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「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(前編) 義尹上洛から船岡山合戦までを明応の政変も振り返りつつ

前回の記事『将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情』 では、松永久秀三好三人衆との対立に至った経緯について考えてみました。

しかし、それ以前の三好長慶がまだ細川晴元の麾下にあった天文年間、「天文の錯乱」を経て足利義晴を将軍と認めたはずの細川讃州家がなぜ「阿波公方」足利義維・義栄父子を庇護し続けたのかという疑問が湧き、讃州家当主の細川持隆の室と義維の室が共に大内義隆の姉妹、つまりかつて足利義稙の上洛を支えた大内義興の娘であったことや、義稙の死後に大内義隆がその肖像画を制作したこと、また畠山式部少輔父子のように義稙の父義視の代から義栄まで扈従し続けた忠臣の存在などを知るにつれ、義稙から義維へと受け継がれたものの大きさを意識するようになりました。

そして、義稙を中心に据えて諸勢力の繋がりを見ることが、「両細川の乱」つまり澄元と高国の家督争いとして捉えられてきた戦乱の複雑さを読み解く一つの道標になるんじゃないか、そんな風に考えるようになったのです。

『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」』と題して、まずは永正5年(1508)に義稙(当時は義尹)が将軍への復職を果たした頃の情勢を中心に、その前提となる「明応の政変」での動向も振り返りながら書き連ねていきます。

※なお、「流れ公方」こと足利義尹は一般には最後の名乗りである「義稙」、あるいは明応の政変により将軍職を失った時の「義材」として知られますが、改名の経緯も重要だと考えますので、ここでは主に当時の名乗り「義尹」で表記しています。

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前将軍義尹が大内義興に奉じられて上洛し将軍に復職するも、早くも現れていた冷戦の前兆

永正5年(1508)6月8日、大内義興の供奉により前将軍義尹が上洛しました。明応2年(1493)4月の「明応の政変」によって将軍を退位させられて以来、15年の長きに渡って諸国を渡り歩き「流れ公方」と呼ばれた義尹が、ようやく京都に帰還したのです。

その義尹を迎えたのは皮肉なことに、「明応の政変」の首謀者たる細川政元の後継者候補の一人、細川氏庶流の野州家出身の細川高国でした。

高国は永正4年(1507)6月に起きた政元暗殺事件の後、阿波守護・讃州家出身の澄元を支持して畿内の国人達を糾合、関白九条家出身の澄之を擁立して政元殺害を主導した、薬師寺長忠と香西元長を破る原動力となったのですが、大内氏の供奉により義尹の上洛が確実な情勢になると、澄元を見限って義尹に味方したのです。

当時の公家の日記によると、大勢の見物人が群れをなす中で義尹が5,6千の供回りと共に入洛を果たし、一条室町の吉良邸に入った後、その日の晩には義興が6,7千の兵と走衆1000を率いて入洛、6月14日には畠山尚順も1万の軍勢を率いて入洛したそうで、高国の兵1万を合わせると総勢3万に及ぶ大軍が京都に集結していたようです。

そして7月1日、義尹は従三位大納言に叙任され、念願の征夷大将軍への復職を果たしました。すでに義尹より京兆家の家督を認められていた細川高国は併せて管領に就任し、大内義興は山城守護職を与えられました。

しかし、新体制となった幕府では早くも義尹と高国・義興の間で不穏な出来事がありました。義尹の将軍復帰から1ヶ月を経た8月11日、東福寺海蔵院において畠山尚順の主催で復帰後初めての将軍御成が行われると、その際に御相伴衆として出席した高国と義興が、尚順との不仲により揃って退出する事件が起きたのです。

義尹上洛の最大の功労者は紛れも無く大内義興で、明応8年(1499)末頃に義尹が周防山口に亡命して以来、管領政元の策謀によって天皇から朝敵とされながらも義尹を支持してきたのです。世間でも「筑紫之御所」「九州大樹」などと呼ばれていた通り、京都を離れた義尹が変わらず将軍として扱われたのも、大内氏の庇護あればこそでしょう。

また、一族内に支持基盤の乏しい高国が畿内の国人達を糾合できたのも、高国自身の実力だけではなく、義尹を奉じる大内氏の威勢があったからです。

しかし、義尹は「明応の政変」以来、畠山政長重臣神保長誠を介して越中へと逃れた自分を支援してくれ、上洛後も河内に転戦して澄元派の重鎮・赤沢長経や古市澄胤を討った畠山尚順こそが第一の功労者と考えたようです。将軍に復職して最初の御成は、新幕府に名を連ねる諸侯の序列を天下に示す意味があり、それだけ義尹が尚順に寄せる信頼は大きいものだったのでしょう。

(なお、赤沢長経は細川政元の下で武勇を買われて成り上がり大和へ侵攻した赤沢宗益の養子、古市澄胤は「明応の政変」で伊勢貞陸の麾下に入り南山城へと侵攻して「山城国一揆」を解体せしめた人物で、いずれも尚順にとって宿敵と言える存在でした。)

