k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りをより深く楽しむために学んだことを共有し、更に多くの方に地域の歴史に目を向けていただければと、そんな思いで公開している「学習メモ」です。筆者は歴史学を学んだ経験もないただの歴史好きの素人です。文章には素人ならではの誤解や妄想も含まれていると思いますので、お気をつけください。

「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(後編)澄元方の上洛戦敗退と将軍義稙の淡路出奔事件の顛末

以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 では、永正10年(1513)に将軍がわずかな供だけを連れて突如京都から出奔した珍事件の背景や、細川高国が京兆家当主となってから内衆の再編が進んでいたことなどを紹介しつつ、「義稙」と改名した将軍がどのような政権構想を抱いていたのかを探りました。

そして、大内義興が帰国した経緯については独立した記事として 『大内義興が帰国に至った背景―在京中に起きた「安芸国人一揆」と「有田合戦」の関係、遣明船の永代管掌権を獲得した件について』 で考察しました。

今回は主にその後の話、阿波より機を窺っていた細川澄元とその与党による上洛戦を通じて起きた将軍義稙と細川高国の関係の変化、そして澄元と将軍義稙を仲介した赤松義村とその重臣・浦上村宗の対立を併せて見つつ、なぜ高国と対立して出奔した将軍義稙の復帰が叶わず、高国に擁立された義晴が新たな将軍として受け入れられたのか、そしてその後の義稙の動向が「阿波公方」にどう繋がったのかを考察します。

同シリーズ記事

最後となる今回はデータ量にして前編や中編の3倍以上と、かなりの長文になっていますので、覚悟の上でどうぞ……。

写真は阿波平島にある阿波公方足利家の菩提寺、西光寺の義稙、義冬、義栄三代廟所。

忙しい人のための、義稙の行動について検討すべき疑問点まとめ

全部読むのはしんどい方のために、対象を義稙の行動に絞って、この記事で検討の必要性を訴えているいくつかの疑問点について、まとめておきます。

澄元方の上洛戦の際に京都に残った義稙は高国を見捨てたのか?

高国が義稙を残して近江へと逃れた直後には、澄元から義稙に恭順を申し出る書状が送られており、また、三好之長が入京するまでの間には、義稙の方からも澄元派の赤松義村より「京都無事」を祝って太刀や馬が贈られたことへの返礼を送っている。これらのことから、京都に残留した義稙が澄元を受け入れる姿勢を見せていたのは間違いない。

しかし義稙は同時に、澄元に与する畠山義英の攻撃を受け河内高屋城に籠城していた畠山稙長を激励しており、近江に同行しなかったことをもって高国を見捨て澄元を支持したと断ずるのは妥当ではない。

また、高国はその後近江で両佐々木氏など近国からの援軍を得て帰還するわけだが、そもそも高国の敗退以前に両佐々木氏に支援を要請したのは義稙自身であり、そのような展開は想定できたはず。

そして、澄元死去の噂が流れていたことも合わせて考えると、京都に残留した義稙は高国が戻るまで時間を稼いでいたか、あるいは澄元と高国を両天秤にかけつつ状況を静観していたと見るのが妥当ではないか。

義稙は高国の専横を嫌って出奔したのか?

義稙は出奔に際して思い通りに執政できないことの不満を書き残しているが、高国の専横と評すべき行動や対立要因を具体的に挙げるのは難しい。

ただ、出奔直後から讃州家を頼り、約二ヶ月後には明確に高国の討伐を謳っていることから、義稙の側には高国への不満があったようだ。

出奔に際しての公卿の反応からは、両者が対立関係にあったと見られていることと、義稙側近の畠山式部少輔が反感を集めていたことが窺えるが、実際のところはよく分からない。

義稙は自身の後継者をどのように考えていたのか?

現在の通説では義稙が義維を養子としたために将軍家の分裂が継続したと捉えられて、義澄系(義澄→義晴→義輝→義昭)と義稙系(義稙→義維→義栄)に分類されている。

しかし、義稙と義維の親子関係を伝えるのは史料としては良質とは言えない軍記や伝承のみで、当時の一次史料によるとむしろ義稙は出奔以前から義晴を後継者に迎えようとした形跡がある。

また、出奔の翌月には義晴擁立が進められ、そのまま抵抗なく受け入れられたことを考えると、義晴を次期将軍候補とすることは以前からの既定路線であった可能性が高いのではないか。

義稙は将軍復帰の意志を義維に託したのか?

義稙は大永元年10月から11月にかけての堺上陸時の和睦交渉失敗により淡路へ退去して以後、大永3年4月に死去するまでの間、帰洛に向けて活動した形跡はなく、将軍復帰はもとより帰洛を望んでいたかどうかも分からない。

そもそも、今のところ信頼できる史料で義維の存在が確認できるのは義稙死後の大永7年3月以降であり、義稙の死が京都に伝わったのもその後であった。

義稙の遺臣が讃州家を頼り、義維を義稙の「猶子」として擁立したのは確かだが、実際には義稙が義維と対面したかどうかすら分からない。

目次

今回の記事はとても長いので目次を用意しました。

将軍・足利義稙が有力守護による連合体制からの脱却を図り、側近の畠山式部少輔順光を引き立てたこと

将軍義稙は永正10(1513)年に出奔事件を起こし、これによって細川高国大内義興、畠山義元、畠山尚順の四人に対して「諸事不可背御成敗之由申入云々」と、自身の裁定に従うことを約束させたのですが(中編『都を仰天させた将軍義尹の甲賀出奔と、帰洛の様子に見る幕閣の構成』)、永正15年(1518)8月に大内義興が帰国した時点で、すでに京都に残留しているのは細川高国ただ一人となっていました。

実は大内義興の帰国以前にも、能登守護の畠山義元は領国の錯乱を受けて永正10(1513)年10月に帰国した後、永正12年(1515)9月には死去していて、後継者の義総も引き続き能登への在国を余儀なくされていたのです。

また、畠山尾州家の当主・畠山尚順(すでに出家して「卜山」と号していました)も、永正12年頃には嫡子の次郎稙長の元服に伴って自身は京都を去り、領国紀伊の広城を拠点としてその統治に力を注いでいました。

永正15年(1518)の段階で、将軍義稙のもとで幕政に参加していた有力守護の多くがすでに京都を去り、領国統治のために在国せざるを得なくなっていたわけです。

そして、義稙もこの状況に何も手を打たなかったわけではなく、彼ら有力大名に頼らない独自の権力基盤を形成しようと考えたようで、そのために重用されたのが「明応の政変」以来、父と共に義稙(義材・義尹)に近侍していたという、畠山式部少輔順光でした。

この畠山順光の経歴はとても興味深いもので、明応2年(1493)5月、細川政元が義稙(義材)の身柄を龍安寺から側近の上原元秀邸へと移した際、身の回りの世話をする役目を受けたのが同朋衆の木阿弥で、順光はその息子でした。つまり、彼は元々奉公衆のような名のある武家の出身ではなかったのです。

この時、義稙(義材)が越中に脱走したために木阿弥父子は逮捕されて拷問を受けたのですが、彼らはその後も義稙(義材)からの信頼に応え、明応8年(1499)に河内で挙兵した畠山尚順と連携して上洛戦を展開した時には連絡役を務めました。

永正5年(1508)6月についに義稙(義尹)が京都帰還となり、父の木阿弥と共にその忠義を愛された順光は、この時に「畠山」の名字を賜ったとのことです。畠山家の惣領である尚順に無断で与えられたとは思えませんし、両者は共に義稙(義材・義尹)と強固な信頼関係を築いていたことを考えると、「順光」という名も尚順から偏諱を授かったものでしょうか。

そのような経歴を持つ畠山順光は永正14年(1517)4月、義稙の命を受けて将軍上使として大内義興の兵と共に大和へ侵攻、大和国内の武士たちの抗争を鎮圧しました。順光はこの時、興福寺の「官府衆徒」の地位をも獲得しようとしたそうです。

中世の「南都」大和国は守護を設置せず興福寺が支配権を持っていた特別な土地であり、衆徒というのは興福寺領の在地領主など半僧半俗の有力武士のことで、その代表者で構成されるのが「官府衆徒」あるいは「衆中」と呼ばれる機関でした。奈良市中の警固や犯罪人の検断を担っていたこの機関に将軍直臣の畠山順光が名を連ねるということはすなわち、将軍による大和支配への介入を意味していたと思われます。


余談: 興福寺の官府衆徒としては筒井氏や古市氏が有名ですが、彼らは応仁・文明の乱を通じて東軍方と西軍方に分かれて対立し、畠山政長尾州家)と畠山義就総州家)の争いにも積極的に加わった末に、管領細川政元の頃にはその武力介入を招き、大和は幾度となく赤沢宗益(赤沢朝経、澤蔵軒宗益)の猛攻にさらされて甚大な被害を受けました。

その後も古市氏や越智氏は畠山総州家(義英)と共に澄元方に与しており、義稙が畠山順光に大和侵攻を命じたのも、旧義澄派である澄元与党の鎮圧が目的であったとも考えられます。

なお、後年の三好政権における大和支配の責任者となった松永久秀は、永禄5年から6年頃には正式に官府衆徒の棟梁である「官務」の地位を獲得しており、大和においては戦国時代も末期に至ってなお、興福寺を中心とした在地支配の枠組が必要とされていたことが窺えます。


畠山順光の官府衆徒への就任は義稙の目論見通りにはいかなかったようですが、その翌年の永正15年(1518)3月17日、畠山順光の邸宅にて異例の将軍御成が行われました。

明応2年の政変以後、これまで将軍御成の対象とされたのは管領を務めた当時の細川政元細川高国、代々政所頭人を務めた伊勢守家当主の伊勢貞宗と伊勢貞陸の他には、永正5年(1508)8月の畠山尚順、永正7年(1510)10月の大内義興、永正9年(1512)4月の畠山義元といった有力守護に対して恩賞として一度だけ行われたものでした。

そのような先例の中で、元々武家の出身ではない畠山順光の邸宅への御成は、鷲尾隆康の日記『二水記』に「不慮の果報、不思議」と記されたように、特異な事件として受け止められたようです。

どうも義稙は良く言えば親愛の情が厚い、悪く言えば贔屓が過ぎるところがあったようで、かつては側近として重用した廷臣の葉室光忠が多くの大名たちから恨みを買ったことが「明応の政変」を招いた要因になりました。

詳しくは後述しますが、畠山順光も後に義稙が京都を出奔した理由として『二水記』に名指しでその振る舞いが非難され、今度の御成が行われた順光の邸宅も荒らされることになります。順光もまた葉室光忠と同様にしがらみの無さから義稙の代行者として重用され、そのために恨みを買う立場になってしまったものでしょうか。

『塵塚物語』の義稙評として「御こころ正直にして、やさしき御むまれつきなり」というのがありますが、実際、幼少期を父の義視とともに美濃で過ごした義稙は、生粋の京都育ちの将軍とは異なる価値観を持っていたように感じます。それは義稙が「下剋上」の時代に相応しい将軍のあり方を模索する中で得たものだと考えますが、少なからぬ京都の人々にとっては忌避すべきものでもあったのでしょう。

大内義興、畠山義元、畠山尚順らの相次ぐ帰国により、有力守護による連合体制から脱却せざるを得なくなった将軍義稙は、このように「明応の政変」以来の忠臣である畠山順光を特別に引き立てることで、言わば側近政治による体制強化を図ったものと考えられています。(山田康弘『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』)

しかし、西国一の大大名である大内義興の帰国は、永正8年(1511)の船岡山での手痛い敗戦以来、阿波から動いていなかった細川澄元とその与党を再び活気づかせ、将軍義稙と管領細川高国はその対応に追われることとなるのです。


余談: なお、畠山順光邸への御成には、永正8年に澄元方として葦屋河原合戦にも参戦した淡路守護・細川淡路守尚春の子息と思われる「細川淡路」が出席しています。

細川尚春はこの前年の永正14年9月、三好之長によって淡路を追われて堺へと逃亡しており、『細川両家記』によると更にこの翌年の永正16年5月11日、之長によって殺害されるという最期を遂げました。これにより、之長は淡路水軍を傘下に収めたと言われています。

細川家一門の尚春に対して、澄元の部下である三好之長が独断でそこまで横暴に振る舞ったとはちょっと信じがたいところですが、之長の行動は因果応報として、等持院合戦に敗れて高国に投降した彼の身に降り掛かることになります。


各地の反幕府勢力と呼応して再び上洛戦を展開した、細川澄元と三好之長

永正16年(1519)10月のこと、細川澄元を大将とする四国勢の進軍に先駆けて、かつて細川高国が将軍義澄を見捨てて義稙(義尹)方に身を投じた際に標的とされた池田筑後守貞正の遺児・三郎五郎(後の池田信正)が、有馬郡の田中城に拠って挙兵しました。

これに対して、越水城主・河原林対馬守正頼ら高国方の摂津国人たちが協力して攻め寄せたものの、寄手の中には城方と同じ池田一族の池田民部丞の軍勢があり、その中に旧主である三郎五郎に「返り忠」を起こす者が現れたことから軍は混乱し、城方の逆襲を受けて敗退してしまいました。

そして11月には、三好之長をはじめとする四国勢の本隊も兵庫津から上陸し、澄元は神呪寺に陣を構えた後、今度は逆に一万余騎の軍勢でもって、河原林正頼が守る越水城を包囲させました。

(なお、河原林対馬守正頼は一般的には「瓦林正頼」あるいは「瓦林政頼」と表記されることが多いようですが、彼の名字は当時の史料では一貫して「河原林」と記されているため、当ブログではこれに習った表記とします。)

この越水城は、船岡山に敗れて失敗に終わった永正8年(1511)の澄元方上洛戦の後、四国勢の上陸拠点の一つ兵庫津と京都を結ぶ交通の要衝である西宮の防衛拠点として、細川高国が西摂随一の有力国人・河原林正頼に命じて築かせたもので、攻める澄元、守る高国どちらの陣営にとっても極めて重要な城でした。

高国は越水城を救援するため、守護代・内藤備前守丹波勢を主力とする4、5千の軍勢を編成して12月に池田城に入った後、後詰めのために武庫川沿いに布陣し、越水城の東側に展開した澄元方と対峙する形となりました。そして、越水城を巡る攻防はこの後も翌年の2月3日に開城するまで続けられることになります。

一方『御内書案』によると、永正16年(1519)10月の摂津における池田三郎五郎の挙兵に先んじて、同年8月に大和にて牢人たちが蜂起したため、義稙側近の畠山順光が鎮圧に向かったらしく、細川高国に宛てて順光への協力を依頼する御内書が残されています。これもおそらく、澄元率いる本隊を支援するための陽動だったのでしょう。

そして、翌永正17年(1520)2月には、阿波に退去していた畠山総州家の義英が大和国人の越智氏などと連携し、尾州家の稙長が守る河内高屋城に攻め寄せました。

義英は永正8年(1511)7月にも澄元方の上洛戦に呼応して挙兵しており、義就流の総州家と政長流の尾州家に分裂した畠山家において、「明応の政変」の経緯から義澄方となっていた総州家の義英は、今度もいわば同じ負け組として澄元と共闘関係にあったようです。畠山尚順が自ら下向して領国紀伊の支配を強化しようとしたのも、彼らに対する備えを固めるためだったのかもしれません。

このように、幕府は永正16年(1519)から17年(1520)にかけて細川澄元とその与党による波状攻撃を受けて動揺し、将軍義稙は12月8日に摂津で陣中にあった細川高国に宛てて「其後者時宜如何候哉。無心元候。早速勝利被待思食候。」と戦況を案じつつ、12月28日には佐々木四郎(六角定頼)に宛てて「連々不可存疎略之由。被聞召訖。彌致忠節者可為神妙候也。」と、支援を命じる御内書を送っています。

(後述しますが、六角氏への援軍要請がすでにこの段階で将軍義稙の意志によって行われていたことは、義稙と高国の関係を考えるに当たって重要なポイントだと思います。)


余談: 幕府の苦境は京都から遠く離れた駿河の今川家にも伝わっていたようで、永正17年(1520)正月13日には今川修理大夫(=氏親。大河ドラマおんな城主 直虎』で浅丘ルリ子が熱演した寿桂尼の夫。)に宛てた「就澄元摂州出張之儀。飛脚到来。尤神妙候也。」という内容の御内書案が残されています。


澄元は義稙(当時は義尹)の将軍再任以来、幕府に敵対する形となっていましたが、それは彼が細川政元の後を継いだ成り行きによるもので、義澄亡き今となっては(澄元は義澄の将軍在任中にも義稙との和睦を進言したことがあったほどです)、彼個人には将軍義稙への逆意など無かったでしょう。

しかし、「船岡山合戦」など義稙方との戦いで犠牲となった者たちの無念を背負う立場には違いなく、麾下の国人たちの中には一族が高国派と澄元派に分裂して争った結果、讃州家を頼って阿波への退去を余儀なくされた者もおりました。(「船岡山合戦」に敗死した細川政賢の子で典厩家当主の座を尹賢に奪われていた細川澄賢、前述した摂津瓦林氏の一族なども同様で、阿波に逼塞していました。)

そんな現状を打開するためにも、力ずくで高国を排除して再び京兆家の当主の座につき、将軍義稙の許しを得た上で幕府に復帰する……今度の澄元の上洛戦は、そのような戦いであったわけです。

細川澄元と結んだ赤松義村の事情……浦上村宗との対立の始まり

ここで、今度の澄元の上洛戦とその後の展開に大きな影響を与えることになる、赤松義村浦上村宗の対立を中心に、赤松家の動向を確認しておきます。

赤松家では、永正3年(1506)頃から前当主・赤松政則の未亡人である洞松院が当主の義村に代わり、守護の意を奉じて黒印状を発給する体制が継続していました。

義村の生年は確実な史料からは不明(系図や軍記類には文明4年、延徳2年、明応3年の記述あり)ですが、『御内書案』によると、永正3年(1506)3月14日付で将軍義澄から赤松伊豆守宛で出された御内書にはまだ「道祖」と幼名で記されているものの、永正5年(1508)2月23日付で将軍義澄が赤松重臣たちに宛てた御内書には、浦上村宗が「浦上幸松」と幼名で記されている一方で義村は「次郎」と記されており、この頃には成人していたものと思われます。

そして、永正9年(1512)に浦上村宗がまだ10代前半の若さで名代として上洛している(中編『将軍義尹が赤松氏を赦免して義澄の遺児亀王丸と和睦したことの意味、その陰で軋轢を深めていた大内義興』)のに対して、守護であるはずの義村はまだ洞松院から権限を委譲されていない状況だったことが窺えます。

かつて、明応5年(1496)に赤松政則が死去した際、5人の重臣たち(浦上則宗、別所則治、赤松則貞、小寺則職、薬師寺貴能)が道祖松丸(後の次郎義村)の守護就任を幕府に要請したのですが、義村を擁立しつつ政局を主導する浦上則宗に反発した一部の重臣たちが赤松播磨守勝範を担ぎ出し、更に別所則治が洞松院を支持したことで赤松家中は分裂し、「東西取合合戦」と呼ばれる播磨の内戦へと発展した経緯がありました。

(なお、永正9年(1512)に浦上村宗と共に上洛した別所則治は翌永正10年に死去しており、その子か孫と見られる後継者の村治は義村からの偏諱を授かっています。別所氏は次第に赤松氏から独立していったとされますが、この頃の動向は定かではないようです。)

洞松院による執政期、義村はたびたび置塩館に歌人冷泉為広を招いて親交を深めるなど、和歌三昧の生活を送っていたと言われていますが、永正12年(1515)頃には側近として三人の奉行を編成して式目を定めるなど、ようやく守護として活動するようになります。

やがて義村は浦上村宗を遠ざけ、村宗と同じ宿老格の小寺則職を重用するようになるのですが、永正15年(1518)7月には村宗の出仕を停止したばかりか、翌永正16年(1519)11月9日、義村は自ら軍を率いて置塩城から出陣し、村宗の本拠地である備前三石城下まで押し寄せ、これを包囲したのです。

背景には赤松家中における高国派と澄元派の対立があり、義村がこの時機に兵を動かしたのは、澄元方の上洛戦を支援するためだったようです。

この三石城攻略戦は、義村側近の奉行・櫛橋則高の計らいによって村宗が降参する形で和睦が結ばれ、義村は12月末に帰陣したのですが、翌永正17年(1520)の2月2日(越水城開城の前日になります)には播磨太山寺に澄元戦勝の祈祷を依頼しており、義村が引き続き澄元と提携していたことは間違いありません。

(なお、『実隆公記』には「浦上勝利」と記されているそうで、三石城の戦いは和睦に終わったとはいえ、義村が村宗の討伐という目的を果たせなかった点で赤松の敗北と見なされたのでしょう。そして、両者の対決は京都でも注目されていたことが窺えます。)

これまで将軍義稙は義村に対して、永正15年(1518)12月2日、永正16年(1519)5月23日、永正16年(1519)11月3日と三度に渡って御内書を送り、澄元に与する被官の成敗や高国との和睦を命じていたのですが、義村は将軍の意に逆らってまでも澄元に肩入れし続けたわけです。

義村がそこまで澄元を支持した理由は定かではありませんが、義村の姉は澄元の実兄に当たる讃州家当主・細川之持に嫁いでいたこともあり、家中にも讃州家との繋がりを持つ者が多かったのでしょうか。

あるいは義村としても、本来中継ぎであったはずの洞松院の執政が長期間に渡ったために、その影響力を家中から排除するには、京兆家の補佐を務めてきた野州家出身の高国よりも、讃州家出身の澄元が幕府中枢に復帰してくれた方が良いと考えたのかもしれません。

(洞松院は細川政元の姉妹、つまりあの細川勝元の娘であり、「船岡山合戦」で澄元方に与した赤松家が後に幕府から赦免されたのも、洞松院と高国のコネに依るところが大きかったようです。)

義村が浦上村宗を排除しようとした理由について、『赤松記』は「浦上掃部助村宗と上の御間、不思議の雑説出来」と、曖昧な記述に留めています。通説的には義村は守護として自立するために村宗からの「下剋上」に対抗したとされていますが、当時の状況を鑑みれば「下剋上」というよりも、澄元との提携を推進する義村にとって、村宗は放置できない存在であったためではないかと考えます。

この後、村宗は洞松院や義村の嫡子・才松丸(後の赤松晴政)だけでなく、前将軍義澄の遺児・亀王丸(後の将軍義晴)をも手中に収めて、高国派として最大の功績を上げることになりますが、前述の通りすでに上洛も経験していた村宗は、早くから高国と関係を持っていたのかもしれません。

細川高国が近江へと逃れた一方で、京都に残留した将軍・足利義稙の真意とは?

さて、永正16年(1519)11月から続いていた越水城の攻囲戦ですが、『細川両家記』によると、年が明けて間もない正月10日のこと、高国方は2万余騎で攻め寄せたものの戦況を覆すことはできず、やがて城方の気力が尽きたために開城する運びとなりました。

永正17年(1520)2月3日夜半、城主の河原林正頼は逃亡して落ち延び、老臣の若槻伊豆守長澄は一人城に残って堂々と十文字に切腹し、後世の語り草となりました。『重編応仁記』には伊豆守の辞世の歌として「花咲かぬ今の憂き身も古へも 身のなる果は変はらざりけり」が伝えられています。

(『細川両家記』が描く越水城の攻囲戦には、城方で剛弓を讃えられた一宮三郎の活躍など見どころが色々あります。細川両家記を読む が詳しいです。)

そして、引き続き『細川両家記』によると、後詰めの高国勢もやむなく池田・伊丹・久々知・長洲・尼崎へと陣を後退、これに応じて陣を進めた三好之長は2月16日に1万7千余で尼崎・長洲へと攻め寄せ、「大物北の横堤」にて香西与四郎と三好孫四郎が太刀打ちしてどちらも名を上げたが、日が暮れて雨も降ってきたので双方兵を引き、その後高国は各城に連絡して京都へ撤退したとあります。(高国の敗因は越水城の攻囲戦の際、正月10日の西宮戎神社の神事、忌籠りの日に戦闘を仕掛けた罰だと噂されたそうです。)

このような戦況の悪化に加えて、京都では正月12日に土一揆が蜂起、28日には将軍第の木屋に放火される事件も起きており、義稙は2月6日に佐々木中務少輔(京極高清)宛で「京都忩劇之條。不移時日令参洛。抽忠節者可為神妙候也。」との御内書を送り、江南の六角氏に続いて江北の京極氏に対しても、速やかに上洛して支援するよう依頼したようです。

また、義稙は高国に対しても2月8日に「越水城不慮之儀無心元候。雖然諸陣堅固之由可然候。勝利被待思食候。」と、越水城の開城後もまだ勝利を期待していると激励していたのですが、前述の通り高国は2月16日に摂津で敗れて陣を退いたばかりか、池田城伊丹城などの重要拠点も放棄し、総退却する結果となってしまったのです。

京都に戻った高国は「誘引申室町殿可落行云々、雖然室町殿無御招引」(『元長卿記』2月17日条)と将軍に共に落ち延びるよう求めたものの拒否されたらしく、将軍を三条御所に残したまま近江へと落ちて行きました。

『祐維記抄』には「十六日、酉刻、津國細川方陣破、細川方散々打死了、則細川右京大夫高国近江ヘ落行給云々、公方様ハ無殊儀京都ニ御座候也、六郎殿同三好ハ未津國在之」とあり、摂津で散々に敗れた高国は近江へと逃れたが、将軍義稙は京都に健在であること、澄元と三好之長はまだ摂津にいることが伝えられています。

幕府軍の主力たる高国勢の敗退によって追い詰められたはずの将軍義稙は、なぜ京都に残留したのでしょうか。

実は、義稙の元には澄元からの書状が届いていたようで、2月17日付で畠山式部少輔に宛てた以下のような内容が記されています。(『後法成寺関白記』2月20日条)

奉対上意連々無疎略之通、以赤松兵部令申候処、被達上聞由候条、至摂州令入国、爰元大略雖属本意候、公儀憚存不罷上候、此砌一途被仰出候者、毎事任上意可相働候、此事之次第急度御入魂憑入候、猶委曲荻野左衛門大夫可申候、恐々謹言、

澄元は以前から将軍の命令を疎かにはしないと赤松兵部少輔(義村)を通じて上申していたらしく、今度摂津を平定しても上洛しなかったのは将軍を憚ったためで、何事も将軍の命令に従うと申し出ていたというのです。

後世に編纂された軍記とはいえ『細川両家記』にも「今度公方様澄元一味にて京に御座候也」と、この動きを裏付ける記述があり、後に高国が京都を奪還して義稙は京都を出奔するという展開を知っていると尚更、義稙はすでに澄元に通じていたために、高国を見捨てて京都に残ったのだと考えてしまいそうです。

しかし、これまでの経緯と義稙の立場を考えると、この時点ではまだそのように断定はできません。

そもそも前年の末頃には六角氏に、またこのわずか10日程前にも京極氏に対して支援を要請したのは他ならぬ義稙自身でした。近江へ逃れた高国も2月22日に尼子某に対して「誠今度儀、不慮之題目、口惜候、仍至当国令下著候、此時別而中書江被加異見、入魂頼入存候」(片岡文書)と、今度の都落ちの無念を訴えるとともに、再び「中書」(佐々木中務少輔=京極高清)に協力を依頼しています。

少なくとも高国の方は、義稙の京都残留をもって自分が見捨てられたとは考えておらず、永正8年(1511)の「船岡山合戦」に至った澄元方の上洛戦の時と同様に、周辺勢力の助力を得て態勢を立て直し、再び京都奪還の機会を狙っていたのでしょう。

しかし、今回の状況が永正8年(1511)と大きく違うのは、対抗勢力の求心力の源泉であった前将軍義澄がすでに存命ではないことです。義澄の二人の遺児が赤松家と細川讃州家に庇護されていたものの、今は義稙が唯一の将軍であり、後継者として相応しい縁者もいなかったため、高国と澄元の京兆家家督を巡る争いがどう展開しようとも、血筋において義稙の立場が脅かされることはなかったのです。

(むしろ、すでに齢五十を越えていた義稙が正室すら迎えることなく、将軍家としての重責を一身に負っているというのは異例の事態で、彼は将軍家の分裂を忌避して意図的にそのような状況を保っていたと見るべきかもしれません。)

そして、高国を退けた澄元の方でも大きな問題が起きていました。

『祐維記抄』には翌3月16日の風聞として「河内高屋城落畢、御曹司、同遊佐、越智請取落シ被申訖、当國一圓ニ越智進止也、武家一向ニ不及入部者也、六郎殿ハ、去二月十六日夜尼崎舟沈テ他界云々、未諸人六郎殿ヲ見ル者一人モ無之云々」と記しており、高屋城が落城して御曹司=畠山稙長および遊佐氏から越智氏の手に渡り、大和国一円に越智氏の支配が及ぶこととなったが、武家は一向に入部に及んでいないこと、また(その理由としてでしょうか?)、六郎殿=澄元は先月の尼崎の戦いで死んだという噂があったことが分かります。

『細川両家記』が伝える2月16日の「大物北の横堤」での戦いには「その日は暮。雨もふりければ。両方互に引たり。」ともあり、澄元は悪天候の中で大物浦からの上陸戦を敢行し高国勢を撤退に追い込んだものの、実際のところ死んでいてもおかしくない事態に陥ったのかもしれません。

また『細川両家記』には「然に同二月廿七日に難波より三好筑前守之長。京へ上り給ひ。都にて威勢申計なし。」ともあり、三好之長が2月27日にはすでに難波を発って京都に入ったかのように記していますが、実際には三好之長は2月20日に大山崎に入ったもののすぐには上洛せず、ここで約1ヶ月滞在したようです。

そして同じく『細川両家記』によると、澄元は3月16日に伊丹城へ入ったようなのですが、そこから一向に動かず、3月27日に三好之長が2万に及ぶ軍勢を率いて洛中を行進した時にも姿を見せなかったため、京都の人々からこのような噂が広まっていたのです。(なお『祐維記抄』からは、澄元死去の噂は実に5月に至っても続いていたことが分かります。)

以前より澄元方と交渉していた将軍義稙が、そのような噂を知らなかった、気に掛けなかったとは思えません。

また、高屋城が落城する以前の2月29日、将軍義稙は高屋城を守り続けていた畠山次郎(稙長)に宛てて「高屋城事。于今堅固之由。尤神妙候。彌被官人等励戦功之様。可被加懇詞候也。」と、その防戦ぶりを賞賛する御内書を送っています。

この時、稙長は澄元に与する総州家とその与党・越智氏によって高屋城を攻められており、『祐維記抄』に「尾州無合力」「筒井順興モ陣立無之」とあるように、父の尾州入道(卜山)や以前より義材派=尾州派であった筒井氏からの支援も期待できない状況だったことが窺えます。

そんな苦境にあった畠山稙長を励ましている義稙が、実はそれ以前より澄元を受け入れていたというのでしょうか。だとすると、このような対応はあまりにも場当たり的で不審に感じられます。

その一方で義稙は3月3日、赤松兵部少輔(義村)に宛てて「就今度京都無事之儀。太刀一腰。西長。馬一疋鹿毛。到来。悦喜候也。」と、「京都無事」を祝って太刀や馬が贈られたことへの返礼を送っています。

前述したように、将軍義稙は赤松義村が家中に澄元派を抱えていた事情を知りながら、再三に渡り、澄元と手を切って高国と和解するよう促していたのですが、義村は再び今度の澄元方の上洛戦を支援したばかりか、恭順の意志を示す澄元を受け入れるよう義稙に申し出たのでしょう。そんな赤松義村に対するこの義稙の態度も、すなわち澄元を受け入れたことの表明にも思えます。

義稙はこのわずか数日前に、高屋城で澄元方への抗戦を続ける畠山稙長を激励したばかりで、まだ落城もしていないはず。これは一体どういうことなのでしょうか。

これまで見た状況を義稙の立場で考えてみると、近江へと逃れた高国には同行しなかったものの、畠山尾州家など従来からの支持勢力との関係は維持しようと努め、その一方で生死定かならぬ澄元方との交渉も続けつつ、情勢の把握に努めていたというのが実際のところではないでしょうか。もちろん、高国が援軍を得て戻ってくる可能性も想定しつつ、です。

幕府の主導権は京兆家が掌握しており、将軍はその傀儡に過ぎなかった……そのように捉えるならば、義稙の態度は理解できないかもしれません。

しかし、京兆家家督を巡る高国と澄元の争いに左右されることなく、自らが築いた三条御所に泰然として留まり続けることこそが、将軍として示すべき天下静謐への道だと考えていたのだとすると、あながち一貫性のない姿勢とも言えないでしょう。

細川澄元と三好之長の主従が死去し、細川高国が京都に復帰したこと

永正17年(1520)2月17日に京都を脱出して以後、大津の園城寺に滞在していたという細川高国は、各所に軍勢催促を行った結果、両佐々木氏(六角、京極)の支援を取り付けます。

諸史料に3万、4万、あるいは7万とも伝えられる大軍(この数字には高国麾下の兵と両佐々木氏からの援軍のほか、近江の朽木氏、越前の朝倉氏、美濃の土岐氏など周辺他国の兵が含まれるようです)を坂本に集結させた高国方は、5月2日から3日にかけて如意ヶ嶽など東山方面に進出、京都を制圧していた三好之長ら澄元勢を威圧しました。

『祐維記抄』には5月1日の記録として「去十六日ニ細川高国江州守山ノ八日市迄出頭」とあり、おそらく4月16日には八日市まで赴いて近江勢と合流した後、越前や美濃の諸勢も加えて坂本で陣容を整え、内藤貞正ら丹波勢とも示し合わせて反撃を開始したのでしょう。

高国方の大軍勢の様子は京都にいた公卿の日記に記されていますが、とりわけ『後法成寺関白記』5月3日条の「東西南北燧無是非、即諸軍勢如意寺峯以下所々陣取、驚目者也、及晩有時声、」という記述がよく伝わってきます。

一方、入京時には足軽を含めて2万人と伝えられた三好勢は、大軍による篝火と鬨の声に圧倒されたのか多くの脱落者を出したようで、この時点で4千、あるいは5千程にまで減っていたと伝えられています。

三好之長は5月1日、主君の澄元が京兆家家督を認められたことへの御礼のため、将軍義稙の元に出仕して礼物を贈ったばかりでしたが、そのわずか2日後にはこのような窮地に立たされることとなったのです。

『拾芥記』には「三好衆三条等持院并膏薬道場陣取之、奉頼三条之御所」とあり、之長は将軍義稙の支援を期待して三条御所に近い等持院と膏薬道場に陣取ったようですが、義稙はなぜか加勢しようとはしませんでした。

そればかりか、澄元麾下で名のある武将たちの中にも高国方へと降参する者が続出したらしく、『応仁後記』には「同四日、希雲カ一味ニ頼切タル香川安富久米川村等九頭ノ者共、敵方ヘ降参シテ弥々無勢ニナリニケリ」とあり、香川氏・安富氏・久米氏・川村氏といった名前が挙げられています。

このような状況で始まった合戦は『後法成寺関白記』には「諸陣川原江寄陣於云々、時声無是非、今日者足軽計合戦云々」(5月4日条)、また「諸陣猶東川原口江寄陣於、時声驚耳目也、今日モ川原ニテ足軽相戦云々、酉剋許諸陣所ノクト云々」(5月5日条)とあり、東山から陣を寄せた高国勢の鬨の声が聞かれるとともに、川原で足軽同士が戦う様子が見られたようですが、5月5日の夕暮れ時にはいずれも陣を退き、『実隆公記』によると「高国陣取、及昏引退、入夜三吉逐電云々」と、その夜には三好之長が行方をくらましたようです。

『祐維記抄』5月6日条は「細川高国七万騎余有之云々、吉田ニ高国ハ被取陣、諸勢ハ京中ヘ入、爰三好ガシウト界敷ハ打死ニト云々、其外高国ヘ裏帰面々十人余有之云々」と、之長を見限って高国に付いた者が十人以上いたことを報じるとともに、「六郎殿ハ未被見之、去二月十六日ニ海沈給事一定々々」と、やはり澄元が2月16日の尼崎における戦いで溺死したという噂を記しています。

以前に細川成之が高国への書状で反省したように(前編『「明応の政変」による讃州家の立場の変化と、一門の長老・細川成之の憂い』)、政元の頃から三好之長の増長を快く思わない者が多かった上に、澄元死去の噂まで流れたことで、諸将の離反に拍車が掛かったのでしょう。

『応仁後記』に挙げられているうち香川氏、安富氏などは讃岐守護代かつ京兆家譜代内衆でもある一族なので、離反するのも分からなくはありませんが、久米氏などは阿波の有力な国人であり讃州家の被官と思われます。いずれにせよ、彼らの多くは三好之長の部下ではなく、まして澄元が死去したとあれば、窮地の之長に従う義理などないという道理でしょうか。

三好之長は2人の子息(芥川二郎、三好孫四郎)や甥(三好新五郎)とともに、三条東洞院にある通玄寺塔頭・曇華院(将軍家ゆかりの尼寺で、義稙の妹である祝渓聖寿が入寺していました)に匿われていましたが、5月8日にはその噂が知られ、9日には高国に露顕して包囲されました。

祝渓聖寿は三好父子の引き渡しを拒み続けたものの、之長もついに腹をくくったものか、10日に子息両人を投降させた後、11日には自ら寺を出て、百万遍の講堂(知恩寺)にて甥の介錯により切腹するという結末を迎えたのです。(『祐維記抄』5月12日条によると、三好新五郎は之長の首を落とした後「我こそ三好が内者よ、自害これ見よ」と大音声で呼ばわり、立ったまま切腹するという勇ましい最期を見せて語り草となったようです。)

『細川両家記』には、高国は詫びを入れて降参してきた三好之長父子に対して赦免を約束したものの、之長を父(淡路守護・細川淡路守尚春)の仇と恨む細川彦四郎の訴えにより、奇しくも前年に尚春が之長によって殺害されたのと同日の5月11日に甥の新四郎ともども切腹させられ、子息の次郎・孫四郎兄弟もまた細川彦四郎から高国へ申し入れたため、翌12日に国元への手紙を書き残してそれぞれ切腹したとあり、不思議な因果を感じさせられます。(『続応仁後記』では「于時五月十一日、父子三人同日ニ滅亡ス」と更に劇的な内容に変わっていますが……甥の新五郎はどこへ……?)


