k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

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永正元年「薬師寺元一の乱」の経緯とその背景(一)関連する出来事の一覧

はじめに

YouTubeで歴史解説動画を公開されている、右京大夫政元さん(@meiou1493) の新企画『連続講義「不問物語―軍記で読む室町時代」』が、先日のライブ配信「オールナイト幕府 第97回」より開始されました。

新企画✨連続講義「不問物語―軍記で読む室町時代」第1回【オールナイト幕府 97】

右京大夫政元さんの動画はいつかこのブログでも紹介したいと考えていましたが、このたび、このような素晴らしい企画を開始されましたので、『不問物語』でも大きく取り上げられており、これまで自分がTwitterでたびたび語ってきた、いわゆる「薬師寺元一の乱」について、この機会に便乗しまして、その経緯や注目すべき論点をまとめることにした次第です。

なお、なるべく「ネタバレ」にはならないよう、『不問物語』に依拠した説明は避けるよう心がけますが、他の史料にも書かれている内容については、その限りではありません。ご容赦ください。

薬師寺元一の乱」の概要と、関連する出来事の一覧

永正元年9月4日、摂津守護代薬師寺元一が主君である細川政元に謀反を起こして淀城に挙兵したものの、細川京兆家を主力とする幕府軍の討伐を受けて、およそ2週間ほどで鎮圧されました。

薬師寺元一の乱」を狭い範囲で捉えて簡単に説明すると、このように、単なる下剋上未遂事件になってしまう訳ですが、ここに至った経緯や背景、その後の展開まで含めて見ると、 細川政元と譜代宿老たちの対立」 細川政元の後継者を巡る澄之派と澄元派の対立」 細川京兆家とその分家である讃州家の対立」 「幕府の主導権を巡る将軍・足利義澄細川政元の対立」 「現将軍・足利義澄と前将軍・足利義尹の対立」 といった複数の対立関係が絡んでおり、注目すべき論点は数多くあります。

まずはその背景を理解するため、細川政元薬師寺元一だけでなくそれぞれの対立関係に関わる出来事、とりわけ、薬師寺方として乱に参加した山城守護代・澤蔵軒宗益(赤沢朝経)、細川一門の長老格である讃州家の慈雲院道空(細川成之)、そして、強硬な義尹派(「足利義稙ファンクラブ終身名誉会長」)として知られる畠山尾州家の当主・畠山尚慶(尚順)や、その与党である大和の衆徒や国人たちの動向にも注目しつつ、将軍義澄と細川政元の対立が激化していた文亀2年8月から、六郎(澄元)が阿波から上洛し澄之が丹後へ出陣した永正3年4月までを時系列で追っていきます。

