大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)・続
大河ドラマ『軍師官兵衛』に便乗して、官兵衛が生まれ育った播磨の戦国期についてあらすじをまとめてみる記事の続きです。
前回の記事 では、赤松家を再興し播磨・備前・美作三ヶ国を回復した赤松政則と、それを支えた浦上則宗、小寺則職、赤松政秀、別所則治ら重臣達のことを書きました。
今回は赤松政則の後を継いだ義村と、義村を後見した洞松院尼、義村を弑逆した浦上村宗の時代について、まとめてみました。
赤松政則の死後、未亡人の洞松院尼が幼い義村を後見
赤松政則と浦上則宗の死後、何度か訪れた危機をその人脈により救ったのが、政則夫人の洞松院尼(めし様)です。
父である細川勝元の死後、尼となって龍安寺でその菩提を弔っていた洞松院は、明応3年(1493)に齢三十にして赤松政則の元に嫁ぎました。
洞松院が堺で陣中にあった政則の元に輿入れした際、誰かがこのような落首を貼ったそうです。
天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな
相手は年増な上に、それほどまでの評判の醜女でした。
すでに猶子として七条家から迎えられた道祖松丸(義村)と、亡き先妻との間に生まれていた長女・松の縁組が済んでいた赤松氏にとって、幕府の中枢を握る細川京兆家との紐帯を強めるためだけの、完全な政略結婚だったと思います。
しかし、政則の死後、東西取合の争乱で家中が分裂し、有力な指導者であった浦上則宗も死去、弱体化していた赤松氏を統制する上で、洞松院は重要な役割を果たします。
洞松院は当主義村の後見役として守護の権限を行使し、自ら印判状を発給するとともに、細川京兆家との繋がりを利用して幕府との関係強化に力を尽くしました。
その執政は、文亀2年(1502)の浦上則宗の死後から永正14年(1517)頃まで続きますが、その間に畿内では後々まで続く「両細川の乱」が激化していきます。
細川政元の跡目を巡って「両細川の乱」が始まり、細川高国は義材派と結ぶ
畿内を舞台に約40年間に渡って繰り広げられた「両細川の乱」の始まりは、将軍・足利義尚の跡目争いまで遡ります。
延徳2年(1490)、足利義視の子である義材が義尚の跡を継いで将軍となったものの、かねてから義材と不仲であった細川政元は明応2年(1493)、義材が片腕と頼む管領の畠山政長を討伐し、日野富子や政所執事・伊勢氏らと共に足利政知(堀越公方)の子・義澄を新たな将軍として擁立しました。
この「明応の政変」によって応仁・文明の乱以来の勢力図は一変、京都を追われた義材の誘いに応じる勢力もあり、義材派と義澄派に分かれた争いが始まります。
京兆家の権力強化に努めるとともに、管領として幕府を主導した細川政元でしたが、修験道に没頭したため妻帯しなかったことから、前関白・九条政基の子である澄之と、前阿波守護・細川成之の孫である澄元という2人の養子を迎えることになり、細川家では澄之派と澄元派に分かれた跡目争いが激化、永正4年(1507)、澄之方の香西元長によって政元が暗殺されるに至りました。(永正の錯乱)
しかし、家督を継いだ澄之も細川家庶流(野州家)の高国を中心に結束した反澄之派による反撃を受け、わずか三十余日で没落、今度は澄之に代わって家督を継いだ澄元とその家臣・三好之長ら阿波勢の抬頭に反発した高国が京都を脱出し、丹波や摂津の国人を味方につけただけでなく、諸国を流浪した末に大内氏の元で庇護されていた前将軍・足利義尹(義材改め)をも抱き込みました。
そして永正5年(1508)4月、義尹を擁し大軍を率いて上洛した大内勢を前に、将軍・義澄と澄元らはなす術なく近江に逃亡、義尹は再び将軍に就任し、高国を管領、大内義興を山城守護とする連合政権が成立しました。
赤松家は澄元方に付いて将軍義澄の遺児を庇護、澄元方の敗北による危機を洞松院尼が救う
赤松氏は大内氏の上洛に際して義尹に供奉することを伝えており、当初は高国方に付いていたようですが、永正8年(1511)に澄元、三好之長らが摂津と淡路の軍勢を加えて再び京都へ迫ると、澄元の要請に応じて播磨から2万の大軍を率いて加勢しました。
高国を丹波へと追いやって京都を制圧した澄元方ですが、その優勢も束の間、近江で義澄が病没したこともあってか、澄元方は船岡山合戦で大敗したため、赤松氏も幕府から咎めを受けることになります。
洞松院尼はこの窮地を脱するために尽力し、自ら高国と面会して将軍・義稙(義尹改め)との和睦に成功しました。
