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k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りと歴史のことを書きます。戦国時代でも織田信長上洛以前の畿内と西国が多め。内容には素人の根拠無い想像が混ざってるのでお気をつけください。

天文の錯乱・山科本願寺焼失と『祇園執行日記』に見える京都周辺の情勢

かなり間が開いてしまいましたが、内容的には英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史からの続き、というか補足になります。

「石山合戦」について書く前に、本願寺畿内政権の関係の変遷を追う上で重要な事件、「天文の錯乱」について紹介します。

本願寺門徒同士の内紛「大一揆・小一揆の乱」も含めて「享禄・天文の乱」と呼ばれたり、あるいは当初この乱に本願寺の敵として参加し後に延暦寺と結んだ幕府によって焼き討ちされた法華宗に焦点を当てて「天文法華の乱」と呼ばれる兵乱にも関係する内容ですが、今回は特に天文期の山科本願寺焼き討ちに至った事件から、幕府との和睦までの時期に絞ってまとめてみます。

「天文の錯乱」の勃発と山科本願寺焼き討ちに至るまでの情勢

京兆家の家督を巡る幕府の分裂抗争「両細川の乱」において、享禄4年(1531)6月に将軍・足利義晴を擁する細川高国が敗死した「大物崩れ」により、「堺公方足利義維を擁する細川晴元が京都を制圧しましたが、晴元の寵臣として畿内に勢力を築く三好政長と、阿波勢を率いて戦功のあった三好元長が対立を深め、これに河内畠山氏の内衆でありながら晴元への接近を図った木沢長政と、その主君である河内守護・畠山義宣(義堯)の対立が絡んで、晴元方の内部抗争に拍車をかけます。

享禄5年(1532)6月、本願寺法主の証如は細川晴元の要請を受けてこの抗争に介入、飯盛山城に木沢長政を攻囲していた畠山・三好連合軍を、10万あるいは20万とも伝えられた門徒の動員によって撃破し、紀伊への逃亡を図った畠山義宣を自害に追い込んだ上、その勢いで三好元長をも堺に攻め滅ぼしました。

堺における阿波勢の敗退で失脚した足利義維が淡路へと没落したことにより、将軍・足利義晴と細川晴元方との間に和睦の機運が高まったのですが、門徒の猛勢は証如の思惑を越えてその制御を離れ、7月には大和に挙兵して興福寺を襲撃、諸院家や僧坊が焼かれ、遂には晴元や木沢長政ら幕府方を攻撃するに至ったため、将軍は京都の町衆および法華宗門徒本願寺との戦いを命じました。

こうして幕府を敵に回してしまった本願寺は、天文元年(1532)8月、近江守護・六角定頼と法華宗を中心とする幕府軍の攻撃によって山科本願寺を焼き討ちされてしまったのです。

公卿の鷲尾隆康は日記『二水記』の中で「一向宗として、今度法華宗へ発向すべきよしの風聞あり」と、一向宗門徒法華宗を標的として攻め込んで来るという噂があったことを記すと共に、山科本願寺の没落については「今日一時に滅亡、しかしながら天道なり」と記しており、当時の京都の人々は一向宗門徒の動向に恐れを抱いていた様子が窺えます。

『二水記』によれば、六角軍の加勢を得た法華宗の軍勢が山科本願寺への総攻撃を開始したのは8月24日の早朝のことでしたが、午前中には攻め落とされたようで、寺や在家は一屋残らず焼かれてしまい、その煙は天を覆う程であったそうです。

山科本願寺は濠と土塁に囲れた寺内町を持つ一種の城郭都市でしたが、あっけなく攻め落とされたのは、すでに6月に証如上人と坊主ほか内衆以下は山科から退去しており、おそらく今後の戦いに備えて本山を大坂へと移すことが決定されていたためと思われます。

京都府教育委員会の発掘調査終了を受けて開催された、山城郷土資料館の企画展「山城の中世城館を掘る」では、山科本願寺跡からの出土品として多数の陶磁器が展示されており、その栄華の一端を見ることができました。

また「御本寺」とよばれる地域の南西隅では土塁や石組の暗渠排水口が発見され、石組の一部は火を受けた形跡があったとのこと。当時の記録を裏付ける物が実際に出てきたわけです。

なお「山城の中世城館を掘る」は平成27年4月25日(土)~6月28日(日)開催です。(まだ間に合います!)

