k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りを楽しむために学んだことを公開している「学習メモ」です。

室津海駅館 特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』の感想

10月26日、たつの市御津町室津にあります、室津海駅館の特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』を観てきました。

もうそろそろ終盤に入ろうとする大河ドラマ軍師官兵衛』ですが、そこで描かれた官兵衛の播磨時代では、信長との関係(というか一方的な憧れ)ばかりが強調されて、小寺氏が擁立していた赤松宗家の存在は無かったことにされるわ、織田と毛利の間で揺れる播磨や備前の情勢を描く上で重要な役割となるはずの浦上宗景は名前すら出てこないわ、序盤の強敵として登場したはずの龍野赤松氏の赤松政秀も、ナレーションすらなくいつの間にか代替わりしている始末…。

渡邊大門先生の『戦国誕生』を読んで戦国時代の前期に興味を持って以来、赤松氏を入口として播磨戦国史を学んできた自分としては、せっかく播磨が大河ドラマの舞台となったというのに、あれでは織田と毛利の間で苦渋の選択を迫られた中小勢力の悲哀が全く視聴者に伝わらないし、何より福岡で大名として大成してからも播磨時代の地縁を大事にしたことは官兵衛の人柄を描く上で重要な要素だろうに、それが黒田家臣団の結束という形でしか描かれなかったことは実に勿体ないと感じます。

ドラマももうすぐ終わろうというこの時期に『播磨を生きた官兵衛』と題した展示が催されたのも、そういう消化不良な気持ちを汲み取ってのことかなと、勝手に想像した次第です。

前置きが長くなりましたが、今回の展示では官兵衛に限らず播磨の戦国時代の背景を知る史料と、室津と官兵衛の関わりとして今も残る「八朔のひな祭り」、黒田家の研究で知られる本山一城先生のコレクションなどが見られたほか、この日はその本山先生による「黒田官兵衛とたつの」と題した講演が開かれました。

会場内は撮影は禁止ですが、幸いなことに図録を購入できましたので、これを頼りに感想を書きます。

浦上村宗禁制札(備前市吉永美術館蔵)

永正十八年(1521)九月、播磨・備前・美作の国境にあるという天台宗の寺院、八塔寺に宛てて出された禁制です。

定 八塔寺

一、可被再興本堂造立仏像事

一、可被専勤行事

一、座方之輩不可背衆徒下知事

一、四方一里之内山留事

一、守護使不入事

右条々、任先規掟之旨、可有其沙汰、若於 違反之族者、 就交名注進、可被処罪科也、 仍所定如件

永正十八年九月 日

掃部助 (花押)

永正18年(1521)といえば、浦上村宗にとっては非常に重要な年になります。

村宗は先代赤松政則の夫人・洞松院の後見のもと宗家を継いだ赤松義村を主家としてきましたが、永正16年に自立を図ろうとした義村によって出仕を停止させられて以来、2年近くに渡って派遣された討伐軍を撃退し、永正17年11月にはすでに義村を出家させるとともに、義村嫡子の政村と義母の洞松院、義村正室の3人を室津に迎え入れており、守護としての実権をも掌握しようという状況にありました。

この永正18年に義村は再び挙兵するも一族の裏切りにより失敗、和睦という形で両者の対立は終結し、村宗は同年5月、細川高国の要請を受け、赤松宗家の置塩館で養育されていた前将軍・足利義澄の遺児亀王丸(後の義晴)を上洛させた後、室津の見性寺に幽閉していた義村を殺害したのです。

畿内では、将軍家を巡って義稙(義材)派と義澄派に分かれていた有力守護家同士の争いに加え、畿内随一の勢力を誇る細川家が政元亡き後の管領の座を巡り讃州家出身の澄元派と野州家出身の高国派に分裂、永正17年(1520)には澄元方の有力者であった三好之長が敗死、間もなく澄元も病死したことで弱体化していた澄元派に対して、京都を制圧した高国派の方でも、大永元年(1521)3月に将軍義稙が淡路へと出奔し、幕府は肝心の将軍を欠くという事態に陥っていました。