余談: 今谷明先生は『戦国 三好一族』の中で、奉公衆として側に仕えていた細川彦四郎からの訴えを受けて、将軍義稙が之長と子息らの処分を決めたかのように書かれていますが、元ネタと思われる『細川両家記』には「同子息次郎孫四郎事も彦四郎殿より高国へ色々申されける。降参人いかゞと思召けれ共。さあらば生害させられよと御返事有ければ。」とあるように、高国の判断で切腹させたように読めます。

もしかすると、写本による違いや一次史料の内容と整合させた結果なのかもしれませんが、これまでの経緯を踏まえると、之長の処刑を決めたのが義稙か高国かでは大きく印象が異なりますので、ここに指摘しておきます。


このように悲劇的な最期を迎えた三好之長に対して、半井保房は『聾盲記』で「合戦ニハ三好ト申大強ノ物ナレ共、天罰ニテ如此」と辛辣な評価を下すとともに、之長を項羽に、高国を劉邦に喩えつつ「今三好ハ大悪ノ大出ナル者也、皆人々無不悦喜也」などと記しており、都の人々から忌み嫌われた三好一族の悪評ぶりが窺えます。

京都における澄元方の敗退は河内や大和での戦況にも影響したようで、『祐維記抄』によると、三好之長が逐電した翌日の5月6日には畠山総州(義英)が河内から没落し、9日には越智氏の調法により吉野まで逃れ、10日には入れ替わるように畠山尾州御曹司(稙長)とその被官の遊佐氏が河内に復帰、大和では筒井氏の軍勢によって古市氏の「山ノ城」が攻め落とされました。

そして、摂津では澄元与党が悉く退散して高国方が復帰し、畿内の治安が回復して寺社本所領も相違ないことが報じられ、大和・河内においても遊佐氏の仲介によって筒井氏と越智氏の和睦が進められたのです。

伊丹城に留まっていたという細川澄元も之長の敗報を聞いて阿波へと撤退しましたが、2月に尼崎で溺死した噂されていた澄元は、実際に容態が悪かったのでしょう。之長の死からわずか1ヶ月後となる永正17年6月10日に、32歳の若さで死去しました。

さて、細川澄元の代理として上洛した三好之長を受け入れ、「上意之趣與三好無二之御同心也云々」(『二水記』5月3日条)などと噂されていたにもかかわらず、結果的にこれを見捨て、細川高国の帰京を迎えるに至った将軍義稙は、どうなったのでしょうか。

京都に復帰した高国は5月12日には早速、将軍に対面していましたが(『実隆公記』5月12日条)、特に咎め立てたりすることはなかったようです。

前述したように、高国が京都を捨てて近江に落ちたのは両佐々木氏への援軍要請という当初の予定通りの行動であって、将軍もそれを承知で京都に残ったのであれば、帰還した高国が何事もなかったかのように面会していることも、おかしな話ではないのかもしれません。

ただ、もしそうであったとしても、将軍が一旦は澄元の京兆家家督を認めたことは事実でした。

また、義稙が三好之長を受け入れた際、公卿の中に高国への同情の声があったことは確かで、祝渓聖寿が之長父子の引き渡しを拒んだのも、掌を返すかのような兄の態度には承服できなかったためとも考えられます。

背信行為とも見られた義稙の行動を高国がどのように捉えていたのかは定かではありませんが、『祐維記抄』5月8日条は「公方様并式部少輔無殊儀者也」と、将軍が側近の畠山式部少輔ともども無事であったことと合わせて、「勢州ヨリ公方様ヘ不可有御仰天旨被申云々」と、伊勢守(伊勢貞陸)が「不可有御仰天」つまり動揺しないよう将軍に言い含めたことを伝えています。

伊勢貞陸は前将軍義澄の頃から細川高国と親しかったらしく、永正5年に高国が義澄を見限って義尹方に身を投じた時には、貞陸の口添えがあったのではないかと推測されています。(山田康弘『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』)

そのような経緯があったからこそ、貞陸は今度も自分が仲介して高国に釈明することで、将軍義稙の背信とも言える行為は不問のまま落ち着くだろうと判断したのかもしれません。

あるいは、摂津で敗北した高国が一旦京都に戻った際、伊勢貞陸と高国が相諮った上での窮余の一策として、御所に留まって一旦は澄元を受け入れるよう義稙に促した可能性も考えられなくはありません。

結果的には、義稙がこの後1年も経たず京都を出奔し、高国打倒のため旧澄元派に支援を要請した一方、伊勢貞陸は高国の元に残ることになるので、彼の意図は不明と言うほか無いのですが……。

なお、『祐維記抄』には「次六郎殿ハ、去二月十六日海ヘ沈給フ、主従共以終畢」と、この段階においてもまだ澄元がすでに尼崎の戦いで溺死していたと信じられており、之長の最期をもって主従がともに滅びたこと、そして「次三好跡ヲバ、今度ウラガヘリノ面々ニ被下ト云々」と、高国によって三好氏の領地(畿内における領地でしょうか?)が寝返った者たちに下されたことなどが伝えられています。

浦上村宗と戦い続けた赤松義村を支えたものは何だったのか

一時は京都制圧に至った澄元方も今や畿内から悉く撤退してしまい、まさに永正8年の船岡山合戦の際と同様の結果に終わったわけですが、今度もまた澄元に与した赤松義村はどうなったのでしょうか。

前述した通り、宿老の浦上村宗と対立した赤松義村は永正16年(1519)末にはいったん和睦した後、翌永正17年(1520)2月末頃には将軍義稙に対して京都の無事を祝して太刀や馬を贈ったのですが、同年3月に今度は赤松家被官であった美作守護代・中村則久が義村を裏切って浦上氏に味方したことから、赤松義村浦上村宗の戦いが再燃することになりました。

永正17年(1520)4月、討伐軍を起こした赤松義村は白旗城まで出陣し、4月20日には小寺則職を大将とする軍勢を美作に差し向けましたが、対する中村則久は要害である岩屋城に篭もって頑強に抵抗しました。

義村方による岩屋城の攻囲は二百余日に及ぶ長期戦となりましたが、その間に畿内では三好之長の敗死によって細川澄元が阿波へ退去し間もなく死没、細川高国が再び京都に復帰するという大きな戦況の変化がありました。

(なお『二水記』8月4日条からは「又近日右京大夫可遣勢於播磨国云々」と、細川高国が播磨に軍勢を派遣する計画があったことが窺え、その後の展開も考えると、これは重要な情報だと感じます。この動きに将軍義稙の思惑が絡んでいるのかどうかは分かりませんが……。)

義村が肩入れしていた澄元の敗退という時勢も影響したのでしょうか、義村方は7月8日の飯岡原の合戦に敗北し、10月3日には村宗および松田元陸の援軍が岩屋城の攻囲軍を後巻したことで形勢は逆転し、6日に義村方は数百名が討死、大将の小寺則職が自刃する程の大敗を喫してしまいました。

そして、勢い付いた村宗方は室津まで攻め上ってこれを制圧し、追い詰められた義村は永正17年(1520)11月、義母の洞松院と正室の瑞松院(まつ)、嫡子・才松丸(後の赤松政村、晴政)を守護所である置塩館から室津に移すとともに、「性因」と号して出家することとなったのです。

『赤松記』には洞松院と瑞松院は以前から村宗と同心していたともあり、それが事実だとすれば、洞松院たちは義村の敗北によってやむなく村宗の人質となったのではなく、むしろ義村を見捨てて隠居に追い込んだ側であったことになります。

併せて注目したいのは、赤松義村浦上村宗の対立では、浦上氏の一族も決して一枚岩ではなかったことです。

浦上村宗は当初、浦上氏でも有名な則宗(則宗は村宗の大伯父に当たると伝えられています)と同じく赤松家当主の側で宿老として活動していたため、守護所である置塩館に出仕していたようで、浦上氏が実効支配を及ぼし国人を被官化していたという備前国内の統治については、守護代として村宗の弟に当たる浦上宗久が担当していました。

赤松家において浦上氏は宿老としての立場と備前国守護代としての立場の両方を任されており、当初はこれを村宗・宗久兄弟が分担していたわけですが、前述した永正16年(1519)11月の三石城攻囲戦の際、香登城主であった弟の宗久は義村に味方したようで、『宇喜多能家画像賛』には、宗久の元にいた宇喜多能家が香登城を脱出し、村宗に味方する備前西部の国人・松田元陸の援軍を募って、三石城の救援に貢献したと伝えられています。(落ち穂ひろい より 浦上宗久

また、浦上氏の庶流と見られる有力者、浦上村国も義村に味方した一人です。

浦上村国は大永元年9月に義村が村宗によって暗殺された後も、小寺則職の後継者・村職とともに淡路に逃れ、反村宗派として活動を続けていくことになりますが、村国はかつて幼少の二郎(義村)を擁立する浦上則宗に対抗して、赤松(大河内)播磨守勝範を奉じたと伝えられているので、赤松家への忠義というよりも、元々浦上惣領家に反抗的な立場であったのかもしれません。(「嘉吉の乱」における赤松満政しかり、赤松惣領家に対する大河内家はまさにそのような立場でした。)

いずれにせよ、浦上氏が起こした「下剋上」に義村が抵抗を試みて敗れたという見方は妥当ではなく、おそらくは、畿内における澄元方の一斉敗退と澄元の死去に続き、村宗と並ぶ宿老で義村にとっては強力な味方であった小寺則職の敗死によって、赤松家における澄元派と高国派の力関係が逆転したため、洞松院は澄元派の旗頭であった義村を隠居させ、才松丸への代替わりによって家中の抗争を終わらせようと図ったのではないでしょうか。

このような経緯があり、義村(改め性因)はもはや表舞台に立つことは困難に思われましたが、決して諦めることはありませんでした。『赤松記』によると隠居の翌月の12月26日、赤松家で庇護されていた前将軍義澄の遺児・亀王丸を連れて密かに置塩館を抜け出し、明石の端谷(櫨谷)にある衣笠五郎左衛門(赤松家の年寄衆の一人)の館に入って再起を図ったのです。

義村は翌18年(1521)1月末には御着城に着陣、龍野赤松氏の赤松下野守村秀と、その下で郡代を務めていた御一家衆の広岡村宣を先陣として、広岡氏の居城・太田城まで軍を進めました。

しかし、村宗も備前三石城から室津へと進軍し、いよいよ両軍が対決となったところで、広岡村宣の裏切りによって先陣が混乱に陥ったため、義村はまたしても村宗討伐を断念せざるを得ず、2月11日の夜には亀王丸を連れて御着を脱出し、東条の玉泉寺へと逃れる結果に終わってしまいました。

義村は今度の敗戦にもなお諦めなかったらしく、義村が残した書状や禁制を見ると、永正18年(1521)1月12日時点では隠居号の「性因」と署名していたものが、2月18日、3月19日時点では「兵部少輔」と署名しており、隠居を撤回して当主復帰の意志を示していることが窺えます。

─── ここからは、これまで以上に妄想全開で仮説を展開していきますので、鵜呑みにしないようご注意ください。 ───

さて、ここまで播磨における赤松義村浦上村宗の対立を見てきましたが、三度の敗戦を経て、養母や妻に見捨てられて嫡子も人質に取られるという危機に陥りながらも、なぜ義村はここまで執拗に戦い続けたのでしょうか。

これについては、義村には前将軍義澄の遺児・亀王丸という最後の切り札があったからだと説明されることがありますが、よく考えるとその理屈には納得できないものがあります。

後世の我々は、将軍義稙の最後の出奔と帰洛計画の失敗によって亀王丸に将軍への道が開くことを知っていればこそ、特に疑問を抱くことなくそのような解釈を受け入れてしまいがちですが、義稙が生前に後継者を定めた確かな形跡はないようです。

そして、義村が亀王丸を連れて置塩館を脱出した永正17年末頃、将軍義稙はまだ細川高国と共に京都にいたわけですから、亀王丸の立場はこれまでと何ら変わらなかったはずです。

そこで考えたのは、この頃には将軍義稙と細川高国の信頼関係はすでに破綻しており、義稙は密かに旧澄元派との提携を進めていたのではないかということです。

前述したように、将軍義稙は義村に対して再三に渡り澄元と手を切って高国と和睦するよう命じましたが、義村はおそらく永正16年末頃には逆に義稙に対して澄元を受け入れるよう働きかけ、義稙の方も永正17年2月の高国敗退によって澄元を支持せざるを得なくなったという経緯がありました。

その前提によって赤松義村を「澄元派」とみなし、義村から討伐対象とされた浦上村宗および義村を見捨てた洞松院の両者を「高国派」と仮定して説明してきたのですが、もし将軍義稙と高国の関係が破綻していたとすれば、亀王丸は高国にとっても次期将軍候補として重要な存在になっていたはずです。

だからこそ、赤松義村は次期政権において再び守護として返り咲くために、隠居を撤回して「兵部少輔」に名乗りを戻すとともに、将軍義稙の後継者として亀王丸を擁立した、というわけです。

すなわち、将軍義稙が幕政から高国を排除するために再び旧澄元派との提携を選んだことによって、赤松家における対立は洞松院と浦上村宗の「高国派」に対して、赤松義村は旧澄元派も含めて反高国で連合する「義稙派」という構図に変化するとともに、次期将軍候補である亀王丸の争奪戦が始まったのです。

突拍子もない妄想と思われるかもしれませんが、この仮説を補強する材料は他にもいくつかありますので、次項では将軍義稙が出奔に至った経緯とその後の展開を見ていきます。

将軍・足利義稙が旧澄元派を頼って細川高国を討つために京都を脱出したこと

永正17年(1520)5月に畿内から敗退した澄元に代わって高国が再び京兆家家督への復帰を果たし、政所頭人・伊勢貞陸の説得もあってか、将軍義稙と高国の関係も元の鞘に収まったかに見えました。

実際、8月22日に高国の主催によって将軍御所にて催された猿楽興行では、義稙は大いに満足した様子であったと伝えられており、両者の関係が良好であったことが窺えます。

この頃には周防在国中の大内義興からも「当年之祝儀」として「太刀一腰(國吉)、鵞眼(銭)二千疋」が贈られてきたようで、8月30日付で返礼として太刀一振を贈ったとの御内書が残されており、かつて義稙の政権を支えた後に帰国した大名たちからも、幕府は元通りに治まったと受け止められていたようです。

また、9月14日には将軍御所において今度は伊勢貞陸の主催で猿楽興行が催されており、この際には細川高国のみならず嫡子の稙国や典厩家当主の尹賢も将軍に伺候し、その翌日にも再び貞陸邸で囃物が行われて、大勢の見物衆が集まって死者を出すほどの盛り上がりを見せたらしく、高国も「大飲」つまり大いに楽しんだ様子であったとのことです。

史料からは将軍義稙と高国が対立に至るような具体的な問題は見えてきませんが、10月に入ると、旧澄元派からの離反工作があったことを臭わせる事件が起きています。

10月14日、これまで高国の麾下で働きを重ねてきた西摂随一の国人で、越水城主を務めていた河原林対馬守正頼(入道宗芸)が、「与敵通達之儀依露顕也」すなわち旧澄元派への内通を理由として、高国の命によって切腹させられたのです。

高国と正頼の両者と親交があった三条西実隆はその死に際し、歌集『再昌草』に「十月十五日河原林対馬入道宗芸生涯の事きゝて」として「洛中にことしハ種々の大はやし 河原はやしそ興ハさめけり」との歌を詠んでいます。高国の判断を暗に批判したものでしょうか。

後の大永3年(1523)正月、正頼とも親交のあった旧芥川城主・能勢因幡守頼則の追善のために実隆が主催した千句連歌には、正頼の後継者らしき「河原林対馬守」が列席、その翌4年3月には高国とともに実隆と会飲しており、更に大永6年に波多野元清と柳本賢治の兄弟が晴元方に通じて謀叛した時には、河原林対馬守が八上城の討伐軍を率いていることから、事実この時の正頼への疑いは濡れ衣であり、高国も反省してその後継者を重用したのでしょう。

しかし、正頼の一族には以前から澄元派であった者もあり(この人物については後述します)、旧澄元派としても調略しやすい立場ではありました。2月の越水城開城の経緯も合わせて考えると、疑いの目を向けられるのもやむを得なかったかもしれません。

ただ澄元の嫡子・聡明丸(後の六郎晴元)は幼く、強力な戦力であった三好一族も多くが敗死して、まだ立ち直るには早いこの時期に動く必然性は無いようにも感じますが……もし、将軍義稙の側からのアプローチがあったとするならば、話は別です。

この頃の高国は疑心暗鬼に陥っていたとか、あるいはこの事件を高国の専横化の動きと評価されることもありますが、いずれにせよ、すでに将軍義稙との仲がこじれ始めていて、実際に義稙方からの働きかけを受けた旧澄元派による調略があったとすれば、高国が判断を誤ってしまうこともあり得るのではないでしょうか。

(なお『東寺過去帳』によると、この時には河原林正頼だけではなく、利倉民部丞、中尾、稲荷出羽守、石井美作入道、その子中将が高国によって処刑されたそうです。「利倉民部丞」は山城国上久世庄の国人、「稲荷出羽守」は稲荷社の祠官・羽倉出羽守でしょうか?彼ら全てが内通を疑われたのかは分かりませんが……。)

それから5ヶ月間、将軍義稙と高国の関係が悪化した過程は明確ではありませんが、義稙は翌永正18年(1521)3月7日の夜、畠山式部少輔順光をはじめとする側近と、一部の奉行人を連れて密かに京都を出奔しました。(『二条寺主家記抜粋』では畠山順光の他に、西郡杉原四郎、下津屋修理、畠山七郎の名が見えるほか、奉行人では斎藤基躬、斎藤基雄、斎藤時基、飯尾之秀らが義稙を追って京都を離れたようです。参考:室町幕府奉行人一覧

将軍義稙は以前、永正10年(1513)にも同じように京都を出奔する事件を起こしていましたが(中編『都を仰天させた将軍義尹の甲賀出奔と、帰洛の様子に見る幕閣の構成』)、今回はもその時と同様に御内書を残して出奔しており、その中で「世上之儀、万不応成敗候之間、令退屈、ふと思たち候」と、何事も執政が思い通りに運ばれないので嫌気が差し、思い立って出奔したと述べています。

『二水記』3月8日条には「定当時不随御成敗事等多端、此儀御退屈之故歟、又式部少輔無遠慮之所為歟、言語道断之次第也」と、執政が思い通りにならない不満のほか、畠山順光の思慮の無い振る舞いが理由に挙げられています。

これについては『二水記』4月8日条に「此次下京式部少輔家見之、内作之様美麗驚目了、但戸障子大略破取跡有之」と、順光の邸宅跡の内装が驚くほど美麗であったが戸障子はほとんど破り取られていたともあり、畠山順光は成り上がり者の寵臣と蔑まれていたものか、あまり都の公卿たちからは快く思われていなかったことが察せられます。

なお、軍記『足利季世記』では、義稙が畠山順光を贔屓するあまりに管領を与えたいと考えたため、高国との仲がこじれたという筋書きになっています。管領云々はあり得ない作り話だとしても、順光への寵愛はそれだけ多くの者が不相応に感じ、疎ましく思われてもいたということでしょう。

また、『壬生于恒記』3月8日条には「将軍御所存併悪思食右京兆故云々」と、将軍の出奔は高国への不満によるものと見られていたらしく、どうも永正10年の出奔時と同じように受け止められていた節も感じられます。

しかし、出奔後の動向を見ると、時機的には突然のことであったにせよ、今回は義稙自身が書き残したような衝動的な理由によるものではなく、最初から帰洛を前提として外部の協力者を頼っていることから、以前から進めていた計画に沿った行動の可能性が高いと考えます。

『二条寺主家記抜粋』には3月7日の出来事として「淡路ニアタ木ト云海賊ヲ御頼アリテ御座云々」と、義稙は堺を経て淡路へと逃れるにあたり、安宅水軍を頼ったと記されています。安宅氏は淡路島の海上交通の要衝であった由良を本拠地とする海賊で、永正15年に三好之長が細川淡路守尚春を討って以来、三好一族の勢力下にありました。

そして義稙は3月25日に瓦林日向守在時(国時とも)に宛てて、「就御帰洛之儀、別而致忠節者、可為神妙候也」(末吉文書)と、早くも帰洛への協力を命じる御内書を送っているのです。

この瓦林日向守は前述の河原林対馬守正頼の同族に当たりますが、正頼とは異なり永正8年の上洛戦から一貫して澄元に従ってきた一派で、この頃には澄元の嫡子・聡明丸(後の細川晴元。以下、便宜上「晴元」とします)の側近で奉行人を務めていたようです。

つまり、義稙は澄元の敗退後も交渉経路を閉ざすことなく、意地悪な言い方をすれば、以前から澄元(晴元)と高国を両天秤にかけた状態を継続していたことになります。

(後の展開も考えると、先の澄元上洛戦から引き続き、側近の畠山順光が澄元派との交渉に携わっていたのではないでしょうか。だとすると、『足利季世記』が高国と義稙の対立要因として順光の名を挙げているのも、あながち的外れではないのかもしれません。)

そして、同じく晴元を補佐していた細川澄賢(船岡山合戦で討死した典厩家の細川政賢の嫡子)は、4月3日付で大和国人の藤林勘解由左衛門尉に宛てて、以下のような軍勢催促状を出しています。

公方様至淡州被移御座、既来十六日被挙御旗、聡明殿被召具、御入洛上者、此砌可被抽忠節事専一候、於望之儀者、可申達候、恐々謹言

漆原徹『緒方家の中世文書』より)

すなわち、出奔の翌月には早くも淡路へ移っていた義稙が「御旗」を挙げ、「聡明殿」晴元を供に引き連れて上洛する計画が立てられていたことが分かります。御旗を掲げるとはすなわち敵対者たる細川高国を幕敵とすることであり、晴元上洛の目的も当然、高国に代わって京兆家の当主となり、将軍義稙を補佐することでしょう。

藤林氏は永正8年(1511)4月27日にも上洛戦に先駆けて澄元からの軍勢催促を受けているほか、天文年間にも晴元から藤林勘解由に宛てた「今度馳加味方之由註進到来、尤以神妙之至候」との書状を受けており、一貫して澄元・晴元党であったようです。今回も晴元上洛に際して、藤林氏をはじめとする畿内の旧澄元派に号令が掛けられたものでしょう。

そして、義稙の協力者は旧澄元派だけではなく、「明応の政変」以降長年に渡って義稙を支え続けてきた畠山卜山(尚順)も加わっていました。

卜山は前年8月に領国紀伊で内衆に謀叛を起こされ、この頃にはわずかな人数で堺へ落ち延びるという危機の最中にあったのですが、『祐維記抄』には「堺迄御出アリテ、尾州ト御同心アル歟之由風聞之、淡路嶋ヘ御出ト云々」とあり、淡路へと向かった義稙がまず堺へ赴いたのも、卜山を頼ったためと見られていたことが窺えます。

(なお『祐維記抄』は卜山が紀伊を追われた件について、「尾州近年当国ヲ林堂并熊野衆以下ニ被出之、及度度寺社領押領」と、卜山が側近に登用した大和出身の国人・林堂山樹と熊野衆による興福寺・春日社領の押領を許したことを理由に「大明神御罰」と記しており、興福寺としては卜山が領国統治に失敗したのも自業自得と捉えていたようです。)

また『二条寺主家記抜粋』3月7日条には「尾州総州被迎合可有御入洛御用意云々」ともあり、これまで仇敵の関係にあった畠山卜山と畠山義英が義稙の帰洛支援のために和睦したとの噂も伝えられていたようです。

そして、5月3日に義稙の奉行人から旧澄元派の甲賀武士・佐治氏に宛てた軍勢催促状では「就高国退治、至淡州被移御座、近日御帰洛上者」(佐治文書)と、明確に高国の討伐を謳っており、これには畠山卜山が添状を認めています。

『祐維記抄』によると、卜山は5月には梶原氏と共に紀伊に帰国して広城へ入ったものの、戦いに敗れて再び淡路へと逃れたようで、以後は義稙の帰洛支援のため行動を共にすることになりました。

(なお、河内には卜山の嫡子・稙長が健在でしたが、父が義稙帰洛のために畠山義英と和睦したのに対して、稙長はその半年後には高国からの要請を受けて畠山義英と戦っており、結果的に父子は袂を分かつこととなります。)

その一方で、永正17年5月の高国復帰以来、将軍義稙と高国の間を取り持っていたはずの政所頭人・伊勢貞陸は、嫡子の貞忠とともに京都に残留したことから、義稙は高国との対立によって幕臣を十分に掌握できない事態に陥っていたとして、「義稙は高国との幕政の主導権をめぐる権力闘争に敗れた結果、出奔せざるを得なくなった」とする指摘があります。(浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』)

高国が義稙を追い詰めたと断じるには証拠不足と感じますが、ともあれ、将軍義稙は再び上洛して高国を討つ計画のもと、晴元をはじめとする旧澄元派および畠山卜山ら外部勢力を頼みとして、いわば一時避難のために、信頼できる少数の側近だけを連れて京都を脱出したと見るのが妥当ではないでしょうか。

亀王丸が次期将軍「義晴」として擁立されてなお諦めなかった赤松義村の最期(妄想注意)

ここまで、将軍義稙の出奔後の動きを見てきた中で、旧澄元派を「義稙派」と捉えるべきことには納得していただけると思いますが、これに前項で説明した亀王丸と赤松義村の動向が関わっていたのかというと……残念ながら、具体的な証拠を挙げることは困難です。

しかし、赤松義村が永正16年頃から畠山順光を取次として将軍義稙と細川澄元を結びつける役割を果たしてきたこと、義稙出奔のわずか1ヶ月前に亀王丸を連れて玉泉寺に避難しつつ、その後「兵部少輔」と名乗りを戻していることを考えると、やはり仮説として前述した通り、この時期にはすでに「義稙派」として動いていたと見る方が辻褄が合うのではないでしょうか。

そして、出奔翌月の4月にはすでに将軍義稙が細川晴元の供奉によって帰洛する計画が動いており、5月には明確に高国討伐を謳って支援を募っていたわけですが……『赤松記』によると、なぜか赤松義村はこれまで戦い続けてきた浦上村宗の申し出を信用して和睦し、4月2日には亀王丸の御供として英賀の遊清院に出た後、片島の長福寺へと移ったのです。

『伊勢貞助記』によると4月18日には高国が「若公様於御入洛」の件について協議するために、若狭守護・武田伊豆守に上洛を促しており、おそらく村宗は高国からの依頼を受けて動いたのでしょう。(伊勢家庶流と思われる貞助が承知していることから、「伊勢守」貞陸父子が関わっていた可能性も高いと考えられます。)村宗との間にどのようなやり取りがあったのかは定かではありませんが、義村はあろうことか切り札であったはずの亀王丸を引き渡してしまったのです。

その結果、7月6日には村宗の手引によって亀王丸が播磨から上洛、将軍義稙から名指しで討伐対象とされるに至っていた高国は、義稙に代わって亀王丸を擁立しました。上洛にあたって、細川右馬頭尹賢や丹波守護代・内藤備前守貞正が京都から出迎えに行ったとも伝えられています。

亀王丸入洛の様子は当時の様々な日記に記されていますが、それらの内容からは、亀王丸が近江で死去した前将軍・義澄の子息であり10歳ないし11歳とまだ少年であること、幼少期から赤松兵部少輔(義村)が養育していたこと、仮御所として岩栖院(細川満元ゆかりの寺院であり、京兆家の管理下にあったのでしょう)に入ったことなどが、広く伝わっていたことが窺えます。(『二水記』『菅別記』『拾芥記』『経尋記』など)

その様子を見物した鷲尾隆康は『二水記』7月6日条に「御輿被上簾了、御容顔美麗成」そして「不慮之御運誠以奇特也」と感想を記しており、都の人々からは好意的に受け取られていたようですが、その一方で『祐維記抄』7月条には「次アワチの公方様モ御出陣アルヘキ由其聞在之」と、淡路へ出奔中の将軍義稙が出陣してくるとの噂もあり、このままでは済まないとの不安も広がっていたようです。

─── ここから再び、妄想全開で仮説を展開していきますので、鵜呑みにしないようご注意ください。 ───

そして、亀王丸の上洛から10日後、長年亀王丸に付き従っていた側近たち数名が切腹するという不審な事件が起きました。

『二水記』7月16日条には「今度奉附若公衆五六人、於相国寺切腹云々、造意事依露顕如此云々」とあり、何らかの企てが明らかとなったためと公表されていたようですが、鷲尾隆康は「数年令奉公、此砌生涯之条、不便之次第也」と、彼らが数年来奉公してようやく念願の帰洛が叶ったこの時に命を奪われたことに対して、同情を寄せています。

義村がこの期に及んで我が身を惜しんで亀王丸を引き渡したとは考え辛いところですし、義村が逆転を狙った最後の一手が亀王丸の上洛だったとすると、彼ら側近たちに最後の希望を託したのではと、妄想せずにはいられません。

すなわち、義村は旧澄元派による将軍義稙と晴元の上洛計画に望みをかけて、現将軍義稙と次期将軍候補たる亀王丸の帰洛を同時に実現させることを目論んでいたのではないでしょうか。

そもそも、将軍義稙自身も赤松家に庇護されている亀王丸をいずれは後継者とする腹積もりであったと考えると、義稙が永正8年の船岡山合戦の際に敵方として働いた赤松家を罰することなく、むしろ将軍家の通字「義」と「兵部少輔」の官位を与えて厚遇したことや、義稙が嫡子のいないまま正室を迎えることもしなかったことも、納得できます。

義村は元々彼自身の(あるいは赤松家臣たちの)都合で澄元支持にこだわっていたために、将軍義稙から再三求められた高国との和睦要請を無視していたわけですが、義稙と高国が決裂に至ったことでこの頃には両者の利害が一致していたのだとすると、洞松院にも見捨てられて隠居へと追い込まれた義村が、次期将軍候補となり得る亀王丸を擁立したのも、道理だと考えます。(『菅別記』7月6日条には亀王丸のことを「先年嶋御所御養子也」と記されており、この推測を裏付ける情報の一つと考えます。)

また、『二水記』6月28日条には近日の風聞として、「淡路御所今日御上洛云々、雖然雑説也、但延引云々、終以可令物忩、恐怖此事也」とあり、雑説つまり根拠のない噂話に終わったものの、亀王丸の上洛直前にも将軍義稙が帰洛するという噂で都の人々が不安になっていたことが窺えます。

しかし、旧澄元派による将軍義稙の帰洛計画は実行に移されぬまま頓挫し、義稙も8月28日付で奉行人の斎藤基躬、斎藤時基から丹波の小畠一族に宛てて「御帰洛事、既近日条、被抽忠節者、可為神妙之由」(小畠文書)と軍勢催促を行うなど、帰洛に向けた働きかけを続けていたものの、この後10月23日に再び淡路から堺へと上陸するまでの間、具体的な動きは見いだせません。

一方、上洛した亀王丸は7月26日には読書始、7月28日には将軍就任の先例に従ってまずは従五位下に叙せられるとともに、武家伝奏・広橋守光の命を受けた東坊城和長の撰により名を「義晴」と改めました。公卿では冷泉為広、三条西公條、日野内光、阿野季時、烏丸光康ら、武家からは高国とその嫡子稙国が礼参に訪れ、高国は太刀を進上しました。

(なお、義晴の名字選定については東坊城和長の案に対して内々に高国が異論を申し立て、自身の案を和長の勘文に加えさせたようです。和長によると「晴」字を上に置くのは不適切であり、義晴から一字拝領した場合に迷惑になると懸念されたものの、どうも高国が強引に押し通した模様。)

義晴の正五位下・左馬頭への叙任は11月25日、義稙の解任を伴う正式な将軍への就任は12月25日とまだ先のことになるのですが、現役の将軍である義稙が不在のまま、この段階ですでに亀王丸「義晴」の次期将軍就任はほぼ確実となったのです。

なお、将軍義稙と高国の仲を取り持っていたはずの政所頭人・伊勢貞陸は、高国による義晴の擁立を見届けた翌8月7日に死去し、嫡子の貞忠はその後、義晴に仕えました。差出人は不明ながら、7月10日付で伊勢守に宛てて「若公様御上洛、千秋萬歳目出存候、仍以誉田三郎左衛門尉御礼申上候」と、亀王丸の上洛を祝福する書状が残されており(雑々書札)、やはりその経緯には伊勢貞陸も関わっていたと推察しますが、真相は分かりません。

こうして目論見が外れた義村は、村宗の支配下にある室津で浦上被官の実佐寺氏の館に囚人のような扱いで押し込められたまま、約5ヶ月の時を過ごしました。

その間、8月22日には細川高国が進上した太刀が義晴から村宗へと下賜され、翌8月23日には幕府からの奏上により永正から「大永」と改元されました。この改元には「此間之年號雖無殊難、依将軍御他國、為奉立他主君、所用新號之由、細川右京大夫源高國申沙汰相談」(『宣胤卿記抜書』8月23日条)とあり、義稙の留守中に義晴を擁立した高国の意向によって、着々と新体制が整えられていったことが窺えます。

そして大永元年(1521)9月17日の夜、義村は村宗が送り込んだ軍勢の手によって殺害されてしまったのです。『赤松記』は義村が刺客の一人・岩井弥六の左手首を撃ち落として最後まで抵抗したこと、「是程御働比類なく候へとも、大勢不叶御果被成候」と伝えています。

なお、『播陽智恵袋』(播陽万宝智恵袋)には義村の作と伝わる歌がいくつか収録されていますが、義村が室津へ押し込められた時に「立よりて影もうつさし流てハ浮世を出る谷川の水」(たちよりてかげもうつさじ ながれては うきよをいづるたにがはのみづ)との歌を詠んで自筆の短尺を英賀城へ送り、三木東水が今も所持していると記しており、これが義村の辞世の句とされています。(「三木東水」は英賀城主・三木氏の一族で、宝暦の頃に播磨の伝説を書物にまとめた三木通識という人物のようです。参考:県史収載縁起目録

しかし、半ば囚われの身となった義村の心境が本当に「浮世を出る谷川の水」のようであったならば、村宗の刺客に対して激しい抵抗などせず、静かに自決したのではないでしょうか……義村は将軍義稙の帰洛という逆転の可能性に賭けて最後まで諦めなかったと、そのように感じられてなりません。

また『赤松記』は義村に味方した者たちは他国へ逃れたこと、その逃亡先として「淡路其ほかおもひおもひに居られ候」と、真っ先に淡路が挙げられています。これは旧澄元派との連携を示すとともに、義村が将軍義稙の帰洛を支援すべく動いていたことの証左とも考えられるのではないでしょうか。

赤松義村と将軍義稙を繋ぐ線はおぼろげではありますが、義稙出奔から亀王丸(義晴)上洛に至るまでとその前後の動向からは、義稙が高国に代わって旧澄元派を引き入れる形で幕府を再編しようとした構想が浮かび上がってきます。

すなわち、高国に代えて幼少の晴元を新たな京兆家当主に据えるとともに、赤松義村の支援によって養子とした亀王丸を次期将軍候補に迎えることです。更にその先を読めば、讃州家にて養育されていた亀王丸の弟(後の「堺公方」義維)とも和睦して上洛させるか、あるいは後顧の憂いを断つべく、出家させることになっていたのかもしれません。

高国がどれほど幕臣や公卿たちとの間に強固な関係を築き得たとしても、次期将軍候補である亀王丸の擁立なくして天下を預かる大義はないわけで、大義がないままでは畠山稙長も父の卜山に習って総州家と和睦せざるを得なかったでしょう。

将軍義稙が高国を孤立させるためには、亀王丸を預かる赤松家の動向が極めて重要でしたが、赤松義村が軍事的にも政治的にも浦上村宗に完敗したことで、亀王丸は高国の主導によって現役の将軍が不在のまま将軍候補として擁立され、更に「大永」改元によってその代替わりが広く公知されてしまいました。そして、すでに用済みとされた義村は非業の最期を遂げてしまったのです。

(なお、浦上村宗をはじめその後の赤松家については、こちらの過去記事でも紹介しています。現在では見解が変わった部分も多々ありますが、参考まで。大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)・続

細川高国による新将軍の擁立が人々の支持を得た一方、高国打倒を諦めた義稙が畠山卜山とともに淡路に退去したこと

これまで見てきたように、出奔した将軍義稙が細川高国の討伐を呼びかけて自身の帰洛に協力するよう依頼していたことは明らかですが、なぜこれに応じる動きがほとんど見られず、その一方で高国に擁立された亀王丸が次期将軍として抵抗なく受け入れられたのでしょうか。

高国には目立った戦功こそありませんでしたが、右京大夫に任じられた直後の永正5年(1508)8月より犬追物の興行を復活させたほか、その後も頻繁に猿楽や連歌会を開催し、文化の興隆に力を尽くすことで都の人々の支持を集めるとともに、幕臣や在京大名とその重臣あるいは公卿たちと親しく交流し、儀礼を通じて人脈を広げる中で政治的地位を高めてきました。

高国の義父・細川政元管領でありながら儀礼を嫌い、修験道に執心して女性を寄せ付けない等、色々な意味で協調性に欠けるところが目立ちましたが、高国はそんな政元を反面教師としたものか、対照的な資質を備えていったようです。

半井保房は『聾盲記』で三好之長の死に際し、之長を項羽、高国を劉邦に喩え、「信ニ細川高国ハ一人ヲモ不殺而大敵ヲ滅ス事ハ神変也」そして「高祖ハ有徳ノ人ナル間、天下ヲ被有也」と、高国の勝利に賛意を示しました。また、この澄元の上洛戦で義稙が之長を受け入れた際、公卿たちから高国に対する同情の声が上がっていたことも見逃せません。

高国は政元のように世評を顧みず我意を通すようなところがなく、社交性にも長けていたために、京都の人々から高く評価されたのでしょう。

そんな高国は義稙の出奔から間もない3月22日、明応9年(1500)の践祚以来すでに20年、長らく延引されてきた後柏原天皇即位式を挙行しました。

永正16年(1519)9月のこと、天皇は義満以来の先例に従って義稙を源氏長者に就任させ即位式の催行を促し、義稙もこれに応えようとしましたが、(澄元の上洛戦に伴う混乱もあったため無理もないとは思いますが)やはり費用の徴収には難儀したようで、永正17年(1520)8月に年内の延引を申し入れたものの結局叶わないまま、出奔の前月となる永正18年(1521)2月に一万疋を進上したところでした。

京都と各地を結ぶ流通拠点である兵庫・尼崎・堺を抑えていた京兆家は、幕府以上の資金力を持っていたという話かもしれませんが、高国は不在中の将軍に代わって秩序回復に尽力する姿勢を広く都の内外に示したわけで、出奔した義稙としては幾分と間の悪いことになってしまったのです。

先に述べたように、このような将軍交代期における最大のキーマンと言ってよい「伊勢守」伊勢貞陸が、亀王丸の擁立に協力した節があることも重要です。

そして、義稙が以前から亀王丸を後継者に据えることを望んでおり、貞陸や高国ら関係者もそれを承諾していたのであれば、義稙出奔のわずか1ヶ月後に亀王丸の上洛計画が進められたのも自然な成り行きであり、高国が個人的な野心から幼少の将軍を立てようと企んだわけではないことになります。

要するに、高国が以前からその政治力を高く評価されていたことに加えて、出奔した将軍義稙に代わって後柏原天皇即位式を挙行して世論を味方に付けたこと、更には、義稙出奔以前から、亀王丸を将軍の後継者に迎えることが幕府の既定路線であったために、結果として、高国による事実上の将軍のすげ替えが抵抗なく受け入れられたものと考えます。

三条西実隆は大永元年(1521)10月23日に義稙が帰洛を目指して再び堺に上陸した事件を報じ、『実隆公記』に「抑前将軍御出境南庄云々、大變事也」と記していますが、義晴がまだ左馬頭にも任じられていない時期であったにもかかわらず、現役の将軍であるはずの義稙のことを「前将軍」と記していることからも、その認識が窺えます。(一方で『祐維記抄』には義稙のことを「公方様」、義晴のことを「京ノ公方様」と記しており、京都と奈良では温度差があったのかもしれません。)

この大永元年(1521)10月から11月にかけて帰洛を試みた義稙の行動については『祐維記抄』が様々な風聞を伝えていますが、それによると、義稙は10月23日に再び堺へ上陸し、翌24日には「カタキ屋」に御所を移しました。畠山義英も仇敵である畠山卜山と再び和睦して大和へと軍を進めたようです。

京都の現状を知って義稙も態度を軟化させたようで「京ノ公方様ト御和談」の話も進められたのですが、条件が合意に至らなかったのでしょうか、畠山義英は兵を引くことなく大和へ侵攻し、大和の国人にもこれに与する者が現れたため、11月には幕府から畠山稙長が差し向けられ、筒井氏や越智氏と協力して大軍をもって総州勢を迎撃、これを撃退するに至りました。

(なお『祐維記抄』は、この時に稙長の父卜山は出陣していなかったことや、卜山に澄元後室への婿入りの話があったことも伝えています。卜山は稙長と対立して稙長派に追い出されたとの解釈もあるようですが、卜山はあくまで個人的な義理を貫くために義稙に追随しただけで、尾州家の更なる分裂抗争を望んだわけではなく、稙長も父の考えを汲んでいたのではないかと考えます。)

また、義稙が堺「カタキ屋」の御所を出て和泉の「カリノヲ」あるいは「マキヲ」に進出したとの風聞もあり、いよいよ京都へ攻め込んで来るかと心配されたものの、「公方様へ引及諸大名一人モ無之」と、味方する大名が一人も現れなかったためか、義稙も諦めて再び淡路へと退去したと伝えています。

高国贔屓の三条西実隆もこの顛末は予想外だったのでしょうか、『実隆公記』10月29日条に「前将軍昨日又去堺給云々、不可説々々々」と記しました。

出奔当初から義稙の帰洛を支援していたはずの晴元や讃州家が何をしていたのかは分かりませんが、おそらく軍を出さなかったのではないでしょうか。

将軍の出奔直後の状況であれば、その帰洛という大義名分によって高国を孤立させ、幕府からの排除を図ることもできましたが、高国によって擁立された義晴が将軍候補として受け入れられている状況ではそれも難しく、だからこそ義稙も和睦の道を探ろうとしたものと考えます。

すでに時代は変わってしまった、そのような空気であったからこそ、義稙の高国打倒の掛け声に応じる勢力は充分に集まらず、讃州家もこの時点での上洛計画を断念せざるを得なかったのではないでしょうか。彼らを頼って出奔した義稙としては、まさに梯子を外されることになってしまったわけです。

そもそも、永正16年から17年にかけての上洛戦敗退からもまだ満足に立ち直れていない状況で、旧領回復のために戦いは避けられない畠山総州家や旧澄元派の国人たち、そして高国打倒が叶わなければ幕府への復帰も望めない晴元の立場では、義稙と共闘することは難しかったとも考えられます。

そしてこれを最後に、義稙の帰洛に向けた活動は見えなくなり、大永元年(1521)12月25日に義晴が正式に征夷大将軍に就任、同時に義稙はこれを解任されることとなったのです。

義晴は将軍就任の前日、大勢の見物人が見守る中で仮御所の岩栖院から三条御所へと移り、高国を加冠役として元服しましたが、これに先立つ12月12日、高国は従四位下に叙されるとともに武蔵守に兼ねて任ぜられています。『菅別記』によると、この高国への叙位は三条西実隆の内奏によって実現したようです。

従四位下・武蔵守は3代将軍・足利義満管領として仕えた頼之以来の細川家の先例であり、幼少の義満「春王丸」が元服する際に加冠役を務めたのも細川頼之でした。義晴「亀王丸」の元服年齢もほぼ同じであり、一時期ではありますが同じ赤松家に庇護されていたことも思い起こされたでしょう。

高国は義晴の将軍就任に際して、足利将軍家の全盛期を築いた初代「室町殿」義満と、自身の先祖である細川頼之の先例を強く意識していたのではないでしょうか。

長くなりましたが、こうして、高国討伐を謳って京都を出奔した義稙はこれを諦めざるを得なくなり、結果的には高国の完勝に終わってしまったのです。

旧来からの通説ではこの結果をもって、高国は幕政の壟断を目論んで義稙を追放し、幼少の義晴を傀儡将軍として迎えたという解釈がなされています。

しかし、これまで述べてきましたように、当時の史料から高国の「専横」を示す具体的な証拠を挙げることは難しく、そのような見方は結果から推測されたものに過ぎないと感じます。

いわゆる「京兆専制」論が妥当ではないことが明らかにされてきたことを踏まえても、義稙が澄元を受け入れたことで生じた信頼関係の綻びが、高国の保守政治家としての非凡な資質(あるいは人心収攬術と言い換えるべきかもしれませんが)も相まって、このような結果を招いてしまったと捉える方が適切ではないでしょうか。

義稙の遺臣たちが「堺公方」義維を擁立し、義稙の系譜が「阿波公方」家に伝承されたこと

最後に、再び淡路へ退去した義稙の結末とともに、義稙の遺臣たちによって擁立された義澄のもう一人の子息で、通説において義稙の後継者とされている義維と、その子孫が「阿波公方」と呼ばれるに至ったことについて、簡単に紹介します。

大永2年(1522)3月18日、邸主を失った前将軍義稙の三条御所を伏見宮貞敦親王が見物に訪れました。義稙は京都の人々にとってはすでに過去の人となったのでしょう。

将軍義晴が岩栖院から移ったという三条御所は、義稙邸とは別だったのでしょうか?ともあれ、義晴の三条御所も大永5年(1525)には、細川高国の意向により京兆家内衆の邸宅跡を利用して造営された新邸、柳原御所(柳の御所)に移築されることになりますので、その頃には義稙邸も無くなってしまったと思われます。

義稙に最後まで付き添った畠山卜山は翌大永2年(1522)7月17日に淡路で死去したらしく、『経尋記』8月27日条に「畠山尾州入道卜山、去月十七日逝去之由風聞、事実云々、不審也、」とあり、また『祐維記抄』8月27日条には「近般当国へ可被打入旨用意之處、萬歳也、偏神慮云々、」と、再侵攻の計画途中で死去したらしいことも伝えられています。

これがただの噂話だったのか事実なのかは分かりませんが、ともかく「明応の政変」による受難以来、ずっと自分を支え続けてくれた卜山の死には、義稙も気力を失ったのではないでしょうか。

大永元年(1521)11月に卜山とともに淡路へと退いて以後、義稙から帰洛支援を命じた御内書などは残っていないようですが、大永2年(1522)10月28日、丹波の国人・池上与四郎盛宗に対して、義稙方の奉行人(斎藤時基、斎藤基雄)から以下のような充行状が送られています。

去年至淡州被移御座處、馳参忠節、尤以神妙、因茲丹波國瓦屋南荘内成時名地頭職事、為御所御修理料由緒云々、被仰付池上與四郎盛宗訖、早全領知、任先例可被其沙汰由、所被仰下也、仍下知如件、

(『大日本史料』大永2年10月28日1条より)

池上家は将軍家に代々棟梁として仕えた室町幕府御大工の家柄らしく、この地頭職は後に「御大工棟梁」として足利義昭の新御所造営を務めたという池上五郎右衛門(『信長公記』)に継承されているそうで、与四郎盛宗もこの一族と思われます。(参考:池上五郎右衛門(いけがみ ごろうえもん)とは - コトバンク

すでに将軍を解任された義稙からの充行状が実際に効力を持ったのかどうかは分かりませんが、自分を将軍と慕って淡路まで馳せ参じてくれたことに対して、感謝の気持ちを示したかったのでしょうか。

畠山卜山を見送った義稙はその後、阿波国撫養(現在の徳島県鳴門市)に移り、大永3年(1523)4月9日に死去したと伝えられていますが、晩年をどのように過ごしたかは明確ではありません。

おそらく『足利季世記』の「淡路ノ武島ヘ御渡海アリ」という記述からでしょうか、義稙は撫養に移るまでの数年間、淡路の沼島で過ごしたとも伝えられ、そこには義稙ゆかりと推定された庭園跡もあるようですが、これは室町期ではなく江戸初期のものであるとも言われています。

その頃にはもう義稙の消息が都で噂されることもなくなっていたようで、『公卿補任』において引き続き従二位、奨学淳和両院別当・源氏長者と記録されていた義稙の経歴に訂正が加えられたのは、死後4年を経た大永7年(1527)4月のことでした。

ちょうどその頃、高国に反乱を起こした丹波の波多野元清、柳本賢治兄弟に呼応して、細川晴元を旗頭とする阿波勢が畿内に上陸して戦いを展開していましたが、彼らは讃州家に庇護されていた義晴の弟・義維を「義稙の猶子」として擁立していたようで、この陣営にはかつて義稙とともに京都を出奔した奉行人たちや、あの畠山式部少輔順光の姿もありました。

(『二水記』によると畠山順光は大永6年(1526)12月14日に四国衆と共に堺へ上陸した後、翌大永7年(1527)1月20日に畠山上総介によって殺害されたと伝えられており、それが事実であれば同年2月の桂川合戦で義維方の優勢が決まる前に、すでに死去していたことになりますが……。)

