k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

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大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)

現在、NHK大河ドラマ軍師官兵衛』が第2話まで放映されていますが、ここまでは黒田家が仕える御着城小寺政職と、龍野城赤松政秀という局地的な対立関係しか描かれておらず、その前提となる赤松惣領家の性煕(晴政)と義祐の父子対立はおろか、その存在すら触れられていません。

また、畿内を制していた三好政権の様子が全く話題に上らない一方で、今のところ何の関係もない織田氏の状況が伝えられています。

そして唐突に室津の浦上政宗が登場し、黒田(小寺)職隆との縁組に官兵衛の恋心を絡ませるという不思議な展開。

(当時の政宗は天神山城を本拠とする弟・宗景との抗争で落ち目になっていたことが背景にあるのですが、その辺の経緯も触れられず…)

このままでは、後々の上月合戦や三木合戦の背景がちゃんと描かれるのか不安になってきました。

ドラマに便乗して、この機会に官兵衛が生まれ育った播磨の戦国期についてあらすじをまとめてみます。

といっても、序盤はほとんど赤松氏の話になるわけですが…まずは没落からの再興を果たした赤松政則と、その頃に活躍した重臣たちについて。

赤松政則、赤松家を再興

嘉吉元年(1441)6月24日、赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いと称し、将軍・足利義教を自邸に招いて暗殺した「嘉吉の変」は歴史の授業で習った方もいるかと思います。

これにより赤松惣領家は山名持豊(宗全)率いる幕府軍の討伐を受けて没落、領国であった播磨・備前・美作三ヶ国は山名氏に与えられましたが、嘉吉3年(1443)9月の旧南朝勢力による「禁闕の変」で強奪されていた神璽(三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉)を取り戻した功績により、長禄元年(1457)12月、赤松氏は満祐の弟・義雅の孫にあたる道祖松丸(政則)を家督として再興することを幕府から認められました。

この時、神璽奪還のため吉野に潜入した赤松牢人達を指揮したのが、京都雑掌を務めた小寺藤兵衛入道性説で、現在ドラマに登場している小寺政職の先々々々代に当たるようです。(性説…則職-村職-則職-政職)

赤松家は再興によって加賀半国守護に補任され、小寺氏を守護代として入部したものの前守護・富樫氏の勢力によって阻まれ、領国支配は困難を極めたようです。

応仁・文明の乱で播磨・備前・美作を奪回

その後、応仁の大乱が起こると赤松氏は東軍の一員として活動しましたが、この時幼少の政則とともに京都で軍勢を率いたのが、家宰とも呼ぶべき腹心の浦上美作守則宗です。

ドラマでは室津の浦上政宗が官兵衛の父・職隆の養女「たつ」を子息・清宗の嫁に迎えたところですが、則宗政宗の先々々代に当たります。(則宗-佑宗-村宗-政宗

則宗は幼い政則の後見役として共に在京し、侍所所司代として土一揆を鎮圧し将軍義政から太刀を拝領するなど、かねてより幕府の信頼は厚く、洛中の戦いでも赤松軍を率いて活躍しました。

特に応仁元年(1467)8月の南禅寺裏山の戦い(東岩倉の戦い)では、援軍として三千の兵を率いて入京した則宗大文字山に陣取って篝火を焚き、大石の投擲によって大内軍、山名軍、畠山軍、斯波軍と四度に渡って撃退したと伝わっています。

一方で、一族衆・下野守家の赤松政秀は山名軍が京都で戦っている隙を突いて播磨に攻め込み、僅か数日で播磨を回復。備前と美作においても現地勢力の協力を得て、山名氏が任じた守護代の軍勢を撃退し、念願の三ヶ国奪回に成功しました。

同姓同名で紛らわしいのですが、赤松政秀は現在ドラマに登場している赤松政秀の先々々代に当たります。(政秀-則貞-村秀-政秀)

また、播磨奪回戦にはドラマに登場し黒田家とも縁が深いとされている、廣峯神社の神官・廣峯氏も加わって活躍しています。

山名氏との戦いで別所氏が抬頭

長く続いた応仁・文明の乱は細川勝元山名宗全の死後、東西両軍の和睦がようやく成立しましたが、各守護家が国元で抱える対立関係は何ら解決していません。

赤松氏も力ずくで旧領を回復したとは言え幕府から正式な守護職を得たわけではなく、再び山名氏に領国が返還されると危惧したのか、最後まで和睦に反対しています。

そして案の定、文明15年(1483)12月、山名氏が失った三ヶ国を奪還するために本国但馬から播磨へと侵攻を開始し、血気に逸る赤松政則は迎撃に向かいましたが、国境付近の真弓峠で赤松軍と山名軍が激突、赤松氏は敗北して政則が逃亡、行方不明となってしまいました。