「天文の錯乱」が終結し、幕府は足利義晴-細川晴元体制となる

文明6年、蓮如上人が「御文」にて「守護地頭方ニムキテモ、ワレハ信心ヲエタリトイヒテ、粗略ノ儀ナク、イヨイヨ公事ヲマタクスヘシ」と在地の武家勢力に対する反抗を戒めているように、本願寺教団は武家との衝突を望んでいたわけではありません。

しかし、加賀の支配権を巡る門徒同士の内紛「大一揆・小一揆の乱」で大一揆を主導して戦った坊官の下間頼秀、頼盛兄弟が本山へと帰って指導に当たると、一揆は一層その勢いを増すことになります。

京都周辺や摂津で戦い続けた本願寺門徒は、天文2年(1533)には細川晴元を淡路へと追い落とし、一方で細川高国の弟・八郎晴国を擁立する旧高国方の国人達とも結託しましたが、晴元方と法華一揆の反撃によって戦況は拮抗します。

そこで両者の和睦の仲介人として担ぎ出されたのが、三好元長の嫡子・千熊丸、後の三好長慶でした。

天文2年(1533)6月に将軍を義晴、細川京兆家の家督を晴元とするとの条件で両者の和睦が成立しますが、これで両者が矛を収めたわけではなかったようで、天文3年(1534)3月には晴元との和睦に反対していた下間頼盛が証如を人質に取って旧高国方と結んで挙兵、幼い長慶を後見していた一族の三好連盛までもが一時、この動きに同調しています。

しかし、三好連盛は木沢長政の仲介によって晴元方に帰参、天文5年(1536)8月には旧高国方の三宅国村が細川晴国を裏切って自害に追い込み、本願寺でも天文4年には細川晴元との和睦に際して好戦派の下間頼秀、頼盛兄弟を破門としたことで、ようやく幕府は管領・細川晴元が六角定頼と連合して将軍・足利義晴を擁立する体制で安定へと向かい、本願寺も将軍より赦免を受けるに至りました。

当時の本願寺教団を実質的に主導していたのは、まだ幼い法主・証如を後見する蓮淳(実如の弟)でした。「大一揆・小一揆の乱」に下間頼秀、頼盛兄弟を派遣したのも蓮淳だったようですが、教団は両者に責任を取らせて一揆の幕引きを図ったものと思われます。 下間兄弟は「前代未聞之狼藉人」とされ、後に教団の刺客により殺害されてしまいました。

この「天文の錯乱」の反省からか、本願寺はこれ以降、門徒の動員を控えて幕府と良好な関係構築に務めました。

(なお、下間兄弟と入れ替わるように帰参したのが下間頼慶ですが、頼慶の孫・頼龍が池田恒興の養女を妻とした関係で、頼龍の子・頼広は後に池田輝政の嫡子・利隆に仕えて戦功を立て、一門衆に迎えられて「池田重利」を名乗り、播磨新宮藩の大名となります。)

祇園執行日記』に見える「天文の錯乱」

祇園執行日記』は京都祇園社(現在の八坂神社)の執行が記した日記ですが、群書類従に収録されているものには天文元年7月から天文4年9月にかけての記録が含まれており、天文の錯乱における京都周辺の情勢を窺うことができます。

以下、その中からいくつか抜粋して紹介します。

天文元年七月の条には、乱の発端について以下のように簡潔に記載されています。

天文元年 七月 廿八日 抑天下將軍御二人候所ニ 同細川モリ兩人候也。四國方衆ハ、皆々堺邊ニ御入候由所承也。就中御一人ノ將軍ハ、近江ノ観音邊ニ御入候。六角モリ申所也。コン本御幼少ヨリ常桓モリ被申候ニ近江ニ御浪人ノ砌、堺方ヘ御ナリ候所也。マタキラリトハナキ也。又常桓津國ニテウチ死セラレ候テ後、八郎代ニ也候後、先以御敵分也。仍八郎ハ西國田舎邊ニイラレゲニ候シ。カクト不知カク候所ニ、山シナニ法観寺トイツシ一向宗候ガ、澄元六郎ノ用トテ、津國ヘマカリコシ候ガ、又澄元ト中ワロク成ル。折節カノ一向宗都ノ日蓮宗退治候ハン由、風聞候トテ、法華宗謀叛企テ、六郎ノ衆ト一所ニテ、山科ヲ攻メント云ノ由、サリナガラ法観寺ハイマダ津國ニ候也。山村ト云者ハ、柳本ト云シ者ノ中者也。當寺ノケン也。先威勢ヲ以テ也。