対する義興の反発も理解できますが、それにしても御成で主人を置いて退席するなど、将軍義尹の面目は丸潰れです。このような行動は尚順への不満というよりも、義尹への不満を露わにしたものでしょう。義興の退席が突発的なものだったのかは分かりませんが、これを宥めるべき立場の高国までもが同調するとは只事ではありません。

将軍親政を志向する義尹にとって、このような高国と義興の意思表明は受け入れがたいものだったに違いありません。

この数年後、義尹は高国と義興への不満を理由として京都を出奔、『後法成寺関白記』に「言語道斷次第也、京都仰天、無是非者也」と記される珍事を起こしますが、上洛直後からすでにその前兆とも言える事件が起きていたわけです。

また、義興は上洛から約2ヶ月を経た7月23日にはすでに帰国をほのめかしており、約1万に及ぶ軍勢の滞在費用にも苦慮したものと思われますが、山城守護に就任してからもその領国化を進めた形跡がなく、上洛当初は幕政に積極参加する意志を持っていなかったようです。かつては義興を朝敵に指定した後柏原天皇ですが、今度はその帰国を思い止まらせようとしたものか、9月14日には義興を従四位上に昇進させると共に、10月14日には義興の亡父政弘に従三位を追贈しました。

一方の畠山尚順総州家の畠山義英との戦いもあり、落ち着いて在京する余裕はなかったようですが、このような事態を憂慮していたのか、嫡子の次郎を上洛させ、能登守護家の畠山義元と共に、将軍義尹の元で幕政に参加させています。

(なお、大内義興の母・今小路は応仁・文明の乱の末期に、同じ西軍であった能登守護の畠山義統が養女として大内政弘に嫁がせた女性です。義統の子である義元もまた尚順と共に「明応の政変」以後も義材派の一員でした。尚順は義尹の上洛に先立って妹を義興に嫁がせており、義尹陣営の融和に心を砕いていた様子が窺えます。)

義尹の帰還前後に見える、将軍義澄と管領澄元の微妙な関係

一方、義尹陣営の対抗勢力である義澄と澄元の関係はどうだったのでしょうか。

義尹上洛から約1年を遡った永正4年(1507)8月、澄元と高国が協力して、管領細川政元を暗殺した澄之一派を攻め滅ぼし、澄元が管領職と京兆家の家督を将軍義澄より認められた直後のこと。当時、前将軍の義尹はすでに大内氏の元で京都奪還の計画を進めていましたが、義澄に謁見した澄元は、その義尹をこちらから呼び寄せて和睦するよう進言しました。

しかし「筑紫之御所御上洛事ハ不可叶旨被仰定」ということで、澄元の提案は将軍には受け入れられなかったようです。

そもそも天龍寺香厳院で僧籍にあった義澄(清晃、還俗して義遐→義高)が将軍に就任したのは、明応2年(1493)4月、前将軍義尚の母日野富子政所執事伊勢貞宗・貞陸父子、管領細川政元らが謀議によって当時の将軍義材(後の義尹、義稙)と前管領畠山政長らを陥れた「明応の政変」によるものであり、以来15年もの長きに渡る亡命生活を余儀なくされてきた義尹にとって、義澄は不倶戴天の関係でした。当然、義澄にとってもそれは同様だったのでしょう。

今なお将軍として扱われている義尹を、西国最強の勢力を持つ大内氏の元に放置していれば、「明応の政変」で義材と命運を共にした政長流畠山尾州家や、その分家の能登畠山氏、越前朝倉氏など、これまで義尹を支持してきた諸勢力が連合を組み、幕府を脅かすことにもなりかねません。

永正2年(1505)12月には、義尹からの上洛への協力要請を受けた畠山総州家の義英(義就の孫)が、宿敵であった畠山尾州家の尚慶(後の尚順)と和睦し、共に義尹の上洛に協力する姿勢を見せていました。また永正3年には、義澄方から転じて義尹方となった今川氏親と伊勢宗瑞が、讃州家が守護を務める三河に侵攻を開始しており、義尹方による反攻の動きは政元の生前から各地で起きていたのです。

澄元にとってはこれ以上事態が悪化する前に、かつて父の義視と共に美濃に亡命していた義尹が、将軍義尚の猶子となって帰京したのと同じように、義澄との和睦を前提に義尹を上洛させることで再び将軍家を一つにできれば、引き続き幕政における細川氏の地位を確保できると考えたのかもしれません。

しかし、すでに上洛準備を整えていた大内義興は永正4年(1507)11月、肥後の相良氏に対して「公方様御上洛、四海泰平、時節純熟」「いよいよ天下静謐肝要に候」と書き送っているように、時勢は義尹に傾きつつありました。そのような状況を感じて高国は将軍義澄を見限り、義尹上洛の露払いをすべく動き出したのです。

永正4年(1507)12月末頃には義尹と義興が山口から安芸へと移動したとの知らせが伝わり、翌年2月には将軍義澄が諸大名に対して軍勢の動員を求めましたが、高国は3月19日に伊勢参宮と称して京都を抜け出し、従弟である伊賀守護の仁木高長の元に逃げ込んでしまいました。

