k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

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尼子詮久の東征(上洛戦?)から郡山城攻めに至るまで

天文年間の尼子氏による上洛戦とも思われる東征については、侵攻を受けた赤松氏や浦上氏の側から触れてきましたが、今回は尼子氏の側から見た流れをまとめてみます。

畿内の混乱と西国の情勢

この頃の畿内では、天文元年から5年にかけて、細川晴元政権の内訌に端を発した本願寺門徒法華一揆による大混乱の真っ最中で、一時は晴元も本願寺門徒一揆勢に敗れて淡路へと逃れるほどでした。

また晴元政権では、晴元と本願寺の和睦を仲介したという三好千熊丸(後の長慶)ら阿波三好一族や、その後ろ盾となっていた讃岐および阿波守護・細川持隆との勢力争い、河内および紀伊守護・尾州家(政長流)の畠山稙長と総州家(義就流)の被官で細川晴元の寵臣として権勢を振るった木沢長政の争いなど、たびたび内部抗争を繰り返しており、将軍義晴も元々は細川高国政権において近江守護・六角定頼の協力により擁立されたこともあってか、細川氏を頼みとせず近江へと逃れることがありました。

畿内情勢の混乱を見た豊後の大友義鑑は、将軍義晴の京都帰還を名目とする上洛を計画しており、天文元年には将軍入洛への馳走を大内義隆の悪行によって妨げられているとして、尼子氏および安芸武田氏、熊谷氏、伊予河野氏、宇都宮氏、能島村上氏らに大内氏包囲網の形成を呼びかけました。

大友義鑑書状(切紙、熊谷家文書)

就江州 公方様御入洛之儀、度々被成 御下知候之条、相応之忠儀、無余儀存候之處、依大内造意、干今相滞候、近日猶以悪行令顕然之条、近々豊筑発向之覚悟候、然者、連々如申談候、其堺之儀、無油断御調儀、併可為御忠節候、武田光和・尼子経久別而申合候、海上之事、河野通直・宇都宮・村上宮内大輔申合候、猶小笠原刑部少輔方可被達候、恐々謹言

七月廿日 義鑑 (花押)

熊谷民部少輔殿

(川岡勉先生の講演『尼子氏の勢力拡大と中央政界』配布資料より)

しかし、尼子氏はこれに応じず、独力で東征を開始します。

その背景には、尼子氏では享禄3年以来続いた尼子経久の三男・塩冶興久の反乱によって出雲国内を二分する内乱状態に陥っており、一方の大内義隆も北九州で大友・少弐氏と戦っていたため、相互不可侵協定を結んだことがあったと見られています。

(これに伴い、享禄4年7月10日付で経久嫡孫の三郎四郎(詮久)と元就が兄弟として協力するとの契約を結んでいます。)

尼子詮久の備中・美作への侵攻

天文元年(1532)5月、備中新見荘の代官・新見国経が領主である東寺へ送った書状によると、尼子氏は美作高田城を本拠とする三浦氏への攻撃を進めており、かねてより尼子方であった新見氏にも協力が要請されています。

この時すでに齢七十を越えていた尼子経久に代わって軍を率いたのは、嫡孫の詮久でした。

永正13年(1516)10月19日付の新見国経の書状によると、新見氏は備中守護・細川氏や備中の国人三村氏、多治部氏らの圧迫に対して、伯州、雲州衆と提携して対抗しており、この頃には尼子勢が美作への進出経路となる備中北部へと勢力を拡げていたと見られます。

尼子勢は天文元年からの侵攻で三浦氏の居城勝山城を攻略したものの、天文2年(1533)6月23日付の新見国経の書状に「伯州東半国と作州一国申し合わせ、尼子方に敵となり候」とあり、応仁・文明期の伯耆守護山名家分裂による内乱以来、美作の国人と結び尼子方に付いていた東伯耆の南条氏や小鴨氏が敵対したことで苦戦を強いられました。

天文2年(1533)12月には詮久が美作二宮(高野社)の社人注連大夫に安堵状を出しており、同年中には美作中央部まで進出していたことが窺えますが、天文5年末に亀井安綱から近江の小谷城主・浅井亮政に宛てた書状で、備中・美作が「両国悉く落去」したと報じており、美作の平定には足掛け5年が費やされたようです。

