k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りを楽しむために学んだことを公開している「学習メモ」です。

次世代デジタルライブラリーの紹介と史料リンク集

次世代デジタルライブラリーとは? 国立国会図書館より提供されている 次世代デジタルライブラリー が、めちゃくちゃ便利なことに今更ながら気づきました。 どういうサービスかというと、公式ではこのように説明されています。 次世代デジタルライブラリーは…

永正元年「薬師寺元一の乱」の経緯とその背景(二)薬師寺元一の挙兵と細川政元の後継者問題について

はじめに 前回の記事 「永正元年「薬師寺元一の乱」の経緯とその背景(一)関連する出来事の一覧」 では、「薬師寺元一の乱」の概要を説明するとともに、一次史料の記述を元に関連する出来事の一覧を提示しました。 今回からはその出来事の一覧を前提として…

永正元年「薬師寺元一の乱」の経緯とその背景(一)関連する出来事の一覧

はじめに YouTubeで歴史解説動画を公開されている、右京大夫政元さん(@meiou1493) の新企画『連続講義「不問物語―軍記で読む室町時代」』が、先日のライブ配信「オールナイト幕府 第97回」より開始されました。 新企画✨連続講義「不問物語―軍記で読む室町…

2021年に読んだ後期室町・前期戦国関連本の感想

新年度明けましておめでとうございます。 昨年は例年に増して出会いの多い年でした。今回はそれを振り返りつつ、久々にブログを更新します。 後期室町・前期戦国オタク需要を狙った(?)書籍が続々刊行 2021年は、僕のような 室町後期~戦国前期オタク にと…

「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(後編)澄元方の上洛戦敗退と将軍義稙の淡路出奔事件の顛末

以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 では、永正10年(1513)に将軍がわずかな供だけを連れて突如京都から出奔した珍事件の背景や、細川高国が京兆家当主となってから内衆の再編が進んでいた…

大内義興が帰国に至った背景―在京中に起きた「安芸国人一揆」と「有田合戦」の関係、遣明船の永代管掌権を獲得した件について

今回は永正5年に前将軍足利義尹を奉じて上洛して以来、約10年に渡って在京し幕政に携わってきた大内義興がついに帰国するに至った経緯をまとめつつ、考察してみました。 時系列はややこしいですが、だいたい以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ…

讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛

今回は京兆家内衆としても知られる讃岐香西氏の名字の地・高松市香西町にあります、「大内堂」(大内義興報恩堂)を紹介します。 この大内堂の興味深い縁起について考察するとともに、讃岐香西氏の略歴をまとめました。 また併せて、香西で訪れた史跡もいく…

「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景

以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(前編)~義尹上洛から船岡山合戦まで「明応の政変」も振り返りつつ』 に続き、永正8年の船岡山合戦における勝利の立役者となったものの将軍との軋轢が生じていった大内義興、分裂弱体化した細…

『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』発売記念アンケート「三好家が分裂抗争で弱体化してしまいました。一番悪いのは誰?」を実施しました

(三好長慶の死後その遺体を密かに埋葬していたと伝えられる、河内飯盛山城の御体塚曲輪跡) 1月下旬、待ちに待った一冊が発売されました。三好氏に興味を持ってきた方にはお馴染み、天野忠幸先生の『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』(戎光祥出…

「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(前編) 義尹上洛から船岡山合戦までを明応の政変も振り返りつつ

前回の記事『将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情』 では、松永久秀が三好三人衆との対立に至った経緯について考えてみました。 しかし、それ以前の三好長慶がまだ細川晴元の麾下にあった天文年間、「天文の錯乱」を経て足利義晴を…

将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情

三好長慶死後の三好氏といえば一般には、将軍・足利義輝を「暗殺」した後、松永久秀と三好三人衆が対立して争う間に、「天下布武」を掲げて全国統一を宣言した織田信長が、義輝の弟・義昭を擁立して上洛を開始し、その怒涛の進撃の前に三好方は為す術もなく…

三好長慶の畿内制覇と本願寺「石山合戦」への道

引き続き本願寺と畿内政権の関係の変遷を追いますが、今回は畿内第一の勢力として台頭した三好長慶との関係を軸に、本願寺が社会的地位を向上させていった背景を見ていきます。 また「天文の錯乱」の後、武家の勢力争いから距離をおいていた本願寺が、なぜ「…

天文の錯乱・山科本願寺焼失と『祇園執行日記』に見える京都周辺の情勢

かなり間が開いてしまいましたが、内容的には英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史からの続き、というか補足になります。 「石山合戦」について書く前に、本願寺と畿内政権の関係の変遷を追う上で重要な事件、「…

伊予国・松山城は屏風折の高石垣がすごい!

連休で伊予国は道後に湯築城跡、そして松山城を訪ねてきました。 湯築城跡(道後公園)は、すっかり公園な感じ…。 湯築城跡と河野氏にまつわる話はまた別の機会においといて、今回は松山城のすごい石垣を写真で紹介します。 近世になって建てられた城だし、…

兵庫津遺跡と兵庫城 - 兵庫津遺跡第62次調査 第4回現地説明会の感想と兵庫津の歴史+α

さる3月28日、兵庫津遺跡第62次調査の第4回現地説明会に参加してきました。 前日の神戸市からのプレスリリースで「兵庫城の天守台か」と発表され、一部のニュースサイトには「信長の中国攻め拠点」との見出しで掲載されたものです。 兵庫城の天守台か ―信長…

