、頼みの綱であった赤松勢は元より、肝心の主力である阿波勢も参戦していない状況ではとても勝ち目はありませんでした。細川成之の要請に応えて澄元を支持した政賢でしたが、結果的に見殺しにされたのです。

(なお、政賢ら澄元方は和泉で高国方を破ったものの、大内方水軍の多賀谷氏が敗兵を収容して堺を死守していたため、政賢は堺の攻撃を諦めて摂津中島へと向かい、京都に進出しました。澄元はこのために堺からの上陸を見送った可能性もあるようです。)

船岡山合戦」の勝利で高国は細川一門への影響力を強め、義興は従三位上階を果たす

船岡山合戦」で敗死した細川政賢の典厩家は、摂津西成郡の分郡守護を務めた家ですが、京兆家の当主が幼少の場合に後見役を担うと共に、幕府内でも将軍の御供衆を務めるという、細川一門でも高い家格を認められていました。しかし、今度の敗戦に伴って政賢の嫡子澄賢は没落し、その家督は高国の従弟である尹賢に奪われることになりました。

(後年、高国の敗北に伴って典厩家は晴元方の澄賢-晴賢、氏綱方の尹賢-藤賢に分裂したまま継承され、三好政権期を通じて再び藤賢に統一されることになります。)

和泉上守護家の細川元常は逃げ延びたものの、後年には高国の従弟に当たる高基によって和泉下守護家が再興される形で対立し、備中守護は高国の父政春が継承することになります。管領高国が幕府の中枢を握ったこの時代、讃州家と淡路守護家を除く細川一門は、ことごとく野州家により乗っ取られたわけです。

また、義澄の急死によって畿内の義澄派は勢力を失い、かつて将軍義尚・義尹(当時は義材)の二代に渡って討伐を受けた六角高頼も、義澄を庇護していた水茎岡山城の九里氏を討って義尹に通じる結果となりました。

そして「船岡山合戦」から数日後、細川一門の長老として重きをなしていた細川成之までもが死去します。今際の際にあった成之が義澄や政賢の死を知ったのかどうか分かりませんが、あのような書状を残した成之の無念は如何ばかりだったでしょうか。

阿波勢の兵力は健在とはいえ、細川一門を束ねる京兆家としての正統性においても高国に政治的敗北を喫し、畿内進出の足掛かりを失った澄元は、三好之長と共に以後8年に渡って阿波で反撃の機会を窺うことになります。

こうして義尹の天下はようやく安定へと向かい、「船岡山合戦」の勝利によって洛中に平和をもたらした功労を認めた後柏原天皇は、翌永正9年(1512)3月28日、大内義興従三位を叙位しました。義興は大内氏当主として初めて存命中の上階を果たしたのです。

なお、かつて赤松政則従三位に任じられた時も多くの公卿が痛烈な批判の言葉を残していますが、今度の大内氏に対してもその取次に当たった三条西実隆自身が「田舎武士の所望につき、一事以上予入魂、比興の事也、断指すべき断指すべき」と憤懣を露わにしています。大内氏三管領家に次ぐ家格の赤松氏よりも低く見られていたため、それも当然かも知れません。三条西実隆は以前より義興と親交があったはずですが、それだけに都の公卿達における家格秩序意識が未だに強かったことが窺えます。(単に実隆の地方蔑視の感情が激しかっただけかもしれませんが…)

赤松政則大内義興は共に左京大夫に任官、従三位に上階していたわけですね。「明応の政変」の顛末といい、義興は政則のことをどんな風に意識していたんでしょうか。)

前述の通り、長期間に渡る滞在費用に苦慮していた大内氏では、すでに「船岡山合戦」の前より、義興の麾下にあった安芸・石見の国人達が無断で帰国する事態となっていました。しかし今や、京都の治安は大内氏の威勢こそが頼みの綱なのです。今度の義興の上階も上洛直後の従四位上への昇進と同様に、後柏原天皇による慰留の意向が込められたものであったのかもしれません。また、天皇はかつて細川政元に断られて以来、未だに即位式を実施できていないという事情もあり、大内氏の財力への期待もあったでしょう。前例を何よりも重んじる公卿達に比べると、むしろ天皇の方が朝廷の衰微を厳しい現実として捉えていたように感じます。

(なお、高国に対しては従四位下に叙位する意向が伝えられましたが、高国はどういう訳かこれを辞退して従五位に留まったようです。義興の従三位に比べると大きい変化ではないでしょうし、将軍御成は受けているので、名よりも実を取ったという感じでしょうか…?)

一方、前将軍義澄から遺児亀王丸(後の将軍義晴)を託され、澄元方に加担した赤松氏は、この危機に際してどう対応したのか…また、上洛直後から早くも冷戦勃発と思われた将軍義尹と細川高国大内義興の関係はどうなったのか…次回はその辺りを中心に続けようと思います。

夜の船岡山を歩いてみた

永正8年(1511)8月、典厩家の細川政賢が義尹・高国方を迎撃し、敗れ去った船岡山。標高112m、東西400mの小高い丘で、船の形に似ていることからその名が付いたそうです。

応仁の乱の序盤戦においても、西軍方に与した若き大内政弘(義興の父)が2万余という大軍で上洛した際、ここに陣を構えています。それから40数年を経た永正の頃にも、当時の防御施設などが残されていたのでしょうか。

現在の船岡山大徳寺の所有地だそうですが、京都市の都市計画公園の第1号として整備され、昭和10年から「船岡山公園」となっています。近隣の住民からは気軽に行ける夜景スポットとしても親しまれており、あまり戦跡として認識されていなさそうです。

(別に夜景を見に行ったわけではなくて、色々あって日が暮れてしまったというだけですが…。)

船岡山の麓にある建勲神社の参道。建勲神社織田信長を奉るために明治2年(1869)に建てられた神社です。前身は秀吉が正親町天皇の勅許により定めた廟所だそうです。信長菩提寺大徳寺総見院と対になる場所だったのでしょうか。

建勲神社には信長が着用したという紺糸縅胴丸や、桶狭間合戦で手に入れたという義元左文字(宗三左文字)が所蔵されていることでも知られています。(左文字は普段は京都国立博物館で保管されているそうで、展覧会などで観られます。)

最近はいわゆる「刀剣女子」ブームの影響か『京都刀剣御朱印めぐり』に参加されたり、「宗三左文字」大絵馬の授与も始められたようです。

幾多の戦いの舞台となったためか、遊歩道沿いに供養塔らしき物もありました。細川政賢の無念に思いを馳せつつ…と言いたいところですが、訪問時点では典厩家のことを全く知りませんでした。(汗)

すっかり夜ですが、船岡山の山頂です。

京都タワーが見えました。

暗くて見づらいですが、だいたいこんな形。

軍記類を参考にされたためか、現地の説明には澄元が陣取ったことが書かれていますが、実際には澄元は阿波を動いていないと思われます。

(この説明には船岡山公園となったのは昭和6年とありますが、京都市の公園形成史―第二次大戦前まで― (PDF) には計画決定が昭和7年11月、開園が昭和10年11月とあります。どちらが正しいんでしょう…?)

「応仁永正戦跡 舟岡山」の石碑。暗くて探しづらかったのですが、一応見つけて撮っておきました。

なお、城郭としての船岡山の歴史と、応仁・永正の「船岡山合戦」の経緯については、「落穂ひろい」内のこちらの記事が分かりやすく、詳細に解説されています。

北側の山腹には横堀が残っているとのこと。(次の機会には明るいうちに行きたいですね…)

応仁の船岡山合戦では西軍によって巨大な井楼が建てられ、守将の山名教之と一色義直が東軍を何度も撃退したようです。また、東軍による船岡山の奪取には浦上則宗も活躍したそうですよ。

また永正の船岡山合戦では、前述した義澄側近の松田頼亮が、奉行人(官僚)でありながら、最後まで船岡山に留まって討死したそうです。頼亮は密かに義澄の死に殉ずる決意だったのかも知れませんね…。

船岡山の南にある鞍馬口通には、大正12年に料理旅館として創業したという、豪華な内装で有名な銭湯「船岡温泉」もあります。船岡山戦跡巡りの際はぜひお立ち寄りください。(この時は時間が押していたので無理でした…)

こちらはまた別の建物ですが、古い旅館か何かの跡を再利用されているのでしょうか。この辺りは西陣の旦那衆を相手にした店が多く、歴史のある建物がいくつか残っているようです。

余談:大徳寺龍源院と義尹政権

大徳寺船岡山のすぐ北にあり、枯山水庭園で有名な塔頭の龍源院は畠山義元、大友義長、大内義興らによる創建と伝わっています。

龍源院の創建は、文亀2年(1502)や永正元年(1504)といった説がWeb上に見られますが、この三者が共同している時期であれば、義稙上洛後の永正5年(1508)以降、おそらく船岡山合戦が終わった永正8年から大内義興が帰国した永正15年までの間になると思います。

大内義興は義尹上洛に際して、事ある毎に抗争していた大友氏との和睦を進め、後に大友義長(キリシタン大名として有名な大友宗麟の祖父)は義興の娘を嫡子の正室に迎えています。

なお、船岡山合戦で細川政賢が布陣したのは船岡山と「今宮林」でしたが、地名の由来と思われる今宮神社は大徳寺よりも更に北にありますので、大徳寺も含めた一帯が戦場になったようです。方角的に義尹方は北西の長坂山から攻め下りてくる形ですが、大徳寺の僧侶達はどんな気持ちだったでしょう。応仁の乱もありましたし慣れたものかな…?

船岡山と大徳寺と今宮神社

File:Kyoto Mt.Funaoka Daitokuji Temple Imamiya Shrine Aerial Photograph.jpg - Wikimedia Commons より

下の緑が船岡山、その右上の緑っぽい四角のエリアが大徳寺、その左上角の緑が今宮神社。大徳寺の左側の飛び地みたいな緑は「孤篷庵」という塔頭寺院のようです。

参考書籍、参考資料

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

今回の大内義興に関する内容は、多くがこの本の内容に依拠するものですが、他にも「明応の政変」における赤松氏との連携行動について知り、深入りするきっかけを得られました。赤松播磨守(勝範)が義尹の下向に扈従していたことを知ったのもこの本からで、意外なことに赤松贔屓としても得るものが多かったです。

また、船岡山合戦の概要と、三好之長は元より澄元も参戦していなかったこと、大内方の多賀谷氏が水軍で堺を守備していたことを理由とする説は、こちらに書かれていたものです。

在京大名細川京兆家の政治史的研究

在京大名細川京兆家の政治史的研究

非常に内容の濃い本ですが、その中でも将軍復帰後の義尹と高国の緊張関係、特に畠山尚順への御成の件などを学びました。

政元、高国、晴元とそれぞれ変容している京兆家の実態を知る上で必読になりそうです。価格的にちょっとまだ手が届かないのですが、いずれは入手したい一冊。

戦国遺文 三好氏編(第1巻) 寛正六年-永禄四年

戦国遺文 三好氏編(第1巻) 寛正六年-永禄四年

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 東京堂出版
  • 発売日: 2013/11/25
  • メディア: 単行本

数々の古文書から三好氏に関係するものを抜粋して収録された本の1巻目ですが、讃州家の細川成之(道空)から高国に宛てた書状の存在を知り、細川氏の一門を捉える上で参考になると思い引用しました。(つい先日、最終巻となる第3巻が刊行されています。)

三好贔屓としては2巻も必読の内容でした。前回の記事『将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情』を書いてから読んで、即書き直したくなりました…。

価格的に、宝くじが当たればぜひ購入したいです!

