k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りを楽しむために学んだことを公開している「学習メモ」です。

2021年に読んだ後期室町・前期戦国関連本の感想

新年度明けましておめでとうございます。

昨年は例年に増して出会いの多い年でした。今回はそれを振り返りつつ、久々にブログを更新します。

後期室町・前期戦国オタク需要を狙った(?)書籍が続々刊行

2021年は、僕のような 室町後期~戦国前期オタク にとって、非常に実りの多い1年になりました。

極めて個人的かつ近視眼的な感想ばかりですが、雑感を述べて参ります。(2020年に発売され、2021年に読んだものもいくつか含みます)

河村昭一『若狭武田氏と家臣団』

今やすっかりお馴染みとなった戎光祥出版から、1月に刊行されたのが、 河村昭一『若狭武田氏と家臣団』

河村昭一先生ご自身の成果も含めた先行研究の総まとめにとどまらず、刺激的な新説も含まれており、とても面白い内容でした。

中でも、最推しに足利義稙を掲げている僕としては、 明応の政変における武田元信の動向 が興味深かったです。

若狭武田氏はそもそも、武田信栄が細川持常と共に将軍義教の命を受け、大和の陣中で一色義貫を誅伐した功績により、一色氏旧領のうち、武田氏が若狭と丹後を、阿波細川氏(讃州家)が三河を与えられたことから始まり、応仁・文明の乱を通じて、若狭武田氏と細川氏は常に共闘関係にありました。

明応の政変後も細川政元と共に在京して義澄政権の一翼を担い、永正4年には京兆家と讃州家が一体となって若狭武田氏の丹後攻略に協力することになるわけで、なんとなく、明応の政変にも積極的に協力したものと捉えていましたが……実は、京都を脱出した前将軍義材に被官を随行させるとともに、越中下向後も義材陣営と連絡を取っていたというのです。これには、目から鱗が落ちる思いでした。

以前から、明応の政変で義澄支持に回った諸大名の中にも、最初から義材を見捨てるつもりではなく、十分に状況を把握できないまま結果的に荷担してしまった者が多かったのではないか、と感じていましたが……この武田元信の行動を知り、それがますます補強されました。

その他には、逸見氏と並ぶ宿老・粟屋氏の一族で、大永期から天文にかけて京都周辺で活動した、 粟屋孫四郎勝春 の生涯が強く印象に残りました。

粟屋勝春は、武田家が桂川合戦の敗退で大打撃を受けて帰国した後も、たびたび細川高国の元へ派遣されており、享禄3年末頃には、播磨から上洛戦の途上にあった高国を支援すべく、内藤彦七と共に勝軍山城に籠もり、木沢長政や柳本甚次郎らと交戦。

大物崩れで高国が敗死したことを受けて一旦若狭へ帰国した後、高国の弟・八郎晴国に伴って丹波へ入国し、波多野秀忠の支援を受けて挙兵。晴国に従って畿内を転戦したのですが、天文3年に一旦和睦した際、主家である武田家が将軍義晴・細川六郎(晴元)方に付いたにもかかわらず、なお晴国と共に畿内で戦い続け、天文4年7月に討死したそうです。

この頃の本願寺は天文4年6月12日、大坂において一揆勢五、六百人が討死する大敗を喫しており、これで一向衆は滅亡したかとまで言われる状況でしたので、本願寺首脳陣も一気に晴元方との和睦に傾いたのでしょう。これに伴って、旧高国党で晴国を支援していた丹波国衆や摂津国衆たちも、その多くが幕府に帰参しました。

丹波で晴国の挙兵を支援した波多野秀忠も、天文4年7月1日には3千の兵と共に子息・太藤丸を上洛させており、それまでには晴元に帰参していたようです。)

そんな中、粟屋勝春は若狭武田氏の被官であったにもかかわらず、最期まで晴国を支え続けたのです。

家の存続こそが第一義であったこの時代、劣勢に陥ってもなお細川高国・晴国に肩入れして我が身を滅ぼした彼の行動は、決して賢明とは言えず、主家である武田家の利益にも反していたかもしれません。

しかし、細川政元の横死後ますます激化した幕府の分裂抗争、とりわけ京兆家領国である丹波や摂津においては、叛服常無き国人たちの生存競争が繰り広げられた中、彼のように一途な生涯には一服の清涼剤といった趣を覚えました。