なお、日付の項目では、一つの出来事が数日にまたがる場合に最初の日付のみ記載している箇所や、日付が明確ではない場合に「○月頃」と記載している箇所があります。

出来事のうち、特に重要なことや、あまり一般に知られていないと思われることは、太字で強調しています。

また、典拠史料の多くは東京大学史料編纂所 大日本史料総合データベース の検索結果に拠ります。

年次 日付 出来事 典拠史料
文亀2年(1502) 8月4日 将軍義澄と細川政元が不仲となり、義澄が岩倉金龍寺に隠居する。5日、義澄が馳せ参じた政元に五箇条(御即位事、内裏門役事、納銭事、武田相伴御供衆陪膳事など)、伊勢貞宗に七箇条の条目を仰せ付ける。 後法興院記、実隆公記、拾芥記、大乗院寺社雑事記
8月6日 前将軍義尹の実弟・実相院義忠が細川政元の部下(柳本某あるいは香西元長)によって殺害される。義澄が要求した七箇条の1つだったという。義澄は勅使による説得を受け、御所へ帰還する。 後法興院記、実隆公記、拾芥記、大乗院寺社雑事記
12月25日 将軍義澄が、前将軍義尹の死を願う(今出川義材死去事」)自筆の願文を石清水八幡宮に奉納する。 足利義澄自筆願文
文亀3年(1503) 2月26日 将軍義澄が真木島に下向して細川政元の饗応を受ける。29日、義澄が帰洛する。 後法興院記
5月20日 上野政益、薬師寺元一、波々伯部盛郷らが細川政元の隠居相続の事を慈雲院と相談するため阿波に下向する。 後法興院記、実隆公記
8月1日 安富元家与力の兵庫代官・高橋光正が細川政元の命により兵庫にて殺害され、安富元家はこれを不服として遁世する。澤蔵軒が後任の兵庫代官となる。 後法興院記、文亀年中記写
10月5日 将軍義澄が真木島に下向、細川政元に上洛するよう説得する。17日、政元が上洛する。政元は近日「狂乱の体」との噂あり。 後法興院記、実隆公記
文亀4年(1504) 1月10日 将軍義澄が新年の参賀式のため参内する。宴の後、細川政元が召し出されて天盃を拝領する。永享11年の祖父持之以来の「稀代事也」と。政元は御礼のため万疋を進上する。 後法興院記、宣胤卿記、元長卿記、忠富王記、二水記
2月中頃 澤蔵軒の養子・赤沢新兵衛長経が逐電する。 後法興院記
永正元年(1504) 3月4日 細川政元が謀反の疑いにより、摂津守護代薬師寺元一・長忠兄弟に命じて真木島城に澤蔵軒を追討する。澤蔵軒は逃亡、9日には大和箸尾(畠山尾州家の与党)に下向する。 後法興院記、実隆公記、大乗院寺社雑事記
閏3月18日 細川政元薬師寺元一を摂津守護代から解任しようとするも、将軍義澄の口入により取り止めとなる。翌19日、元一は義澄に御礼。 後法興院記、実隆公記
閏3月24日 将軍義澄が細川政元のために和歌会を催す。 後法興院記、公藤公記、実隆公記
6月27日 高野山に逃れていた澤蔵軒が薬師寺元一の仲介によって細川政元から宥免、召還される。 後法興院記、宣胤卿記
6月頃 細川政元が安富元家を召し返す。 文亀年中記写
7月27日 周防に下国していた前将軍義尹が「西国御上洛必定」との噂あり。 大乗院寺社雑事記
7月末頃 安富元家が死去する。 文亀年中記写
8月24日 慈雲院が六郎(澄元)と共に、周防の大内義興に宛てて、前将軍義尹(義稙)からの御内書への御礼を送る。 安富勘解由左衛門尉筆記
9月3日 薬師寺元一の実弟・寺町又三郎が逐電する。 後法興院記
9月4日 薬師寺元一が謀反の露見により、淀藤岡城に籠もって挙兵する。京兆家内衆にも政元に背く者が多数。討伐のため元一の弟・長忠が派遣される。下京では徳政一揆が起こる。「天下既可及大乱」との評あり。 後法興院記、実隆公記、宣胤卿記、二水記、宗典僧正記
9月6日 京兆家被官の西岡衆の多くが薬師寺元一に同意して神足城に挙兵。これを鎮圧するため、幕府方から上野政益、上野元治、安富元治、内藤貞正らが派遣される。 後法興院記、実隆公記、宣胤卿記、二水記
9月7日 西岡で合戦があり所々焼失。一揆により下京が焼かれる。澤蔵軒が薬師寺元一に同意して京都を出奔する。 実隆公記、宣胤卿記、二水記、宗典僧正記
9月9日 明応8年に澤蔵軒に敗れて以来、河内に没落していた筒井順賢、成身院順盛が大和へ帰国する。 大乗院寺社雑事記
9月10日 西岡神足城で合戦があり、薬師寺方の寺町又三郎、幕府方の安富元治が討死する。安富は入水による自害との説あり。 後法興院記、宣胤卿記、大乗院寺社雑事記
9月10日 興福寺別当光慶と越智家全が大和国衆の和睦を図り、筒井順賢、成身院順、古市澄胤興福寺修南院に会合する。 大乗院寺社雑事記
9月16日 西岡神足城が没落、薬師寺方の与力・四宮長能父子は淀藤岡城に逃亡する。 後法興院記、宣胤卿記
9月17日 幕府方の諸勢が淀藤岡城へ発向。上野元治、上野政益、香西元長、内藤貞正、佐々木小三郎(山内就綱)、伊庭六郎、柳本長治、武田衆、波多野元清ほか、近郷の土一揆等が従軍する。 後法興院記
9月19日 淀藤岡城が落城し、四宮長能父子が自害する。薬師寺元一は逃亡しようとしたが、香西元長によって生け捕られて京都に送られる。澤蔵軒は真木島城から没落し行方不明となる。 後法興院記、実隆公記、宣胤卿記、拾芥記、二水記
9月21日 薬師寺元一が京都において切腹する。前将軍義尹方の畠山尚慶、慈雲院らが薬師寺方に同意して軍勢出張の噂あり。大和へ逃亡していた澤蔵軒が成身院順盛と共に没落する。 後法興院記、実隆公記、宣胤卿記、拾芥記、二水記、大乗院寺社雑事記