高国は畿内に領国を持たず細川一門の支持も得られていなかったのですが、もちろん単身で離反したわけではなく、丹波守護代の内藤氏や摂津の伊丹氏や瓦林氏など畿内とその周辺に基盤を持つ国人達を味方に付けていたのです。その兵力は1万に及ぶと噂されました。

形勢不利と見た澄元とその重臣三好之長(長慶の曽祖父)は4月9日に自邸を焼き、将軍を見捨てて近江坂本へと逃れます。その翌日には高国が大軍を率いて入京したため、進退窮まった将軍義澄は4月16日の夜、密かに京都を脱出して近江水茎岡山城の九里氏の元へと難を逃れました。そして、高国は摂津方面へと向かい、4月21日から5月12日にかけて澄元方の池田貞正が籠もる池田城を攻略した後、再び一足早く入京し、堺から上洛する義尹と義興を出迎えたのです。

義尹上洛の後も近江坂本に逃れて反撃の機会を伺っていた澄元は永正6年(1509)6月、三好之長父子らと共に如意ヶ嶽へ進出します。しかし、畿内に支持勢力を欠いていた状況では如何ともし難く、3千程の軍勢で義尹方の細川高国畠山尚順大内義興の総勢2、3万の大軍と交戦して大敗を喫し、夜半の悪天候の中、戦場を脱出するのが精一杯でした。

(なお、三好之長の嫡子長秀はこの敗戦後、逃亡先の伊勢で北畠材親に拘束され、31歳の若さで自害させられました。そのため後年に之長が死去した際、その家督は之長の嫡孫元長が継ぐことになります。)

澄元は何とか窮地を脱して本国阿波へと帰還したのですが、一方で頼るべき勢力の中核を畿内から失った義澄は、非常の手段に及びます。永正6年(1509)10月、義澄は「夜討上手」と評された和田円珍をはじめとする刺客を遣わし、将軍義尹の寝込みを襲わせたのです。側近達との酒宴の後でしたが、自ら剣を取って応戦した義尹は八、九ヶ所の傷を受けながらも刺客達を撃退しました。酔い潰れて目を覚まさなかった側近達は後日、全員が遁世したそうです。

この頃の幕府分裂の様相は将軍と管領の関係を主軸として、義澄・澄元 vs 義尹(義稙)・高国という構図で説明されることが多いですが、前述したように義尹と高国・義興の関係は上洛直後から芳しくなく、また澄元の方もその動きをよく見ると、決して義澄とは一蓮托生の関係ではなかったことが分かります。

なお、義澄は永正7年(1510)1月29日、水茎岡山城にて高国が率いる討伐軍を撃退したものの、「船岡山合戦」の直前となる永正8年(1511)8月14日、京都への帰還が叶わぬまま急死することになります。しかし、嫡子の亀王丸はすでに3月には母と共に播磨へと下向しており、その後しばらく赤松氏の元で御所を構えて幼年期を過ごすことになります。

義澄は、かつて南朝方によって京都を追われ近江に逃れた二代将軍義詮が、嫡子春王丸(後の義満)を播磨の赤松則祐の元に預けた故事に思いを馳せていたのではないでしょうか。その遺志は奇しくも、自身を裏切った高国によって達せられることになるのです。

(なお、義澄の二人の子は兄が義晴、弟が義維とされていますが、先に近江で生まれて播磨に下向したのは義維の方で、実は義晴は播磨で生まれたとの説があります。史料に「亀王丸」の名で現れる人物は両者が混同されて伝わっているようですが、今回はひとまず亀王丸=義晴としておきます。)

明応の政変」による讃州家の立場の変化と、一門の長老・細川成之の憂い

高国によって京兆家の家督を奪われた澄元ですが、その出身である讃州家は「明応の政変」以前、京兆家の政元からは一歩引いた立場であり、当時の当主之勝(澄元の父)は将軍義材から厚い信頼を受けていました。

延徳3年(1491)6月に之勝は将軍家の通字である「義」の一字を賜って義春と名を改めており、政元が反対していた近江六角氏討伐にも参加、明応2年(1493)正月、伊勢備中守邸にて義材の主催で行われた猿楽の宴にも出席し、斯波義寛畠山政長山名政豊大内政弘といった面々と共に相伴衆を務めています。

このように京兆家の意向に反して将軍義材に接近していた讃州家でしたが、「明応の政変」を招くきっかけとなった明応2年(1493)2月からの河内親征では、義材との決裂に至る転機が訪れます。

三好衆ら阿波勢を率いて参加していた義春は、将軍が畠山政長陣所の正覚寺へと陣替えを行うと、敵方畠山基家が籠もる誉田城付近まで進出して積極的な姿勢を見せたものの、畠山政長が更に前線を進めて誉田城との戦闘を開始した途端、不審な動きを取っています。義春は淡路守護の細川尚春や若狭守護の武田国信と共に後方の住吉へと陣替えを行った後、京都において政変が勃発すると、「公方治罰」のため河内へと向かった京兆家の軍勢と入れ替わるように京都へ帰還したのです。

