k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

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兵庫津遺跡と兵庫城 - 兵庫津遺跡第62次調査 第4回現地説明会の感想と兵庫津の歴史+α

さる3月28日、兵庫津遺跡第62次調査の第4回現地説明会に参加してきました。

前日の神戸市からのプレスリリースで「兵庫城の天守台か」と発表され、一部のニュースサイトには「信長の中国攻め拠点」との見出しで掲載されたものです。

兵庫城築城の経緯

兵庫城は天正8年(1580)7月に荒木村重の乱を鎮圧した戦功によって織田信長から摂津12万石を与えられた池田恒興が、その翌年に兵庫津に築いた城です。

享保17年 (1732)に記された『花熊落城記』には、荒木村重の乱における最後の戦いの舞台となった花隈城を解体し、その材料を転用したことが記録されているそうです。

九年の正月より池田勝入、此城を割給ふ。兵庫に屋舗を被成、此大石を此所へ引給ふ

池田恒興は花隈城の戦いにおいて、兵庫津から須磨一の谷までを焼き払って海上からの輸送路を断った上で、1年以上もの時間を掛けて兵糧攻めを行って、これを落城させました。

岡山大学が所蔵する池田文庫の「摂津国花隈城図」によると、花隈城は西国街道の北側に築かれていたそうで、恒興は自ら城攻めを指揮した戦いを通じてその弱点を熟知していたため、花隈城を破棄して兵庫津を守るための城を築いたのです。

兵庫城は主郭部となる本丸の周りに内堀と二の丸(帯郭)、外堀を巡らせるとともに、町の外郭にも「都賀堤」と呼ばれる堤防を築き、兵庫津全体の城塞化を進めたと伝わっています。

そのような経緯で西国に通じる要衝の軍事拠点として築かれた兵庫城でしたが、豊臣政権期の情勢の変化に伴って城郭としての機能は廃止され、元和3年(1617)には兵庫津が尼崎藩領となったことで、兵庫城跡には兵庫津奉行による支配拠点として陣屋が設けられました。

元禄9年(1696)に描かれた「摂州八部郡福原庄兵庫津絵図」に「御屋敷」と記されている場所が、築城時の兵庫城の主郭部に当たりますが、2012年に行われた第57次調査の際にも、ここで天正年間と推定される四段に積まれた野面積みの石垣が発見されていました。

今回の調査ではそれに続いて、本丸跡で天守台と推定される石垣が発見されたのです。

石垣は横幅1m内外の石で前後二重に構築され、それぞれの裏側には大量の栗石(ぐりいし)が充填されており、石垣の下には建物の不等沈下を防ぐための胴木(どうぎ)組によって築かれた非常に重厚な造りで、3mから5m程度の高石垣が存在したと推定されるそうです。

この胴木組は、織田信長が永禄12年(1569)に将軍・足利義昭のために築いた旧二条城や、天正4年(1576)に築かれた安土城でも発見されており、今回の発見はそれに次ぐ最古級のもので、兵庫城の築城にも信長による最新の築城技術が用いられていたことが明らかになったということです。

兵庫城跡の写真

以下、現地説明会で撮影した写真です。

遺跡の全景はこんな感じ。

列を作っている左側が本丸になります。二重の石垣があり、真ん中辺りの平坦な部分が内堀です。

胴木組の跡。

乾燥による傷みを防ぐため、定期的に霧吹きで水を撒いておられました。

石垣には一石五輪塔や石塔など多くの転用石が見受けられ、まさに乱世の城といった趣があります。

仏様のアップです。右側の石にも仏様が見えます。

さらにアップ。

このような墓石や石仏などからの転用石は、仏罰を恐れない信長の姿勢を表すものと捉えられがちですが、別に信長の城に限ったものではなく、戦国期の城には広く見られるものです。

栗石がたくさん。

転用石もゴロゴロと。

本丸跡には井戸も見つかっていますが、こちらも転用石だらけ。

こういう何気ない杭も、築城当時、あるいはそれ以前の建物の跡かもしれないとのことでした。

今回の石垣も天守台か?という形で発表したものの、当時の建物の記録が残っておらず、石垣の上の建造物についてはおそらく江戸時代に解体されたようで、瓦などはほとんど出土していないため、まだよく分かっていないようです。

