k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

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上月城の戦い第一幕・秀吉の播磨侵攻

上月城と赤松七条家と上月氏

上月城播磨国佐用郡の西端に位置し、美作・備前に通じる交通の要衝に築かれた城です。

天正6年(1578)に尼子勝久山中鹿介ら旧臣達が織田方の一員として御家再興を掛けて戦った最後の舞台として知られていますが、中世における経緯はあまりよく分かっていません。

赤松円心の嫡子・範資を祖とする赤松七条家が14世紀頃から佐用郡一帯を領しており、秀吉の書状においても「七条城」と記されていることから、代々赤松七条家が城主を務めた城であったと見られています。

七条家からは、赤松政則の養子として惣領家を継承した赤松義村が出ていますが、その当時の上月城主の名前は一次史料からは明らかではありません。

江戸時代に成立したという『播州佐用軍記』には、弘治3年(1557)に赤松義村の子・政元が上月城を再興し、その子・政範の代に宇喜多直家を通じて毛利方になったと記されていますが、この書物に掲載されている七条家の系譜には誤りがあるようで、信頼することはできません。

一方で赤松氏の一族衆に上月氏がおり、文明13年(1481)までは上月に所領を保持していたことが確認できるものの、上月氏上月城との関わりについては一次史料から見出すことができていないようです。

(上月氏出身の人物では、相国寺蔭涼軒主として幕政に参与し、嘉吉の乱足利義教の首級を受け取ったと伝わる季瓊真蘂、赤松家の旧臣達が南朝方から神璽を奪還した経緯を『南方御退治条々』と題して書き残した上月満吉がいます。)

備前軍記』には、秀吉の攻略によって城主・赤松政範が自刃した後に入城した尼子再興軍と、挽回を図る宇喜多軍との間で三度に渡る争奪戦が繰り広げられる様子が描かれており、その中で宇喜多直家の家臣として真壁彦九郎治次・次郎四郎治時の兄弟とともに、上月出身の勇将・上月十郎景貞なる人物を登場させています。

現在放映中の大河ドラマ軍師官兵衛』では、官兵衛の妻・光の姉「力」の嫁ぎ先を上月城主・上月景貞としています。

後に三木合戦に際して光の実家である櫛橋氏は織田方を離反しますが、その原因を補強する上でも、このような設定が好都合だったのでしょう。

惣領家すら登場することなく、龍野赤松氏だけが「赤松」と呼ばれている作品なので、七条家の存在も無視されて当然かもしれません。

織田と毛利の衝突、小寺官兵衛の英賀合戦での活躍

両勢力の衝突は天正4年(1576)、毛利氏が信長と敵対していた将軍・足利義昭を鞆に迎え、同じく以前から信長と敵対し孤立した状況にあった一向宗の総本山・石山本願寺を援助するため、瀬戸内水軍を差し向けたことから始まります。

毛利方の水軍は第1次木津川口の戦いで織田方の船団を破り、石山本願寺への物資の搬入に成功して戦況を有利に進めました。

また、天正5年(1577)2月に信長が紀州雑賀へ一向宗門徒の討伐に向かった隙を突いて、翌月には毛利方の尖兵を務める備前宇喜多直家龍野城へ侵攻を開始し、4月には小早川隆景麾下の軍勢も室津に上陸、陸海両面から進軍した毛利方の軍勢は、水運の要衝である英賀で合流しようとしていました。

英賀城は伊予河野氏の氏族と伝わる三木氏の居城で、16世紀初めに英賀御堂本徳寺を建立して以来、播磨における一向宗の一大拠点となっていました。

黒田氏からは官兵衛の妹(または姉)が三木氏に嫁いでいましたが、英賀衆は毛利氏とともに本願寺を支援し信長に敵対しため、織田方となった小寺氏とは疎遠になっていたようです。

そして天正5年(1577)5月14日、小寺官兵衛は主君政職とともに英賀に出陣し、毛利軍と交戦して多くの敵を討つ活躍をしました。

軍師官兵衛』では英賀に攻め寄せてきた毛利の大軍を迎え撃つという描写になるようですが、実際には(おそらくは信長の命によって)妹の嫁ぎ先を攻撃するという、非情な決断をせざるを得なかったということです。

東播磨では別所氏を代表とする諸勢力がかねてから織田方に付いていましたが、英賀合戦の勝利によって西播磨での戦況も好転したことを受け、信長は秀吉を播磨に派遣することを決定します。