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

赤松氏内部の動きについて、赤松大河内家が「東西取合」においても独立した動きを取っていたこと、義尹が将軍に復帰した直後に、大河内家の赤松播磨守(勝範)が謀叛を起こして討伐されたことを知りました。

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

細川氏と三好氏を中心に畿内の情勢を把握する上で、常々参考にしているものです。

阿南市立阿波公方・民俗資料館にて購入したものです。将軍義尹に関連する情報として『後法成寺関白記』等の翻刻文がいくつか抜粋されています。澄元が将軍義澄に対して義尹を呼び寄せて和睦するよう進言した話は、こちらの解釈から学びました。序文に書いたことと今回のタイトルに至るきっかけを得られたのがこの本です。

明応の政変」の経緯について、特に赤松氏が政元に付いて正覚寺への攻撃が開始されるまでを、大内氏の動きと合わせて学びました。30年以上も前の資料ですが、一般書にはここまで詳細に解説されたものが見当たらなかったため、とても参考になりました。

細川高国の細川一族内での支持基盤の弱さや、船岡山合戦で細川政賢が敗死した後の典厩家の系譜について学びました。

今回の記事に直接的には反映されていないと思いますが、「明応の政変」前夜、将軍義材の時代の細川政元の動向、あるいは浦上則宗の動向を中心に、赤松氏の応仁・文明の乱から「明応の政変」までの立場の変化について学びました。

ちなみに織田敏定といえば赤松政則の作刀が1本、この人に贈られているんですよね。論文のタイトルからはちょっと予想できませんが、浦上則宗ファンにもおすすめの内容です。

義澄派から義材派への転向の動きの一例として、讃州家が守護を務めた三河における今川氏の動向を知りました。今回の記事には取り上げていませんが、義澄が書いたと見られる、今川氏親や伊勢宗瑞への恨みつらみが込められた書状が面白いです。

同シリーズ記事

英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史

英賀城は、夢前川の河口一帯に瀬戸内水運の拠点として発展し、本願寺の播磨における拠点となった本徳寺の寺内町として栄えた城郭都市です。

英賀を発展させた英賀城主・三木一族

戦国期に英賀城主を務めた三木氏は伊予河野氏の一族で、讃岐三木郡を相続したという河野通堯の子・通近を祖としています。しかし、河野氏側の系譜には三木氏との関係が記録されておらず、事実かどうかは定かではありません。

永享2年(1430)に飾東郡恋ノ浜城へと移った通近は三木氏を名乗り、『播州英城日記』は4代目の通武が嘉吉3年(1443)に英賀へ入部、12月から翌文安元年(1444)11月にかけて「芝」の地に居館を築き、同2年正月に移り住んだと伝えています。

三木氏以前の英賀は、鎌倉期に福井荘の地頭であった吉川氏の支配下にあったことや、永享年間に播磨守護赤松満祐の弟・常陸介祐尚が「英城」に居したことが、上郡町の宝林寺や法雲寺といった赤松氏ゆかりの寺院に伝わる文書に記されていますが、確かなことは分かっていません。

三木氏が英賀に進出したのは、嘉吉元年(1441)6月に赤松氏が将軍・足利義教を自邸で殺害するという前代未聞の事件を起こして幕府から討伐を受けた「嘉吉の乱」の終結から間もない頃ですが、三木氏はその間に初代から4代まで立て続けに交代しており、かなりの混乱があったことが窺えます。また、三木通武の母は赤松満祐の娘であったとも伝わっていますが、嘉吉の乱後に播磨を得た山名持豊(宗全)は三木氏の英賀進出を容認したようです。

亀山本徳寺がまとめた『播州真宗年表』によると、永享12年(1440)に関東で勃発した結城合戦に際して、三木通重が軍船40隻を率いて飾磨沖から赤穂の警固にあたったそうで、すでに相当な勢力を持っていたことが窺えます。また「三木氏は武家ではなく、英賀代官の統制下にあった裕福な交易業者であり、後に武士化したと思われる」と推測されています。

あるいは、永享年間に恋ノ浜城を拠点に赤松氏の下で水軍を統括していた三木氏が、嘉吉の乱を通じて山名氏に従い、赤松氏に代わって英賀城を占拠したとも考えられます。(英賀城主・赤松祐尚は嘉吉の乱以前に亡くなっており、後継者の則尚は乱の当時まだ10代でした)

享徳3年(1454)には、将軍・足利義政が赤松満祐の甥・則尚を赦免したばかりか、上意に背いたという理由で山名持豊に対して討伐軍を招集する事件が起きました。『播州真宗年表』によると、この際に山名氏による英賀侵攻の風聞を受けた三木通武は、大規模な築城工事を行い、南側に田井ヶ浜を城内深く引き入れて港とし、北側は十の出入口(広辻口、芝之口、駒芝口、井上口、大木口、河下口、北芝口、岡芝口、野中口、山科口)を土塁で結んで防備を固め、その外側にある沼沢地帯を濠(大木之濠)としました。岩を繋いだような強固な城「岩繋城」と呼ばれた英賀城の城域は、この頃にほぼ確定したようです。

なお、山名持豊の婿であった管領細川勝元が将軍に従わず逐電したため山名討伐は中止されましたが、梯子を外される形となった赤松則尚は播磨に下向して旧臣達と共に挙兵します。翌享徳4年(1455)4月には山名氏の大軍が播磨に侵攻、赤松方も坂本城や壇特山に篭って抗戦したものの、山名是豊ら備後勢が篭もる室山を落とせず敗走した則尚は備前鹿久居島に逃れて自害、その首は赤松円心開基の法雲寺で晒されました。

(三木通武も赤松方として参戦したとの説もありますが、結局は山名氏によって許されたようで、経緯はよく分かりません。)

その後、長禄元年(1457)には南朝方に奪われていた神璽を奪回した功績により、赤松満祐の弟義雅の孫・政則を当主として再興が認められた赤松氏は、応仁・文明の乱において東軍方として活躍し、播磨の奪還に成功します。三木氏5代目の通安は当初、西軍山名氏に従って大内・河野軍を先導し20隻の軍船を率いて摂津に出向したものの、後に東軍赤松氏の麾下に入って武功を上げ、従四位下宮内少輔に任ぜられました。

その水軍力を武器に山名氏と赤松氏の間で巧みに立ち回り、英賀城を発展させた三木通安は、北方の山崎山に初代通近から四代通武までの頭首とその妻の墓を建てました。そして三木一族は城内に市庭家、井上家、土井家、堀内家の「四本家」と山崎家、薮内家、町之坪家の「三連家」がそれぞれ居館を構え、七家の合議によって英賀の町を運営したと伝えられています。

播磨における本願寺の興隆と「英賀御堂」本徳寺

英賀城を発展させた三木氏は浄土真宗本願寺に帰依し、本願寺一家衆を本徳寺に迎えることで、やがて「英賀門徒」と呼ばれる強力な門徒集団を抱えるに至ります。

西国においては仏光寺系の布教が先行していたようですが、明応年間には「播磨六坊」(円光寺、光善寺、永応寺、万福寺、光源寺、光触寺)に代表される各地の寺院が次々と本願寺の系列に入り、中には天台宗禅宗から転派する寺院も現れるようになります。

江戸中期に三木知識が編纂したという『姫路船場本徳寺開基略』は、蓮如の命を受けて播磨へ下向した弟子の法専坊空善によって、明応2年(1493)2月28日に道場が開創され、蓮如により英賀東「苅屋道場」に本尊が授けられたと伝えています。

また『播州英城日記』よると、三木氏6代目の通規が英賀城主を務めた永正年間にはますます「専念一向宗」に帰依する者が増えたため、やがて門徒の中で一家衆(宗主の一族)を迎えたいとの声が高まり、永正9年(1512)8月には天満九郎四郎近村が上京して本願寺に参じて一家衆の下向を懇請した結果、実如上人はこれを受け入れました。

『栄玄聞書』には、この頃の播磨では守護赤松氏が怨みにより一向宗を禁止していたところ、実如上人が秘蔵の名馬「ちゞみ栗毛」を赤松氏へ贈ったことにより、禁制が解かれたというエピソードが記されているそうです。

実如上人御代に、御馬五十疋仙飼候、其中にちゞみ栗毛と申御馬、御秘蔵の名馬にて候。然ば播磨の国赤松[是は備前、はりま、みまさか三ヶ国の守護也]このちゞみ栗毛の事を承り及び、上野[蓮秀と云云]まで度々所望の由申入られ候へども、蓮秀御耳にもたてられず候、其故は、御秘蔵の御馬にて候あひだ、中々くだされまじきと存ぜられ、申あげられず候

…中略…

総じて赤松と申ものは、御一宗に怨をなし、播磨一国の門徒の者に、念仏をさへこゝろやすく申させぬ者にて候、播磨一国の尼入に、こゝろやすく念仏をも申させ、仏法をも聴聞させ候はゞ、たとへば御身をうらるゝともおしからずと、思召候と御意候、この仰せを御前の人々承り、数剋落涙のよし候、さて御馬をば京へ引こさせられ、赤松へくだされ候、赤松悦喜申され候事、是非なく候、すなはちこれより、播磨一国の仏法こゝろやすくひろまり申候なり

このような実如上人の意志により、まず永正9年(1512)に五子の実玄が英賀本徳寺に入寺したものの、永正12年(1515)3月に夭逝したため、その後は三河土呂本宗寺の住持であった六子・実円が英賀本徳寺を兼帯することになりました。永正10年(1513)9月2日、芝之館において実円と対面した英賀衆「七家」をはじめ89人が剃髪し、浄土真宗の歓化を受けたと伝えられています。

また『播州英城日記』によると、永正10年(1513)2月には東西一町、南北二十間の地を定めて坊舎の建築が開始され、2年後の永正12年(1515)6月2日には南北九間、東西七間という規模の「英賀御堂」が完成、翌日から七日間の遷仏法要が営まれるとともに、実円より七家以下各分家へ蓮如直筆の六字名号(「南無阿彌陀佛」と記した掛け軸)五十余軸が授与されました。

大永5年(1525)に実如上人が没した後、実円は後継者となった証如の後見役として大坂本願寺にいることが多かったようですが、英賀へも何度か下向しており、天文6年(1537)頃には播磨へ進出した尼子氏の動静を証如に伝えるなど、政治的な面でも本願寺教団の重鎮として活躍しました。

(実円の報告を受けてか証如は尼子詮久に宛てて「御出張の由承り候、ことに早速御本意に属し候条珍重に候」とその進出を祝う書状を送っています。)

また、戦国期の本願寺は各地の門徒を御堂番として上山させていましたが、播磨門徒でも天文7年(1538)以降およそ年2回、万福寺、播磨衆、英賀衆というグループに分かれて御堂番を勤めたほか、証如上人の日記『天文日記』には英賀の俗人門徒である英賀徳正、すみや甚兵衛、英賀市場与三兵衛、英賀丈重新衛門らの死去や年忌に際して、遺族が本願寺へ斎(仏事における食事)の調進を行ったという記録が残されており、信仰活動の中にも英賀衆の経済力が窺えます。

英賀城主・三木氏は自ら門徒となることで「英賀御堂」本徳寺を中核とした阿弥陀信仰を共通の精神基盤とし、地縁的共同体の統率者として強固な関係を築きますが、英賀と本願寺の強い繋がりは、やがて畿内の覇者となった信長との間に勃発する「石山合戦」に強く影響を受けることになります。

軍師官兵衛』が触れなかった姫路時代の黒田家と英賀の関係

大河ドラマ軍師官兵衛』では主君・小寺政職を説き伏せて信長方となった官兵衛が、海上から攻め寄せる毛利氏の水軍を撃退したという天正5年(1577)5月の「英賀合戦」において、侍女のうち何人かが本願寺門徒であったため官兵衛の元を離れて英賀本徳寺に駆け込み、敗戦後再び黒田家を頼った末、侍女の1人「お道」が栗山善助の妻になるというストーリーが描かれました。

しかし、実際の黒田家と英賀の関係はもっと深いもので、『寛政重修諸家譜』によると官兵衛の姉妹に当たる黒田職隆の長女が英賀城主・三木氏の元に嫁いでおり、官兵衛が母里一族24人の戦死という犠牲を払いつつ辛勝したと『黒田家譜』が伝える永禄12年(1569)8月「青山合戦」では、三木氏も小寺方として援軍を送っています。

また、英賀本徳寺の後身である亀山本徳寺には、英賀城主・三木通明と見られる「三木宗太夫入道慶栄」が永禄9年(1566)5月に英賀本徳寺へ寄進したという梵鐘が伝えられていますが、この製作者である芥田五郎右衛門尉家久は姫路城近くの野里村に在住して播磨鋳物師を統括した人物で、永禄12年(1569)8月22日には小寺政職から弟の善五郎と共に青山面における戦功を賞する感状を与えられており、同じ小寺氏の被官として、黒田氏とも親しい関係にありました。

芥田五郎右衛門は個人的にも官兵衛と親しかったようで、後に福岡時代の官兵衛から五郎右衛門に宛てて、池田輝政が発展させた姫路城下町の繁栄ぶりを喜ぶ内容の書状が残されています。

姉妹の嫁ぎ先でもありかつて良好な関係を築いていた英賀を攻撃目標とする「英賀合戦」は、主家の小寺氏ともども生き残るため織田方に付いた結果とはいえ、官兵衛にとって辛い戦いだったのではないでしょうか。

ちなみに「ひめじ大河ドラマ館 かわら版」によると、亀山本徳寺では『軍師官兵衛』の英賀合戦に際して、毛利軍の大将・浦宗勝が英賀御堂に本陣を構えるシーンと、本願寺顕如をはじめ僧侶が念仏を唱えるシーンが撮影されたそうです。