その一方で、赤松家では近江から逃れてきた足利義澄の二人の遺児(後の義晴と義維)を庇護しており、そのうちの弟が澄元方によって阿波へ連れ去られるという事件も起きています。
播磨は阿波や淡路の澄元勢が上洛する際、背後に当たることもあり、どちらに転んでもいいよう対処したのかもしれません。
なお、黒田氏を近江佐々木源氏の出自とする『黒田家譜』では、官兵衛の曽祖父にあたる黒田高政が義稙に従って船岡山合戦に参陣したものの、軍令に背いて勘気を被り、後に子の重隆を連れて備前福岡へと移住したとしています。
赤松義村は抬頭する浦上村宗の排除に失敗して没落
今川義元の死後、孫の氏真を後見して今川家を支えた寿桂尼と並んで「女戦国大名」とも呼ばれる洞松院尼ですが、寿桂尼と大きく違うのは、義村との間には血の繋がりがなかったことです。
そのことが影響したのかどうか、洞松院による執政は本来、義村が幼い間の緊急的な体制だったはずですが、義村が成人した後もなかなか実権を委譲しなかったようです。
また、義村が家中で抬頭する浦上村宗の排除に失敗した際には、洞松院尼は松の方とともに義村を見限って、嫡子・才松丸(後の政村/晴政)を連れて村宗の拠点である室津に赴いています。
永正17年(1520)から18年にかけての義村と村宗の対立では、御着城主・小寺則職、浦上一族の浦上村国、村宗の弟で備前守護代・浦上宗久などが義村方に付きましたが、村宗はこれを破って赤松氏の実権を掌握するとともに、備前支配の一元化に成功し、幕府からも一目置かれる存在となりました。
なお、この時村宗方として最も活躍したのが宇喜多能家で、ドラマにも登場する直家の祖父に当たります。(小寺則職は一連の戦いで敗死しており、小寺政職にとって宇喜多氏は曽祖父の仇になります。)
一方の義村は、切り札であった足利義澄の遺児・亀王丸(後の義晴)を、高国政権(仲違いにより将軍義稙に逃亡されていた)への手土産として奪われた挙句、ついに村宗の手兵によって謀殺されてしまいました。
長く表舞台に出ることが叶わず、冷泉為広に師事し置塩館で和歌三昧の生活を送っていたという義村にとって、自分と同様に幼くして浦上宗家を継ぎ、自分よりも年下でありながら、対立した弟を討滅してまで権力を求めた村宗の力強い姿は、羨望の対象でもあったのではないでしょうか。
東西和睦して山名氏の侵攻を撃退し、政村を擁する村宗は播磨の代表者に
義村の死後、淡路へと亡命していた義村方の小寺村職や浦上村国は、大永2年(1522)9月に再び播磨へと戻って挙兵、村宗派と反村宗派に分かれた争いが始まります。
村宗は反村宗派の三木城主・別所村治を攻めるも撃退され、小寺村職と別所村治は連合して再び書写山で村宗を破ったものの、浦上村国と赤松村景が但馬の山名誠豊を招き入れたことから、結局村宗は小寺氏らと和解することになります。
(村宗への対抗のために反村宗派が山名氏の力を借りようとしたものの、思惑通りいかなくなったということでしょうか…)
大永3年(1523)10月、書写山の交戦で山名氏の軍勢を撃退した村宗は、同年6月には守護並の家格にしか許されない白傘袋・毛氈鞍覆の使用を幕府から許可されており、高国政権の元で名実ともに播磨の代表者として認められることになりました。
なお、かつて最強の兵力を誇った大内義興は、尼子氏による領国への侵攻を受けて永正15年(1518)8月に帰国していたため、高国にとって村宗は最も頼りになる存在となりました。
丹波勢が高国方から離反、阿波勢による堺幕府が成立
一方、中央では大永6年(1526)に細川尹賢(高国の弟)が、尼崎城の改築に伴う人足同士のいざこざから、高国方の有力被官であった香西元盛を讒言により謀殺させたことで、元盛の兄弟、波多野稙通や柳本賢治ら丹波勢が、高国政権と対立する阿波勢と示し合わせて謀反を起こします。
丹波守護代・内藤国貞までもが離反したことで幕府軍は敗走し、三好勝長・政長らの阿波勢も堺から上陸、翌大永7年(1527)には柳本賢治率いる丹波勢によって摂津の高国方は大半が降伏、桂川の決戦でも幕府軍は阿波・丹波連合軍に敗れ、高国は将軍義晴と共に近江へと逃れました。
義晴は大永6年(1526)11月に赤松政村と赤松氏被官人、浦上村宗に対して出陣を促しましたが、応じなかったようで、その後も村宗に対して政村を説得するよう御内書を送るとともに、龍野赤松氏の村秀に対しては村宗と相談するよう促しています。