若狭武田氏に限らず、当該期の幕府や細川京兆家に興味がある方にも、大いに得るところがあるこの一冊、未読の方には今からでも入手をおすすめします。

吉川弘文館「列島の戦国史」シリーズ完結

2020年から吉川弘文館より刊行されていた通史「列島の戦国史」シリーズが完結しました。

このシリーズでは、僕も重点して学んでいる時代から、 天野忠幸『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』 (第4巻、2020年8月)と、 大薮海『応仁・文明の乱と明応の政変 (第2巻、2021年3月)を併せて購入しました。

第4巻『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』は、足利義稙の将軍復位から織田信長の上洛までと、非常に広範囲な時代を扱いつつ、幕府の分裂抗争における武将や大名たちの動向だけではなく、宗教勢力や都市の発展、東アジアとの通交、公家の生活や荘園などなど、京都を中心とする当時の社会を様々な切り口で解説されており、実に読み応えがありました。

天野忠幸先生は、三好氏の研究をリードされていること(そして、足利義輝への辛口評価)で戦国オタクに著名ですが、これまで執筆された三好関連の書籍でも、宗教や寺内町の発展など畿内特有の社会情勢を分かりやすく解説されていましたし、週刊ビジュアル『戦国王』第65号で担当された細川一族、細川勝元山名宗全や、『室町幕府全将軍・管領列伝』で担当された細川勝元などを読んでも、三好氏台頭以前の時代の先行研究にも丁寧に目配りされていると感じてきました。その集大成が、この『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』と言っていいと思います。

同じ天野先生の中公新書『三好一族』で初めてこの時代に興味を持った方には、更に深く学ぶため、おすすめの一冊です。

第2巻『応仁・文明の乱と明応の政変』は、僕がこの時代に入門するきっかけとなり、その後も積極的に学び続けてきた、嘉吉の乱以後の赤松家再興運動の背景や、前述しました『若狭武田氏と家臣団』を補間する内容でもあり、興味深く読みました。

中でも特に印象に残ったのは、相国寺蔭凉軒の復活と季瓊真蘂の軒主職再任、そして室町殿の再建開始など、長禄2年を区切りとして、将軍義政が体制の一新を図ったという話です。

本書では赤松家再興問題と関連付けた説明はされていないのですが、同じく長禄2年に行われた山名宗全の赦免や、赤松遺臣が奪還した神璽(いわゆる「三種の神器」の一つ)の内裏への帰還も併せて考えると、この時点での義政の意向は、赤松・山名両氏の和解を図り、宗全に赤松問題への妥協を促すという穏当なものだったと考えます。

要するに、義政は少なくとも応仁の乱勃発までは、宗全を刺激しないよう気を遣っており、だからこそ、宗全の婿たる細川勝元も、赤松家の再興には同意せざるを得なかったと理解しました。

次第に本の感想から逸脱してきましたが、親赤松アンチ宗全派(?)な僕としては、なぜ赤松氏が応仁・文明の乱の東西和睦に強硬に反対したのかを、赤松家再興の経緯と絡めて説明していただきたかった……そんな無念を強く覚えるほど、広く読まれるに相応しい一冊と感じた次第です。

また、応仁・文明の乱で激化した対立構造の各地方への波及について、多くの頁を費やして説明されていることも本書の特徴で、元々興味があって調べていた地域だけでなく、あまり知らなかった地域についても、興味を深められました。

三好一族がついに一般層の読者に広まった!?天野忠幸『三好一族 ―戦国最初の「天下人」』

中公新書から10月に刊行されたのが、 天野忠幸『三好一族 ―戦国最初の「天下人」』

三好長慶といえば、戦国オタクの間ではすでに、織田信長に先んじた畿内の覇者と認知されて久しい状況ですが、超メジャーレーベルの中公新書から「三好一族」を冠するこのタイトルが登場したのは、大きなインパクトでした。

おそらく、2020年の大河ドラマ麒麟がくる』に三好長慶が登場したことや、その側近である松永久秀が主人公の明智光秀と関わりの深い役回りだったこと、向井理さんが演じた将軍足利義輝の儚い美しさもあって、室町幕府の崩壊過程に注目が集まったことも影響したのでしょう。Twitter上の反応を見ても、これまで三好氏に注目してこなかった方にまで、この新書が広く届いていることが窺えました。