その際、書写山圓教寺のお坊さんが僧侶役のエキストラとして参加したそうですが、旧仏教である天台宗は当時の新興宗教であった本願寺教団を目の敵にしていたため、『播州英城日記』には書写山の僧徒がたびたび英賀に攻め込んで死者が出る争いになったことが記されており、大永5年(1525)には僧徒によって強奪された鐘を英賀衆が山崎辺りで取り戻すという事件も起きています。

カンペを見ながら違う宗派のお経を読んだというお坊さん達は、ご存知だったでしょうか…。

英賀城跡を巡る

英賀城跡の遺構はほとんど残っておらず、十口の城門跡に石碑が建てられているものの、三木通武が築いたという「岩繋城」の姿は現状からはなかなか想像できません。ですが、実際に歩いてみることでその広さを実感することはできました。

山陽電鉄西飾磨駅前にある史跡地図。「付城公園」「清水公園」「矢倉公園」といった公園にも当時を偲ぶ地名が残っています。

付城は織田勢を警戒した三木氏が築いた出城もしくは、秀吉が英賀城攻略の際に築いた付城の跡と考えられます。

清水はおそらく秀吉による英賀城攻略の際に最前線となった「清水構」で、ここには宮部善祥坊が配置されていたと伝わっています。

現在の水尾川。英賀城は東に水尾川、西に夢前川が天然の堀を形成していました。

「城内に 眠り一村 水ぬるむ」

広辻口は英賀城の十口の一つで、水尾川に面した東側に当たります。

本丸跡に建つ石碑と復元図。上が南です。

英賀城は本丸と二ノ丸が随分と東に偏っていますが、この近くには「芝之口」や「駒芝口」があり、おそらく英賀へ入部した三木通武が最初に築き、英賀衆が実円と対面したという「芝之館」が二ノ丸もしくは本丸の原型だったと思われます。

「田井ヶ浜 おぼろがつゝむ 英賀城史」

三木通武が南側に港を引き入れたという田井ヶ浜の跡。落城後荒れ果てていたというこの地を清めた熊谷家が地蔵尊を祀り、英賀神社の辰巳の方角に当たるため「巽地蔵」と呼ばれるようになったそうです。

田井ヶ浜跡の碑文には「天正四年(一五七六) この地は毛利水軍五千人の上陸地」とありますが、この年次は『黒田家譜』による誤伝で、実際には天正5年(1577)5月のことです。

夢前川にかかる山陽電鉄の鉄橋。山陽電鉄の線路辺りが英賀城の南端になりますが、ちょうどこの辺りには英賀津の船溜まりがあったようです。

なお、現在の夢前川は昭和13年日本製鐵広畑製鐵所の建設に伴う付替工事のため、かつての流路から東に大きくずれています。

夢前川にかかる歌野橋より。夢前川の付替工事によって川底に埋まったという本徳寺跡地は、歌野橋上流約100mの河川敷中央辺りにあったそうです。この辺でしょうか?

歌野橋を渡って夢前川東の堤防を少し北上したところにある「英賀本徳寺(英賀御坊)跡」の案内板と、天正5年の英賀本徳寺建物配置復元図。かつてこの地には「御坊」という字名が残っていたそうです。

本徳寺跡にある英賀城跡区域復元図は、現在の地図の上に土塁や堀が重ねて描かれ、館跡や十口の位置も記入されていて分かりやすいです。

これを見ると、まさしく現在の夢前川の真ん中にかつての本徳寺があったことが分かります。

明蓮寺は永正14年(1527)に三木通規の家臣である神出左衛門の母・妙蓮尼によって建立され、秀吉による寺内町解体後も唯一この地に残った寺院です。ここには石山合戦期に顕如から英賀惣中に宛てた書状が伝えられていますが、それは次回に紹介します。

昭和3年に英賀青年会が建立したという石碑はかつて本徳寺跡にあったもので、夢前川の付替工事に伴って明蓮寺の境内に移設されました。

なお、周りには北条(北條)さん宅が多かったのですが、明蓮寺の斜め向かいには三木さん宅がありました。(三木氏の末裔の方でしょうか…?)

「英賀御坊ハ今ヲ去ル四百三十七年明應元年蓮如上人ノ開基ニシテ播州真宗發祥ノ霊地ナリ」 昭和3年当時はこのように伝承されていたようです。

英賀神社は英賀彦神、英賀姫神主祭神とし、播磨風土記にも英賀の地名はこの神名に因ることが記されているそうです。英賀城下に本徳寺以下35ヶ寺を数える中、唯一の古い由緒を持つ神社であったようです。

英賀神社には永禄10年(1567)に三木宗太夫慶栄が寄進した英賀本徳寺鬼瓦や、英賀落城の2年後に当たる天正10年に薬師入道道定が撰述したという『播州英城日記』が伝えられています。

奉納された玉垣には「付城」「矢倉東」「清水」「山崎」といった町名が多く見られましたが、あるいは英賀城の戦いに縁ある方々かもしれません。

英賀神社は絵馬堂もなかなか見応えがあります。

中には東塚嬉楽と門人らによる「算術自問答」なる奉納額も。算額というやつですね。ずいぶん新しく見えますが、復元されたものでしょうか。附城村の三木さん三名も名を連ねています。

英賀神社の本殿裏には英賀城の土塁跡が残されています。

英賀城跡公園には復元された石垣(?)があります。『播磨灘物語』の文学碑が英賀神社境内に建立され司馬遼太郎が訪れた際、地元で英賀城を見直そうという運動が盛り上がったそうですが、その際に整備されたものでしょうか。

「花万朶 三木十代の 城の址」

英賀城跡公園には十口の一つ、野中口の石碑も。復元図によると付近には「北野中館」があったようです。

十口の一つ、山科口の石碑。ここは北西の角に当たり、現在「矢倉公園」の敷地になっています。この辺りには英賀城の櫓が建っていたのでしょうか。

十口の一つ、岡芝口の石碑。

十口の一つ、河下口の石碑と、北側土塁の外に当たる沼沢地帯を濠としたという「大木之濠」の石碑。大きな交差点の歩道にあります。

「水田にビルが立ち野が枯てゆく」という歌が物哀しさを漂わせていますが、これより北の沼沢地帯は後に水田として利用されていたのでしょうか。復元図を見たところ、この石碑自体も建物の建設により移動されているようです。

英賀薬師(法寿寺)の跡。法寿寺は延宝9年(1681)に三木氏の後裔古今によって中興創建された寺院で、浄土宗知恩院幡念寺の末寺だったそうです。浄土真宗に帰依したはずの三木氏がなぜ浄土宗に?

英賀薬師跡には英賀城主・三木氏一族の墓所があります。延宝9年(1681)山崎山に亀山本徳寺西山御廟が建立されることになったため、同所にあった一族の墓所をこの地に移転したそうですが、当時の亀山本徳寺と三木氏の間で何かあったのでしょうか?

東本願寺派である船場本徳寺の視点による本徳寺の由緒記『船場本徳寺開基略記』をまとめたのが「三木通識」というのも気になります。三木一族も本願寺東西分裂の影響を受けたのでしょうか…? (疑問は尽きませんが、「石山合戦」での英賀城の動向と後の本徳寺分裂については次回に紹介します)

「俗名越智姓三木右馬頭通近」とある通り、こちらは初代三木氏となった通近の墓のようです。河野氏の本姓は越智のためそれに習っているのでしょう。

最後の城主となった三木通秋は秀吉による英賀落城時に船で脱出し、2年後に許されて英賀へ戻ったと伝えられていますが、河野に姓を改めて帰農した人もいるそうです。この方はその末裔でしょうか。

英賀薬師跡の北側には僅かながら土塁跡が残されています。

英賀薬師跡のすぐ傍には赤松義村が定めたという「播磨十水」の一つ、「大木之清水」の石碑と井戸の跡が残っています。この井戸は通称薬師の湯と呼ばれ、昔から「薬の井戸」として親しまれてきたそうです。

十口の一つ、井上口の石碑。復元図によると付近には七家の一つ井上家の館があったようです。

英賀薬師北側の土塁跡に沿って東西に小さな溝が残っており、水尾川まで延びていますが、地図を見たところどうやらこれも堀跡のようです。

参考

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

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ひょうごの城

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  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合印刷
  • 発売日: 2011/02
  • メディア: 単行本

播磨佐用郡の山城・利神城の歴史と伝説

利神城跡は佐用郡佐用平福にあり、標高373.3mの山頂に総石垣作りの威容を誇り「雲突城」とも呼ばれたという山城の遺跡です。

利神城を築いた佐用別所氏

一般に別所氏といえば、赤松政則を支えて東播磨八郡の守護代を任された三木城主・別所則治と、その後裔である別所長治の三木別所氏が知られていますが、別所氏の諸系図では河西郡別所村から三木郡に移った赤松季則の二男頼清を別所氏の始祖とし、赤松圓心の弟「別所五郎入道」圓光がその名跡を継いだとしており、圓光から則治までの系譜は諸説あって定かではありません。

佐用郡歴史研究会が『佐用の史跡と伝説』にまとめた「別所氏略系図」には、貞和5年(1349)に別所五郎左衛門敦範が佐用郡豊福を賜って豊福構および利神城を築城した後、持則、則康、祐則と続き、祐則の五男・小二郎則治が三木城主となって別所家を再興、祐則の二男・五郎蔵人光則が利神城主を継いだものの、子の小太郎治光とともに嘉吉の乱で伊勢にて討死、その子日向守治定が応仁元年(1467)に利神城を再興したとされており、これが佐用別所氏の流れになります。

また『佐用の史跡と伝説』には、日向守治定の後、日向守静治、太郎左衛門定道の代に至り、天正5年(1577)に秀吉による侵攻を受けた際、定道は人質を出して和を乞うたものの、病弱の定道に代わって城主となった日向守林治は秀吉に反抗したため、天正6年(1578)正月に上月城に入っていた山中鹿介幸盛に攻められ落城したと記されているそうです。

秀吉の佐用侵攻については長浜城歴史博物館が所蔵する下村文書に秀吉自身が詳細を綴った書状が残されており、その中で秀吉に敵対する3つの城として福原城、「七条と申す城」上月城、そして「別所中務と申者之城」利神城(あるいは麓にある居館の別所構)が挙げられ、別所中務が降伏を願い出てきたため人質を3人召し取った上で翌年2月まで城を預けたと記していますが、佐用別所氏のその後の動向は明らかではありません。

(秀吉による上月城落城の悲惨な戦いについては 上月城の戦い第一幕・秀吉の播磨侵攻 で記事にしています。)

通説では、天正8年(1580)には赤穂郡佐用郡を領した宇喜多秀家が家老の服部勘介を利神城主として両郡を支配させたものの、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で宇喜多氏が西軍に与して敗れたため、服部勘介も城を退去したとされていますが、『浮田家分限帳』に記された宇喜多氏家臣団の中には服部勘介に相当する人物が見当たらないようです。

利神城を改修した築城の名人・池田由之

関ヶ原合戦の後、佐用郡は姫路城主となった池田輝政の領するところとなり、輝政の甥である池田由之(小牧・長久手の戦いで父とともに討死した輝政の兄・之助の子)が利神城主となりました。

由之は慶長5年、遺構を打ち崩して石垣を積み上げた城郭を造り始め、慶長10年にこれを完成させます。三層の天守に二の丸、三の丸、鵜の丸、大阪丸といった曲輪に回廊を巡らせた壮大な城で、山上にそびえ立つその姿は「雲突城」とも呼ばれたと伝えられています。

佐用郡誌』には以下のようなエピソードが記されています。

池田出羽守利神城主となり大いに加修造營三重の天守を築き城山の西方に諸士の屋敷を設け、又口長谷構の別荘を美にし大いに奢る。 偶々輝政此地に來らんとせしに釜須坂を越えし時其城郭を遠望し其美なるに驚き異圖あるものとし入城せずして釜須坂より直ちに姫路に引返す。 而して慶長十年の頃天守の破壊を命じ、且慶長十二年出羽守を退去せしめ輝政弟池田河内守長政をして代らしむ。

由之が自身の居館を華美に装飾した上、三層天守という大城郭を建ててしまったため、これを見た輝政は由之が良からぬことを企んでいると考えて姫路に引き返し、天守の破却を命じた後、城主を交代させたというのです。

これらの話は安永8年(1779)に記された『播州佐用郡平福古城由来』という記録が元だそうで、このような伝説や通説の類が示す通り、現存する利神城の遺構は全て池田由之によって普請されたものと考えられてきました。(『日本城郭大系』でも同様の記述が見られます)