同日 筒井順賢が古市を攻撃し、古市澄胤父子を追い落とす。続けて古市方の山村、鹿野園、窪を焼き討つ。 大乗院寺社雑事記
9月22日 筒井順賢が今市堤城を攻め落とす。幕府方より内堀次郎左衛門尉が派遣されるも間に合わず。23日、内堀衆が法花寺に乱入して略奪する。 大乗院寺社雑事記
9月25日 三好之長が阿波に挙兵して淡路へ侵攻する。畠山尚慶が河内へ侵攻するため、紀伊から出張する。筒井順賢の攻撃により、越智以下の幕府方が没落する。 後法興院記、宣胤卿記
9月27日 細川政元が山城・摂津両国の寺社本所領および公卿の領地を被官に宛行おうとしたため、公卿達はこれを止めるよう将軍義澄に要請する。 後法興院記
10月2日 大和に蜂起した筒井順賢、成身院順盛らへの対処と澤蔵軒の追討のため、細川政春・高国父子、細川政賢など細川一門の諸勢が出陣する。 後法興院記、宣胤卿記、二水記
10月4日 畠山尚慶が河内金胎寺城を攻め落とす。 大乗院寺社雑事記
10月7日 幕府より石清水八幡宮に宛てて、香西元長による石清水八幡宮領・西岡西八条への違乱を止めさせると通告する。 石清水文書 菊大路家文書
10月13日 河内国の大半が尾州家方となる。四国勢と申し合わせているとの噂あり。 大乗院寺社雑事記
11月21日 細川政元大和国衆の和睦を図る。27日、大和国衆が会合を行う。 大乗院寺社雑事記
12月9日 木幡および御室戸に布陣していた細川政春、細川政賢が開陣する。南都の衆徒・国人らが和睦する。 後法興院記、二水記、大乗院寺社雑事記
同日 若狭守護・武田元信が帰国する。 後法興院記、実隆公記、宣胤卿記
12月10日 細川政元の養子・聡明丸(後の澄之)が細川政賢を烏帽子親として元服、幕府に出仕する。政元は茨木に在国。 後法興院記、実隆公記、宣胤卿記、二水記、大乗院寺社雑事記
12月15日-18日 畠山義英が高屋城に畠山尚慶と面会し、和睦するとの噂あり。 後法興院記、実隆公記、大乗院寺社雑事記
12月24日 細川政元の仲介により、畠山両家和睦への協力を求める御内書が幕府から根来寺に下される。27日、両畠山家が河内に会合して和睦する。 大乗院寺社雑事記、室町家御内書案、南行雑録
永正2年(1505) 1月15日 将軍義澄の宴の場で細川政元が諸大名和睦の事を申し出るも、義澄が聞き入れなかったため、政元は立腹して途中退出する。 後法興院記
1月26日 将軍義澄が大友親治父子に宛てて「九州之儀」に忠節を尽くしたことを賞する御内書を下す。大内高弘(義興と敵対し大友氏の元にいた異母兄弟)にも大友父子に協力したことを賞する御内書を下す。 御内書案
2月3日 越智家全、箸尾為国が成身院に礼。筒井順賢が上洛する。4日、布施行国、箸尾為国、越智家全、十市遠治、筒井順賢が春日社に起請文を捧げて会盟する。 興福寺英俊法印日記
2月14日 将軍義澄が今熊野にて観梅し、春林寺にて細川政元の命を受けた薬師寺長忠の饗応を受ける。前日には近辺で武士の抗争の噂があったが、虚説であった。 後法興院記
3月15日 細川政元が淡路へ下向する。 後法興院記
4月24日 細川政元が摂津より上洛する。 後法興院記、実隆公記
5月10日 細川政元龍安寺にて亡父勝元の三十三回忌法要を催す。 実隆公記
5月 細川政元が細川尚春、上野政益、安富元顕、香川満景らを讃岐に派遣し、敵方数百人を誅戮した後、撤退する。尚春の留守中に三好之長が淡路へ侵攻し、守護館を焼く。 後法興院記
6月10日 逃亡していた澤蔵軒が細川政元の赦免を受けて上洛し、政元に面会する。13日、澤蔵軒が切腹するとの噂があったが、何もなく、元の領地を返還された。 大乗院寺社雑事記
8月1日 堀次郎左衛門尉が細川政元に背いて宇治を出奔する。 興福寺英俊法印日記
8月2日 澤蔵軒が山城国に入部する。 興福寺英俊法印日記
8月28日 越智家全、筒井順賢、箸尾為国、十市遠治が上洛し、一両一匹衆まで悉くが起請文に連判する。 興福寺英俊法印日記
9月10日 香西元長が半済の徴収を拒否されたことに怒り、軍勢を率いて山科、一乗寺、高尾を焼き討つ。細川政元が追罰すべく山科へ向かったため、香西は嵯峨に退去する。 実隆公記、二水記、拾芥記、興福寺英俊法印日記
11月27日 細川政元の命により、澤蔵軒および摂津国人諸勢が畠山義英を討伐すべく河内に派遣される。 興福寺英俊法印日記、東寺過去帳
12月23日 前将軍義尹が畠山義英に御内緒を下し、上洛の際には畠山尚慶と共に忠節を誓ったことを賞し、来年2月10日に周防を出発することを伝える。 興福寺英俊法印日記
永正3年(1506) 1月26日 澤蔵軒が畠山義英が籠もる誉田城を攻め落とす。義英は高屋城に逃れる。 公藤公記、興福寺英俊法印日記
1月28日 澤蔵軒が河内高屋城を攻め落とし、畠山尚慶と畠山義英は共に大和へ逃亡する。 実隆公記、宗典僧正記、興福寺英俊法印日記、宣胤卿記、公藤公記、尚通公記
2月19日 三好之長が上洛する。 興福寺英俊法印日記
4月21日 細川六郎(澄元)が京兆家の家督相続のため上洛する。薬師寺長忠らがこれに従う。 尚通公記、宣胤卿記、興福寺英俊法印日記、拾芥記
4月26日 細川六郎(澄元)が故安富元家の邸宅に移る。 尚通公記、宣胤卿記、大乗院寺社雑事記
4月27日 細川政元が若狭守護・武田元信と協力して一色義有を討伐すべく、細川澄之を大将に細川政賢を付け、丹後に派遣する。 尚通公記、実隆公記、大乗院寺社雑事記