三好長慶の登場以前、将軍家および細川京兆家の分裂抗争に重点を置いている僕としては、長慶の曽祖父・三好之長が阿波守護家(讃州家)当主の近臣として台頭した経緯から始まり、 京兆家と讃州家の立場の違いや両者の関係の変化 について、先行研究を取り込みつつ要点を絞り、平易かつ論理的で読みやすい文章で、因果関係を分かりやすく解説されていることが、とても嬉しかったです。

個人的に最も感動したのが、 永正元年の薬師寺元一の乱 に関する記述です。

この乱は、薬師寺元一が籠もった淀城が早期鎮圧されたためか、あまり重要視されていないのが現状ですが……僕はこの事件について学んだ結果、これは守護代による単なる下剋上未遂事件、あるいは細川政元の後継者を巡る京兆家の内訌に留まらず、明応の政変から始まり船岡山合戦まで続いた、義澄派 vs 義稙派という将軍家分裂問題において、一大転機となる可能性があった重要な事件と捉えるに至っています。

また、細川政元が妻帯せず実子を作らないまま死去したから、3人も養子を迎えたから、後継者争いが起きたのだと、そういった意見もよく見掛けます。これは典型的な誤解なのですが、そのような誤解が生じるのは、文亀3年から永正2年頃にかけての京兆家がいかに綱渡り状態であったかが充分に知られていないこと、そして、「京兆専制」論の影響が今もなお強く残っていることもあり、義澄派 vs 義稙派の対立が視野に入っていないためでしょう。足利義稙を最推し公方と心に定めている僕としては、この現状に長らく不満を抱いてきました。

天野先生の前著『室町幕府分裂と畿内近国の胎動』でも、薬師寺元一の乱については、細川政元&新参内衆(澄之派) vs 細川一門&譜代内衆(澄元派)という構図を前提として、あくまで京兆家の後継者問題の解説に留められていたのですが……それが今度の『三好一族』では、薬師寺元一は将軍義澄と政元の対立を好機と見て、讃州家から澄元を後継者に迎えるとともに、帰洛の機会を窺っていた前将軍義稙を迎え入れようとしたのだろうと、そう説明されていたのです。

以下、『三好一族』より引用します。

薬師寺元一は、政元と親政を目指す将軍義澄の対立から、阿波守護家と提携して、義稙の京都復帰を目指していたようだ。すなわち、公家出身の澄之ではなく、義稙に重用された細川義春の子澄元こそが、京兆家の家督にふさわしいと考えたのである。

(中略)

政元の後継者争いは、義澄を擁する政元と、義稙に心を寄せる成之の対立と、密接に連関していたのである。

広く初学者に向けて著された新書で、このような前提が共有されることになろうとは……まことに、感無量です。

これは、先に述べた 京兆家と讃州家の立場の違いや両者の関係の変化 を分かりやすく解説された一例でもあります。

この乱を鎮圧した細川政元は、典厩家当主の細川政賢を烏帽子親として澄之を元服させたことで、改めて自身の後継者は澄之であると示したものの、翌年の讃州家討伐に失敗するや、今度は讃州家を懐柔するべく180度方針転換し、結局、薬師寺元一の主導で文亀3年頃から進めていた通り、澄元を猶子に迎えることになります。それに伴い、澄元の側近として再び上洛したのが三好之長で、三好氏はこれを契機として、讃州家にとどまらず京兆家の一員として台頭することになりました。

つまり、薬師寺元一の乱を前後の経緯も含めた大きな流れで把握することは、将軍家および京兆家の分裂問題と、その中で飛躍を遂げた三好氏の動向を理解する上で、とても重要なのです。

いささか脱線が過ぎましたが、この『三好一族 ―戦国最初の「天下人」』、三好氏を主題とした新書としては、2007年に洋泉社から復刊された、今谷明『戦国 三好一族』から大幅に更新する、信長以前の畿内戦国史入門に相応しい一冊です。間違いありません。

木下昌規『足利義輝と三好一族 ―崩壊間際の室町幕府

『三好一族』に続く形で、戎光祥出版より11月に刊行されたのが、 木下昌規『足利義輝と三好一族 ―崩壊間際の室町幕府

戦国オタクにはお馴染みの「中世武士選書」シリーズは、中公新書ほど広く一般に読まれることは難しいかもしれませんが、他社とはいえ「三好一族」を冠したタイトルが立て続けに刊行されたことは、三好贔屓にとって非常に喜ばしい出来事でした。

