k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りと歴史のことを書きます。戦国時代でも織田信長上洛以前の畿内と西国が多め。内容には素人の根拠無い想像が混ざってるのでお気をつけください。

「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景

以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(前編)~義尹上洛から船岡山合戦まで「明応の政変」も振り返りつつ』 に続き、永正8年の船岡山合戦における勝利の立役者となったものの将軍との軋轢が生じていった大内義興、分裂弱体化した細川一門をまとめて京兆家当主・管領として幕府への影響力を強めていく細川高国、そして出奔という大胆な行動に出た将軍足利義尹の三者を中心に、前将軍義澄の遺児亀王丸を庇護したことで今後重要な役割を担っていく赤松家の内情にも触れつつ、帰京した将軍が「義稙」と改名するまでの背景で起きていた変化を読み取ります。

※なお、「流れ公方」こと足利義尹は一般には最後の名乗りである「義稙」、あるいは明応の政変により将軍職を失った時の「義材」として知られますが、改名の経緯も重要だと考えますので、ここでは主に当時の名乗り「義尹」で表記しています。

将軍義尹が赤松氏を赦免して義澄の遺児亀王丸と和睦したことの意味、その陰で軋轢を深めていた大内義興

永正8年(1511)8月の船岡山合戦に至る前将軍義澄・澄元方の反攻において、赤松氏は高国方の瓦林政頼が守る摂津鷹尾城を攻略するなど、澄元方の一員として戦いました。
その後、前将軍義澄は決戦前に急死、細川政賢を大将とする澄元方の上洛軍も船岡山合戦で壊滅的な惨敗を喫したため、赤松氏は窮地に立たされたわけですが、永正9年(1512)閏4月、将軍義尹は赤松氏を赦免するとの御内書を細川高国と大内義興に発給しました。

その陰では、細川政元の姉で赤松政則の未亡人・洞松院の働きかけがあったようで、同年6月に洞松院は尼崎において細川高国と直接会談に及んでいます。
高国は代々京兆家を補佐する立場であった野州家の出身であり、以前から洞松院と面識があったのかもしれません。
8月末には当主赤松次郎の名代として別所則治と浦上村宗が上洛し、礼物を献じて謝意を表した結果、赤松次郎は兵部少輔の官位と共に将軍義尹から「義」の一字を授かり、赤松義村と名を改めることになりました。

別所則治は今はなき浦上則宗と共に赤松政則を支えて主家再興に尽力し東播八郡の守護代に任じられた重臣でしたが、政則の死後に起きた播磨国の内乱「東西取合合戦」では、次郎を後継者に据えた浦上則宗とは対立し、洞松院を支持していました。
一方の浦上村宗は則宗の甥孫に当たり、備前守護代であった父の宗助の死後にその地位を継ぐと共に、則宗が京兆家内衆の安富氏から養子に迎えていた祐宗の死去に伴い、当主の地位を継いだと見られています。

この浦上村宗は後に赤松家の実権を掌握し、義澄の遺児亀王丸(義晴)を新将軍に擁立する高国政権において最大の威勢を持つに至った人物ですが、『二水記』にはその大永3年(1523)時点で「二十四、五才の男」と記されており、逆算すると永正9年(1512)の上洛時点ではまだ十代前半の少年であったことになります。
義尹の上洛を受けた将軍義澄が永正5年(1508)に赤松重臣達に宛てた御内書には「浦上幸松」と幼名で記されており、実際に史料上に「村宗」の名が確認できるのは永正13年頃からだそうで、おそらく赤松次郎が義村と名を改めた後、元服に際してその偏諱を賜ったのでしょう。


余談ですが、上洛した村宗は大内義興と共に在京していた周防守護代陶興房の面識を得て、将軍義尹の馬の管理を行っていた三上氏の邸宅を訪問したことが記録されているそうです。
村宗と興房は親子以上の年齢差があったと思われますが、後に尼子経久・詮久父子と激戦を繰り広げることになる名将興房と、どんな会話を交わしたんでしょうか。