長くなりましたが、ざっと読んで、どのように感じられたでしょうか?

軍記などでは、後の経緯を知る著者の推測よって、尤もらしく解説されていることが多いですが、その過程で無視されたり、端折られている出来事は少なくありません。そして、通史における史料解釈も、案外その影響を強く受けているのではないでしょうか。

たとえば、周防の大内氏の元にいた前将軍義尹は、永正4年6月に細川政元が横死した後の混乱を狙って上洛したと説明されることが多いのですが、実は永正元年7月頃には上洛確実との情報が興福寺にもたらされており、その徴証として、讃州家からは慈雲院と、まだ無名であったはずの六郎の両者が、大内義興を介して義尹への返答を送っていたことが分かりました。

また、薬師寺元一の挙兵はここぞという時機を狙ったわけではなく、陰謀が露見したためにやむなく籠城に至ったものの、彼は孤立していた訳ではなく、内衆の大半が政元に背き「天下既可及大乱」と報じられるほど、京兆家に動揺が見られていたことも分かります。

そして、これに呼応するかのように、畠山尾州家与党の筒井順賢と成身院順盛が河内から大和へ帰国し、敗れて逃亡した澤蔵軒が匿われ、幕府がその対処に追われていたことが、はっきりと分かります。

尾州家の畠山尚慶とその与党である大和国人、そして讃州家の慈雲院が共同して軍事行動を起こしている事実は、この反乱が京兆家における下剋上や後継者争いに収まるものではなく、本来は前将軍義尹の上洛を見据えた大きな政変であったことの証左だと考えます。

しかし、挙兵から12日後には神足城、15日後には薬師寺元一が籠もる淀城も早期に鎮圧されてしまい、もはや動揺を長引かせることが難しくなったために、畠山尚慶と慈雲院は無理をせず兵を退いたのでしょう。

対する細川政元は、大和国衆の和睦を図ったり、自ら摂津に赴いて両畠山家への和睦を働きかけるなど、意外に感じられた方もいるかもしれませんが、そうして矢継早に対策を講じたことが、永正元年末から2年にかけての猶予を作り出し、讃岐への軍勢派遣を可能にしたと考えます。

また、この猶予期間に、聡明丸が典厩家当主・細川政賢を烏帽子親として元服していることも見逃せません。

語りたいことはたくさんありますが、今回はとりあえず、ここまでにしておきます。

参考書籍、史料、論文等

天野忠幸 編『戦国武将列伝7 畿内編【上】』(戎光祥出版)

おなじみの戎光祥出版から発刊されました「戦国武将列伝」シリーズより、上下巻に分けられた(英断だと思います!)畿内編です。

上巻は細川政元以後、三好長慶以前という感じの面々ですが、政元期京兆家の人々がここまで採り上げられた一般書は、初めてだと思います。

薬師寺元一の乱に関する内容は、だいたい以下の項となります。

感想はここでは控えますが、今後は当分の間、この内容が基礎知識となることは間違いないと思います。

平井上総 編『戦国武将列伝10 四国編』(戎光祥出版)

同じく「戦国武将列伝」シリーズの四国編です。

なぜ四国編?と思われた方もいるかもしれません。私も当初はそう思いましたが、ここに安富元家が選出されているのです。

  • 嶋中佳輝「安富元家・元保――細川氏を支える東讃岐の大将」

安富元家と細川政元の関係には「解釈一致!!」と叫びたくなること請け合いです。(?)