当時から足利義晴・義維の兄弟が「天下將軍御二人候」と見られていたことが興味深いです。「常桓」は細川高国の晩年の法名。その討ち死に後に跡を継いだのが弟の「八郎」細川晴国で、ちょっと分かりづらいですが途中から「澄元」と誤記されている「六郎」は細川晴元のことです。

本願寺のことは「法観寺」と記されており、一向宗本山の名は京都でも正しく認知されていなかったことが窺えます。

また「澄元六郎ノ用トテ、津國ヘマカリコシ候」の部分は晴元(澄元ではなく)に協力して堺に三好元長を攻めたこと、しかしながら「又澄元ト中ワロク成」っていたところ、「一向宗都ノ日蓮宗退治候ハン由、風聞候トテ、法華宗謀叛企テ」つまり本願寺の方から法華宗を敵として攻めてくる噂があったため、京都の法華門徒は先手を打って蜂起し、細川晴元の軍勢と手を組んで山科を攻撃したというのです。

このような風聞は前述の鷲尾隆康の日記『二水記』にも記されていましたが、奈良で一向宗の挙兵によって興福寺が焼かれたという情報もすでに都に届いていたのでしょうか。

一向宗に対する敵意は京都の人々に共通していたのか、この7月28日にも記されている、柳本賢治(丹波波多野氏の一族で晴元方の有力者だったがすでに死去)の家臣・山村正次が上京と下京の一揆を率いて行った「打ち回り」(武装して巡回すること)には、日蓮宗および町人、野伏、足軽などが参加したことが記されています。

七日 山村京ノ上下ノ一揆ヲ引グシテ、ウチマワリシ候。

十日 今夜奈良夜中ノマヘヨリ、今日一日ヤケ候。今日山村ウチマハリシ候テ、所々ノ一向門徒ノ寺ヲヤキ候。又山科ノ中モ打マハリシ候由候。

十一日 山村、下京上京ノ日蓮宗町人ヲ引催、東山ヲウチマハリシ候。

十二日 下京上京ノ日蓮宗野伏共ウチマハリ心々セイヅカイシ、野伏ヤガテ引候。

十六日 山科ヨリ將軍塚マデ足輕カケ、マタノロシ上ゲ候。

十七日 山科ヨリ東山ヲウチマハリシ候處ニ彼ノ京ノ者共懸付候テ、花山ノ上ニテ軍候處、山科ノ一向宗共崩候テ、百二三十人討死候由申候。シカジカ不知候。都ノ方ハ無沙汰候間不知候。

山村正次は8月7日から連日、一揆を率いて打ち回りを続け、一向宗門徒の寺を焼き山科にまで進出、24日の山科本願寺への総攻撃が開始される以前から、すでに門徒との衝突が始まっており、「百二三十人」もの一向宗が討ち取られたようです。

一方、堺においても8月初頭から「聡明殿」(細川晴元)と「法観寺」(本願寺門徒の衝突が起き、多くの一揆が討たれたとの風聞が記されています。

四日 堺ニテ聡明殿法観寺ト取合候テ、アマタ一揆ウタレ候由キコヘ候。

この頃まだ将軍・足利義晴も近江桑実寺に、細川晴元もまた堺におり、両者共に上洛を果たしていない状況でしたが、前述の通り、山科本願寺への攻撃は近江で将軍を後見する六角氏も含めた両勢力の連携によって行われました。

山科本願寺の攻略後も摂津を舞台に一向宗との戦いが続けられ、晴元の家臣達と法華一揆、それに将軍に従う西岡の国人たちが揃って摂津芥川まで進出したことが記されています。

九月

七日 六郎ノ衆、又ハ京ノ法華宗共、又ハ西岡ノ者、皆津國芥川ノ邊マデウチマハリシ候。書ノ四時程ニ行キ、暮ノ六時程ニ歸候。

十二日 鞍馬口ヘ八郎衆陣札打ニ出候トテ、皆々京衆笑ヒニ行候。二三人四五人打候ゲニ候。

一方この頃、旧高国党を糾合した細川晴国の軍勢も京都近郊まで進出してきていたようで、「鞍馬口ヘ八郎衆陣札打ニ出候」、鞍馬口に禁制を掲示しにやってきた晴国の家臣を京衆が笑いに行き、数人を討ち取ったとあります。