義澄の子で義晴の異母兄弟とされる義維は、当時の史料では「南方武家」「四國若公」あるいは「堺武家」などと称されており、将軍義晴に対抗して堺に御所を構えました。そして、かつて淡路で義稙に仕えていた奉行人たちが義維の元で幕府と同じように奉行人奉書を発給していることから、これを一つの政権と捉えるとともに「堺幕府」と呼ばれることもあります。

『二水記』大永7年(1527)7月13日条は義維について「南方御事、去三月廿四日和泉堺御着岸、未及御上洛、法住院殿御息、江州武家御舎弟也、嶋御所為御猶子分歟」と伝えています。(「法住院殿」とは義澄を、「江州武家」とは大永7年(1527)2月の桂川合戦での敗北により近江へ逃れていた将軍義晴を、「嶋御所」とは説明するまでもないとは思いますが、淡路島に隠棲した義稙を指します。)

また『二水記』には、義維は初名を義賢といい、堺に入って元服するとともに、義晴と同じく東坊城和長の撰によって名を「義維」と改めたともあります。

義稙の遺臣たちを味方に付けた細川晴元丹波勢と共闘の末、享禄4年(1531)6月4日「大物崩れ」でついに高国打倒に成功したものの、政権の内部対立によって堺の御所は崩壊、天文元年(1532)に義維は阿波への没落を余儀なくされ、更に晴元が義晴方の最有力大名・六角定頼と手を結び将軍義晴と和睦したことによって、その存在意義は全く失われてしまい、讃州家当主・細川持隆の庇護のもと阿波平島に逼塞することになります。

義維はその後も何度か上洛を試みたものの、細川晴元細川氏綱など当時の京兆家当主、その後に畿内の覇者となった三好長慶も義維を支援することはなく、三好政権は永禄元年(1558)の末に将軍義輝と和睦して以後、幕府との協調路線を歩みました。

30年以上もの長きに渡り無念の日々を送った義維でしたが、長慶の死後に後継者の三好義継が起こした、永録9年(1566)5月19日の将軍義輝殺害事件「永録の変」の成り行きの果てに、思いがけずその大願は成就されます。

三好政権から離反した松永久秀や畠山氏をはじめ、義輝の弟・義昭(初名は義秋)を支持する勢力も畿内周辺には健在でしたが、以前から義維擁立を目論んでいた阿波三好家の宿老・篠原長房は、政変後の畿内制圧に多大な功績を上げたことから一躍、三好政権を主導する立場となり、義維の嫡子・義栄(初名は義親)を新たな将軍候補として擁立したのです。(なお、これに伴って三好宗家の当主・三好義継は松永久秀を頼って義昭方に走ることとなり、彼が起こした「永禄の変」は本末転倒な結果に終わってしまいました。)

そして永録11年(1568)2月8日、義栄は摂津富田の普賢寺で待望の征夷大将軍への就任を果たしました。その傍らに仕えていたのは、畠山式部少輔入道安枕斎守肱。父の木阿弥とともに流浪期の義稙を支え、その側近として権勢を振るった、畠山式部少輔順光の後継者でした。

しかし、義栄の時代はわずか半年で幕を閉じることになります。

永禄11年(1568)9月、織田信長の供奉によって義昭の上洛戦が展開された結果、三好政権の崩壊とともに義栄は上洛も叶わないまま若くして病死し、失意の義維は再び阿波平島へ退去、その子孫は以後も「阿波公方」と称して逼塞することとなったのです。

─── ここからは願望を交えつつ通説に逆らって蛇足を続けていきますので、ご注意ください。 ───

義稙の永正5年の将軍復帰に至るまでの動向から窺えるのは、まさしく激しい「執念」ですが、それに比べると、世間から顧みられることもなく、ひっそりと死去した最期には、あまりに静かな印象を受けます。

はたして晩年の義稙は将軍復帰の意志を持ち続けていたのだろうかと、そんな疑問が浮かんできます。

あるいは、義稙は幼い義晴が高国の元で立派に将軍職を務めていることを知り、将軍家の分裂を終わらせるためにも、これ以上は世間を騒がせるべきではないと考えて、ひっそりと隠棲していたのではないかと……。

阿波公方家が由緒として伝える義稙と義維(阿波公方の史料では「義冬」と名を改めたとされていますが、ここでは引き続き「義維」とします)の下向のいきさつは、一次史料が伝えている時代背景との齟齬が目立つことから、創作が加えられていることは明らかで、義稙と義維の関係についても確かなことは分かりません。

今のところ信頼できる史料で義維の存在が確認できるのは、大永7年3月の堺上陸以降であり、それまでの経緯を伝えているのは、後世の軍記や伝承史料だけです。つまり、淡路あるいは阿波に退いた義稙が義維を養子に迎えたという現在の通説に、確かな根拠はありません。

義稙の死後に遺臣たちが義維を奉じたことは間違いないものの、義稙本人がそれを望んだのかどうかは定かではなく、義稙が将軍復帰への執念を義維に託したという解釈も、推測に過ぎないのです。

父の義視と義政の望まぬ対立によって生まれた不幸を身をもって体感してきた義稙は、将軍家の分裂を次代に持ち越すことを望まなかったのでは……そのような考えに至った今、義稙と義維の親子関係というのは、行き場を失った義稙の遺臣たちを取り込んだ讃州家が、将軍義晴に対抗し得る正当性を喧伝するために言い出した虚言ではないか、との疑念すら抱きつつあります。

たとえば『細川三好合戦記』には「先御所義稙公阿波國ニテ御他界アリ、然シトモ三好方ノ計ヒニテ、人ニカクシケレハ、世ニ披露ハナカリケル、」とあるそうです。(『大日本史料』大永3年4月9日2条より)つまり、義稙の死が世間に知られることは、三好方(讃州家)にとって都合が悪かったのではないでしょうか。

また、これまで述べたように、義稙が義晴を養子に迎えて後継者にするべく働きかけていたことを前提とするなら、たとえ義稙が義維を「猶子」に迎えたことが事実であったとしても、それは義晴に対抗するためではなく、義維を懐柔して後に禍根を残さないためだったと考えます。

(『実隆公記』享禄2年4月8日条には、義維方が義稙の七回忌に際して仏事料を納めたとあり、義維が名実ともに義稙の猶子として振る舞っていたことは確かなようです。)

このシリーズ記事を書き始めた頃はそのタイトル通り、「流れ公方」と呼ばれた義稙の執念が義維に引き継がれた結果、「阿波公方」の伝承を生んだと考えていましたが、ここに至って当初の思惑から大きく外れてしまいました。

しかし、天下静謐に責を負う将軍家の宿命に従いつつも、先例に囚われず、乱世における将軍の在り方を模索し続けた……そんな義稙の生涯を省みると、そこに込められた意志は「執念」と呼ぶに相応しいものではなかったか、とも感じるのです。

そして義稙の遺臣たち、特に義稙の忠実な代行者で最後の側近となった畠山式部少輔順光が義維を擁立したこともまた事実であり、その後継者である畠山安枕斎が義維の上洛や義栄の将軍就任のために奔走したことも踏まえると、やはり義稙の執念が「阿波公方」を生んだと言っても良いのかもしれません。


余談: 畠山式部少輔入道安枕斎守肱について、本文では軽く触れるに留めましたが、安枕斎は義稙と畠山式部少輔順光の関係と同様に義栄の側近取次を務めており、義栄政権における重要人物の一人でした。

フロイス『日本史』第77章には「当時公方様と共に津の国越水の城に在りし、公方様の大執事アンシン」とあり、松永久秀が進めた「大ウス逐払」(『言継卿記』永録8年7月5日条)によって京都の会堂から追放されていたバードレが帰還を望んだ際、キリスト教に好意的であった篠原長房が、安枕斎にバードレを紹介したという話が書かれています。

義栄が越水城に在城していたのは永録9年9月23日の入城から同年12月7日に普門寺に移るまでの間であり、まだ将軍はもとより次期将軍たる従五位下、左馬頭への叙任も果たしていませんでしたが、フロイスは義栄のことを「公方様」と記しています。

「永録の変」で将軍義輝が殺害されて以来、将軍不在の状況が続いていましたが、松永久秀父子と対立した三好三人衆が、義栄擁立を主導する篠原長房の力を借りて摂津から京都を制圧するに及び、実質的に義栄が将軍として扱われていたことが窺えます。

(「永禄の変」については将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情も合わせて読んでいただけると幸いです。)

なお、安枕斎の素性について確かなことは分かりませんが、畠山式部少輔順光とともに義稙に従って京都を出奔したとして『二条寺主家記抜粋』に挙げられている「畠山七郎」のことで、順光の子息ではないかと考えます。(畠山七郎は永正15年の順光邸への将軍御成にも同席しています。)

また、同様に名前を挙げられている、杉原四郎、下津屋修理については、おそらく「明応の政変」以来、義稙(義材)に扈従し続けた奉公衆四番衆の関係者ではないかと考えます。(参考:羽田聡『足利義材の西国廻りと吉見氏』

下津屋修理は大永7年5月2日の足利義維奉行人(斉藤基速・斉藤誠基)連署奉書に「下津屋修理進重信」として名前が出ており、畠山順光と同じく義稙没後も義維・晴元方に加わっていたようです。(参考:日本古文書ユニオンカタログ


義稙終焉の地・撫養にある撫養城跡を巡ってみた

義稙に執心して以来ずっと行きたかった義稙終焉の地・撫養に、ようやく訪れることができました。

以下の写真は、2017年5月の訪問時に撮影したものです。

撫養城跡とされている妙見山。地元では「妙見山公園」として親しまれてきた場所だそうです。

いつも、このお城っぽい展望台(?)が高速道路(神戸淡路鳴門自動車道)の上から見えてて、ずっと気になってたんですが……そこがあの撫養城跡だったとは。

車を止めて同行者に待ってもらってたので、急いで目の前の丘を登ったんですが……。

どこで道を誤ったのか、何だかあらぬところから侵入した感じになってしまい……。

ぐるっと回って正面へ。

元は鳥居記念博物館という施設だった(徳島市内に移転済み)名残なのか、「トリーデなると」っていう名前が付いています。

現在は展望台兼多目的ホールという位置付けの施設のようです。

鳥居記念博物館は昭和40年開館ということで、時代的にも鉄筋コンクリート製の城郭風建築あるいは模擬天守が流行していたのでしょう。

参考:旧館(徳島県立鳥居記念博物館)の概要

館内(城内?)では「Narustagram」という企画の展示が行われていました。

※この企画は2018年1月現在も実施されているようです。Narustagram(ナルスタグラム)【鳴門で写真動画コンテスト】|渦の国 鳴門|

妙見山のある撫養岡崎から小鳴門海峡を挟んで向かいが、土佐泊になります。撫養と土佐泊はいずれも紀伊水道播磨灘を繋ぐ要衝であり、四国の玄関口でもありました。

土佐泊は三好氏に仕えた阿波水軍の森一族が拠点としたことでも知られており、森志摩守村春は長宗我部元親の阿波侵攻の際、秀吉の援助を受けながらここで最後まで抵抗しました。

(なお、森村春の子孫は蜂須賀氏に仕えて椿泊に移住し、代々甚五兵衛を名乗って阿波水軍を統括しました。「信長の野望201X」にも「森甚五兵衛」の名で登場していますね。)

こちらは紀伊水道のある東側の眺め。たぶん、右半分の住宅地になってるところも昔は海だったんでしょうね。

鳴門海峡北西側の眺め。手前の破風のある建物が、史蹟・撫養城址に比定されている妙見神社です。

妙見神社天御中主神事代主命を祀る神社で、天保元年(1830)に、旧撫養城主・四宮加賀守の子孫である四宮三郎左衛門と、撫養林崎の豪商・近藤利兵衛氏が再建したものとのこと。

「再建」とはどういうことかというと、撫養で没したとされている義稙や義栄が妙見信仰(北辰信仰)で知られる大内氏に頼っていた過去から、守護神として受けた妙見尊星をここに勧進した、という伝承があるようです。

また、妙見山と峯続きの宝珠寺跡には「宝珠寺裏山古墳」という古代の古墳があり、これを地元では「将軍塚」と呼んでいたらしく、寛政7年に成立した撫養の地誌には以下のような記述があるとのことです。

古城山峯つゝきにして、寶珠寺てふ境内にあり、むかしより将軍塚といひ伝え、恐らくは是足利将軍義稙公の御廟所ならんか、 大永元年三月廿九日、将軍義稙公京都御退出の時、寵士村上山城守雅房・嫡子兵部義忠等、始終供奉したまふ、三年四月九日、行歳五十八歳にして、阿波国撫養において薨御し給ふと云々、

(『大日本史料』大永3年4月9日2条より)

なお、将軍塚については鳴門市の公式見解(?)が以下のブログに掲載されています。

(参考: 鳴門市への質問の返事の抜粋 ( 徳島県 ) - 瑞雲一揆 - Yahoo!ブログ

「西光寺の墓所は、もと撫養にあったものが後世移転されたものと言われていますが、撫養の墓所自体が現在は特定できなくなっています。」とあるのも興味深い話です。

ちなみに別説として、西条益美『鳴門海峡』によれば、鳴門市鳴門町高島にある八幡神社は大正5年に近在の神社5社から合祀されたもので、その中に足利義稙を祀る社があるらしく、これは元々「武山」と呼ばれる小山にあった義稙の墓所から移されたものとする説もあるようです。

(参考:武島神社について (訂正): うるめしま

『陰徳太平記』により流布された有名な狂歌「たぞやこの鳴門の沖に御所めくは 泊り定めぬ流れ公方か」から、大永元年11月に堺から退去した義稙の寄寓地を鳴門の「武島」(たけしま)=「高島」とする説は興味深いですね。

淡路へ退去したとされる義稙は最後に撫養で死去していることから、讃州家を頼って阿波へ向かう途中で死去したとの見方がなされることがありますが、元々鳴門の武島に寄寓していたのであれば撫養は目と鼻の先ですし、殊更に政治的な意図を汲む必要は無いのかもしれません。(『公卿補任』が大永元年12月の将軍罷免の件で「于時在四國」とするなど、一次史料でも淡路と阿波を混同しているのか、あまり区別して見てないのか……という感じもありますし。)

寛永15年(1638)に破却され、「社殿後方の城石は当時の面影を残している。」なるほど……?

玉垣大阪市の庄野さんの名があるのが気になりますね。庄野といえば阿波篠原氏に仕えた一族ですが、撫養城で四宮氏に仕えた人もいたのでしょうか。

いますね庄野さん。こういう、城主の子孫が城跡に建てた系の神社では、奉納者の名前を逐一チェックしてしまいます。(笑)狛犬備前焼かな?

こちらが社殿です。撫養で死去したという義稙が撫養城に滞在したのかどうかも定かではありませんが、帰路の無事とともに義稙の冥福を祈っておきました。

撫養の墓所はすでに特定できなくなっているようですし、ともかく、これで終焉の地をお参りできたということにしておきましょう。

「社殿後方の城石」というのはこの辺の石垣のことでしょうか?

最後期の撫養城の面影を残しているという、石垣群。

外側にも何かの跡が見受けられますが、よく分かりません。

むむむ……。

公園の方に出てきてしまいました。「天下泰平」「海上安全」妙見神社事代主命が祀られたのは、港があったからなのかな?

撫養警察署の「紀元二千六百年」記念碑などもあり。

裸婦像よりも義稙像を!といった運動は起きなかったのでしょうか。今のような室町ブームの真っ只中(?)であればと思うと、誠に無念です……。

経緯は分かりませんが、公園内にはステージ観覧席のような物も用意されています。

とりあえず上ってみました。(そして、ここでタイムアップです。)

現在の撫養はこんな立地でした。JR鳴門駅が徒歩圏内にあるようなので一応、鉄道でも来ることはできそうです。(関西からだと瀬戸大橋経由でかなり西に遠回りしますが……。)

なお、記事冒頭に掲載した阿波公方家の菩提寺である西光寺には、以前、阿波公方民俗資料館と併せて訪れていたのですが、その時のことはまた別の機会に取っておきます。

参考書籍、史料、論文、Webサイト等

浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版

在京大名細川京兆家の政治史的研究

在京大名細川京兆家の政治史的研究

このシリーズ記事を書くに当たって、最も多くの気付きと学びを得られたのがこちらの論文集です。

今回の記事内容に関しては、永正17年2月17日に細川澄元から畠山式部少輔に宛てた例の書状の紹介から、将軍義稙が澄元の二度目の上洛戦以前から赤松義村を通じて澄元と交渉していたことを知ったのが一番の収穫でした。

(実は、そこからの妄想が止まらなくなってこのシリーズ記事を始めようと思ったわけですが、結果的には当初の妄想は方向性を変えて更に飛躍することになりました……。)

また、猿楽興行や大名邸御成の主客一覧からは、畠山式部少輔や浦上村宗への将軍御成がいかに異例のものであったのかがよく分かりました。これらの儀礼が行われた時期から、背景の政治的な事件との関わりを想像することもでき、とても面白いです。

義澄、義晴、義輝の元服についても京兆家による幕府儀礼の一例として取り上げられていて、元服儀礼の流れや幕政における意義についても学ぶことができ、今回の記事内容にも反映されています。

東坊城和長が義晴の名字選定に際して「晴」の字が上に来るのは不吉だと懸念を示した話もこちらからで、細川晴国、細川晴元赤松晴政、大内晴持、陶晴賢などのことが一瞬頭を過りましたが、むしろ一生を通して吉な人の方が少数派なのでたぶん気のせい。

そして記事中でも触れましたが、将軍義稙が出奔に至ったのは細川高国との権力闘争に敗れた結果と捉えられ、その原因についてもいくつか根拠を挙げつつ考察されています。

個人的には高国が野心をもって義晴を将軍として擁立するに至ったとは考えていませんが、政元とは対照的な資質を持つ高国が様々な幕府儀礼を通じて人脈を広げ、幕政を主導する立場を獲得したことについては非常に納得するとともに、高国の見方が大きく変わりました。

今のところ、細川高国の真価に触れることができる唯一無二の一冊だと思いますので、特に以前の僕と同じように三好氏からの視点で「大内義興に便乗して権力を握った要領のいいやつ」と捉えている方には、是非ともご一読いただきたいです。

ちなみに、この本を通じて僕の高国のイメージは「調整型リーダーシップに長けた真のコミュニケーション強者」となり、コミュ障としてその資質に妬ましさを感じつつも、もしかして細川高国って理想の上司じゃね?という感想に至っています。

山田康弘『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』(戎光祥出版

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

足利義稙だけではなく、父の木阿弥と共に畠山式部少輔順光の活躍も多く紹介されており、このシリーズ記事を書き上げるに当たって大いに学ばせていただきました。木阿弥・順光父子の興味深い経歴はほぼこちらの内容からです。

戦国期の将軍とはどういった存在なのか、そして中央と地方の有力者の関わりも満遍なく紹介されていて、この時代の入門書にも適した内容なので、このブログで初めて「応仁の乱」からの前期戦国時代に興味を持っていただいた方にもおすすめの一冊です。

この本で「堺公方足利義維との関係には一切触れず、義稙が後継者を定めた形跡はないと書かれていることがずっと気になっていましたが、この件は記事でも述べた通り、近世の阿波公方側の伝承や軍記など良質とは言えない史料だけが伝えているためと判断しました。

そして、晴元を頼った義稙の遺臣たちが義維を後継者と称しただけなのかも知れない、との疑いを持つに至ったわけですが……どうでしょうか。

今谷明『戦国 三好一族』(洋泉社

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

細川氏と三好氏を中心に畿内の情勢を把握する上で、常々参考にしているものです。今回は特に澄元方上洛戦の経緯と三好之長の動向について参考にしました。

義稙後期の幕府を「京兆専制」の枠で捉えられている点など、義稙贔屓となった今では支持できない部分もありますが、この本で「堺公方」の存在を知ったことは今回の記事の原点と言えます。

この本にある「澄元が義維を播磨から阿波へ拉致」という記述がずっと気になっているのですが、今のところその根拠と思われる情報を見つけることができていません。もし心当たりのある方がいらっしゃったら、ご教示いただけると嬉しいです。

清水克行・榎原雅治(編)『室町幕府将軍列伝』(戎光祥出版

室町幕府将軍列伝

室町幕府将軍列伝

室町幕府の歴代将軍に関して、各担当の研究者がそれぞれ様々な視点で語られていますが、義視や義維といった将軍には就任せずとも政局に影響を与えた兄弟をについても「コラム」という形で書かれており、とても読み応えのある一冊です。

このシリーズ記事に関連する部分の担当者は、義稙・義維…木下昌規、義澄…浜口誠至、義晴…西島太郎、義栄…天野忠幸、となっていますが、各先生方のこれまでの研究分野と被る部分がありつつ、ちょうど将軍家の分裂期で時代が重なっていることもあり、同じ事件でも捉え方の違いが見られて面白いです。

今回の記事に関連するところでは、室町幕府における足利将軍家とはどういう存在なのか、そして義稙が二度将軍に就任した状況や前後の経緯について改めて確認し、義稙が将軍家の分裂問題にどう対処しようとしたのかを考えるヒントを得られたように感じます。

木下先生の義維のコラムは、現時点での研究成果の状況が分かりやすくまとめられていて、参考になりました。(なお、その中でも「堺幕府」の呼称については不適切と断じられていました。)

ただ期待していた、義維が讃州家に庇護された経緯と、義稙との猶子あるいは養子関係の究明については、残念ながら未解決のままとなりました。

渡邊大門『備前 浦上氏』(戎光祥出版

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

赤松氏の内情や浦上村宗に関する概略は、この本を参考にしています。

ただし、兵庫県史等でも言及されている赤松氏の動向と畿内政権との関連には触れられておらず、おそらく意図的に避けているような印象を受け、その点は浜口先生の論調とは対照的に感じます。

播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)

- 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
- 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

赤松義村と洞松院に関することは、こちらも併せて参照しています。

一般に義村は浦上氏の「下克上」を許したとされ後世の評価は低いのですが、再評価して欲しいと思うきっかけを得た本でもあります。

義村と村宗の関係には、政則・則宗主従とはまた違った面白さを感じるので、もっと世間で流行って欲しいのですが……。

大石泰史編『全国国衆ガイド 戦国の "地元の殿様" たち』(講談社

複数の執筆者で書かれている本ですが、特に畿内の国人については澄元(晴元)派 or 高国(氏綱)派、あるいは一族がそれぞれに分裂していたのか、といった点に触れていることが多いので、「両細川の乱」における京兆家内衆の動向を把握する上で参考になります。

ちなみに、畿内地域の担当は『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』の浜口誠至氏です。

この本では「丹波荻野氏」の紹介で、細川澄元から畠山式部少輔に宛てた件の書状を届けたと思われる「荻野左衛門大夫」は澄元の側近で、澄元派と高国派に分裂していた荻野氏の一族と説明されていました。

その通りだとすると、京兆家麾下の国人の中には摂津や和泉だけではなく丹波でも澄元に味方して阿波まで没落した者がいたわけで、興味深い話です。

若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』(戎光祥出版

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

「永禄の変」後の三好政権分裂騒動における篠原長房の活躍および、当時の畠山式部少輔入道安枕斎守肱の活動については、この本から学びました。

現在の篠原長房への評価は『昔阿波物語』などの軍記に引きずられているようで、それすらも一般にはまだまだ知られていない状況ですが、長房が阿波三好家を代表して義栄を擁立するに至った経緯など、今後の研究の進展によってその評価も変わってくるんじゃないでしょうか。

特に昨今「忠臣説」が話題になっている松永久秀との対比という点でも(義輝と久秀、義栄と長房、キリスト教への姿勢など)、ぜひ多くの方に注目していただきたいです。

(長房は背が高いとか、宣教師のマントを褒めたという話もあるので、『昔阿波物語』ベースのTVドラマでもやって、背の高い俳優さんが一般イメージの信長ばりに黒マント着用で長房の最期を演じてくれたら、間違いなく人気出るんじゃないかと思ってるのですが……。)

あと、「秋山家文書」所収の永正18年9月13日付連署奉書で篠原左京進之良と瓦林日向守が連署していることに気付き、これまで高国派とされてきた瓦林日向守が義稙から御内書を受け取っていることとの矛盾に不審を感じるに至ったのは、この本に連署奉書の内容が掲載されていたおかげです。(後述しますが、この件については馬部隆弘先生が解明されています。)

那賀川町史編さん室『平島公方史料集』

阿南市立阿波公方・民俗資料館にて購入したものです。

「平嶋記」などの阿波公方側の伝承史料のほか、義稙および義維(阿波公方側では義冬とされる)の動向を確認できる史料の抜粋が翻刻文で掲載されており、今回の記事でも参考としました。

阿波公方側の伝承史料は、他の史料の内容とは辻褄が合わないところや明確な誤りも多く、鵜呑みには出来ないのですが、積もり積もった蜂須賀家への不満を爆発させて京都へ移住したという阿波公方9代・足利義根が、祖先の事跡をまとめるに当たって誤りを訂正した形跡なども窺え、面白いです。

なお、義稙の死後、大内義隆三条西実隆に尋ねてその肖像画を制作した件をこの本で知って以来、大内義興が義稙と仲違いして帰国したとか、見捨てたというのは当たらないのではないかと考えるようになりました。

京都府教育委員会京都府中世城館跡調査報告書 第3冊(山城編1)』『第4冊(山城編2)』

史跡探索の助けになればと、たまたま地元近くの図書館で読んでみたものですが、1107年から1600年台に至るまでの軍記を含む文献史料に登場する城館や邸宅、寺の名前と史料名と年月日、翻刻文の簡潔な引用が掲載されており、思いがけず本記事の役に立ちました。

特に永正17年5月の「等持院合戦」前後の動向に関して、『後法成寺関白記』『実隆公記』『拾芥記』『元長卿記』といった当時の日記の記述内容と、『応仁後記』『続応仁後記』『足利季世記』といった軍記の記述内容を比較して読むことができました。

調査の手は絵画資料の書き込み内容にまで及んでおり、参考資料を広げる索引としても役立ちそうです。

兵庫県史編集専門委員会『兵庫県史 通史編 第三巻』

昭和53年と若干古い本ですが、いわゆる両細川の乱についてまとまった内容があります。本記事に関連する部分の執筆は石田善人先生、Wikipediaによると神戸出身の歴史学者で中世惣村の研究で有名な方のようです。

永正16年秋からの澄元方上洛戦の経緯についても、兵庫県にゆかりの深い赤松氏や瓦林氏が関わった関係から、一般向けの新書などよりもかなり詳細に記されています。

赤松義村は洞松院と高国の和議に反して終始、澄元派であったとして、赤松家中の対立が中央の政権争奪に関わっていたという視点もあり、案外古くからそのような見方をされていたという事実も興味深いです。

亀王丸の上洛に付き従った側近たちが相国寺切腹した事件への「原因は赤松義村浦上村宗の対立抗争」という指摘に妄想を掻き立てられたことも、今回の記事内容に大きく影響しました。

西宮市史編集委員会『西宮市史 第一巻』『第四巻 資料編1』

こちらも昭和34年と更に古い本ですが、地元だけあって特に河原林(瓦林)氏に関する貴重な資料や考察がまとまっています。おそらく本記事に関連する部分の執筆は永島福太郎先生です。(現在、呉座勇一先生の新書『応仁の乱』が大人気ですが、そのずっと前に同タイトルの新書を出された方です。僕はまだ入手できていませんが……。)

資料編には当時の史料から河原林(瓦林)氏が登場する部分の引用が多数掲載されており、特に直接読むのは難しい一次史料に関しては今回の記事でも参考にしました。

国書刊行会編『続々群書類従 第三 史伝部2』(続群書類従完成会

『祐維記抄』を含む『続南行雑録』が収録されています。

この記事の中に『祐維記抄』と多く記載しているように、永正16年から17年にかけての澄元方の上洛戦に関する情報や、将軍義稙の出奔後の動向、また両畠山家の動向については一貫して詳しく記されており、参考になります。

オンデマンド版を発行している八木書店によると、『続南行雑録』は「水戸の儒臣佐々宗淳が元禄年間に奈良で採訪した春日若宮社司家代々の記録と寺社の由緒故事」というもので、おそらく興福寺の情報網によってもたらされた伝聞を多く含んでいるのでしょう。

赤沢朝経(澤蔵軒宗益)・長経父子の後継者と思われる「赤澤新兵衛」がたびたび登場しており、彼らにとって「赤澤」の名は災厄の象徴として記憶に刻まれていたことなども窺えて、興味深いです。

塙保己一編『続群書類従 第二十三輯下 武家部』(続群書類従完成会

幕府の年中行事や将軍御成の記録、武家故実を主としている武家部ですが、この中に義稙期のものを含む『御内書案』が収録されています。

この記事中に「御内書」と書いている部分は、ここから読み取ったものです。(こんな良い史料が近くの図書館で読めたのに、割と最近まで気付いていませんでした……。)

嬉しいことに「国立国会図書館デジタルコレクション」でも読めます。永正16年はこのページ辺りから。続群書類従. 第23輯ノ下 武家部

塙保己一編『群書類従 第二十一輯 合戦部』(続群書類従完成会

赤松家に仕えていた得平定阿の筆による『赤松記』が収録されています。

ジャンル的には軍記に分類されていますが、創作というよりも覚書的な要素が強い内容のため、参考史料として扱われることが多いようです。

赤松義村が永正16年末に亀王丸を伴って脱出して以後の動向については、この記事ではほぼこちらの内容に従っています。(得平定阿が仕えていたのは義村の後継者・赤松晴政とその子義祐なので、当事者による情報ではありませんが)

なお『赤松記』は「国立国会図書館デジタルコレクション」でも一応読めますが、活字ではないので僕には厳しかったです……。群書類従. 第453-498冊(巻369-399 合戦部)

高橋遼「戦国期大和国における松永久秀の正当性─ 興福寺との関係を中心に─」

畠山式部少輔順光が獲得しようとした「官府衆徒」とは何ぞや?という疑問から、こちらの論文に学びました。

三好政権における松永久秀と併せて、細川晴元期の木沢長政についても解説されていますので、そちらに興味のある方にも参考になるかと思います。

西原正洋「永正の錯乱以降における細川氏の本庶関係―典厩家を軸として―」

細川京兆家が澄元派と高国派に分裂したことで、細川一門の「同族連合体制」が変質していった過程を、典厩家を中心として庶流家の視点から説いた論文です。

特に一貫して澄元派であった政賢の嫡子・澄賢が、阿波へ逼塞してからも旧来の家格を認められて、幼い晴元を補佐する地位にあったことを学びました。

三好長慶細川氏綱派に離反して以降は氏綱の弟にあたる藤賢が復権を果たし、織田信長の供奉による足利義昭上洛後は京兆家からも独立して、御供衆の筆頭というべき地位を利用して存続を図っていたという点も、興味深いです。

馬部隆弘『細川晴元の取次と内衆の対立構造』ヒストリア 258号 (2016.10)

細川京兆家、とりわけ高国、晴国、氏綱、国慶といった高国党の希少な研究成果を発表されている点で個人的に注目している、馬部隆弘先生の論文です。

論文の本題は晴元の取次と内衆の世代間対立についての考察ですが、思いがけず瓦林日向守の経歴について知ることができました。

これまで「細川高国在京奉行人連署奉書」として紹介されてきた史料、永正18年9月13日の瓦林日向守、湯浅弾正忠、篠原左京進による連署状が、阿波に在国していた細川六郎(晴元)周辺から出されたものという説明は納得できるものです。

三者の経歴および、こちらの某年6月23日付の瓦林日向守、湯浅弾正忠、古津修理進から秋山幸久に宛てた連署状の内容から明らかにされています。秋山家文書 文化遺産オンライン

これによって、これまで『細川両家記』等の記述から高国派と見られていた瓦林日向守が、将軍義稙から帰洛支援を求める御内書を受け取っていることの矛盾や、明らかに讃州家の被官と思われる篠原左京進之良がなぜ「高国在京奉行人」とされているのかという疑問が一度に氷解するとともに、義稙の最後の出奔は旧澄元派と示し合わせた計画的なものであったと判断するに至りました。

その点、今回の記事を書くに当たって、この論文から得られたものはとても大きかったです。普段はなかなか大学図書館などを利用できる機会がなく、論文についてはWebで公開されている数少ないものだけが頼りなのですが、偶然が重なってこれを読むことができたのは本当に幸運でした。

落ち穂ひろい

赤松・浦上・宇喜多関連で、手元の資料にない情報で気になることがあれば、真っ先に確認させていただいているサイトです。

特に永正16年から18年の赤松義村浦上村宗の対立について、以下のページを参考にさせていただきました。

また、「御一家衆」と呼ばれる庶流家や「年寄衆」と呼ばれる宿老など赤松家の事情については、こちらの 赤松氏の家臣団構成 からも学ばせていただきました。

やまんなか: 亀王丸と義村

赤松義村のことをWebで調べていて、一番印象に残っている記事です。(初見は旧サイトで3つの記事に分かれていましたが、移転の際に統合されたようです。)

義村というと浦上村宗との対立関係ばかりが採り上げられますが、幼少の亀王丸(義晴)にとっては置塩館で共に過ごした義村との思い出もあるはずで、義村殺害の首謀者たる村宗への将軍御成が高国邸で催された時、義晴は何を思ったのでしょうか。そして「大物崩れ」で村宗や高国が死んだ時は……この記事の視点からは、そのような事に思いを馳せざるを得ませんでした。

二周年です(…のおまけ): Muromachi通り

中編でも参考記事として挙げさせていただきましたが、今回は義稙出奔を巡る畠山尚順の動向やその解釈について多くを学びました。

以前は知識不足のため理解できないところが多かったこちらの記事も、実際に『続南行雑録』の『祐維記抄』を読み進めた後、改めて記事を読み直すと、その解釈には納得できる部分が多かったです。

特に、大永元年10月から11月にかけての帰洛計画を最後に、義稙と尚順はともに淡路で静かに隠棲したという見方については、こちらの記事というか管理人さんから全面的に影響を受けたものと言って良いです。

室町幕府奉行人一覧

中世公家日記研究会を紹介されているサイト『中世史の部屋』内のコンテンツですが、文明元年から天文23年までの幕府関係の引付史料に登場する奉行人を年次でリスト化されています。

前年に奉行人として見えない者、翌年から奉行人として見えなくなる者、前年・翌年ともに奉行人として見えない者を色分けして記載されているため、特に永正5年(1508)の義稙帰洛に伴う政権交代が目に見えて分かるようで興味深いです。

幕府分裂期の明応3年から永正8年、大永元年、大永6年から天文元年には非主流派の奉行人として「足利義稙・義澄右筆方奉行人」や「足利義維右筆方奉行人」が別枠で掲載されており、参考になります。

東京大学史料編纂所データベース

特に『大日本史料』の綱文・書名・本文・索引語から人名や出来事を検索できる「大日本史料総合データベース」が非常に有用です。

素人が直接確認することが難しい史料からの翻刻・引用文も多数収録されています。綱文については今では解釈が誤っている部分も見受けられますし、新出の史料をフォローできていない部分もあるでしょうけど、調査の取っ掛かりとしては十分でしょう。

今回の記事では執筆終盤にこのサービスを知ったため、内容への反映は主に「将軍・足利義稙が旧澄元派を頼って細川高国を討つために京都を脱出したこと」以降で、それ以前は数ヶ所を手直しするに留まっています。(見直し出すとキリが無さそうで……すみません。)

いやはや、こんな便利なサービスの存在を今まで知らなかったとは……たぶん基本レベルですよね、これ。

なお、『塵塚物語』の義稙に関する記事「恵林院殿御事」も、このデータベース経由で知りました。義稙に興味を持った方はぜひご一読ください。

(『大日本史料』では有名人の逝去日付の記事において、関連する花押や系図あるいは様々な伝承が掲載されていて、参考になります。義稙の養子・猶子関連の記述も充実しており興味深いです。)

その他

今回の記事執筆は約1年半と非常に長期間に渡ったのですが、調査と執筆を繰り返す中で閃いたり疑問に感じたことを、Twitterで呟いたりしました。その中で賛意や補足情報などいくつかの反応をいただくことがあり、より考察を深めたり整理することができました。

具体的にどの方のどのツイートと挙げることは難しいですが、Twitterで反応をくださった皆様には感謝いたします。

同シリーズ記事

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大内義興が帰国に至った背景―在京中に起きた「安芸国人一揆」と「有田合戦」の関係、遣明船の永代管掌権を獲得した件について

今回は永正5年に前将軍足利義尹を奉じて上洛して以来、約10年に渡って在京し幕政に携わってきた大内義興がついに帰国するに至った経緯をまとめつつ、考察してみました。

時系列はややこしいですが、だいたい以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 の後で、 讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛 の前くらいの話になります。

大内義興の在京中に起きていた領国の混乱と「安芸国一揆」、毛利元就の武名を高めた「有田合戦」の背景

上洛直後から何度か帰国の意志を仄めかしていた義興ですが、国許の情勢悪化を受けていよいよその意志を固くしたのか、永正12年(1515)10月頃には義興と共に在京していた重臣の陶興房太宰府天満宮に宛てた書状の中で「来年においては、定めて御下向あるべく候や」と伝えました。

以下、少し長くなり余談も増えますが、義興の在京中に帰国した国人たちによって結成された「安芸国一揆」が、大内領国で起きていた混乱とどう繋がっているのかを追っていきます。

永正5年(1508)に大内義興が義尹(義稙)を擁立した際、領国で互いに対立関係にあった国人たちを仲裁した上で上洛に臨んでいたのですが、大内氏に従って上洛した安芸や石見の国人達の中には、永正8年の船岡山合戦の前に無断で帰国した者や、参戦して忠節を尽くした後に無断で、あるいは了承の元で帰国した者などがおり、その動向は様々でした。しかし、畿内での抗争に関わっても疲弊するばかりで利益にならないというのは、多くの国人たちに共通する不満であったようです。

安芸においては永正9年(1512)3月3日、9名の国人たちが「安芸国一揆」と呼ばれる一揆契約を結び、将軍や諸大名からの軍勢催促に対して共に相談して決めることや、衆中で被官人が逃亡した場合にこれを許容しないことなどを定めました。

軍記では毛利興元や吉川国経、それに尼子経久までもが船岡山合戦に参加したことになっていますが、この「安芸国一揆」に参加した9名のうち実際に将軍や義興から与えられた感状が確認できるのは平賀弘保、竹原小早川弘平、天野元貞の3名のみであり、他の国人たちは合戦の前に無断で帰国したものと思われます。

とりわけ、毛利興元、高橋元光、吉川元経はこの頃、相互に婚姻関係を結んでおり、彼ら先行帰国組が幕府や大内氏を含む上位権力からの干渉に対抗するために結束し、更に後から帰国した者たちを引き込んだというのが「安芸国一揆」の実態ではなかったかと考えます。


余談: 毛利氏、高橋氏、吉川氏の婚姻関係を分かりやすく毛利側から見ると、当主の毛利興元が高橋元光の娘を娶って後に生まれた嫡子が幸松丸で、興元の妹は吉川元経に嫁ぎ、そして弟の元就に嫁いできたのが吉川元経の妹、いわゆる妙玖夫人(毛利隆元吉川元春小早川隆景の生母)という関係です。
(軍記では毛利興元正室の父は高橋元光ではなくその父の久光とされていますが、高橋氏の系譜については不明な部分が多く、今回はとりあえず確かな史料に表れている元光を当主としておきます。)

なお、兄の興元が健在であった当時の毛利元就はあくまで「多治比殿」と称された分家の当主に過ぎず、毛利の惣領家自体も長らく有力庶家の伸長に悩まされてきた経緯があって、まだ国内の領主たちを被官として統制するような段階には至っていません。
元就は永正10年、執権の志道広良と共に当主興元への忠節を誓う書状を提出していますが、永正13年に興元が急死して以後はこの二人が協力して毛利家の体制強化に務めることになります。


中でも石見、安芸、備後の三ヶ国の国境地帯に広く勢力を持っていた高橋元光は独立志向が強かったようで、永正10年頃に毛利氏の援軍を得て備後国人の三吉氏を攻撃する事件が起きています。その一方で、船岡山合戦にも参加し義興と共に在京中であった石見国人の益田宗兼が幕府から三吉氏の救援を命じられていることから、彼ら芸石両国の国人たちを統率するべき立場の大内義興としても、看過できない状況となっていたことが窺えます。

幸いにも、高橋元光は永正12年3月に三吉氏との合戦で討死したため、義興は高橋氏の一族で船岡山合戦にも参加した高橋弘厚の子・興光を新たに後継者と定め、高橋氏の問題はいったん落ち着いたようですが、ちょうどその頃、やはり先行して帰国していた石見国人の三隅興兼が、長らく対立関係にあった益田氏の領地を攻撃する事件も起きていました。

(高橋氏の顛末については、『尼子詮久の東征(上洛戦?)から郡山城攻めに至るまで 』において「余談:安芸宍戸氏と結んで石見高橋氏を討滅し、勢力を拡大した毛利元就」として簡単に書いています。)

そして永正12年には、義興の了承の元で帰国していた安芸武田氏の武田元繁が反旗を翻し、大内傘下の己斐城に攻め込むという事件が発生したのです。

安芸国では山名氏が守護職を持っていましたが、在地においてはかつての守護家で数郡を領する安芸武田氏が強勢であり、応仁・文明の乱では東軍に属して大内氏と敵対関係にありました。

義興は武田氏を傘下に収めるため、親交があった公卿・飛鳥井雅俊(歌道と蹴鞠で有名な飛鳥井家の当主)の娘を養女として武田元繁に嫁がせていたのですが、元繁は義興の不在を好機と考えたのか、その娘を離縁して、再び反大内の姿勢を露わにしたわけです。

武田元繁の謀反を受け、義興は毛利興元に己斐城の救援を命じますが、興元は元繁の鋭鋒を避けようと策を講じたものか、別の武田方の拠点であった有田城を攻略した結果、元繁はいったん己斐城から撤退しました。興元はその後どういうわけか有田城を吉川元経に譲ったのですが、間もなく24歳という若さで死去してしまったために、永正14年2月には再び元繁が有田城を奪回すべく攻め寄せてきたのです。

しかし、興元の子幸松丸の後見人となった毛利元就は吉川元経と協力し、劣勢ながらも武田元繁を討ち取ることに成功、20歳という少々遅めの初陣を見事な戦果で飾りました。これが元就の武勇伝として名高い「有田合戦」です。

このような経緯から、永正の「安芸国一揆」は義興の密命により安芸武田氏への対策として契約されたとする説もありますが(永正の安芸国衆協約の成立事情とその効力 | 備陽史探訪の会)、前述したように高橋元光が三吉氏を攻撃した際、毛利氏が高橋氏に協力したのに対して、逆に幕府は三吉氏の救援を命じていることから、この時点での高橋・毛利両氏は義興の意向に背いて独自に行動していたと思われます。

吉川氏でもまた、惣領家の元経に従わずに在京し続けた石見吉川氏の吉川経典は「永正八年御敵出張の刻、惣領次郎三郎闕落の砌、同心せしめず在京忠節の賞」として石見国邇摩郡に給地を与えられ、後年その譲状の中で「元経・毛利・高橋両三人京都下向の刻、惣領に同心せしめず堪忍を遂げ候」と由来を記していることから、やはり彼らの無断帰国は義興の心象を大きく損ねていたのでしょう。

むしろ、義興の帰国が近づくとともに、高橋氏の当主交代に続く当主興元の急死によって路線を変更せざるを得なくなった毛利氏が、同様の立場であった吉川氏と協力して再び大内与党として働く意志を示したというのが「有田合戦」の実態ではないでしょうか。

大内氏が遣明船の永代管掌権を獲得し、ついに京都を離れて周防に帰国したこと

前述のように永正12年(1515)10月頃には帰国の意志を固めていた義興ですが、決して手ぶらで帰ろうとしたわけではなく、永正13年4月19日に将軍義稙より、かねてからの念願であった遣明船の永代管掌の権利を獲得しました。

大内氏は14世紀頃からすでに朝鮮貿易を重要な財政基盤としており、北九州への進出に伴って博多商人とも関係を結んで莫大な利益を得ていたのですが、応仁・文明の乱で西軍方についたために、堺商人と結んだ東軍方の細川氏の画策によって勘合貿易から締め出されたという経緯がありました。

義尹(義稙)の上洛に伴って、永正8年(1511)の遣明船では3隻のうち1隻が細川氏、2隻が大内氏という構成となったのですが、今度はいよいよ3隻全てを大内氏が独占することになったわけです。

明国との貿易は大内氏傘下の国人たちにも大いに利益を与えたようで、讃岐国人の香西元定は大内氏の遺徳を偲んで堂を建て、義興の像を造立したと伝えられています。(『讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛』 参照)

また大内氏は永正14年頃、応仁・文明の乱以後、実効支配が続いていた石見国守護職を幕府から正式に獲得するとともに、義興の留守を預かっていた在国被官筆頭の陶弘詮(在京していた周防国守護代陶興房の叔父で陶一族の長老)を責任者として、島津豊州家の島津忠朝と遣明船に関して交渉させています。

かつて義尹(義稙)が相国寺領堺南庄を帰洛支援の恩賞として大内氏に与えようとした際、義興はこれを辞退し、代わりに山城守護職を与えられています。その頃から遣明船の独占を目論んでいたのであれば、かつて大内義弘が行ったように京都と瀬戸内海を結ぶ要衝である堺を拠点とした方が得策であったはずですが、そうしなかったところを見ると、義興は上洛時点では長期に渡って在京するつもりはなかったのかもしれません。

ただし、永正8年に入明を果たした貿易船がその2年後に帰国した永正10年の時点で、大内氏は正式な貿易船の証明となる「正徳勘合」(明の正徳帝から与えられたためこのように呼ばれています)を幕府に返さず懐に入れたようで、おそらくその頃には将来の遣明船の独占を計画していたものと思われます。

これらのことから、義興は高国と対立の末に帰国したとされる事もありますが、在京当時の史料からは、両者は幕政運営においてはむしろ積極的に協力関係を築いており、共に将軍義稙の政権を支えるパートナーとして親密に交際していたことが窺えます。

衝突といえば、永正6年1月に義興傘下の国人三隅氏が前関白一条家の敷地の使用を巡って高国被官の柳本氏と対立し、死者を出す騒動を起こしたくらいでしたが、この時は将軍義稙自らが恥辱を受けた義興の邸宅に赴き、高国を招いて仲裁するという形を取ったため、両者は元通り和解したと伝えられています。

ただ、今度の大内氏による遣明船の独占は当然ながら細川氏からの反発が予想されたはずです。これが高国の了承を得た上での事だったのか、あるいは帰国の意志を固めたために方針を変えたのかは分かりませんが…。

いぜれにせよ、長期間に渡る在京生活は大きな負担となっていたことは間違いなく、永正13年から14年頃にかけての遣明船の永代管掌権およびの石見守護職の獲得は、帰国準備の一環と捉えるのが適当ではないかと思います。

義興は自身の利益だけを求めて上洛したわけではないにせよ、従三位左京大夫という名誉を獲得して幕府を再興できれば充分などという程、愚直な性分でもなかったのでしょう。

永正14年8月30日には、将軍御所にて大内義興の主催で猿楽興行が催され、将軍義稙や管領細川高国をはじめ、義興が昵懇にしていた飛鳥井雅俊ら公卿たちが客として招かれました。おそらく義興にとってはこれが京都で参加した最後の行事であり、10年近くに渡る在京生活を通じて交流を深めた人々との別れのつもりで饗応に臨んだのではないでしょうか。


余談: なお、義興は上洛直後の永正5年7月に飛鳥井雅俊から蹴鞠書を伝授されたのですが、この永正14年12月にも義興の嫡子で後の義隆と推定される「亀童丸殿」が蹴鞠書を伝授されています。義興の父政弘もまた長享3年に雅俊の父政親から伝授されており、父子代々に渡って親しく交流していました。そのようなも縁あってか、飛鳥井雅俊はこの後、永正17年3月には義興を頼って周防山口へと下向し、大永3年に享年62歳で死去するまで同地で過ごしています。


そして永正14年閏10月、将軍義稙は義興の心中を知ってか知らずか、中風の病の湯治のために、20日間もの長期に渡って有馬温泉に出掛ける計画を発表します。

将軍が京都を留守にすることに対して都で不穏な噂が広まったため、後柏原天皇は延期するよう勧告し、高国も道中の警備を増強するよう助言したものの、義稙は有馬行きを強行してしまいました。その2日後のこと、義興は突然京都を去って堺に移ったのです。

そのまま堺に逗留した義興は、12月26日には先行帰国して「安芸国一揆」にも連署していた竹原小早川弘平と平賀弘保の「遺恨之儀」を仲裁し、弘平に宛てて在京の忠節を謝するとともに、来春には下国することを告げ、静謐たるよう入魂を求める書状を送っています。

翌永正15年正月には、将軍義稙の命を受けた伊勢貞陸が堺を訪れて、帰京するよう説得したものの、義興はこれに応じることなく8月まで堺に滞在し続けた後、ついに周防へ向けて出発しました。

ここに至って義稙も義興の気持を汲んだのか、8月27日付で上洛の労を謝するとともに帰国を許可する御内書を出したのですが、義興はそれを受け取る前に、帰国の途についていたのでした。

大内義興尼子経久に留守を狙われたために帰国したわけではない?

