k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

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『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』発売記念アンケート「三好家が分裂抗争で弱体化してしまいました。一番悪いのは誰?」を実施しました

三好長慶の死後その遺体を密かに埋葬していたと伝えられる、河内飯盛山城の御体塚曲輪跡)

1月下旬、待ちに待った一冊が発売されました。三好氏に興味を持ってきた方にはお馴染み、天野忠幸先生の『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』(戎光祥出版)です。

Twitterでフォローしている方の間でも結構話題になっていて、特に天野先生の三好長慶論に馴染みのなかった方にとっては刺激的だったようです。

そこで、この機会に以前から意見を伺ってみたかったアンケートを実施しました。

題して「三好家が分裂抗争で弱体化してしまいました。一番悪いのは誰?」

あえて何も説明を加えず人名のみ掲載する形として、三好義継、篠原長房、三好長逸松永久秀の中から一人を選んでいただくというものです。

何人かの方にリツイートしていただきましたおかげで、24時間で36人の方からの投票がありました。

ご覧の通り、トップはおそらく大方の予想通りだとは思いますが、松永久秀でした。

一応、反射的にクリックする前に少しでも考えていただこうと、選択肢の一番最後に入れたわけですが、結果には影響しなかったかもしれません。(笑)

以下はTwitterで直接いただきましたご意見と、僕からの返答です。

久万貞@uragamimogami さんとのやり取り

備中守@mtboxl さんとのやり取り

https://twitter.com/mtboxl/status/694645831278788609

山本ゾンビ@飯盛城と堺台場 さんとのやり取り

(山本ゾンビさんは、この大東市の河内飯盛城パンフレットに描かれている、飯盛山城の復元図を作成された方です。)

ご意見をお寄せいただきました皆様、参加してくださった皆様、ありがとうございました。

三好政権が松永父子の排斥に至った経緯、分裂抗争を通じて畿内政権への影響力を増した阿波三好家のこと

ここからはアンケートの感想と共に、これまで三好氏について学んだ自分なりの見解を書き連ねていきます。

まず、三好長慶死後の三好政権が将軍義輝を殺害するに至った「永禄の変」の背景には、上洛して政変を主導した三好義継・三好長逸と、大和に在国しつつ興福寺一乗院にいた覚慶(後の将軍義昭)を保護していた松永久秀の間で、どのようにして足利将軍家を克服するか、という今後の三好政権にとって重要な点で意見の対立があったようです。

天野先生の見解によると、宗家当主の三好義継は自らが将軍義輝に変わって名実ともに天下人たらんと欲し、三好長逸も当初はそんな義継を後押しして将軍殺害にも積極的に関与したのに対して、松永久秀は現実路線として義輝に代わって弟の覚慶(義昭)を擁立することで軟着陸を目指し、そして篠原長房は阿波三好家を主導する立場から、阿波公方(義冬・義親父子)の擁立を推進したという構図でしょうか。

彼らがそれぞれ異なる思惑で動いていたことは『三好長慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山』でも示されていたと思いますが、『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』では、阿波公方の擁立が当初の計画にはなかったもので、義継だけではなく長逸も足利将軍家を奉じる意志はなかったこと、そして久秀の子である久通も当初は義継や長逸に従って行動しており、久秀だけが異なる構想を抱いていたと改めて説明されました。

以前の記事 将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情 でも触れましたが、やはり松永久秀は長慶の死後、政権内で孤立してしまっていたように感じます。とは言え、久秀は対幕府・朝廷交渉を重ねる中、京都政界において幕臣として独自の権力を築いており、フロイスによって「天下すなわち『都の君主国』においては、彼が絶対命令を下す以外何事も行われぬ」と評価されるほどで、実際には決して侮れない影響力を保持していたものでしょう。

この4人の中で立場的に異なるのが篠原長房です。実はこのアンケートの問いが頭に浮かんだ当初、篠原長房は久秀の排斥後に三人衆にも勝る権勢を得たと伝えられていることから、長房こそが分裂抗争に拍車をかけ、義継さえも離反に追いやってしまった張本人ではないかとの疑念も抱いていたんですが、『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』を読むにつれ、宗家の三好義継ではなく阿波三好家の三好長治を主君とする長房としては、優先すべきことが異なるのも当然ではないかと考えるようになりました。

そして、松永久秀は覚慶の大和出国に続き弟の内藤宗勝が討死したことを契機として政権から排斥されたわけですが、どうもそれを主導した三好長逸の行動が怪しく感じられるようになってきたわけです。