この戦いは「細川京兆以下大内・赤松其外近習外様悉迷惑之処」と言われた通り、敵方畠山総州家と争う畠山政長以外の諸侯にとっては意義のないもので、元々義材とは不仲であった細川政元は勿論、これまで義材を支持していた大内氏や赤松氏ですら消極的な動きを見せました。(この時の大内氏と赤松氏の動きについては後述します)

同様に、これまで京兆家とは距離を置いてきた讃州家も、政元が日野富子政所執事の伊勢父子といった幕政の中枢を握る面々と協同するに及び、将軍義材と管領政長を幕府から排除するという目的のもと、再び応仁・文明の乱以来の細川一族の団結を図ることとなったのでしょう。

その応仁・文明の乱において讃州家当主として阿波勢を率いて東軍方で活躍した細川成之は、すでに出家して隠居の身ながら、義春が若くして死去した後、讃州家を継いだ嫡孫の之持を後見しつつ、京兆家の後継者候補となったもう一人の孫、六郎澄元の補佐役として被官の三好之長を重用するようになりました。

しかし、澄元派と関白九条家からの養子澄之派に分かれて内衆同士の権力争いが激化した結果、ついに政元が暗殺され、澄之方との争いを制した矢先に、今度は澄元を支持していたはずの高国が不穏な動きを見せ始めたわけです。

そのような折、細川一門の長老たる成之は、高国に宛ててこのような書状を送りました。

三好筑前守之長連々対愚老・同故右京兆、雖緩怠子細条々候、令堪忍于今遊(宥)免候処、結句六郎身体之儀、重悪之申勧、天下静謐無期候、如此候上者、上下両家其外一門、皆々被者依違乱、弥不可有正体候条、当国之事者一枝申付候、尚為一家、面々被加成敗、先祖如忠儀、六郎堅固家護候様、各御指南可為肝要候、恐々謹言、

三月五日 道空(花押)

民部少輔殿

天野忠幸編『戰國遺文 三好氏編 第一巻』(東京堂出版)より

永正5年(1508)3月5日といえば、高国が将軍義澄と澄元を見限って京都を出奔するわずか2週間前のこと。

高国達の離反は、三好之長とその家臣達が横暴な振る舞いにより反感を買ったことも一因だったようで、文章の細かい解釈は分かりませんが、之長の増長を見過ごしてきたことを反省し、「天下静謐」のため六郎澄元を中心に再び細川一門の結束を図ろうとする成之の思いが伝わってきます。

残念ながら成之の思いは高国には届かなかったようですが、同じ書状を受け取った典厩家当主の細川政賢は澄元を支える道を選び、永正8年(1511)7月から行われた澄元方の反攻で京都入りを果たした末、「船岡山合戦」で最期を迎えることになります。

義尹と義澄の間で板挟みにあった赤松氏と、「明応の政変」以来の義尹・義興との因縁

永正8年(1511)3月、水茎岡山城へと逃れた前将軍義澄の子・亀王丸が母と共に播磨赤松氏の元へと下向した経緯は前述しましたが、実は3年前の義尹上洛の際、赤松氏は義尹に味方していました。

赤松氏は永正5年(1508)1月に義尹から、2月には義澄からそれぞれ協力を依頼され両者の間で板挟みとなっていましたが、4月にはついに去就を決し、大内氏に対して上洛への協力を申し出ました。そのために瀬戸内海を東進する大内水軍は難なく堺へと上陸を果たすことができたはずですが、その赤松氏がなぜ義澄の遺児を預かることになったのでしょうか。

当時の赤松氏は幼少の当主次郎(後の義村)を前当主政則の後室で細川政元の姉である洞松院が後見していましたが、そもそも洞松院が赤松政則に嫁いだのは、「明応の政変」を主導した政元が赤松氏を懐柔するためだったのです。

明応2年(1493)3月、龍安寺で尼として父勝元の菩提を弔っていた洞松院は、将軍義材の河内親征に参加して堺で陣中にあった政則の元に輿入れしました。美男子として名高い政則の元に嫁ぐからにはさぞかし美しい女性であろうとの期待があったのか、陣の近くには 「天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな」 との落首が貼られた逸話が伝わっています。

そして洞松院の輿入れが決まった直後の3月20日、畠山総州家方の越智家栄・古市澄胤の元に伊勢氏から清晃の擁立計画が伝えられ、翌4月22日に政変が決行されたのです。その後政元への御礼のために上洛した赤松氏の重臣、浦上則宗と別所則治は、翌閏4月3日には上原元秀・安富元家と共に河内へ戻っており、この時点で赤松氏が清晃の擁立に賛同していたことが窺えます。

堺には赤松氏の他に、当時まだ10代の若さで父政弘の名代として参加していた大内義興が陣を構えていましたが、義興も当初は親征に消極的な動きを見せていたためか、政元方に付いたと噂されました。しかし、政変翌月の閏4月8日には「赤松・大内加州大樹之御方之由」つまり赤松氏と大内氏が共に義材を擁護しようとしているとして、赤松勢の寄宿所と見られた法華宗の三箇寺を破却すべし、との噂が立つ事態となっています。