すでに成人していたはずの当主ではなく、かつて洞松院を支持した宿老の別所則治と、別所氏と対立した浦上則宗の後継者でまだ少年の浦上村宗が上洛したという事実には、赤松家のいびつな権力構造が現れているようにも感じます。

赤松氏の赦免に伴って、赤松氏が本拠地の置塩館に御所を構えて庇護していた亀王丸との関係修復も進んだようで、永正10年(1513)2月14日には亀王丸との「御合体之儀」について幕府と赤松氏の間で交渉された結果、将軍義尹と亀王丸の和睦が成立しました。
この時、義村の名代として上洛した赤松庶流家の在田式部少輔は、将軍に謁見して馬や太刀を献上しましたが、その場には管領細川高国と共に大内義興が侍していたにもかかわらず、義村からの礼状の宛所は「右京兆人々御中」つまり高国のみであり、赤松氏は大内義興の幕府内での立場を認めていなかったようです。

大内義興はかつて「明応の政変」において赤松政則に翻弄された苦い経験がありましたが、その政則は晩年に異例と言われた従三位への上階を果たしました。義興も自身の上階に際して、赤松氏の先例を意識したに違いありません。
しかし、赤松氏の方は義興の立場を認めていなかったわけで、義興は内心穏やかではなかったでしょう。
義興は亀王丸との和睦交渉直前に当たる2月6日、将軍義尹の怒りを買って下国を命じられており、後日そのことへの不満を細川高国に漏らしています。
あるいは、義興は赤松氏の赦免に当たり、その厚遇に異議を唱えて不興を買っていたのかもしれません。

そして、義興が従三位上階に至った経緯においても、将軍義尹との微妙な関係を窺わせるやり取りがありました。
義興が三条西実隆を通じて上階を所望した際、義尹はその意向を伺った武家伝奏橋守光に対して「天皇の意向に任せる」と消極的な返答をしつつ、それを義興には内密にするよう述べていたのです。
本来は将軍による推挙の上で行われるべき叙位を朝廷に直接働きかけた義興の方にも問題はあったのですが、結局は後柏原天皇の勅諚によって上階が実現したわけです。

かつて大内義興を朝敵に指定した天皇の態度が一変したのは、大内氏が引き続き在京して政情安定に寄与することを期待したものでしょう。
それに比べると将軍義尹には、上洛直後にも真っ先に畠山尚順への御成を行って義興と高国の反発を招いたことからも分かるように、多大な功績があるはずの義興を軽んじているように感じます。

赤松氏の赦免と義澄の子亀王丸との和睦については、かつて「明応の政変」で管領細川政元が義遐(後の義澄)を擁立した際、当初は将軍義材に味方した赤松政則大内義興が仲介役となり、義遐を義材の猶子に迎えることで事態を収拾しようとしたことが思い起こされます。
あの時は元々赤松家の再興を通じて京兆家との関係を深めていた赤松政則細川政元の意向を受け入れざるを得ず、結果的に将軍義材と大内義興を裏切る形となったわけですが、今度の和睦には誰の思惑が絡んでいたのでしょうか。

直接交渉に当たった経緯から、これを推進したのが管領細川高国だったとすると、播磨と海を隔てた阿波にて反撃の機を窺う細川澄元と、その支持基盤である讃州家に対抗させるために、洞松院を通じて赤松家中への影響力を強めようとしたことが考えられそうです。

一方で、この動きは何よりも将軍義尹の意志が反映されたものと捉えることも可能だと思います。
義尹の立場からすると、前将軍義澄の遺児である亀王丸を味方につけることは、自身の政権を安定させる上で重要だったはずです。

また、赤松氏に将軍家の通字である「義」の一字が与えられたのは、かつて将軍義満の元で幕政に参画し「明徳の乱」でも活躍した赤松義則以来のことで、義尹は幕府を支える大名として赤松氏の復権を望んだことが窺えます。
通説では将軍義尹は専制志向が強かったと捉えられていますが、そうではなく、一部の有力大名に権力が集中することがないよう、大名間の勢力均衡を作ろうとしたものと考えると、上洛直後に畠山尚順への御成を優先したことや、政権の安定を決定付けた船岡山合戦では敵方に付いた赤松義村に対し、過剰とも思える配慮を示した理由が理解できるのではないでしょうか。