永正5年に上洛した大内義興が約10年に渡る在京活動を終え、永正15年に帰国するに至った経緯について、「安芸国一揆」と「有田合戦」そして「遣明船」に関する動向を中心にまとめましたが、ここまで尼子経久の動向に触れていないことに疑問を抱く方もいると思います。

Webで検索しても、大内義興が帰国したのは在京中に尼子経久が留守を狙って侵攻したためだといった説明がとても多く見受けられますし、僕自身もこれまでに読んだ一般向け書籍の影響もあって、そのように捉えていました。

しかし、これまで見たような大内氏上洛以後の経緯を考えると、義興の帰国はそのような急激な情勢の変化によるものではないと判断せざるを得ません。

義興は上洛直後から帰国の意志を表していたものの、「船岡山合戦」の勝利により京都の治安回復に多大な貢献を果たすとともに、従三位への上階という名誉を獲得してからは、細川高国畠山尚順・畠山義元といった在京守護と共に腰を据えて幕政に参加し、将軍義尹(義稙)を支える道を選んだのでしょう。

先行帰国した安芸や石見の国人たちが幾度となく騒動を起こしますが、西国一の大名として幕府の再興に貢献しようとの自負心によって、何とか踏み留まり続けていたというのが実情ではなかったでしょうか。

そして、義興がついに帰国を決意して具体的な準備を進めたのが、永正13年から永正14年頃にかけての遣明船の永代管掌権と石見守護職の獲得だったわけです。

この時、前石見守護である山名氏の守護代尼子経久と提携して抵抗したことはあったようですが、『御内書案』(「続群書類従 第23輯 下 武家部」収録)には永正14年4月、伊勢貞陸から「佐々木尼子伊予守」(尼子経久)に宛てて、太刀や馬などが贈られてきたことに対する礼状が残されています。

このことから、幕府は尼子氏を敵視していないことが窺えますし、当時在京して幕政に携わっていた大内義興も、まだ尼子氏を脅威とは考えていなかったのではないでしょうか。

義興が帰国を決意した永正12年末に至るまでの間、先行帰国組の高橋元光が毛利氏と組んで勝手に侵略をはじめたことや、義興の了承の元で帰国した武田元繁が離反したことについても、尼子経久の調略を受けたためとされますが、実際その頃の尼子氏はまだ出雲一国さえ統一できていない状況で、そのような余裕があったとは思えません。

つまり、大内義興尼子経久に留守を狙われたために帰国したわけではない、とするのが妥当と考えます。

…とは言っても、僕はこの時期の尼子側の動向を詳しく追ったわけではありませんので、もし大内義興が永正15年8月に帰国する以前に、尼子氏が大内領に侵攻したという記録をご存知でしたら、ご教示いただけると幸いです。


余談: なお、尼子経久の上洛は史料からは確認できないものの、経久の次男「国久」、三男「興久」の諱はそれぞれ細川高国大内義興からの偏諱と考えられることから、尼子氏は確かに永正5年の義尹(義稙)上洛前後には大内氏の傘下にあったと推測できます。

そして帰国後の義興が日明貿易を巡って高国と対立した一方、尼子氏は引き続き高国の与党として活動しています。高国は義晴を将軍に擁立した永正18年(1521)から享禄4年(1531)の「大物崩れ」により死去するまでの間は紛れもなく幕府の主導者ですから、大内氏の方が先に幕府に背いたとも言えるわけです。


追記:京都の白峯神宮(旧飛鳥井家邸宅跡)について

余談の中で大内義興の父・政弘の代からの大内家と飛鳥井家の交流について少し紹介しましたが、京都市上京区にある飛鳥井家邸宅の跡地には現在、白峯神宮という神社が建っています。

以下、昨年こちらに訪れた時の写真と共に、飛鳥井家のことを併せて紹介します。

ご存知の方も多いかと思いますが、白峰神社(白峯神社)は「保元の乱」と怨霊伝説で有名な崇徳天皇を祀る神社で、京都の白峯神宮明治元年に讃岐の白峯陵より分霊され創建されたものです。

ただ、現在こちらは他の白峰神社とは違った信仰を受けています。というのも、蹴鞠で有名な飛鳥井家の守護神「精大明神」が祀られているために、球技スポーツの神様として広く信仰されているのです。

羽林家」と呼ばれる中級貴族であった飛鳥井家は近世以後も蹴鞠の師範家として存続し、飛鳥井雅望の代に明治維新を経て東京へと移住、公家華族として伯爵位に列せられました。飛鳥井雅望はその後、京都で蹴鞠の技を伝承している「蹴鞠保存会」(しゅうきくほぞんかい)にて師範を務めたそうです。

蹴鞠保存会のほか、近世以降の立地あるいは飛鳥井家との歴史的な関係によるものでしょうか?千家(表千家裏千家武者小路千家)や方円流など茶道関係からの献灯も目を引きます。

多数のタオルやボールが奉納されており、サッカーだけではなく、バレーボールやラグビーなど様々な球技の選手たちが戦勝祈願に訪れている様子が窺えます。

飛鳥井家と蹴鞠の由来が記された「蹴鞠の碑」。

蹴鞠の様子が描かれた絵馬。

蹴鞠の守護神「精大明神」(通称「まり精大明神」とも)は、境内摂社の地主社に祀られています。七夕の神様ともされていて、毎年七月七日午後四時から「精大明神例祭」(七夕祭)が行われているそうです。 ※参考:精大明神例祭「七夕祭」 | スポーツの守護神 白峯神宮

「精大明神例祭」でも奉納される蹴鞠は、この「鞠庭」の中で行われるそうです。

境内には「保元の乱」で崇徳天皇方として戦った源為義・為朝父子を祀る「伴緒社」があり、弓の名手であったということで弓道・武道の神様として信仰されています。

飛鳥井家の名残は白峯神宮への信仰と共に、一帯の町名「飛鳥井町」として現代に伝わっています。

ちなみに、この飛鳥井町の東端に面している小川通を少し北上すると、室町時代には立売の商売が盛んで当時の上京のメインストリートであった上立売通があり、更にその北は千家関係の施設、日蓮宗の大寺院である本法寺妙顕寺、そして足利家ゆかりの尼寺で近世以降には尼門跡寺院となった宝鏡寺などが密集する地域になります。

ちょうどこの記事で扱っている時代、一帯には細川京兆家とその内衆の屋敷が建ち並び、応仁・文明の乱や永正の錯乱などたびたび起きた対立抗争の最前線となりました。今では武士の屋敷跡は影も形もありませんが、周辺には以下のような地名が残っています。

なお、前述の通り飛鳥井雅俊は永正17年(1520)3月に大内義興を頼って山口へ下向しましたが、子息の飛鳥井雅綱が跡を継いで在京していたようで、大永3年(1523)9月に細川高国・尹賢主催で将軍義晴を招いて行われた猿楽興行や、大永4年(1524)3月の将軍義晴による細川尹賢邸への御成・猿楽興行などの幕府儀礼等に参加しており、義稙の出奔を経て細川高国が義晴(亀王丸)を将軍に擁立して以後も、幕府有力者との良好な関係を維持していたことが窺えます。

また、雅綱と蹴鞠に関しては、天文2年(1533)には勝幡城主・織田信秀に招かれて山科言継と共に尾張へと下向し、蹴鞠を伝授したことが『言継卿記』に記録されているほか、天文7年(1538)5月3日付で武田彦次郎信豊(若狭武田氏当主)に与えた伝授の奥書が残されています。

参考にさせていただいた書籍、資料等の紹介

藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』(戎光祥出版)

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

今回、大内義興の帰国の経緯について詳しく書くきっかけとなった本です。

永正の「安芸国一揆」加盟者による船岡山合戦以前の先行帰国の問題と、武田元繁の離反問題を含む、大内義興在京中に領国で起きた混乱については主にこちらから学びました。
軍記物で流布されている尼子経久の暗躍については史料的な根拠があるわけではないのか、否定的な印象を持っておられるように感じられましたので、今回の記事もその方向で考察しました。

また、遣明船の永代管掌権を獲得するに至った経緯についても、上洛当初からその意志があったわけではないことが説明されています。
ただ、永正8年の遣明船が永正10年に帰国した際に「正徳勘合」を幕府に返さなかったこともあるので、当分は在京して幕政に積極的に関わることを決意した時点で、方針を変えたのではないかと考えた次第です。

岸田裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(ミネルヴァ書房

毛利氏を中心に西国の戦国大名について研究されている、岸田先生の本です。

安芸国一揆」と「有田合戦」の背景について毛利氏の視点から、藤井先生の義興本と相互補完的に学びました。

毛利元就個人の伝記というよりも、毛利氏の権力がどのようにして形作られていったのかを丹念に解説されていて、いくつか既読したミネルヴァ書房の同シリーズの中でも、かなり専門的な内容です。

浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版)

在京大名細川京兆家の政治史的研究

在京大名細川京兆家の政治史的研究

猿楽興行や大名邸御成の主客一覧があり、大内義興をはじめとする在京大名たちが儀礼面でどのように交流していたのか、また儀礼が当時の幕政においてどのような役割を果たしていたのかを学びました。

今のところ、細川高国の真価を知ることができる唯一無二の一冊だと思いますので、特に以前の僕と同じように三好氏の視点で「大内義興に便乗して権力握った要領のいいやつ」と捉えている方には、是非ともご一読いただきたいです。

山田康弘『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』(戎光祥出版)

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

将軍が有馬温泉に赴いた際に大内義興が京都から堺へと移った件については、主にこの本から学びました。

浜口先生が在京四大名による猿楽興行の共催を、高国が幕府における序列形成を図ったものと捉えられているのに対して、山田先生は将軍が1人を突出させないようバランスを図ったものと、真逆の評価をしているのが面白いです。

中央だけでなく地方の有力者との関わりも満遍なく紹介されていて、応仁の乱後からの畿内戦国史の入門書としても、おすすめの一冊です。

村井章介『分裂から天下統一へ シリーズ日本中世史④』(岩波新書

戦国時代における世界との繋がりから天下統一への道筋を説く内容で、以前の記事 『讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛』 を通じて、自分には遣明船を始めとする世界との交流のイメージができていないことを思い知ったため、まずは通史的な観点ということで購入したものです。

日明国交断絶の切っ掛けとなった事件として有名な大永3年の「寧波の乱」が、以前からの大内氏と細川氏の対立の流れの延長だけではなく、義興が将軍義稙より遣明船の永代管掌権を得て帰国した後、将軍義稙の出奔によって高国が新たに将軍義晴を擁立した結果として起きたことが、よく分かりました。

「正徳勘合」を大内氏が幕府に返さなかったという件も、こちらの本で知りました。

シリーズ本ですが、実は各巻独立しているので単巻で読んでも問題ないみたいです。

山本啓介「蹴鞠伝授書から見た室町・戦国期における飛鳥井家とその周辺」

蹴鞠書の伝授を巡る飛鳥井家と大内氏の交流関係や、飛鳥井雅俊の動向についてはこの論文を参考にしました。

戦国時代で蹴鞠というと、何かと今川氏真などがネガティブな感じで採り上げられますが、実は歴代の飛鳥井家当主は斯波義将畠山満家、斎藤妙椿、そして大内政弘朝倉孝景と、錚々たる名将たちに蹴鞠を伝授していて、なかなか興味深いです。

足利義材(義稙)の寵臣で「明応の政変」の際に諸将の標的にされたといわれる公家の葉室光忠も、大内政弘と同じく飛鳥井雅親(栄雅)から伝授されていて、義材(義稙)と葉室光忠、飛鳥井雅親・雅俊父子と大内政弘・義興父子という交流の繋がりを窺わせてくれます。

シリーズ記事『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」』

今回の記事は、実はこのシリーズ記事の「後編」の一部とする予定でしたが、大内義興の帰国について書き連ねるうちに長くなってしまい、更にそれに合わせて他の部分まで長くなることが予想されましたので、独立させた次第です。

後編の公開については、またかなり先のことになると思います…。

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讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛

今回は京兆家内衆としても知られる讃岐香西氏の名字の地・高松市香西町にあります、「大内堂」(大内義興報恩堂)を紹介します。
この大内堂の興味深い縁起について考察するとともに、讃岐香西氏の略歴をまとめました。
また併せて、香西で訪れた史跡もいくつか紹介します。

なお、前回の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 の続きになる大内義興の帰国後の話や、逆に前回取り上げた丹波の内藤氏以前に香西氏が丹波守護代を務めたという話にも触れていますので、合わせて読んでいただけると幸いです。

香西氏が築いた山城・勝賀城跡のある勝賀山。香西氏が平時の本拠地とした、佐料城跡付近から。(高松市鬼無町佐料)

『香西記』が伝える大内堂(大内義興報恩堂)と大内神社

大正15年に改修されたという大内堂は、勝賀山から少し北東にある小さな山、薬師山の麓にあります。(高松市鬼無町是竹)

案内板の説明文には、大内義興の供奉により足利義尹が将軍に復帰して以来、香西元定は大内氏に従って交易の利益を得たため、義興の死後その恩義に報いるために建立したものとあります。

大内堂の裏には「大内神社」と書かれた小祠がありました。それぞれの関係はよく分かりませんが…。

地元の伝承を集めた史料『香西記』は藤尾八幡宮の祠官・新居香流軒直矩が寛政4年(1792)に完成させたといい、その前書きには「嘗流聞香西の昔語書捨たるを拾ひ集て、童蒙の夜話ともなさんと、是を俗編せんと欲す…」とあります。
その『香西記』には大内堂について、以下のように記述されています。

所謂勝賀山の東麓に小山あり。是竹邑に一峰を生す。故是竹山と云。或は常世山と云也。又常山と云。(中略) 香西豊前入道宗玄、是竹山の原に一宇の禅林に建て、常世山宗玄寺と號。今寺迹に小庵有。又此東南の原に三位義興の像を造立して一宇を立、大内堂と云。又號大内寺也。退轉して今はなし。鎮守荒神の小祠有。此邊を大内堂と地名に稱す。大内寺本尊の觀音、今は西光寺内佛に有と云々。此大内堂東隣作山城跡なり。

香西豊前入道宗玄は是竹山、あるいは常世(とこよ)山、また常(じょう)山と呼ばれた山の原に、常世山宗玄寺を建てるとともに、この東南の原に大内義興の像を造立して「大内堂」あるいは「大内寺」と呼ばれる寺を建てた。今は寺はなくなったが鎮守荒神の小祠があり、その辺りの地名は「大内堂」と呼ばれている。
大内寺の本尊であった観音像は、今は西光寺の私房に置かれているという。この大内堂の東隣が作山城跡である。

…大体の意味はこんな感じでしょうか。
是竹山は現在「薬師山」と呼ばれており、その名の由来であろう薬師寺が建っています。天台宗根香寺末寺とのこと。

香西記の記述では大内堂の東隣が作山城跡とありますが、こちらの薬師寺も城っぽい外観ですね。

勝賀山一帯にはみかん畑がとても多いのですが、大内堂の背後に当たる薬師山にもみかん畑があるようで、農業用モノレールの線路らしきものが伸びていました。

『南海通記』が伝える永正17年秋の大内義興上洛と、将軍義稙の動き

さて、『香西記』は香西豊前守元定の項においても、大内堂のことをこのように記しています。

香西豊前守元定、永正五年八月二千五百餘兵を引率して山田郡に責入て、三谷兵庫頭景久と王佐山の城に相戰也。永正十六年大宰大弐政賢と大内義興筑前に對陣の時、大内方として兵士を引率し、長州赤間か關に到る。爰に大友氏和平を乞。故に兵を引て國に歸也。永正十七年大内義興卒去。彼像を造て以一宇を建て、大内堂又大内寺と號也。

香西元定の事跡について淡々と記述していますが(永正十六年「大宰大弐政賢」って誰のことでしょうか?)、「永正十七年大内義興卒去」を機会として大内義興像を造立したと伝えている点に注目です。
つまり、大内義興は永正17年(1520)に死去したというのですが、通説では享禄元年(1528)とされており、実に8年もの開きがあります。
いったいどういう事なんでしょうか?

讃岐香西出身の兵法家・香西成資が、寛文3年(1663)に書き上げた『南海治乱記』を元に増補を重ねた末、享保3年(1719)に完成させたという軍記『南海通記』には、「讃州香西氏建大内堂記」との章立てで大内堂の縁起が紹介され、その中に永正17年とされる大内義興の最期が書かれています。

永正十七年秋大内義興上洛ノ費用ヲ調ヘ、二万餘兵ヲ擧テ泉州堺ノ浦ニ到著ス。大兵海濱ニ上リケレハ廣津モ猶狭迫ナリ。義興ハ翠簾屋ト云町人ノ宅ヲ本陣トシテ夜守厳格ノ備ヲナシ、警衛■モ無リシカ何トカ為タリケン、館中ニ■盗アツテ諸人寝定リテ後義興ヲ害ス何者ノ所行ト云コト知レス翌日大内家ノ老臣密談シ是ヲ露顕セス、義興ハ防州ニ在テ病ニカゝリタル由、到来スト披露シテ兵船ニテ漕還ス。将軍家モ義興上洛ナキニ因テ、洛中ニ止リ玉フコト成玉ハスシテ淡州ニ退キ蟄居シ玉フ、義興卒去ノコト匿スト云ヘトモ世上普ク推量シテ力ヲ落ス者多シ、今天下ニ将軍ナシ管領ナシ天下ヲ得ント欲スル志アラハ即時ニ天下ヲ得ヘキ時ナレトモ其器ニ當ル人ナクシテ過ヌ、近世兵革打ツゝキテ静マルコトナケレハ百姓モ農ノ時ヲ失ヒ國民困窮ス。

(一部、私の拙い漢字力では読み取れなかった箇所を「■」としています…。)

永正17年(1520)秋、上洛の費用を調えて二万余の兵を率いて堺に到着した大内義興は翠簾屋という町人の家に陣を張ったものの、盗賊によって殺害されたというのです。
また、老臣達が義興の死を秘匿し、防州で病に罹ったと称して上洛を中断したため、義興の支援を受けられなくなった将軍義稙は京都から淡路に退いて蟄居したとします。

※ここからかなり妄想入りますので要注意

永正17年といえば、管領細川高国に対抗する細川澄元が阿波勢を率いて前年の秋から上洛戦を展開、摂津方面で高国方を撃破した三好之長が2月に京都へ入り将軍義稙を奉じたものの、5月には六角氏の支援を受けた高国方の反撃を受けて等持院合戦に敗れ、6月には澄元が病死したため上洛戦は失敗、そんな激動の年です。
この時、近江へ脱出する高国が将軍義稙を連れ出そうとするも、義稙は拒否して在京し続けたことから、土壇場の決断で高国を見捨てて澄元との提携を選んだと解されています。
しかし、義稙は以前から赤松義村を仲介して澄元との交渉を継続していたようで(浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』)、そう考えると将軍の判断は唐突なものではなく、計画的に高国の排除が進められていた可能性があります。

いずれにせよ、その目論見は三好之長と肝心の澄元の死去によって崩れてしまったのですが、その後も赤松義村は亀王丸(後の将軍義晴)を奉じつつ、領国播磨・備前・美作において高国に与する浦上村宗との戦闘を繰り返していることや、ちょうどこの頃に国人達の謀反によって領国紀伊を追われた畠山卜山が、翌大永元年(1521)3月の義稙の京都出奔に呼応していることを合わせると、その背後には反高国方の核として将軍義稙と亀王丸の存在があったのかもしれません。
そうすると、この『南海通記』が伝える永正17年秋の大内氏上洛は、すでに2年前に帰国していた大内義興が再び義稙の呼び掛けに応じたものと捉えることができるわけです。

また『南海通記』はこれに続き、大内義興に大恩のある香西氏が義興の死後にその霊像を祀ったものが「大内堂」であると記しています。

讃州ノ諸将細川政元卒去ノ後、大内義興服従シテ國ヲ守リ、地ヲ保テ数年ヲ超タリ、殊ニ将軍ヨリ安富山城守、香西豊前守海上ノ警衛ヲ奉テ廻船ノ非常ヲ制ス、故ニ上京セスシテ兵衆ノ煩勞ナシ、且能島兵部大夫ニ属シテ大内家朝鮮ノ役ニ加シカバ財足民饒ニシテ兵力有餘ス。是義興ノ芳恩ニアリトテ香西氏ノ産神藤尾八幡宮ノ向ノ山ニ堂ヲ立テ義興ノ霊像ヲ安置シテ、是ヲ祭ル是ヲ大内堂ト云フ世ハ變リ行ケトモ其林木ト名バカリハ今ニ存セリ。

ここでは細川政元の死後、讃岐の諸将は大内義興に従って領国を守り、安富山城守と香西豊前守は将軍から海上警護の役目を命じられたため、上京して兵を損ねることはなかったとしています。また、能島兵部大夫に属して大内家の「朝鮮ノ役」に加わったため「財足民饒」ともあります。
このように香西氏が兵を損ねず財産を得られたのも、亡くなった大内義興の恩に依るものだとして、氏神である藤尾八幡宮の向かいの山に堂を建てて義興の霊像を祀り、「大内堂」と呼んだとのことです。


なお「朝鮮ノ役」は日明貿易とする解釈と、いわゆる倭寇とする解釈に分かれるようですが、当時の海賊の実態としてはどちらも大差なしという感じはします。
能島兵部大夫が一般に「海賊大名」として知られる村上三家の一つ能島村上氏だとすると、大内義興が前将軍義尹を奉じて上洛した際、能島村上氏はこれに協力して塩飽島の代官職を与えられたと伝えられており、当時大内氏に従っていたと思われる香西氏も、能島村上氏の麾下で遣明船の警護を担って利益を得たのかもしれません。

一方の安富山城守は「細川四天王」として知られる安富盛長が名乗った官途ですが、京兆家内衆としての安富氏が細川澄之の乱で没落した後、讃岐に残った安富氏が名乗ったものでしょうか?
安富氏は讃岐東守護代として塩飽島に代官を置いていたそうですし、香西氏と同じく麾下に海賊衆を持っていたのかもしれません。


また『南海通記』は、義興の死去は秘匿されたため世間ではこれを知られることなかったとし、子の義隆は幼少ながら父の遺跡を継いで大国を多数領し、富貴かつ安逸であったため天下の政事は山口に移って大勢の者が集まり、外国の商船も博多や山口を訪れて、明国との勘合も政弘以来大内家が独占したため、外国人は義隆を日本の国王と思っていたと、その治世を好意的に記しています。

義興卒去ノコト深ク密シテ世ニ露ハサズ、故ニ世人ソノ所以ヲ知ス其子義隆幼少ニシテ、父ニ後レ其遺跡ヲ繼テ大國數多ヲ領シ、富貴ニシテ安佚ナリシカハ天下ノ政事ハ防州山口ニ移リ、貴賤トナクコゝニ来集シ、西蕃ノ商船モ筑前博多、防州山口ニ来著シテ、和漢ノ勘合モ政弘ヨリ以来ハ大内家ヨリ通達セシカハ異邦人ハ大内殿ヲ以テ日本國王ト思ヘリ、大永元年ヨリ三十年ニ及テ義隆大國ヲ塞テ終ニ上洛シ玉ハス。

さすがに8年も当主の死を秘匿するのは難しいと思いますが、幼少で父の跡を継いだという義隆は実際に永正17年までに元服して周防介を継いでおり、すでに代替わりしていたようです。

大内義興が帰国した後も将軍義稙との繋がりを断っておらず、澄元の反攻に呼応すべく動いていたのだとすると、遣明船の利権を巡って大永3年4月「寧波の乱」で大内方と細川方が武力衝突に至った件、阿波守護家の細川持隆が大内義興の娘を正室に迎えた件、義稙の没後に大内義隆がその肖像画を描かせたという件なども、その延長戦上の動きとして理解できるのではないでしょうか。

香西氏の地元に伝えられてきた大内義興の最期と幻の上洛の話、真偽はさておき、当時の状況と重ねあわせると妄想が膨らみますね。

「讃州藤家」から香西氏を興した香西左近将監資村

『南海通記』や『香西記』所収の「讃州藤家香西氏略系譜」によると、香西氏は源平合戦において源氏方に与して活躍した「讃州藤家」(讃岐藤氏とも)と呼ばれる武士の一族を出自としています。

その始祖は保安元年(1120)に讃岐守として赴任した中御門藤中納言家成と、阿野郡の大領を務めた豪族・綾氏の娘の間に生まれたという藤大夫章隆とされています。

「讃州藤家」は大野氏、羽床氏、新居氏、香西氏、福家氏、西隆寺氏などの諸氏に分かれますが、新居藤大夫資光は源平の争乱において源氏方となって屋島合戦で軍功を立てました。

その新居藤大夫資光の子、新居次郎が香西左近将監資村で、「承久の乱」の際に幕府方に付き、宇治川合戦での戦功によって阿野・香川両郡の地頭に任ぜられ、笠居郷に屋敷を構えて「香西」と称したことが香西氏の始まりと伝えられています。

(当時「讃州藤家」の嫡流は羽床氏でしたが、羽床氏は「承久の乱」で宮方に付いたため凋落し、これに代わって香西氏が台頭することになったようです。)

勝賀山上に詰めの城である勝賀城を、勝賀山麓に平時の居城として佐料城を構えるとともに、笠居郷の発展の礎を築いた香西左近将監資村は、地元香西においては現在も「資村公」と呼ばれて崇敬されています。

佐料城跡とされる、佐料公民館と奥津神社。
佐料は現在の高松市香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、更に内陸の高松市国分寺町に地名として残っています。
笠居郷の開発とともに瀬戸内海へと進出していった香西氏は、天正年間には長宗我部氏の讃岐侵攻に備えて、香西浦の藤尾城に本拠地を移すことになります。


なお、香西氏は笠居郷に因んで「かさい」と称したとする説がありますが、平安後期に編纂された辞書『和名類聚抄』(和名抄)には香川郡が東・西両条に分割されたこと、また康治2年(1143)の太政官牒案には讃岐国野原荘の四至に「香西坂田郷」と見え、同文書の同年9月13日、10月20日には「幸西」とも見えることから、香西条に因む地名としての「香西」(こうざい/こうさい)は香西氏以前から存在していたようです。
(『角川日本地名大辞典 37 香川県』)

『香西記』には以下のような記述があり、笠居=香西=「かさい」説はここから導かれたものと思われます。

香西地名は前に述る如し。香河の東西を別て云處なり。然れは則香東六郷を都て香東と云、又香西六郷を都て香西と云也。爰に香西氏代々笠居郷に居す。因て笠居を香西とも混せり。然るに葛西と云は非也。葛西氏有故に誤れり。葛西氏は関東の姓也。笠居の海邊を香西浦と云。香西の海濱成故也。又昔香西氏居城藤尾山の邊地を指て、香西浦と云事最可也。

また、人名として確かな史料に現れるのは、財田の南朝方攻略に関する建武4年(1337)6月20日の細川顕氏書下に「香西彦三郎」とあるのが初見とのことで、左近将監資村との関係は分かりませんが、これ以前より存在していた香西氏の一族が細川氏に従って北朝方として活動したのは間違いないようです。
(『角川日本地名大辞典 37 香川県』)


「細川四天王」で唯一、讃岐土着の武士であった香西氏

時代は下って応仁・文明の乱の頃、『南海通記』には細川勝元に仕えた「細川家ノ四天王」の一人として、香西備後守元資が登場します。

享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。

室町時代の細川家による讃岐支配は、香川氏を西守護代、安富氏を東守護代として、香川氏が多度津に天霧城、香西氏が香西浦に勝賀城、安富氏が津田に雨滝城、奈良氏が宇多津に聖通寺城と、「細川四天王」のそれぞれが瀬戸内海に港を擁する要衝に山城を築き拠点としていました。

『南海通記』は四天王それぞれの讃岐における領地とその由来について、以下のように述べています。

各讃州ニ於テ食邑ヲ賜フ、西讃岐多度、三野、豊田三郡ハ詫間氏カ領也。詫間没シテ嗣ナシ、頼之其遺跡ヲ香川ニ統領セシム、那珂、鵜足ノ二郡ハ藤橘両党ノ所有也。是ヲ細川家馬廻ノ武士トス、近年奈良太郎左衛門尉ヲ以テ二郡ノ旗頭トス、奈良ハ本領畿内ニアリ、其子弟ヲサシ下シテ鵜足津ノ城ニ居住セシム、綾ノ南條、北條、香東、香西四郡ハ、香西氏世々之ヲ領ス、三木郡ハ三木氏没シテ嗣ナシ、安富筑前守ヲ以テ、是ヲ領セシム、香川、安富、奈良ハ東國ノ姓氏也。細川家ニ属シテ當國ニ來リ、恩地ヲ賜フテ居住ス、其來往ノ遅速、何ノ年ト云フコトヲ知ラス、香西氏ハ當國ノ姓氏也。建武二年細川卿律師定禪當國ニ來テ、足利家歸服ノ兵ヲ招キシ時、詫間、香西是ニ属シテ武功ヲ立シヨリ以來、更ニ野心ナキ故ニ、四臣ノ内ニ揚用サラル其嫡子四人ハ香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔也。此四人ハ在京シテ管領家ノ事ヲ執行ス、故ニ畿内ニテ食邑ヲ賜フ、其外在國ノ郡司ハ、大内、寒川二郡ハ寒川氏世々之ヲ領ス、山田郡十二郷ハ、三谷、神内、十河ヲ旗頭トシテ、植田氏世々相持テリ、細川管領家諸國ヲ統領スト云ヘトモ、讃州ヲ以テ根ノ國トス、

郡単位ではこのような勢力配置となります。

  • 香川氏(天霧城)…多度郡、三野郡、豊田郡
  • 奈良氏(聖通寺城)…那珂郡、鵜足郡
  • 香西氏(勝賀城)…阿野郡(綾南條郡、綾北條郡)、香川郡(香東郡、香西郡)
  • 安富氏(雨滝城)…三木郡
  • 寒川氏(昼寝城)…寒川郡、大内郡
  • 植田氏(戸田城)…山田郡

このうち、香川氏と安富氏と奈良氏はいずれも主君の細川氏に従って関東から讃岐へと移住した御家人で、香西氏、寒川氏、植田氏(三谷、神内、十河)は讃岐土着の武士です。
ややこしいのですが、香川氏は相模国高座郡香川村を出自とする一族で、讃岐国の香川郡とは関係ないそうです。(僕はずっと勘違いしてました…)

このように讃岐の多くに関東出身の一族が配されたのは、南北朝期に幕府方として西国平定に多大な貢献を果たした細川氏の活躍によるものですが、香西氏は細川の麾下に入った讃岐の国衆の中で、特に戦功を認められたようです。

『蔭涼軒日録』明応2年(1493)6月18日条には「讃岐国者十三郡也、六郡香川領之、七郡者安富領之、国衆大分限者惟多也、雖然香西党為首皆各々三昧不相従安富者惟多也」とあり、讃岐の国衆には富裕な者が多く、好き勝手に事を行って安富氏に従わない者が多くいたようで、とりわけ香西氏はその代表格と見なされていたことが窺えます。

讃岐の国衆達が富裕を誇るに至ったのは、彼らが京都へと繋がる瀬戸内航路の要衝を掌握していたことが大きかったのでしょう。
東大寺領であった兵庫津北関の関税徴収記録『兵庫北関入船納帳』にも「香西」の名が見られるほか、香西氏は備讃瀬戸の要衝で造船・航海技術に優れた「塩飽衆」を擁する塩飽島や直島に一族を配していたと伝えられており、香西氏は有力内衆として政事や軍事に貢献するとともに、物流においても畿内における細川家の活動を支えたのではないでしょうか。 前述した大内堂の縁起が伝えている永正年間の「香西豊前守海上ノ警衛ヲ奉テ廻船ノ非常ヲ制ス」も、そのような経緯によるものと考えられます。

丹波守護代に抜擢された香西常建と、丹波守護代を失った香西元資

讃岐生え抜きの武士であった香西氏が、細川京兆家の内衆として畿内で活動する切っ掛けとなったのが、細川頼之(入道常久)に仕えた香西常建です。

細川頼之観応の擾乱で西国において南朝方の掃討に活躍しましたが、京都の政争で失脚して南朝方に降り阿波へと逃れた従兄・清氏を討伐し、以後、細川家の嫡流は清氏から頼之へと移りました。
有名な軍記『太平記』の最後は、幼少の将軍義満を補佐する細川頼之の執事(管領)就任をもって天下泰平を祝福して終わっていますが、実際にはその後も斯波氏との政争に敗れて阿波へと下国したり、また復権したりと波瀾万丈の生涯を送っています。


なお、本宗家と阿波守護家に分かれたのは頼之の弟、頼元と詮春からで、頼元が継いだ本宗家は代々「右京大夫」の官途を継承して「京兆家」と呼ばれ、詮春が継いだ阿波守護家は代々「讃岐守」の官途を継承して「讃州家」と呼ばれるようになったのです。
また、京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の四ヶ国守護を合わせて継承し、庶流家は和泉、淡路、阿波、備中の各国をそれぞれ継承しました。(和泉は上下半国守護制)


いわば、室町期における細川家の繁栄の礎を築いたのが細川頼之ですが、香西常建は頼之の死後も後継者の頼元に仕え、細川氏が明徳3年(1392)に「明徳の乱」の戦功によって山名氏の領国丹波守護職を獲得するに至り、応永21年(1414)には小笠原成明の跡を継いで丹波守護代に補任されました。

『康富記』応永29年(1422)6月8日条には「細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」とあり、常建は細川京兆家の元で一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたことが分かります。

この香西常建の次に丹波守護代を継いだのが香西豊前守元資ですが、元資は永享3年(1431)7月には当時の京兆家当主・細川持之によって罷免され、丹波の代表的国衆である内藤氏(備前入道)と交代させられています。

満済准后日記』永享3年7月24日条には「右京大夫丹波守護代事、申入処此間守護代香西政道以外無正体間、可切諌由被仰了」「丹波守護代可為内藤備前入道」とあり、細川持之が将軍義教の護持僧であった満済に相談して丹後守護代を内藤備前入道に交替したらよいか将軍に尋ねるよう申し出たところ、その後訪れた将軍は香西は政治のやりかたがでたらめである、厳しく処罰するよう伝えよと言ったようで、どうも罷免の原因は永享元年の丹波国一揆を招いたことにあったようです。

「香西備後守元資」を「細川家ノ四天王」として紹介する『南海通記』には常建の事績が紹介されていないばかりか、元資が丹波守護代であったことも記されていないのですが、常建が傍系の出身であったか、あるいは『南海通記』を記した香西成資が先祖に当たる元資の不名誉に触れたくなかったのではないかと推察されています。
(藤井公明『香西氏研究』)

上香西と下香西に分かれた香西氏

『香西記』の系図によると、香西元資の後継者に当たる元直と元顕の兄弟(?)で、元直が上香西氏、元顕が下香西氏の二流に分かれたとされています。

『蔭凉軒日録』長享3年(1489)8月12日条には「又香西党太多衆也、相傳云、藤家七千人、自余諸侍不及之、牟礼鴨井行吉等、亦皆香西一姓者也、只今亦於京都相集、則三百人許有之乎云々、」とあり、京兆家主催の犬追物のために集まった香西氏の一党(牟礼・鴨井・行吉を含む)は300人に及んだと記されており、中でも細川政元の信頼を得た香西又六、香西五郎左衛門、牟礼次郎兄弟らの活動は史料によく登場しており、政元が主催した犬追物にもたびたび参加しました。

『蔭涼軒日録』には香西又六と香西五郎左衛門の二人が「両香西」とも称されていることから、又六が上香西、五郎左衛門が下香西を代表する人物であったとも考えられます。

香西又六は明応6年(1497)10月に山城守護代に任じられ、やがて細川政元の養子澄之を擁立、政元暗殺の首謀者として知られる、香西元長です。
(香西元長と上香西氏の動向については、また別の機会に書く予定です。)

一方の香西五郎左衛門は、延徳3年(1491)10月に京兆家内衆で備中守護代を務める庄伊豆守元資が備中に下国し、備中守護の細川勝久に対し挙兵した「備中大合戦」において、西備前の松田氏らと共に庄氏に味方して戦いましたが、延徳4年(1492)3月の戦いに敗れて讃岐勢の大半と共に討死してしまいました。

この「備中大合戦」は京兆家が内衆を使って備中守護家へ介入しようとしたものと捉えられていますが、その背景には当時の将軍・足利義材が讃州家や備中守護家の取り込みを図ったため(讃州家出身で備中守護家の養子となっていた細川之勝が将軍から偏諱を授かり「義春」を名乗ったのもこの頃)、対立を深めていたという流れがありました。
これが政元による讃州家の懐柔策を招き、引いては政元の後継者問題を通じて、内衆の派閥抗争を激化させてしまうことになるわけです。


ちなみに庄伊豆守元資は前回の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 でも紹介した「細川政元拉致事件」において安富新左衛門尉元家と共に一宮方へ討ち入った人物ですが、その時の感状を巡って安富氏と対立関係にありました。
また、応仁・文明の乱において、西備前一帯を支配する金川城主・松田氏が山名氏と手を組んで赤松氏・浦上氏と戦った際にも、庄元資は松田方に味方したようです。この一連の戦いで嫡子の則景を失った浦上則宗は、後に安富元家の子を養嗣子に迎えることになりました。

更にずっと後のことですが、宇喜多直家に滅ぼされた松田元賢の弟元脩は毛利家に属し、関ヶ原合戦の敗北によってしばらく直島に逃れた後、香西に移り住んだとの伝承があります。
元脩は香西・植松両氏の世話を受けて堀の内に居住し、高松藩の命により塩田開発に従事、その子孫は藤尾山の南東麓に郎党の五輪塔を立てて先祖の松田左近将監元親の木像を祀り、表向きは竈(へっつい)神社=かまどの神様として崇敬していたそうです。
現在、松田左近将監の像は宇佐八幡宮の摂社白峯神社に合祀され、竈神社の跡地にています。
(参考:発見!キラッと☆香西 ヘッツヒ神社

備前の松田氏は、讃岐の香西氏とは不思議な縁がありますね。


勝賀山と香西の史跡を巡ってみた

今年の正月とお盆、二度に渡って香西に訪問した時の写真です。
勝賀山は時間と装備不足で残念がら山頂の城跡までは見られなかったんですが、中腹までから各城の位置関係や高低差を見ることで、香西氏が天正年間に佐料城から藤尾城へと本拠地を移した理由が何となく感じられました。

標高360mを超え、山城としては結構高い方と思われる勝賀山ですが、山全体にみかん畑が広がっていて、平成に完成した勝賀農免道路が走ってます。この道路を通って登山口付近まで車で近寄れました。
(駐車場はありませんが道幅が広くなっているところがあり、ちょうど山の陰になっていたのでそこに停めました。)

勝賀山と佐料城、薬師山、大内堂などの位置関係はこんな感じ。勝賀山は大きくて、この絵が大げさではないくらいのスケール感です。

こちらは勝賀城登山道からの眺望です。足元に広がるのはみかん畑。
真ん中が神宮寺山、その右側が薬師山、その右奥が峰山、その左奥辺りが高松港、さらに奥にうっすら見える台形が源平合戦で有名な屋島。左側に女木島も見えてます。

香西氏が佐料城から移転したという藤尾城には、宇佐八幡宮が建っています。

藤尾山は今でこそ内陸ですがかつて「磯崎山」と呼ばれ、『香西記』にも「又昔香西氏居城藤尾山の邊地を指て、香西浦と云事最可也」とある通り、当時は香西浦の水辺に面していました。
(藤尾というのは香西資村が勧請した宇佐八幡宮の元の遷座地の名前だそうです。参考:発見!キラッと☆香西 宇佐八幡宮

香西氏は長宗我部氏の侵攻に備えて、水上交通の要衝として発展してきた香西浦を包摂する海城を新たな主城として、周辺丘陵地の支城による防衛網を敷き、瀬戸内方面からの支援ルートを確保することで、長期戦に耐えうる体制の構築を図ったのではないでしょうか。

八幡宮のすぐ側には香西神社があります。香西小学校の校庭に建立された忠魂社が戦後に名を改めて移転されたそうです。
祭神は香西左近将監資村公を始め十余の先賢と、二百三十余柱の英霊が合祀されているとのこと。

ここからは、香西氏の出城であったという芝山城跡です。

天正年間には直島を本拠地としていた渡辺氏の一族、市之丞と三之丞兄弟が守っていたと伝わります。

芝山の頂上には現在、芝山神社が建っています。祭神は大国主命(大黒様)、事代主命(恵比須様)、市杵島姫命(弁天様)。

神社の裏に立つ宝篋印塔は、香川郡笠居の「紀伊國屋」によって奉納されたもの。

芝山の東側が現在の香西港になります。イオンモール高松やマルナカが建っています。真ん中の奥の方に見える台形のが屋島です。

芝山から見た勝賀山です。佐料の方からだと山頂が削られた跡なのか結構べったりして見えますが、海側から見ると美しく感じました。
(『香西記』に「勝れて高く美しき山也」と評されているのはこちら側からの眺めでしょうか?)