しかし、城郭談話会の精査によって1993年にまとめられた『播磨利神城』では、遺構の築城法から織豊期のものと推定されており、石垣の角石や角脇石の使われ方も天正年間の普請と見られるほか、城跡に残っている瓦片に天正11年以前の製造法によるものが多数含まれているそうで、池田氏以前に瓦葺きの建物が存在していたことは間違いないようです。

また『佐用郡誌』が記す「又口長谷構の別荘」=別所構の発掘調査によると、出土遺物の大半が15世紀後半から16世紀後半のものであり、由之が城主の頃に「美にし大いに奢る」様子を示す物は発見されませんでした。

由之が輝政の一家臣であることに不満を抱いていたという伝承も誤りで、池田家の記録によると由之の地位は高く、備前下津井城や伯耆米子城など領内の重要拠点の普請に携わっただけでなく、駿府城篠山城名古屋城の普請にも派遣されているそうで、なかなかの築城名人であったようです。

元和4年(1618)に江戸から米子へと帰る途中、大小姓の神戸平兵衛の逆恨みによって刺殺されるという不幸な最期を迎えましたが、3人の子は岡山藩鳥取藩、徳島藩で家老を務めています。(徳島藩については由之の正室・即心院が蜂須賀家政の娘であったため)

姫路から訪ねてきた輝政おじさんが遠く峠からこの城の威容を見て驚いて引き返したという伝説も、どこからつっこめば…という感じで面白いのですが、由之の名誉のために補足しておきます。

2010年3月に利神城跡へ登った時の回想

利神城跡は智頭急行平福駅の背後にあります。

以下の写真は、2010年3月に利神城跡を訪れた際に撮影したものです。

当時は登城口への案内看板があり、ここから石垣を確認することができました。

「利神城跡」の看板に誘われつつ、線路の脇から目の前の山に登っていきます…。

※「利神城跡は、城郭の一部が破損し、大変危険な状態になっていますので、登山はご遠慮ください。 佐用町」との立て看板がありましたが、遠慮しませんでした…とにかく状況を自分の目で確かめて、本当に危険そうならそこで引き返そうと…。

尾根沿いの登山道からは佐用川と旧宿場町・平福の町並みがよく見えます。川屋敷と土蔵群の景観は有名ですが、この当時はまだ前年の台風9号と洪水の被害を受けて、復興の最中でした。

かつてハイキングコースだったという名残りが、そこかしこに見られました。

木々の間を抜けきると、山頂の石垣が目の前に見えてきました!

平福の町並みも段々小さく…。

尾根を登り切ったところで、二重に積まれた石垣群がはっきりと見えてきました。

大手口となる三の丸からの眺め。頂上にある曲輪が三層天守があったという「天守丸」で、その一段下が天守丸の虎口がある「本丸」です。

五角形の天守丸と本丸の石垣が格好良い! たまりません…。

三の丸から二の丸にかけて、足元にはかなり大きな石が散乱しています。城郭の破損というのはこのような状態のことだったのでしょうか? しかし天候も問題なく、ここで引き返そうとは思いませんでした。

登ってきた三の丸方面を振り返ります。

天守丸の真下から。

利神城の石垣と眺望の雄大さは、人気の竹田城にも決して引けを取らないものだと感じました。

ここで、道の駅ひらふくで購入していた「佐用特産 じねんじょまんじゅう」を取り出します。

このロケーションで食べる、おまんじゅう…最高でした!!!

更に石垣を見て回ります。

木が切り倒された様子もありますし、整備には来られていたのでしょうか。

鵜の丸側の景色も素晴らしいです。この時から4年を経た今でも、思い出すと当時の感動が蘇ってきます。

本丸の様子。

登山道自体はそれほど険しいものではないので、地元では良いハイキングコースだったんでしょうね…。

まだまだじっくり堪能したいところでしたが、この後は上月城に向かう予定がありました。本数が少ない智頭急行に乗り遅れると大変なので、別れを惜しみつつ下山しました。

少しだけ佐用川沿いを歩いてみましたが、まだ洪水の痛々しい爪痕が残っていました。

佐用川から仰ぎ見る利神城。

2014年12月現在、山上の城跡がどのような状態なのかは分かりませんが、佐用町からは登城を遠慮するよう案内しているのは変わっていないようです。その後も台風や大雨がありましたし、更に石垣の崩壊が進んでいることと思います。

史跡の中でも特に高地にある山城の遺跡は、遺構の現状を維持するだけでも大変でしょう。まして訪問者の安全に配慮した整備が求められるとなれば、とても困難なのだろうと思います。

しかし、これほどの素晴らしい石垣がただ朽ちていくのはあまりに惜しいです。何とか保存の道を探っていただきたいものです。

参考

  • 朽木史郎、橘川真一編著『ひょうごの城紀行 上』(神戸新聞総合出版センター)

ひょうごの城紀行 (上) (のじぎく文庫)

ひょうごの城紀行 (上) (のじぎく文庫)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 1998/04
  • メディア: 単行本

  • 村田修三、服部英雄 監修『都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成15 近畿地方の中世城館 4兵庫・和歌山』(東洋書林

都道府県別日本の中世城館調査報告書集成 (15)

都道府県別日本の中世城館調査報告書集成 (15)

室津海駅館 特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』の感想

10月26日、たつの市御津町室津にあります、室津海駅館の特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』を観てきました。

もうそろそろ終盤に入ろうとする大河ドラマ軍師官兵衛』ですが、そこで描かれた官兵衛の播磨時代では、信長との関係(というか一方的な憧れ)ばかりが強調されて、小寺氏が擁立していた赤松宗家の存在は無かったことにされるわ、織田と毛利の間で揺れる播磨や備前の情勢を描く上で重要な役割となるはずの浦上宗景は名前すら出てこないわ、序盤の強敵として登場したはずの龍野赤松氏の赤松政秀も、ナレーションすらなくいつの間にか代替わりしている始末…。

渡邊大門先生の『戦国誕生』を読んで戦国時代の前期に興味を持って以来、赤松氏を入口として播磨戦国史を学んできた自分としては、せっかく播磨が大河ドラマの舞台となったというのに、あれでは織田と毛利の間で苦渋の選択を迫られた中小勢力の悲哀が全く視聴者に伝わらないし、何より福岡で大名として大成してからも播磨時代の地縁を大事にしたことは官兵衛の人柄を描く上で重要な要素だろうに、それが黒田家臣団の結束という形でしか描かれなかったことは実に勿体ないと感じます。

ドラマももうすぐ終わろうというこの時期に『播磨を生きた官兵衛』と題した展示が催されたのも、そういう消化不良な気持ちを汲み取ってのことかなと、勝手に想像した次第です。

前置きが長くなりましたが、今回の展示では官兵衛に限らず播磨の戦国時代の背景を知る史料と、室津と官兵衛の関わりとして今も残る「八朔のひな祭り」、黒田家の研究で知られる本山一城先生のコレクションなどが見られたほか、この日はその本山先生による「黒田官兵衛とたつの」と題した講演が開かれました。

会場内は撮影は禁止ですが、幸いなことに図録を購入できましたので、これを頼りに感想を書きます。

浦上村宗禁制札(備前市吉永美術館蔵)

永正十八年(1521)九月、播磨・備前・美作の国境にあるという天台宗の寺院、八塔寺に宛てて出された禁制です。

定 八塔寺

一、可被再興本堂造立仏像事

一、可被専勤行事

一、座方之輩不可背衆徒下知事

一、四方一里之内山留事

一、守護使不入事

右条々、任先規掟之旨、可有其沙汰、若於 違反之族者、 就交名注進、可被処罪科也、 仍所定如件

永正十八年九月 日

掃部助 (花押)

永正18年(1521)といえば、浦上村宗にとっては非常に重要な年になります。

村宗は先代赤松政則の夫人・洞松院の後見のもと宗家を継いだ赤松義村を主家としてきましたが、永正16年に自立を図ろうとした義村によって出仕を停止させられて以来、2年近くに渡って派遣された討伐軍を撃退し、永正17年11月にはすでに義村を出家させるとともに、義村嫡子の政村と義母の洞松院、義村正室の3人を室津に迎え入れており、守護としての実権をも掌握しようという状況にありました。

この永正18年に義村は再び挙兵するも一族の裏切りにより失敗、和睦という形で両者の対立は終結し、村宗は同年5月、細川高国の要請を受け、赤松宗家の置塩館で養育されていた前将軍・足利義澄の遺児亀王丸(後の義晴)を上洛させた後、室津の見性寺に幽閉していた義村を殺害したのです。

畿内では、将軍家を巡って義稙(義材)派と義澄派に分かれていた有力守護家同士の争いに加え、畿内随一の勢力を誇る細川家が政元亡き後の管領の座を巡り讃州家出身の澄元派と野州家出身の高国派に分裂、永正17年(1520)には澄元方の有力者であった三好之長が敗死、間もなく澄元も病死したことで弱体化していた澄元派に対して、京都を制圧した高国派の方でも、大永元年(1521)3月に将軍義稙が淡路へと出奔し、幕府は肝心の将軍を欠くという事態に陥っていました。

そんな状況の中、これまで澄元派であった赤松氏の実権を握った村宗が、義澄の遺児を将軍として擁立するという離れ業によって高国派に多大な貢献を果たし、これから飛躍しようという頃に出されたのが、この禁制というわけです。

この時期に村宗が八塔寺の辺りまで勢力を広げていたことが分かる史料で、内容的には仏事に専念することを奨励しているものですが、これまで定めてきた条々を引き継ぐもののようで、ここから60年以上も経た天正10年(1582)8月6日付にも、「仍所定如件」を「仍下知如件」に変えただけのほぼ同じ禁制が「八郎」(宇喜多秀家)の記名で出されています。

なおWikipediaによると、この4年前に当たる永正14年(1517)に置塩城主・赤松義村と三石城主・浦上村宗との間で八塔寺合戦が行われ、本堂・伽藍等が焼失したとのこと。八塔寺はかつて「西の高野山」と称された大きな寺院だったようですが、三ヶ国の国境に当たるため度々兵火に遭ったようです。

禁制に記された「可被再興本堂造立仏像事」の背景にはそういう経緯があったのですね。

浦上政宗感状(高橋秀知蔵)

こちらは天文9年(1540)と見られる、浦上村宗の子・政宗から家臣の高橋平左衛門に宛てて出された感状です。

去年於室構、日夜 粉骨無比類、殊於和泉 堺、被相届候条神妙也、 必恩賞可申沙汰候也、恐々謹言

四月十一日 政宗 (花押)

高橋平左衛門尉殿

享禄4年(1531)6月、摂津天王寺の戦いで赤松政村が細川六郎(澄元の子、後の晴元)を擁する堺方に寝返った「大物崩れ」の敗戦によって高国政権は一挙に崩壊、浦上村宗も乱戦の中で討死しましたが、同年10月には村宗の嫡子・虎満丸を叔父の国秀が後見する体制で立て直した浦上方が蜂起、今度は政村が敗退して明石城へと逃れる事態になり、播磨では天文5年(1536)頃に至るまで、再び赤松方と浦上方に分かれた内戦が続きました。

そのような状況で、すでに美作・備中・備前へと進出していた山陰の雄・尼子氏は、祖父経久から家督を継いだばかりの詮久が大軍を起こし、天文6年(1537)末頃から播磨への侵攻を開始しました。

浦上氏は政村と和睦して共に尼子氏に抗戦する道を選んだようで、政村の偏諱を受けた浦上政宗はまだ元服して間もない年頃と思われますが、天文8年(1539)に「室の構」で尼子勢を迎え撃つことになりました。

皮肉なことに、これまで浦上氏との対立で赤松宗家を支えてきた重臣の小寺則職や明石修理亮などはすでに尼子方に降伏しており、天文7年(1538)11月に赤松政村は本拠地の置塩城を捨て、淡路へと逃れる事態に陥っていました。

天文8年(1539)4月、政村は阿波守護・細川持隆の援助を受けて播磨へ帰国し、三木城の別所氏を頼ったものの、別所氏も尼子方に通じたと疑われたため、再び播磨を離れて堺へと逃れています。

現在の室津港から見た室山城跡

赤松晴政感状(中村文書)

浦上政宗は前述の高橋平左衛門尉に宛てたものと同じ日付で、ほぼ同じ内容の感状を中村三郎左衛門に宛てて出しているのですが、足利義晴偏諱を授かって名を改めた赤松晴政からも、その3日前に当たる四月八日に感状が出されています。

これは今回の展示品ではないのですが、2004年に開催された特別展『室山の城 -語りつがれた謎の歴史-』の図録に掲載されているものです。

去年室要害、浦上 与四郎相践之処、無別儀 楯籠、殊今度、至和泉堺、 馳来之条神妙候、弥忠義 肝要候、必可褒美、恐々謹言

四月八日 晴政 (花押)