英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史

英賀城は、夢前川の河口一帯に瀬戸内水運の拠点として発展し、本願寺の播磨における拠点となった本徳寺の寺内町として栄えた城郭都市です。 英賀を発展させた英賀城主・三木一族 戦国期に英賀城主を務めた三木氏は伊予河野氏の一族で、讃岐三木郡を相続した…

播磨佐用郡の山城・利神城の歴史と伝説

利神城跡は佐用郡佐用町平福にあり、標高373.3mの山頂に総石垣作りの威容を誇り「雲突城」とも呼ばれたという山城の遺跡です。 利神城を築いた佐用別所氏 一般に別所氏といえば、赤松政則を支えて東播磨八郡の守護代を任された三木城主・別所則治と、その後…

尼子詮久の東征(上洛戦?)から郡山城攻めに至るまで

天文年間の尼子氏による上洛戦とも思われる東征については、侵攻を受けた赤松氏や浦上氏の側から触れてきましたが、今回は尼子氏の側から見た流れをまとめてみます。 畿内の混乱と西国の情勢 この頃の畿内では、天文元年から5年にかけて、細川晴元政権の内訌…

室津海駅館 特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』の感想

10月26日、たつの市御津町室津にあります、室津海駅館の特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』を観てきました。 もうそろそろ終盤に入ろうとする大河ドラマ『軍師官兵衛』ですが、そこで描かれた官兵衛の播磨時代では、信長との関係(というか一…

赤松氏ゆかりの山城・感状山城

感状山城跡は相生市矢野町瓜生および森にまたがる感状山の尾根にあり、多段に渡る石垣造りの曲輪が特徴的な中世山城の遺跡です。 謎に包まれた感状山城の歴史 近世に成立した地誌『播磨鑑』には、建武3年(1336)、赤松円心が赤松氏の本拠地である白旗城に籠も…

武田信虎の甲斐追放と「武田入道」の在京奉公

今川氏の跡目争いを機に方針を転換し、家督相続以前から敵対してきた今川氏と同盟を結んだ武田信虎は、諏訪氏と共同して信濃佐久郡へ進出、次いで北信濃の村上氏とも連合して信濃小県郡へ出兵し、ようやく甲斐国外に勢力を広げた矢先のこと、実の息子である…

「備中兵乱」と常山城の鶴姫 - 岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』より(後編)

前回の記事 岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』(前編) の続きです。 今回は展示品の感想とともに、以前の記事 天正2~3年の「備中兵乱」の背景と備中松山城、備前常山城 でも少し取り上げた、備中三村氏と常山城の「鶴姫」について書きます。 …

岡山県立博物館企画展『岡山の城と戦国武将』の感想(前編)

先日、岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』を観てきました。 岡山の城ということで扱われた地域は備前・備中・美作の三ヶ国、宇喜多氏の岡山城や大河ドラマでも取り上げられた備中高松城はもちろんのこと、浦上氏の三石城や天神山城、三村氏の備中…

私のおいなりさん…稲荷山のお塚信仰

伏見稲荷大社と稲荷山の歴史 に引き続き、伏見稲荷について。 稲荷山とお塚信仰 稲荷山の参道を歩いていると、無数の鳥居はもちろんですが、山中のあちこちに建てられた「お塚」の数々にも興味を惹かれます。 これらのお塚は、稲荷神を信仰する方が私的な守…

伏見稲荷大社と稲荷山の歴史

伏見稲荷大社は全国に3万2千社を数えるという、稲荷神社の総本宮。 稲荷大社の創建…古代の豪族・秦氏の伝承 大社創建を伝える最古の文献『山背国風土記』逸文の伊奈利社条には、始皇帝の末裔を称して古代山城国に勢力を誇った秦氏にまつわるエピソードが記さ…

武田信虎の戦いはこれからだ!(武田・今川・北条の戦国黎明期その2)

武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期) の続きです。 甲斐国内を平定して躑躅ヶ崎館に守護所を移し、駿河今川氏の侵攻という最大の危機を切り抜けた武田信虎ですが、今度は北条氏を相手に関東へと出兵します。 扇谷上杉氏を支援して…

『地志 播磨鑑』と御着城落城の伝説

大河ドラマ『軍師官兵衛』、次回は有岡城から救出された官兵衛が小寺政職と顔を合わせる展開となるようです。 史実においても荒木村重と示し合わせて毛利方に付いたと見られる小寺政職ですが、ドラマでは村重すらただ信長に反抗して孤立した挙句に逃げ去った…

武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期)

はじめに:武田信虎の後世の評価への疑問 武田信虎といえば、強引な拡大政策で民衆の支持を失ったとして、板垣信方や甘利虎泰ら譜代重臣たちに擁立された実の息子・晴信(後の信玄)によって領国甲斐を追放されたという、力ずくの交代劇で知られています。 …

天正2~3年の「備中兵乱」の背景と備中松山城、備前常山城

「備中兵乱」までの備中松山城の歴史 上月城の戦い第二幕・尼子再興戦の終焉 で、天正6年(1578)7月17日に山中鹿介が最期を迎えた備中高梁の「阿井の渡」について触れましたが、この時に毛利輝元が本陣を置いていたのが、備中松山城です。 毛利輝元が入城する…

上月城の戦い第二幕・尼子再興戦の終焉

別所氏の離反と毛利方による上月城包囲 上月城の戦い第一幕・秀吉の播磨侵攻 からの続きです。 天正5年(1577)12月、播磨佐用郡を平定した秀吉は、最前線となった上月城を尼子主従に守らせて自身は龍野へと移り、網干郷に禁制を与えるなど戦後処理を行った後…