k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

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将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情

三好長慶死後の三好氏といえば一般には、将軍・足利義輝を「暗殺」した後、松永久秀三好三人衆が対立して争う間に、「天下布武」を掲げて全国統一を宣言した織田信長が、義輝の弟・義昭を擁立して上洛を開始し、その怒涛の進撃の前に三好方は為す術もなく崩壊したと認識されていると思います。

前回の記事(三好長慶の畿内制覇と本願寺「石山合戦」への道)では、三好長慶が独力の裁許による支配体制を構築するに至りながらも、将軍・足利義輝の権威を必要とした経緯に触れましたが、その三好政権が長慶の死後、なぜ将軍を殺害するに至ったのでしょうか。

また、三好政権はかつての主筋である阿波守護・細川持隆が庇護していた「阿波公方」足利義冬の子・義栄を擁立し、在位期間は短いながらも義栄を将軍とする新たな体制で幕政を運営しました。しかし、その過程で松永久秀父子に続き、三好宗家を継いだ三好義継までもが政権から離反してしまったのです。

従来、松永久秀三好政権を壟断しようと企んで三人衆と対立した後、信長の上洛に際してその猛勢に恐れをなして降伏したと捉えられてきました。しかし、三好政権における久秀の実像や将軍義輝を殺害した「永禄の変」の背景を知るほどに、そのような解釈に疑問を感じるようになりました。

長慶の死後から「阿波公方」の擁立に至るまでの経緯をまとめつつ、三好長慶と将軍・足利義輝の静かな戦いを振り返るとともに、なぜ松永久秀が三人衆と対立したのかについても、妄想を交えながら考えてみます。

三好政権による将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」の経緯

永禄7年(1564)7月4日、「天下執権」たる地位に上った三好長慶が病に斃れてしまいます。三好宗家の家督を継いだのは養子となっていた孫六郎重存(後の義継)で、長慶の死は遺言に従って秘匿されることとなりました。

重存はまだ15歳にも満たない少年であったため、最長老として三好一族を代表する地位にあった三好日向守長逸、かつての政敵・三好政長の子の三好下野守、長慶に見出されて奉行衆から出世した岩成友通という、三者三様の「三好三人衆」と、大和一国を任されるとともに朝廷との交渉でも重要な役割を果たした松永久秀、その弟で丹波方面を任されていた内藤宗勝(松永長頼)の5人を中心に政権の再興が図られました。

畿内を実力で制した三好長慶はその晩年、22歳の若さで病没した嫡子・義興の死に際して、三好氏の菩提寺である南宗寺の住持・大林宗套に葬礼を行わせ、将軍の葬礼を担当する五山(足利氏が臨済宗の中でも南禅寺を頂点とした5つの寺院を別格と定めた)の禅僧を勤仕させるとともに、関白九条家の血筋を継ぐ重存を後継者に定めるなど、最期まで足利将軍家の権威への挑戦を続けました。

そんな長慶の意志を継いだ重存は、一挙に足利将軍家との関係に決着を付けようとしたものか、ついに実力行使に及びます。

永禄8年(1568)5月1日、三好長逸や松永久通らを率いて義輝の元に出仕した重存は、左京大夫の官途とともに偏諱を授かって名を「義重」と改めますが、5月18日に一万の軍勢を率いて再び上洛した翌日の5月19日の朝、将軍義輝の御所を包囲して討ち入り、将軍を殺害してしまったのです。

この「永禄の変」では、義輝の弟で鹿苑寺の僧であった周嵩、義輝の母の慶寿院、そして義輝の子を身籠っていたという側室の小侍従が殺害され、小侍従の父・進士美作守晴舎を始めとする多くの近臣たちが討死、あるいは自刃しました。

翌日には公卿の久我家や高辻家、近衛家が討たれるという噂も流れ、一時は都が騒然としていたことが窺えますが、21日には三好義重の代理として三好長逸天皇に参内して酒を下賜され、22日には奉公衆や奉行衆ら幕臣が三好義重や松永久通の元に出仕し、騒ぎは収まることになりました。