山本ゾンビ@飯盛城と堺台場 さんのご意見にもあったように、確かに覚慶を取り逃がした松永久秀の失態は大きいです。

更に、天野先生の解説でも触れられていましたが、大覚寺義俊が上杉弾正少弼(謙信)へ宛てた書状には「一乗院殿南都御座所儀、居御番候而、松永堅雖申付候、朝倉左衛門督令直談、種々廻調略、去月廿八日、至甲賀和田城被引退候」とあり、これを朝倉左衛門督(義景)と直談した久秀が調略によって、つまり何らかの取引の上で故意に覚慶を甲賀和田城へと脱出させたものと解釈すれば、実は久秀の方が先に三好家を裏切っていたことになりそうです。

アンケートで久秀に票を投じた方の中には、単に通俗的な悪評から判断されたのではなく、この久秀の動きを裏切りと捉えた方が少なからずいらっしゃったのかもしれません。

しかし、備中守@mtboxl さんのご意見のように、長慶の時代から双璧として高い地位にあった三好長逸松永久秀の権力争いを分裂の原因と捉えてみれば、飯盛山城を急襲して義継の側近を切り捨て、半ば強制的に久秀父子の追放を義継に承諾させたという長逸の行動にも、そこまでの正当性があったのか疑問に感じます。

長慶の生前すでに家督を継いでいた久秀の子の松永久通は「永禄の変」直前に義継と共に上洛した際、将軍義輝から偏諱を授かり「義久」と名乗ったほどで、すでに義継世代の重臣としてどの地位を約束されていました。

また、義継の側近として越水衆の瓦林一族と見られる瓦林長房が奉行人を務めていましたが、瓦林氏は西摂津随一の国人で、この一族には松永久秀が摂津滝山城主を務めた頃からの重臣に瓦林左馬允秀重もいました。越水城はまだ「孫次郎利長」と名乗っていた若き長慶が最初に畿内進出の拠点とした城であり、三好政権にとっては阿波からの上洛経路における重要拠点の一つでもあります。

久秀の側近には、義輝の襲撃に従軍して思想面でその正統性を訴える役割を担ったという大儒の公卿・清原枝賢や、枝賢や高山飛騨守(高山右近の父)と共に畿内の武将で最初のキリシタンとなった河内岡山城主・結城山城守忠正、久秀の正親町天皇への奏上によって朝敵赦免の勅許を受けた能筆家・楠正虎(大饗長左衛門尉)など、長慶の時代からその教養によって人脈を築き、三好家中に強い影響力を持っていたであろう人物もいます。

(なお、結城忠正天文学や剣術にも精通しており、同じく松永派の柳生宗厳とも親しく、後の新陰流にも影響を与えたと伝わっています。また、楠正虎は後に楠長諳と名乗って信長や秀吉にも右筆として重用されますが、天正15年(1587)に秀吉の島津氏討伐の際に記したという『楠長諳供奉道中宿所覚書』(九州陣道之記)において、道中に滝山城跡へと立ち寄り、父母の墓参りを行って昔を偲ぶ歌を残しています。)

いくら方針の対立があったとしても、久秀を排斥することは、摂津や河内など畿内に勢力基盤を持ち、三好家中にも多くの影響を与えていた彼らを敵に回すことにも繋がりかねません。また、長慶の嫡子義興の急死に伴い唐突に後継者となったため、自身の家臣団を築き上げる時間的余裕がなかった義継にしてみれば、一部の側近を失うことにも相当な抵抗があったんじゃないでしょうか。

天野先生は、この時義継は「事実上のクーデターを容認した」と説明されていますが、義継自身に葛藤があったからこそ、長逸ら三人衆は強引なやり方で久秀との断交を強要せざるを得なかったのだと思います。

そして三好政権は松永父子を排斥した結果、摂津滝山城や越水城の他にも、伊丹城に伊丹親興と塩川満国、摂津中島城に細川典厩家の細川藤賢、また京都近郊では勝龍寺城、淀城、西院城などが松永方となり、もともと反三好方であった河内畠山氏や根来衆に加えて、十河一存の後見によって和泉松浦氏を継いでいた松浦孫八郎(義継の実弟)までもが敵に回ってしまい、その対応のために阿波三好家とその執政である篠原長房を頼らざるを得なくなります。

篠原長房率いる四国衆が永禄9年6月から8月にかけて畿内を奔走し進撃を繰り返した結果、義継はこれまで秘匿していた長慶の葬礼を行うとともに、後継者として畿内平定を宣言するに至りますが、このために阿波三好家の影響力が増大し、やがて三好政権は四国衆に奉じられた足利義栄(義親改め)を将軍とする体制へと変貌してしまうのです。

思えば、「明応の政変」を起こした管領細川政元をはじめ、細川京兆家が中心となって幕府を主導していた頃より、畿内政権においては細川家内衆たる国人をはじめ諸勢力を糾合して幕政に参画する言わば中央勢力と、時には中央からの要請を受けて軍を派遣するものの、基本的には在国して領国を経営してきた阿波・讃岐の地方勢力、この両者の対立がたびたび発生してきました。阿波から畿内進出を果たして一大勢力へと成長し、足利将軍家に代わる「天下執権」と認められるにまで至った三好家も、結局はこの対立の構図から逃れられない運命だったということでしょうか。