そして、阿波平島公方家に伝えられた『平島記』(平島殿先祖并細川家三好家覚書)や「寛永諸家系図伝」提出の系譜(恵林院殿より相続候次第)には、義尹は在京時から義晴(亀王丸)を後継者に考えていたと記されているのです。
『平島記』は不確かな内容や明らかな誤りも見える史料ですが、平島公方家の祖である義維(義冬)の正統性を損ねかねない記述を伝えているところは、信憑性を感じさせられます。


なお、鷲尾隆康の日記『二水記』に義維の母は「武衛腹」とあり斯波氏出身の女性と見られていますが、『平島記』では細川成之の娘で義尹の正室である清雲院が義冬の母とされ、義冬は京都で生まれたが「狂乱」のため母子ともども将軍に疎まれて阿波へ下国したと説明されています。
平島公方家では9代義根の時に阿波を退去して京都へと移住したため、先祖の出自を京都に求めつつ阿波へ下ったもっともらしい理由として後世に創作された話の可能性も考えられますし、詳しい事情は分かりません。


かつて、義尹の父義視は将軍義政の後継者の地位にありながら、応仁・文明の乱の成り行きで西軍方の将軍として擁立され、東西和睦後も義政との仲は修復されることなく、幼少の義尹と共に十年以上もの間、美濃土岐氏の元で過ごしたという経緯がありました。
義尹は足利家一族の分裂という悲劇を繰り返さないために、あえて自身の子を持たず、赤松家を取り込んだ上で亀王丸(義晴)を後継者に据えるつもりだったのかもしれません。

都を仰天させた将軍義尹の甲賀出奔と、帰洛の様子に見る幕閣の構成

永正10年(1513)3月17日のこと、将軍義尹は突如わずかな供の者を連れて近江甲賀へと出奔してしまい、京都は騒然となりました。
関白近衛尚通は『後法成寺関白記』に「言語道斷次第也、京都仰天、無是非者也」と感想を述べています。尚通は家僕の北小路俊永を将軍の側近である畠山式部少輔の元へと遣わしましたが、当の義尹が飛脚の派遣や奉公衆の参上を禁ずる御内書を残していたため、対応に苦慮したようです。

3月19日には管領細川高国、能登守護畠山義元と当時上洛していた畠山尚順が協議の末、将軍の帰洛を求めて使者を派遣した結果、4月3日に将軍から詳細は不明ですが「従江州大樹御返事旨七ヶ條云々」と、七ヶ条の要求が返されたようです。
これに対して細川高国、大内義興、畠山義元、畠山尚順の四大名は「諸事不可背御成敗之由申入云々」と、何事も将軍の裁定に従うことを起請文に認めて提出することになったのです。

そして5月1日には「今日為御迎、細川右京大夫、畠山尾張入道、同修理大夫、大内左京大夫等、大津、坂本邊祇候云々、大樹亦今日甲賀御立云々」と、甲賀で病気になったと称して園城寺へと移っていた義尹を迎えるため、四大名たちが大津、坂本に赴きました。

ここに至ってようやく怒りを治めた将軍は、諸大名および奉公衆たち総勢三万人に及ぶ大行列で帰洛し、大勢の見物人に迎えられました。

大樹御歸洛也、供奉衆細川右馬頭、畠山次郎、同式部少輔、大館刑部大輔、一色兵部大輔、伊勢守以下十ニ三騎、奉公衆、御輿前二行、七八十人云々、板輿也、甲賀奉公衆種村刑部少輔父子以下御先ニ馬上也、畠山修理大夫ヌリ輿、騎馬四五騎也、次大樹、御後、細川安房入道塗輿、騎馬四五騎也、其後和泉守護彌九郎、次畠山尾州馬上、後騎十二騎也、次大内左京兆ヌリ輿、後騎十一ニ騎也、次細川右京兆ヌリ輿、後騎十二三騎也、人數三萬餘人計歟、見物衆如竹葦云々