そんな状況の中、これまで澄元派であった赤松氏の実権を握った村宗が、義澄の遺児を将軍として擁立するという離れ業によって高国派に多大な貢献を果たし、これから飛躍しようという頃に出されたのが、この禁制というわけです。

この時期に村宗が八塔寺の辺りまで勢力を広げていたことが分かる史料で、内容的には仏事に専念することを奨励しているものですが、これまで定めてきた条々を引き継ぐもののようで、ここから60年以上も経た天正10年(1582)8月6日付にも、「仍所定如件」を「仍下知如件」に変えただけのほぼ同じ禁制が「八郎」(宇喜多秀家)の記名で出されています。

なおWikipediaによると、この4年前に当たる永正14年(1517)に置塩城主・赤松義村と三石城主・浦上村宗との間で八塔寺合戦が行われ、本堂・伽藍等が焼失したとのこと。八塔寺はかつて「西の高野山」と称された大きな寺院だったようですが、三ヶ国の国境に当たるため度々兵火に遭ったようです。

禁制に記された「可被再興本堂造立仏像事」の背景にはそういう経緯があったのですね。

浦上政宗感状(高橋秀知蔵)

こちらは天文9年(1540)と見られる、浦上村宗の子・政宗から家臣の高橋平左衛門に宛てて出された感状です。

去年於室構、日夜 粉骨無比類、殊於和泉 堺、被相届候条神妙也、 必恩賞可申沙汰候也、恐々謹言

四月十一日 政宗 (花押)

高橋平左衛門尉殿

享禄4年(1531)6月、摂津天王寺の戦いで赤松政村が細川六郎(澄元の子、後の晴元)を擁する堺方に寝返った「大物崩れ」の敗戦によって高国政権は一挙に崩壊、浦上村宗も乱戦の中で討死しましたが、同年10月には村宗の嫡子・虎満丸を叔父の国秀が後見する体制で立て直した浦上方が蜂起、今度は政村が敗退して明石城へと逃れる事態になり、播磨では天文5年(1536)頃に至るまで、再び赤松方と浦上方に分かれた内戦が続きました。

そのような状況で、すでに美作・備中・備前へと進出していた山陰の雄・尼子氏は、祖父経久から家督を継いだばかりの詮久が大軍を起こし、天文6年(1537)末頃から播磨への侵攻を開始しました。

浦上氏は政村と和睦して共に尼子氏に抗戦する道を選んだようで、政村の偏諱を受けた浦上政宗はまだ元服して間もない年頃と思われますが、天文8年(1539)に「室の構」で尼子勢を迎え撃つことになりました。

皮肉なことに、これまで浦上氏との対立で赤松宗家を支えてきた重臣の小寺則職や明石修理亮などはすでに尼子方に降伏しており、天文7年(1538)11月に赤松政村は本拠地の置塩城を捨て、淡路へと逃れる事態に陥っていました。

天文8年(1539)4月、政村は阿波守護・細川持隆の援助を受けて播磨へ帰国し、三木城の別所氏を頼ったものの、別所氏も尼子方に通じたと疑われたため、再び播磨を離れて堺へと逃れています。

現在の室津港から見た室山城跡

赤松晴政感状(中村文書)

浦上政宗は前述の高橋平左衛門尉に宛てたものと同じ日付で、ほぼ同じ内容の感状を中村三郎左衛門に宛てて出しているのですが、足利義晴偏諱を授かって名を改めた赤松晴政からも、その3日前に当たる四月八日に感状が出されています。

これは今回の展示品ではないのですが、2004年に開催された特別展『室山の城 -語りつがれた謎の歴史-』の図録に掲載されているものです。

去年室要害、浦上 与四郎相践之処、無別儀 楯籠、殊今度、至和泉堺、 馳来之条神妙候、弥忠義 肝要候、必可褒美、恐々謹言

四月八日 晴政 (花押)

