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k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りと歴史のことを書きます。戦国時代でも織田信長上洛以前の畿内と西国が多め。内容には素人の根拠無い想像が混ざってるのでお気をつけください。

讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛

今回は京兆家内衆としても知られる讃岐香西氏の名字の地・高松市香西町にあります、「大内堂」(大内義興報恩堂)を紹介します。
この大内堂の興味深い縁起について考察するとともに、讃岐香西氏の略歴をまとめました。
また併せて、香西で訪れた史跡もいくつか紹介します。

なお、前回の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 の続きになる大内義興の帰国後の話や、逆に前回取り上げた丹波の内藤氏以前に香西氏が丹波守護代を務めたという話にも触れていますので、合わせて読んでいただけると幸いです。

香西氏が築いた山城・勝賀城跡のある勝賀山。香西氏が平時の本拠地とした、佐料城跡付近から。(高松市鬼無町佐料)

『香西記』が伝える大内堂(大内義興報恩堂)と大内神社

大正15年に改修されたという大内堂は、勝賀山から少し北東にある小さな山、薬師山の麓にあります。(高松市鬼無町是竹)

案内板の説明文には、大内義興の供奉により足利義尹が将軍に復帰して以来、香西元定は大内氏に従って交易の利益を得たため、義興の死後その恩義に報いるために建立したものとあります。

大内堂の裏には「大内神社」と書かれた小祠がありました。それぞれの関係はよく分かりませんが…。

地元の伝承を集めた史料『香西記』は藤尾八幡宮の祠官・新居香流軒直矩が寛政4年(1792)に完成させたといい、その前書きには「嘗流聞香西の昔語書捨たるを拾ひ集て、童蒙の夜話ともなさんと、是を俗編せんと欲す…」とあります。
その『香西記』には大内堂について、以下のように記述されています。

所謂勝賀山の東麓に小山あり。是竹邑に一峰を生す。故是竹山と云。或は常世山と云也。又常山と云。(中略) 香西豊前入道宗玄、是竹山の原に一宇の禅林に建て、常世山宗玄寺と號。今寺迹に小庵有。又此東南の原に三位義興の像を造立して一宇を立、大内堂と云。又號大内寺也。退轉して今はなし。鎮守荒神の小祠有。此邊を大内堂と地名に稱す。大内寺本尊の觀音、今は西光寺内佛に有と云々。此大内堂東隣作山城跡なり。

香西豊前入道宗玄は是竹山、あるいは常世(とこよ)山、また常(じょう)山と呼ばれた山の原に、常世山宗玄寺を建てるとともに、この東南の原に大内義興の像を造立して「大内堂」あるいは「大内寺」と呼ばれる寺を建てた。今は寺はなくなったが鎮守荒神の小祠があり、その辺りの地名は「大内堂」と呼ばれている。
大内寺の本尊であった観音像は、今は西光寺の私房に置かれているという。この大内堂の東隣が作山城跡である。

…大体の意味はこんな感じでしょうか。
是竹山は現在「薬師山」と呼ばれており、その名の由来であろう薬師寺が建っています。天台宗根香寺末寺とのこと。

香西記の記述では大内堂の東隣が作山城跡とありますが、こちらの薬師寺も城っぽい外観ですね。

勝賀山一帯にはみかん畑がとても多いのですが、大内堂の背後に当たる薬師山にもみかん畑があるようで、農業用モノレールの線路らしきものが伸びていました。

『南海通記』が伝える永正17年秋の大内義興上洛と、将軍義稙の動き

さて、『香西記』は香西豊前守元定の項においても、大内堂のことをこのように記しています。

香西豊前守元定、永正五年八月二千五百餘兵を引率して山田郡に責入て、三谷兵庫頭景久と王佐山の城に相戰也。永正十六年大宰大弐政賢と大内義興筑前に對陣の時、大内方として兵士を引率し、長州赤間か關に到る。爰に大友氏和平を乞。故に兵を引て國に歸也。永正十七年大内義興卒去。彼像を造て以一宇を建て、大内堂又大内寺と號也。

香西元定の事跡について淡々と記述していますが(永正十六年「大宰大弐政賢」って誰のことでしょうか?)、「永正十七年大内義興卒去」を機会として大内義興像を造立したと伝えている点に注目です。
つまり、大内義興は永正17年(1520)に死去したというのですが、通説では享禄元年(1528)とされており、実に8年もの開きがあります。
いったいどういう事なんでしょうか?