『後法成寺関白記』永正十年五月三日条(那賀川町史編さん室『平島公方史料集』)

帰洛した諸大名の様子からは、当時の幕府における有力者とその序列を窺い知ることができます。

「ヌリ輿」(塗輿)は白傘袋、毛氈鞍覆と並んで守護の家格にのみ認められたもので、「大樹」(将軍)の前の畠山修理大夫、後ろの細川安房入道、そして最後の大内左京兆、細川右京兆が使用しています。

両京兆の二人は説明するまでもないでしょう、その他の代表的な人物を簡単に紹介していきます。

先頭の細川右馬頭(尹賢)は、細川政賢が船岡山合戦で討死した後、典厩家を継いだ高国の従弟です。
尹賢は後に高国派の後継者となる細川氏綱の父でもあり、「大物崩れ」に至る流れの発端となった事件の当事者にもなる重要人物です。

畠山次郎は畠山尾州家の尚順の嫡子で、後の稙長でしょうか。
能登守護・畠山義元の養子、後の義総も当時は次郎と名乗っており、両方の解釈があるようです。

畠山式部少輔(順光)は義尹の山口下向にも扈従し、幕府申次を務めた人物で、後には異例の将軍御成も受けています。
赤松氏を通じて澄元方との交渉を担当したという側近中の側近で、彼の生涯は本シリーズ記事のテーマとも合致するため、改めて取り上げる予定です。

大館刑部大輔(政信)、一色兵部大輔(尹泰)についてはよく分かりませんが、両者は船岡山合戦後の細川高国邸への御成にも随伴しており、特に一色尹泰は義尹の山口下向にも扈従してその偏諱を授かっていることから、その寵臣の一人だったようです。

「伊勢守」は政所頭人を世襲する伊勢惣領家の当主のことですが、当時は伊勢貞陸でしょうか。

種村刑部少輔(視久)も義尹の山口下向に扈従した側近の一人で、幕府申次を務めました。子の種村三郎は今度の突然の甲賀出奔にも同行していることから、特に義尹の寵愛を受けていたことが窺えます。
「視久」という名から、おそらく義尹の父義視以来の近臣と思われます。

畠山修理大夫(義元)も明応の政変以来の義材派で、能登国の守護ですがこの頃は在京して幕閣に加わっており、船岡山合戦にも参戦したため、細川高国に続いて将軍義尹の御成を受けました。
高国・義興と共に起請文を提出した四大名の一人です。

細川安房入道(政春)は高国、晴国兄弟の実父で野州家当主の細川政春です。
野州家は代々守護職を持たず京兆家を補佐したという家柄ですが、塗輿の使用を認められている点は注目すべきでしょうか。

「和泉守護彌九郎」は和泉下守護家を継いだ細川尹賢の弟・高基のようです。とすると高国の従弟ですね。
和泉国は上下半国守護制が採られていました)

馬上の「畠山尾州」が義尹の将軍復帰後に最初の御成を受けた、畠山尚順です。五月一日に「畠山尾張入道」と記されている通り、当時すでに出家していたようです。
(そう考えると「畠山次郎」は家督を継いでいた稙長のことでしょうか?)
高国・義興と共に起請文を提出した四大名の一人です。

以上の顔ぶれからは、当時の幕府において、旧義材派の守護大名大内義興、畠山義元、畠山尚順父子)、将軍の古くからの近臣(畠山順光、大館政信、一色尹泰、種村視久)、そして管領細川高国とその親族(細川尹賢、細川政春、細川高基)が重要な地位にあったことが窺えます。


ちなみに「伊勢守」伊勢貞陸は父の貞宗と共に「明応の政変」にも深く関わっていたはずですが、義尹の上洛後も引き続き政所頭人を務めています。この一族は派閥など関係なく幕府運営には欠かせない別格の存在だったのでしょうか。