政変直後の4月末時点で奉公衆の大半だけでなく800人に上る近習さえもが離脱し、閏4月3日には讃州家や武田勢などの諸将が帰陣している状況であり、将軍義材も動揺していたことは間違いありません。しかし、京都での政変から正覚寺の義材本陣への攻撃が開始されるまで実に一ヶ月の時間が過ぎています。

この一ヶ月間に、大内義興は戦線を離脱した安芸・石見の国人達を収容して兵庫津へ移動し、政則と義興を仲介として義遐を義材の猶子とする計画が立てられたり、両者が連合して京都へ攻め上るとの噂が流れています。この政変の鍵を握っていたのは、兵庫津で待機する大内氏と、堺で在陣を続ける赤松氏の動向でした。

赤松氏は再び政元と交渉した末、先の近江親征における戦功で義材から拝領した所領の安堵を承認されるに及び、ついに去就を明らかにします。赤松勢が堺で政長方の根来衆と交戦を開始して連携を断つと、斯波勢と京極勢もそれに呼応するかのように正覚寺を包囲したのです。そして、閏4月25日には上原元秀率いる京兆家の軍勢が正覚寺を攻撃し、政長は嫡子尚慶(後の尚順)を逃がして自害、将軍義材は元秀によって捕らえられ、京都へ護送されることとなりました。

おそらく赤松氏と大内氏は共に河内親征には消極的だったものの、将軍義材の排除に至る計画の全てを知らなかったのでしょう。しかし、政則が土壇場で政元方に付いたのに対して、義興は兵庫に駐留したまま、6月に義材が上原元秀邸を脱出して北陸に向かった後もなお動こうとはしませんでした。京都では義興が禁中へ乱入して三種の神器を奪おうとするのではとの噂も飛び交ったようですが、結局何もできないまま帰国することになったのです。

(政元と赤松氏に翻弄させられる結果に終わった義興を叱責したものか、国許の政弘からの命令で義興の供が三、四人切腹させられたそうです。)

こうして細川京兆家との絆を深めた赤松政則は、明応5年(1496)に異例の従三位上階を果たし、その2ヶ月後に死去したのですが、政則の前妻との間に生まれていた娘の婿養子として迎えられたのが、赤松七条家(赤松円心の嫡孫に当たる光範の家系)出身の道祖松丸、後の赤松義村でした。

義尹が将軍に復職して間もない永正5年(1508)9月、赤松氏の御一家衆である播磨守家の当主・赤松勝範が家督を望んで挙兵する事件が起きました。謀叛は当主の次郎(道祖松丸、後の義村)によって鎮圧されましたが、実はこの赤松勝範は、政則の死後明応7年(1498)頃から起きた「東西取合」と呼ばれる播磨の内乱において、道祖松丸を擁立する浦上則宗に反発して挙兵した大河内家の出身で、かつて義尹の山口下向に扈従した側近達の一人でもあったのです。

(なお、大河内家は嘉吉の乱の際にも赤松満政が将軍義教の近習を務めて惣領家に敵対しており、惣領家への対抗意識があったようです。)

そして、当主の後見役として実権を握っていたのは、あの「明応の政変」を主導した細川政元の姉である洞松院でした。赤松氏の協力もあって無事に上洛を果たしたとはいえ、義尹と大内義興の赤松氏への不信感は拭い去れるものではなかったでしょう。逆に赤松氏の方でも、播磨守の謀叛に将軍義尹の意向が関わっていると考えるのは自然なことです。

また、赤松次郎の姉は讃州家を継いだ細川之持(澄元の兄)に嫁いでいたようで、そのことが影響したのかもしれません。

澄元方が赤松氏と連携して反撃するも「船岡山合戦」に敗北

赤松氏という強力な味方を得た澄元は、永正8年(1511)7月から反撃を開始し、淡路守護の細川尚春が高国方の瓦林正頼を摂津鷹尾城に攻囲します。7月26日の芦屋河原の合戦では高国方の波多野元清ら丹波勢を中心とする軍勢により一旦敗退したものの、赤松勢の合流によって総勢2万に及ぶ大軍となったため、一転して鷹尾城に猛攻を加えて8月11日に落城させました。

一方で、前述した細川成之の書状を受け取った典厩家当主の細川政賢を大将として、和泉上守護の細川元常、更に甲賀の国人山中為俊や畠山総州家の重臣遊佐印叟も加わった澄元方の混成軍は7月13日、和泉深井郡で高国方の摂津勢を撃破した後、摂津中島城まで進出しています。

二手に分かれた澄元方の軍勢がいよいよ摂津から京都へと迫る事態となったため、その勢いを恐れた将軍義尹は後柏原天皇に退京を通告した後、細川高国大内義興、畠山義元、畠山次郎(尚順の嫡子、後の稙長)らと共に、総勢2万5千に及ぶ大軍で丹波へと落ちて行きました。