中村三郎左衛門殿

室津での戦いの詳細は分かりませんが、ここでも「室要害」において浦上与四郎(政宗)と共に戦ったことが記されており、政宗は赤松方として室津で防戦したものの敵わず、政村と共に堺へと落ち延びていたと察せられます。(政宗は踏みとどまって戦ったとする説もあって、よく分かりませんが…。)

晴政の播磨帰国が叶ったのはそれから1年以上を経た天文10年(1541)3月のことですが、それも自力ではなく、尼子氏が天文9年9月から天文10年1月にかけて行った安芸侵攻で、大内方の毛利氏が篭もる郡山城の攻略に失敗するという結果を受けてのことでした。

なお、後の天文21年(1552)以降、備前・美作を含む八ヶ国の守護職に補任された尼子晴久が再び侵攻した際、浦上政宗は尼子方に付きますが、政宗の弟・宗景は兄と袂を分かって毛利氏の支援のもと反尼子の戦いを繰り広げ、一方で将軍義晴によって備前・美作守護職を奪われた赤松晴政は、晴元政権を打倒して畿内の覇者となっていた三好長慶を頼ることになります。

岡山県立博物館企画展『岡山の城と戦国武将』の感想(前編)をご参照ください。)

播磨国古城所在図(姫路市立城内図書館蔵)

近世に描かれたと思われる地図で、この図録の表紙にもなっている史料です。

東は三木郡・明石郡から西は佐用郡赤穂郡までの播磨国内の各城と街道が描かれており、時代にばらつきがありますが、城には城主の来歴なども記されています。

室津には多くの舟らしき絵とともに町並みや城らしき建物が描かれ「置塩二代将 赤松兵部少輔政村住」と記されています。

御着城らしき城に「小寺相模守頼秀住 天河元祖」、妻鹿城に「小寺藤兵衛尉政職住」と記されているなど、興味深い箇所もあります。(後者については、芥田文書には天文17年に小寺則職が別所家臣の妻鹿氏を討った記録があるそうで、その時のことでしょうか?)

また、宍粟郡安志には「別所安治住」と記されていて、別所氏が足利義昭を擁する信長の上洛に伴い幕府方となった永禄11年から元亀年間にかけてのことと思われますが、別所氏の勢力が相当西まで食い込んで来ていることが察せられます。

個人的には「後尼子助四郎勝久」と記された赤穂郡「尼子山高野山城」も気になるところです。尼子山といえば尼子将監のものと伝えられる墓なども現存していて、尼子氏による播磨侵攻の数少ない痕跡には興味が湧きます。

なお、前回紹介した感状山城には「初赤松則祐住」とだけ記されており、やはり戦国時代の動向は伝わっていないようです。

村田出羽伝(村田家文書)

井口(いのくち)兵助こと村田出羽守吉次の外曾孫、吉田定俊の著作で、講談本「夢幻物語」の原本だそうで、有名な広峯神社に関わる黒田家の目薬伝説が記された内容とのこと。

村田出羽は「黒田二十四騎」に数えられ、朝鮮における虎退治で名高い菅六之助正利と並んで朱具足の着用を許された勇将とのことです。

(以下、本山一城先生の講演配布資料による)

井口氏は古くから赤松氏に仕え、印南郡井口城主となった井口家全は嘉吉の乱で戦死、揖西郡栄城に移った家繁は天文3年(1534)に浦上方と戦った朝日山合戦で戦死しています。

黒田家とは天文年間に栄にいた頃から関係を持っていたようで、黒田重隆の三男(官兵衛の叔父)で井手氏を継いだ勘右衛門友氏は、天文7年(1538)に井口家で生まれたとのこと。(青山合戦で討死)

吉次と共に官兵衛に仕えた三人の兄は皆討死しており、吉次は筑前入国後に官兵衛の命で鍋島直茂重臣の村田姓を名乗ったそうです。

なお「夢幻物語」は黒田家の目薬伝説がフィクションであると示す時によく名前を挙げられますが、本山一城先生曰く、実は読みやすく翻刻された本が存在しないそうで、今その作業を行っているとのことでした。直接子孫の方を訪ね回っておられることといい、フィクションだからと読みもせずに切り捨てるのではなく、そこから丹念に玉を探し出そうとする本山先生の姿勢には敬服しました。

本山一城先生の講演「黒田官兵衛とたつの」より、青山合戦のこと

官兵衛と黒田家を中心とした本山先生の講演も面白かったです。

多伎に渡る内容で詳細はあまり覚えていないのですが、永禄12年(1569)の青山合戦がスケールの大きい戦いであったことを強く仰っていたのが特に印象に残っています。

おそらく前述の別所安治が播磨北西部にかけて広く勢力を拡大したのもこの時のことで、別所氏は織田軍とともに幕府方の先陣として龍野の赤松政秀と連携し、これに対して置塩城の赤松義祐を擁する小寺・黒田氏が抗戦したのが8月の青山合戦で、母里一族24名が戦死という大きな犠牲を払いつつ何とか撃退したとされています。

しかし、戦いはこれで終わったわけではなく、更に翌9月には備前浦上宗景が置塩方に加勢して室津を攻撃、10月に織田軍が室津を奪取、11月に赤松政秀が再び青山へと進軍した隙を突いて浦上宗景龍野城を攻撃して政秀を降伏させ、12月には織田軍を撤退させたとのこと。

元亀元年には海路加古郡から上陸した浦上宗景は、別所氏の三木城にまで進出して城下を焼いており、一連の戦いで浦上宗景の果たした役割は非常に大きかったようです。英賀城の三木氏も小寺の与党ですし、室津を確保したことで制海権を掌握できたのが大きかったのでしょう。

青山合戦のことは、当時幕府方であった織田と毛利の間で使僧を務めた朝山日乗の書状にも書かれているそうです。(日乗は青山合戦の際に軍監を務めており、敗戦により失脚したとのこと)

室津の史跡

室山城跡は現在、その一部が「室津二ノ丸公園」として整備されています。

二ノ丸に当たる場所は平成9年から14年にかけて5回の発掘調査が行われ、5つに分かれた曲輪から備前焼の鉢、白磁青磁などの貿易磁器、更に安土桃山時代と思われる瀬戸・美濃焼の椀や皿に加えて、江戸時代初期の唐津焼も出土しているそうです。

なお、17世紀中頃からは遺物の見られない空白期を経て、「室津千軒」と称された18世紀中頃の繁栄期後再び生活道具が現れているため、廃城の時期は17世紀初頭から中頃と考えられるそうです。

発掘調査で見つかった土塁や竪堀の跡も、今は何も残っていません。

室津の観光案内板。室津城跡からも程近い中央部には、赤松義村が最期を迎えたと伝わる見性寺も見えます。

現在の見性寺。

解説板には戦国時代のことは何も触れられていませんでしたが…。

現在でも浦上氏の子孫の方が関わりを持っているようです。

治承4年(1180)3月、厳島参詣の途中に室津で一泊した平清盛が旅の安全を祈願したという、賀茂神社

文政9年(1826)にはシーボルトも立ち寄ったとか。

大きな社殿は江戸時代の繁栄ぶりを彷彿とさせてくれます。

賀茂神社には狩野元信の「神馬図額」2面も伝わっていたそうですが、現在は東京国立博物館に保管されているとのこと。

狩野元信といえば、甲冑姿の細川澄元像や道服姿の細川高国像が有名ですね。(自分の中では!)

室津海駅館特別展「播磨を生きた官兵衛~乱世の中の室津~」は11月24日まで開催中です!

なお、11月16日には展示説明会も行われるようです。

参考

  • 室津海駅館 特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』図録(たつの市教育委員会

  • 室津海駅館 特別展『室山の城 -語りつがれた謎の歴史-』図録(御津町教育委員会

  • 播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)

    • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
    • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

赤松氏ゆかりの山城・感状山城

感状山城跡は相生市矢野町瓜生および森にまたがる感状山の尾根にあり、多段に渡る石垣造りの曲輪が特徴的な中世山城の遺跡です。

謎に包まれた感状山城の歴史

近世に成立した地誌『播磨鑑』には、建武3年(1336)、赤松円心が赤松氏の本拠地である白旗城に籠もって新田義貞率いる追討軍を50日以上に渡り足止めした際、円心の三男・則祐が出城として築いたのがこの城で、ここで勇戦した戦功によって足利尊氏から感状を授かったことから「感状山城」と呼ばれたという伝承が記されています。

『ひょうごの城』の感状山城の項(橘川真一氏)によると、『播備作城記』には「岡豊前守居城也元亀年中落城也」とあり、地元の史料『岡城記』には嘉吉元年(1441)に「感状山城等の城郭悉く没落す」、文正元年(1466)に「竹内祐太夫義昌 当時守護代なり」とあるそうです。

そして、地域の支配者は赤松氏→浦上氏→龍野赤松氏→浦上氏→宇喜多氏と変わっていますが、地元の豪族であった岡氏が引き続き矢野庄を領有していたと推測されています。

また、『日本城郭大系12巻』(昭和56年)では天正5年に秀吉の上月城攻めに際して落城したと推測され、兵庫県教育委員会兵庫県の中世城館・荘園遺跡』(昭和57年)でも赤松則房の代に至って天正5年、秀吉の攻略に遭って落城したと書かれおり、地元でもその時のこととする落城伝説が伝えられているようです。

しかし、同時代の史料やその他の文献に感状山城の名は現れておらず、実際の築城、廃城の時期や城主の名前など具体的なことは分かっていません。

昭和60年から63年にかけて実施された発掘調査では3つの曲輪と大手門跡が発見されたほか、15世紀から16世紀と見られる備前焼の大鼇、中国産の白磁青磁、青花磁器などの破片が数多く出土しました。

兵庫県立考古博物館の岡田章一氏によると、その中には備前焼の耳付小壺や筒型容器など茶器として利用されたと思われるものや高級品の貿易陶磁など、播磨の中世遺跡では御着城や姫路の城下町でしか出土例のない物が含まれていることから、城主は唐物趣味の茶の湯を嗜んだ有力者で、西播磨地域に勢力を拡げた龍野赤松氏、あるいは備前を本拠として瀬戸内航路の要衝である室津に拠点を築いていた浦上氏が考えられるそうです。

感状山城跡を歩く…登山道から物見台まで

感状山への登山道の入口は 羅漢の里 という自然体験施設の中にあります。

自動車の場合は施設の駐車場が2ヶ所あるので、どちらかに停めると良いです。(無料でした)

石造りのモニュメントと、現代の刀工「桔梗隼光」(ききょうはやみつ)鍛刀場の水車小屋が目印になります。

この側を通って奥の方へと進みます。

ここは古くから十六羅漢の石仏が有名で、かつては「羅漢渓」と呼ばれた名勝だったようです。

入口付近には、大正時代に建てられた石碑や歌碑が散見されました。

それら石碑の中に「感状山光専寺貫主 赤松性真」と記された物がありました。「性○」は赤松家の戒名なので気になりますね…。(政則=性雲、義村=性因、晴政=性煕)

物見台まで続く登山道は結構歩きやすく整備されています。

ここでは相生市教育委員会発行の小冊子を忘れずにゲット。

途中から少しずつ岩が増えてきますが、運動靴さえ履いていれば、軽装でも問題ないレベルです。

登山道からの眺め。朝8時頃ですが、霧が出ていてとても綺麗でした。

物見台に近付くとともに段々と山城感が出てきて、テンション上がります!