公卿たちが見た将軍義尹出奔の理由と、丹波内藤氏の復権に象徴される京兆家内衆の変化

関白近衛尚通は、先の将軍出奔の原因を「對此間兩京兆御述懐云々」つまり細川高国と大内義興への不満と記している他、醍醐寺理性院の厳助が「対細川御述懐之故、御発心云々」と高国への不満、甘露寺元長が「対諸大名可被仰子細有之云々」と諸大名への不満を記しており、公卿達は将軍に諸大名、とりわけ細川高国に対して何か鬱積したものがあったと考えたようです。

しかし、高国はまだ当主として京兆家の体制を充分に固められていなかったはずで、政権樹立の功労者である大内義興をはじめ、前将軍義澄在任の頃から義尹を支えてきた大名達も在京している中、彼らを差し置いて権勢を振るうことができた訳はないでしょう。
かつて細川政元が赤沢宗益や上原賢家・元秀父子など新参の家臣を側近に起用して譜代内衆の反発を招いたことや、晩年に澄之に代えて澄元を後継者としたために讃州家と京兆家の対立が激化し、その中で命を落とすに至ったことも、高国に自制を促したに違いありません。

また、永正9年時点で従二位の将軍義尹、従三位大内義興に比べて、高国は参内しているものの大永元年11月の従四位下叙位まで「歴名士代」に記載がないそうで、位階においても両者への遠慮が窺えます。
この時点ではとても、後世に伝えられているような「将軍に対する専横」の気配は感じられません。

一方で、義尹の将軍復帰以後に行われた幕府儀礼の中で、大名邸における猿楽興行の回数が義澄期と比べて明らかに多くなっていることから、高国が京兆家当主という最も高い家格を有することを利用して、積極的に猿楽興行を開催することで在京大名間の序列形成を図ったとの指摘もあります。
(浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』)

猿楽興行は永正5年から永正9年までの間に、将軍御所で10回、細川高国邸で2回、大内義興邸で1回行われており、将軍の他には細川高国、大内義興、畠山稙長、畠山義元という、義尹出奔の際に起請文を提出した四人の在京大名が主催あるいは共催しています。
その中でも気になるのが、永正9年2月15日に細川高国邸において行われた猿楽興行で、これを主催したのは高国ではなく京兆家の分国丹波守護代、内藤備前守貞正でした。

内藤氏は関東御家人の流れで古くから丹波に土着していた武士ですが、南北朝の動乱期を通じて丹波を代表する国人へと成長し、細川勝元に従って応仁の乱で戦功を立てた内藤元貞は丹波守護代、また京兆家内衆として強い発言力を持ちました。
(細川京兆家の通字である「元」を与えられていることからも、勝元から相応の信頼を受けていたことが窺えます)

この内藤元貞が深く関わり、京兆家当主と内衆の関係を知る上でも重要な「細川政元拉致事件」について紹介します。
文明11年(1479)12月、勝元の跡を継いだ政元はまだ15歳、修験道の回国修行と称して丹波へ赴いた際、被官の一宮宮内大輔が守護代内藤元貞への反発から、政元を拉致して謀反を起こす事件が起きました。
この非常事態にはなかなか解決の道筋が立たなかったようですが、翌年2月までには「細川事一宮責之、一門各同心。九郎定而可生涯条不能左右、野州息六郎可還俗分一決旨」(『大乗院寺社雑事記』文明12年2月4日条)と、ついに政元を見捨てて、勝元のかつての猶子で当時出家していた細川勝之を還俗させることとして、一宮氏への攻撃が開始されました。
その後また1ヶ月膠着状態が続いたようですが、内藤元貞が京都で集めた牢人達を乱入させて徳政一揆を起こさせた一方で、一宮備後守が宮内少輔を裏切って内藤に通じたため、その混乱に乗じて安富新左衛門尉元家、荘伊豆守元資らが討ち入り、政元は約100日を経てようやく救出されました。
(参考:細川政元掠奪事件

そもそもこの事件の発端は、一宮氏に与えられた闕所への年貢免除を認めず一宮方を三十人ばかり討ったという、内藤元貞による一宮氏への横暴であり、政元はそのとばっちりを受けたようなものでした。
しかし、まだ若い政元には信頼できる家臣も少なく、先代の細川勝元から信任されていた元貞を容易には処分できなかったのでしょう。
そして事件の終結から2年を経た文明14年、政元は突如元貞を更迭し、丹波出身の側近・上原元秀を守護代に任じたのです。