また一方で、別所村治、小寺村職らに対しても早々に和睦を結んで忠節を尽くすよう促しており、山名軍の撃退後は再び東西で対立していたようです。
なお、阿波勢は三好之長の後継者・元長と三好一族の政長らを中心に、細川澄元の遺児・六郎(晴元)と、かつて赤松氏の元から連れ去った現将軍義晴の弟・義維を擁立して堺に上陸、義稙に伴って淡路に逃れていた奉行人とともに新たな政権を立てています。(いわゆる堺幕府)
高国方の反撃と村宗の上洛開始
京都・摂津・河内・和泉はほぼ晴元方が掌握したものの、近江へと逃亡した高国は諦めることなく、伊賀仁木氏、伊勢北畠氏、越前朝倉氏、また出雲尼子氏と諸国を巡って助力を要請するも容れられず、享禄2年(1529)9月、村宗の本拠三石城に訪れました。
同年11月には政村が英賀津に新館を造営し、独立して居住することが認められており、村宗は高国を擁して上洛する準備を進めていたようです。
一方、村宗と対立する別所村治は享禄3年(1530)に上洛して晴元方の柳本賢治を訪ね、隣接する同じ赤松被官の依藤氏の討伐を要請、同年6月には賢治が播磨へ侵攻し依藤氏の城を包囲しました。
時を同じくして、村宗は高国とともに大軍を率いて上洛を開始、柳本賢治の暗殺に成功すると、翌月には小寺村職の居城を落城させ、別所氏や在田氏の拠点を次々と攻略し、播磨のほぼ全域を支配下に収め、8月には更に摂津へと進出しました。
(小寺村職は御着城を嫡子の則職に譲って庄山城へ移り敗死したと伝えられています。この頃には官兵衛の主君である政職もすでに生まれており、父とともに阿波細川氏の元で育ったものと思われます。)
11月には丹波の高国方残党が京都の将軍地蔵山に蜂起、戦線が分裂した晴元方は苦境に陥り、今度は高国方が京都奪還を果たしました。
村宗と三好元長の激突、そして「大物崩れ」
晴元方も手をこまねいていた訳ではなく、享禄4年(1531)2月には阿波へ帰国していた三好元長を再び担ぎ出し、阿波守護・細川持賢からの援軍とともに堺に到着、神崎川を渡って摂津欠郡に侵入し、元長は住吉郡の勝間に陣を構えた村宗を襲撃し、天王寺まで押し返すことに成功しました。
一方、赤松政村と小寺則職らは村宗の後詰として摂津神呪寺に参陣していましたが、その裏ではすでに晴元方の誘惑が及んでおり、密かに裏切りの好機を待っていました。
そして享禄4年(1531)6月4日、元長率いる阿波勢の攻勢を受けた村宗の軍勢に追い打ちをかけるように、明石修理亮を先陣とする赤松軍が急襲し、高国方は総崩れとなりました。
追い立てられた高国方は野里の渡しで政村の兵に襲撃され、数千に及ぶ兵が野里川で溺死、乱戦の中で和泉守護・細川澄賢、伊丹国扶、瓦林日向守、波々伯部兵庫助らが戦死、村宗もまた重臣の島村弾正左衛門と共に敗死しました。
『細川両家記』によると、島村弾正左衛門は敵の1人と組み付いて入水、その後野里川では武者の顔をした蟹が捕れるようになり、誰ともなく「島村蟹」と呼ぶようになったということです。
僅かな手勢に守られて尼崎城へ向かった高国でしたが、赤松氏の手が回っていたためやむなく町屋に紛れ込み、紺屋の大甕の中に隠れて身を潜めていたところ、追手の老将・三好一秀が智恵を働かせ、子供達に真桑瓜を与えて高国を探り当てさせたと伝えられています。
捕縛された高国は広徳寺で切腹、「大物崩れ」からわずか4日後のことでした。
次期将軍を上洛させて主君義村を弑逆、梟雄として絶頂期を迎えた浦上村宗でしたが、高国政権ともども「大物崩れ」の敗戦で崩壊し、播磨は再び諸勢力が割拠する状態となり、やがて尼子氏というかつてない強大な外部勢力の侵攻に曝されることになります。
参考
- 作者:
- 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
- 発売日: 2011/06/01
- メディア: 単行本
播磨のものはありませんが、「大物崩れ」関連の戦跡をいくつか巡った際の写真を。
浦上村宗が家臣の島村弾正左衛門らとともに散った野里川(旧中津川)にあったという「野里の渡し」の跡。
野里住吉神社は、享禄四年六月四日に細川常植と細川晴元が戦った際、常植方の本陣であったとあります。日付からすると大物崩れのことなので、常植=高国でしょうか。
尼崎にある「大物崩れ」の戦跡碑です。
なお過去の記事 三ツ山大祭と赤松氏 の中で、播磨国惣社で大永元年(1521)6月に行われた「一ツ山大祭」と、天文2年(1533)9月に行われた「三ツ山大祭」に関して、その背景について簡単に書いていますので、合わせて読んでいただけると幸いです。