しかし、肝心の物見台はあまり展望はよくありませんでした…。

感状山城跡を歩く…Ⅲ曲輪群から大手門跡周辺へ

倉庫跡を経て、Ⅲ曲輪(近世城郭で言う三の丸)辺りはかなり広くなっています。

大手門跡方面にはこの辺から下りられます。

六段の石段で構成され、鶴翼状に配列された総石垣づくりの大手門とのことですが、かなり崩壊が進んでいます。

石積み技術の未熟さによるものか、あるいは廃城の際に中途半端に破壊したまま放置されたのでしょうか。

大手門の登り口を上から見るとこんな感じで、登山道と比べると荒れてます。

ここから下りてみたい気持ちもありましたが、地図を見ると結構離れた場所に出るようで時間の都合もあり諦めました。

大手門のすぐ内側には井戸があって、今でも水が湧き出ているようでした。(真夏でも涸れることがないそうです)

感状山城跡を歩く…Ⅲ曲輪群から腰曲輪群、北曲輪群を経てⅠ曲輪へ

建物の遺構も見つかったというⅢ曲輪群は複雑な段差を持つ構造だったようで、側面を見ると広範囲に渡って石垣が残っています。

こんな細い道が続いていたので、つい奥まで見に行ってしまいましたが…このルートはちょっと失敗でした。

一番の見どころの南曲輪群を避けて、裏から攻める形になってしまったので…。

腰曲輪群には、少しだけ石垣が残っていました。

北曲輪群はよく分かりませんでした…。

あっさりと、山頂のⅠ曲輪まで到達してしまいました。

感状山城跡を歩く…Ⅰ曲輪から南北Ⅱ曲輪群を経て圧巻の南曲輪群へ

城山の北端に当たるⅠ曲輪には建物の礎石が残っていて、敷地いっぱいに御殿が建てられていたと推定されているとのこと。

この写真から見ると、確かにもうギリギリのような…。

北Ⅱ曲輪との間から見たⅠ曲輪の側面。見ての通り山頂付近まで岩が結構ごろごろしている山なので、未熟ながら結構早くから自然石に石積みを組み合わせた城だったように思えます。

Ⅰ曲輪から北Ⅱ曲輪へ。

南北Ⅱ曲輪の西側面には広範囲に渡って石垣が残っており、「犬走り」と呼ばれる帯曲輪が配置されていたようです。

しかし、時間の経過もあるかもしれませんが、結構スカスカな状態です。そのうち大雨で自然崩壊してしまいそうで、ちょっと心配してしまいます。

南Ⅱ曲輪でも大規模な建築と見られる礎石群が発見されているそうで、Ⅰ曲輪の本丸御殿に対して、常の御殿(日常生活の場所)であった可能性があるとのこと。

これも何かの跡でしょうか。

正直なところ、大規模な遺跡とはいえ現状はいまいち迫力に欠けると思っていたら…ここから先の南曲輪群は、素晴らしかったです。

ここは眺望も良いです。

この二段目の腰曲輪の石垣は全長21m、高さ4.5mで、感状山城の中では最大の物だそうです。

ゆるい曲線状で粗さが残る石積みではありますが、尾根を利用して六段に渡り削平された曲輪群は、非常に見応えがあります。

下から登ってきたところでこの曲輪群に出会っていたら、もっと興奮しただろうなと、少し後悔しました。

ちょっと離れたところから、側面も眺めてみたいですね。

初めて訪れる方にはぜひ、まずはⅢ曲輪群からこの南曲輪群を経て、山頂へと向かうルートをおすすめします。

ここが南曲輪群に向かって登ってくるメインルート。

下から見るとこんな感じ。崩落があったのか、ロープが張ってありました。

土の城から石垣の城へと発展したように言われることがありますが、この感状山城跡を見て、そう単純なものではないと感じました。石積み技術の発達具合に関わらず、石があればそれを活用しようとするのは自然なことでしょう。

感状山城と光専寺と赤松氏

「羅漢渓」入口の石碑に記された「感状山光専寺貫主 赤松性真」が気になったので調べてみました。

光専寺は感状山城の大手門側に現存する真宗本願寺派の寺院で、相生市矢野町の公式Webサイトに以下のような記述がありました。

本尊 阿弥陀仏。開基は赤松義村の孫小林義光、その頃蓮如上人の御代で六字名号を拝領、その後第六代教誓に至り実如上人より寺号・木仏を賜わる。経堂 天保12年建立。鐘楼 宝暦10年。昭和17年、福田眉仙画伯が襖絵を描いたことから、別名、眉仙寺という。

赤松宗家以外の人物で将軍家由来の「義」を名乗っているというのは不可解ですし、義村の孫の世代であれば蓮如(明応8年没)のはずはないと思いますが…。

亀山本徳寺から発行されている『播州真宗年表 (第2版)』を確認したところ、以下のような記述がありました。

1509 正西、赤穂郡矢野森村に光専寺を開基す『播磨国末寺帳』

1509年(永正6年)といえば義村はまだ元服したばかりで、洞松院尼が後見していた頃です。

ちょうどこの年に英賀城主・三木通規が実如上人の御連枝の下向を願い出ていることからも察せられますが、すでに英賀では在地の長衆(富裕な商人などの有力者)や寺の坊主によって門徒集団が組織されていたようです。

播磨国内では公的には守護赤松氏が先代政則以来、真宗の布教を禁じていましたが、永正9年(1512)に実如の第四子・実円が下向するとともに三木氏一族が一向宗に帰依、翌年には実如上人から赤松義村へ名馬が寄贈されたことで真宗禁制が解かれ、布教の一大拠点となる本徳寺「英賀御堂」の建立に繋がりました。

義村は後に浦上村宗によって弑逆されますが、その村宗も義村の子・政村(晴政)によって討たれ、息つく暇もなく浦上国秀の後見を受けた浦上政宗が蜂起して赤松氏と再び争い、更に但馬の山名氏、そして山陰の雄・尼子氏による侵攻を受けました。

その間の感状山城の動向は明らかではありませんが、後に光専寺が再興されるに当たり、赤松氏ゆかりとされる感状山の麓で、本願寺との関係改善を果たした赤松義村との繋がりを強調する縁起を後世に伝えようとしたものかもしれません。

感状山城の落城伝説

時期は明らかではありませんが、地元では落城時に井戸の中へと身を投じた姫の伝説が残されているようです。

(1)感状山城が落城した日、城には何人かの姫がいました。

 押し寄せる大軍に逃げ迷った姫の1人は、人手にかかって恥をさらすよりはと、日頃、可愛がっていた金色の羽を持つ鶏を抱いて、城内にあった井戸に身を投じました。

 それ以来、毎年、元旦がくると、その井戸の中から鶏の鳴く声がきこえるといいます。

(2)もう1人の姫は、城を逃れて、城下の藤堂(とうどう)村にたどりつきました。藤堂村の人々は、姫を大事にかくまい、その後も大切にもてなしました。姫は死ぬ直前に、「お世話になったお礼に、この村では、美人ばかりが生まれるようにお祈りします」と言ったそうです。

 それ以来、藤堂村では、代々、美人が生れるといいます。

(3)感状山城には、非常に備えて、ぬけ穴を作っていました。それは、森の光専寺(こうせんじ)の北山手から流れる水を通す大溝(みぞ)が、寺屋敷の地底を抜け、鐘楼(しょうろう)の横手を通って、南側の溝と合流するというものでした。

 感状山城が落城した日、ぬけ穴をたどって逃れようとした1人の武士がいました。しかし、思うようにぬけ出られず、死んでしまったのです。

 その後、武士の亡霊(ぼうれい)がこの溝に出て、毎夜、通行人に墨つけをするというのです。

相生市の伝説(03)-感状山城と落城悲話 より

ここにも光専寺が登場していますが、城からの抜け穴が通っていたということは、それだけ親しい関係だったのでしょうか。

瓜生の八柱神社

「羅漢の里」の手前には八柱神社がありますが、ここがなかなか素敵な神社だったので、写真を掲載しておきます。

奉納絵馬がずらり。

中でも、明治42年に奉納されたという赤穂四十七義士の数々は壮観です。

天保十三年(1842)…古いですね、これは。意外と色が残っています。

郷土の歴史が刻まれた、絵馬たち。

境内に向かって右手には「バクの道」と呼ばれる感状山への登山道があるようで、再訪の機会があればこちらから登るか、あるいは光専寺から大手側を登ってみたいです。

追記:感状山城と光専寺の縁起について推測

『播磨鑑』を再度確認したところ、光専寺については項がありませんでしたが、感状山城の項では「城主ハ赤松彌太郎義村 字道松丸後號政村 父ハ刑部介政資」「又赤松義村居住ス(後改政村)初メ竹内助太夫義昌ノ養子タリ 後政則ノ養子トナル 政則コレヲ婿トシ置鹽山ニヲク 後義村鞍掛ヘ移ル」と記されていました。

道松丸は道祖松丸の誤記として、どうも地元では感状山城の城主が義村であったと伝わっているようで、光専寺の縁起にはその辺りの事情が関わっていると思います。

神戸新聞文化部編『杜を訪ねて ひょうごの神社とお寺[下]』の光専寺の項によると、現住職の赤松誠真さんが語られた寺の縁起には、赤松円心が創建したという円応寺が前身で、正和年間に矢野庄が東寺領となったため真言宗に転じ、その後赤松義村の孫・小林義光(のちに釈正西)が実如上人の感化を受けて真宗に転じ、六代教誓に至って寺谷から現在地へ移転したとあるそうです。

また住職は、寺谷以前の経緯は全く不明だそうですが、付近には「改宗」という地名があって住民のほとんどが門徒なので、真宗に転じた頃の光専寺はそこにあったのではと推察されています。

亀山本徳寺播州真宗年表 (第2版)』の記述「1509 正西、赤穂郡矢野森村に光専寺を開基す」を合わせて考えると、実如上人の感化を受けた正西=小林義光が1509年に開基あるいは真宗へと転派した後、六代の教誓に至って、長らく廃城となっていた感状山城跡の麓へ寺院を移転する際、山号を「感状山」と改めるとともに、赤松円心ゆかりの円応寺との繋がりと、城主として地元に伝えられていた「赤松義村」の末裔を称したのではないでしょうか。

地元の史料『岡城記』が伝える、嘉吉の乱後の文正元年(1466)に守護代となったという竹内義昌に、赤松七条家出身で道祖松丸(赤松宗家の幼名)と名付けられていた義村が養子入りしたという話は色々とおかしいのですが、近世に至ってから光専寺がこの地元の伝承を元に正西=小林義光は「赤松義村」の孫であったと称したとすると、大幅な年代の差異も辻褄が合ってしまうことになります。

おそらくその頃には地元でも、赤松氏と感状山城の関係について確かなことは分かっていなかったのでしょう。今後の感状山城跡の調査研究に要注目です。

参考

  • 神戸新聞文化部編『杜を訪ねて ひょうごの神社とお寺 [下]』

杜を訪ねて―ひょうごの神社とお寺〈下〉 (のじぎく文庫)

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 1990/12
  • メディア: 単行本

  • 朽木史郎、橘川真一編著『ひょうごの城紀行 上』(神戸新聞総合出版センター)

ひょうごの城紀行 (上) (のじぎく文庫)

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 1998/04
  • メディア: 単行本

  • 村田修三、服部英雄 監修『都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成15 近畿地方の中世城館 4兵庫・和歌山』(東洋書林

都道府県別日本の中世城館調査報告書集成 (15)

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大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)・続

大河ドラマ軍師官兵衛』に便乗して、官兵衛が生まれ育った播磨の戦国期についてあらすじをまとめてみる記事の続きです。

前回の記事 では、赤松家を再興し播磨・備前・美作三ヶ国を回復した赤松政則と、それを支えた浦上則宗、小寺則職、赤松政秀、別所則治ら重臣達のことを書きました。

今回は赤松政則の後を継いだ義村と、義村を後見した洞松院尼、義村を弑逆した浦上村宗の時代について、まとめてみました。

赤松政則の死後、未亡人の洞松院尼が幼い義村を後見

赤松政則と浦上則宗の死後、何度か訪れた危機をその人脈により救ったのが、政則夫人の洞松院尼(めし様)です。

父である細川勝元の死後、尼となって龍安寺でその菩提を弔っていた洞松院は、明応3年(1493)に齢三十にして赤松政則の元に嫁ぎました。

洞松院が堺で陣中にあった政則の元に輿入れした際、誰かがこのような落首を貼ったそうです。

天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな

相手は年増な上に、それほどまでの評判の醜女でした。

すでに猶子として七条家から迎えられた道祖松丸(義村)と、亡き先妻との間に生まれていた長女・松の縁組が済んでいた赤松氏にとって、幕府の中枢を握る細川京兆家との紐帯を強めるためだけの、完全な政略結婚だったと思います。

しかし、政則の死後、東西取合の争乱で家中が分裂し、有力な指導者であった浦上則宗も死去、弱体化していた赤松氏を統制する上で、洞松院は重要な役割を果たします。

洞松院は当主義村の後見役として守護の権限を行使し、自ら印判状を発給するとともに、細川京兆家との繋がりを利用して幕府との関係強化に力を尽くしました。

その執政は、文亀2年(1502)の浦上則宗の死後から永正14年(1517)頃まで続きますが、その間に畿内では後々まで続く「両細川の乱」が激化していきます。

細川政元の跡目を巡って「両細川の乱」が始まり、細川高国は義材派と結ぶ

畿内を舞台に約40年間に渡って繰り広げられた「両細川の乱」の始まりは、将軍・足利義尚の跡目争いまで遡ります。

延徳2年(1490)、足利義視の子である義材が義尚の跡を継いで将軍となったものの、かねてから義材と不仲であった細川政元は明応2年(1493)、義材が片腕と頼む管領畠山政長を討伐し、日野富子政所執事・伊勢氏らと共に足利政知堀越公方)の子・義澄を新たな将軍として擁立しました。