元家の死去については、これまで遁世後いつの間にかいなくなってるとか、淀城で討死したといった誤解も広まっていたようですが、『文亀年中記写』で明らかとなった死去の時期と、その前月に政元から召還されていることが、こちらでも触れられています。

また、僕が個人的に推している浦上則宗との関係も、元家の子息が浦上家に養子入り(浦上祐宗)した件だけでなく、元家の危機を支援すべく則宗が海を越えて援軍を送ったことにも触れられていたのが嬉しかったです。

そして、元家が死してなお受け継がれていった、安富又三郎・安富筑後守の名。なぜ四国編なのか、読めば分かると思います。

末柄豊「『後鑑』所載「南都一乗院文書」について」

末柄豊先生の業績一覧より、書籍で読むことができない論文のPDFを公開されている中から、文亀4年の京兆家評定衆について書かれた史料が含まれる「南都一乗院文書」について解説された論文です。

〔註〕(20)に、安富元家の遁世事件とその後の顛末について書かれた内容が他の史料には見えないもので、これまで推定する他なかった元家の亡時期が判明したことが説明されています。前述の嶋中先生の項と併せての一読をおすすめします。

安富元家に限らず、そもそも京兆家評定衆とはなんぞや?という方にも参考になる内容です。

和田秀作 編[戦国遺文 大内氏編 第2巻](東京堂出版

戦国オタクにはおなじみの「戦国遺文」シリーズ、大内氏編の第2巻で、明応6年から大永7年にかけての大内氏の動向に関する文書1042通が収録されています。

薬師寺元一の乱に関して、大内氏というか義尹側からのアプローチの記録が無いものか探したところ、永正元年8月24日付の「大内左京大夫」(義興)宛て、「六郎」(細川澄元)と「道空」(細川成之)の書状を見つけた次第です。

この書状の存在を知ったことは、今回の記事に至る大きな原動力となりました。

木下聡『史料紹介「大和家蔵書」所収「大館陸奥守晴光筆記」・「安富勘解由左衛門尉筆記」』

前述の永正元年8月24日付の大内義興宛て、六郎書状と道空書状が収録された「安富勘解由左衛門尉筆記」を含む、「大和家蔵書」を紹介されている論文です。

京兆家奉行人・安富勘解由左衛門尉元盛が残した書札礼に関する故実書だそうで、中には「御書宛所大略」という相手の身分に合わせた宛所の書き方など、興味深い内容もありました。

例の六郎書状の冒頭には「永正元細川殿御書」と注記され、日付・宛所が同一の道空(慈雲院)書状には「永正元讃州之状也」とありますが、内容からは「六郎」がまだ無名であった細川澄元のことで、どちらもおそらく上洛に際して軍勢支援を求めた御内書への返礼であることが窺えます。

この書状がそうなのかは分かりませんが、ここでしか確認できない書状の写しも含まれるそうです。翻刻文も掲載されていますので、気になった方はぜひ、論文にてご確認ください。

なお、「安富勘解由左衛門尉筆記」に記された伝来過程によると、勝元期の文明5年3月16日「安富勘解由左衛門尉」(安富元盛)と「秋庭備中守」(秋庭元明?)によって筆記されたことから始まり、政元期に「上原次郎左衛門尉」(上原元秀?)と「斎藤藤兵衛尉」によって書写され、さらに高国期の永正11年8月「一雲軒」(上野元治?)の申請によって書写されたとのこと。

発給文書はあまり残っておらず、素行の悪さばかりが注目されがちな上野元治ですが、高国期には外交文書に携わる機会がある、それなりに重要な立場にあったらしいこと、あるいは、本人の自意識の高さが窺えるような。

東京帝国大学文学部史料編纂掛 編『古文書時代鑑 続編 上』

昭和2年東京帝国大学文学部史料編纂掛より出版、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる「足利義澄自筆願文」の画像が収録された書籍です。

文亀2年12月25日に石清水八幡宮に奉納された、「今出川義材死去事」で始まるあの有名な願文は、こちらで見ることができます。

Webで検索すればどこかのブログ記事などでも見られますが、出典元が明記されておらず、今回改めて探してみたところ、ここに発見した次第です。