中村三郎左衛門殿

室津での戦いの詳細は分かりませんが、ここでも「室要害」において浦上与四郎(政宗)と共に戦ったことが記されており、政宗は赤松方として室津で防戦したものの敵わず、政村と共に堺へと落ち延びていたと察せられます。(政宗は踏みとどまって戦ったとする説もあって、よく分かりませんが…。)

晴政の播磨帰国が叶ったのはそれから1年以上を経た天文10年(1541)3月のことですが、それも自力ではなく、尼子氏が天文9年9月から天文10年1月にかけて行った安芸侵攻で、大内方の毛利氏が篭もる郡山城の攻略に失敗するという結果を受けてのことでした。

なお、後の天文21年(1552)以降、備前・美作を含む八ヶ国の守護職に補任された尼子晴久が再び侵攻した際、浦上政宗は尼子方に付きますが、政宗の弟・宗景は兄と袂を分かって毛利氏の支援のもと反尼子の戦いを繰り広げ、一方で将軍義晴によって備前・美作守護職を奪われた赤松晴政は、晴元政権を打倒して畿内の覇者となっていた三好長慶を頼ることになります。

岡山県立博物館企画展『岡山の城と戦国武将』の感想(前編)をご参照ください。)

播磨国古城所在図(姫路市立城内図書館蔵)

近世に描かれたと思われる地図で、この図録の表紙にもなっている史料です。

東は三木郡・明石郡から西は佐用郡赤穂郡までの播磨国内の各城と街道が描かれており、時代にばらつきがありますが、城には城主の来歴なども記されています。

室津には多くの舟らしき絵とともに町並みや城らしき建物が描かれ「置塩二代将 赤松兵部少輔政村住」と記されています。

御着城らしき城に「小寺相模守頼秀住 天河元祖」、妻鹿城に「小寺藤兵衛尉政職住」と記されているなど、興味深い箇所もあります。(後者については、芥田文書には天文17年に小寺則職が別所家臣の妻鹿氏を討った記録があるそうで、その時のことでしょうか?)

また、宍粟郡安志には「別所安治住」と記されていて、別所氏が足利義昭を擁する信長の上洛に伴い幕府方となった永禄11年から元亀年間にかけてのことと思われますが、別所氏の勢力が相当西まで食い込んで来ていることが察せられます。

個人的には「後尼子助四郎勝久」と記された赤穂郡「尼子山高野山城」も気になるところです。尼子山といえば尼子将監のものと伝えられる墓なども現存していて、尼子氏による播磨侵攻の数少ない痕跡には興味が湧きます。

なお、前回紹介した感状山城には「初赤松則祐住」とだけ記されており、やはり戦国時代の動向は伝わっていないようです。

村田出羽伝(村田家文書)

井口(いのくち)兵助こと村田出羽守吉次の外曾孫、吉田定俊の著作で、講談本「夢幻物語」の原本だそうで、有名な広峯神社に関わる黒田家の目薬伝説が記された内容とのこと。

村田出羽は「黒田二十四騎」に数えられ、朝鮮における虎退治で名高い菅六之助正利と並んで朱具足の着用を許された勇将とのことです。

(以下、本山一城先生の講演配布資料による)

井口氏は古くから赤松氏に仕え、印南郡井口城主となった井口家全は嘉吉の乱で戦死、揖西郡栄城に移った家繁は天文3年(1534)に浦上方と戦った朝日山合戦で戦死しています。

黒田家とは天文年間に栄にいた頃から関係を持っていたようで、黒田重隆の三男(官兵衛の叔父)で井手氏を継いだ勘右衛門友氏は、天文7年(1538)に井口家で生まれたとのこと。(青山合戦で討死)