この結果を受けて浦上則宗、小寺則職をはじめとする年寄衆は政則を見限り、赤松庶流の有馬氏から猶子を迎えて家督を継がせることを幕府に申請しますが、山名氏との苦しい戦いが続く中、新たに赤松庶流を擁立して山名方につく者も現れるなど、領国は混乱に陥っていたようです。

一方この時、堺に逃亡していた政則を迎えて上洛し、文明16年(1484)2月に再び家督へと返り咲くのに尽力したのが赤松氏の一族、別所則治です。

則治は後に「三木の干殺し」によって滅ぼされた別所長治の、先々々々代に当たります。(則治-則定-村治/就治-安治-長治)

政則は、山名氏との戦いを前にかつて自分に背いた重臣達とも和解を果たして播磨に出陣、一進一退の攻防が続きましたが、次第に赤松氏が優勢となり、山名氏の領国因幡伯耆で起こった反乱も功を奏して、長享2年(1488)頃には再び播磨・備前・美作の三ヶ国から山名氏の勢力を駆逐することに成功しました。

この一連の戦いに多大な貢献を果たした別所則治は東播磨守護代に任ぜられ、西播磨守護代は龍野を本拠とする赤松政秀備前守護代は浦上氏の一族である浦上宗助、美作守護代は浦上氏の配下にあった中村氏が務め、領国からの財政を段銭奉行の小寺氏と薬師寺氏が統括する体制が確立されました。

政則死後の混乱と則宗の挫折

政則は明応5年(1496)2月、従三位への叙任という栄誉を受けた翌月に病死しました。

政則は京都で育った幼少期から威儀の正しい美男子との評判が高く、音曲や猿楽に才能を示し、作刀でも後世に名を残した才人でしたが、その権力は浦上則宗重臣たちの支持なくしては成り立たないものでした。

その一方で権勢を振るった浦上則宗も、一族を守護代とする備前を除けば、政則の権威なくしては領国を治めることはできませんでした。

また、主に幕府の一員として在京し寺奉行も務めた則宗は、幕府の基本方針である寺社本所領安堵を遵守する立場であったため、荘園を押領しようとする在国の被官人達とは対立する宿命にありました。

赤松氏が山名氏と激戦を繰り広げていた頃、幕府は奉公衆の所領や寺社本所領の押領が過ぎた近江の六角氏を討伐するため、将軍足利義尚自らが軍を率いて出陣、赤松氏からも則宗が参陣しましたが、鈎の陣中で義尚から「浦上カ家ヲ続酒承テ飲メ」と下句を求められた則宗は「天ヲ戴ク松之下草」と続け、これに感じ入った将軍から衣服を賜っています。

「天」とは将軍のことで、「松」とは赤松氏のことを指しているそうです。

それが本心からの言葉だったのかは分かりませんが、則宗は主君政則の死後、赤松七条家からの養子・道祖松丸(後の義村)を擁して守護の権限を掌握しようとし、他の被官人達からの反発を受けることになります。

一方、別所則治は政則の未亡人で管領細川政元の姉である洞松院尼を擁立、これによって播磨国内は「東西取合」と呼ばれる混乱に陥りました。

やがて、則宗が劣勢のうちに将軍と細川政元の仲介による和睦が成立しましたが、政則の死は則宗にとって好機とはならなかったわけです。

一族を守護代として備前の領国支配を強め、政則のもと権勢を振るった則宗でしたが、文亀2年(1502)6月に74歳で死去しました。

各地で続く争乱は、在地支配を進める守護代層の自立を促すとともに、在京守護達の下国を招きましたが、この頃はまだ畿内周辺において幕府-守護体制は健在で、将軍の方も守護家の庶子を直臣である奉公衆に任命するなど、特定の守護家が力を持ち過ぎることを忌避していました。

だからこそ、則宗のように有力守護家の被官でありながら、将軍からの信頼をも受けて権勢を振るう者が現れたのだと思います。

戦国大名が現れなかった播磨

赤松家を再興した政則の時代についてざっと紹介しましたが、現在ドラマが扱っている永禄年間から遡ること約60年、この時期に活躍した赤松重臣達によって、天正まで続く播磨の勢力図がすでに形作られていることが分かると思います。