また、この時すでに「明春は早々播州えその働きいたすべく候」と伝えていることから、早くから播磨への侵攻を予定していたことが窺えます。

「尼子十勇士」の一人として名を知られる秋上庵介の本家で、神魂神社の神主を務めたという秋上家に、天文5年10月10日付、詮久自筆の和歌が残されています。

あきあけは とみとたからに あひかして おもふことなく なかいきをせむ

備中・美作両国の平定を終えた状況で、その心境を詠ったものでしょうか。

尼子詮久の播磨進出と竹生島奉加

尼子詮久は天文6年11月に播磨へ侵攻、証如が詮久に送った書状には「御出張の由承り候、ことに早速御本意に属し候条珍重に候」とありますが、「本国にて越年すべき由」と記しており、この時は年末までには帰国したようです。

天文7年(1538)に経久の隠居により家督を継いだ詮久は、再び本格的に播磨侵攻を開始します。

実際に尼子勢が攻め込んだのは同年9月下旬のことですが、7月にはすでに播磨守護・赤松政村が高砂に没落したという噂が京都で流れており、詮久が上洛するかどうかが取り沙汰されています。播磨国内は「正体なき式」となり、赤松政村は淡路に没落、11月には別所村治が三木城に包囲を受けましたが、攻略には至りませんでした。

また天文8年10月には、尼子勢は赤松政村の要請を受けて備中に渡海した阿波守護・細川持隆の軍勢を撃破しています。

(天文8年に浦上政宗室津で尼子勢を迎え撃ったというのも、この頃のことでしょうか。)

播磨國美嚢郡の法光寺には、対外交渉の窓口を担当したという湯原幸清の天文8年(1539)12月25日付の禁制が残されており、すでに尼子氏の勢力が播磨東部に及んでいたことが窺えます。

尼子氏の快進撃の背景には、畿内における旧高国党や畠山稙長、紀伊湯河氏などと連携の動きもあったようです。

本願寺宗主・証如上人の日記『天文日記』天文七年八月十四日条には、以下のような内容が記されています。(尾州=政長流畠山氏、畠山稙長)

従湯河宮内少輔以書状、就尼子出張尾州被出候間、彼人も可上洛候、然者得指南候ハんよし申候

(川岡勉先生の講演『尼子氏の勢力拡大と中央政界』配布資料より)

また、尼子氏の主家に当たる京極氏を擁立していた江北の雄・浅井亮政からも、竹生島の造営経費に対する奉加の要請を受けていますが(天文9年8月19日付、竹生島造営奉加人数書上)、これ以前の天文7年(1538)9月に国友河原の合戦に敗れるなど、浅井氏は六角定頼との戦いに苦戦しており、上洛を目指す尼子氏との連携を目論んでいたものと思われます。

播磨国内に滞在していた尼子勢は天文10年初頭には撤退することになりますが、同年に京極高延が亮政に反旗を翻し、浅井亮政は天文11年正月に死去、その後継者となった久政が六角氏への臣従を選択したことも、何か象徴的に感じます。(尼子贔屓の引き倒しでしょうか?)

余談:安芸宍戸氏と結んで石見高橋氏を討滅し、勢力を拡大した毛利元就

塩冶興久の乱が勃発する以前の享禄2年(1529)5月、石見に勢力を持つ高橋氏が大内方から離反して尼子氏と結んだため、大内氏重臣の弘中氏と毛利氏に命じて高橋氏の討伐を開始しました。

かつて「三歳子牛の毛数ほど人数持ちたり」と強勢を唄われたという高橋大九郎久光は、元就の兄・興元の死後に家督を継いだ幸松丸の外祖父として強い発言力を持っており、元就も高橋氏に長女を嫁がせて姻戚を結んでいました。しかし、夭逝した幸松丸に代わって元就が家督を継ぐことになり、更に大九郎久光とその嫡子・元光が共に三吉氏との戦いで戦死したことから、次第に高橋氏と毛利氏との関係も微妙なものになっていったようです。