なお、塚原卜伝の弟子であったという「剣豪将軍」義輝が将軍家伝来の名刀を次々と取り替えながら敵を切り倒したという逸話が知られていますが、『言継卿記』など当時の記録にはそのような記述は見られません。

この逸話の最初の出所は、室町末期から江戸初期の間に成立したと考えられている軍記『足利季世記』の「公方様御前に利剣をあまた立てられ、度々とりかへ切り崩させ給ふ御勢に恐怖して、近付き申す者なし」(永禄の大逆 足利季世記より)という記述だと思われますが、その元ネタの一つとして知られる『細川両家記』には「乙丑五月十九日に二条武衛陣の御構へ人數押入御生害候上は。御内侍衆討死候也。」と記されているのみです。

(『細川両家記』は上巻が天文19年、下巻が元亀4年に書かれた軍記ですが、内容的には一次史料の隙間を補完するに足る、信憑性の高い書物として扱われています。)

一方、当時の伝聞を記録した書物として(宗教絡みの事柄を除けば)信頼性が高いとされるルイス・フロイスの『日本史』には、自ら武器を取って戦った将軍の奮戦を称える記述があります。

軍記というものの性質上、当然『足利季世記』には創作が加えられているでしょうが、一万もの兵に襲撃されながら二時間以上持ちこたえたことは『言継卿記』にも記されており、確かに将軍とその側近達は最後の意地を見せたのでしょう。

「永禄の変」で実力行使に及んだ三好政権の狙いと松永久秀の動向

三好政権にとって、将軍・足利義輝はそれほど放置できない危険な存在だったのでしょうか。三好長慶の生前に遡ってみます。(ちょっと長くなり、余談も増えます)

永禄元年末の将軍義輝との和睦以来、三好長慶はその権威を利用して、大友氏を動かして讃岐西部への進出で対立する毛利氏を牽制、あるいは旧信濃守護・小笠原長時の旧領回復を支援するよう長尾景虎に働きかけるなど、外交戦略を有利に運びました。

武田信虎の甲斐追放と「武田入道」の在京奉公でも少し触れましたが、旧領回復を狙って上洛した小笠原長時は、阿波小笠原一族の後裔を称する三好氏の客将となっていました。長時は義興を通じて筑前守(長慶)の病状を知っていたり、細川晴元の嫡子六郎の馬術指南を勤めるなど、三好政権に深く関わっていました。謙信と信玄の「一騎討ち」で知られる永禄4年の第四次川中島の合戦の発端には三好氏の意向が絡んでいた可能性があります。)

また、畠山氏の内紛に介入して河内へと進出、永禄5年3月の久米田の戦いでは弟の三好実休を失う痛手を負ったものの、5月の教興寺の戦いで畠山方を破り、松永久秀はその勢いで反三好方の諸城を落として大和を平定しました。

(なお、この時の多武峰衆徒との戦いでは大和柳生郷の土豪柳生家厳が松永方として参戦しており、父と共に戦功を立てた柳生新介、後の石舟斎が久秀から感状を受けています。柳生氏は以後も一貫して松永方として行動することになります。)

教興寺の戦いに勝利した三好氏は、畠山氏に呼応して京都を制圧していた六角承禎父子とも和睦、石清水八幡宮に避難していた将軍も帰京しましたが、この時義輝の伯父・大覚寺義俊が逃亡を図ったほか、これまで政所執事として三好政権に協力していた伊勢貞孝父子までもが近江坂本へ退去しており、畠山・六角氏の連携の陰では幕府から三好氏を排除する陰謀が動いていたことが窺えます。

大覚寺義俊は近衛前久の祖父・近衛尚通の子で、義輝と義昭の生母である慶寿院の兄という関係で、後には義昭を助けて越後上杉氏や越前朝倉氏への使者を務めるなど、その流浪期を支えたキーマンの一人となっています。)