細川政賢率いる澄元方の軍勢は8月16日に京都へ進出したものの、すでに義尹・高国方は丹波へ向けて脱出した後でもぬけの殻でした。政賢は将軍義尹の邸宅に火を放ち、高国の邸宅を打ち壊して気勢を上げますが、赤松勢はまだ摂津で伊丹城を攻囲中のため進軍できず、肝心の澄元も阿波から動かなかったため、京都の軍勢は合わせて約6千と心許ないものでした。何より、澄元方の求心力となる前将軍義澄が8月14日に近江で急死していたこともあって、澄元方の足並みは乱れていたようです。

(なお、義澄は澄元方の戦況を聞いて側近の奉行人・松田頼亮を京都へと遣わし、京都の治安を乱さないよう配慮しています。また、頼亮は義澄の死を知っていたようなのですが、それを秘匿したまま船岡山に参陣して討死してしまいました。)

一方、丹波で態勢を整えた義尹・高国方の軍勢は反撃を開始、8月23日には大内勢が北山から長坂口へと進んで京都奪還を図ったため、細川政賢もこれに応じて船岡山および今宮林に布陣して迎撃、翌8月24日に「船岡山合戦」の決戦に至ります。しかし多勢に無勢では如何ともしがたく、大内勢の猛攻を受けた船岡山の政賢本陣は総崩れとなり、総大将の政賢が退却の際に羅漢橋で討死したほか、山中為俊、遊佐印叟など主だった大将もことごとく敗死するという惨状でした。討ち取られた兵は3千人に上ったと伝わっています。

そして、赤松勢も京都での敗報を受けて伊丹城の攻囲を解き撤退、永正8年の澄元方の反撃は失敗に終わったのです。

永正8年の澄元方の敗因として、義澄の急死による士気の低下や勇将・三好之長の不参加が挙げられていますが、頼みの綱であった赤松勢は元より、肝心の主力である阿波勢も参戦していない状況ではとても勝ち目はありませんでした。細川成之の要請に応えて澄元を支持した政賢でしたが、結果的に見殺しにされたのです。

(なお、政賢ら澄元方は和泉で高国方を破ったものの、大内方水軍の多賀谷氏が敗兵を収容して堺を死守していたため、政賢は堺の攻撃を諦めて摂津中島へと向かい、京都に進出しました。澄元はこのために堺からの上陸を見送った可能性もあるようです。)

船岡山合戦」の勝利で高国は細川一門への影響力を強め、義興は従三位上階を果たす

船岡山合戦」で敗死した細川政賢の典厩家は、摂津西成郡の分郡守護を務めた家ですが、京兆家の当主が幼少の場合に後見役を担うと共に、幕府内でも将軍の御供衆を務めるという、細川一門でも高い家格を認められていました。しかし、今度の敗戦に伴って政賢の嫡子澄賢は没落し、その家督は高国の従弟である尹賢に奪われることになりました。

(後年、高国の敗北に伴って典厩家は晴元方の澄賢-晴賢、氏綱方の尹賢-藤賢に分裂したまま継承され、三好政権期を通じて再び藤賢に統一されることになります。)

和泉上守護家の細川元常は逃げ延びたものの、後年には高国の従弟に当たる高基によって和泉下守護家が再興される形で対立し、備中守護は高国の父政春が継承することになります。管領高国が幕府の中枢を握ったこの時代、讃州家と淡路守護家を除く細川一門は、ことごとく野州家により乗っ取られたわけです。

また、義澄の急死によって畿内の義澄派は勢力を失い、かつて将軍義尚・義尹(当時は義材)の二代に渡って討伐を受けた六角高頼も、義澄を庇護していた水茎岡山城の九里氏を討って義尹に通じる結果となりました。

そして「船岡山合戦」から数日後、細川一門の長老として重きをなしていた細川成之までもが死去します。今際の際にあった成之が義澄や政賢の死を知ったのかどうか分かりませんが、あのような書状を残した成之の無念は如何ばかりだったでしょうか。

阿波勢の兵力は健在とはいえ、細川一門を束ねる京兆家としての正統性においても高国に政治的敗北を喫し、畿内進出の足掛かりを失った澄元は、三好之長と共に以後8年に渡って阿波で反撃の機会を窺うことになります。

こうして義尹の天下はようやく安定へと向かい、「船岡山合戦」の勝利によって洛中に平和をもたらした功労を認めた後柏原天皇は、翌永正9年(1512)3月28日、大内義興従三位を叙位しました。義興は大内氏当主として初めて存命中の上階を果たしたのです。

なお、かつて赤松政則従三位に任じられた時も多くの公卿が痛烈な批判の言葉を残していますが、今度の大内氏に対してもその取次に当たった三条西実隆自身が「田舎武士の所望につき、一事以上予入魂、比興の事也、断指すべき断指すべき」と憤懣を露わにしています。大内氏三管領家に次ぐ家格の赤松氏よりも低く見られていたため、それも当然かも知れません。三条西実隆は以前より義興と親交があったはずですが、それだけに都の公卿達における家格秩序意識が未だに強かったことが窺えます。(単に実隆の地方蔑視の感情が激しかっただけかもしれませんが…)

赤松政則大内義興は共に左京大夫に任官、従三位に上階していたわけですね。「明応の政変」の顛末といい、義興は政則のことをどんな風に意識していたんでしょうか。)