説明会の際に専門家らしき方の話を立ち聞きしたんですが、築城当時に瓦葺きの天守なり櫓なりの建物があったとしても、尼崎藩領の時代に尼崎へ運び出されたのではないかと仰ってました。

出土品の写真もいくつか展示してありました。

以前の調査で近世の町屋跡も発見されているので、そこから出た物でしょうか。

奥の壁は明治時代に築かれた新川運河で、この掘削のために本丸跡の大半が破壊されてしまっています。

神戸港の開港によって貿易の中心地が東へと移動するに伴い、兵庫運河は工業地域としての隆盛を支えましたが、現在はウォーターフロントとしての開発が進められています。

ここで発掘調査が行われてきたのもその一環として中央卸売市場が移設されたことによるもので、調査が終われば遺跡の上にはイオンモールが建てられる予定です。

天正8年という戦国末期の築城当初の遺構が、住宅開発による破壊を受けることなくこのような状態で発見されるのは本当に貴重だそうで、担当の方も残念そうでしたが、できるだけ遺構を破壊せずに建ててもらうよう、イオンの方にお願いするほかないようです。

奥の建物が移転した中央卸売市場です。将来はここがイオンモールと接続される計画のようです。

建物の2階には食堂など一般客が利用できる店舗があります。

この看板もいつまで見られるでしょうか…。

新川運河のキャナルプロムナードには、兵庫城跡の石碑が建てられています。

説明板もありますが、かなり字が読みづらくなっている状態です。発掘調査が完了した暁には、その内容を盛り込んだものに新調していただけることを期待しましょう。

三好長慶松永久秀と兵庫津 - 三好氏とともに成長した正直屋

兵庫津は平清盛日宋貿易の拠点とした「大輪田泊」で、中世には勘合貿易の発着港として、あるいは畿内と讃岐や阿波を結ぶ短距離航路の要港として、東瀬戸内を支配した細川氏や三好氏にとって重要な拠点でした。

阿波を本拠地とする三好氏の畿内港湾都市との関わりでは、連歌茶の湯など文化面でも先進的な役割を果たした堺との関係が知られていますが、三好長慶が摂津に勢力を拡げた天文年間は、堺よりも兵庫が重視されていたようです。

天文8年(1539)、長慶(当時は孫次郎利長)は河内十七箇所の代官職を巡る三好政長との対立から主家の細川晴元と交戦しましたが、六角定頼の調停を受けて和睦、晴元の麾下に入った長慶は8月に越水城の城主となり、摂津下郡郡代(事実上の摂津西半国守護代)としての権限の掌握を進めました。

兵庫津においても、天文9年(1540)末、正直屋の屋号を持つ捶井甚左衛門尉に宛てて買得地を安堵する判物を発給しており、その後も捶井氏の保護によって間接支配を進めています。松永久秀の名が史上に現れるのもちょうどこの頃で、『捶井家文書』には「松永弾正忠久秀」と記された副状が残されています。

買得の地所々の事、御知行全うあるべき旨、御折紙の上は、向後相違あるべからず、もし謂われざる族理不尽の催促等、これあるにおいては、相拘え御註進あるべし、御糾明をもって、仰せ付けらるべきの由候也、恐々謹言、

松永弾正忠

十二月廿七日    久秀(花押)

捶井甚左衛門尉殿

当時まだ30代前半と思われる久秀、すでに「松永弾正」を名乗っています。でもまさか将来本当に従四位下の位を受け弾正少弼に任官されるなんて、思いもよらなかったでしょうね。

兵庫津はかつて東大寺が北関、興福寺が南関を支配し、中央権門の管理下にありましたが、応仁の乱では西軍の大内政弘率いる大軍に制圧された後、 山名是豊率いる東軍の攻撃で焼き討ちされ、壊滅的な打撃を受けました。