一方で、微妙な立場に追い込まれ挙兵した伊勢貞孝が松永久秀によって討伐されると、将軍義輝はこれまで執事職を世襲してきた伊勢氏を政所から追放、代わって側近の摂津晴門を起用するなど、表面上は長慶に従いながらも将軍親政を強く志向していたことが明らかとなりました。義輝は決して三好氏の傀儡に甘んじるような人物でなかったのです。

将軍義輝との和睦を三好政権の幕府への屈服と捉え、兄弟の相次ぐ死と嫡子・義興の死で心を病んだ長慶の晩年は廃人同然だったなどと評されることがありますが、前述の通り、長慶が足利将軍家の権威に挑戦し続けたことは確かです。しかし、最終的に将軍義輝との関係にどう決着を付けるつもりだったのかは分かりません。

信長公記』には「三好修理大夫、天下執権たるに依って、内々三好に遺恨思食さるべしと兼て存知、御謀反を企てらるゝの由申掠め」と記されており、当時の世評では、長慶が将軍義輝の「御謀反」を理由として殺害したと見られていたことが窺えますが、実際にはすでに長慶は病没していたため、三好政権はこれまで以上に将軍の動きを警戒していたものと思われます。

フロイス『日本史』には御所を包囲した三好方が進士美作守に突きつけた訴状の内容として、将軍自身の命ではなく、将軍の愛寵を受けて懐妊していたという側室の小侍従と近臣達の殺害を要求していたことが記されている一方、『細川両家記』には将軍の正室である関白・近衛前久の姉は三好長逸によって近衛邸まで送り届けられたことが記されており、三好方には足利将軍家と関白近衛家の関係を断つ狙いがあったことが窺えます。

(そもそも、天文24年の時点で前久は元服の際に将軍義晴から賜った「晴嗣」の名を「前嗣」と改めており、前久は父の稙家以降から親密な関係にあった将軍家と距離を置こうとしていたようです。将軍が側室の小侍従を愛寵したというのも、そのような近衛家との関係の変化が影響したのではないでしょうか。)

また『言継卿記』には「阿州之武家可有御上洛故云々」とあり、三好方が11代将軍・義澄の子で義輝の伯父に当たる「阿波公方」足利義冬の擁立を企んでいることが噂されていたようです。

これらのことから考えると、三好方は当初から将軍の殺害を意図したわけではなく、義晴-義輝と続いた血筋を断絶させる代わりに、関白近衛家の協力を得た上で、阿波公方家を唯一の将軍家として存続させようとしたのではないでしょうか。将軍弑逆という大事件を起こしたにも関わらず、阿波公方の擁立まで1年半もの時間を必要としたのは、当初の計画通りに事が運ばなかったことを示しているように感じます。

なお、この三好政権による将軍義輝の弑逆は、近世以降、松永久秀の悪虐ぶりを示す逸話として語られてきましたが、当時の史料からは久秀の積極的な関与は認められません。

また、これまで久秀は覚慶を「幽閉」したと捉えられてきましたが、覚慶が義輝の死からわずか3日後の5月22日に松永久通に宛てた書状で「進退の儀気遣い候処、霜台(松永久秀)誓紙を以って別儀あるべからず由候間安堵せしめ候、弥疎略なきにおいては、別して祝着たるべく候」と記しているように、当時大和に在国していた久秀は、興福寺一乗院に入寺していた義輝弟の覚慶(後の義昭)に誓紙を提出してその保護を図りました。同じく僧籍にあった兄弟の周嵩が殺害されているにも関わらずです。

「阿波公方」の擁立により始まった二人の将軍候補を旗頭とする争乱

三好政権が「阿波公方」の擁立に至るまでの、両者の関係はどうだったのでしょうか。更に遡ってみます。

(写真は阿波平島の公方館跡)

まだ三好長慶細川晴元の麾下にいた天文16年(1547)、義冬は証如に援助を依頼して堺へと渡り上洛を窺ったものの果たせず帰国、その後、氏綱方となった三好長慶は天文22年(1553)10月、「四国室町殿」(足利義冬)に上洛を促したものの、義冬はこの要請には応じませんでした。同年6月に、長慶の実弟で阿波三好家の実休が、義冬を庇護していた細川持隆を謀殺したばかりであったため、三好氏を信頼することができなかったのでしょう。