畿内大名の抗争が幕府や将軍の有り様にどう影響したのか、論者によって見解が異なる点も示した上で解説されていて、木下先生の誠実さと優れた「まとめ力」(?)が窺えるとともに、義輝陣営も一枚岩ではなく、いわゆる「親三好派」の幕臣でも要所々々の行動は様々であった例が丁寧に説明され、それを踏まえた上で、永禄の和睦以後の三好氏との協調関係の捉え方にも納得感がありました。

そして、この本ならではの特徴と感じたのは、従来「親三好派」の代表として解されがちだった、 伊勢貞孝の立場の変化 を丁寧に説明されているところです。

伊勢貞孝は政所執事職を世襲した伊勢氏の当主ですが、そもそも歴代の伊勢守は、将軍家の分裂により義材以来たびたび生じた将軍の都落ちに際して、これに追随せず在京し続けることが多く、その一方で一族の多くが奉公衆の構成員であったこともあり、都落ちした側の陣営にも一族を随行させています。

個人的には、将軍の都落ちが常態化したことで、そのような伊勢一族の振る舞いも「裏切り」と捉えられることはなかったのではと考えていたのですが……三好政権下で「狭義の幕府」を支えた伊勢貞孝の真意はどうあれ、将軍からは「裏切り」と見なされて信頼を失ったために、永禄の和睦後は三好氏からも軽視され、ついには敵方と結んで挙兵に至ったという説明には、説得力を感じました。

本書の刊行を知って以来、最も気になっていた、伊勢貞孝が天文20年1月に一色藤長、進士賢光ら一部の奉公衆とともに将軍義輝を京都へ拉致しようとした事件と、その2ヶ月後に進士賢光が起こした三好長慶暗殺未遂事件についても、本書では、貞孝は義輝から拒否されたにもかかわらず帰洛したことから、明確な裏切り行為と断定され、進士賢光は三好方の京都支配に加担する貞孝への反発から長慶を殺害しようとしたものと推測されていました。

この件も個人的には、貞孝は将軍を見限って帰洛したわけではなく、義輝を帰洛させるべく晴元排除の政治工作を進めた結果、翌天文21年に義輝と細川氏綱三好長慶方の和睦が成立したものと捉えていました。これは前述の通り歴代伊勢守の動向を踏まえたもので、すなわち、明応の政変に加担して義澄政権の中核を担ったにもかかわらず義稙に赦免された伊勢貞宗・貞陸父子や、桂川合戦の敗北で坂本へ退去した義晴に随伴せず帰洛し、入京を果たした晴元方との和睦交渉を図った伊勢貞忠(貞孝の義父)と同じく、幕府の存在意義に関わる洛中統治を重んじたゆえの行動との解釈です。(繰り返しますが、あくまで 個人的な解釈 です)

本書読了後もその基本的な考えは変わっていませんが、朽木谷への挨拶を怠った公卿達への義輝の姿勢を見ると、義輝が自分を差し置いて先行帰洛した行為に不満を抱いていたことは間違いなく、義輝に近侍していた親晴元派の幕臣たちにとっても、貞孝の行動は利敵行為にほかならず、彼らから様々に言い含められていたからこそ、義輝も翌天文22年7月には和睦を破り、再び晴元との提携に踏み切ったということが、よく分かりました。

なお、本書で貞孝の決定的な裏切り行為として挙げられていた、義維の擁立計画を支持した件と、義輝の信頼を失った証拠として挙げられていた、御料所の代官職を剥奪された件は、今回初めて知ったのですが、どちらも天文22年の和睦破綻後の出来事なので、むしろ、義輝が再び朽木谷への退去に追い込まれた天文22年8月こそが、両者の信頼関係が決裂した時期として鮮明に感じられました。

また脱線が過ぎましたが、この『足利義輝と三好一族』は、義輝期将軍家を取り巻く厳しい実情を直視しつつも、 義輝の心情に寄り添った木下先生の優しい視線 が感じられるとともに、これまで天野忠幸先生が展開されてきた義輝への辛口評価に再考を促すような指摘も多く含まれており、まさに前記『三好一族』と併読することで相乗効果を生む一冊だと感じました。