この後、幕府では足利義材(義政の弟である義視の子)が、若くして陣中に没した義尚の跡を継ぎ再度の六角討伐に乗り出しますが、大した成果を上げないまま終結、やがて細川政元日野富子政所執事・伊勢氏らによる力ずくの将軍交代劇「明応の政変」により、再び義澄と義材という二人の将軍方に分かれた争いが始まり、これが政元の死後、細川高国と細川澄元(後に細川晴元)という細川家を二分する「両細川の乱」に繋がっていきます。

播磨では引き続き赤松重臣達が、畿内政権における勢力争いや山名氏、尼子氏といった外部勢力の侵攻を通じて自立性を強めつつ主導権を争う展開が繰り返されますが、惣領家が次第に権力の実体を失っていく一方で、彼等の中からも戦国大名と呼ぶべき突出した勢力は現れませんでした。

ただ一人、則宗に次ぐ浦上氏の傑物(と言っていいでしょう)浦上村宗は、時の管領細川高国と結び、赤松家で養育していた足利亀王丸(義晴)を上洛させるとともに、ついに主君の赤松義村を弑逆し高国政権下で最有力の大名にまでなったのですが、義村の嫡子・政村の裏切りによる「大物崩れ」の敗戦で野里川の露と消えてしまいました。

播磨から戦国大名が出なかった理由を播州人の気質に求める意見もありますが、畿内に近いため幕府内の勢力争いに巻き込まれざるを得なかったこと、大内氏や尼子氏といった西国の大大名の通り道となったことなど、地勢的な問題が大きかったように感じます。

ドラマではこれから、大内と尼子という大勢力の中から成長し中国を制した毛利氏と、三好政権を畿内から駆逐した織田氏の二大勢力に集約されていく様が描かれていくのでしょうけど、その狭間で苦闘した赤松氏とその旧臣達の姿もきちんと描いてくれることを期待しています。

続きはこちら 大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)・続

参考

  • 播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)
    • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
    • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本

備前浦上氏 中世武士選書12

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  • 渡邊大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』(講談社

戦国誕生 中世日本が終焉するとき (講談社現代新書)

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黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

私の戦国観の半分は、大門先生の著作でできています。(四分の一くらいが川岡勉先生、残りはその他…)

「史跡巡りメモ」なので一応それっぽい写真を…。

たつの市埋蔵文化財センター『特別展 西播磨の戦国時代 ~赤松氏の興亡~』のポスター。肖像は赤松政則です。ここが私の赤松歴のスタートとなりました。

赤松氏の系譜。政則の養子となった義村は、円心の長男・範資の流れ「赤松七条家」の生まれ。京都の屋敷が七条にあったことからそう呼ばれたそうです。

龍野城。と言ってもこれは脇坂氏入城後の近世城郭で、赤松時代の遺構は後方にそびえる鶏籠山上にあります。

小寺氏の居城、御着城址にて。現在は公園になっていて、お城風の姫路市役所東出張所が建っています。

小寺一族らを祀る小寺大明神にて。

御着城址の説明板にもありましたが、御着城を築城したという「小寺政隆」は「享禄三年浦上村宗に攻められ討死した」とあるので小寺村職のことですね。元の名が政隆で、義村からの偏諱を受けたということでしょうか。

「小寺豊職」は赤松政則偏諱を受けて則職と名乗ったようなので…これに碑文の内容を加えると、性説…豊職(則職)-政隆(村職?)-則職-政職-久兵衛政則…となりますね。

没落した小寺政職は毛利氏のもとに逃れて子孫は黒田家に仕えたという話をどこかで見ましたが、どうなんでしょうか。

あと、村職は則職に御着城を譲った後、庄山城で敗死したので、ここは間違いだと思います。

追記(2014-01-22)

軍師官兵衛』に関連しておすすめのブログを紹介します。

『戦え!官兵衛くん。 』 http://kurokanproject.blog.fc2.com

史実に即した内容で播磨・備前・美作を中心に戦国時代の流れを漫画で紹介されています。 ピンポイントで入る解説の丁寧さや俯瞰的な視点がとても参考になります。

序盤の官兵衛をとりまく人たちの人間関係 http://kurokanproject.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

上の記事の画像は播磨の状況を手っ取り早く知るのに役立つと思います。

追記(2014-01-24)

黒田官兵衛 作られた軍師像』を参考に小寺氏の系譜を訂正しました。

なお、則職のことを浦上村宗と交戦し永正17年(1520)に敗死したとする一方で、村職については「動向はほとんどわかっていない。若年で亡くなったと考えられる」と書かれています。

御着築城を始め色々なところで名前を見る「小寺政隆」の事跡については、一次史料からは確認できないのかもしれません。