『平島記』によると義冬は阿波守護・細川持隆の庇護のもと、天文3年(1534)以来、足利氏とゆかりの深い天龍寺領・平島庄の西光寺を御所としていましたが、弘治元年(1555)4月に妻の実家である大内氏を頼り、妻子と共に周防山口へと移りました。大内氏といってもすでに義隆は陶隆房の謀叛によって殺害されており、毛利氏とも断交しまさにあの「厳島の合戦」に至る直前のことです。

その後、大内氏領を併呑した毛利氏と義冬父子がどのような関係にあったのかは分かりませんが、義冬は永禄6年(1563)に三好長逸からの説得を受けて再び阿波平島に復帰したと伝えられています。これが事実であれば、三好政権の最盛期である永禄初期には顧みられなかった義冬父子が、長慶の晩年に再び選択肢として浮上していたことになります。

(なお、足利義冬は将軍に就任することはなかったものの、次期将軍に授与される従五位下左馬頭に就任して「堺大樹」と呼ばれた、いわゆる「堺幕府」の将軍・足利義維です。義維と三好氏の関係については、天文の錯乱・山科本願寺焼失と『祇園執行日記』に見える京都周辺の情勢でも概略に触れています。)

さて、義輝弑逆からわずか半年後、永禄8年(1565)11月には早くも三好三人衆と松永父子が対立して交戦を開始しており、12月には三人衆方が飯盛山城を占拠して義継を高屋城に迎えるとともに、篠原長房や三好山城守康長ら阿波三好家と手を結び、対する松永久秀は三人衆方に対抗するため、紀伊へと逃れていた畠山政頼(後の秋高)と結びました。

畠山氏は「永禄の変」に際して、その翌月6月24日には畠山氏の重臣・安見宗房が上杉謙信に挙兵を促すとともに、朝倉義景織田信長を調略していることを伝えており、7月28日には朝倉義景の支援を受けた覚慶が大和を脱出して奉公衆・和田惟政の居城である甲賀和田城へと逃れています。そして安見宗房は覚慶の脱出を喜ぶとともに、阿波公方の上洛前に家督を継承できるよう協力する旨を伝えています。

また、永禄8年(1565)8月に松永久秀の弟・内藤宗勝が荻野悪右衛門直正(赤井直正)の攻撃で敗死した際、畠山氏の重臣・遊佐信教は宗勝の討死を将軍殺害に結びつけて「上意様御天罰」などと報じています。その僅か3ヶ月後に、敵方であったはずの松永久秀と手を結ぶことになったわけです。

このような動きを見ると、もはや三人衆方と松永方の争いは三好政権の内訌に留まるものではなく、二人の将軍候補を旗頭とする「天下」の争奪戦に発展したと捉えるべきでしょう。

前述したように「永禄の変」に際して覚慶を保護した松永久秀が、実はその擁立を計画していたとすれば…そのことで阿波公方の擁立を進める阿波三好家とそれに与する三人衆との間に深刻な対立が生じ、松永父子は政権内で浮いた存在となってしまったのではないでしょうか。

三人衆方が宗家当主の義継を迎え入れるに当たり、飯盛山城を力づくで占拠した一件は、内藤宗勝の死によって影響力の低下した松永久秀・久通父子を孤立させ政権から排除するために、三人衆の方から先手を打ったとも考えられます。

篠原長房が権勢を握る一方で立場を失った三好義継と、松永久秀の真意(?)