この「明応の政変」によって応仁・文明の乱以来の勢力図は一変、京都を追われた義材の誘いに応じる勢力もあり、義材派と義澄派に分かれた争いが始まります。

京兆家の権力強化に努めるとともに、管領として幕府を主導した細川政元でしたが、修験道に没頭したため妻帯しなかったことから、前関白・九条政基の子である澄之と、前阿波守護・細川成之の孫である澄元という2人の養子を迎えることになり、細川家では澄之派と澄元派に分かれた跡目争いが激化、永正4年(1507)、澄之方の香西元長によって政元が暗殺されるに至りました。(永正の錯乱)

しかし、家督を継いだ澄之も細川家庶流(野州家)の高国を中心に結束した反澄之派による反撃を受け、わずか三十余日で没落、今度は澄之に代わって家督を継いだ澄元とその家臣・三好之長ら阿波勢の抬頭に反発した高国が京都を脱出し、丹波や摂津の国人を味方につけただけでなく、諸国を流浪した末に大内氏の元で庇護されていた前将軍・足利義尹(義材改め)をも抱き込みました。

そして永正5年(1508)4月、義尹を擁し大軍を率いて上洛した大内勢を前に、将軍・義澄と澄元らはなす術なく近江に逃亡、義尹は再び将軍に就任し、高国を管領大内義興を山城守護とする連合政権が成立しました。

赤松家は澄元方に付いて将軍義澄の遺児を庇護、澄元方の敗北による危機を洞松院尼が救う

赤松氏は大内氏の上洛に際して義尹に供奉することを伝えており、当初は高国方に付いていたようですが、永正8年(1511)に澄元、三好之長らが摂津と淡路の軍勢を加えて再び京都へ迫ると、澄元の要請に応じて播磨から2万の大軍を率いて加勢しました。

高国を丹波へと追いやって京都を制圧した澄元方ですが、その優勢も束の間、近江で義澄が病没したこともあってか、澄元方は船岡山合戦で大敗したため、赤松氏も幕府から咎めを受けることになります。

洞松院尼はこの窮地を脱するために尽力し、自ら高国と面会して将軍・義稙(義尹改め)との和睦に成功しました。

その一方で、赤松家では近江から逃れてきた足利義澄の二人の遺児(後の義晴と義維)を庇護しており、そのうちの弟が澄元方によって阿波へ連れ去られるという事件も起きています。

播磨は阿波や淡路の澄元勢が上洛する際、背後に当たることもあり、どちらに転んでもいいよう対処したのかもしれません。

なお、黒田氏を近江佐々木源氏の出自とする『黒田家譜』では、官兵衛の曽祖父にあたる黒田高政が義稙に従って船岡山合戦に参陣したものの、軍令に背いて勘気を被り、後に子の重隆を連れて備前福岡へと移住したとしています。

赤松義村は抬頭する浦上村宗の排除に失敗して没落

今川義元の死後、孫の氏真を後見して今川家を支えた寿桂尼と並んで「女戦国大名」とも呼ばれる洞松院尼ですが、寿桂尼と大きく違うのは、義村との間には血の繋がりがなかったことです。

そのことが影響したのかどうか、洞松院による執政は本来、義村が幼い間の緊急的な体制だったはずですが、義村が成人した後もなかなか実権を委譲しなかったようです。

また、義村が家中で抬頭する浦上村宗の排除に失敗した際には、洞松院尼は松の方とともに義村を見限って、嫡子・才松丸(後の政村/晴政)を連れて村宗の拠点である室津に赴いています。

永正17年(1520)から18年にかけての義村と村宗の対立では、御着城主・小寺則職、浦上一族の浦上村国、村宗の弟で備前守護代・浦上宗久などが義村方に付きましたが、村宗はこれを破って赤松氏の実権を掌握するとともに、備前支配の一元化に成功し、幕府からも一目置かれる存在となりました。

なお、この時村宗方として最も活躍したのが宇喜多能家で、ドラマにも登場する直家の祖父に当たります。(小寺則職は一連の戦いで敗死しており、小寺政職にとって宇喜多氏は曽祖父の仇になります。)

一方の義村は、切り札であった足利義澄の遺児・亀王丸(後の義晴)を、高国政権(仲違いにより将軍義稙に逃亡されていた)への手土産として奪われた挙句、ついに村宗の手兵によって謀殺されてしまいました。

長く表舞台に出ることが叶わず、冷泉為広に師事し置塩館で和歌三昧の生活を送っていたという義村にとって、自分と同様に幼くして浦上宗家を継ぎ、自分よりも年下でありながら、対立した弟を討滅してまで権力を求めた村宗の力強い姿は、羨望の対象でもあったのではないでしょうか。

東西和睦して山名氏の侵攻を撃退し、政村を擁する村宗は播磨の代表者に

義村の死後、淡路へと亡命していた義村方の小寺村職や浦上村国は、大永2年(1522)9月に再び播磨へと戻って挙兵、村宗派と反村宗派に分かれた争いが始まります。

村宗は反村宗派の三木城主・別所村治を攻めるも撃退され、小寺村職と別所村治は連合して再び書写山で村宗を破ったものの、浦上村国と赤松村景が但馬の山名誠豊を招き入れたことから、結局村宗は小寺氏らと和解することになります。

(村宗への対抗のために反村宗派が山名氏の力を借りようとしたものの、思惑通りいかなくなったということでしょうか…)

大永3年(1523)10月、書写山の交戦で山名氏の軍勢を撃退した村宗は、同年6月には守護並の家格にしか許されない白傘袋・毛氈鞍覆の使用を幕府から許可されており、高国政権の元で名実ともに播磨の代表者として認められることになりました。

なお、かつて最強の兵力を誇った大内義興は、尼子氏による領国への侵攻を受けて永正15年(1518)8月に帰国していたため、高国にとって村宗は最も頼りになる存在となりました。

丹波勢が高国方から離反、阿波勢による堺幕府が成立

一方、中央では大永6年(1526)に細川尹賢(高国の弟)が、尼崎城の改築に伴う人足同士のいざこざから、高国方の有力被官であった香西元盛を讒言により謀殺させたことで、元盛の兄弟、波多野稙通柳本賢治丹波勢が、高国政権と対立する阿波勢と示し合わせて謀反を起こします。

丹波守護代・内藤国貞までもが離反したことで幕府軍は敗走し、三好勝長・政長らの阿波勢も堺から上陸、翌大永7年(1527)には柳本賢治率いる丹波勢によって摂津の高国方は大半が降伏、桂川の決戦でも幕府軍は阿波・丹波連合軍に敗れ、高国は将軍義晴と共に近江へと逃れました。

義晴は大永6年(1526)11月に赤松政村と赤松氏被官人、浦上村宗に対して出陣を促しましたが、応じなかったようで、その後も村宗に対して政村を説得するよう御内書を送るとともに、龍野赤松氏の村秀に対しては村宗と相談するよう促しています。

また一方で、別所村治、小寺村職らに対しても早々に和睦を結んで忠節を尽くすよう促しており、山名軍の撃退後は再び東西で対立していたようです。

なお、阿波勢は三好之長の後継者・元長と三好一族の政長らを中心に、細川澄元の遺児・六郎(晴元)と、かつて赤松氏の元から連れ去った現将軍義晴の弟・義維を擁立して堺に上陸、義稙に伴って淡路に逃れていた奉行人とともに新たな政権を立てています。(いわゆる堺幕府)

高国方の反撃と村宗の上洛開始

京都・摂津・河内・和泉はほぼ晴元方が掌握したものの、近江へと逃亡した高国は諦めることなく、伊賀仁木氏、伊勢北畠氏、越前朝倉氏、また出雲尼子氏と諸国を巡って助力を要請するも容れられず、享禄2年(1529)9月、村宗の本拠三石城に訪れました。

同年11月には政村が英賀津に新館を造営し、独立して居住することが認められており、村宗は高国を擁して上洛する準備を進めていたようです。

一方、村宗と対立する別所村治は享禄3年(1530)に上洛して晴元方の柳本賢治を訪ね、隣接する同じ赤松被官の依藤氏の討伐を要請、同年6月には賢治が播磨へ侵攻し依藤氏の城を包囲しました。

時を同じくして、村宗は高国とともに大軍を率いて上洛を開始、柳本賢治の暗殺に成功すると、翌月には小寺村職の居城を落城させ、別所氏や在田氏の拠点を次々と攻略し、播磨のほぼ全域を支配下に収め、8月には更に摂津へと進出しました。

(小寺村職は御着城を嫡子の則職に譲って庄山城へ移り敗死したと伝えられています。この頃には官兵衛の主君である政職もすでに生まれており、父とともに阿波細川氏の元で育ったものと思われます。)

11月には丹波の高国方残党が京都の将軍地蔵山に蜂起、戦線が分裂した晴元方は苦境に陥り、今度は高国方が京都奪還を果たしました。

村宗と三好元長の激突、そして「大物崩れ」

晴元方も手をこまねいていた訳ではなく、享禄4年(1531)2月には阿波へ帰国していた三好元長を再び担ぎ出し、阿波守護・細川持賢からの援軍とともに堺に到着、神崎川を渡って摂津欠郡に侵入し、元長は住吉郡の勝間に陣を構えた村宗を襲撃し、天王寺まで押し返すことに成功しました。

一方、赤松政村と小寺則職らは村宗の後詰として摂津神呪寺に参陣していましたが、その裏ではすでに晴元方の誘惑が及んでおり、密かに裏切りの好機を待っていました。

そして享禄4年(1531)6月4日、元長率いる阿波勢の攻勢を受けた村宗の軍勢に追い打ちをかけるように、明石修理亮を先陣とする赤松軍が急襲し、高国方は総崩れとなりました。

追い立てられた高国方は野里の渡しで政村の兵に襲撃され、数千に及ぶ兵が野里川で溺死、乱戦の中で和泉守護・細川澄賢、伊丹国扶、瓦林日向守、波々伯部兵庫助らが戦死、村宗もまた重臣の島村弾正左衛門と共に敗死しました。

『細川両家記』によると、島村弾正左衛門は敵の1人と組み付いて入水、その後野里川では武者の顔をした蟹が捕れるようになり、誰ともなく「島村蟹」と呼ぶようになったということです。

僅かな手勢に守られて尼崎城へ向かった高国でしたが、赤松氏の手が回っていたためやむなく町屋に紛れ込み、紺屋の大甕の中に隠れて身を潜めていたところ、追手の老将・三好一秀が智恵を働かせ、子供達に真桑瓜を与えて高国を探り当てさせたと伝えられています。

捕縛された高国は広徳寺で切腹、「大物崩れ」からわずか4日後のことでした。

次期将軍を上洛させて主君義村を弑逆、梟雄として絶頂期を迎えた浦上村宗でしたが、高国政権ともども「大物崩れ」の敗戦で崩壊し、播磨は再び諸勢力が割拠する状態となり、やがて尼子氏というかつてない強大な外部勢力の侵攻に曝されることになります。

参考

  • 播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)
    • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
    • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

播磨のものはありませんが、「大物崩れ」関連の戦跡をいくつか巡った際の写真を。

浦上村宗が家臣の島村弾正左衛門らとともに散った野里川(旧中津川)にあったという「野里の渡し」の跡。

野里住吉神社は、享禄四年六月四日に細川常植と細川晴元が戦った際、常植方の本陣であったとあります。日付からすると大物崩れのことなので、常植=高国でしょうか。

尼崎にある「大物崩れ」の戦跡碑です。

なお過去の記事 三ツ山大祭と赤松氏 の中で、播磨国惣社で大永元年(1521)6月に行われた「一ツ山大祭」と、天文2年(1533)9月に行われた「三ツ山大祭」に関して、その背景について簡単に書いていますので、合わせて読んでいただけると幸いです。

大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)

現在、NHK大河ドラマ軍師官兵衛』が第2話まで放映されていますが、ここまでは黒田家が仕える御着城小寺政職と、龍野城赤松政秀という局地的な対立関係しか描かれておらず、その前提となる赤松惣領家の性煕(晴政)と義祐の父子対立はおろか、その存在すら触れられていません。

また、畿内を制していた三好政権の様子が全く話題に上らない一方で、今のところ何の関係もない織田氏の状況が伝えられています。

そして唐突に室津の浦上政宗が登場し、黒田(小寺)職隆との縁組に官兵衛の恋心を絡ませるという不思議な展開。

(当時の政宗は天神山城を本拠とする弟・宗景との抗争で落ち目になっていたことが背景にあるのですが、その辺の経緯も触れられず…)