秀吉の播磨佐用郡への侵攻

天正5年(1577)10月15日、秀吉は播磨出陣に先立って小寺官兵衛に起請文を送りました。

その内容は「佐用郡之内七条殿分領、同淡川(淡河)之事」を与えること、官兵衛を粗略に扱うことなく何事も直接相談すること、人質の身の安全を保障すること、官兵衛の居城を借用すること、そして英賀合戦での軍功を褒め称えるもので、秀吉は小寺政職よりもむしろ官兵衛の力量を頼みとして、強固な関係を結ぼうとしていたことが伺えます。

一方、信長も秀吉の出陣に先立って、美作の江見九郎次郎や備中の庄市助といった有力な国人に対して書状を送り、秀吉に従って忠節を尽くすよう申し付けています。

なお、ちょうどこの頃、松永久秀・久通父子が大和信貴山城に籠って謀叛を起こしており、信長は織田信忠を大将として細川藤孝明智光秀筒井順慶らを派遣し、大和の諸城を攻略していますが、信貴山城への攻撃には秀吉も従軍していたようです。

信貴山城は10月10日に松永父子の割腹自焼によって落城しましたが、秀吉は10月22日に上洛した後、その翌日には播磨へと出陣しています。

また秀吉は10月26日、江見九郎次郎に対して播磨への着陣を命じるとともに、山中鹿介を通じてきた内々のことを承諾したと信長の御朱印状が発給されたことを伝え、忠節を尽くすよう申し付けています。

後に尼子旧臣達が上月城に入ることになりますが、山中鹿介はそれ以前から美作方面で調略に奔走していたことが伺えます。

播磨に入国した秀吉は国衆から人質を集めた後、まず但馬南部の朝来郡を攻略し、太田垣輝延の竹田城を攻め落として弟の小一郎を城番に入れ置き、次いで播磨佐用郡へと侵攻しました。

佐用郡では福原城上月城、利神城(別所中務の城とあります)が秀吉に敵対していましたが、まずは11月27日に福原城から迎撃に出てきた城兵と交戦し、城主とその弟の首を討ち取って落城させました。なお福原城主の名は則尚と伝わっていますが、一次史料にはその存在は明らかでないようです。

また、福原城下の戦いでは小寺官兵衛と竹中半兵衛のドリームタッグが先遣隊となって活躍し、多くの敵を討ち取ったと伝わっています。

秀吉の上月城攻め「子ともをハくしニさし、女をハはた物にかけならへ置候事」

原城を落とした秀吉軍は、翌11月28日に上月城を包囲して水の手を奪ったところ、上月城の援軍にやって来た宇喜多直家の軍勢と交戦、散々に切り崩された宇喜多勢は備前との国境付近まで敗走し、多くの兵を失いました。(秀吉の書状には六百十九の首級を討ち取り、雑兵達は切り捨てたと記されています)

上月町には「戦」という地名や「戦橋」という名前の橋が今も残っており、秀吉と宇喜多の軍勢が激しく戦ったことが伝えられています。

宇喜多勢を破った秀吉が再び上月城に攻めかかったところ、すでに水の手を奪われた城方は降伏を申し入れてきましたが、秀吉はこれを拒絶し、「返り猪垣」を三重に設けて逃亡を防いだ上で、出入口に「仕寄」を設けて攻め口を固め、12月3日には城内へと攻め込んで敵兵の首を悉く切り落としました。

そして秀吉は、敵方への見せしめのために、女子供二百余人を備前・美作・播磨の国境において、子供は串刺しに、女は磔に掛けて並べ置いたと、自らの書状に記しています。

軍師官兵衛』において秀吉は庶民の味方で戦を嫌う人物として描かれていますが、討ち取った首級や人数には誇張があるにしろ、実際にはこのような残酷な処刑の様子を書状に記すような人物だったということです。

この第1次上月合戦における小寺官兵衛の具体的な働きは分かりませんが、信長は官兵衛に対して佐用での活躍を称え、感状を与えています。

ドラマではおそらく上月合戦における秀吉の酷薄さも、それに絡む官兵衛の姿も描かれることはないでしょう。そのような姿勢で果たして得意の城攻めの実態をどの程度伝えられるのか、疑問に感じますが…。

原城に次いで上月城を落城させた後、残る利神城も降伏を願い出てきたため、秀吉は人質を三人召し取って来年2月まで別所中務に城を預けることにしました。

上月城を拠点に再興を目指した尼子旧臣たち

織田方の中国経略における最前線となった上月城には、山中鹿介ら尼子再興軍が留め置かれましたが、鹿介は引き続き江見氏や草刈氏といった美作の国人達を織田方に引き入れるために働いています。