四国衆と結んで有利に立った三人衆方では、永禄9年(1566)6月11日に篠原長房が阿波から大軍を率いて摂津に上陸、6月24日には三好義継が河内真観寺で五山長老の参列のもと葬礼を執り行い、その10日後には南宗寺で三回忌を催したことで、これまで秘匿していた長慶の死を広く公表するとともに三好宗家の後継者としての決意を示しました。

その間にも、阿波勢を主力とする三人衆方は、松永方であった滝山城、越水城、西院城、勝龍寺城、淀城を攻略しており、畿内は平定されたかに見えました。しかし、篠原長房と三人衆が「阿波公方」足利義冬の子・義親を擁立したことで、三好義継の立場は大きく揺らぐことになります。

永禄9年(1566)9月23日に摂津越水城へ入った後、12月に摂津富田庄の普門寺城(かつての宿敵・細川晴元が隠居していた城)へと移った義親は、12月28に朝廷から従五位下左馬頭を約束され、翌永禄10年正月5日には正式に叙任されるとともに名を「義栄」と改めました。

阿波公方の擁立と摂津平定に貢献した長房は、この後も畿内における松永方との戦いで阿波勢を率いて活躍、フロイスが「権勢彼等に勝り、ほとんど彼等を左右するの地位にありしもの」と評したように、三人衆を凌ぐ程の権勢を持つことになります。

その一方で、義栄によって冷遇された義継は翌永禄10年(1567)2月、遂に敵方の松永久秀の元へと走ることとなったのです。

さて、ここからは更に妄想を交えて書き連ねていきます。

その後の歴史を知る立場からすると、将軍としての在位期間、本人の寿命とも短命に終わった足利義栄の存在を過小評価してしまいがちです。しかし、義栄の父・義冬(義維)はかつて三好元長細川晴元に擁立され堺に御所を構えて「天下將軍御二人候」と言われた人物であり、管領細川高国との対立から阿波撫養へと流れ「島公方」とも呼ばれた不屈の「流れ公方」足利義稙の養子でもありました。

(「明応の政変」以降、足利将軍家は京都を離れることが多くなりますが、二度の将軍就任を経験したのは歴代足利将軍の中でも義稙ただ一人です。)

それを継いだ義栄には当然、義稙や義冬から受け継いだ家臣達がおり、いつか上洛する日を夢見て畿内各地で雌伏の時を過ごした家臣達がいたことも伝わっています。(中には斎藤基速のように、三好長慶に協力して幕政に参加した者もいましたが)

義栄にそのような支持勢力があった点は、将軍の実弟とは言え最初から僧侶として育ってきた覚慶とは大きく異なるところだと思います。

つまり松永久秀は、阿波公方を擁立してしまえば、三好長慶が志した三好宗家を頂点とする新たな武家政権の確立は成し得ないと考えたのではないでしょうか。そして、実際にその危惧は的中し、宗家を継いだはずの義継は政権から排除されてしまったのです。

義継は関白九条家にも縁を持つ(義継の母は九条稙通の養女で十河一存正室)、当時の武士としては最高級の貴種であり、長慶が嫡子義興の死に際して、十河家断絶の危険を冒してまでも彼を後継者に指名した理由はまさにその点にあったはずです。家中の人望が厚かったという実弟の安宅冬康を殺害したのも、それが幼い義継が家中を掌握する上で障害になることを恐れたためでしょう。(「松永久秀の」讒言を受けて殺害したという話は『足利季世記』以降の編纂物から登場するものです)

それなのに、九条家のライバルである近衛家を頼り、結局は足利将軍家の血筋を担ぎ出すに至っては、守護代以下の地位から「天下執権」たる地位に上り詰めた三好長慶が、何のために三好家の家格を高めるべく尽力してきたのか…。

戦国時代を代表する「梟雄」とされてきた松永久秀ですが、その悪評のほとんどは、近世以降に成立した編纂物の流布によるもので、少なくとも長慶の生前に三好家の壟断を企んだような形跡はありません。そして、久秀は長慶の死後もその意志を尊重し、三好家の傀儡として御しやすいであろう覚慶の擁立を企んだのではないでしょうか。(結果的にはその覚慶も兄に負けず劣らずの存在感を示し続けることになったわけですが…)

久秀が後世に逆臣との謗りを受けている一方、阿波三好家の宿老であった篠原長房は、三好政権の屋台骨を支え続けた忠臣と高く評価されています。しかし見方を変えると、阿波公方の擁立によって権勢を手にした長房は、同時に三好宗家を蔑ろにする結果を招いたとも言えます。