讃岐香西出身の兵法家・香西成資が、寛文3年(1663)に書き上げた『南海治乱記』を元に増補を重ねた末、享保3年(1719)に完成させたという軍記『南海通記』には、「讃州香西氏建大内堂記」との章立てで大内堂の縁起が紹介され、その中に永正17年とされる大内義興の最期が書かれています。

永正十七年秋大内義興上洛ノ費用ヲ調ヘ、二万餘兵ヲ擧テ泉州堺ノ浦ニ到著ス。大兵海濱ニ上リケレハ廣津モ猶狭迫ナリ。義興ハ翠簾屋ト云町人ノ宅ヲ本陣トシテ夜守厳格ノ備ヲナシ、警衛■モ無リシカ何トカ為タリケン、館中ニ■盗アツテ諸人寝定リテ後義興ヲ害ス何者ノ所行ト云コト知レス翌日大内家ノ老臣密談シ是ヲ露顕セス、義興ハ防州ニ在テ病ニカゝリタル由、到来スト披露シテ兵船ニテ漕還ス。将軍家モ義興上洛ナキニ因テ、洛中ニ止リ玉フコト成玉ハスシテ淡州ニ退キ蟄居シ玉フ、義興卒去ノコト匿スト云ヘトモ世上普ク推量シテ力ヲ落ス者多シ、今天下ニ将軍ナシ管領ナシ天下ヲ得ント欲スル志アラハ即時ニ天下ヲ得ヘキ時ナレトモ其器ニ當ル人ナクシテ過ヌ、近世兵革打ツゝキテ静マルコトナケレハ百姓モ農ノ時ヲ失ヒ國民困窮ス。

(一部、私の拙い漢字力では読み取れなかった箇所を「■」としています…。)

永正17年(1520)秋、上洛の費用を調えて二万余の兵を率いて堺に到着した大内義興は翠簾屋という町人の家に陣を張ったものの、盗賊によって殺害されたというのです。
また、老臣達が義興の死を秘匿し、防州で病に罹ったと称して上洛を中断したため、義興の支援を受けられなくなった将軍義稙は京都から淡路に退いて蟄居したとします。

※ここからかなり妄想入りますので要注意

永正17年といえば、管領細川高国に対抗する細川澄元が阿波勢を率いて前年の秋から上洛戦を展開、摂津方面で高国方を撃破した三好之長が2月に京都へ入り将軍義稙を奉じたものの、5月には六角氏の支援を受けた高国方の反撃を受けて等持院合戦に敗れ、6月には澄元が病死したため上洛戦は失敗、そんな激動の年です。
この時、近江へ脱出する高国が将軍義稙を連れ出そうとするも、義稙は拒否して在京し続けたことから、土壇場の決断で高国を見捨てて澄元との提携を選んだと解されています。
しかし、義稙は以前から赤松義村を仲介して澄元との交渉を継続していたようで(浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』)、そう考えると将軍の判断は唐突なものではなく、計画的に高国の排除が進められていた可能性があります。

いずれにせよ、その目論見は三好之長と肝心の澄元の死去によって崩れてしまったのですが、その後も赤松義村は亀王丸(後の将軍義晴)を奉じつつ、領国播磨・備前・美作において高国に与する浦上村宗との戦闘を繰り返していることや、ちょうどこの頃に国人達の謀反によって領国紀伊を追われた畠山卜山が、翌大永元年(1521)3月の義稙の京都出奔に呼応していることを合わせると、その背後には反高国方の核として将軍義稙と亀王丸の存在があったのかもしれません。
そうすると、この『南海通記』が伝える永正17年秋の大内氏上洛は、すでに2年前に帰国していた大内義興が再び義稙の呼び掛けに応じたものと捉えることができるわけです。

また『南海通記』はこれに続き、大内義興に大恩のある香西氏が義興の死後にその霊像を祀ったものが「大内堂」であると記しています。

讃州ノ諸将細川政元卒去ノ後、大内義興ニ服従シテ國ヲ守リ、地ヲ保テ数年ヲ超タリ、殊ニ将軍ヨリ安富山城守、香西豊前守海上ノ警衛ヲ奉テ廻船ノ非常ヲ制ス、故ニ上京セスシテ兵衆ノ煩勞ナシ、且能島兵部大夫ニ属シテ大内家朝鮮ノ役ニ加シカバ財足民饒ニシテ兵力有餘ス。是義興ノ芳恩ニアリトテ香西氏ノ産神藤尾八幡宮ノ向ノ山ニ堂ヲ立テ義興ノ霊像ヲ安置シテ、是ヲ祭ル是ヲ大内堂ト云フ世ハ變リ行ケトモ其林木ト名バカリハ今ニ存セリ。

ここでは細川政元の死後、讃岐の諸将は大内義興に従って領国を守り、安富山城守と香西豊前守は将軍から海上警護の役目を命じられたため、上京して兵を損ねることはなかったとしています。また、能島兵部大夫に属して大内家の「朝鮮ノ役」に加わったため「財足民饒」ともあります。
このように香西氏が兵を損ねず財産を得られたのも、亡くなった大内義興の恩に依るものだとして、氏神である藤尾八幡宮の向かいの山に堂を建てて義興の霊像を祀り、「大内堂」と呼んだとのことです。