芝山から見て、真ん中の小さい森が藤尾山、その奥が薬師山です。

全体を収めるとこんな感じ。勝賀山の大きさが分かりますよね。香西の人々にとっては常に仰ぎ見る、特別な山なんだろうと思いました。

本文に記載したものの他、参考にさせていただいた書籍、資料、Webサイト等の紹介

今回は香西氏ということで、参考になる書籍が見つからず、かなりWeb上で公開されている情報に頼る結果となりました。
特に瀬戸内の港町や水軍と幕府、あるいは地域権力との関わりについては、知識の不足を痛感させられます…。

角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 37 香川県』(角川書店

角川日本地名大辞典 (37) 香川県

角川日本地名大辞典 (37) 香川県

1985年と少し古い本ですが、地名としての「香西」の起源や香西氏の関わり、塩飽諸島の略歴を学びました。
こういう辞典を初めて読んだのですが、知らない地域の経歴や史跡について調べるのに意外と役立ちますね。

宇田川武久『瀬戸内水軍』(教育社歴史新書)

瀬戸内水軍 (教育社歴史新書 日本史 65)

瀬戸内水軍 (教育社歴史新書 日本史 65)

ずいぶん昔に購入した新書ですが、あまり記憶に残らないまま本棚に眠っていたものです。
大内義興報恩堂」にちなんで、香西氏と日明貿易の関わりについて少しでも書いてるかもと考えて久しぶりに開いたら、冒頭から香西成資が『南海通記』に記した水軍に関する内容が強く批判されていて、苦笑してしまいました。
香西氏とその麾下の水軍については直接触れられてはいませんが、「警固衆」と呼ばれる大内氏麾下の水軍が遣明船の警固に当たった経緯などを学びました。

国立国会図書館デジタルコレクション

久々にこのサイトに当たりましたが、『香西記』や『南海通記』が丸ごと収録されていて驚きました。

『南海通記』は江戸時代前期の兵法家・香西成資によって記された四国の通史です。
いわゆる軍記物語として扱われていますが、荒唐無稽な内容ではなく、概ね時系列順で例えば「細川高国與細川澄元諍管領職記」「讃州香西氏建大内堂記」「讃州河野氏建不動堂記」「讃州塩木合戦記」「讃州津柳合戦記」のようにエピソード毎に分けて書かれていて読みやすく、郷土史料としても有用な内容です。
まだ通読はしていませんが、四国の戦国史を調べる上では避けては通れない書物のようで、内容も多彩で面白いので、今後も読む機会がありそうです。

『香西記』は藤尾八幡宮の祠官・新居香流軒直矩が、地元の伝承を集めた史料です。
西周辺の名所旧跡や神社の縁起などが多く、現地を訪ねるに当ってイメージを膨らませるのに役立ちそうです。
「讃州藤家香西氏略系譜」も収録されており、香西氏を知る上でこちらも必読だと思います。

古野貢「室町幕府-守護体制下の分国支配構造-細川京兆家分国丹波国を事例に」

確かな史料に基いて、丹波一国で約200年に及ぶ京兆家と守護代たる内衆、そして国人たちの変遷を解説されています。
香西氏について参考にしたのはごく一部ですが、荻野氏が関わった「丹波国一揆」や波多野氏の地域権力化(守護権からの自立)について多く触れられており、今後も何度か読み返すことになりそうです。
「細川氏守護補任以後の丹波守護と守護代の事跡」として、現存する文書の一覧が掲載されており、丹波に関する史料のインデックスとしても有用だと思います。
(上香西氏と関連して波多野氏の経歴にも触れざるを得ないので、また読むことになるでしょう。)

高松短期大学『研究紀要』

それぞれ昭和56年、昭和58年と古いものですが、Webで読める香西氏の研究としては唯一かもしれません。

香西氏の祖とされる資村の経歴のみならず、当時から香西の地がどのように発展していったのかが考察されていて、実際に現地を巡る際にも往時を偲ぶ上で役立ちそうです。
資村が進めた漁業振興政策が水軍の養成に繋がったとの説明も、香西氏の特質を知る上で学ぶところが多かったです。
香西=笠居=「かさい」説に強くこだわっておられるようで、わざわざ「かさい」とふりがなされていたり、「室町時代になると、立身出世の夢を追うて、都あたりの戦争に明けくれたのであった」と、京兆家内衆としての畿内進出については否定的な見方をされているのも特徴的です。

香西氏の経歴について非常に詳しく解説されています。特に畿内進出の先駆けとなった香西常建について学びました。
出家して讃岐宇多津に帰った細川頼之(入道常久)の親衛隊の一人として香西氏から加わったのが、若き日の常建ではなかったかと想像されていて、面白いです。
白峰寺に奉納された「頓証寺法楽百首」に収録されているという、常建と元資が詠んだ和歌についても紹介されています。

飯倉書屋

「香川史学」第17号『細川家内衆香西氏の年譜ー香西又六の山城守護代任命までー』より抜粋、とのことですが、香西氏の初見となる建武4年6月20日から、明応6年10月の香西又六(元長)の山城守護代就任までの、確かな史料に見える香西氏の動きが列挙されていて、参考になります。

細川氏一門の守護支配と京兆家

-第二章 細川氏一門の同族連合体制の展開

政元主催の犬追物に参加した香西氏一党について記された、『蔭凉軒日録』長享三年八月十二日条の解説が参考になりました。
香西氏が京兆家のみならず和泉下守護家にも庶流の香西藤井将監を内衆として輩出し、同じ「香西党」として認識されていたことをもって「京兆家と庶流家の紐帯」と説明されていて、こちらも興味深いです。

香川県埋蔵文化財センター研究紀要

たまたま検索で見つけた資料ですが、「野原」=香東郡野原庄は現在の高松城付近のことで、香西と同じ高松平野で共に発展した港町ということで参考になりました。
市村高男先生からは、香西氏の家臣に紀州雑賀出身者がいることや、「香西氏が香西の港を掌握しながら外来の武装商人集団を引っ張ってきている可能性がある」との興味深い指摘もあります。

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「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景

以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(前編)~義尹上洛から船岡山合戦まで「明応の政変」も振り返りつつ』 に続き、永正8年の船岡山合戦における勝利の立役者となったものの将軍との軋轢が生じていった大内義興、分裂弱体化した細川一門をまとめて京兆家当主・管領として幕府への影響力を強めていく細川高国、そして出奔という大胆な行動に出た将軍足利義尹の三者を中心に、前将軍義澄の遺児亀王丸を庇護したことで今後重要な役割を担っていく赤松家の内情にも触れつつ、帰京した将軍が「義稙」と改名するまでの背景で起きていた変化を読み取ります。

※なお、「流れ公方」こと足利義尹は一般には最後の名乗りである「義稙」、あるいは明応の政変により将軍職を失った時の「義材」として知られますが、改名の経緯も重要だと考えますので、ここでは主に当時の名乗り「義尹」で表記しています。

同シリーズ記事

将軍義尹が赤松氏を赦免して義澄の遺児亀王丸と和睦したことの意味、その陰で軋轢を深めていた大内義興

永正8年(1511)8月の船岡山合戦に至る前将軍義澄・澄元方の反攻において、赤松氏は高国方の瓦林政頼が守る摂津鷹尾城を攻略するなど、澄元方の一員として戦いました。
その後、前将軍義澄は決戦前に急死、細川政賢を大将とする澄元方の上洛軍も船岡山合戦で壊滅的な惨敗を喫したため、赤松氏は窮地に立たされたわけですが、永正9年(1512)閏4月、将軍義尹は赤松氏を赦免するとの御内書を細川高国大内義興に発給しました。

その陰では、細川政元の姉で赤松政則の未亡人・洞松院の働きかけがあったようで、同年6月に洞松院は尼崎において細川高国と直接会談に及んでいます。
高国は代々京兆家を補佐する立場であった野州家の出身であり、以前から洞松院と面識があったのかもしれません。
8月末には当主赤松次郎の名代として別所則治と浦上村宗が上洛し、礼物を献じて謝意を表した結果、赤松次郎は兵部少輔の官位と共に将軍義尹から「義」の一字を授かり、赤松義村と名を改めることになりました。

別所則治は今はなき浦上則宗と共に赤松政則を支えて主家再興に尽力し東播八郡の守護代に任じられた重臣でしたが、政則の死後に起きた播磨国の内乱「東西取合合戦」では、次郎を後継者に据えた浦上則宗とは対立し、洞松院を支持していました。
一方の浦上村宗は則宗の甥孫に当たり、備前守護代であった父の宗助の死後にその地位を継ぐと共に、則宗が京兆家内衆の安富氏から養子に迎えていた祐宗の死去に伴い、当主の地位を継いだと見られています。

この浦上村宗は後に赤松家の実権を掌握し、義澄の遺児亀王丸(義晴)を新将軍に擁立する高国政権において最大の威勢を持つに至った人物ですが、『二水記』にはその大永3年(1523)時点で「二十四、五才の男」と記されており、逆算すると永正9年(1512)の上洛時点ではまだ十代前半の少年であったことになります。
義尹の上洛を受けた将軍義澄が永正5年(1508)に赤松重臣達に宛てた御内書には「浦上幸松」と幼名で記されており、実際に史料上に「村宗」の名が確認できるのは永正13年頃からだそうで、おそらく赤松次郎が義村と名を改めた後、元服に際してその偏諱を賜ったのでしょう。


余談ですが、上洛した村宗は大内義興と共に在京していた周防守護代陶興房の面識を得て、将軍義尹の馬の管理を行っていた三上氏の邸宅を訪問したことが記録されているそうです。
村宗と興房は親子以上の年齢差があったと思われますが、後に尼子経久・詮久父子と激戦を繰り広げることになる名将興房と、どんな会話を交わしたんでしょうか。


すでに成人していたはずの当主ではなく、かつて洞松院を支持した宿老の別所則治と、別所氏と対立した浦上則宗の後継者でまだ少年の浦上村宗が上洛したという事実には、赤松家のいびつな権力構造が現れているようにも感じます。

赤松氏の赦免に伴って、赤松氏が本拠地の置塩館に御所を構えて庇護していた亀王丸との関係修復も進んだようで、永正10年(1513)2月14日には亀王丸との「御合体之儀」について幕府と赤松氏の間で交渉された結果、将軍義尹と亀王丸の和睦が成立しました。
この時、義村の名代として上洛した赤松庶流家の在田式部少輔は、将軍に謁見して馬や太刀を献上しましたが、その場には管領細川高国と共に大内義興が侍していたにもかかわらず、義村からの礼状の宛所は「右京兆人々御中」つまり高国のみであり、赤松氏は大内義興の幕府内での立場を認めていなかったようです。

大内義興はかつて「明応の政変」において赤松政則に翻弄された苦い経験がありましたが、その政則は晩年に異例と言われた従三位への上階を果たしました。義興も自身の上階に際して、赤松氏の先例を意識したに違いありません。
しかし、赤松氏の方は義興の立場を認めていなかったわけで、義興は内心穏やかではなかったでしょう。
義興は亀王丸との和睦交渉直前に当たる2月6日、将軍義尹の怒りを買って下国を命じられており、後日そのことへの不満を細川高国に漏らしています。
あるいは、義興は赤松氏の赦免に当たり、その厚遇に異議を唱えて不興を買っていたのかもしれません。

そして、義興が従三位上階に至った経緯においても、将軍義尹との微妙な関係を窺わせるやり取りがありました。
義興が三条西実隆を通じて上階を所望した際、義尹はその意向を伺った武家伝奏橋守光に対して「天皇の意向に任せる」と消極的な返答をしつつ、それを義興には内密にするよう述べていたのです。
本来は将軍による推挙の上で行われるべき叙位を朝廷に直接働きかけた義興の方にも問題はあったのですが、結局は後柏原天皇の勅諚によって上階が実現したわけです。

かつて大内義興を朝敵に指定した天皇の態度が一変したのは、大内氏が引き続き在京して政情安定に寄与することを期待したものでしょう。
それに比べると将軍義尹には、上洛直後にも真っ先に畠山尚順への御成を行って義興と高国の反発を招いたことからも分かるように、多大な功績があるはずの義興を軽んじているように感じます。

赤松氏の赦免と義澄の子亀王丸との和睦については、かつて「明応の政変」で管領細川政元が義遐(後の義澄)を擁立した際、当初は将軍義材に味方した赤松政則大内義興が仲介役となり、義遐を義材の猶子に迎えることで事態を収拾しようとしたことが思い起こされます。
あの時は元々赤松家の再興を通じて京兆家との関係を深めていた赤松政則細川政元の意向を受け入れざるを得ず、結果的に将軍義材と大内義興を裏切る形となったわけですが、今度の和睦には誰の思惑が絡んでいたのでしょうか。

直接交渉に当たった経緯から、これを推進したのが管領細川高国だったとすると、播磨と海を隔てた阿波にて反撃の機を窺う細川澄元と、その支持基盤である讃州家に対抗させるために、洞松院を通じて赤松家中への影響力を強めようとしたことが考えられそうです。

一方で、この動きは何よりも将軍義尹の意志が反映されたものと捉えることも可能だと思います。
義尹の立場からすると、前将軍義澄の遺児である亀王丸を味方につけることは、自身の政権を安定させる上で重要だったはずです。

また、赤松氏に将軍家の通字である「義」の一字が与えられたのは、かつて将軍義満の元で幕政に参画し「明徳の乱」でも活躍した赤松義則以来のことで、義尹は幕府を支える大名として赤松氏の復権を望んだことが窺えます。
通説では将軍義尹は専制志向が強かったと捉えられていますが、そうではなく、一部の有力大名に権力が集中することがないよう、大名間の勢力均衡を作ろうとしたものと考えると、上洛直後に畠山尚順への御成を優先したことや、政権の安定を決定付けた船岡山合戦では敵方に付いた赤松義村に対し、過剰とも思える配慮を示した理由が理解できるのではないでしょうか。

そして、阿波平島公方家に伝えられた『平島記』(平島殿先祖并細川家三好家覚書)や「寛永諸家系図伝」提出の系譜(恵林院殿より相続候次第)には、義尹は在京時から義晴(亀王丸)を後継者に考えていたと記されているのです。
『平島記』は不確かな内容や明らかな誤りも見える史料ですが、平島公方家の祖である義維(義冬)の正統性を損ねかねない記述を伝えているところは、信憑性を感じさせられます。


なお、鷲尾隆康の日記『二水記』に義維の母は「武衛腹」とあり斯波氏出身の女性と見られていますが、『平島記』では細川成之の娘で義尹の正室である清雲院が義冬の母とされ、義冬は京都で生まれたが「狂乱」のため母子ともども将軍に疎まれて阿波へ下国したと説明されています。
平島公方家では9代義根の時に阿波を退去して京都へと移住したため、先祖の出自を京都に求めつつ阿波へ下ったもっともらしい理由として後世に創作された話の可能性も考えられますし、詳しい事情は分かりません。


かつて、義尹の父義視は将軍義政の後継者の地位にありながら、応仁・文明の乱の成り行きで西軍方の将軍として擁立され、東西和睦後も義政との仲は修復されることなく、幼少の義尹と共に十年以上もの間、美濃土岐氏の元で過ごしたという経緯がありました。
義尹は足利家一族の分裂という悲劇を繰り返さないために、あえて自身の子を持たず、赤松家を取り込んだ上で亀王丸(義晴)を後継者に据えるつもりだったのかもしれません。

都を仰天させた将軍義尹の甲賀出奔と、帰洛の様子に見る幕閣の構成

永正10年(1513)3月17日のこと、将軍義尹は突如わずかな供の者を連れて近江甲賀へと出奔してしまい、京都は騒然となりました。
関白近衛尚通は『後法成寺関白記』に「言語道斷次第也、京都仰天、無是非者也」と感想を述べています。尚通は家僕の北小路俊永を将軍の側近である畠山式部少輔の元へと遣わしましたが、当の義尹が飛脚の派遣や奉公衆の参上を禁ずる御内書を残していたため、対応に苦慮したようです。

3月19日には管領細川高国能登守護畠山義元と当時上洛していた畠山尚順が協議の末、将軍の帰洛を求めて使者を派遣した結果、4月3日に将軍から詳細は不明ですが「従江州大樹御返事旨七ヶ條云々」と、七ヶ条の要求が返されたようです。
これに対して細川高国大内義興、畠山義元、畠山尚順の四大名は「諸事不可背御成敗之由申入云々」と、何事も将軍の裁定に従うことを起請文に認めて提出することになったのです。

そして5月1日には「今日為御迎、細川右京大夫、畠山尾張入道、同修理大夫、大内左京大夫等、大津、坂本邊祇候云々、大樹亦今日甲賀御立云々」と、甲賀で病気になったと称して園城寺へと移っていた義尹を迎えるため、四大名たちが大津、坂本に赴きました。

ここに至ってようやく怒りを治めた将軍は、諸大名および奉公衆たち総勢三万人に及ぶ大行列で帰洛し、大勢の見物人に迎えられました。

大樹御歸洛也、供奉衆細川右馬頭、畠山次郎、同式部少輔、大館刑部大輔、一色兵部大輔、伊勢守以下十ニ三騎、奉公衆、御輿前二行、七八十人云々、板輿也、甲賀奉公衆種村刑部少輔父子以下御先ニ馬上也、畠山修理大夫ヌリ輿、騎馬四五騎也、次大樹、御後、細川安房入道塗輿、騎馬四五騎也、其後和泉守護彌九郎、次畠山尾州馬上、後騎十二騎也、次大内左京兆ヌリ輿、後騎十一ニ騎也、次細川右京兆ヌリ輿、後騎十二三騎也、人數三萬餘人計歟、見物衆如竹葦云々

『後法成寺関白記』永正十年五月三日条(那賀川町史編さん室『平島公方史料集』)

帰洛した諸大名の様子からは、当時の幕府における有力者とその序列を窺い知ることができます。

「ヌリ輿」(塗輿)は白傘袋、毛氈鞍覆と並んで守護の家格にのみ認められたもので、「大樹」(将軍)の前の畠山修理大夫、後ろの細川安房入道、そして最後の大内左京兆、細川右京兆が使用しています。

両京兆の二人は説明するまでもないでしょう、その他の代表的な人物を簡単に紹介していきます。

先頭の細川右馬頭(尹賢)は、細川政賢が船岡山合戦で討死した後、典厩家を継いだ高国の従弟です。
尹賢は後に高国派の後継者となる細川氏綱の父でもあり、「大物崩れ」に至る流れの発端となった事件の当事者にもなる重要人物です。

畠山次郎は畠山尾州家の尚順の嫡子で、後の稙長でしょうか。
能登守護・畠山義元の養子、後の義総も当時は次郎と名乗っており、両方の解釈があるようです。

畠山式部少輔(順光)は義尹の山口下向にも扈従し、幕府申次を務めた人物で、後には異例の将軍御成も受けています。
赤松氏を通じて澄元方との交渉を担当したという側近中の側近で、彼の生涯は本シリーズ記事のテーマとも合致するため、改めて取り上げる予定です。

大館刑部大輔(政信)、一色兵部大輔(尹泰)についてはよく分かりませんが、両者は船岡山合戦後の細川高国邸への御成にも随伴しており、特に一色尹泰は義尹の山口下向にも扈従してその偏諱を授かっていることから、その寵臣の一人だったようです。

「伊勢守」は政所頭人世襲する伊勢惣領家の当主のことですが、当時は伊勢貞陸でしょうか。

種村刑部少輔(視久)も義尹の山口下向に扈従した側近の一人で、幕府申次を務めました。子の種村三郎は今度の突然の甲賀出奔にも同行していることから、特に義尹の寵愛を受けていたことが窺えます。
「視久」という名から、おそらく義尹の父義視以来の近臣と思われます。

畠山修理大夫(義元)も明応の政変以来の義材派で、能登国の守護ですがこの頃は在京して幕閣に加わっており、船岡山合戦にも参戦したため、細川高国に続いて将軍義尹の御成を受けました。
高国・義興と共に起請文を提出した四大名の一人です。

細川安房入道(政春)は高国、晴国兄弟の実父で野州家当主の細川政春です。
野州家は代々守護職を持たず京兆家を補佐したという家柄ですが、塗輿の使用を認められている点は注目すべきでしょうか。

「和泉守護彌九郎」は和泉下守護家を継いだ細川尹賢の弟・高基のようです。とすると高国の従弟ですね。
和泉国は上下半国守護制が採られていました)

馬上の「畠山尾州」が義尹の将軍復帰後に最初の御成を受けた、畠山尚順です。五月一日に「畠山尾張入道」と記されている通り、当時すでに出家していたようです。
(そう考えると「畠山次郎」は家督を継いでいた稙長のことでしょうか?)
高国・義興と共に起請文を提出した四大名の一人です。

以上の顔ぶれからは、当時の幕府において、旧義材派の守護大名大内義興、畠山義元、畠山尚順父子)、将軍の古くからの近臣(畠山順光、大館政信、一色尹泰、種村視久)、そして管領細川高国とその親族(細川尹賢、細川政春、細川高基)が重要な地位にあったことが窺えます。


ちなみに「伊勢守」伊勢貞陸は父の貞宗と共に「明応の政変」にも深く関わっていたはずですが、義尹の上洛後も引き続き政所頭人を務めています。この一族は派閥など関係なく幕府運営には欠かせない別格の存在だったのでしょうか。


公卿たちが見た将軍義尹出奔の理由と、丹波内藤氏の復権に象徴される京兆家内衆の変化

関白近衛尚通は、先の将軍出奔の原因を「對此間兩京兆御述懐云々」つまり細川高国大内義興への不満と記している他、醍醐寺理性院の厳助が「対細川御述懐之故、御発心云々」と高国への不満、甘露寺元長が「対諸大名可被仰子細有之云々」と諸大名への不満を記しており、公卿達は将軍に諸大名、とりわけ細川高国に対して何か鬱積したものがあったと考えたようです。

しかし、高国はまだ当主として京兆家の体制を充分に固められていなかったはずで、政権樹立の功労者である大内義興をはじめ、前将軍義澄在任の頃から義尹を支えてきた大名達も在京している中、彼らを差し置いて権勢を振るうことができた訳はないでしょう。
かつて細川政元が赤沢宗益や上原賢家・元秀父子など新参の家臣を側近に起用して譜代内衆の反発を招いたことや、晩年に澄之に代えて澄元を後継者としたために讃州家と京兆家の対立が激化し、その中で命を落とすに至ったことも、高国に自制を促したに違いありません。

また、永正9年時点で従二位の将軍義尹、従三位大内義興に比べて、高国は参内しているものの大永元年11月の従四位下叙位まで「歴名士代」に記載がないそうで、位階においても両者への遠慮が窺えます。
この時点ではとても、後世に伝えられているような「将軍に対する専横」の気配は感じられません。

一方で、義尹の将軍復帰以後に行われた幕府儀礼の中で、大名邸における猿楽興行の回数が義澄期と比べて明らかに多くなっていることから、高国が京兆家当主という最も高い家格を有することを利用して、積極的に猿楽興行を開催することで在京大名間の序列形成を図ったとの指摘もあります。
(浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』)

猿楽興行は永正5年から永正9年までの間に、将軍御所で10回、細川高国邸で2回、大内義興邸で1回行われており、将軍の他には細川高国大内義興、畠山稙長、畠山義元という、義尹出奔の際に起請文を提出した四人の在京大名が主催あるいは共催しています。
その中でも気になるのが、永正9年2月15日に細川高国邸において行われた猿楽興行で、これを主催したのは高国ではなく京兆家の分国丹波守護代、内藤備前守貞正でした。

内藤氏は関東御家人の流れで古くから丹波に土着していた武士ですが、南北朝の動乱期を通じて丹波を代表する国人へと成長し、細川勝元に従って応仁の乱で戦功を立てた内藤元貞は丹波守護代、また京兆家内衆として強い発言力を持ちました。
細川京兆家の通字である「元」を与えられていることからも、勝元から相応の信頼を受けていたことが窺えます)

この内藤元貞が深く関わり、京兆家当主と内衆の関係を知る上でも重要な「細川政元拉致事件」について紹介します。
文明11年(1479)12月、勝元の跡を継いだ政元はまだ15歳、修験道の回国修行と称して丹波へ赴いた際、被官の一宮宮内大輔が守護代内藤元貞への反発から、政元を拉致して謀反を起こす事件が起きました。
この非常事態にはなかなか解決の道筋が立たなかったようですが、翌年2月までには「細川事一宮責之、一門各同心。九郎定而可生涯条不能左右、野州息六郎可還俗分一決旨」(『大乗院寺社雑事記』文明12年2月4日条)と、ついに政元を見捨てて、勝元のかつての猶子で当時出家していた細川勝之を還俗させることとして、一宮氏への攻撃が開始されました。
その後また1ヶ月膠着状態が続いたようですが、内藤元貞が京都で集めた牢人達を乱入させて徳政一揆を起こさせた一方で、一宮備後守が宮内少輔を裏切って内藤に通じたため、その混乱に乗じて安富新左衛門尉元家、荘伊豆守元資らが討ち入り、政元は約100日を経てようやく救出されました。
(参考:細川政元掠奪事件

そもそもこの事件の発端は、一宮氏に与えられた闕所への年貢免除を認めず一宮方を三十人ばかり討ったという、内藤元貞による一宮氏への横暴であり、政元はそのとばっちりを受けたようなものでした。
しかし、まだ若い政元には信頼できる家臣も少なく、先代の細川勝元から信任されていた元貞を容易には処分できなかったのでしょう。
そして事件の終結から2年を経た文明14年、政元は突如元貞を更迭し、丹波出身の側近・上原元秀を守護代に任じたのです。


なお、事件の際に細川勝之の擁立を主張したのも内藤元貞だったようですが、勝之は野州家の出身で高国の伯父に当たり、勝之の妻は丹波世木城主の湯浅氏出身、勝之の実子も湯浅氏を継いでいたことからも窺えるように、内藤氏麾下の丹波衆が当初から野州家との繋がりが強かったことが影響したように感じます。
事件当時の野州家当主は高国の祖父教春でしたが、その教春も応仁の乱の際には丹波衆を率いて参戦したと伝わっています。
船岡山合戦の前に劣勢となった義尹方が京都から一旦退いた際、避難先に選んだのが丹波の宇津という事実からも、丹波野州家にとって安定した支持基盤であったことが窺えます。


このような経緯でしばらく政権中枢から遠ざかっていた内藤氏ですが、それがかえって幸いしたというべきか、澄之派と澄元派の争いにはどちらにも深入りすることなく、澄之派による政元の暗殺と澄元派の京都没落という状況の急変に際して、いち早く高国を支持しました。
内藤貞正は、船岡山合戦においても柳本又次郎入道宗雄と共に丹波衆を率いて戦っており、京兆家内衆の中でも第一の功績と認められたのでしょう。
主君の邸宅を借りる形で、おそらく少数の客を招いての開催とはいえ、守護代格による猿楽興行の主催は他に例が見られず、貞正は大いに面目を施したと思われます。

かつて「細川四天王」と称された安富氏、香西氏、奈良氏、香川氏など讃岐に本拠地を持つ内衆の多くが勢力を減退させた一方で、高国の元で京兆家の宿老として復権を果たした内藤貞正は京都に邸宅を構え、主君の高国ともども、当代随一の文化人として名高い公卿・三条西実隆と交流することになるのです。


細川高国が義晴を将軍に擁立し、新御所「柳之御所」が完成した大永6年頃の京都を描いたと見られる『歴博甲本 洛中洛外図屏風』において、典厩邸の向かいに描かれている邸宅が内藤邸で、その場所は現在も「内藤町」と呼ばれているそうです。
また、「柳之御所」の造営には香川氏らかつての有力内衆たち(京兆之北、香川、安富、秋庭、上野以下)の邸宅跡が利用されたそうで、これも高国への代替わりで起きた内衆の変化を象徴しているように感じます。
(小島道裕『洛中洛外図屏風: つくられた〈京都〉を読み解く』)


都の公卿たちが将軍義尹出奔の原因を高国への不満と考えたのは、高国の親族(細川尹賢、細川政春、細川高基)がいずれも重要な地位にあっただけでなく、内藤貞正に代表されるような地方の国人上がりの武士までもが京都の政局への影響力を増していたことを、他ならぬ公卿たち自身が不満に感じていたためではないでしょうか。

将軍義尹の狙いは幕府の主導権を確保するところにあった?

前述の通り、将軍義尹の出奔は細川高国大内義興への不満に因るものと噂されたわけですが、赤松氏の赦免と亀王丸との和睦の件でも述べたように、義尹が政権安定の手段として一部の有力大名に権力が集中しないよう配慮していたと考えると、別の理由も浮かびます。
実は義尹は本心から遁世しようとしたわけではなく、自身の存在の重みを在京大名達に思い知らせつつ、幕府の主導権を自身の手に確保するため、あえて職務放棄という非常手段に訴えたのではないでしょうか。

そう考えると、この出奔の結果として諸大名から「諸事不可背御成敗」=何事も自身の裁定に従うことを誓わせると共に、大勢の見物人が集まる中で将軍としての威厳を示すに至ったわけで、将軍の目論見は達成されたと見ることもできそうです。

そして、将軍義尹は甲賀への出奔から帰京して半年を経た永正10年11月9日、名を「義稙」と改めました。
「日野豊田系図」にはその理由として「天下の政務に倦み給う故」と伝えられていますが、実際のところそのような理由とはとても思えません。

義稙は永正12年7月5日に「北は三条坊門、南は姉小路、東は富小路、西は万里小路」に囲まれた地に新邸(三条御所、三条万里小路御亭)の造営を開始しており、甲賀からの帰京後も意欲的に活動していることが窺えます。

永正5年の上洛時に仮御所とした一条室町の吉良邸は、船岡山合戦の前に丹波へと脱出した際に自焼しており、その後も長らく二条西洞院の妙本寺を仮御所としていたようで、これを機に自ら新たな御所を築くことは、将軍の復権を心中に期する義稙にとって極めて重要だったのでしょう。
義稙は同年12月2日には三条御所へと移り、以後大永元年3月7日に二度目の出奔に至るまで、この新御所で政務を執ることになります。

しかし、その一方で、後柏原天皇即位式は前将軍義澄の時代に細川政元の反対によって沙汰止みとなって以来、資金不足のため長らく延引されたままであり、そのことで高国・義興が新邸造営に反対したために、将軍が不満を募らせたのではないかとも推測されています。
実際、大内義興は12月3日に行われた新御所での初目見得を病気と称して欠席したそうで、義興の将軍への不信感は義稙が思っている以上に深刻だったのかもしれません。
そして、将軍との軋轢が直接の原因ではないと思いますが、陶興房太宰府天満宮に宛てた書状によると、義興は永正12年10月頃には国許に対して帰国の意志を示していたようです。
(藤井崇『大内義興』)

義興は以前にも何度か帰国をほのめかしており、何らかの譲歩を引き出すための方便という意味もあったようですが、義尹と共に上洛して以来早7年を過ぎた今、国許の情勢は決して平穏とは言えない状況となっていました。
そして、義興の帰国を契機として、阿波の細川澄元と三好之長は再び反撃を開始することになります。

前編・中編・後編の3回に分ける予定で書いてきましたが、今回は残念ながら記事に関係する史跡を紹介できなかったので、次の更新では番外編として、京兆家内衆の香西氏とその関連史跡を紹介しようと思います。

祝『足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍-』発売!!

実はこの記事、書き出してからもう半年以上かけてしまったわけですが、その間に待ちに待った一冊が発売されました。

戦国時代の足利将軍家といえばこの方、山田康弘先生の『足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍-』です!

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

5月下旬の発売ですでに入手しているのですが、読むと著しく影響を受けてしまうことは間違いなく、それまでの間に書き溜めていた記事の訂正が大量発生しそうなので、あえて積んだままにしています。

実際のところは 前編 の内容についても、現在では印象が変わっているところもあったりするんですが。(特に細川高国

今回の記事についても、自分の学習の軌跡、ひとまず現時点でのまとめとして考えていますので、よっぽど恥ずかしい誤りを指摘されでもしない限り、訂正はしないと思います。

記事の続きは、この山田先生の本を読み終えてから書こうと思います。

参考にさせていただいた書籍、資料、Webサイト等の紹介

浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版

在京大名細川京兆家の政治史的研究

在京大名細川京兆家の政治史的研究

細川高国の幕府儀礼への関わりに注目され、詳細に検討された論文が掲載されています。
この本で船岡山合戦の直後に内藤貞正が猿楽興行を主催していることを知り、細川政元の時代における京兆家内衆の対立状態からの変化の流れを、義尹帰還からの高国の台頭と結びつけて捉えるきっかけとなりました。
ずっと違和感を覚えていた、通説における「高国の専横」への疑問をある程度払拭することもできました。

将軍出奔の理由を細川高国大内義興への不満として、高国の立場からその背景の考察が詳しくなされていましたが、時期的には出奔後に起こった出来事も含まれており疑問に感じるところもあります。
そこで、そもそも将軍は本心から遁世しようとしたわけではなく、一度目の出奔(今回扱った甲賀への出奔)と二度目の出奔(次回で扱う予定の淡路への出奔)も性質が異なるものではと思い至り、今回の記事は前回から方向性を変えました。

僕のような素人には少々難解でお値段も高めですが、書店で普通に購入できる本で、細川高国の真価を知るには今のところ最適な一冊だと思っています。

藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』(戎光祥出版

赤松氏赦免と亀王丸との和睦について、大内氏の視点での考察を参考にさせていただきました。
義尹の出奔については「無責任」そして「軽薄な貴人」と厳しい目が向けられていて、義尹の行動に呆れ果てた義興は帰国までの数年間、幕府のためというより大内家の権益拡大のために在京していたとの論調で、今のところそこはちょっと素直には同意できない感じ。

小島道裕『洛中洛外図屏風: つくられた〈京都〉を読み解く』(吉川弘文館

最近購入した本ですが、『洛中洛外図屏風』が描かれた背景を文書史料や先行して描かれた作品と合わせて読むことで、多くの示唆が得られることが実感できるという、とても面白い内容です。これで、洛中洛外図屏風の見方が一変しそうな勢いです。
特に、歴博甲本から細川高国の新政権樹立の背景を読むところに多くを学びました。
以下の歴博公式Webサイトの記事も面白いですよ。

大石泰史編『全国国衆ガイド 戦国の "地元の殿様" たち』(講談社

複数の執筆者で書かれている本ですが、「両細川の乱」における京兆家内衆の動向、特に手元に資料が皆無だった香西氏や内藤氏について調べる取っ掛かりとして役立ちました。
ちなみに、畿内地域の担当は『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』の浜口誠至氏です。

渡邊大門『備前 浦上氏』(戎光祥出版

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

赤松氏の内情や浦上村宗に関することは、ほぼこの本を参考にしています。
ただし、兵庫県史等でも言及されている赤松氏の動向と畿内政権との関連には触れられておらず、おそらく意図的に避けているような印象を受け、その点は浜口誠至氏とは対照的に感じます。

播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)

  • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
  • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

赤松義村と洞松院、そして浦上村宗に関することは、こちらも併せて参照しています。
一般に義村は浦上氏の「下克上」を許したとされ後世の評価は低いのですが、再評価して欲しいと思うきっかけを得た本でもあります。

那賀川町史編さん室『平島公方史料集』

阿南市立阿波公方・民俗資料館にて購入したものです。
平島公方(阿波公方)の立場からは義冬(義維)を初代と数えますが、その先代として義稙の事跡にも触れられており、今回の記事で主に扱った甲賀出奔に関する『後法成寺関白記』からの翻刻文が掲載されています。
また、『平島記』は阿波公方誕生の経緯がどのように伝えられているのかという点でも、興味深い内容です。

兵庫県史編集専門委員会『兵庫県史 通史編 第三巻』

昭和53年と古めの本ですが、両細川の乱についてまとまった内容があります。
赤松氏の動向は勿論ですが、丹波の国人についても多く扱われており、特に内藤氏の経歴や内藤貞正と細川政元の因縁について学びました。
なお、今回の記事で扱った政元拉致事件の背景については、以下のWebサイトが詳しいです。
八犬伝の解説サイトのようですが、こんな記事が読めるとは…)

Papathana's ブログ

今年に入って「明応軍乱編」の掲載が始まり、非常に刺激を受けました。
一連の記事で明応の政変の背景、特に政元の時代の特質や政元晩年の讃州家の地位向上に至る流れを知り、義尹政権において高国が求められた役割や内藤氏復権の背景が見えてきたように感じました。

赤澤宗益や古市澄胤のプロフィールも興味深いです。
古市氏については地元での応仁・文明の乱と山城国一揆に関連することもあり以前から少し学んでいましたが、より理解が深まりました。

二周年です(…のおまけ): Muromachi通り

義材(義尹・義稙)といえばこのサイト、というくらい個人的に影響を受けてリスペクトしている『戦国黎明記』管理人さんのブログ記事ですが、義尹政権における畠山尚順細川高国のポジションについて分かりやすく解説されていて、特に今回の記事で扱っている時期、大内義興帰国以前の高国について考え直すきっかけをいただきました。
上の『Papathana's ブログ』の赤澤宗益や古市澄胤の記事と併せて読むと、義尹上洛までの畠山尚順の動きがよく分かり、味わい深くなると思います。

同シリーズ記事

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『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』発売記念アンケート「三好家が分裂抗争で弱体化してしまいました。一番悪いのは誰?」を実施しました

三好長慶の死後その遺体を密かに埋葬していたと伝えられる、河内飯盛山城の御体塚曲輪跡)

1月下旬、待ちに待った一冊が発売されました。三好氏に興味を持ってきた方にはお馴染み、天野忠幸先生の『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』(戎光祥出版)です。

Twitterでフォローしている方の間でも結構話題になっていて、特に天野先生の三好長慶論に馴染みのなかった方にとっては刺激的だったようです。

そこで、この機会に以前から意見を伺ってみたかったアンケートを実施しました。

題して「三好家が分裂抗争で弱体化してしまいました。一番悪いのは誰?」

あえて何も説明を加えず人名のみ掲載する形として、三好義継、篠原長房、三好長逸松永久秀の中から一人を選んでいただくというものです。

何人かの方にリツイートしていただきましたおかげで、24時間で36人の方からの投票がありました。

ご覧の通り、トップはおそらく大方の予想通りだとは思いますが、松永久秀でした。

一応、反射的にクリックする前に少しでも考えていただこうと、選択肢の一番最後に入れたわけですが、結果には影響しなかったかもしれません。(笑)

以下はTwitterで直接いただきましたご意見と、僕からの返答です。

久万貞@uragamimogami さんとのやり取り

備中守@mtboxl さんとのやり取り

山本ゾンビ@飯盛城と堺台場 さんとのやり取り

(山本ゾンビさんは、この大東市の河内飯盛城パンフレットに描かれている、飯盛山城の復元図を作成された方です。)

ご意見をお寄せいただきました皆様、参加してくださった皆様、ありがとうございました。

三好政権が松永父子の排斥に至った経緯、分裂抗争を通じて畿内政権への影響力を増した阿波三好家のこと

ここからはアンケートの感想と共に、これまで三好氏について学んだ自分なりの見解を書き連ねていきます。

まず、三好長慶死後の三好政権が将軍義輝を殺害するに至った「永禄の変」の背景には、上洛して政変を主導した三好義継・三好長逸と、大和に在国しつつ興福寺一乗院にいた覚慶(後の将軍義昭)を保護していた松永久秀の間で、どのようにして足利将軍家を克服するか、という今後の三好政権にとって重要な点で意見の対立があったようです。

天野先生の見解によると、宗家当主の三好義継は自らが将軍義輝に変わって名実ともに天下人たらんと欲し、三好長逸も当初はそんな義継を後押しして将軍殺害にも積極的に関与したのに対して、松永久秀は現実路線として義輝に代わって弟の覚慶(義昭)を擁立することで軟着陸を目指し、そして篠原長房は阿波三好家を主導する立場から、阿波公方(義冬・義親父子)の擁立を推進したという構図でしょうか。

彼らがそれぞれ異なる思惑で動いていたことは『三好長慶 諸人之を仰ぐこと北斗泰山』でも示されていたと思いますが、『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』では、阿波公方の擁立が当初の計画にはなかったもので、義継だけではなく長逸も足利将軍家を奉じる意志はなかったこと、そして久秀の子である久通も当初は義継や長逸に従って行動しており、久秀だけが異なる構想を抱いていたと改めて説明されました。