近年、信長以前の「天下人」として三好長慶の再評価が進んでいますが、その腹心を務めた松永久秀についても、近世以降に作り上げられてきた先入観を取り払って見直す必要があると思うのです。

幕臣として権勢を得た松永久秀と「永禄の変」

以上、天野忠幸先生の研究成果に習い、松永久秀三好長慶の忠実な側近であったとの評価を基準に妄想を広げてみました。

これに対して、旧来の評価とは異なるものの、松永久秀が永禄3年の御供衆就任以降、対幕府・朝廷交渉において従来の三好政権とは異なる立場を取り、京都政界において幕臣あるいは大和国の大名として独自の権力を築いたと評価する研究者もいます。

田中信司氏の「松永久秀と京都政局」では、松永久秀幕臣としての活動を通じて、初めは対立していた将軍義輝とも、永禄6年の久秀と多武峰衆徒の和睦を義輝が仲介し、また義輝が娘を人質として預けるほどの信頼関係を築いていたとされています。

永禄4年には、三好長慶が幕府からの「御紋拝領」を辞退したのに対して、久秀は御紋と共に「塗輿御免」も受けていることから、長慶と久秀では幕府との距離感に相違があったという指摘もあります。

また幕府だけでなく、禁裏との関係においても、三好氏が永禄元年以前の三好政権期から引き続き禁裏とは疎遠だったことに比べて、松永久秀は永禄3年の御供衆就任以降、禁裏との交渉件数が格段に増えているそうです。

そして、久秀の京都における活躍が、フロイスによるあの有名な「天下すなわち『都の君主国』においては、彼が絶対命令を下す以外何事も行われぬ」という評価を形成したと見られており、説得力を感じます。

しかし、三好長慶がどんな理由で将軍との和睦を受け入れて、その後も将軍家との関係にどのような決着を目指していたのかという肝心なところが分からない限り、幕臣としての久秀の権勢が増大していったことが、果たして長慶の意向に反するものだったのかは判断できません。

更に妄想をたくましくして、長慶が(従来の評価通り)あくまで将軍の臣下に留まる心づもりだったと仮定した上で、久秀の幕臣としての活動もその意向に従ったものだとすると、義輝との協調関係を維持しようとする長慶・義興・久秀ら宗家側と、三好長逸を筆頭とする重臣層の間に緊張関係があり、義興と長慶の相次ぐ死によってそのバランスが崩れた結果が「永禄の変」を招いたと解釈できるのではないでしょうか。

阿波公方側の伝承では、永禄6年(1563)に足利義冬・義親(義栄)父子を周防から阿波へと呼び戻したのは三好長逸だったとされていますが、それが長慶の意志ではなかったとすると…その翌年に安宅冬康が殺害されたことを「逆心」によるものとする『言継卿記』の風聞も真実味を帯びてきます。

また「永禄の変」には、松永久秀の腹心の一人で当代一流の儒学者だった清原枝賢が従軍しており、その役割についてもよく分かっていません。(天野忠幸先生は、義継が易姓革命思想を背景に将軍殺害の正当化を狙ったものと推測されています)

これまで一般には、将軍義輝の殺害と阿波公方の擁立が、三好政権の総意であったかのように語られてきましたが、その裏では様々な思惑が交錯していたのでしょう。

「永禄の変」にはまだまだ検討の余地が多く残されています。

武衛陣町、将軍義輝の「武家御城」跡を歩く

武家御城」と呼ばれた将軍義輝の御所は永禄2年(1559)8月、勘解由小路室町の斯波氏邸宅跡に建てられたもので、堀を備えた城郭でした。

現在「旧二条城跡」と呼ばれている足利義昭の御所は義輝の「武家御城」の跡に建てられたものですが、京都市営地下鉄烏丸線の建設に伴う発掘調査で、城跡の南内濠のすぐ南を東西に走る石垣のない堀跡が見つかっており、これが義輝期の堀と考えられるそうです。