また、9月末頃の山崎における合戦では一向宗側が勝利し、柳本家臣の「中山」が討ち取られる場面もあったようです。

廿六日 打明ヨリ又六角堂鐘撞候。何事トモ不知、今夜山サキノ彼方ヤケ候ツル。残リ候法華町人ドモ、東寺ノアタリマデウチマハリシ候。

廿八日 山崎ニ合戦候テ、朝打明ニ京衆崩候トミヘ、書程ニキコヘ候。山崎ノ彼方皆崩候テ、イマダ山崎ヲバ持候由キコヘ候。此崩候時柳本カ中山ナドト云シ者、其外ヂヤウニ死候ゲニ候。又書程ヨリ京ノ法華宗共鳥羽ノアタリマデウチマハリシ候。コゝヘ七時ニ歸候時、聲アゲ候。

翌天文2年も戦いは続き、連日晴元方の軍勢や法華宗が摂津へと出陣している様子が記されています。

三月

廿七日 京ノ六郎ノ衆共、日蓮宗モ少ト交リ、津國ヘ立候。

廿八日 今日モ日蓮宗共立候。聡明殿用ニツイテ皆々上候。敵退治ノ用カ。

丗日 今日モマタ法華宗立候トキ、朝ヨリヨリ鐘ツキ震動シ候。

四月

廿六日 法華宗陣立候。下京上京ノ諸日蓮宗、京ニ居候六郎衆ニ交リ、大坂ヲタイヂニ今日立候也。彼法クハンジ發向ニ立候ヤ。今皆一向宗大坂ニ居候。六郎ノ敵也。

「法クハンジ」は法観寺本願寺のことです。「今皆一向宗大坂ニ居候」つまり、大坂以東の一向宗寺院はこれまでの戦いで全て攻め落とされてしまったということでしょうか。

摂津にはこの頃、蓮如八男の蓮芸(兼琇)が入寺した「富田道場」教行寺を中心に繁栄していた富田寺内町がありましたが、道場や信徒の家々は残らず焼き払われたと伝わっています。おそらくこの頃のことでしょう。

(なお、教行寺は天文5年に再建され、後の三好氏の時代、永禄2年に蓮芸の長男で二世の実誓(兼詮)の娘が、阿波三好氏家老の篠原長房の元へ嫁いでいます。天文から永禄期の三好氏の動向と併せて、いずれ改めて紹介したいです。)

このような状況の中、5月26日には一向宗と手を組んだ「八郎」細川晴国が再び大軍を催して挙兵し、丹波から高雄へと進出、以後京都が騒然としていた状況が窺えます。

五月

廿六日 今日高雄栂尾ヘムケテ、八郎衆三千計ニテ出候由申候。今八郎ハ丹波ニ居ラレ候由申候。中比丹波ノ波多野ハ敵ニテ候ツルガ、今悉皆八郎ヲ取立ル躰ニテ候。先八郎衆二三千計ニテ、高雄栂尾ヘ來候。處々津ノ國ノ守護代ニ、薬師寺ト云シ者、是等ガ者京ノルス也。千本ニ皆居、敵ニムカヒ候躰ニテ候也。シカジカ京ニハ人衆ナク候。

廿八日 西ノ衆北野ヘ出候テ、ドコナランシラズ少ヤケ候。北野社ニテハ候ハズ。京震動シ候。京衆モ少懸合候。敵モヤガテ高雄ヘ引候。六時ニ丹波口ニ篝廿計候也。其外西ニ所々ニヲホク候。

廿九日 晩景ニ、丹波口カゞリ二ツ候。

丗日 朝トクヨリ京ノ日蓮宗六郎衆、高雄ヘカケ候トテ震動シ候。西カラモ出、ドコゾ道ニテイクサ候ツルゲニ候。京中ノ衆十人計シ死ニ候由申候。京衆ハ皆引候ヤ。ドコヤラ少ト其アタリヤケ候。

大永から享禄年間当初、波多野一族を率いていた波多野元清(稙通)は、義弟の柳本賢治と共に高国に背いて晴元方に与していたものの、元清の後継者と見られる秀忠は晴元に背き、「今悉皆八郎ヲ取立ル躰ニテ候」とあるように丹波に潜伏していた晴国に味方しました。

摂津守護代薬師寺氏(細川勝元以来、代々京兆家に仕えた重臣)が迎撃に向かったものの、法華宗の多くが大坂本願寺攻めで出兵していたためか、京都には軍勢が足りていなかったことが窺えます。

高雄に陣取っていた晴国勢と、京都の法華宗・晴元勢の間で小競り合いがあり、「京中ノ衆十人計シ死ニ候由申候」京方が退いたようです。

(「西ノ衆」や「西」が何を指しているのか分かりませんが、この「西ノ衆」は以後も何度か法華宗の敵対勢力としてその動向が記録されています。)