以前の記事 将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情 でも触れましたが、やはり松永久秀は長慶の死後、政権内で孤立してしまっていたように感じます。とは言え、久秀は対幕府・朝廷交渉を重ねる中、京都政界において幕臣として独自の権力を築いており、フロイスによって「天下すなわち『都の君主国』においては、彼が絶対命令を下す以外何事も行われぬ」と評価されるほどで、実際には決して侮れない影響力を保持していたものでしょう。

この4人の中で立場的に異なるのが篠原長房です。実はこのアンケートの問いが頭に浮かんだ当初、篠原長房は久秀の排斥後に三人衆にも勝る権勢を得たと伝えられていることから、長房こそが分裂抗争に拍車をかけ、義継さえも離反に追いやってしまった張本人ではないかとの疑念も抱いていたんですが、『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』を読むにつれ、宗家の三好義継ではなく阿波三好家の三好長治を主君とする長房としては、優先すべきことが異なるのも当然ではないかと考えるようになりました。

そして、松永久秀は覚慶の大和出国に続き弟の内藤宗勝が討死したことを契機として政権から排斥されたわけですが、どうもそれを主導した三好長逸の行動が怪しく感じられるようになってきたわけです。

山本ゾンビ@飯盛城と堺台場 さんのご意見にもあったように、確かに覚慶を取り逃がした松永久秀の失態は大きいです。

更に、天野先生の解説でも触れられていましたが、大覚寺義俊が上杉弾正少弼(謙信)へ宛てた書状には「一乗院殿南都御座所儀、居御番候而、松永堅雖申付候、朝倉左衛門督令直談、種々廻調略、去月廿八日、至甲賀和田城被引退候」とあり、これを朝倉左衛門督(義景)と直談した久秀が調略によって、つまり何らかの取引の上で故意に覚慶を甲賀和田城へと脱出させたものと解釈すれば、実は久秀の方が先に三好家を裏切っていたことになりそうです。

アンケートで久秀に票を投じた方の中には、単に通俗的な悪評から判断されたのではなく、この久秀の動きを裏切りと捉えた方が少なからずいらっしゃったのかもしれません。

しかし、備中守@mtboxl さんのご意見のように、長慶の時代から双璧として高い地位にあった三好長逸松永久秀の権力争いを分裂の原因と捉えてみれば、飯盛山城を急襲して義継の側近を切り捨て、半ば強制的に久秀父子の追放を義継に承諾させたという長逸の行動にも、そこまでの正当性があったのか疑問に感じます。

長慶の生前すでに家督を継いでいた久秀の子の松永久通は「永禄の変」直前に義継と共に上洛した際、将軍義輝から偏諱を授かり「義久」と名乗ったほどで、すでに義継世代の重臣としてどの地位を約束されていました。

また、義継の側近として越水衆の瓦林一族と見られる瓦林長房が奉行人を務めていましたが、瓦林氏は西摂津随一の国人で、この一族には松永久秀が摂津滝山城主を務めた頃からの重臣に瓦林左馬允秀重もいました。越水城はまだ「孫次郎利長」と名乗っていた若き長慶が最初に畿内進出の拠点とした城であり、三好政権にとっては阿波からの上洛経路における重要拠点の一つでもあります。

久秀の側近には、義輝の襲撃に従軍して思想面でその正統性を訴える役割を担ったという大儒の公卿・清原枝賢や、枝賢や高山飛騨守(高山右近の父)と共に畿内の武将で最初のキリシタンとなった河内岡山城主・結城山城守忠正、久秀の正親町天皇への奏上によって朝敵赦免の勅許を受けた能筆家・楠正虎(大饗長左衛門尉)など、長慶の時代からその教養によって人脈を築き、三好家中に強い影響力を持っていたであろう人物もいます。

(なお、結城忠正天文学や剣術にも精通しており、同じく松永派の柳生宗厳とも親しく、後の新陰流にも影響を与えたと伝わっています。また、楠正虎は後に楠長諳と名乗って信長や秀吉にも右筆として重用されますが、天正15年(1587)に秀吉の島津氏討伐の際に記したという『楠長諳供奉道中宿所覚書』(九州陣道之記)において、道中に滝山城跡へと立ち寄り、父母の墓参りを行って昔を偲ぶ歌を残しています。)

いくら方針の対立があったとしても、久秀を排斥することは、摂津や河内など畿内勢力基盤を持ち、三好家中にも多くの影響を与えていた彼らを敵に回すことにも繋がりかねません。また、長慶の嫡子義興の急死に伴い唐突に後継者となったため、自身の家臣団を築き上げる時間的余裕がなかった義継にしてみれば、一部の側近を失うことにも相当な抵抗があったんじゃないでしょうか。

天野先生は、この時義継は「事実上のクーデターを容認した」と説明されていますが、義継自身に葛藤があったからこそ、長逸ら三人衆は強引なやり方で久秀との断交を強要せざるを得なかったのだと思います。

そして三好政権は松永父子を排斥した結果、摂津滝山城や越水城の他にも、伊丹城に伊丹親興と塩川満国、摂津中島城に細川典厩家の細川藤賢、また京都近郊では勝龍寺城、淀城、西院城などが松永方となり、もともと反三好方であった河内畠山氏や根来衆に加えて、十河一存の後見によって和泉松浦氏を継いでいた松浦孫八郎(義継の実弟)までもが敵に回ってしまい、その対応のために阿波三好家とその執政である篠原長房を頼らざるを得なくなります。

篠原長房率いる四国衆が永禄9年6月から8月にかけて畿内を奔走し進撃を繰り返した結果、義継はこれまで秘匿していた長慶の葬礼を行うとともに、後継者として畿内平定を宣言するに至りますが、このために阿波三好家の影響力が増大し、やがて三好政権は四国衆に奉じられた足利義栄(義親改め)を将軍とする体制へと変貌してしまうのです。

思えば、「明応の政変」を起こした管領細川政元をはじめ、細川京兆家が中心となって幕府を主導していた頃より、畿内政権においては細川家内衆たる国人をはじめ諸勢力を糾合して幕政に参画する言わば中央勢力と、時には中央からの要請を受けて軍を派遣するものの、基本的には在国して領国を経営してきた阿波・讃岐の地方勢力、この両者の対立がたびたび発生してきました。阿波から畿内進出を果たして一大勢力へと成長し、足利将軍家に代わる「天下執権」と認められるにまで至った三好家も、結局はこの対立の構図から逃れられない運命だったということでしょうか。

松永方へと走った三好義継の無念

義継は永禄10年2月、松永久秀の支持を表明して離反したわけですが、これに関して『足利季世記』(『公方両将記』と『細川両家記』を元に恣意的に改竄され『舟岡山軍記』『畠山軍記』なども加えて再編されたと言われる軍記物語で、史料的な評価には要注意とされていますが)に、このような記述があります。

三好左京大夫義次、イマタ若輩ナレハ何事モ三人衆ノママ也、然レハ光源院様御生害モ、阿波御所様御タノミアリシモ三人衆ト松永也、今度ノ御上洛モ篠原ト山城守、三人衆ノ計ヒトハ申セトモ、両事トモ惣大将義次ノ故ナラハ、公方様ヲコソ御礼モアルヘキニサナクシテ、義次ハ若年ナレハサノミ御賞翫モナシ、唯三人衆エノ御礼ハ難尽筆ニモ、三人衆モ山城守、篠原モ義次ヲ差置、万ツ公方様エ出仕ノヒマナカリケレハ、義次ノ乳母子金山駿河守此事ヲイカリ、左京大夫義次ヲススメケレハ、則義次、松永方ヘ内通アリ、堺ノ北ノ庄材木町ノ木座エ御宿替アリ、同廿六日三人衆ニカクシテ松永弾正カ方エ一味アリケリ

(若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』より)

これまで一般に流布されてきた通説はこの軍記の影響なのでしょうか、「光源院様」(義輝)の殺害と「阿波御所様」(義栄)の擁立はいずれも三人衆と松永が計画したことで、その上洛は「篠原」(篠原長房)と「山城守」(三好康長)、三人衆によるものとあります。今では天野先生の研究によっていずれも久秀は関与していないとの見方が強まっていますが、それはさておき。

ここでは、三好宗家の当主である義継が若年との理由で阿波公方から軽んじられたと伝えています。もしそのようなことがあったのであれば、長房と康長は元々阿波三好家の家老であって、彼らの主君は三好長治なので目を瞑るとしても、三好宗家の補佐役である長逸ら三人衆は、主君の義継を庇うべき立場のはずです。それなのに、彼らは義継を見捨ててしまったというのでしょうか。

義継は三人衆方を離反する10日程前に、篠原長房へ宛ててこのような書状を出しています。

急度申候、三人衆、当家可然様可令馳走由申、さもなく外聞失面目、如無之仕成、人形同然候、

(『戰國遺文 三好氏編 第ニ巻』より)

義栄から軽んじられたことで離反したというなら、その義栄の擁立を主導した長房を頼るというのは不自然ですが…後の経緯も合わせて考えると、切羽詰まった義継が長房に対して、三人衆への苦情を訴えているように思えます。

よほど三人衆の態度が腹に据えかねていたのか、それともフロイスが『日本史』で「日本の王政の実権を執れる三人の異教の貴族」と記した三人衆に対して「権勢彼等に勝り、ほとんど彼等を左右する地位にありしもの」と評した長房ぐらいしか、三人衆にものを申せる人物がいなかったのでしょうか。

その後、篠原長房は義継側近の金山駿河守(『足利季世記』で義継に松永方への内通を勧めたとされている人物です)に宛てて返書を送りましたが、義継の不満は解消されることはなかったようで、ついに離反を決意した義継は三人衆を名指しして、痛烈な言葉で非難しています。

同名日向、下野石成以下構悪逆無道、前代未聞所行候、松少事対家大忠儀候条、依難見放、令一味候、此間粉骨之由感悦候、弥馳走可為神妙儀、恐々謹言

(『戰國遺文 三好氏編 第ニ巻』より)

「日向」は三好日向守長逸、「下野」は三好下野守(釣閑斎宗渭)、「石成」は石成主税助友通ですね。

永禄10年2月28日に義継から松永方の椿井一郎、古市播磨に宛てたという書状なので、敵方となる三人衆の不義を喧伝するのも当然ではありますが、それにしても、彼らの「悪逆無道」は「前代未聞所行」だとまで言わしめたことは、非常に印象が悪いです。

長逸は三好家の長老格として新当主の義継を補佐すべき立場でありながら、久秀を政権から排除するために義継を半ば強奪する形で取り込んだものの、久秀との抗争によって主導権を阿波三好家に握られてしまった挙句、その義継本人が松永方へと離反してしまったわけで、これまでの経緯と結果だけを見ると、期待される役割を果たせなかったと判断せざるを得ません。

当初は義継の構想を支持していた長逸も、久秀派と結んだ義昭が朝廷からも正式な将軍候補として認められているこの時点では、すでに対抗の将軍候補を擁立せず天下をまとめるのは困難と判断していたのでしょう。それを長逸が悪いと捉えるか、義継が悪いと捉えるかは意見の分かれるところかもしれません。しかし、主君にここまで悪し様に罵られるというのは何とも擁護しがたいことだと思います。

三好長逸はなぜ織田信長との交渉を続けていたのか?

そしてもう一つ気になるのは、今回『三好一族と織田信長 「天下」を巡る覇権戦争』を読んで初めて知った内容ですが、永禄11年4月に長逸から「新治伊予守」こと稲葉良通に宛てたという書状です。

稲葉良通は信長の美濃侵攻の切っ掛けを作ったいわゆる美濃三人衆の一人ですが、永禄11年2月に阿波公方・足利義栄が将軍に就任したことを受けてか、家臣の斎藤利三を上洛させて長逸に十文字鎌を贈ったようで、「尾州へ然るべく候様、御取り成し肝要に候、尚後音を期し候」との文面が示すように、長逸の方からも引き続き信長との交渉を望んでいたことが示されました。

それから約3ヶ月後の7月12日に義昭から上杉謙信に宛てた御内書によると、信長からの申し出があったので美濃に移る、義景もこのことは承知しているとあるそうで、信長はそれまでには義昭の擁立を決断していたことになります。

そして、8月に佐和山城へと入った信長は六角氏との交渉を打ち切った後、改めて義継への参陣を促すとともに、9月には岐阜を出陣、毛利氏とも連携した上で上洛作戦が行われたわけです。

その結果を知っていればこそ、長逸の行動にはどっち付かずで悪い印象を受けてしまいますが、好意的に解釈すれば、長逸なりに三好家のことを考えて信長を義栄陣営に取り込もうとしたのかもしれません。あるいは信長の方も、本心を隠して交渉に応じる素振りを見せていただけなのかもしれません。

つい4ヶ月前まで信長と交渉していた長逸の思惑は定かではありませんが、ともあれ、三人衆が8月に信長が味方に誘っていた六角承禎と直接会談し、互いの同盟を確認しているわけですから、それまでの間には長逸も義昭方との戦いを決意したのでしょう。

最後になりましたが、一応改めてアンケートの問いへの回答を述べますと、4人それぞれ噛み合わないところがあったにせよ、一番悪いのは、やはり三好長逸なのではないかと考えています。

もちろん、今後の研究の進展次第では松永久秀の裏切りが明確になる可能性がありますし、信長との交渉を続けていた三好長逸の真意が明らかとなる可能性もあります。それによって評価が大きく変わることになるかもしれません。

歴史好きの一素人としては妄想をたくましくしつつ、今後に期待したいと思います。

(まあ、義栄が死んでも父の義冬や弟の義助はまだおりますし、短期間とはいえ幕府としての体裁を整えていたわけですから、そう簡単に足利家が統一されるような展開にはならなかったとは思いますが…というか、仮にそうなったとしても見捨てられるのは義継と久秀かもしれませんね。)

ちなみに、義昭方の上洛戦については『戦国大名池田勝正研究所』の柏床宜宏さんが、とても分かりやすい解説記事を書いていらっしゃいます。

こちらの記事を読むと、どうも長逸は信長に翻弄されていたのかもしれない、と思ってしまいますね。

「世界唯一、摂津国豊嶋郡に生きた池田筑後守勝正を紹介するブログ」と銘打っていらっしゃいますが、三好政権や三人衆に興味のある方にとっても非常に学ぶところが多いブログだと思います。特に三人衆の一人・三好下野守政生と三好右衛門大夫政勝(為三)の関係を考察されたシリーズ記事は読み応えがあります。(僕の今の知識では咀嚼しきれていませんが…)

参考書籍、参考資料

三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻)

三好一族と織田信長 「天下」をめぐる覇権戦争 (中世武士選書シリーズ第31巻)

  • 若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』(戎光祥出版)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

  • 谷口克広『信長と将軍義昭 連携から追放、包囲網へ』(中央公論新社

義経記と後期軍記

義経記と後期軍記

  • 兵庫県史 史料編 第9巻(中世九・古代補遺)』

兵庫県史には『楠長諳供奉道中宿所覚書』が掲載されています。当時の下向経路は参考になりますし、やはり伝聞ではなく直接経験した人物の記録というのは面白いので、いずれきちんと咀嚼して紹介したいです。

このブログの三好氏関連記事

せっかくなので、他の記事も読んでいただけると嬉しいです。元々赤松氏と三好氏に興味を持って信長登場以前の畿内周辺の戦国史を学んでいることもあり、三好氏については様々な形で触れています。

兵庫津遺跡現地説明会の感想がメインですが、若き三好長慶松永久秀と兵庫津の関係についても少し紹介しています。

三好政権との繋がりも深い浄土真宗本願寺と幕府、法華宗の間で勃発した「天文の錯乱」について、京都祇園社(現在の八坂神社)の執行が記した『祇園執行日記』の内容と併せて紹介しています。

三好長慶の成長過程とその都市政策から、なぜ本願寺が三好氏との繋がりを重視し、信長への服従を拒否して挙兵したのかを考察しています。また、篠原長房と本願寺の関係や「富田武家足利義栄についても少し触れています。

今回の記事中でも触れました、「永禄の変」とその後の阿波公方擁立について考察しています。その後の学びで考えが変わった部分がありますし、結構妄想も盛り込んでいますのでご注意ください。(笑)

現在一番興味を持って学んでいます、将軍足利義稙と「両京兆」細川高国と大内義興の関係の変化、細川澄元と三好氏や赤松氏の「両細川の乱」への関わり、その中で「阿波公方」が誕生するまでの流れを追うシリーズ記事です。続きを書いている最中ですが、まだまだ時間がかかりそうです…。

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「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(前編) 義尹上洛から船岡山合戦までを明応の政変も振り返りつつ

前回の記事『将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情』 では、松永久秀三好三人衆との対立に至った経緯について考えてみました。

しかし、それ以前の三好長慶がまだ細川晴元の麾下にあった天文年間、「天文の錯乱」を経て足利義晴を将軍と認めたはずの細川讃州家がなぜ「阿波公方」足利義維・義栄父子を庇護し続けたのかという疑問が湧き、讃州家当主の細川持隆の室と義維の室が共に大内義隆の姉妹、つまりかつて足利義稙の上洛を支えた大内義興の娘であったことや、義稙の死後に大内義隆がその肖像画を制作したこと、また畠山式部少輔父子のように義稙の父義視の代から義栄まで扈従し続けた忠臣の存在などを知るにつれ、義稙から義維へと受け継がれたものの大きさを意識するようになりました。

そして、義稙を中心に据えて諸勢力の繋がりを見ることが、「両細川の乱」つまり澄元と高国の家督争いとして捉えられてきた戦乱の複雑さを読み解く一つの道標になるんじゃないか、そんな風に考えるようになったのです。

『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」』と題して、まずは永正5年(1508)に義稙(当時は義尹)が将軍への復職を果たした頃の情勢を中心に、その前提となる「明応の政変」での動向も振り返りながら書き連ねていきます。

※なお、「流れ公方」こと足利義尹は一般には最後の名乗りである「義稙」、あるいは明応の政変により将軍職を失った時の「義材」として知られますが、改名の経緯も重要だと考えますので、ここでは主に当時の名乗り「義尹」で表記しています。

同シリーズ記事

前将軍義尹が大内義興に奉じられて上洛し将軍に復職するも、早くも現れていた冷戦の前兆

永正5年(1508)6月8日、大内義興の供奉により前将軍義尹が上洛しました。明応2年(1493)4月の「明応の政変」によって将軍を退位させられて以来、15年の長きに渡って諸国を渡り歩き「流れ公方」と呼ばれた義尹が、ようやく京都に帰還したのです。

その義尹を迎えたのは皮肉なことに、「明応の政変」の首謀者たる細川政元の後継者候補の一人、細川氏庶流の野州家出身の細川高国でした。

高国は永正4年(1507)6月に起きた政元暗殺事件の後、阿波守護・讃州家出身の澄元を支持して畿内の国人達を糾合、関白九条家出身の澄之を擁立して政元殺害を主導した、薬師寺長忠と香西元長を破る原動力となったのですが、大内氏の供奉により義尹の上洛が確実な情勢になると、澄元を見限って義尹に味方したのです。

当時の公家の日記によると、大勢の見物人が群れをなす中で義尹が5,6千の供回りと共に入洛を果たし、一条室町の吉良邸に入った後、その日の晩には義興が6,7千の兵と走衆1000を率いて入洛、6月14日には畠山尚順も1万の軍勢を率いて入洛したそうで、高国の兵1万を合わせると総勢3万に及ぶ大軍が京都に集結していたようです。

そして7月1日、義尹は従三位大納言に叙任され、念願の征夷大将軍への復職を果たしました。すでに義尹より京兆家の家督を認められていた細川高国は併せて管領に就任し、大内義興は山城守護職を与えられました。

しかし、新体制となった幕府では早くも義尹と高国・義興の間で不穏な出来事がありました。義尹の将軍復帰から1ヶ月を経た8月11日、東福寺海蔵院において畠山尚順の主催で復帰後初めての将軍御成が行われると、その際に御相伴衆として出席した高国と義興が、尚順との不仲により揃って退出する事件が起きたのです。

義尹上洛の最大の功労者は紛れも無く大内義興で、明応8年(1499)末頃に義尹が周防山口に亡命して以来、管領政元の策謀によって天皇から朝敵とされながらも義尹を支持してきたのです。世間でも「筑紫之御所」「九州大樹」などと呼ばれていた通り、京都を離れた義尹が変わらず将軍として扱われたのも、大内氏の庇護あればこそでしょう。

また、一族内に支持基盤の乏しい高国が畿内の国人達を糾合できたのも、高国自身の実力だけではなく、義尹を奉じる大内氏の威勢があったからです。

しかし、義尹は「明応の政変」以来、畠山政長の重臣神保長誠を介して越中へと逃れた自分を支援してくれ、上洛後も河内に転戦して澄元派の重鎮・赤沢長経や古市澄胤を討った畠山尚順こそが第一の功労者と考えたようです。将軍に復職して最初の御成は、新幕府に名を連ねる諸侯の序列を天下に示す意味があり、それだけ義尹が尚順に寄せる信頼は大きいものだったのでしょう。

(なお、赤沢長経は細川政元の下で武勇を買われて成り上がり大和へ侵攻した赤沢宗益の養子、古市澄胤は「明応の政変」で伊勢貞陸の麾下に入り南山城へと侵攻して「山城国一揆」を解体せしめた人物で、いずれも尚順にとって宿敵と言える存在でした。)

対する義興の反発も理解できますが、それにしても御成で主人を置いて退席するなど、将軍義尹の面目は丸潰れです。このような行動は尚順への不満というよりも、義尹への不満を露わにしたものでしょう。義興の退席が突発的なものだったのかは分かりませんが、これを宥めるべき立場の高国までもが同調するとは只事ではありません。

将軍親政を志向する義尹にとって、このような高国と義興の意思表明は受け入れがたいものだったに違いありません。

この数年後、義尹は高国と義興への不満を理由として京都を出奔、『後法成寺関白記』に「言語道斷次第也、京都仰天、無是非者也」と記される珍事を起こしますが、上洛直後からすでにその前兆とも言える事件が起きていたわけです。

また、義興は上洛から約2ヶ月を経た7月23日にはすでに帰国をほのめかしており、約1万に及ぶ軍勢の滞在費用にも苦慮したものと思われますが、山城守護に就任してからもその領国化を進めた形跡がなく、上洛当初は幕政に積極参加する意志を持っていなかったようです。かつては義興を朝敵に指定した後柏原天皇ですが、今度はその帰国を思い止まらせようとしたものか、9月14日には義興を従四位上に昇進させると共に、10月14日には義興の亡父政弘に従三位を追贈しました。

一方の畠山尚順総州家の畠山義英との戦いもあり、落ち着いて在京する余裕はなかったようですが、このような事態を憂慮していたのか、嫡子の次郎を上洛させ、能登守護家の畠山義元と共に、将軍義尹の元で幕政に参加させています。

(なお、大内義興の母・今小路は応仁・文明の乱の末期に、同じ西軍であった能登守護の畠山義統が養女として大内政弘に嫁がせた女性です。義統の子である義元もまた尚順と共に「明応の政変」以後も義材派の一員でした。尚順は義尹の上洛に先立って妹を義興に嫁がせており、義尹陣営の融和に心を砕いていた様子が窺えます。)

義尹の帰還前後に見える、将軍義澄と管領澄元の微妙な関係

一方、義尹陣営の対抗勢力である義澄と澄元の関係はどうだったのでしょうか。

義尹上洛から約1年を遡った永正4年(1507)8月、澄元と高国が協力して、管領細川政元を暗殺した澄之一派を攻め滅ぼし、澄元が管領職と京兆家の家督を将軍義澄より認められた直後のこと。当時、前将軍の義尹はすでに大内氏の元で京都奪還の計画を進めていましたが、義澄に謁見した澄元は、その義尹をこちらから呼び寄せて和睦するよう進言しました。

しかし「筑紫之御所御上洛事ハ不可叶旨被仰定」ということで、澄元の提案は将軍には受け入れられなかったようです。

そもそも天龍寺香厳院で僧籍にあった義澄(清晃、還俗して義遐→義高)が将軍に就任したのは、明応2年(1493)4月、前将軍義尚の母日野富子政所執事伊勢貞宗・貞陸父子、管領細川政元らが謀議によって当時の将軍義材(後の義尹、義稙)と前管領畠山政長らを陥れた「明応の政変」によるものであり、以来15年もの長きに渡る亡命生活を余儀なくされてきた義尹にとって、義澄は不倶戴天の関係でした。当然、義澄にとってもそれは同様だったのでしょう。

今なお将軍として扱われている義尹を、西国最強の勢力を持つ大内氏の元に放置していれば、「明応の政変」で義材と命運を共にした政長流畠山尾州家や、その分家の能登畠山氏、越前朝倉氏など、これまで義尹を支持してきた諸勢力が連合を組み、幕府を脅かすことにもなりかねません。

永正2年(1505)12月には、義尹からの上洛への協力要請を受けた畠山総州家の義英(義就の孫)が、宿敵であった畠山尾州家の尚慶(後の尚順)と和睦し、共に義尹の上洛に協力する姿勢を見せていました。また永正3年には、義澄方から転じて義尹方となった今川氏親と伊勢宗瑞が、讃州家が守護を務める三河に侵攻を開始しており、義尹方による反攻の動きは政元の生前から各地で起きていたのです。

澄元にとってはこれ以上事態が悪化する前に、かつて父の義視と共に美濃に亡命していた義尹が、将軍義尚の猶子となって帰京したのと同じように、義澄との和睦を前提に義尹を上洛させることで再び将軍家を一つにできれば、引き続き幕政における細川氏の地位を確保できると考えたのかもしれません。

しかし、すでに上洛準備を整えていた大内義興は永正4年(1507)11月、肥後の相良氏に対して「公方様御上洛、四海泰平、時節純熟」「いよいよ天下静謐肝要に候」と書き送っているように、時勢は義尹に傾きつつありました。そのような状況を感じて高国は将軍義澄を見限り、義尹上洛の露払いをすべく動き出したのです。

永正4年(1507)12月末頃には義尹と義興が山口から安芸へと移動したとの知らせが伝わり、翌年2月には将軍義澄が諸大名に対して軍勢の動員を求めましたが、高国は3月19日に伊勢参宮と称して京都を抜け出し、従弟である伊賀守護の仁木高長の元に逃げ込んでしまいました。

高国は畿内に領国を持たず細川一門の支持も得られていなかったのですが、もちろん単身で離反したわけではなく、丹波守護代の内藤氏や摂津の伊丹氏や瓦林氏など畿内とその周辺に基盤を持つ国人達を味方に付けていたのです。その兵力は1万に及ぶと噂されました。

形勢不利と見た澄元とその重臣三好之長(長慶の曽祖父)は4月9日に自邸を焼き、将軍を見捨てて近江坂本へと逃れます。その翌日には高国が大軍を率いて入京したため、進退窮まった将軍義澄は4月16日の夜、密かに京都を脱出して近江水茎岡山城の九里氏の元へと難を逃れました。そして、高国は摂津方面へと向かい、4月21日から5月12日にかけて澄元方の池田貞正が籠もる池田城を攻略した後、再び一足早く入京し、堺から上洛する義尹と義興を出迎えたのです。

義尹上洛の後も近江坂本に逃れて反撃の機会を伺っていた澄元は永正6年(1509)6月、三好之長父子らと共に如意ヶ嶽へ進出します。しかし、畿内に支持勢力を欠いていた状況では如何ともし難く、3千程の軍勢で義尹方の細川高国畠山尚順大内義興の総勢2、3万の大軍と交戦して大敗を喫し、夜半の悪天候の中、戦場を脱出するのが精一杯でした。

(なお、三好之長の嫡子長秀はこの敗戦後、逃亡先の伊勢で北畠材親に拘束され、31歳の若さで自害させられました。そのため後年に之長が死去した際、その家督は之長の嫡孫元長が継ぐことになります。)

澄元は何とか窮地を脱して本国阿波へと帰還したのですが、一方で頼るべき勢力の中核を畿内から失った義澄は、非常の手段に及びます。永正6年(1509)10月、義澄は「夜討上手」と評された和田円珍をはじめとする刺客を遣わし、将軍義尹の寝込みを襲わせたのです。側近達との酒宴の後でしたが、自ら剣を取って応戦した義尹は八、九ヶ所の傷を受けながらも刺客達を撃退しました。酔い潰れて目を覚まさなかった側近達は後日、全員が遁世したそうです。

この頃の幕府分裂の様相は将軍と管領の関係を主軸として、義澄・澄元 vs 義尹(義稙)・高国という構図で説明されることが多いですが、前述したように義尹と高国・義興の関係は上洛直後から芳しくなく、また澄元の方もその動きをよく見ると、決して義澄とは一蓮托生の関係ではなかったことが分かります。

なお、義澄は永正7年(1510)1月29日、水茎岡山城にて高国が率いる討伐軍を撃退したものの、「船岡山合戦」の直前となる永正8年(1511)8月14日、京都への帰還が叶わぬまま急死することになります。しかし、嫡子の亀王丸はすでに3月には母と共に播磨へと下向しており、その後しばらく赤松氏の元で御所を構えて幼年期を過ごすことになります。

義澄は、かつて南朝方によって京都を追われ近江に逃れた二代将軍義詮が、嫡子春王丸(後の義満)を播磨の赤松則祐の元に預けた故事に思いを馳せていたのではないでしょうか。その遺志は奇しくも、自身を裏切った高国によって達せられることになるのです。

(なお、義澄の二人の子は兄が義晴、弟が義維とされていますが、先に近江で生まれて播磨に下向したのは義維の方で、実は義晴は播磨で生まれたとの説があります。史料に「亀王丸」の名で現れる人物は両者が混同されて伝わっているようですが、今回はひとまず亀王丸=義晴としておきます。)

明応の政変」による讃州家の立場の変化と、一門の長老・細川成之の憂い

高国によって京兆家の家督を奪われた澄元ですが、その出身である讃州家は「明応の政変」以前、京兆家の政元からは一歩引いた立場であり、当時の当主之勝(澄元の父)は将軍義材から厚い信頼を受けていました。

延徳3年(1491)6月に之勝は将軍家の通字である「義」の一字を賜って義春と名を改めており、政元が反対していた近江六角氏討伐にも参加、明応2年(1493)正月、伊勢備中守邸にて義材の主催で行われた猿楽の宴にも出席し、斯波義寛畠山政長山名政豊大内政弘といった面々と共に相伴衆を務めています。

このように京兆家の意向に反して将軍義材に接近していた讃州家でしたが、「明応の政変」を招くきっかけとなった明応2年(1493)2月からの河内親征では、義材との決裂に至る転機が訪れます。

三好衆ら阿波勢を率いて参加していた義春は、将軍が畠山政長陣所の正覚寺へと陣替えを行うと、敵方畠山基家が籠もる誉田城付近まで進出して積極的な姿勢を見せたものの、畠山政長が更に前線を進めて誉田城との戦闘を開始した途端、不審な動きを取っています。義春は淡路守護の細川尚春や若狭守護の武田国信と共に後方の住吉へと陣替えを行った後、京都において政変が勃発すると、「公方治罰」のため河内へと向かった京兆家の軍勢と入れ替わるように京都へ帰還したのです。

この戦いは「細川京兆以下大内・赤松其外近習外様悉迷惑之処」と言われた通り、敵方畠山総州家と争う畠山政長以外の諸侯にとっては意義のないもので、元々義材とは不仲であった細川政元は勿論、これまで義材を支持していた大内氏や赤松氏ですら消極的な動きを見せました。(この時の大内氏と赤松氏の動きについては後述します)

同様に、これまで京兆家とは距離を置いてきた讃州家も、政元が日野富子政所執事の伊勢父子といった幕政の中枢を握る面々と協同するに及び、将軍義材と管領政長を幕府から排除するという目的のもと、再び応仁・文明の乱以来の細川一族の団結を図ることとなったのでしょう。

その応仁・文明の乱において讃州家当主として阿波勢を率いて東軍方で活躍した細川成之は、すでに出家して隠居の身ながら、義春が若くして死去した後、讃州家を継いだ嫡孫の之持を後見しつつ、京兆家の後継者候補となったもう一人の孫、六郎澄元の補佐役として被官の三好之長を重用するようになりました。

しかし、澄元派と関白九条家からの養子澄之派に分かれて内衆同士の権力争いが激化した結果、ついに政元が暗殺され、澄之方との争いを制した矢先に、今度は澄元を支持していたはずの高国が不穏な動きを見せ始めたわけです。

そのような折、細川一門の長老たる成之は、高国に宛ててこのような書状を送りました。

三好筑前守之長連々対愚老・同故右京兆、雖緩怠子細条々候、令堪忍于今遊(宥)免候処、結句六郎身体之儀、重悪之申勧、天下静謐無期候、如此候上者、上下両家其外一門、皆々被者依違乱、弥不可有正体候条、当国之事者一枝申付候、尚為一家、面々被加成敗、先祖如忠儀、六郎堅固家護候様、各御指南可為肝要候、恐々謹言、

三月五日 道空(花押)

民部少輔殿

天野忠幸編『戰國遺文 三好氏編 第一巻』(東京堂出版)より

永正5年(1508)3月5日といえば、高国が将軍義澄と澄元を見限って京都を出奔するわずか2週間前のこと。

高国達の離反は、三好之長とその家臣達が横暴な振る舞いにより反感を買ったことも一因だったようで、文章の細かい解釈は分かりませんが、之長の増長を見過ごしてきたことを反省し、「天下静謐」のため六郎澄元を中心に再び細川一門の結束を図ろうとする成之の思いが伝わってきます。

残念ながら成之の思いは高国には届かなかったようですが、同じ書状を受け取った典厩家当主の細川政賢は澄元を支える道を選び、永正8年(1511)7月から行われた澄元方の反攻で京都入りを果たした末、「船岡山合戦」で最期を迎えることになります。

義尹と義澄の間で板挟みにあった赤松氏と、「明応の政変」以来の義尹・義興との因縁

永正8年(1511)3月、水茎岡山城へと逃れた前将軍義澄の子・亀王丸が母と共に播磨赤松氏の元へと下向した経緯は前述しましたが、実は3年前の義尹上洛の際、赤松氏は義尹に味方していました。

赤松氏は永正5年(1508)1月に義尹から、2月には義澄からそれぞれ協力を依頼され両者の間で板挟みとなっていましたが、4月にはついに去就を決し、大内氏に対して上洛への協力を申し出ました。そのために瀬戸内海を東進する大内水軍は難なく堺へと上陸を果たすことができたはずですが、その赤松氏がなぜ義澄の遺児を預かることになったのでしょうか。

当時の赤松氏は幼少の当主次郎(後の義村)を前当主政則の後室で細川政元の姉である洞松院が後見していましたが、そもそも洞松院が赤松政則に嫁いだのは、「明応の政変」を主導した政元が赤松氏を懐柔するためだったのです。

明応2年(1493)3月、龍安寺で尼として父勝元の菩提を弔っていた洞松院は、将軍義材の河内親征に参加して堺で陣中にあった政則の元に輿入れしました。美男子として名高い政則の元に嫁ぐからにはさぞかし美しい女性であろうとの期待があったのか、陣の近くには 「天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな」 との落首が貼られた逸話が伝わっています。

そして洞松院の輿入れが決まった直後の3月20日、畠山総州家方の越智家栄・古市澄胤の元に伊勢氏から清晃の擁立計画が伝えられ、翌4月22日に政変が決行されたのです。その後政元への御礼のために上洛した赤松氏の重臣、浦上則宗と別所則治は、翌閏4月3日には上原元秀・安富元家と共に河内へ戻っており、この時点で赤松氏が清晃の擁立に賛同していたことが窺えます。

堺には赤松氏の他に、当時まだ10代の若さで父政弘の名代として参加していた大内義興が陣を構えていましたが、義興も当初は親征に消極的な動きを見せていたためか、政元方に付いたと噂されました。しかし、政変翌月の閏4月8日には「赤松・大内加州大樹之御方之由」つまり赤松氏と大内氏が共に義材を擁護しようとしているとして、赤松勢の寄宿所と見られた法華宗の三箇寺を破却すべし、との噂が立つ事態となっています。

政変直後の4月末時点で奉公衆の大半だけでなく800人に上る近習さえもが離脱し、閏4月3日には讃州家や武田勢などの諸将が帰陣している状況であり、将軍義材も動揺していたことは間違いありません。しかし、京都での政変から正覚寺の義材本陣への攻撃が開始されるまで実に一ヶ月の時間が過ぎています。

この一ヶ月間に、大内義興は戦線を離脱した安芸・石見の国人達を収容して兵庫津へ移動し、政則と義興を仲介として義遐を義材の猶子とする計画が立てられたり、両者が連合して京都へ攻め上るとの噂が流れています。この政変の鍵を握っていたのは、兵庫津で待機する大内氏と、堺で在陣を続ける赤松氏の動向でした。

赤松氏は再び政元と交渉した末、先の近江親征における戦功で義材から拝領した所領の安堵を承認されるに及び、ついに去就を明らかにします。赤松勢が堺で政長方の根来衆と交戦を開始して連携を断つと、斯波勢と京極勢もそれに呼応するかのように正覚寺を包囲したのです。そして、閏4月25日には上原元秀率いる京兆家の軍勢が正覚寺を攻撃し、政長は嫡子尚慶(後の尚順)を逃がして自害、将軍義材は元秀によって捕らえられ、京都へ護送されることとなりました。

おそらく赤松氏と大内氏は共に河内親征には消極的だったものの、将軍義材の排除に至る計画の全てを知らなかったのでしょう。しかし、政則が土壇場で政元方に付いたのに対して、義興は兵庫に駐留したまま、6月に義材が上原元秀邸を脱出して北陸に向かった後もなお動こうとはしませんでした。京都では義興が禁中へ乱入して三種の神器を奪おうとするのではとの噂も飛び交ったようですが、結局何もできないまま帰国することになったのです。

(政元と赤松氏に翻弄させられる結果に終わった義興を叱責したものか、国許の政弘からの命令で義興の供が三、四人切腹させられたそうです。)

こうして細川京兆家との絆を深めた赤松政則は、明応5年(1496)に異例の従三位上階を果たし、その2ヶ月後に死去したのですが、政則の前妻との間に生まれていた娘の婿養子として迎えられたのが、赤松七条家(赤松円心の嫡孫に当たる光範の家系)出身の道祖松丸、後の赤松義村でした。

義尹が将軍に復職して間もない永正5年(1508)9月、赤松氏の御一家衆である播磨守家の当主・赤松勝範が家督を望んで挙兵する事件が起きました。謀叛は当主の次郎(道祖松丸、後の義村)によって鎮圧されましたが、実はこの赤松勝範は、政則の死後明応7年(1498)頃から起きた「東西取合」と呼ばれる播磨の内乱において、道祖松丸を擁立する浦上則宗に反発して挙兵した大河内家の出身で、かつて義尹の山口下向に扈従した側近達の一人でもあったのです。

(なお、大河内家は嘉吉の乱の際にも赤松満政が将軍義教の近習を務めて惣領家に敵対しており、惣領家への対抗意識があったようです。)

そして、当主の後見役として実権を握っていたのは、あの「明応の政変」を主導した細川政元の姉である洞松院でした。赤松氏の協力もあって無事に上洛を果たしたとはいえ、義尹と大内義興の赤松氏への不信感は拭い去れるものではなかったでしょう。逆に赤松氏の方でも、播磨守の謀叛に将軍義尹の意向が関わっていると考えるのは自然なことです。

また、赤松次郎の姉は讃州家を継いだ細川之持(澄元の兄)に嫁いでいたようで、そのことが影響したのかもしれません。

澄元方が赤松氏と連携して反撃するも「船岡山合戦」に敗北

赤松氏という強力な味方を得た澄元は、永正8年(1511)7月から反撃を開始し、淡路守護の細川尚春が高国方の瓦林正頼を摂津鷹尾城に攻囲します。7月26日の芦屋河原の合戦では高国方の波多野元清ら丹波勢を中心とする軍勢により一旦敗退したものの、赤松勢の合流によって総勢2万に及ぶ大軍となったため、一転して鷹尾城に猛攻を加えて8月11日に落城させました。

一方で、前述した細川成之の書状を受け取った典厩家当主の細川政賢を大将として、和泉上守護の細川元常、更に甲賀の国人山中為俊や畠山総州家の重臣遊佐印叟も加わった澄元方の混成軍は7月13日、和泉深井郡で高国方の摂津勢を撃破した後、摂津中島城まで進出しています。

二手に分かれた澄元方の軍勢がいよいよ摂津から京都へと迫る事態となったため、その勢いを恐れた将軍義尹は後柏原天皇に退京を通告した後、細川高国大内義興、畠山義元、畠山次郎(尚順の嫡子、後の稙長)らと共に、総勢2万5千に及ぶ大軍で丹波へと落ちて行きました。

細川政賢率いる澄元方の軍勢は8月16日に京都へ進出したものの、すでに義尹・高国方は丹波へ向けて脱出した後でもぬけの殻でした。政賢は将軍義尹の邸宅に火を放ち、高国の邸宅を打ち壊して気勢を上げますが、赤松勢はまだ摂津で伊丹城を攻囲中のため進軍できず、肝心の澄元も阿波から動かなかったため、京都の軍勢は合わせて約6千と心許ないものでした。何より、澄元方の求心力となる前将軍義澄が8月14日に近江で急死していたこともあって、澄元方の足並みは乱れていたようです。

(なお、義澄は澄元方の戦況を聞いて側近の奉行人・松田頼亮を京都へと遣わし、京都の治安を乱さないよう配慮しています。また、頼亮は義澄の死を知っていたようなのですが、それを秘匿したまま船岡山に参陣して討死してしまいました。)

一方、丹波で態勢を整えた義尹・高国方の軍勢は反撃を開始、8月23日には大内勢が北山から長坂口へと進んで京都奪還を図ったため、細川政賢もこれに応じて船岡山および今宮林に布陣して迎撃、翌8月24日に「船岡山合戦」の決戦に至ります。しかし多勢に無勢では如何ともしがたく、大内勢の猛攻を受けた船岡山の政賢本陣は総崩れとなり、総大将の政賢が退却の際に羅漢橋で討死したほか、山中為俊、遊佐印叟など主だった大将もことごとく敗死するという惨状でした。討ち取られた兵は3千人に上ったと伝わっています。

そして、赤松勢も京都での敗報を受けて伊丹城の攻囲を解き撤退、永正8年の澄元方の反撃は失敗に終わったのです。

永正8年の澄元方の敗因として、義澄の急死による士気の低下や勇将・三好之長の不参加が挙げられていますが、頼みの綱であった赤松勢は元より、肝心の主力である阿波勢も参戦していない状況ではとても勝ち目はありませんでした。細川成之の要請に応えて澄元を支持した政賢でしたが、結果的に見殺しにされたのです。

(なお、政賢ら澄元方は和泉で高国方を破ったものの、大内方水軍の多賀谷氏が敗兵を収容して堺を死守していたため、政賢は堺の攻撃を諦めて摂津中島へと向かい、京都に進出しました。澄元はこのために堺からの上陸を見送った可能性もあるようです。)

船岡山合戦」の勝利で高国は細川一門への影響力を強め、義興は従三位上階を果たす

船岡山合戦」で敗死した細川政賢の典厩家は、摂津西成郡の分郡守護を務めた家ですが、京兆家の当主が幼少の場合に後見役を担うと共に、幕府内でも将軍の御供衆を務めるという、細川一門でも高い家格を認められていました。しかし、今度の敗戦に伴って政賢の嫡子澄賢は没落し、その家督は高国の従弟である尹賢に奪われることになりました。

(後年、高国の敗北に伴って典厩家は晴元方の澄賢-晴賢、氏綱方の尹賢-藤賢に分裂したまま継承され、三好政権期を通じて再び藤賢に統一されることになります。)

和泉上守護家の細川元常は逃げ延びたものの、後年には高国の従弟に当たる高基によって和泉下守護家が再興される形で対立し、備中守護は高国の父政春が継承することになります。管領高国が幕府の中枢を握ったこの時代、讃州家と淡路守護家を除く細川一門は、ことごとく野州家により乗っ取られたわけです。

また、義澄の急死によって畿内の義澄派は勢力を失い、かつて将軍義尚・義尹(当時は義材)の二代に渡って討伐を受けた六角高頼も、義澄を庇護していた水茎岡山城の九里氏を討って義尹に通じる結果となりました。

そして「船岡山合戦」から数日後、細川一門の長老として重きをなしていた細川成之までもが死去します。今際の際にあった成之が義澄や政賢の死を知ったのかどうか分かりませんが、あのような書状を残した成之の無念は如何ばかりだったでしょうか。

阿波勢の兵力は健在とはいえ、細川一門を束ねる京兆家としての正統性においても高国に政治的敗北を喫し、畿内進出の足掛かりを失った澄元は、三好之長と共に以後8年に渡って阿波で反撃の機会を窺うことになります。

こうして義尹の天下はようやく安定へと向かい、「船岡山合戦」の勝利によって洛中に平和をもたらした功労を認めた後柏原天皇は、翌永正9年(1512)3月28日、大内義興従三位を叙位しました。義興は大内氏当主として初めて存命中の上階を果たしたのです。

なお、かつて赤松政則従三位に任じられた時も多くの公卿が痛烈な批判の言葉を残していますが、今度の大内氏に対してもその取次に当たった三条西実隆自身が「田舎武士の所望につき、一事以上予入魂、比興の事也、断指すべき断指すべき」と憤懣を露わにしています。大内氏三管領家に次ぐ家格の赤松氏よりも低く見られていたため、それも当然かも知れません。三条西実隆は以前より義興と親交があったはずですが、それだけに都の公卿達における家格秩序意識が未だに強かったことが窺えます。(単に実隆の地方蔑視の感情が激しかっただけかもしれませんが…)

赤松政則大内義興は共に左京大夫に任官、従三位に上階していたわけですね。「明応の政変」の顛末といい、義興は政則のことをどんな風に意識していたんでしょうか。)

前述の通り、長期間に渡る滞在費用に苦慮していた大内氏では、すでに「船岡山合戦」の前より、義興の麾下にあった安芸・石見の国人達が無断で帰国する事態となっていました。しかし今や、京都の治安は大内氏の威勢こそが頼みの綱なのです。今度の義興の上階も上洛直後の従四位上への昇進と同様に、後柏原天皇による慰留の意向が込められたものであったのかもしれません。また、天皇はかつて細川政元に断られて以来、未だに即位式を実施できていないという事情もあり、大内氏の財力への期待もあったでしょう。前例を何よりも重んじる公卿達に比べると、むしろ天皇の方が朝廷の衰微を厳しい現実として捉えていたように感じます。

(なお、高国に対しては従四位下に叙位する意向が伝えられましたが、高国はどういう訳かこれを辞退して従五位に留まったようです。義興の従三位に比べると大きい変化ではないでしょうし、将軍御成は受けているので、名よりも実を取ったという感じでしょうか…?)