なお、事件の際に細川勝之の擁立を主張したのも内藤元貞だったようですが、勝之は野州家の出身で高国の伯父に当たり、勝之の妻は丹波世木城主の湯浅氏出身、勝之の実子も湯浅氏を継いでいたことからも窺えるように、内藤氏麾下の丹波衆が当初から野州家との繋がりが強かったことが影響したように感じます。
事件当時の野州家当主は高国の祖父教春でしたが、その教春も応仁の乱の際には丹波衆を率いて参戦したと伝わっています。
船岡山合戦の前に劣勢となった義尹方が京都から一旦退いた際、避難先に選んだのが丹波の宇津という事実からも、丹波野州家にとって安定した支持基盤であったことが窺えます。


このような経緯でしばらく政権中枢から遠ざかっていた内藤氏ですが、それがかえって幸いしたというべきか、澄之派と澄元派の争いにはどちらにも深入りすることなく、澄之派による政元の暗殺と澄元派の京都没落という状況の急変に際して、いち早く高国を支持しました。
内藤貞正は、船岡山合戦においても柳本又次郎入道宗雄と共に丹波衆を率いて戦っており、京兆家内衆の中でも第一の功績と認められたのでしょう。
主君の邸宅を借りる形で、おそらく少数の客を招いての開催とはいえ、守護代格による猿楽興行の主催は他に例が見られず、貞正は大いに面目を施したと思われます。

かつて「細川四天王」と称された安富氏、香西氏、奈良氏、香川氏など讃岐に本拠地を持つ内衆の多くが勢力を減退させた一方で、高国の元で京兆家の宿老として復権を果たした内藤貞正は京都に邸宅を構え、主君の高国ともども、当代随一の文化人として名高い公卿・三条西実隆と交流することになるのです。


細川高国が義晴を将軍に擁立し、新御所「柳之御所」が完成した大永6年頃の京都を描いたと見られる『歴博甲本 洛中洛外図屏風』において、典厩邸の向かいに描かれている邸宅が内藤邸で、その場所は現在も「内藤町」と呼ばれているそうです。
また、「柳之御所」の造営には香川氏らかつての有力内衆たち(京兆之北、香川、安富、秋庭、上野以下)の邸宅跡が利用されたそうで、これも高国への代替わりで起きた内衆の変化を象徴しているように感じます。
(小島道裕『洛中洛外図屏風: つくられた〈京都〉を読み解く』)


都の公卿たちが将軍義尹出奔の原因を高国への不満と考えたのは、高国の親族(細川尹賢、細川政春、細川高基)がいずれも重要な地位にあっただけでなく、内藤貞正に代表されるような地方の国人上がりの武士までもが京都の政局への影響力を増していたことを、他ならぬ公卿たち自身が不満に感じていたためではないでしょうか。

将軍義尹の狙いは幕府の主導権を確保するところにあった?

前述の通り、将軍義尹の出奔は細川高国と大内義興への不満に因るものと噂されたわけですが、赤松氏の赦免と亀王丸との和睦の件でも述べたように、義尹が政権安定の手段として一部の有力大名に権力が集中しないよう配慮していたと考えると、別の理由も浮かびます。
実は義尹は本心から遁世しようとしたわけではなく、自身の存在の重みを在京大名達に思い知らせつつ、幕府の主導権を自身の手に確保するため、あえて職務放棄という非常手段に訴えたのではないでしょうか。

そう考えると、この出奔の結果として諸大名から「諸事不可背御成敗」=何事も自身の裁定に従うことを誓わせると共に、大勢の見物人が集まる中で将軍としての威厳を示すに至ったわけで、将軍の目論見は達成されたと見ることもできそうです。

そして、将軍義尹は甲賀への出奔から帰京して半年を経た永正10年11月9日、名を「義稙」と改めました。
「日野豊田系図」にはその理由として「天下の政務に倦み給う故」と伝えられていますが、実際のところそのような理由とはとても思えません。