(『応仁記』には、都の争乱から逃れて家領の福原庄に下向していた一条政房(兼良の孫)が、兵庫津にある福厳寺で東軍勢の乱入によって殺害されたという話も伝えられています。)

しかし、天文年間頃からは在地の商人が主導する港となり、三好氏の御用商人としての地位を得た捶井氏は、後に江戸時代にまで続く岡方・北浜・南浜という三つの自治組織のうち、岡方の名主を独占する程の豪商に成長したのです。

秀吉時代の兵庫津

兵庫城を築いた池田恒興は、賤ヶ岳の合戦後の所領再配置によって、わずか2年程で美濃へ転封となりましたが、その後に兵庫城へ入ったのは三好康長の養子となっていた秀吉の甥・三好孫七郎、後の関白秀次でした。

天正11年(1583)と推定される書状で秀吉は孫七郎に対して、兵庫城と三田城の受け取りに当たって兵庫に残って政道に専念するよう指示しています。

尚以其方事、兵庫ニ残候て政道已下堅可申付候、三田へハ人を可遣候

兵庫城・三田城両城可請取之由、得其意候、塩儀遣候て早々可請取候、猶追而可申越候、恐々謹言

筑前

五月廿五日    秀吉(花押)

三好孫七郎殿

その秀次も四国平定後の天正13年(1585)に43万石を与えられて近江へ転封となり、兵庫津は秀吉の直轄領となりましたが、下代官として実際の支配を行っていたのはかつて三好氏の御用商人を務めた捶井氏の正直屋宗与で、秀次の時代から引き続き兵庫の諸座公事銭徴収に関わっていたようです。

兵庫津はその後も天正15年(1587)の九州平定、天正18年(1590)の小田原出兵、天正19年(1591)の朝鮮出兵の準備で兵站港として利用されますが、正直屋宗与は文禄3年(1594)10月に「地子役并町役之下代」を召し上げられ、以後は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦まで増田長盛が代官を務めました。

その後、片桐貞隆(片桐且元の弟)が代官を務めましたが、江戸幕府が開かれた後の兵庫津は外交拠点へとその役割を変え、慶長12年(1607)、また尼崎藩領となることが決定していた元和3年(1617)にも、片桐貞隆が朝鮮通信使の接待を行った記録が残されているそうです。

近世の兵庫津と岡方惣會所跡

尼崎藩領の時代の兵庫津には町場の中心に西国街道が引き込まれ、陸運と海運の要衝として、城下町尼崎よりも多くの人口を抱える都市に発展しました。

岡方・北浜・南浜の自治組織は「方角」と呼ばれる個別町の連合体で、岡方は宿駅機能(陸運)、北浜・南浜の総称「浜方」が港湾機能(海運)を担当し、藩や幕府から課される諸役を請け負ったそうです。

方角ごとに数名の名主と惣代がおり、名主は家業との兼務で方角内の組頭中の入札によって選出される役人で、一方の惣代は専業で従事し方角から給銀を支給される役人でした。

そして昭和2年、正直屋が名主を独占したという岡方の会所跡に、兵庫商人の社交場として石造りの近代建築が建てられ、この建物は現在「よみがえる兵庫津連絡協議会」の活動拠点「兵庫津歴史館 岡方倶楽部」として利用されています。

岡方倶楽部の展示パネルより、兵庫津への航路を示した地図。

5つ描かれた城は兵庫津の左が明石城、兵庫津の右が尼崎城尼崎城の下が大坂城大坂城の左下が岸和田城大坂城の右が高槻城です。

岡方倶楽部では「神戸・清盛隊」も活動されています。(この写真はちょっと古いですが…)

そういえば元々、大河ドラマ平清盛」に合わせた観光PR事業「KOBE de 清盛2012」の一環で結成された「神戸・清盛隊」の活動拠点は、今回訪れた兵庫津遺跡の一角に建てられた歴史館でしたね。

岡方倶楽部で展示されているパネルは、当時この歴史館で展示されていたものです。

実は神戸・清盛隊のファンでもあるので、岡方繋がりで最後に無理やりねじ込んでみました。(笑)

参考書籍、参考資料