山中鹿介ら尼子旧臣たちは、永禄9年の毛利元成による月山富田城の落城以来、新宮党の尼子誠久の遺児で東福寺に逃れて僧となっていた勝久を還俗させて擁立し、山名氏や大友氏などの反毛利勢力と連携して旧領である出雲や伯耆に侵攻したり、但馬から因幡へと攻めこんで鳥取城を奪うなど、毛利の勢力圏を荒らし回ってきました。

しかし天正3年(1575)正月、尼子を支援していた但馬の山名祐豊が生野銀山の支配権を巡って信長と対立したことから、山名氏は毛利氏と和睦するに至り、次第に戦況は不利に傾いていったため、天正4年(1576)5月には因幡における最後の拠点であった若桜鬼ヶ城を退去して、信長を頼ることになりました。

尼子氏の再興を掛けて戦ってきた鹿介たちでしたが、あえて最前線である上月城に踏みとどまって戦功を立てることで、出雲復帰への道を開こうとしていたのだと思います。

以下、上月城へ入城した尼子再興軍の戦いぶりを『陰徳太平記』や『備前軍記』などの軍記物から、ざっと紹介します。

上月城に入った鹿介は、京都で待機していた尼子勝久を迎えるため少数の兵を残して城を出ましたが、その隙を突いて奇襲してきた宇喜多直家の部将・真壁彦九郎治次によって上月城を奪われてしまいます。

しかし、鹿介が勝久を奉じて引き返してくると、臆病風に吹かれた真壁彦九郎は備前岡山へと逃げ帰ったため、尼子主従は難なく再入城を果たし、亀井新十郎、神西三郎左衛門、川副右京亮、加藤彦四郎ら尼子の残党二千余が参集したとあります。

また天正6年(1578)1月、兄に代って上月城の奪回に出陣した真壁次郎四郎治時を夜襲によって討ち取った尼子再興軍は、物資が心許なかったため秀吉と相談して密かに姫路へと退いたとありますが、これを受けた宇喜多直家上月城の守将として遣わしたのが、上月出身で武勇の誉れも高いという上月十郎景貞だとしています。

しかし、3月には秀吉が再び大軍を率いて上月城を攻略、城の四方から火を放って城山一帯を火の海と化し、たまらず城を出た景貞は秀吉本陣の高倉山を目指して駆け上ったものの、鹿介が切り込んだため本陣に近づけず、諦めて自刃したと記しています。

なお『宇喜多戦記』では上月十郎景貞の死について、秀吉は降伏を申し入れてきた十郎を許さずに切腹を命じ、その首を安土に送った後、さらに城内の兵は見せしめとして蓑笠を付けて磔にした上で火をつけて焼き殺したため、その地は「張付谷」とも「地獄谷」とも呼ばれるようになったと記しているそうです。

上月城を巡る宇喜多勢と尼子主従の争奪戦は、江戸時代以降に成立した軍記物で描かれたものですが、現代の作品には赤松七条家と上月氏を混同して上月城主を「上月政範」などとしているものも見られ、『軍師官兵衛』をきっかけに調べた方がまた混乱するんじゃないかと思い紹介しました。

長くなったので、尼子再興軍と鹿介の最期については次回に続きます…。

参考

  • 妹尾豊三郎『山中鹿介幸盛』(ハーベスト出版)

山中鹿介幸盛(戦国ロマン広瀬町シリーズ(4))

山中鹿介幸盛(戦国ロマン広瀬町シリーズ(4))

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ハーベスト出版
  • 発売日: 2010/10/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

以下、4年前に上月城跡に訪れた際の写真です。

尼子再興軍の最後の舞台ということで、どれほどの要害なのかと期待しましたが、想像していたよりも小さな丘陵地で、正直なところ、この地に篭って3万にも及ぶ毛利の大軍に立ち向かったということが、とても信じられませんでした。

「赤松蔵人大輔政範君之碑」

秀吉の佐用郡侵攻時に落城した際の城主と伝わる赤松政範の慰霊碑で、落城時の守将の末裔・大谷義章氏が文政八年(1825)に250回忌を営んだ際に建立されたものだとか。

「上月氏発祥之地」の碑

実は訪問当時、赤松氏のこともよく知らなかったくらいだったので、当然七条家も上月氏もピンときませんでした…。

尼子ファンということで訪れた上月城でしたが、地元の人たちにとっては秀吉も尼子再興軍も等しく余所者であって、特に秀吉には残酷な仕打ちを受けているだけに、案内板にもそういう記述が目立ちました。

三木城などもそうですが、播磨の人々にとって秀吉には恨みの方が大きいのかもしれません。