松永方へと走った三好義継の無念

義継は永禄10年2月、松永久秀の支持を表明して離反したわけですが、これに関して『足利季世記』(『公方両将記』と『細川両家記』を元に恣意的に改竄され『舟岡山軍記』『畠山軍記』なども加えて再編されたと言われる軍記物語で、史料的な評価には要注意とされていますが)に、このような記述があります。

三好左京大夫義次、イマタ若輩ナレハ何事モ三人衆ノママ也、然レハ光源院様御生害モ、阿波御所様御タノミアリシモ三人衆ト松永也、今度ノ御上洛モ篠原ト山城守、三人衆ノ計ヒトハ申セトモ、両事トモ惣大将義次ノ故ナラハ、公方様ヲコソ御礼モアルヘキニサナクシテ、義次ハ若年ナレハサノミ御賞翫モナシ、唯三人衆エノ御礼ハ難尽筆ニモ、三人衆モ山城守、篠原モ義次ヲ差置、万ツ公方様エ出仕ノヒマナカリケレハ、義次ノ乳母子金山駿河守此事ヲイカリ、左京大夫義次ヲススメケレハ、則義次、松永方ヘ内通アリ、堺ノ北ノ庄材木町ノ木座エ御宿替アリ、同廿六日三人衆ニカクシテ松永弾正カ方エ一味アリケリ

(若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』より)

これまで一般に流布されてきた通説はこの軍記の影響なのでしょうか、「光源院様」(義輝)の殺害と「阿波御所様」(義栄)の擁立はいずれも三人衆と松永が計画したことで、その上洛は「篠原」(篠原長房)と「山城守」(三好康長)、三人衆によるものとあります。今では天野先生の研究によっていずれも久秀は関与していないとの見方が強まっていますが、それはさておき。

ここでは、三好宗家の当主である義継が若年との理由で阿波公方から軽んじられたと伝えています。もしそのようなことがあったのであれば、長房と康長は元々阿波三好家の家老であって、彼らの主君は三好長治なので目を瞑るとしても、三好宗家の補佐役である長逸ら三人衆は、主君の義継を庇うべき立場のはずです。それなのに、彼らは義継を見捨ててしまったというのでしょうか。

義継は三人衆方を離反する10日程前に、篠原長房へ宛ててこのような書状を出しています。

急度申候、三人衆、当家可然様可令馳走由申、さもなく外聞失面目、如無之仕成、人形同然候、

(『戰國遺文 三好氏編 第ニ巻』より)

義栄から軽んじられたことで離反したというなら、その義栄の擁立を主導した長房を頼るというのは不自然ですが…後の経緯も合わせて考えると、切羽詰まった義継が長房に対して、三人衆への苦情を訴えているように思えます。

よほど三人衆の態度が腹に据えかねていたのか、それともフロイスが『日本史』で「日本の王政の実権を執れる三人の異教の貴族」と記した三人衆に対して「権勢彼等に勝り、ほとんど彼等を左右する地位にありしもの」と評した長房ぐらいしか、三人衆にものを申せる人物がいなかったのでしょうか。

その後、篠原長房は義継側近の金山駿河守(『足利季世記』で義継に松永方への内通を勧めたとされている人物です)に宛てて返書を送りましたが、義継の不満は解消されることはなかったようで、ついに離反を決意した義継は三人衆を名指しして、痛烈な言葉で非難しています。

同名日向、下野石成以下構悪逆無道、前代未聞所行候、松少事対家大忠儀候条、依難見放、令一味候、此間粉骨之由感悦候、弥馳走可為神妙儀、恐々謹言

(『戰國遺文 三好氏編 第ニ巻』より)

「日向」は三好日向守長逸、「下野」は三好下野守(釣閑斎宗渭)、「石成」は石成主税助友通ですね。

永禄10年2月28日に義継から松永方の椿井一郎、古市播磨に宛てたという書状なので、敵方となる三人衆の不義を喧伝するのも当然ではありますが、それにしても、彼らの「悪逆無道」は「前代未聞所行」だとまで言わしめたことは、非常に印象が悪いです。

長逸は三好家の長老格として新当主の義継を補佐すべき立場でありながら、久秀を政権から排除するために義継を半ば強奪する形で取り込んだものの、久秀との抗争によって主導権を阿波三好家に握られてしまった挙句、その義継本人が松永方へと離反してしまったわけで、これまでの経緯と結果だけを見ると、期待される役割を果たせなかったと判断せざるを得ません。

当初は義継の構想を支持していた長逸も、久秀派と結んだ義昭が朝廷からも正式な将軍候補として認められているこの時点では、すでに対抗の将軍候補を擁立せず天下をまとめるのは困難と判断していたのでしょう。それを長逸が悪いと捉えるか、義継が悪いと捉えるかは意見の分かれるところかもしれません。しかし、主君にここまで悪し様に罵られるというのは何とも擁護しがたいことだと思います。

三好長逸はなぜ織田信長との交渉を続けていたのか?