吉次と共に官兵衛に仕えた三人の兄は皆討死しており、吉次は筑前入国後に官兵衛の命で鍋島直茂重臣の村田姓を名乗ったそうです。

なお「夢幻物語」は黒田家の目薬伝説がフィクションであると示す時によく名前を挙げられますが、本山一城先生曰く、実は読みやすく翻刻された本が存在しないそうで、今その作業を行っているとのことでした。直接子孫の方を訪ね回っておられることといい、フィクションだからと読みもせずに切り捨てるのではなく、そこから丹念に玉を探し出そうとする本山先生の姿勢には敬服しました。

本山一城先生の講演「黒田官兵衛とたつの」より、青山合戦のこと

官兵衛と黒田家を中心とした本山先生の講演も面白かったです。

多伎に渡る内容で詳細はあまり覚えていないのですが、永禄12年(1569)の青山合戦がスケールの大きい戦いであったことを強く仰っていたのが特に印象に残っています。

おそらく前述の別所安治が播磨北西部にかけて広く勢力を拡大したのもこの時のことで、別所氏は織田軍とともに幕府方の先陣として龍野の赤松政秀と連携し、これに対して置塩城の赤松義祐を擁する小寺・黒田氏が抗戦したのが8月の青山合戦で、母里一族24名が戦死という大きな犠牲を払いつつ何とか撃退したとされています。

しかし、戦いはこれで終わったわけではなく、更に翌9月には備前浦上宗景が置塩方に加勢して室津を攻撃、10月に織田軍が室津を奪取、11月に赤松政秀が再び青山へと進軍した隙を突いて浦上宗景龍野城を攻撃して政秀を降伏させ、12月には織田軍を撤退させたとのこと。

元亀元年には海路加古郡から上陸した浦上宗景は、別所氏の三木城にまで進出して城下を焼いており、一連の戦いで浦上宗景の果たした役割は非常に大きかったようです。英賀城の三木氏も小寺の与党ですし、室津を確保したことで制海権を掌握できたのが大きかったのでしょう。

青山合戦のことは、当時幕府方であった織田と毛利の間で使僧を務めた朝山日乗の書状にも書かれているそうです。(日乗は青山合戦の際に軍監を務めており、敗戦により失脚したとのこと)

室津の史跡

室山城跡は現在、その一部が「室津二ノ丸公園」として整備されています。

二ノ丸に当たる場所は平成9年から14年にかけて5回の発掘調査が行われ、5つに分かれた曲輪から備前焼の鉢、白磁青磁などの貿易磁器、更に安土桃山時代と思われる瀬戸・美濃焼の椀や皿に加えて、江戸時代初期の唐津焼も出土しているそうです。

なお、17世紀中頃からは遺物の見られない空白期を経て、「室津千軒」と称された18世紀中頃の繁栄期後再び生活道具が現れているため、廃城の時期は17世紀初頭から中頃と考えられるそうです。

発掘調査で見つかった土塁や竪堀の跡も、今は何も残っていません。

室津の観光案内板。室津城跡からも程近い中央部には、赤松義村が最期を迎えたと伝わる見性寺も見えます。

現在の見性寺。

解説板には戦国時代のことは何も触れられていませんでしたが…。

現在でも浦上氏の子孫の方が関わりを持っているようです。

治承4年(1180)3月、厳島参詣の途中に室津で一泊した平清盛が旅の安全を祈願したという、賀茂神社

文政9年(1826)にはシーボルトも立ち寄ったとか。

大きな社殿は江戸時代の繁栄ぶりを彷彿とさせてくれます。

賀茂神社には狩野元信の「神馬図額」2面も伝わっていたそうですが、現在は東京国立博物館に保管されているとのこと。

狩野元信といえば、甲冑姿の細川澄元像や道服姿の細川高国像が有名ですね。(自分の中では!)

室津海駅館特別展「播磨を生きた官兵衛~乱世の中の室津~」は11月24日まで開催中です!

なお、11月16日には展示説明会も行われるようです。

参考

  • 室津海駅館 特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』図録(たつの市教育委員会

  • 室津海駅館 特別展『室山の城 -語りつがれた謎の歴史-』図録(御津町教育委員会

  • 播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)

    • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
    • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本

備前浦上氏 中世武士選書12

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