義稙は永正12年7月5日に「北は三条坊門、南は姉小路、東は富小路、西は万里小路」に囲まれた地に新邸(三条御所、三条万里小路御亭)の造営を開始しており、甲賀からの帰京後も意欲的に活動していることが窺えます。

永正5年の上洛時に仮御所とした一条室町の吉良邸は、船岡山合戦の前に丹波へと脱出した際に自焼しており、その後も長らく二条西洞院の妙本寺を仮御所としていたようで、これを機に自ら新たな御所を築くことは、将軍の復権を心中に期する義稙にとって極めて重要だったのでしょう。
義稙は同年12月2日には三条御所へと移り、以後大永元年3月7日に二度目の出奔に至るまで、この新御所で政務を執ることになります。

しかし、その一方で、後柏原天皇即位式は前将軍義澄の時代に細川政元の反対によって沙汰止みとなって以来、資金不足のため長らく延引されたままであり、そのことで高国・義興が新邸造営に反対したために、将軍が不満を募らせたのではないかとも推測されています。
実際、大内義興は12月3日に行われた新御所での初目見得を病気と称して欠席したそうで、義興の将軍への不信感は義稙が思っている以上に深刻だったのかもしれません。
そして、将軍との軋轢が直接の原因ではないと思いますが、陶興房太宰府天満宮に宛てた書状によると、義興は永正12年10月頃には国許に対して帰国の意志を示していたようです。
(藤井崇『大内義興』)

義興は以前にも何度か帰国をほのめかしており、何らかの譲歩を引き出すための方便という意味もあったようですが、義尹と共に上洛して以来早7年を過ぎた今、国許の情勢は決して平穏とは言えない状況となっていました。
そして、義興の帰国を契機として、阿波の細川澄元と三好之長は再び反撃を開始することになります。

前編・中編・後編の3回に分ける予定で書いてきましたが、今回は残念ながら記事に関係する史跡を紹介できなかったので、次の更新では番外編として、京兆家内衆の香西氏とその関連史跡を紹介しようと思います。

祝『足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍-』発売!!

実はこの記事、書き出してからもう半年以上かけてしまったわけですが、その間に待ちに待った一冊が発売されました。

戦国時代の足利将軍家といえばこの方、山田康弘先生の『足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍-』です!

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

5月下旬の発売ですでに入手しているのですが、読むと著しく影響を受けてしまうことは間違いなく、それまでの間に書き溜めていた記事の訂正が大量発生しそうなので、あえて積んだままにしています。

実際のところは 前編 の内容についても、現在では印象が変わっているところもあったりするんですが。(特に細川高国)

今回の記事についても、自分の学習の軌跡、ひとまず現時点でのまとめとして考えていますので、よっぽど恥ずかしい誤りを指摘されでもしない限り、訂正はしないと思います。

記事の続きは、この山田先生の本を読み終えてから書こうと思います。

参考にさせていただいた書籍、資料、Webサイト等の紹介

浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版)

在京大名細川京兆家の政治史的研究

在京大名細川京兆家の政治史的研究

細川高国の幕府儀礼への関わりに注目され、詳細に検討された論文が掲載されています。
この本で船岡山合戦の直後に内藤貞正が猿楽興行を主催していることを知り、細川政元の時代における京兆家内衆の対立状態からの変化の流れを、義尹帰還からの高国の台頭と結びつけて捉えるきっかけとなりました。
ずっと違和感を覚えていた、通説における「高国の専横」への疑問をある程度払拭することもできました。

将軍出奔の理由を細川高国と大内義興への不満として、高国の立場からその背景の考察が詳しくなされていましたが、時期的には出奔後に起こった出来事も含まれており疑問に感じるところもあります。
そこで、そもそも将軍は本心から遁世しようとしたわけではなく、一度目の出奔(今回扱った甲賀への出奔)と二度目の出奔(次回で扱う予定の淡路への出奔)も性質が異なるものではと思い至り、今回の記事は前回から方向性を変えました。

僕のような素人には少々難解でお値段も高めですが、書店で普通に購入できる本で、細川高国の真価を知るには今のところ最適な一冊だと思っています。

藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』(戎光祥出版)