そして、元就は高橋氏が大内方から離反したことを好機としてこれを一挙に討滅し、享禄3年(1530)7月には大内義隆から高橋氏の旧領を与えられることになりました。

興久の乱に際して劣勢の経久方を支援するよう大内義隆を説得したのも元就でしたが、さすがの経久も興久方への対応で手一杯な状況では、毛利氏による高橋氏討滅を黙認せざるを得なかったようです。

また元就は高橋氏攻めに際して、かつて親細川・反大内方として毛利氏と敵対関係にあった五龍城主・宍戸元源と手を結んでおり、高橋氏の本拠地である阿須那藤根城の攻略には宍戸氏も協力しています。天文3年正月に元就は娘を元源の嫡孫・隆家に嫁がせて姻戚を結び、宍戸氏は後の毛利氏の飛躍に伴って、毛利一門六家の筆頭として厚遇されることになりました。

(なお石見高橋氏の庶流からは、後に尼子方として石見銀山の防衛拠点である山吹城主を務めた須佐高櫓城主・本城常光が出ています。)

阿須那の賀茂神社には、元就によって滅ぼされた高橋大九郎興光を祀る「剣神社」があります。

狩野秀頼筆「神馬図額」は、永禄12年(1569)に「大宅朝臣就光」(高橋就光)によって奉納されたものです。

高橋興光の敗死後、高橋氏の名跡は元就によって掌握されたのでしょう。

大内氏が大友氏と和睦、そして郡山城攻めへ

塩冶興久の乱を通じて協定を結んだ大内氏と尼子氏の間では一時的な小康状態が続いていましたが、天文4年(1535)から大内氏と大友氏の和睦交渉開始に伴って北九州の戦乱が沈静化すると、尼子詮久は石見・安芸・備後方面への圧力を強化し、再び両者の緊張が高まっていきます。

天文5年に尼子氏は塩冶興久の乱で背いた備後甲山城の山内直通を降伏させて家督に介入し、安芸・備後・石見では大内方毛利氏との衝突も起き始めていました。

安芸では頭崎城の平賀興禎が父の弘保と対立して尼子方に通じたため、大内氏は東西条代官・弘中隆兼を送り込みましたが、尼子方の支援を受けた城は容易には落とせず、天文9年6月に至ってようやく、毛利氏を主力とする大内方が造賀において平賀興禎勢と交戦して勝利しました。

また、すでに天文7年(1538)には大内氏と大友氏が和睦を結んだことで大内氏包囲網は崩壊しており、天文9年4月には尼子方に付いていた沼田小早川氏が大内方に転じ、6月には同じく尼子方であった安芸守護・武田光和が死去するなど、備後・安芸方面において尼子氏の不利が続いていました。

こうした情勢の変化を受け、ついに詮久は播磨に遠征していた軍勢を安芸方面に転進させることにしました。天文9年8月から翌年正月にかけて尼子氏が行った毛利氏の本拠地・吉田郡山城に対する攻撃は、このような状況で開始されたのです。

なお、軍記物では血気に逸る若き当主・詮久と叔父の刑部少輔国久ら新宮党に対して、ただ一人慎重策を唱えてこれを諌めようとした大叔父の下野守久幸が「臆病野州」と罵られ、郡山城攻めからの撤退戦で戦死する様が描かれていますが、多くは虚構と見られています。また、系図の記述や竹生島奉加帳の記名順や受領官途などから考えて、そもそも久幸は経久の弟ではなく弟の子であるとの指摘もあります。(系図と軍記物 尼子久幸について

尼子下野守義勝のものと伝えられる墓。

広瀬町富田の尼子氏史跡

尼子清定・経久を祀る洞光寺。

尼子清定・経久父子のものと伝えられる宝篋印塔。

洞光寺から月山富田城跡を望む。

飯梨川沿いの三日月公園にある尼子経久銅像

以前の記事 三日月公園に立つ尼子経久公銅像 にもたくさん載せています。

月山富田城跡の麓、「小守口」にある塩冶興久の墓。

月山富田城跡より

「花ノ壇」にはこんな顔出しも…!!

参考

西国の戦国合戦 (戦争の日本史12)

西国の戦国合戦 (戦争の日本史12)

浅井長政と姉川合戦: その繁栄と滅亡への軌跡 (淡海文庫)

浅井長政と姉川合戦: その繁栄と滅亡への軌跡 (淡海文庫)