そして、6月にも晴国勢との戦闘で晴元勢が大敗する事態に陥ります。

六月

十八日 京ニ残リ候法華宗、又ハ京残候武士共交リ候テ、八郎ノ衆居候所、高雄栂尾へウチマハリガテラニ行候處ニ、八郎衆モ出候テイクサ候。京衆クヅレ候。人三百計死ニ候由申候。シカジカトシラズ候。京迄クヅレ候。京迄ハ八郎衆候ハズ候。此クヅレニ摂津ノ國ノ守護代薬師寺備後ナド死ニ候也。今日近江モ來候也。

再び京都に残留していた法華宗や武士たちが、晴国方が陣を張る高雄へと打ち回りに行ったところで戦闘となり、京都に攻め込まれるまでは至らなかったものの、摂津守護代薬師寺備後守などが討ち死にしたのです。京勢だけでは持ちこたえられないと見たのか、近江からも援軍が来ていたようです。

このような状況に至っては、もはや大坂を攻めている場合ではなかったのでしょう。早々と本願寺との和睦を果たした晴元方の武士や法華宗たちは、次々に京都へと引き返したようです。

廿三日 今日大坂ヘ以前立候ツル法華宗京ノ武士共、大坂ト和睦トヤライヒ候テ、ゾロゾロ早上り候。今日京少トシヅマリ候。

ただし、この和睦はあくまで義晴・晴元と本願寺との間に結ばれたもので、細川晴国方の軍勢はその後も京都を窺っていたことが記されていますが、以後は割愛します。

なお、将軍義晴は天文3年6月末には桑実寺から坂本へと移り、9月には南禅寺に入っていますが、吉田神社祠官・吉田兼右の日記『兼右卿記』によると直後に南禅寺の裏山に城を築いており、「上意、城ヲサセラレルモ珍事也」と驚きをもって記されています。

前述の通り、天文2年6月の和睦は一時的なものに終わり、本願寺は再び晴国方と結んで挙兵していました。このような情勢を受けて、将軍義晴は自衛のため自ら東山に詰城を築くことを決意したのでしょう。

この後も義晴とその跡を継いだ義輝は、細川晴元や三好長慶といった畿内の実力者と対立に及ぶたび、東山に築いた城に立て籠もることを繰り返すことになりますが、その始まりが天文3年9月、享禄元年6月以来の京都帰還を果たした、義晴による南禅寺山城の築城となったわけです。

いわば「天文の錯乱」は、京都における将軍の有り様にまで影響を及ぼす事件であったと捉えることもできそうです。

「野田御坊」極楽寺円満寺に伝えられた証如上人の感状

大坂本願寺の海の玄関口となる野田には、天文2年8月に野田・福島の門徒達が証如上人を助けて六角定頼軍と戦い、21人が討死したことが伝えられています。

現在「野田城趾」ともされている極楽寺東本願寺末寺)の石碑には、このように記されています。

大坂城がまだ本願寺であった室町時代野田城[北は玉川四丁目交差点(旧名城の内)より東は恵比須神社の東側(旧名弓の町)迄が城域でその中心地が当地(旧名奥の町)]を訪れた本願寺第十世証如上人が六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の教化を受けていた野田福島の念仏者が証如上人を守護せんとして、二十一人が殉教された(天文二年八月九日)これらの討死衆の菩提寺として建立されたのが当時極楽寺でその後、本願寺南御堂の掛所となり、野田御坊と名付けられ今日に至っている

天文2年6月20日にはいったん講和しているはずですが、早くも8月9日に再び晴元方との戦闘があったのでしょうか。

証如上人から授かった感状は「野田御書」と呼ばれ円満寺西本願寺末寺)に伝えられているそうです。

また、近くにある恵美須神社の社伝には「天文二年兵火に罹り小祠を建て奉祀せしが元亀元年三好山城守社殿を造営し厚く崇敬せらる」とあります。

天文二年の兵火とはおそらく、本願寺と晴元方の抗争によるものでしょう。

元亀元年の方は「石山合戦」勃発時、野田城・福島城を修築して立て籠もっていた三好三人衆方が本願寺との連携によって、信長率いる義昭方を撃退した時のことと思われます。三好山城守は三好笑岩(康長)ですね。

参考書籍、参考資料

日蓮宗と戦国京都

日蓮宗と戦国京都

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

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