一方、前将軍義澄から遺児亀王丸(後の将軍義晴)を託され、澄元方に加担した赤松氏は、この危機に際してどう対応したのか…また、上洛直後から早くも冷戦勃発と思われた将軍義尹と細川高国大内義興の関係はどうなったのか…次回はその辺りを中心に続けようと思います。

夜の船岡山を歩いてみた

永正8年(1511)8月、典厩家の細川政賢が義尹・高国方を迎撃し、敗れ去った船岡山。標高112m、東西400mの小高い丘で、船の形に似ていることからその名が付いたそうです。

応仁の乱の序盤戦においても、西軍方に与した若き大内政弘(義興の父)が2万余という大軍で上洛した際、ここに陣を構えています。それから40数年を経た永正の頃にも、当時の防御施設などが残されていたのでしょうか。

現在の船岡山大徳寺の所有地だそうですが、京都市の都市計画公園の第1号として整備され、昭和10年から「船岡山公園」となっています。近隣の住民からは気軽に行ける夜景スポットとしても親しまれており、あまり戦跡として認識されていなさそうです。

(別に夜景を見に行ったわけではなくて、色々あって日が暮れてしまったというだけですが…。)

船岡山の麓にある建勲神社の参道。建勲神社織田信長を奉るために明治2年(1869)に建てられた神社です。前身は秀吉が正親町天皇の勅許により定めた廟所だそうです。信長菩提寺大徳寺総見院と対になる場所だったのでしょうか。

建勲神社には信長が着用したという紺糸縅胴丸や、桶狭間合戦で手に入れたという義元左文字(宗三左文字)が所蔵されていることでも知られています。(左文字は普段は京都国立博物館で保管されているそうで、展覧会などで観られます。)

最近はいわゆる「刀剣女子」ブームの影響か『京都刀剣御朱印めぐり』に参加されたり、「宗三左文字」大絵馬の授与も始められたようです。

幾多の戦いの舞台となったためか、遊歩道沿いに供養塔らしき物もありました。細川政賢の無念に思いを馳せつつ…と言いたいところですが、訪問時点では典厩家のことを全く知りませんでした。(汗)

すっかり夜ですが、船岡山の山頂です。

京都タワーが見えました。

暗くて見づらいですが、だいたいこんな形。

軍記類を参考にされたためか、現地の説明には澄元が陣取ったことが書かれていますが、実際には澄元は阿波を動いていないと思われます。

(この説明には船岡山公園となったのは昭和6年とありますが、京都市の公園形成史―第二次大戦前まで― (PDF) には計画決定が昭和7年11月、開園が昭和10年11月とあります。どちらが正しいんでしょう…?)

「応仁永正戦跡 舟岡山」の石碑。暗くて探しづらかったのですが、一応見つけて撮っておきました。

なお、城郭としての船岡山の歴史と、応仁・永正の「船岡山合戦」の経緯については、「落穂ひろい」内のこちらの記事が分かりやすく、詳細に解説されています。

北側の山腹には横堀が残っているとのこと。(次の機会には明るいうちに行きたいですね…)

応仁の船岡山合戦では西軍によって巨大な井楼が建てられ、守将の山名教之と一色義直が東軍を何度も撃退したようです。また、東軍による船岡山の奪取には浦上則宗も活躍したそうですよ。

また永正の船岡山合戦では、前述した義澄側近の松田頼亮が、奉行人(官僚)でありながら、最後まで船岡山に留まって討死したそうです。頼亮は密かに義澄の死に殉ずる決意だったのかも知れませんね…。

船岡山の南にある鞍馬口通には、大正12年に料理旅館として創業したという、豪華な内装で有名な銭湯「船岡温泉」もあります。船岡山戦跡巡りの際はぜひお立ち寄りください。(この時は時間が押していたので無理でした…)

こちらはまた別の建物ですが、古い旅館か何かの跡を再利用されているのでしょうか。この辺りは西陣の旦那衆を相手にした店が多く、歴史のある建物がいくつか残っているようです。

余談:大徳寺龍源院と義尹政権

大徳寺船岡山のすぐ北にあり、枯山水庭園で有名な塔頭の龍源院は畠山義元、大友義長、大内義興らによる創建と伝わっています。

龍源院の創建は、文亀2年(1502)や永正元年(1504)といった説がWeb上に見られますが、この三者が共同している時期であれば、義稙上洛後の永正5年(1508)以降、おそらく船岡山合戦が終わった永正8年から大内義興が帰国した永正15年までの間になると思います。

大内義興は義尹上洛に際して、事ある毎に抗争していた大友氏との和睦を進め、後に大友義長(キリシタン大名として有名な大友宗麟の祖父)は義興の娘を嫡子の正室に迎えています。

なお、船岡山合戦で細川政賢が布陣したのは船岡山と「今宮林」でしたが、地名の由来と思われる今宮神社は大徳寺よりも更に北にありますので、大徳寺も含めた一帯が戦場になったようです。方角的に義尹方は北西の長坂山から攻め下りてくる形ですが、大徳寺の僧侶達はどんな気持ちだったでしょう。応仁の乱もありましたし慣れたものかな…?

船岡山と大徳寺と今宮神社

File:Kyoto Mt.Funaoka Daitokuji Temple Imamiya Shrine Aerial Photograph.jpg - Wikimedia Commons より

下の緑が船岡山、その右上の緑っぽい四角のエリアが大徳寺、その左上角の緑が今宮神社。大徳寺の左側の飛び地みたいな緑は「孤篷庵」という塔頭寺院のようです。

参考書籍、参考資料

今回の大内義興に関する内容は、多くがこの本の内容に依拠するものですが、他にも「明応の政変」における赤松氏との連携行動について知り、深入りするきっかけを得られました。赤松播磨守(勝範)が義尹の下向に扈従していたことを知ったのもこの本からで、意外なことに赤松贔屓としても得るものが多かったです。

また、船岡山合戦の概要と、三好之長は元より澄元も参戦していなかったこと、大内方の多賀谷氏が水軍で堺を守備していたことを理由とする説は、こちらに書かれていたものです。

在京大名細川京兆家の政治史的研究

在京大名細川京兆家の政治史的研究

非常に内容の濃い本ですが、その中でも将軍復帰後の義尹と高国の緊張関係、特に畠山尚順への御成の件などを学びました。

政元、高国、晴元とそれぞれ変容している京兆家の実態を知る上で必読になりそうです。価格的にちょっとまだ手が届かないのですが、いずれは入手したい一冊。

数々の古文書から三好氏に関係するものを抜粋して収録された本の1巻目ですが、讃州家の細川成之(道空)から高国に宛てた書状の存在を知り、細川氏の一門を捉える上で参考になると思い引用しました。(つい先日、最終巻となる第3巻が刊行されています。)

三好贔屓としては2巻も必読の内容でした。前回の記事『将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情』を書いてから読んで、即書き直したくなりました…。

価格的に、宝くじが当たればぜひ購入したいです!

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

赤松氏内部の動きについて、赤松大河内家が「東西取合」においても独立した動きを取っていたこと、義尹が将軍に復帰した直後に、大河内家の赤松播磨守(勝範)が謀叛を起こして討伐されたことを知りました。

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

細川氏と三好氏を中心に畿内の情勢を把握する上で、常々参考にしているものです。

阿南市立阿波公方・民俗資料館にて購入したものです。将軍義尹に関連する情報として『後法成寺関白記』等の翻刻文がいくつか抜粋されています。澄元が将軍義澄に対して義尹を呼び寄せて和睦するよう進言した話は、こちらの解釈から学びました。序文に書いたことと今回のタイトルに至るきっかけを得られたのがこの本です。

明応の政変」の経緯について、特に赤松氏が政元に付いて正覚寺への攻撃が開始されるまでを、大内氏の動きと合わせて学びました。30年以上も前の資料ですが、一般書にはここまで詳細に解説されたものが見当たらなかったため、とても参考になりました。

細川高国の細川一族内での支持基盤の弱さや、船岡山合戦で細川政賢が敗死した後の典厩家の系譜について学びました。

今回の記事に直接的には反映されていないと思いますが、「明応の政変」前夜、将軍義材の時代の細川政元の動向、あるいは浦上則宗の動向を中心に、赤松氏の応仁・文明の乱から「明応の政変」までの立場の変化について学びました。

ちなみに織田敏定といえば赤松政則の作刀が1本、この人に贈られているんですよね。論文のタイトルからはちょっと予想できませんが、浦上則宗ファンにもおすすめの内容です。

義澄派から義材派への転向の動きの一例として、讃州家が守護を務めた三河における今川氏の動向を知りました。今回の記事には取り上げていませんが、義澄が書いたと見られる、今川氏親や伊勢宗瑞への恨みつらみが込められた書状が面白いです。

同シリーズ記事

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将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」から探る三好政権分裂の実情

三好長慶死後の三好氏といえば一般には、将軍・足利義輝を「暗殺」した後、松永久秀三好三人衆が対立して争う間に、「天下布武」を掲げて全国統一を宣言した織田信長が、義輝の弟・義昭を擁立して上洛を開始し、その怒涛の進撃の前に三好方は為す術もなく崩壊したと認識されていると思います。

前回の記事(三好長慶の畿内制覇と本願寺「石山合戦」への道)では、三好長慶が独力の裁許による支配体制を構築するに至りながらも、将軍・足利義輝の権威を必要とした経緯に触れましたが、その三好政権が長慶の死後、なぜ将軍を殺害するに至ったのでしょうか。

また、三好政権はかつての主筋である阿波守護・細川持隆が庇護していた「阿波公方」足利義冬の子・義栄を擁立し、在位期間は短いながらも義栄を将軍とする新たな体制で幕政を運営しました。しかし、その過程で松永久秀父子に続き、三好宗家を継いだ三好義継までもが政権から離反してしまったのです。

従来、松永久秀は三好政権を壟断しようと企んで三人衆と対立した後、信長の上洛に際してその猛勢に恐れをなして降伏したと捉えられてきました。しかし、三好政権における久秀の実像や将軍義輝を殺害した「永禄の変」の背景を知るほどに、そのような解釈に疑問を感じるようになりました。

長慶の死後から「阿波公方」の擁立に至るまでの経緯をまとめつつ、三好長慶と将軍・足利義輝の静かな戦いを振り返るとともに、なぜ松永久秀が三人衆と対立したのかについても、妄想を交えながら考えてみます。

三好政権による将軍・足利義輝の弑逆「永禄の変」の経緯

永禄7年(1564)7月4日、「天下執権」たる地位に上った三好長慶が病に斃れてしまいます。三好宗家の家督を継いだのは養子となっていた孫六郎重存(後の義継)で、長慶の死は遺言に従って秘匿されることとなりました。

重存はまだ15歳にも満たない少年であったため、最長老として三好一族を代表する地位にあった三好日向守長逸、かつての政敵・三好政長の子の三好下野守、長慶に見出されて奉行衆から出世した岩成友通という、三者三様の「三好三人衆」と、大和一国を任されるとともに朝廷との交渉でも重要な役割を果たした松永久秀、その弟で丹波方面を任されていた内藤宗勝(松永長頼)の5人を中心に政権の再興が図られました。

畿内を実力で制した三好長慶はその晩年、22歳の若さで病没した嫡子・義興の死に際して、三好氏の菩提寺である南宗寺の住持・大林宗套に葬礼を行わせ、将軍の葬礼を担当する五山(足利氏が臨済宗の中でも南禅寺を頂点とした5つの寺院を別格と定めた)の禅僧を勤仕させるとともに、関白九条家の血筋を継ぐ重存を後継者に定めるなど、最期まで足利将軍家の権威への挑戦を続けました。

そんな長慶の意志を継いだ重存は、一挙に足利将軍家との関係に決着を付けようとしたものか、ついに実力行使に及びます。

永禄8年(1568)5月1日、三好長逸や松永久通らを率いて義輝の元に出仕した重存は、左京大夫の官途とともに偏諱を授かって名を「義重」と改めますが、5月18日に一万の軍勢を率いて再び上洛した翌日の5月19日の朝、将軍義輝の御所を包囲して討ち入り、将軍を殺害してしまったのです。

この「永禄の変」では、義輝の弟で鹿苑寺の僧であった周嵩、義輝の母の慶寿院、そして義輝の子を身籠っていたという側室の小侍従が殺害され、小侍従の父・進士美作守晴舎を始めとする多くの近臣たちが討死、あるいは自刃しました。

翌日には公卿の久我家や高辻家、近衛家が討たれるという噂も流れ、一時は都が騒然としていたことが窺えますが、21日には三好義重の代理として三好長逸天皇に参内して酒を下賜され、22日には奉公衆や奉行衆ら幕臣が三好義重や松永久通の元に出仕し、騒ぎは収まることになりました。

なお、塚原卜伝の弟子であったという「剣豪将軍」義輝が将軍家伝来の名刀を次々と取り替えながら敵を切り倒したという逸話が知られていますが、『言継卿記』など当時の記録にはそのような記述は見られません。

この逸話の最初の出所は、室町末期から江戸初期の間に成立したと考えられている軍記『足利季世記』の「公方様御前に利剣をあまた立てられ、度々とりかへ切り崩させ給ふ御勢に恐怖して、近付き申す者なし」(永禄の大逆 足利季世記より)という記述だと思われますが、その元ネタの一つとして知られる『細川両家記』には「乙丑五月十九日に二条武衛陣の御構へ人數押入御生害候上は。御内侍衆討死候也。」と記されているのみです。

(『細川両家記』は上巻が天文19年、下巻が元亀4年に書かれた軍記ですが、内容的には一次史料の隙間を補完するに足る、信憑性の高い書物として扱われています。)

一方、当時の伝聞を記録した書物として(宗教絡みの事柄を除けば)信頼性が高いとされるルイス・フロイスの『日本史』には、自ら武器を取って戦った将軍の奮戦を称える記述があります。

軍記というものの性質上、当然『足利季世記』には創作が加えられているでしょうが、一万もの兵に襲撃されながら二時間以上持ちこたえたことは『言継卿記』にも記されており、確かに将軍とその側近達は最後の意地を見せたのでしょう。

「永禄の変」で実力行使に及んだ三好政権の狙いと松永久秀の動向

三好政権にとって、将軍・足利義輝はそれほど放置できない危険な存在だったのでしょうか。三好長慶の生前に遡ってみます。(ちょっと長くなり、余談も増えます)

永禄元年末の将軍義輝との和睦以来、三好長慶はその権威を利用して、大友氏を動かして讃岐西部への進出で対立する毛利氏を牽制、あるいは旧信濃守護・小笠原長時の旧領回復を支援するよう長尾景虎に働きかけるなど、外交戦略を有利に運びました。

武田信虎の甲斐追放と「武田入道」の在京奉公でも少し触れましたが、旧領回復を狙って上洛した小笠原長時は、阿波小笠原一族の後裔を称する三好氏の客将となっていました。長時は義興を通じて筑前守(長慶)の病状を知っていたり、細川晴元の嫡子六郎の馬術指南を勤めるなど、三好政権に深く関わっていました。謙信と信玄の「一騎討ち」で知られる永禄4年の第四次川中島の合戦の発端には三好氏の意向が絡んでいた可能性があります。)

また、畠山氏の内紛に介入して河内へと進出、永禄5年3月の久米田の戦いでは弟の三好実休を失う痛手を負ったものの、5月の教興寺の戦いで畠山方を破り、松永久秀はその勢いで反三好方の諸城を落として大和を平定しました。

(なお、この時の多武峰衆徒との戦いでは大和柳生郷の土豪柳生家厳が松永方として参戦しており、父と共に戦功を立てた柳生新介、後の石舟斎が久秀から感状を受けています。柳生氏は以後も一貫して松永方として行動することになります。)

教興寺の戦い勝利した三好氏は、畠山氏に呼応して京都を制圧していた六角承禎父子とも和睦、石清水八幡宮に避難していた将軍も帰京しましたが、この時義輝の伯父・大覚寺義俊が逃亡を図ったほか、これまで政所執事として三好政権に協力していた伊勢貞孝父子までもが近江坂本へ退去しており、畠山・六角氏の連携の陰では幕府から三好氏を排除する陰謀が動いていたことが窺えます。

大覚寺義俊は近衛前久の祖父・近衛尚通の子で、義輝と義昭の生母である慶寿院の兄という関係で、後には義昭を助けて越後上杉氏や越前朝倉氏への使者を務めるなど、その流浪期を支えたキーマンの一人となっています。)

一方で、微妙な立場に追い込まれ挙兵した伊勢貞孝が松永久秀によって討伐されると、将軍義輝はこれまで執事職を世襲してきた伊勢氏を政所から追放、代わって側近の摂津晴門を起用するなど、表面上は長慶に従いながらも将軍親政を強く志向していたことが明らかとなりました。義輝は決して三好氏の傀儡に甘んじるような人物でなかったのです。

将軍義輝との和睦を三好政権の幕府への屈服と捉え、兄弟の相次ぐ死と嫡子・義興の死で心を病んだ長慶の晩年は廃人同然だったなどと評されることがありますが、前述の通り、長慶が足利将軍家の権威に挑戦し続けたことは確かです。しかし、最終的に将軍義輝との関係にどう決着を付けるつもりだったのかは分かりません。

信長公記』には「三好修理大夫、天下執権たるに依って、内々三好に遺恨思食さるべしと兼て存知、御謀反を企てらるゝの由申掠め」と記されており、当時の世評では、長慶が将軍義輝の「御謀反」を理由として殺害したと見られていたことが窺えますが、実際にはすでに長慶は病没していたため、三好政権はこれまで以上に将軍の動きを警戒していたものと思われます。

フロイス『日本史』には御所を包囲した三好方が進士美作守に突きつけた訴状の内容として、将軍自身の命ではなく、将軍の愛寵を受けて懐妊していたという側室の小侍従と近臣達の殺害を要求していたことが記されている一方、『細川両家記』には将軍の正室である関白・近衛前久の姉は三好長逸によって近衛邸まで送り届けられたことが記されており、三好方には足利将軍家と関白近衛家の関係を断つ狙いがあったことが窺えます。

そもそも、天文24年の時点で前久は元服の際に将軍義晴から賜った「晴嗣」の名を「前嗣」と改めており、前久は父の稙家以降から親密な関係にあった将軍家と距離を置こうとしていたようです。将軍が側室の小侍従を愛寵したというのも、そのような近衛家との関係の変化が影響したのではないでしょうか。)

また『言継卿記』には「阿州之武家可有御上洛故云々」とあり、三好方が11代将軍・義澄の子で義輝の伯父に当たる「阿波公方」足利義冬の擁立を企んでいることが噂されていたようです。

これらのことから考えると、三好方は当初から将軍の殺害を意図したわけではなく、義晴-義輝と続いた血筋を断絶させる代わりに、関白近衛家の協力を得た上で、阿波公方家を唯一の将軍家として存続させようとしたのではないでしょうか。将軍弑逆という大事件を起こしたにも関わらず、阿波公方の擁立まで1年半もの時間を必要としたのは、当初の計画通りに事が運ばなかったことを示しているように感じます。

なお、この三好政権による将軍義輝の弑逆は、近世以降、松永久秀の悪虐ぶりを示す逸話として語られてきましたが、当時の史料からは久秀の積極的な関与は認められません。

また、これまで久秀は覚慶を「幽閉」したと捉えられてきましたが、覚慶が義輝の死からわずか3日後の5月22日に松永久通に宛てた書状で「進退の儀気遣い候処、霜台(松永久秀)誓紙を以って別儀あるべからず由候間安堵せしめ候、弥疎略なきにおいては、別して祝着たるべく候」と記しているように、当時大和に在国していた久秀は、興福寺一乗院に入寺していた義輝弟の覚慶(後の義昭)に誓紙を提出してその保護を図りました。同じく僧籍にあった兄弟の周嵩が殺害されているにも関わらずです。

「阿波公方」の擁立により始まった二人の将軍候補を旗頭とする争乱

三好政権が「阿波公方」の擁立に至るまでの、両者の関係はどうだったのでしょうか。更に遡ってみます。

(写真は阿波平島の公方館跡)

まだ三好長慶が細川晴元の麾下にいた天文16年(1547)、義冬は証如に援助を依頼して堺へと渡り上洛を窺ったものの果たせず帰国、その後、氏綱方となった三好長慶は天文22年(1553)10月、「四国室町殿」(足利義冬)に上洛を促したものの、義冬はこの要請には応じませんでした。同年6月に、長慶の実弟で阿波三好家の実休が、義冬を庇護していた細川持隆を謀殺したばかりであったため、三好氏を信頼することができなかったのでしょう。

『平島記』によると義冬は阿波守護・細川持隆の庇護のもと、天文3年(1534)以来、足利氏とゆかりの深い天龍寺領・平島庄の西光寺を御所としていましたが、弘治元年(1555)4月に妻の実家である大内氏を頼り、妻子と共に周防山口へと移りました。大内氏といってもすでに義隆は陶隆房の謀叛によって殺害されており、毛利氏とも断交しまさにあの「厳島の合戦」に至る直前のことです。

その後、大内氏領を併呑した毛利氏と義冬父子がどのような関係にあったのかは分かりませんが、義冬は永禄6年(1563)に三好長逸からの説得を受けて再び阿波平島に復帰したと伝えられています。これが事実であれば、三好政権の最盛期である永禄初期には顧みられなかった義冬父子が、長慶の晩年に再び選択肢として浮上していたことになります。

(なお、足利義冬は将軍に就任することはなかったものの、次期将軍に授与される従五位下左馬頭に就任して「堺大樹」と呼ばれた、いわゆる「堺幕府」の将軍・足利義維です。義維と三好氏の関係については、天文の錯乱・山科本願寺焼失と『祇園執行日記』に見える京都周辺の情勢でも概略に触れています。)

さて、義輝弑逆からわずか半年後、永禄8年(1565)11月には早くも三好三人衆と松永父子が対立して交戦を開始しており、12月には三人衆方が飯盛山城を占拠して義継を高屋城に迎えるとともに、篠原長房や三好山城守康長ら阿波三好家と手を結び、対する松永久秀は三人衆方に対抗するため、紀伊へと逃れていた畠山政頼(後の秋高)と結びました。

畠山氏は「永禄の変」に際して、その翌月6月24日には畠山氏の重臣・安見宗房が上杉謙信に挙兵を促すとともに、朝倉義景織田信長を調略していることを伝えており、7月28日には朝倉義景の支援を受けた覚慶が大和を脱出して奉公衆・和田惟政の居城である甲賀和田城へと逃れています。そして安見宗房は覚慶の脱出を喜ぶとともに、阿波公方の上洛前に家督を継承できるよう協力する旨を伝えています。

また、永禄8年(1565)8月に松永久秀の弟・内藤宗勝が荻野悪右衛門直正(赤井直正)の攻撃で敗死した際、畠山氏の重臣・遊佐信教は宗勝の討死を将軍殺害に結びつけて「上意様御天罰」などと報じています。その僅か3ヶ月後に、敵方であったはずの松永久秀と手を結ぶことになったわけです。

このような動きを見ると、もはや三人衆方と松永方の争いは三好政権の内訌に留まるものではなく、二人の将軍候補を旗頭とする「天下」の争奪戦に発展したと捉えるべきでしょう。

前述したように「永禄の変」に際して覚慶を保護した松永久秀が、実はその擁立を計画していたとすれば…そのことで阿波公方の擁立を進める阿波三好家とそれに与する三人衆との間に深刻な対立が生じ、松永父子は政権内で浮いた存在となってしまったのではないでしょうか。

三人衆方が宗家当主の義継を迎え入れるに当たり、飯盛山城を力づくで占拠した一件は、内藤宗勝の死によって影響力の低下した松永久秀・久通父子を孤立させ政権から排除するために、三人衆の方から先手を打ったとも考えられます。

篠原長房が権勢を握る一方で立場を失った三好義継と、松永久秀の真意(?)

四国衆と結んで有利に立った三人衆方では、永禄9年(1566)6月11日に篠原長房が阿波から大軍を率いて摂津に上陸、6月24日には三好義継が河内真観寺で五山長老の参列のもと葬礼を執り行い、その10日後には南宗寺で三回忌を催したことで、これまで秘匿していた長慶の死を広く公表するとともに三好宗家の後継者としての決意を示しました。

その間にも、阿波勢を主力とする三人衆方は、松永方であった滝山城、越水城、西院城、勝龍寺城、淀城を攻略しており、畿内は平定されたかに見えました。しかし、篠原長房と三人衆が「阿波公方」足利義冬の子・義親を擁立したことで、三好義継の立場は大きく揺らぐことになります。

永禄9年(1566)9月23日に摂津越水城へ入った後、12月に摂津富田庄の普門寺城(かつての宿敵・細川晴元が隠居していた城)へと移った義親は、12月28に朝廷から従五位下左馬頭を約束され、翌永禄10年正月5日には正式に叙任されるとともに名を「義栄」と改めました。

阿波公方の擁立と摂津平定に貢献した長房は、この後も畿内における松永方との戦いで阿波勢を率いて活躍、フロイスが「権勢彼等に勝り、ほとんど彼等を左右するの地位にありしもの」と評したように、三人衆を凌ぐ程の権勢を持つことになります。

その一方で、義栄によって冷遇された義継は翌永禄10年(1567)2月、遂に敵方の松永久秀の元へと走ることとなったのです。

さて、ここからは更に妄想を交えて書き連ねていきます。

その後の歴史を知る立場からすると、将軍としての在位期間、本人の寿命とも短命に終わった足利義栄の存在を過小評価してしまいがちです。しかし、義栄の父・義冬(義維)はかつて三好元長と細川晴元に擁立され堺に御所を構えて「天下將軍御二人候」と言われた人物であり、管領・細川高国との対立から阿波撫養へと流れ「島公方」とも呼ばれた不屈の「流れ公方」足利義稙の養子でもありました。

(「明応の政変」以降、足利将軍家は京都を離れることが多くなりますが、二度の将軍就任を経験したのは歴代足利将軍の中でも義稙ただ一人です。)

それを継いだ義栄には当然、義稙や義冬から受け継いだ家臣達がおり、いつか上洛する日を夢見て畿内各地で雌伏の時を過ごした家臣達がいたことも伝わっています。(中には斎藤基速のように、三好長慶に協力して幕政に参加した者もいましたが)

義栄にそのような支持勢力があった点は、将軍の実弟とは言え最初から僧侶として育ってきた覚慶とは大きく異なるところだと思います。

つまり松永久秀は、阿波公方を擁立してしまえば、三好長慶が志した三好宗家を頂点とする新たな武家政権の確立は成し得ないと考えたのではないでしょうか。そして、実際にその危惧は的中し、宗家を継いだはずの義継は政権から排除されてしまったのです。

義継は関白九条家にも縁を持つ(義継の母は九条稙通の養女で十河一存の正室)、当時の武士としては最高級の貴種であり、長慶が嫡子義興の死に際して、十河家断絶の危険を冒してまでも彼を後継者に指名した理由はまさにその点にあったはずです。家中の人望が厚かったという実弟の安宅冬康を殺害したのも、それが幼い義継が家中を掌握する上で障害になることを恐れたためでしょう。(「松永久秀の」讒言を受けて殺害したという話は『足利季世記』以降の編纂物から登場するものです)

それなのに、九条家のライバルである近衛家を頼り、結局は足利将軍家の血筋を担ぎ出すに至っては、守護代以下の地位から「天下執権」たる地位に上り詰めた三好長慶が、何のために三好家の家格を高めるべく尽力してきたのか…。

戦国時代を代表する「梟雄」とされてきた松永久秀ですが、その悪評のほとんどは、近世以降に成立した編纂物の流布によるもので、少なくとも長慶の生前に三好家の壟断を企んだような形跡はありません。そして、久秀は長慶の死後もその意志を尊重し、三好家の傀儡として御しやすいであろう覚慶の擁立を企んだのではないでしょうか。(結果的にはその覚慶も兄に負けず劣らずの存在感を示し続けることになったわけですが…)

久秀が後世に逆臣との謗りを受けている一方、阿波三好家の宿老であった篠原長房は、三好政権の屋台骨を支え続けた忠臣と高く評価されています。しかし見方を変えると、阿波公方の擁立によって権勢を手にした長房は、同時に三好宗家を蔑ろにする結果を招いたとも言えます。

近年、信長以前の「天下人」として三好長慶の再評価が進んでいますが、その腹心を務めた松永久秀についても、近世以降に作り上げられてきた先入観を取り払って見直す必要があると思うのです。

幕臣として権勢を得た松永久秀と「永禄の変」

以上、天野忠幸先生の研究成果に習い、松永久秀三好長慶の忠実な側近であったとの評価を基準に妄想を広げてみました。

これに対して、旧来の評価とは異なるものの、松永久秀が永禄3年の御供衆就任以降、対幕府・朝廷交渉において従来の三好政権とは異なる立場を取り、京都政界において幕臣あるいは大和国の大名として独自の権力を築いたと評価する研究者もいます。

田中信司氏の「松永久秀と京都政局」では、松永久秀幕臣としての活動を通じて、初めは対立していた将軍義輝とも、永禄6年の久秀と多武峰衆徒の和睦を義輝が仲介し、また義輝が娘を人質として預けるほどの信頼関係を築いていたとされています。

永禄4年には、三好長慶が幕府からの「御紋拝領」を辞退したのに対して、久秀は御紋と共に「塗輿御免」も受けていることから、長慶と久秀では幕府との距離感に相違があったという指摘もあります。

また幕府だけでなく、禁裏との関係においても、三好氏が永禄元年以前の三好政権期から引き続き禁裏とは疎遠だったことに比べて、松永久秀は永禄3年の御供衆就任以降、禁裏との交渉件数が格段に増えているそうです。

そして、久秀の京都における活躍が、フロイスによるあの有名な「天下すなわち『都の君主国』においては、彼が絶対命令を下す以外何事も行われぬ」という評価を形成したと見られており、説得力を感じます。

しかし、三好長慶がどんな理由で将軍との和睦を受け入れて、その後も将軍家との関係にどのような決着を目指していたのかという肝心なところが分からない限り、幕臣としての久秀の権勢が増大していったことが、果たして長慶の意向に反するものだったのかは判断できません。

更に妄想をたくましくして、長慶が(従来の評価通り)あくまで将軍の臣下に留まる心づもりだったと仮定した上で、久秀の幕臣としての活動もその意向に従ったものだとすると、義輝との協調関係を維持しようとする長慶・義興・久秀ら宗家側と、三好長逸を筆頭とする重臣層の間に緊張関係があり、義興と長慶の相次ぐ死によってそのバランスが崩れた結果が「永禄の変」を招いたと解釈できるのではないでしょうか。

阿波公方側の伝承では、永禄6年(1563)に足利義冬・義親(義栄)父子を周防から阿波へと呼び戻したのは三好長逸だったとされていますが、それが長慶の意志ではなかったとすると…その翌年に安宅冬康が殺害されたことを「逆心」によるものとする『言継卿記』の風聞も真実味を帯びてきます。

また「永禄の変」には、松永久秀の腹心の一人で当代一流の儒学者だった清原枝賢が従軍しており、その役割についてもよく分かっていません。(天野忠幸先生は、義継が易姓革命思想を背景に将軍殺害の正当化を狙ったものと推測されています)

これまで一般には、将軍義輝の殺害と阿波公方の擁立が、三好政権の総意であったかのように語られてきましたが、その裏では様々な思惑が交錯していたのでしょう。

「永禄の変」にはまだまだ検討の余地が多く残されています。

武衛陣町、将軍義輝の「武家御城」跡を歩く

武家御城」と呼ばれた将軍義輝の御所は永禄2年(1559)8月、勘解由小路室町の斯波氏邸宅跡に建てられたもので、堀を備えた城郭でした。

現在「旧二条城跡」と呼ばれている足利義昭の御所は義輝の「武家御城」の跡に建てられたものですが、京都市営地下鉄烏丸線の建設に伴う発掘調査で、城跡の南内濠のすぐ南を東西に走る石垣のない堀跡が見つかっており、これが義輝期の堀と考えられるそうです。

これまで何度も京都を追われた義輝は父の義晴と同様、人夫を徴発して北白川城や霊山城といった洛外の山城を精力的に改築しつつ、相国寺などに今出川御所の留守番を命じ、洛中に将軍の御所が存在し続けることに尽力していたそうです。三好長慶との和睦による帰還を果たした後、この武衛陣跡に新たな御所を築城したのは、今度こそ将軍として京都に在り続けようという決意の表れだったのかもしれません。

しかし、フロイスの『日本史』には、三好方の襲撃を受ける前日のこと、身の危険を感じた義輝は近臣とともに密かに御所を脱出し、京都から亡命する決意を打ち明けたところ、反逆の証拠もないのに自ら臣下から逃れるようでは将軍としての威厳を失墜させてしまうと反対され、渋々引き返したと記されています。そして義輝の不安は的中し、油断しきっていた御所の人々は全ての門を開けたままにしていたため、すぐさま鉄砲を持った兵の侵入を許してしまったということです。

(見たんかい!と思わずつっこみたくなる程、ただの伝聞とは思えない詳細な描写ですが…どうなんでしょうね、『日本史』の信憑性って…)

なお、後年に三人衆方が六条本圀寺に将軍義昭を襲撃して逆襲を図った「本圀寺の変」で危機に陥ったことから、織田信長は自ら普請奉行を務め、義昭のためにこの地に新たな御所を築城しました。それがいわゆる「旧二条城跡」で、発掘調査では内郭と外郭の二重構造を持ち、南北が平安京条坊制の三町分に相当する広さを持っていたことが明らかとなっています。また、安土城や兵庫城でも見られる胴木組を用いており、大量の石仏や石塔が石垣の材料として使用されていたそうです。

現在「武衛陣町」と呼ばれているこの地は、応仁の乱朝倉孝景が主君の斯波義廉を守って東軍方を何度も撃退した戦跡であり、「永禄の変」で将軍義輝が最期を迎えた「武家御城」の跡であり、信長が義昭のために築いたいわゆる「旧二条城」の跡でもあるわけです。

武衛陣跡に建つ、平安女学院の校舎。

以下、第30回平安京・京都研究集会「室町将軍と居館・山城―権力・器量・武威―」にて「旧二条城」(足利義昭御所)跡見学会に参加させていただいた時の写真です。

京都市文化財保護課の馬瀬智光さんに解説していただきながら見て回りました。

この椹木町通が南内濠、義輝期の「武家御城」外郭に当たるそうです。

御苑の中にある復元石垣。これも地下鉄烏丸線の工事に伴う発掘調査で見つかった物です。

だいぶ読みづらい状態ですが、解説板には「織田信長室町幕府最後の将軍・足利義昭のために造った強靭華麗な居城の跡と推定」とあります。うーん、強靭…??