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

赤松氏赦免と亀王丸との和睦について、大内氏の視点での考察を参考にさせていただきました。
義尹の出奔については「無責任」そして「軽薄な貴人」と厳しい目が向けられていて、義尹の行動に呆れ果てた義興は帰国までの数年間、幕府のためというより大内家の権益拡大のために在京していたとの論調で、今のところそこはちょっと素直には同意できない感じ。

小島道裕『洛中洛外図屏風: つくられた〈京都〉を読み解く』(吉川弘文館

最近購入した本ですが、『洛中洛外図屏風』が描かれた背景を文書史料や先行して描かれた作品と合わせて読むことで、多くの示唆が得られることが実感できるという、とても面白い内容です。これで、洛中洛外図屏風の見方が一変しそうな勢いです。
特に、歴博甲本から細川高国の新政権樹立の背景を読むところに多くを学びました。
以下の歴博公式Webサイトの記事も面白いですよ。

大石泰史編『全国国衆ガイド 戦国の “地元の殿様” たち』(講談社

複数の執筆者で書かれている本ですが、「両細川の乱」における京兆家内衆の動向、特に手元に資料が皆無だった香西氏や内藤氏について調べる取っ掛かりとして役立ちました。
ちなみに、畿内地域の担当は『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』の浜口誠至氏です。

渡邊大門『備前 浦上氏』(戎光祥出版)

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

赤松氏の内情や浦上村宗に関することは、ほぼこの本を参考にしています。
ただし、兵庫県史等でも言及されている赤松氏の動向と畿内政権との関連には触れられておらず、おそらく意図的に避けているような印象を受け、その点は浜口誠至氏とは対照的に感じます。

播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)

  • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
  • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

赤松義村と洞松院、そして浦上村宗に関することは、こちらも併せて参照しています。
一般に義村は浦上氏の「下克上」を許したとされ後世の評価は低いのですが、再評価して欲しいと思うきっかけを得た本でもあります。

那賀川町史編さん室『平島公方史料集』

阿南市立阿波公方・民俗資料館にて購入したものです。
平島公方(阿波公方)の立場からは義冬(義維)を初代と数えますが、その先代として義稙の事跡にも触れられており、今回の記事で主に扱った甲賀出奔に関する『後法成寺関白記』からの翻刻文が掲載されています。
また、『平島記』は阿波公方誕生の経緯がどのように伝えられているのかという点でも、興味深い内容です。

兵庫県史編集専門委員会『兵庫県史 通史編 第三巻』

昭和53年と古めの本ですが、両細川の乱についてまとまった内容があります。
赤松氏の動向は勿論ですが、丹波の国人についても多く扱われており、特に内藤氏の経歴や内藤貞正と細川政元の因縁について学びました。
なお、今回の記事で扱った政元拉致事件の背景については、以下のWebサイトが詳しいです。
八犬伝の解説サイトのようですが、こんな記事が読めるとは…)

Papathana’s ブログ

今年に入って「明応軍乱編」の掲載が始まり、非常に刺激を受けました。
一連の記事で明応の政変の背景、特に政元の時代の特質や政元晩年の讃州家の地位向上に至る流れを知り、義尹政権において高国が求められた役割や内藤氏復権の背景が見えてきたように感じました。

赤澤宗益や古市澄胤のプロフィールも興味深いです。
古市氏については地元での応仁・文明の乱と山城国一揆に関連することもあり以前から少し学んでいましたが、より理解が深まりました。

二周年です(…のおまけ): Muromachi通り

義材(義尹・義稙)といえばこのサイト、というくらい個人的に影響を受けてリスペクトしている『戦国黎明記』管理人さんのブログ記事ですが、義尹政権における畠山尚順と細川高国のポジションについて分かりやすく解説されていて、特に今回の記事で扱っている時期、大内義興帰国以前の高国について考え直すきっかけをいただきました。
上の『Papathana’s ブログ』の赤澤宗益や古市澄胤の記事と併せて読むと、義尹上洛までの畠山尚順の動きがよく分かり、味わい深くなると思います。

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