このままでは、後々の上月合戦や三木合戦の背景がちゃんと描かれるのか不安になってきました。

ドラマに便乗して、この機会に官兵衛が生まれ育った播磨の戦国期についてあらすじをまとめてみます。

といっても、序盤はほとんど赤松氏の話になるわけですが…まずは没落からの再興を果たした赤松政則と、その頃に活躍した重臣たちについて。

赤松政則、赤松家を再興

嘉吉元年(1441)6月24日、赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いと称し、将軍・足利義教を自邸に招いて暗殺した「嘉吉の変」は歴史の授業で習った方もいるかと思います。

これにより赤松惣領家は山名持豊(宗全)率いる幕府軍の討伐を受けて没落、領国であった播磨・備前・美作三ヶ国は山名氏に与えられましたが、嘉吉3年(1443)9月の旧南朝勢力による「禁闕の変」で強奪されていた神璽(三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉)を取り戻した功績により、長禄元年(1457)12月、赤松氏は満祐の弟・義雅の孫にあたる道祖松丸(政則)を家督として再興することを幕府から認められました。

この時、神璽奪還のため吉野に潜入した赤松牢人達を指揮したのが、京都雑掌を務めた小寺藤兵衛入道性説で、現在ドラマに登場している小寺政職の先々々々代に当たるようです。(性説…則職-村職-則職-政職)

赤松家は再興によって加賀半国守護に補任され、小寺氏を守護代として入部したものの前守護・富樫氏の勢力によって阻まれ、領国支配は困難を極めたようです。

応仁・文明の乱で播磨・備前・美作を奪回

その後、応仁の大乱が起こると赤松氏は東軍の一員として活動しましたが、この時幼少の政則とともに京都で軍勢を率いたのが、家宰とも呼ぶべき腹心の浦上美作守則宗です。

ドラマでは室津の浦上政宗が官兵衛の父・職隆の養女「たつ」を子息・清宗の嫁に迎えたところですが、則宗政宗の先々々代に当たります。(則宗-佑宗-村宗-政宗

則宗は幼い政則の後見役として共に在京し、侍所所司代として土一揆を鎮圧し将軍義政から太刀を拝領するなど、かねてより幕府の信頼は厚く、洛中の戦いでも赤松軍を率いて活躍しました。

特に応仁元年(1467)8月の南禅寺裏山の戦い(東岩倉の戦い)では、援軍として三千の兵を率いて入京した則宗大文字山に陣取って篝火を焚き、大石の投擲によって大内軍、山名軍、畠山軍、斯波軍と四度に渡って撃退したと伝わっています。

一方で、一族衆・下野守家の赤松政秀は山名軍が京都で戦っている隙を突いて播磨に攻め込み、僅か数日で播磨を回復。備前と美作においても現地勢力の協力を得て、山名氏が任じた守護代の軍勢を撃退し、念願の三ヶ国奪回に成功しました。

同姓同名で紛らわしいのですが、赤松政秀は現在ドラマに登場している赤松政秀の先々々代に当たります。(政秀-則貞-村秀-政秀)

また、播磨奪回戦にはドラマに登場し黒田家とも縁が深いとされている、廣峯神社の神官・廣峯氏も加わって活躍しています。

山名氏との戦いで別所氏が抬頭

長く続いた応仁・文明の乱は細川勝元山名宗全の死後、東西両軍の和睦がようやく成立しましたが、各守護家が国元で抱える対立関係は何ら解決していません。

赤松氏も力ずくで旧領を回復したとは言え幕府から正式な守護職を得たわけではなく、再び山名氏に領国が返還されると危惧したのか、最後まで和睦に反対しています。

そして案の定、文明15年(1483)12月、山名氏が失った三ヶ国を奪還するために本国但馬から播磨へと侵攻を開始し、血気に逸る赤松政則は迎撃に向かいましたが、国境付近の真弓峠で赤松軍と山名軍が激突、赤松氏は敗北して政則が逃亡、行方不明となってしまいました。

この結果を受けて浦上則宗、小寺則職をはじめとする年寄衆は政則を見限り、赤松庶流の有馬氏から猶子を迎えて家督を継がせることを幕府に申請しますが、山名氏との苦しい戦いが続く中、新たに赤松庶流を擁立して山名方につく者も現れるなど、領国は混乱に陥っていたようです。

一方この時、堺に逃亡していた政則を迎えて上洛し、文明16年(1484)2月に再び家督へと返り咲くのに尽力したのが赤松氏の一族、別所則治です。

則治は後に「三木の干殺し」によって滅ぼされた別所長治の、先々々々代に当たります。(則治-則定-村治/就治-安治-長治)

政則は、山名氏との戦いを前にかつて自分に背いた重臣達とも和解を果たして播磨に出陣、一進一退の攻防が続きましたが、次第に赤松氏が優勢となり、山名氏の領国因幡伯耆で起こった反乱も功を奏して、長享2年(1488)頃には再び播磨・備前・美作の三ヶ国から山名氏の勢力を駆逐することに成功しました。

この一連の戦いに多大な貢献を果たした別所則治は東播磨守護代に任ぜられ、西播磨守護代は龍野を本拠とする赤松政秀備前守護代は浦上氏の一族である浦上宗助、美作守護代は浦上氏の配下にあった中村氏が務め、領国からの財政を段銭奉行の小寺氏と薬師寺氏が統括する体制が確立されました。

政則死後の混乱と則宗の挫折

政則は明応5年(1496)2月、従三位への叙任という栄誉を受けた翌月に病死しました。

政則は京都で育った幼少期から威儀の正しい美男子との評判が高く、音曲や猿楽に才能を示し、作刀でも後世に名を残した才人でしたが、その権力は浦上則宗重臣たちの支持なくしては成り立たないものでした。

その一方で権勢を振るった浦上則宗も、一族を守護代とする備前を除けば、政則の権威なくしては領国を治めることはできませんでした。

また、主に幕府の一員として在京し寺奉行も務めた則宗は、幕府の基本方針である寺社本所領安堵を遵守する立場であったため、荘園を押領しようとする在国の被官人達とは対立する宿命にありました。

赤松氏が山名氏と激戦を繰り広げていた頃、幕府は奉公衆の所領や寺社本所領の押領が過ぎた近江の六角氏を討伐するため、将軍足利義尚自らが軍を率いて出陣、赤松氏からも則宗が参陣しましたが、鈎の陣中で義尚から「浦上カ家ヲ続酒承テ飲メ」と下句を求められた則宗は「天ヲ戴ク松之下草」と続け、これに感じ入った将軍から衣服を賜っています。

「天」とは将軍のことで、「松」とは赤松氏のことを指しているそうです。

それが本心からの言葉だったのかは分かりませんが、則宗は主君政則の死後、赤松七条家からの養子・道祖松丸(後の義村)を擁して守護の権限を掌握しようとし、他の被官人達からの反発を受けることになります。

一方、別所則治は政則の未亡人で管領細川政元の姉である洞松院尼を擁立、これによって播磨国内は「東西取合」と呼ばれる混乱に陥りました。

やがて、則宗が劣勢のうちに将軍と細川政元の仲介による和睦が成立しましたが、政則の死は則宗にとって好機とはならなかったわけです。

一族を守護代として備前の領国支配を強め、政則のもと権勢を振るった則宗でしたが、文亀2年(1502)6月に74歳で死去しました。

各地で続く争乱は、在地支配を進める守護代層の自立を促すとともに、在京守護達の下国を招きましたが、この頃はまだ畿内周辺において幕府-守護体制は健在で、将軍の方も守護家の庶子を直臣である奉公衆に任命するなど、特定の守護家が力を持ち過ぎることを忌避していました。

だからこそ、則宗のように有力守護家の被官でありながら、将軍からの信頼をも受けて権勢を振るう者が現れたのだと思います。

戦国大名が現れなかった播磨

赤松家を再興した政則の時代についてざっと紹介しましたが、現在ドラマが扱っている永禄年間から遡ること約60年、この時期に活躍した赤松重臣達によって、天正まで続く播磨の勢力図がすでに形作られていることが分かると思います。

この後、幕府では足利義材(義政の弟である義視の子)が、若くして陣中に没した義尚の跡を継ぎ再度の六角討伐に乗り出しますが、大した成果を上げないまま終結、やがて細川政元日野富子政所執事・伊勢氏らによる力ずくの将軍交代劇「明応の政変」により、再び義澄と義材という二人の将軍方に分かれた争いが始まり、これが政元の死後、細川高国と細川澄元(後に細川晴元)という細川家を二分する「両細川の乱」に繋がっていきます。

播磨では引き続き赤松重臣達が、畿内政権における勢力争いや山名氏、尼子氏といった外部勢力の侵攻を通じて自立性を強めつつ主導権を争う展開が繰り返されますが、惣領家が次第に権力の実体を失っていく一方で、彼等の中からも戦国大名と呼ぶべき突出した勢力は現れませんでした。

ただ一人、則宗に次ぐ浦上氏の傑物(と言っていいでしょう)浦上村宗は、時の管領細川高国と結び、赤松家で養育していた足利亀王丸(義晴)を上洛させるとともに、ついに主君の赤松義村を弑逆し高国政権下で最有力の大名にまでなったのですが、義村の嫡子・政村の裏切りによる「大物崩れ」の敗戦で野里川の露と消えてしまいました。

播磨から戦国大名が出なかった理由を播州人の気質に求める意見もありますが、畿内に近いため幕府内の勢力争いに巻き込まれざるを得なかったこと、大内氏や尼子氏といった西国の大大名の通り道となったことなど、地勢的な問題が大きかったように感じます。

ドラマではこれから、大内と尼子という大勢力の中から成長し中国を制した毛利氏と、三好政権を畿内から駆逐した織田氏の二大勢力に集約されていく様が描かれていくのでしょうけど、その狭間で苦闘した赤松氏とその旧臣達の姿もきちんと描いてくれることを期待しています。

続きはこちら 大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)・続

参考

  • 播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)
    • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
    • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

  • 渡邊大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』(講談社

戦国誕生 中世日本が終焉するとき (講談社現代新書)

戦国誕生 中世日本が終焉するとき (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

私の戦国観の半分は、大門先生の著作でできています。(四分の一くらいが川岡勉先生、残りはその他…)

「史跡巡りメモ」なので一応それっぽい写真を…。

たつの市埋蔵文化財センター『特別展 西播磨の戦国時代 ~赤松氏の興亡~』のポスター。肖像は赤松政則です。ここが私の赤松歴のスタートとなりました。

赤松氏の系譜。政則の養子となった義村は、円心の長男・範資の流れ「赤松七条家」の生まれ。京都の屋敷が七条にあったことからそう呼ばれたそうです。

龍野城。と言ってもこれは脇坂氏入城後の近世城郭で、赤松時代の遺構は後方にそびえる鶏籠山上にあります。

小寺氏の居城、御着城址にて。現在は公園になっていて、お城風の姫路市役所東出張所が建っています。

小寺一族らを祀る小寺大明神にて。

御着城址の説明板にもありましたが、御着城を築城したという「小寺政隆」は「享禄三年浦上村宗に攻められ討死した」とあるので小寺村職のことですね。元の名が政隆で、義村からの偏諱を受けたということでしょうか。

「小寺豊職」は赤松政則偏諱を受けて則職と名乗ったようなので…これに碑文の内容を加えると、性説…豊職(則職)-政隆(村職?)-則職-政職-久兵衛政則…となりますね。

没落した小寺政職は毛利氏のもとに逃れて子孫は黒田家に仕えたという話をどこかで見ましたが、どうなんでしょうか。

あと、村職は則職に御着城を譲った後、庄山城で敗死したので、ここは間違いだと思います。

追記(2014-01-22)

軍師官兵衛』に関連しておすすめのブログを紹介します。

『戦え!官兵衛くん。 』 http://kurokanproject.blog.fc2.com

史実に即した内容で播磨・備前・美作を中心に戦国時代の流れを漫画で紹介されています。 ピンポイントで入る解説の丁寧さや俯瞰的な視点がとても参考になります。

序盤の官兵衛をとりまく人たちの人間関係 http://kurokanproject.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

上の記事の画像は播磨の状況を手っ取り早く知るのに役立つと思います。

追記(2014-01-24)

黒田官兵衛 作られた軍師像』を参考に小寺氏の系譜を訂正しました。

なお、則職のことを浦上村宗と交戦し永正17年(1520)に敗死したとする一方で、村職については「動向はほとんどわかっていない。若年で亡くなったと考えられる」と書かれています。

御着築城を始め色々なところで名前を見る「小寺政隆」の事跡については、一次史料からは確認できないのかもしれません。