これまで何度も京都を追われた義輝は父の義晴と同様、人夫を徴発して北白川城や霊山城といった洛外の山城を精力的に改築しつつ、相国寺などに今出川御所の留守番を命じ、洛中に将軍の御所が存在し続けることに尽力していたそうです。三好長慶との和睦による帰還を果たした後、この武衛陣跡に新たな御所を築城したのは、今度こそ将軍として京都に在り続けようという決意の表れだったのかもしれません。

しかし、フロイスの『日本史』には、三好方の襲撃を受ける前日のこと、身の危険を感じた義輝は近臣とともに密かに御所を脱出し、京都から亡命する決意を打ち明けたところ、反逆の証拠もないのに自ら臣下から逃れるようでは将軍としての威厳を失墜させてしまうと反対され、渋々引き返したと記されています。そして義輝の不安は的中し、油断しきっていた御所の人々は全ての門を開けたままにしていたため、すぐさま鉄砲を持った兵の侵入を許してしまったということです。

(見たんかい!と思わずつっこみたくなる程、ただの伝聞とは思えない詳細な描写ですが…どうなんでしょうね、『日本史』の信憑性って…)

なお、後年に三人衆方が六条本圀寺に将軍義昭を襲撃して逆襲を図った「本圀寺の変」で危機に陥ったことから、織田信長は自ら普請奉行を務め、義昭のためにこの地に新たな御所を築城しました。それがいわゆる「旧二条城跡」で、発掘調査では内郭と外郭の二重構造を持ち、南北が平安京条坊制の三町分に相当する広さを持っていたことが明らかとなっています。また、安土城や兵庫城でも見られる胴木組を用いており、大量の石仏や石塔が石垣の材料として使用されていたそうです。

現在「武衛陣町」と呼ばれているこの地は、応仁の乱朝倉孝景が主君の斯波義廉を守って東軍方を何度も撃退した戦跡であり、「永禄の変」で将軍義輝が最期を迎えた「武家御城」の跡であり、信長が義昭のために築いたいわゆる「旧二条城」の跡でもあるわけです。

武衛陣跡に建つ、平安女学院の校舎。

以下、第30回平安京・京都研究集会「室町将軍と居館・山城―権力・器量・武威―」にて「旧二条城」(足利義昭御所)跡見学会に参加させていただいた時の写真です。

京都市文化財保護課の馬瀬智光さんに解説していただきながら見て回りました。

この椹木町通が南内濠、義輝期の「武家御城」外郭に当たるそうです。

御苑の中にある復元石垣。これも地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で見つかった物です。

だいぶ読みづらい状態ですが、解説板には「織田信長室町幕府最後の将軍・足利義昭のために造った強靭華麗な居城の跡と推定」とあります。うーん、強靭…??

配布資料より、武家御城(旧二条城)調査位置図

青い点線の枠が義輝期、赤い実線の枠が義昭期の御所と見られている範囲です。

アルファベットは濠跡が検出されたところですが、Gの部分を見て分かる通り、北西角と思われる濠は室町通よりも東に寄ったラインで見つかっていて、おおむね平安期の条坊に沿っているものの、正確な方形ではなく結構でこぼこしていたようです。

ちなみにGの濠跡の上は現在、110番指令センター等の施設がある京都府警察本部の敷地になっています。(これを建てる際の発掘調査で見つかったそうです)

西側は明治期に拡張された京都御苑がかなり食い込んでいて、遺構が埋もれているのは間違いないと思いますが、掘れる機会はないでしょうとのこと。(まあ、そうですよね…)

参考書籍、参考資料

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

畿内・近国の戦国合戦 (戦争の日本史11)

畿内・近国の戦国合戦 (戦争の日本史11)

群書類従 第20輯 合戦部 [1]

群書類従 第20輯 合戦部 [1]

  • 谷口克広『信長と将軍義昭 連携から追放、包囲網へ』(中央公論新社

信長と将軍義昭 - 提携から追放、包囲網へ (中公新書)

信長と将軍義昭 - 提携から追放、包囲網へ (中公新書)