前述の通り、長期間に渡る滞在費用に苦慮していた大内氏では、すでに「船岡山合戦」の前より、義興の麾下にあった安芸・石見の国人達が無断で帰国する事態となっていました。しかし今や、京都の治安は大内氏の威勢こそが頼みの綱なのです。今度の義興の上階も上洛直後の従四位上への昇進と同様に、後柏原天皇による慰留の意向が込められたものであったのかもしれません。また、天皇はかつて細川政元に断られて以来、未だに即位式を実施できていないという事情もあり、大内氏の財力への期待もあったでしょう。前例を何よりも重んじる公卿達に比べると、むしろ天皇の方が朝廷の衰微を厳しい現実として捉えていたように感じます。

(なお、高国に対しては従四位下に叙位する意向が伝えられましたが、高国はどういう訳かこれを辞退して従五位に留まったようです。義興の従三位に比べると大きい変化ではないでしょうし、将軍御成は受けているので、名よりも実を取ったという感じでしょうか…?)

一方、前将軍義澄から遺児亀王丸(後の将軍義晴)を託され、澄元方に加担した赤松氏は、この危機に際してどう対応したのか…また、上洛直後から早くも冷戦勃発と思われた将軍義尹と細川高国大内義興の関係はどうなったのか…次回はその辺りを中心に続けようと思います。

夜の船岡山を歩いてみた

永正8年(1511)8月、典厩家の細川政賢が義尹・高国方を迎撃し、敗れ去った船岡山。標高112m、東西400mの小高い丘で、船の形に似ていることからその名が付いたそうです。

応仁の乱の序盤戦においても、西軍方に与した若き大内政弘(義興の父)が2万余という大軍で上洛した際、ここに陣を構えています。それから40数年を経た永正の頃にも、当時の防御施設などが残されていたのでしょうか。

現在の船岡山大徳寺の所有地だそうですが、京都市の都市計画公園の第1号として整備され、昭和10年から「船岡山公園」となっています。近隣の住民からは気軽に行ける夜景スポットとしても親しまれており、あまり戦跡として認識されていなさそうです。

(別に夜景を見に行ったわけではなくて、色々あって日が暮れてしまったというだけですが…。)

船岡山の麓にある建勲神社の参道。建勲神社織田信長を奉るために明治2年(1869)に建てられた神社です。前身は秀吉が正親町天皇の勅許により定めた廟所だそうです。信長菩提寺大徳寺総見院と対になる場所だったのでしょうか。

建勲神社には信長が着用したという紺糸縅胴丸や、桶狭間合戦で手に入れたという義元左文字(宗三左文字)が所蔵されていることでも知られています。(左文字は普段は京都国立博物館で保管されているそうで、展覧会などで観られます。)

最近はいわゆる「刀剣女子」ブームの影響か『京都刀剣御朱印めぐり』に参加されたり、「宗三左文字」大絵馬の授与も始められたようです。

幾多の戦いの舞台となったためか、遊歩道沿いに供養塔らしき物もありました。細川政賢の無念に思いを馳せつつ…と言いたいところですが、訪問時点では典厩家のことを全く知りませんでした。(汗)

すっかり夜ですが、船岡山の山頂です。

京都タワーが見えました。

暗くて見づらいですが、だいたいこんな形。

軍記類を参考にされたためか、現地の説明には澄元が陣取ったことが書かれていますが、実際には澄元は阿波を動いていないと思われます。

(この説明には船岡山公園となったのは昭和6年とありますが、京都市の公園形成史―第二次大戦前まで― (PDF) には計画決定が昭和7年11月、開園が昭和10年11月とあります。どちらが正しいんでしょう…?)

「応仁永正戦跡 舟岡山」の石碑。暗くて探しづらかったのですが、一応見つけて撮っておきました。

なお、城郭としての船岡山の歴史と、応仁・永正の「船岡山合戦」の経緯については、「落穂ひろい」内のこちらの記事が分かりやすく、詳細に解説されています。

北側の山腹には横堀が残っているとのこと。(次の機会には明るいうちに行きたいですね…)

応仁の船岡山合戦では西軍によって巨大な井楼が建てられ、守将の山名教之と一色義直が東軍を何度も撃退したようです。また、東軍による船岡山の奪取には浦上則宗も活躍したそうですよ。

また永正の船岡山合戦では、前述した義澄側近の松田頼亮が、奉行人(官僚)でありながら、最後まで船岡山に留まって討死したそうです。頼亮は密かに義澄の死に殉ずる決意だったのかも知れませんね…。

船岡山の南にある鞍馬口通には、大正12年に料理旅館として創業したという、豪華な内装で有名な銭湯「船岡温泉」もあります。船岡山戦跡巡りの際はぜひお立ち寄りください。(この時は時間が押していたので無理でした…)

こちらはまた別の建物ですが、古い旅館か何かの跡を再利用されているのでしょうか。この辺りは西陣の旦那衆を相手にした店が多く、歴史のある建物がいくつか残っているようです。