配布資料より、武家御城(旧二条城)調査位置図

青い点線の枠が義輝期、赤い実線の枠が義昭期の御所と見られている範囲です。

アルファベットは濠跡が検出されたところですが、Gの部分を見て分かる通り、北西角と思われる濠は室町通よりも東に寄ったラインで見つかっていて、おおむね平安期の条坊に沿っているものの、正確な方形ではなく結構でこぼこしていたようです。

ちなみにGの濠跡の上は現在、110番指令センター等の施設がある京都府警察本部の敷地になっています。(これを建てる際の発掘調査で見つかったそうです)

西側は明治期に拡張された京都御苑がかなり食い込んでいて、遺構が埋もれているのは間違いないと思いますが、掘れる機会はないでしょうとのこと。(まあ、そうですよね…)

参考書籍、参考資料

  • 若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』(戎光祥出版)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

畿内・近国の戦国合戦 (戦争の日本史11)

畿内・近国の戦国合戦 (戦争の日本史11)

群書類従 第20輯 合戦部 [1]

群書類従 第20輯 合戦部 [1]

  • 谷口克広『信長と将軍義昭 連携から追放、包囲網へ』(中央公論新社

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三好長慶の畿内制覇と本願寺「石山合戦」への道

引き続き本願寺畿内政権の関係の変遷を追いますが、今回は畿内第一の勢力として台頭した三好長慶との関係を軸に、本願寺が社会的地位を向上させていった背景を見ていきます。

また「天文の錯乱」の後、武家勢力争いから距離をおいていた本願寺が、なぜ「石山合戦」を起こし織田信長との対決を選択したのかを考えます。

摂津に勢力基盤を築き、畿内第一の勢力に成長した三好長慶

天文末期から永禄年間は、阿波細川氏の被官から台頭し、やがて主家の細川晴元と将軍・足利義晴を破って京都を制圧、畿内の覇者となった三好長慶の時代でした。

三好長慶は「天文の錯乱」で本願寺や旧高国党の細川晴国方と戦った後、正式に細川晴元の麾下に入り、天文8年(1539)より越水城主として摂津に勢力基盤を築いていましたが、天文12年(1543)以降は高国の跡目を称して河内で挙兵した細川氏綱方との戦いに明け暮れました。

幕府では、将軍義晴が六角定頼の後見のもと近臣を中心とする幕政運営を行っていたのに対して、管領の細川晴元は阿波守護・細川持隆や三好宗家からは積極的な支持を得られず、頼りの側近・木沢長政は背いて自滅するなど、その権力基盤は脆く不安定でした。

天文15年(1546)には摂津国人の多くが氏綱方へと寝返り、細川国慶によって京都を追われた晴元は丹波に落ち延びますが、この時近江へと逃れた将軍義晴は晴元を見捨て、六角定頼を管領代として嫡子義藤(後の義輝)に将軍位を譲るような状況に陥りました。

追い詰められた晴元方でしたが、三好長慶は弟の実休が率いる阿波勢および晴元方の畠山勢を糾合して反撃、京都へと侵攻したため、三好勢に対抗して勝軍地蔵山城に籠った義晴・義輝父子も、再び近江へと逃れることになりました。

(なお、天文16年には阿波平島で細川持隆の保護を受けていたかつての「堺公方足利義維が再び堺へと渡海し、上洛への援助を証如に依頼しており、義維は晴元方の新たな将軍候補となるべく上洛の機会を窺っていたものと思われます。)

天文16年(1547)7月、三好長慶を主力とする晴元方は「舎利寺の合戦」に大勝し、翌年には再び晴元と結んだ六角定頼の仲介によって氏綱方と和睦しますが、その後長慶は正室の波多野氏を離縁し、氏綱方の重鎮であった河内高屋城主・遊佐長教の娘を迎え入れるなど、晴元を見限って自立の動きを見せ始めます。

そして天文17年(1548)、これまでも何度か対立してきた三好政長父子の成敗を細川晴元に訴え、これが受け入れられないと見るや、その討伐を名目として挙兵、畿内国人の多くを味方につけ、天文18年(1549)6月「江口の戦い」でついに父元長の仇でもあった政長を敗死させ、晴元および将軍義晴、義輝父子を再び近江坂本へと追いやり、細川氏綱を奉じて上洛を果たしました。

(この時、義輝の義父に当たる関白・近衛稙家が将軍と共に近江へと逃れた一方、前関白・九条稙通は三好長慶の弟・十河一存に養女を嫁がせています。その一存の嫡子は早世した長慶の嫡子・義興に代わって三好宗家の家督を継ぎ、後に将軍義輝を殺害、「三好義継」と名乗ることになります。)

その後も細川氏綱・三好長慶方と将軍足利義輝管領細川晴元・六角定頼方の争いは続きましたが、天文21年(1552)に定頼の後を継いだ六角義賢は将軍義輝と長慶の和睦を仲介、晴元が嫡子聡明丸を長慶に預けて出家し、若狭へと落ち延びることとなった一方、氏綱は京兆家家督を正式に認められ、長慶は義輝の御供衆に任じられたことで正式に将軍の直臣となりました。

長慶に擁立されることを潔しとしない義輝は、密かに細川晴元と連携しつつ、反長慶派の近臣たちと共に長慶の排除を図りますが、朝廷からもその実力を認められた長慶は、天文22年(1553)3月、義輝・晴元・氏綱に並ぶ従四位下の位に上りました。

天文22年(1553)7月には、将軍義輝は晴元率いる丹波勢を京都に迎え入れて長慶との対決姿勢を明らかにしましたが、河内・和泉・大和・摂津・紀伊の援軍を加え二万五千の大軍で上洛した長慶勢を前に戦わずして逃亡、更に長慶は将軍に従う者の知行を没収すると宣言したため、わずか40人余で朽木へと退く凋落ぶりを晒す羽目になり、山科言継はこの様を「あさましき体たらくなり」「御不運の至りなり」と評しています。

そして三好長慶は越水城からより京都に近い芥川山城へと本拠地を移し、将軍と管領が共に不在という状況の中、政所執事・伊勢貞孝や足利義維から引き継いだ奉行人・斎藤基速の協力を得て、氏綱の意を奉じる形式での共同統治から、やがて独力の裁許による支配体制を構築するに至ったのです。

三好氏と関係を深め、社会的地位を向上させた本願寺

本願寺にとって三好長慶は「天文の錯乱」で幕府との和睦を仲介して貰った縁があり、また阿波や淡路に勢力基盤を持ちつつ摂津下郡という交通の要衝を中心に支配を拡大した三好氏との友好関係は、本願寺が西国に教線を広げる上でも欠かせないものでした。

本願寺三好長慶が細川氏綱方に与して管領晴元と敵対に至ると、元々「天文の錯乱」では氏綱と同じ旧高国党の国人と共闘関係にあったことも手伝ってか、長慶を支持しました。しかし、天文21年(1552)に六角義賢の仲介で長慶と将軍義輝の和睦が成立した後、弘治3年(1557)には法主顕如は細川晴元の正室の妹を妻としています。

この女性が東本願寺の宗主となる教如西本願寺の宗主となる准如の母で、後に本願寺東西分立の中心人物となる如春尼です。

如春尼は公卿・三条公頼の娘で、すでに長女は細川晴元、次女は甲斐守護・武田晴信に嫁いでおり、末の妹が顕如に嫁ぐことになったわけです。顕如が証如の跡を継いで宗主となったのは天文23年(1554)8月のことですが、その歳はわずか12歳。まだお互いに子供でしたが、おそらく証如の生前、本願寺と細川晴元の和睦がなった天文21年(1552)を契機に婚約したものでしょう。

義父の晴元は出家することになりましたが、この三条家を通じた甲斐武田氏との関係は、後に武田信玄が信長との同盟関係を破棄し、本願寺が挙兵に至る「石山合戦」まで繋がっていきます。

また、英賀本徳寺では、証如の補佐役として活躍した実円が弘治元年(1555)に死去しましたが、孫の証専(教什)が引き続き本徳寺と三河土呂本宗寺を兼帯、一門衆の筆頭格として、顕如の妹である有子(後の顕妙尼)を妻に迎えています。

(顕妙尼は後の秀吉による播磨攻めの際に本徳寺住職を代行し、教如派としてその影響力を発揮することになります。)

弘治4年(1558)2月、正親町天皇践祚に伴い永禄元年へと改元されましたが、本来天皇と将軍の合意によって行われるはずの改元が自身に了承なく行われたことで大いに面目を失った将軍義輝は激怒し、細川晴元や三好政長の子・政勝ら丹波勢と呼応して京都奪還を図ります。長慶はこれを撃退したものの、将軍不在の状況が続くことに限界を感じたためか、再び六角氏の仲介を受けて和睦が成立、将軍義輝を京都に迎え入れました。

これによって、ひとまず将軍義輝と三好長慶による幕府の再興が始まることとなり、翌年には織田信長斎藤義龍長尾景虎が相次いで上洛して義輝に謁見、各々が官途や領国支配の公認を獲得しています。

この頃の本願寺にとって重要な出来事は、永禄2年(1559)12月、天皇践祚に際しての貢献により門跡寺院に列せられたことで、その翌年には三河土呂本宗寺、長島願証寺、河内顕証寺など蓮如以来の有力寺院も勅許院家に列せられました。

『考信録』はその様子をこのように伝えています。

永禄二年禁裡より万里小路前内府秀房卿を勅使として御門跡になし給ひぬ。下間一党をも坊官となし給ふ由にて各剃髪し法眼法橋に任叙せられける。それに付て本宗寺(本徳寺)顕証寺願證寺院家の望み天聴を経給ひて御門跡に願ひ入れられ勅許の上永禄第三冬の比より巣絹紫袈裟にて出仕あり。又其より後教行寺、順興寺、慈敬寺、勝興寺、常楽寺も院家に定りけり

天文18年(1549)にはすでに証如が僧正の地位を獲得していましたが、本願寺はこの三好長慶の時代、ついに名実共に延暦寺興福寺などの顕密仏教に並ぶ社会的地位を獲得するに至ったのです。それは三好家という新興の武家が天下の執権たる地位に上ったことと無縁ではないでしょう。

その半年前に当たる永禄2年(1559)6月、蓮如の連枝である一家衆寺院の一つ、摂津富田教行寺の住職・実誓(兼詮)の12歳になる娘が阿波三好家の家老・篠原長房の元へと嫁いでおり、本願寺は再び三好氏と誼を深めていました。

(長房の父・長政は三好元長の代から畿内で活躍しており、天文15年には証如から贈り物も受け取っています。篠原氏は阿波三好氏の重臣として、早くから本願寺に名が知られていたのでしょう。長房自身も永禄元年の将軍との戦いにおいて、嵯峨清涼寺に対して寄宿免許を認める直状形式の書状を出しており、すでに三好一族に次ぐ高い地位にあったことが窺えます。)

蓮如の末子で証如の側近となり、後に枚方元町の順興寺で住持を務めた実従(兼智)の日記『私心記』では、その時のことを「富田息女、阿波篠原所ヘヨメ入也。悉皆是ヨリサセラレ候。福島マデ御送候。屋クラヘ行見物候」と記録されています。

(元亀元年には三好三人衆が淀川河口の中洲に当たるこの野田・福島の砦を改修し、8千の兵で立て篭もって信長・幕府軍と戦うことになりますが、この頃からすでに福島は櫓を備えた城郭であったことが窺えます。)

三好氏は永禄2年から3年にかけて河内・大和に畠山氏を討ちこれを平定、丹波から若狭にかけてまでも勢力を伸ばし、これまでで最大の版図を築き上げると共に、様々な栄典を授与され家格を上昇させました。

永禄2年12月には長慶の嫡子孫次郎が将軍義輝直筆で「義」の偏諱を授与され「義長」(後に義興)と名を改めており、永禄3年1月には長慶が修理大夫、義興が筑前守に任官。また正親町天皇即位式にあたっては百貫文を納めると共に警護の任に就き、長慶・義興父子は天皇に謁見して天盃を与えられ、御剣を下賜されました。永禄3年2月には義興と松永久秀も御供衆に加えられ、久秀は正式に弾正少弼に任じられています。

本願寺門跡寺院に列せられたのはまさにこのような時期であり、三好氏の栄達が武家社会の家格秩序に変革を促したことと表裏一体に感じるのです。

既存の都市や宗教との共存共栄を進めた三好政権と、本願寺寺内町ネットワーク

三好長慶は天文22年(1553)、摂津西宮の越水城からより京都に近い芥川山城へと本拠地を移してここを畿内の政庁と定め、永禄期に大和・河内両国へと進出した後は、嫡子の義興に三好家の家督と芥川山城を譲って河内飯盛山城に居城を移しました。

三好政権の都市政策の特徴は、これらの政治拠点に城下町を築かず、堺、尼崎、兵庫など戦国期を通じて流通の拠点あるいは法華宗真宗本願寺寺内町として各地で発展を遂げていた都市に対し、新たに町割りを行い代官を置いて支配するのではなく、有力商人や寺院の特権を認めて、経済発展をその手に委ねていたことです。

(なお、連歌を好んだ長慶は家臣をも連歌会に参加させ、豪商や茶人、寺僧や神官、公家などと交わりを深めたことでも知られています。そんな長慶を「文弱」と評する人もいますが、当時の連歌はただの趣味や道楽ではありません。武家として京都を治める上で欠かせない朝廷工作、各地の都市で流通経済を担う豪商、あるいは都市共同体の精神的支柱を担う寺社との円滑な関係を築く上で、茶の湯連歌といった教養が「天下人」には必須だったのです。)

また、三好政権は宗教政策においても寛容で、長慶自身は堺南洲寺で多くの豪商を教化した臨済宗大徳寺派の大林宗套に深く帰依すると共に、宣教師たちが天敵とした法華宗の大檀越でもありましたが、キリスト教の布教にも理解を示し、河内飯盛山城の城下一帯は畿内におけるキリシタンの一大拠点となりました。

このような三好政権の方針は、本願寺にとっても相性の良いものでした。

当時の大坂本願寺は「天文の錯乱」を通じた武家との戦いを通じて、周囲を土塁と濠で囲んで惣構を巡らせ、摂津守護からの税免除や安全保障の特権を得ると共に、自衛のための軍事力をも保持していました。

そして本山のみならず、特に摂津・河内・和泉の各地では「大坂並」と呼ばれる都市特権(守護不入、地子免許、諸役免許)を認められた寺内町のネットワークが築かれており、その頂点に立つ本願寺の経済力は、永禄4年に宣教師ガスパル・ヴィレラからイエズス会への報告書において「諸人の彼(本願寺宗主)に与うる金銀ははなはだ多く、日本の富の大部分は、この坊主の所有なり」と記される程の莫大なものでした。

このような本願寺の特色について、大谷昭仁氏は「英賀御堂と亀山本徳寺」でこう評されています。

各地で勢力を顕在化させた門徒集団はしばしば一揆を構成し支配権力と衝突してきた。加賀のように一国を領国化した地域もある。 そのため、中世の本願寺戦国大名と同列に見なされることが多いが、それとは性格を異にしている。

一つは本願寺の組織は複数の領国に点在した非課税特権都市を交易要所に保持し、領国制のような一元的な租税制度は持っておらず、商業交易における付加価値的利潤による経済を基礎にしていた。

二つは、本願寺一門を構成する門徒は自参した流通・商工業者が主な構成員で、地域ごとの独自性と自立性を保持していた。

三つには、知行制度や国内法がなく、命令系統を明確にした専門的軍事部門を常備せず、武力行動は専ら門徒の臨時的兵力に頼っていた。

四つには、その財源の確保は門徒の自発的懇念に任されており、これによる資本の集中と運用は仏法領の特権的維持を可能にし、構成門徒の経済的行為の利便性に還元されていた。

ここには近代資本主義経済の萌芽すら見られる。

門徒に支えられた経済力と軍事力を持つ本願寺は、幕府や三好氏との良好な関係構築に努めつつも、「天文の錯乱」以来、各地の大名からの門徒化や一揆蜂起の要請は頑なに拒否しており、武家とは付かず離れず平和共存の道を選んできたわけです。

そのような本願寺がなぜ、織田信長に対しては三好三人衆と結託して挙兵するに至ったのでしょう。すでに三好方の将軍義栄は病に斃れ、信長はまだ将軍義昭と手切れしていなかったにも関わらずです。

顕如は永禄11年の信長からの矢銭要求には応じたものの、大坂を天下の要地と見抜いた信長がついにその地の明け渡しを要求するに及び、これに従うことは即ち本願寺が獲得していた都市特権を手放すことに他ならず、そうなると各地の寺内町も遠からず同じ運命を辿ることは間違いない、そう判断したのではないでしょうか。

信長が決して教団としての本願寺の解体を望んだわけではないことは、その後も三度にわたって和睦と敵対を繰り返しつつ、最終的にその存続を認めたことからも分かります。しかし信長が目指す武家政権の将来は、これまで本願寺が築いてきた寺内町ネットワークを許容するものではないと看破したからこそ、顕如はついに沈黙を破って挙兵したのです。

本願寺寺内町・摂津富田を歩く

摂津富田の教行寺は蓮如上人の8男・蓮芸が入寺、御連枝として北摂の布教拠点となり、富田はその寺内町として発展しました。

教行寺の境内には「蓮如上人御愛樹築山紅梅」の碑があります。

教行寺が院家に列せられた永禄2年、蓮芸(兼琇)の長男で二世住職の実誓(兼詮)は、娘を阿波三好氏の家老・篠原長房の元へと嫁がせました。

長房の妻は法名を寿誓といい、天正元年に長房が上桜城で嫡男長重と共に悲運の討ち死にを遂げた際、敵方に加わっていた雑賀衆に保護され、4人の子と共に紀州へと逃れましたが、後に豊臣家の女官として仕え、更に子の1人篠原又右衛門は秀頼の招きに応じて大坂夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。

教行寺は東西分立に当たって東本願寺の所属となりますが、豊臣の時代にも、讃岐守護代・安富氏に嫁いでいた長房の娘が、子息を東本願寺に寄宿させた話が伝わっており、寿誓の存在は大きかったものと思われます。

教行寺と合わせて興味深いのが、近くにある本照寺の存在です。

「応永34年に存如が創建した光照寺を前身としている」とあり、江戸時代に西本願寺13世・良如上人の弟が入寺し「富田御坊」の印を与えたとのこと。

本照寺の敷地は教行寺と比べてかなり広く、本堂も大きいです。

本照寺が前身とする光照寺は今はもうありませんが、その跡地には「蓮如上人御腰掛石」の伝承が残されています。

そして本照寺の入口近くにある「蓮如上人御旧跡」の碑には、「富田御坊」教行寺とあります。

東西分立の結果、江戸時代には教行寺と本照寺の双方が「富田御坊」の名を競い合う状況となったのでしょうか。

町場跡の北東部では水路沿いに石組みが見られ、わずかに土塁の名残りが感じられます。

普門寺は南北朝期に開創された禅宗の寺院で、富田庄が将軍家の御料所であったことに由来します。

長きに渡って反三好方として活動し続けた細川晴元は、永禄4年5月に長慶から富田庄を与えられ、出家してこの普門寺に入りました。ここで余生を過ごした晴元は永禄6年3月に死去、境内には晴元の墓と伝わる宝篋印塔があるそうです。

更に後、永禄9年6月から7月にかけて、阿波公方・足利義冬の嫡子義栄を奉じた篠原長房は、2万5千の四国勢を率いて摂津を平定し、12月にこの普門寺に入った義栄は次期将軍候補に授与される従五位下左馬頭に任ぜられ、翌年2月にはついに十四代将軍に就任しました。

阿波公方の顛末と義冬・義栄父子の話はまた、別の機会に書きたいと思います。

この石畳は、黄檗萬福寺開創までの6年間住職を務めた隠元禅師が手掛けたものだそうです。

こちらは普門寺に隣接しており、鎮守社とも伝えられている三輪神社。

富田は伊丹や灘が勢力を広げる前、江戸時代中頃までは摂津随一の酒造の町だったそうですが、三輪神社が勧請されたのもそのためでしょうか。

普門寺の裏手にあった地蔵。ちょっと分かりづらいですが、普門寺城と呼ばれたように土塁で囲まれていた名残が見えます。

このような化粧地蔵は京都市内で良く見られるほか、丹波、但馬、丹後、若狭といった京都周辺にも分布しています。

ここ富田で見られるのも、普門寺を通じて京都との繋がりがあったためでしょうか。

参考書籍、参考資料

  • 仁木宏・福島克彦編『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』(吉川弘文館

近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編

近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編

  • 若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』(戎光祥出版)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

  • 神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

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天文の錯乱・山科本願寺焼失と『祇園執行日記』に見える京都周辺の情勢

かなり間が開いてしまいましたが、内容的には英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史からの続き、というか補足になります。

石山合戦」について書く前に、本願寺畿内政権の関係の変遷を追う上で重要な事件、「天文の錯乱」について紹介します。

本願寺門徒同士の内紛「大一揆・小一揆の乱」も含めて「享禄・天文の乱」と呼ばれたり、あるいは当初この乱に本願寺の敵として参加し後に延暦寺と結んだ幕府によって焼き討ちされた法華宗に焦点を当てて「天文法華の乱」と呼ばれる兵乱にも関係する内容ですが、今回は特に天文期の山科本願寺焼き討ちに至った事件から、幕府との和睦までの時期に絞ってまとめてみます。

「天文の錯乱」の勃発と山科本願寺焼き討ちに至るまでの情勢

京兆家の家督を巡る幕府の分裂抗争「両細川の乱」において、享禄4年(1531)6月に将軍・足利義晴を擁する細川高国が敗死した「大物崩れ」により、「堺公方足利義維を擁する細川晴元が京都を制圧しましたが、晴元の寵臣として畿内勢力を築く三好政長と、阿波勢を率いて戦功のあった三好元長が対立を深め、これに河内畠山氏の内衆でありながら晴元への接近を図った木沢長政と、その主君である河内守護・畠山義宣(義堯)の対立が絡んで、晴元方の内部抗争に拍車をかけます。

享禄5年(1532)6月、本願寺法主の証如は細川晴元の要請を受けてこの抗争に介入、飯盛山城に木沢長政を攻囲していた畠山・三好連合軍を、10万あるいは20万とも伝えられた門徒の動員によって撃破し、紀伊への逃亡を図った畠山義宣を自害に追い込んだ上、その勢いで三好元長をも堺に攻め滅ぼしました。

堺における阿波勢の敗退で失脚した足利義維が淡路へと没落したことにより、将軍・足利義晴と細川晴元方との間に和睦の機運が高まったのですが、門徒の猛勢は証如の思惑を越えてその制御を離れ、7月には大和に挙兵して興福寺を襲撃、諸院家や僧坊が焼かれ、遂には晴元や木沢長政ら幕府方を攻撃するに至ったため、将軍は京都の町衆および法華宗門徒本願寺との戦いを命じました。

こうして幕府を敵に回してしまった本願寺は、天文元年(1532)8月、近江守護・六角定頼と法華宗を中心とする幕府軍の攻撃によって山科本願寺を焼き討ちされてしまったのです。

公卿の鷲尾隆康は日記『二水記』の中で「一向宗として、今度法華宗へ発向すべきよしの風聞あり」と、一向宗門徒法華宗を標的として攻め込んで来るという噂があったことを記すと共に、山科本願寺の没落については「今日一時に滅亡、しかしながら天道なり」と記しており、当時の京都の人々は一向宗門徒の動向に恐れを抱いていた様子が窺えます。

『二水記』によれば、六角軍の加勢を得た法華宗の軍勢が山科本願寺への総攻撃を開始したのは8月24日の早朝のことでしたが、午前中には攻め落とされたようで、寺や在家は一屋残らず焼かれてしまい、その煙は天を覆う程であったそうです。

山科本願寺は濠と土塁に囲れた寺内町を持つ一種の城郭都市でしたが、あっけなく攻め落とされたのは、すでに6月に証如上人と坊主ほか内衆以下は山科から退去しており、おそらく今後の戦いに備えて本山を大坂へと移すことが決定されていたためと思われます。

京都府教育委員会の発掘調査終了を受けて開催された、山城郷土資料館の企画展「山城の中世城館を掘る」では、山科本願寺跡からの出土品として多数の陶磁器が展示されており、その栄華の一端を見ることができました。

また「御本寺」とよばれる地域の南西隅では土塁や石組の暗渠排水口が発見され、石組の一部は火を受けた形跡があったとのこと。当時の記録を裏付ける物が実際に出てきたわけです。

なお「山城の中世城館を掘る」は平成27年4月25日(土)~6月28日(日)開催です。(まだ間に合います!)

「天文の錯乱」が終結し、幕府は足利義晴-細川晴元体制となる

文明6年、蓮如上人が「御文」にて「守護地頭方ニムキテモ、ワレハ信心ヲエタリトイヒテ、粗略ノ儀ナク、イヨイヨ公事ヲマタクスヘシ」と在地の武家勢力に対する反抗を戒めているように、本願寺教団は武家との衝突を望んでいたわけではありません。

しかし、加賀の支配権を巡る門徒同士の内紛「大一揆・小一揆の乱」で大一揆を主導して戦った坊官の下間頼秀、頼盛兄弟が本山へと帰って指導に当たると、一揆は一層その勢いを増すことになります。

京都周辺や摂津で戦い続けた本願寺門徒は、天文2年(1533)には細川晴元を淡路へと追い落とし、一方で細川高国の弟・八郎晴国を擁立する旧高国方の国人達とも結託しましたが、晴元方と法華一揆の反撃によって戦況は拮抗します。

そこで両者の和睦の仲介人として担ぎ出されたのが、三好元長の嫡子・千熊丸、後の三好長慶でした。

天文2年(1533)6月に将軍を義晴、細川京兆家の家督を晴元とするとの条件で両者の和睦が成立しますが、これで両者が矛を収めたわけではなかったようで、天文3年(1534)3月には晴元との和睦に反対していた下間頼盛が証如を人質に取って旧高国方と結んで挙兵、幼い長慶を後見していた一族の三好連盛までもが一時、この動きに同調しています。

しかし、三好連盛は木沢長政の仲介によって晴元方に帰参、天文5年(1536)8月には旧高国方の三宅国村が細川晴国を裏切って自害に追い込み、本願寺でも天文4年には細川晴元との和睦に際して好戦派の下間頼秀、頼盛兄弟を破門としたことで、ようやく幕府は管領・細川晴元が六角定頼と連合して将軍・足利義晴を擁立する体制で安定へと向かい、本願寺も将軍より赦免を受けるに至りました。

当時の本願寺教団を実質的に主導していたのは、まだ幼い法主・証如を後見する蓮淳(実如の弟)でした。「大一揆・小一揆の乱」に下間頼秀、頼盛兄弟を派遣したのも蓮淳だったようですが、教団は両者に責任を取らせて一揆の幕引きを図ったものと思われます。 下間兄弟は「前代未聞之狼藉人」とされ、後に教団の刺客により殺害されてしまいました。

この「天文の錯乱」の反省からか、本願寺はこれ以降、門徒の動員を控えて幕府と良好な関係構築に務めました。

(なお、下間兄弟と入れ替わるように帰参したのが下間頼慶ですが、頼慶の孫・頼龍が池田恒興の養女を妻とした関係で、頼龍の子・頼広は後に池田輝政の嫡子・利隆に仕えて戦功を立て、一門衆に迎えられて「池田重利」を名乗り、播磨新宮藩の大名となります。)

祇園執行日記』に見える「天文の錯乱」

祇園執行日記』は京都祇園社(現在の八坂神社)の執行が記した日記ですが、群書類従に収録されているものには天文元年7月から天文4年9月にかけての記録が含まれており、天文の錯乱における京都周辺の情勢を窺うことができます。

以下、その中からいくつか抜粋して紹介します。

天文元年七月の条には、乱の発端について以下のように簡潔に記載されています。

天文元年 七月 廿八日 抑天下將軍御二人候所ニ 同細川モリ兩人候也。四國方衆ハ、皆々堺邊ニ御入候由所承也。就中御一人ノ將軍ハ、近江ノ観音邊ニ御入候。六角モリ申所也。コン本御幼少ヨリ常桓モリ被申候ニ近江ニ御浪人ノ砌、堺方ヘ御ナリ候所也。マタキラリトハナキ也。又常桓津國ニテウチ死セラレ候テ後、八郎代ニ也候後、先以御敵分也。仍八郎ハ西國田舎邊ニイラレゲニ候シ。カクト不知カク候所ニ、山シナニ法観寺トイツシ一向宗候ガ、澄元六郎ノ用トテ、津國ヘマカリコシ候ガ、又澄元ト中ワロク成ル。折節カノ一向宗都ノ日蓮宗退治候ハン由、風聞候トテ、法華宗謀叛企テ、六郎ノ衆ト一所ニテ、山科ヲ攻メント云ノ由、サリナガラ法観寺ハイマダ津國ニ候也。山村ト云者ハ、柳本ト云シ者ノ中者也。當寺ノケン也。先威勢ヲ以テ也。

当時から足利義晴・義維の兄弟が「天下將軍御二人候」と見られていたことが興味深いです。「常桓」は細川高国の晩年の法名。その討ち死に後に跡を継いだのが弟の「八郎」細川晴国で、ちょっと分かりづらいですが途中から「澄元」と誤記されている「六郎」は細川晴元のことです。

本願寺のことは「法観寺」と記されており、一向宗本山の名は京都でも正しく認知されていなかったことが窺えます。

また「澄元六郎ノ用トテ、津國ヘマカリコシ候」の部分は晴元(澄元ではなく)に協力して堺に三好元長を攻めたこと、しかしながら「又澄元ト中ワロク成」っていたところ、「一向宗都ノ日蓮宗退治候ハン由、風聞候トテ、法華宗謀叛企テ」つまり本願寺の方から法華宗を敵として攻めてくる噂があったため、京都の法華門徒は先手を打って蜂起し、細川晴元の軍勢と手を組んで山科を攻撃したというのです。

このような風聞は前述の鷲尾隆康の日記『二水記』にも記されていましたが、奈良で一向宗の挙兵によって興福寺が焼かれたという情報もすでに都に届いていたのでしょうか。

一向宗に対する敵意は京都の人々に共通していたのか、この7月28日にも記されている、柳本賢治(丹波波多野氏の一族で晴元方の有力者だったがすでに死去)の家臣・山村正次が上京と下京の一揆を率いて行った「打ち回り」(武装して巡回すること)には、日蓮宗および町人、野伏、足軽などが参加したことが記されています。

七日 山村京ノ上下ノ一揆ヲ引グシテ、ウチマワリシ候。

十日 今夜奈良夜中ノマヘヨリ、今日一日ヤケ候。今日山村ウチマハリシ候テ、所々ノ一向門徒ノ寺ヲヤキ候。又山科ノ中モ打マハリシ候由候。

十一日 山村、下京上京ノ日蓮宗町人ヲ引催、東山ヲウチマハリシ候。

十二日 下京上京ノ日蓮宗野伏共ウチマハリ心々セイヅカイシ、野伏ヤガテ引候。

十六日 山科ヨリ將軍塚マデ足輕カケ、マタノロシ上ゲ候。

十七日 山科ヨリ東山ヲウチマハリシ候處ニ彼ノ京ノ者共懸付候テ、花山ノ上ニテ軍候處、山科ノ一向宗共崩候テ、百二三十人討死候由申候。シカジカ不知候。都ノ方ハ無沙汰候間不知候。

山村正次は8月7日から連日、一揆を率いて打ち回りを続け、一向宗門徒の寺を焼き山科にまで進出、24日の山科本願寺への総攻撃が開始される以前から、すでに門徒との衝突が始まっており、「百二三十人」もの一向宗が討ち取られたようです。

一方、堺においても8月初頭から「聡明殿」(細川晴元)と「法観寺」(本願寺門徒の衝突が起き、多くの一揆が討たれたとの風聞が記されています。

四日 堺ニテ聡明殿法観寺ト取合候テ、アマタ一揆ウタレ候由キコヘ候。

この頃まだ将軍・足利義晴も近江桑実寺に、細川晴元もまた堺におり、両者共に上洛を果たしていない状況でしたが、前述の通り、山科本願寺への攻撃は近江で将軍を後見する六角氏も含めた両勢力の連携によって行われました。

山科本願寺の攻略後も摂津を舞台に一向宗との戦いが続けられ、晴元の家臣達と法華一揆、それに将軍に従う西岡の国人たちが揃って摂津芥川まで進出したことが記されています。

九月

七日 六郎ノ衆、又ハ京ノ法華宗共、又ハ西岡ノ者、皆津國芥川ノ邊マデウチマハリシ候。書ノ四時程ニ行キ、暮ノ六時程ニ歸候。

十二日 鞍馬口ヘ八郎衆陣札打ニ出候トテ、皆々京衆笑ヒニ行候。二三人四五人打候ゲニ候。

一方この頃、旧高国党を糾合した細川晴国の軍勢も京都近郊まで進出してきていたようで、「鞍馬口ヘ八郎衆陣札打ニ出候」、鞍馬口に禁制を掲示しにやってきた晴国の家臣を京衆が笑いに行き、数人を討ち取ったとあります。

また、9月末頃の山崎における合戦では一向宗側が勝利し、柳本家臣の「中山」が討ち取られる場面もあったようです。

廿六日 打明ヨリ又六角堂鐘撞候。何事トモ不知、今夜山サキノ彼方ヤケ候ツル。残リ候法華町人ドモ、東寺ノアタリマデウチマハリシ候。

廿八日 山崎ニ合戦候テ、朝打明ニ京衆崩候トミヘ、書程ニキコヘ候。山崎ノ彼方皆崩候テ、イマダ山崎ヲバ持候由キコヘ候。此崩候時柳本カ中山ナドト云シ者、其外ヂヤウニ死候ゲニ候。又書程ヨリ京ノ法華宗共鳥羽ノアタリマデウチマハリシ候。コゝヘ七時ニ歸候時、聲アゲ候。

翌天文2年も戦いは続き、連日晴元方の軍勢や法華宗が摂津へと出陣している様子が記されています。

三月

廿七日 京ノ六郎ノ衆共、日蓮宗モ少ト交リ、津國ヘ立候。

廿八日 今日モ日蓮宗共立候。聡明殿用ニツイテ皆々上候。敵退治ノ用カ。

丗日 今日モマタ法華宗立候トキ、朝ヨリヨリ鐘ツキ震動シ候。

四月

廿六日 法華宗陣立候。下京上京ノ諸日蓮宗、京ニ居候六郎衆ニ交リ、大坂ヲタイヂニ今日立候也。彼法クハンジ發向ニ立候ヤ。今皆一向宗大坂ニ居候。六郎ノ敵也。

「法クハンジ」は法観寺本願寺のことです。「今皆一向宗大坂ニ居候」つまり、大坂以東の一向宗寺院はこれまでの戦いで全て攻め落とされてしまったということでしょうか。

摂津にはこの頃、蓮如八男の蓮芸(兼琇)が入寺した「富田道場」教行寺を中心に繁栄していた富田寺内町がありましたが、道場や信徒の家々は残らず焼き払われたと伝わっています。おそらくこの頃のことでしょう。

(なお、教行寺は天文5年に再建され、後の三好氏の時代、永禄2年に蓮芸の長男で二世の実誓(兼詮)の娘が、阿波三好氏家老の篠原長房の元へ嫁いでいます。天文から永禄期の三好氏の動向と併せて、いずれ改めて紹介したいです。)

このような状況の中、5月26日には一向宗と手を組んだ「八郎」細川晴国が再び大軍を催して挙兵し、丹波から高雄へと進出、以後京都が騒然としていた状況が窺えます。

五月

廿六日 今日高雄栂尾ヘムケテ、八郎衆三千計ニテ出候由申候。今八郎ハ丹波ニ居ラレ候由申候。中比丹波ノ波多野ハ敵ニテ候ツルガ、今悉皆八郎ヲ取立ル躰ニテ候。先八郎衆二三千計ニテ、高雄栂尾ヘ來候。處々津ノ國ノ守護代ニ、薬師寺ト云シ者、是等ガ者京ノルス也。千本ニ皆居、敵ニムカヒ候躰ニテ候也。シカジカ京ニハ人衆ナク候。

廿八日 西ノ衆北野ヘ出候テ、ドコナランシラズ少ヤケ候。北野社ニテハ候ハズ。京震動シ候。京衆モ少懸合候。敵モヤガテ高雄ヘ引候。六時ニ丹波口ニ篝廿計候也。其外西ニ所々ニヲホク候。

廿九日 晩景ニ、丹波口カゞリ二ツ候。

丗日 朝トクヨリ京ノ日蓮宗六郎衆、高雄ヘカケ候トテ震動シ候。西カラモ出、ドコゾ道ニテイクサ候ツルゲニ候。京中ノ衆十人計シ死ニ候由申候。京衆ハ皆引候ヤ。ドコヤラ少ト其アタリヤケ候。

大永から享禄年間当初、波多野一族を率いていた波多野元清(稙通)は、義弟の柳本賢治と共に高国に背いて晴元方に与していたものの、元清の後継者と見られる秀忠は晴元に背き、「今悉皆八郎ヲ取立ル躰ニテ候」とあるように丹波に潜伏していた晴国に味方しました。

摂津守護代薬師寺氏(細川勝元以来、代々京兆家に仕えた重臣)が迎撃に向かったものの、法華宗の多くが大坂本願寺攻めで出兵していたためか、京都には軍勢が足りていなかったことが窺えます。

高雄に陣取っていた晴国勢と、京都の法華宗・晴元勢の間で小競り合いがあり、「京中ノ衆十人計シ死ニ候由申候」京方が退いたようです。

(「西ノ衆」や「西」が何を指しているのか分かりませんが、この「西ノ衆」は以後も何度か法華宗の敵対勢力としてその動向が記録されています。)

そして、6月にも晴国勢との戦闘で晴元勢が大敗する事態に陥ります。

六月

十八日 京ニ残リ候法華宗、又ハ京残候武士共交リ候テ、八郎ノ衆居候所、高雄栂尾へウチマハリガテラニ行候處ニ、八郎衆モ出候テイクサ候。京衆クヅレ候。人三百計死ニ候由申候。シカジカトシラズ候。京迄クヅレ候。京迄ハ八郎衆候ハズ候。此クヅレニ摂津ノ國ノ守護代薬師寺備後ナド死ニ候也。今日近江モ來候也。

再び京都に残留していた法華宗や武士たちが、晴国方が陣を張る高雄へと打ち回りに行ったところで戦闘となり、京都に攻め込まれるまでは至らなかったものの、摂津守護代薬師寺備後守などが討ち死にしたのです。京勢だけでは持ちこたえられないと見たのか、近江からも援軍が来ていたようです。

このような状況に至っては、もはや大坂を攻めている場合ではなかったのでしょう。早々と本願寺との和睦を果たした晴元方の武士や法華宗たちは、次々に京都へと引き返したようです。

廿三日 今日大坂ヘ以前立候ツル法華宗京ノ武士共、大坂ト和睦トヤライヒ候テ、ゾロゾロ早上り候。今日京少トシヅマリ候。

ただし、この和睦はあくまで義晴・晴元と本願寺との間に結ばれたもので、細川晴国方の軍勢はその後も京都を窺っていたことが記されていますが、以後は割愛します。

なお、将軍義晴は天文3年6月末には桑実寺から坂本へと移り、9月には南禅寺に入っていますが、吉田神社祠官・吉田兼右の日記『兼右卿記』によると直後に南禅寺の裏山に城を築いており、「上意、城ヲサセラレルモ珍事也」と驚きをもって記されています。

前述の通り、天文2年6月の和睦は一時的なものに終わり、本願寺は再び晴国方と結んで挙兵していました。このような情勢を受けて、将軍義晴は自衛のため自ら東山に詰城を築くことを決意したのでしょう。

この後も義晴とその跡を継いだ義輝は、細川晴元や三好長慶といった畿内の実力者と対立に及ぶたび、東山に築いた城に立て籠もることを繰り返すことになりますが、その始まりが天文3年9月、享禄元年6月以来の京都帰還を果たした、義晴による南禅寺山城の築城となったわけです。

いわば「天文の錯乱」は、京都における将軍の有り様にまで影響を及ぼす事件であったと捉えることもできそうです。

「野田御坊」極楽寺円満寺に伝えられた証如上人の感状

大坂本願寺の海の玄関口となる野田には、天文2年8月に野田・福島の門徒達が証如上人を助けて六角定頼軍と戦い、21人が討死したことが伝えられています。

現在「野田城趾」ともされている極楽寺東本願寺の末寺)の石碑には、このように記されています。

大坂城がまだ本願寺であった室町時代野田城[北は玉川四丁目交差点(旧名城の内)より東は恵比須神社の東側(旧名弓の町)迄が城域でその中心地が当地(旧名奥の町)]を訪れた本願寺第十世証如上人が六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の教化を受けていた野田福島の念仏者が証如上人を守護せんとして、二十一人が殉教された(天文二年八月九日)これらの討死衆の菩提寺として建立されたのが当時極楽寺でその後、本願寺南御堂の掛所となり、野田御坊と名付けられ今日に至っている

天文2年6月20日にはいったん講和しているはずですが、早くも8月9日に再び晴元方との戦闘があったのでしょうか。

証如上人から授かった感状は「野田御書」と呼ばれ円満寺西本願寺の末寺)に伝えられているそうです。

また、近くにある恵美須神社の社伝には「天文二年兵火に罹り小祠を建て奉祀せしが元亀元年三好山城守社殿を造営し厚く崇敬せらる」とあります。

天文二年の兵火とはおそらく、本願寺と晴元方の抗争によるものでしょう。

元亀元年の方は「石山合戦」勃発時、野田城・福島城を修築して立て籠もっていた三好三人衆方が本願寺との連携によって、信長率いる義昭方を撃退した時のことと思われます。三好山城守は三好笑岩(康長)ですね。

参考書籍、参考資料

日蓮宗と戦国京都

日蓮宗と戦国京都

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

↑このイベント、まさに今読んでいる本(吉川弘文館『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』)や過去に読んだことのある本の著者の方々が何人も参加されていて、ずぶの素人は自分一人じゃないかってヒヤヒヤしましたが、とても興味深い内容で面白かったです。今後も機会があれば参加させていただこうと思います。

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伊予国・松山城は屏風折の高石垣がすごい!

連休で伊予国は道後に湯築城跡、そして松山城を訪ねてきました。

湯築城跡(道後公園)は、すっかり公園な感じ…。

湯築城跡と河野氏にまつわる話はまた別の機会においといて、今回は松山城のすごい石垣を写真で紹介します。

近世になって建てられた城だし、初代城主は加藤嘉明か…そんなにときめかないなぁ…などと思いつつ、「坂の上の雲ミュージアム」を見るついでくらいのテンションで行ったんですが、これが予想外の感動がありました。

松山城の概略

松山城は勝山の山頂に本丸、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸が設けられたいわゆる連郭式平山城で、築城したのはいわゆる賤ヶ岳の七本槍に数えられ叩き上げの武将として名高い加藤嘉明です。

伊予正木城10万石の城主だった加藤嘉明は、慶長7年(1602)、関ヶ原合戦の戦功によって10万石の加増を受け、藤堂高虎(仲が悪いことで知られる)とともに伊予半国の領主となります。そして勝山に新たな城を築くこととし、翌年に居を移すとともにこの地を「松山」と名付けました。

しかし、加藤嘉明松山城の完成間近の寛永4年(1627)、お家騒動により減封となった蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)と入れ替わる形で、会津40万石への転封を命じられてしまいました。(この転封は藤堂高虎の推薦によるものだそうですが…嘉明は感謝したのか恨んだのか…)

松山城は築城当時、五層の天守を持っていたそうですが、寛永11年(1634)に蒲生忠知が病没により断絶した後、桑名からの転封で城主となった松平定行によって、寛永16年(1639)から3年がかりで三層の天守に改築されています。

(五層から三層に改築された理由は、天守の安全確保のためだとか、幕府への配慮だとか諸説あるようです。)

しかし、9代松平定国の時に天明4年(1784)の元旦に落雷で天守をはじめ本壇が焼失、11代松平定通が文政3年(1820)に復興工事に着手したものの16年にして頓挫、12代松平勝善が弘化4年(1847)に城郭の復興を再開し、ようやく嘉永5年(1852)に天守をはじめ城郭が完成、安政元年(1854)に落成となりました。

天守と小天守、隅櫓を連ねた連立式天守を備えた松山城は、このような経緯で幕末に完成されたため、我が国最後の城郭建築とも言われています。

幕末の動乱と松山城

親藩であった松山藩は幕末の動乱では二度の長州征伐で先鋒を務め、慶応3年(1867)に14代藩主となった松平定昭は老中に就任しますが1か月後には大政奉還、鳥羽伏見の戦いで朝敵とされ、新政府軍による追討令を受けました。

抗戦か恭順かで藩論は割れたそうですが、藩主定昭は恭順を決断、財政難の中で15万両を朝廷に献上して、蟄居謹慎の上すべての官位を返上、藩主も元藩主の勝成に交代したことで赦されました。また同年、源姓松平氏と葵紋を返上して菅原姓久松氏に復姓しています。

藩士たちの無念を思うと心苦しいですが、もし徹底抗戦していれば、今の松山城の姿はなく「現存12天守」に数えられることもなかったのではないでしょうか。

余談になりますが、「賊軍」松山藩の下級武士という立場から陸軍大将にまで上り詰めた秋山好古は、明治20年(1887)に騎兵大尉への任官後、旧藩主久松家の当主・久松定謨に伴ってフランスの陸軍士官学校で騎兵戦術を学びました。大正4年(1915)、秋山好古近衛師団長に就任した際、近衛歩兵第1連隊長を務めていたのが久松定謨で、二人は「これで賊軍の汚名が晴らせた」と喜び合ったとのこと。

(久松定謨のお孫さん、久松定成氏の靖国神社崇敬奉賛会会長就任を祝う会で紹介された話だそうです。【靖国神社崇敬奉賛会会長就任を祝う会を開催】

松山城本丸の紹介

本丸へは麓からロープウェイに乗って行きました。

ロープウェイから下りて本丸へ向かう途中、いきなり心を鷲掴みにされたのが、この高石垣です。

打込み接ぎの頑丈そうな石垣で、迫力があります。

こちらは太鼓櫓の石垣。

ここもいいですよ!

奥から天守がちらりと顔を覗かせる、中ノ門跡からの眺めもおすすめです。

途中で振り向いて。

石垣に登って、少し高いところから。

この門は筒井門。本丸へと向かう大手を固める最も堅固な門で、築城の際に正木城から移築されたと伝えられているそうです。

こちらは隠門といい、大手から攻め寄せる敵を急襲するための門だそう。

太鼓門。これに加えて太鼓門南続櫓、太鼓門北続櫓、太鼓櫓、巽櫓が石垣上に続けて構築されており、筒井門からの敵に備えているとのこと。

太鼓門を本丸側から見るとこんな感じ。

続櫓を本丸側から。

本丸に入ってすぐのところにある、井戸の跡。

本丸に入ってから天守の建つ本壇まで、結構距離があります。

素晴らしい眺めです…。

本壇に近付くとつい、天守に目を奪われてしまいますが…。

ここから見る石垣も忘れてはいけません。

天守と南隅櫓。

天守の鬼瓦には葵の御紋。現存12天守の中で唯一の葵紋だそうです。

天守の中には解説パネルのほか、松山城松山藩にまつわる様々な物が展示されていました。あまりじっくり見る時間はなかったのですが、以下印象深かった二品を紹介します。

(写真は北隅櫓と南隅櫓を連結する渡櫓、十間廊下)

加藤嘉明の物と伝わる甲冑です。嘉明といえば三角形のイカみたいな兜で有名ですが、これもなかなかおしゃれです。

嘉明と不仲だったという藤堂高虎は並外れた巨漢で有名ですが、対する嘉明はけっこう小柄だったようですね。

松山藩が新政府に恭順した際、松平勝成と定昭父子がこの書をしたためたそうです。

(ちなみに勝成は高松藩松平家から、定昭は津藩藤堂家からの養嗣子)

窓から覗いてみるのもよいです。

こちらは大手方面。

天守の展望台から、道後方面。真ん中辺りに見える森が道後公園湯築城跡です。

湯築城と比較すると、松山城がいかに巨大な城郭か分かるでしょうか。

天守から、再び大手方面。

天守を出て、本丸から同じ馬具櫓を。

馬具櫓は松山城で唯一、鉄筋コンクリート製の建物だそうで、現在は管理事務所として利用されています。

馬具櫓から大手寄りの突き出たところから天守方面を見ると、屏風折の素晴らしい高石垣が見られます。

この本丸の壮大な石垣は、加藤嘉明の頃にほぼ完成されていたそうです。同じ加藤で一般によく知られる加藤清正も築城の名手として有名ですが、嘉明も引けを取りませんね。

他にも、松山城では山上の天守山麓の居館(現在は二之丸史跡庭園になっています)を連結した「登り石垣」という珍しいものがあるそうですが、予習不足と時間不足で見ることができませんでした…。

おまけ

本丸へはロープウェイのほか、リフトでも昇り降りできます。なかなか気持ちいいですよ。

こんなところに鯉のぼりが(笑)

マスコットキャラクターの「よしあきくん」もお忘れなく。

顔出しもあります。

工事の看板も、加藤嘉明リスペクト!

嘉明は三河出身ですが、地元の英雄ではなくても最初に松山城と城下町を築いた領主なので、人気があるんですね。

近くにある松山東雲学園プロテスタント系の女学校ですが、まるで松山城の一部のようなデザインが面白いです。

参考資料

  • 松山城のパンフレット(かなり詳しいです!)

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