なお「朝鮮ノ役」は日明貿易とする解釈と、いわゆる倭寇とする解釈に分かれるようですが、当時の海賊の実態としてはどちらも大差なしという感じはします。
能島兵部大夫が一般に「海賊大名」として知られる村上三家の一つ能島村上氏だとすると、大内義興が前将軍義尹を奉じて上洛した際、能島村上氏はこれに協力して塩飽島の代官職を与えられたと伝えられており、当時大内氏に従っていたと思われる香西氏も、能島村上氏の麾下で遣明船の警護を担って利益を得たのかもしれません。

一方の安富山城守は「細川四天王」として知られる安富盛長が名乗った官途ですが、京兆家内衆としての安富氏が細川澄之の乱で没落した後、讃岐に残った安富氏が名乗ったものでしょうか?
安富氏は讃岐東守護代として塩飽島に代官を置いていたそうですし、香西氏と同じく麾下に海賊衆を持っていたのかもしれません。


また『南海通記』は、義興の死去は秘匿されたため世間ではこれを知られることなかったとし、子の義隆は幼少ながら父の遺跡を継いで大国を多数領し、富貴かつ安逸であったため天下の政事は山口に移って大勢の者が集まり、外国の商船も博多や山口を訪れて、明国との勘合も政弘以来大内家が独占したため、外国人は義隆を日本の国王と思っていたと、その治世を好意的に記しています。

義興卒去ノコト深ク密シテ世ニ露ハサズ、故ニ世人ソノ所以ヲ知ス其子義隆幼少ニシテ、父ニ後レ其遺跡ヲ繼テ大國數多ヲ領シ、富貴ニシテ安佚ナリシカハ天下ノ政事ハ防州山口ニ移リ、貴賤トナクコゝニ来集シ、西蕃ノ商船モ筑前博多、防州山口ニ来著シテ、和漢ノ勘合モ政弘ヨリ以来ハ大内家ヨリ通達セシカハ異邦人ハ大内殿ヲ以テ日本國王ト思ヘリ、大永元年ヨリ三十年ニ及テ義隆大國ヲ塞テ終ニ上洛シ玉ハス。

さすがに8年も当主の死を秘匿するのは難しいと思いますが、幼少で父の跡を継いだという義隆は実際に永正17年までに元服して周防介を継いでおり、すでに代替わりしていたようです。

大内義興が帰国した後も将軍義稙との繋がりを断っておらず、澄元の反攻に呼応すべく動いていたのだとすると、遣明船の利権を巡って大永3年4月「寧波の乱」で大内方と細川方が武力衝突に至った件、阿波守護家の細川持隆が大内義興の娘を正室に迎えた件、義稙の没後に大内義隆がその肖像画を描かせたという件なども、その延長戦上の動きとして理解できるのではないでしょうか。

香西氏の地元に伝えられてきた大内義興の最期と幻の上洛の話、真偽はさておき、当時の状況と重ねあわせると妄想が膨らみますね。

「讃州藤家」から香西氏を興した香西左近将監資村

『南海通記』や『香西記』所収の「讃州藤家香西氏略系譜」によると、香西氏は源平合戦において源氏方に与して活躍した「讃州藤家」(讃岐藤氏とも)と呼ばれる武士の一族を出自としています。

その始祖は保安元年(1120)に讃岐守として赴任した中御門藤中納言家成と、阿野郡の大領を務めた豪族・綾氏の娘の間に生まれたという藤大夫章隆とされています。

「讃州藤家」は大野氏、羽床氏、新居氏、香西氏、福家氏、西隆寺氏などの諸氏に分かれますが、新居藤大夫資光は源平の争乱において源氏方となって屋島合戦で軍功を立てました。

その新居藤大夫資光の子、新居次郎が香西左近将監資村で、「承久の乱」の際に幕府方に付き、宇治川合戦での戦功によって阿野・香川両郡の地頭に任ぜられ、笠居郷に屋敷を構えて「香西」と称したことが香西氏の始まりと伝えられています。

(当時「讃州藤家」の嫡流は羽床氏でしたが、羽床氏は「承久の乱」で宮方に付いたため凋落し、これに代わって香西氏が台頭することになったようです。)

勝賀山上に詰めの城である勝賀城を、勝賀山麓に平時の居城として佐料城を構えるとともに、笠居郷の発展の礎を築いた香西左近将監資村は、地元香西においては現在も「資村公」と呼ばれて崇敬されています。

佐料城跡とされる、佐料公民館と奥津神社。
佐料は現在の高松市香西よりも内陸寄りの高松市鬼無町にありますが、香西資村の出自である新居(にい)や、同じく新居からの分家という福家(ふけ)は、更に内陸の高松市国分寺町に地名として残っています。
笠居郷の開発とともに瀬戸内海へと進出していった香西氏は、天正年間には長宗我部氏の讃岐侵攻に備えて、香西浦の藤尾城に本拠地を移すことになります。