余談:大徳寺龍源院と義尹政権

大徳寺船岡山のすぐ北にあり、枯山水庭園で有名な塔頭の龍源院は畠山義元、大友義長、大内義興らによる創建と伝わっています。

龍源院の創建は、文亀2年(1502)や永正元年(1504)といった説がWeb上に見られますが、この三者が共同している時期であれば、義稙上洛後の永正5年(1508)以降、おそらく船岡山合戦が終わった永正8年から大内義興が帰国した永正15年までの間になると思います。

大内義興は義尹上洛に際して、事ある毎に抗争していた大友氏との和睦を進め、後に大友義長(キリシタン大名として有名な大友宗麟の祖父)は義興の娘を嫡子の正室に迎えています。

なお、船岡山合戦で細川政賢が布陣したのは船岡山と「今宮林」でしたが、地名の由来と思われる今宮神社は大徳寺よりも更に北にありますので、大徳寺も含めた一帯が戦場になったようです。方角的に義尹方は北西の長坂山から攻め下りてくる形ですが、大徳寺の僧侶達はどんな気持ちだったでしょう。応仁の乱もありましたし慣れたものかな…?

船岡山と大徳寺と今宮神社

File:Kyoto Mt.Funaoka Daitokuji Temple Imamiya Shrine Aerial Photograph.jpg - Wikimedia Commons より

下の緑が船岡山、その右上の緑っぽい四角のエリアが大徳寺、その左上角の緑が今宮神社。大徳寺の左側の飛び地みたいな緑は「孤篷庵」という塔頭寺院のようです。

参考書籍、参考資料

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

今回の大内義興に関する内容は、多くがこの本の内容に依拠するものですが、他にも「明応の政変」における赤松氏との連携行動について知り、深入りするきっかけを得られました。赤松播磨守(勝範)が義尹の下向に扈従していたことを知ったのもこの本からで、意外なことに赤松贔屓としても得るものが多かったです。

また、船岡山合戦の概要と、三好之長は元より澄元も参戦していなかったこと、大内方の多賀谷氏が水軍で堺を守備していたことを理由とする説は、こちらに書かれていたものです。

在京大名細川京兆家の政治史的研究

在京大名細川京兆家の政治史的研究

非常に内容の濃い本ですが、その中でも将軍復帰後の義尹と高国の緊張関係、特に畠山尚順への御成の件などを学びました。

政元、高国、晴元とそれぞれ変容している京兆家の実態を知る上で必読になりそうです。価格的にちょっとまだ手が届かないのですが、いずれは入手したい一冊。

戦国遺文 三好氏編(第1巻) 寛正六年-永禄四年

戦国遺文 三好氏編(第1巻) 寛正六年-永禄四年

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 東京堂出版
  • 発売日: 2013/11/25
  • メディア: 単行本

数々の古文書から三好氏に関係するものを抜粋して収録された本の1巻目ですが、讃州家の細川成之(道空)から高国に宛てた書状の存在を知り、細川氏の一門を捉える上で参考になると思い引用しました。(つい先日、最終巻となる第3巻が刊行されています。)

三好贔屓としては2巻も必読の内容でした。前回の記事『将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情』を書いてから読んで、即書き直したくなりました…。

価格的に、宝くじが当たればぜひ購入したいです!

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

赤松氏内部の動きについて、赤松大河内家が「東西取合」においても独立した動きを取っていたこと、義尹が将軍に復帰した直後に、大河内家の赤松播磨守(勝範)が謀叛を起こして討伐されたことを知りました。

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

細川氏と三好氏を中心に畿内の情勢を把握する上で、常々参考にしているものです。

阿南市立阿波公方・民俗資料館にて購入したものです。将軍義尹に関連する情報として『後法成寺関白記』等の翻刻文がいくつか抜粋されています。澄元が将軍義澄に対して義尹を呼び寄せて和睦するよう進言した話は、こちらの解釈から学びました。序文に書いたことと今回のタイトルに至るきっかけを得られたのがこの本です。

明応の政変」の経緯について、特に赤松氏が政元に付いて正覚寺への攻撃が開始されるまでを、大内氏の動きと合わせて学びました。30年以上も前の資料ですが、一般書にはここまで詳細に解説されたものが見当たらなかったため、とても参考になりました。

細川高国の細川一族内での支持基盤の弱さや、船岡山合戦で細川政賢が敗死した後の典厩家の系譜について学びました。

今回の記事に直接的には反映されていないと思いますが、「明応の政変」前夜、将軍義材の時代の細川政元の動向、あるいは浦上則宗の動向を中心に、赤松氏の応仁・文明の乱から「明応の政変」までの立場の変化について学びました。

ちなみに織田敏定といえば赤松政則の作刀が1本、この人に贈られているんですよね。論文のタイトルからはちょっと予想できませんが、浦上則宗ファンにもおすすめの内容です。

義澄派から義材派への転向の動きの一例として、讃州家が守護を務めた三河における今川氏の動向を知りました。今回の記事には取り上げていませんが、義澄が書いたと見られる、今川氏親や伊勢宗瑞への恨みつらみが込められた書状が面白いです。

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