そしてもう一つ気になるのは、今回『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』を読んで初めて知った内容ですが、永禄11年4月に長逸から「新治伊予守」こと稲葉良通に宛てたという書状です。

稲葉良通は信長の美濃侵攻の切っ掛けを作ったいわゆる美濃三人衆の一人ですが、永禄11年2月に阿波公方・足利義栄が将軍に就任したことを受けてか、家臣の斎藤利三を上洛させて長逸に十文字鎌を贈ったようで、「尾州へ然るべく候様、御取り成し肝要に候、尚後音を期し候」との文面が示すように、長逸の方からも引き続き信長との交渉を望んでいたことが示されました。

それから約3ヶ月後の7月12日に義昭から上杉謙信に宛てた御内書によると、信長からの申し出があったので美濃に移る、義景もこのことは承知しているとあるそうで、信長はそれまでには義昭の擁立を決断していたことになります。

そして、8月に佐和山城へと入った信長は六角氏との交渉を打ち切った後、改めて義継への参陣を促すとともに、9月には岐阜を出陣、毛利氏とも連携した上で上洛作戦が行われたわけです。

その結果を知っていればこそ、長逸の行動にはどっち付かずで悪い印象を受けてしまいますが、好意的に解釈すれば、長逸なりに三好家のことを考えて信長を義栄陣営に取り込もうとしたのかもしれません。あるいは信長の方も、本心を隠して交渉に応じる素振りを見せていただけなのかもしれません。

つい4ヶ月前まで信長と交渉していた長逸の思惑は定かではありませんが、ともあれ、三人衆が8月に信長が味方に誘っていた六角承禎と直接会談し、互いの同盟を確認しているわけですから、それまでの間には長逸も義昭方との戦いを決意したのでしょう。

最後になりましたが、一応改めてアンケートの問いへの回答を述べますと、4人それぞれ噛み合わないところがあったにせよ、一番悪いのは、やはり三好長逸なのではないかと考えています。

もちろん、今後の研究の進展次第では松永久秀の裏切りが明確になる可能性がありますし、信長との交渉を続けていた三好長逸の真意が明らかとなる可能性もあります。それによって評価が大きく変わることになるかもしれません。

歴史好きの一素人としては妄想をたくましくしつつ、今後に期待したいと思います。

(まあ、義栄が死んでも父の義冬や弟の義助はまだおりますし、短期間とはいえ幕府としての体裁を整えていたわけですから、そう簡単に足利家が統一されるような展開にはならなかったとは思いますが…というか、仮にそうなったとしても見捨てられるのは義継と久秀かもしれませんね。)

ちなみに、義昭方の上洛戦については『戦国大名池田勝正研究所』の柏床宜宏さんが、とても分かりやすい解説記事を書いていらっしゃいます。

こちらの記事を読むと、どうも長逸は信長に翻弄されていたのかもしれない、と思ってしまいますね。

「世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ」と銘打っていらっしゃいますが、三好政権や三人衆に興味のある方にとっても非常に学ぶところが多いブログだと思います。特に三人衆の一人・三好下野守政生と三好右衛門大夫政勝(為三)の関係を考察されたシリーズ記事は読み応えがあります。(僕の今の知識では咀嚼しきれていませんが…)

参考書籍、参考資料

三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻)

三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国遺文 三好氏編(第2巻) 永禄5年~元亀元年

戦国遺文 三好氏編(第2巻) 永禄5年~元亀元年

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 東京堂出版
  • 発売日: 2014/11/25
  • メディア: 単行本

  • 谷口克広『信長と将軍義昭 連携から追放、包囲網へ』(中央公論新社

信長と将軍義昭 - 提携から追放、包囲網へ (中公新書)

信長と将軍義昭 - 提携から追放、包囲網へ (中公新書)

義経記と後期軍記

義経記と後期軍記

  • 作者:佐藤 陸
  • 出版社/メーカー: 双文社出版
  • 発売日: 2000/01
  • メディア: 単行本

  • 兵庫県史 史料編 第9巻(中世九・古代補遺)』

兵庫県史には『楠長諳供奉道中宿所覚書』が掲載されています。当時の下向経路は参考になりますし、やはり伝聞ではなく直接経験した人物の記録というのは面白いので、いずれきちんと咀嚼して紹介したいです。

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