なお、香西氏は笠居郷に因んで「かさい」と称したとする説がありますが、平安後期に編纂された辞書『和名類聚抄』(和名抄)には香川郡が東・西両条に分割されたこと、また康治2年(1143)の太政官牒案には讃岐国野原荘の四至に「香西坂田郷」と見え、同文書の同年9月13日、10月20日には「幸西」とも見えることから、香西条に因む地名としての「香西」(こうざい/こうさい)は香西氏以前から存在していたようです。
(『角川日本地名大辞典 37 香川県』)

『香西記』には以下のような記述があり、笠居=香西=「かさい」説はここから導かれたものと思われます。

香西地名は前に述る如し。香河の東西を別て云處なり。然れは則香東六郷を都て香東と云、又香西六郷を都て香西と云也。爰に香西氏代々笠居郷に居す。因て笠居を香西とも混せり。然るに葛西と云は非也。葛西氏有故に誤れり。葛西氏は関東の姓也。笠居の海邊を香西浦と云。香西の海濱成故也。又昔香西氏居城藤尾山の邊地を指て、香西浦と云事最可也。

また、人名として確かな史料に現れるのは、財田の南朝方攻略に関する建武4年(1337)6月20日の細川顕氏書下に「香西彦三郎」とあるのが初見とのことで、左近将監資村との関係は分かりませんが、これ以前より存在していた香西氏の一族が細川氏に従って北朝方として活動したのは間違いないようです。
(『角川日本地名大辞典 37 香川県』)


「細川四天王」で唯一、讃岐土着の武士であった香西氏

時代は下って応仁・文明の乱の頃、『南海通記』には細川勝元に仕えた「細川家ノ四天王」の一人として、香西備後守元資が登場します。

享徳元年ヨリ細川右京大夫勝元ハ、畠山徳本に代リテ管領職を勤ルコト十三年ニ至ル、此時香川肥前元明、香西備後守元資、安富山城守盛長、奈良太郎左衛門尉元安四人ヲ以テ統領ノ臣トス、世人是ヲ細川家ノ四天王ト云フ也。

室町時代の細川家による讃岐支配は、香川氏を西守護代、安富氏を東守護代として、香川氏が多度津に天霧城、香西氏が香西浦に勝賀城、安富氏が津田に雨滝城、奈良氏が宇多津に聖通寺城と、「細川四天王」のそれぞれが瀬戸内海に港を擁する要衝に山城を築き拠点としていました。

『南海通記』は四天王それぞれの讃岐における領地とその由来について、以下のように述べています。

各讃州ニ於テ食邑ヲ賜フ、西讃岐多度、三野、豊田三郡ハ詫間氏カ領也。詫間没シテ嗣ナシ、頼之其遺跡ヲ香川ニ統領セシム、那珂、鵜足ノ二郡ハ藤橘両党ノ所有也。是ヲ細川家馬廻ノ武士トス、近年奈良太郎左衛門尉ヲ以テ二郡ノ旗頭トス、奈良ハ本領畿内ニアリ、其子弟ヲサシ下シテ鵜足津ノ城ニ居住セシム、綾ノ南條、北條、香東、香西四郡ハ、香西氏世々之ヲ領ス、三木郡ハ三木氏没シテ嗣ナシ、安富筑前守ヲ以テ、是ヲ領セシム、香川、安富、奈良ハ東國ノ姓氏也。細川家ニ属シテ當國ニ來リ、恩地ヲ賜フテ居住ス、其來往ノ遅速、何ノ年ト云フコトヲ知ラス、香西氏ハ當國ノ姓氏也。建武二年細川卿律師定禪當國ニ來テ、足利家歸服ノ兵ヲ招キシ時、詫間、香西是ニ属シテ武功ヲ立シヨリ以來、更ニ野心ナキ故ニ、四臣ノ内ニ揚用サラル其嫡子四人ハ香川兵部少輔、香西備中守、奈良備前守、安富民部少輔也。此四人ハ在京シテ管領家ノ事ヲ執行ス、故ニ畿内ニテ食邑ヲ賜フ、其外在國ノ郡司ハ、大内、寒川二郡ハ寒川氏世々之ヲ領ス、山田郡十二郷ハ、三谷、神内、十河ヲ旗頭トシテ、植田氏世々相持テリ、細川管領家諸國ヲ統領スト云ヘトモ、讃州ヲ以テ根ノ國トス、

郡単位ではこのような勢力配置となります。

  • 香川氏(天霧城)…多度郡、三野郡、豊田郡
  • 奈良氏(聖通寺城)…那珂郡、鵜足郡
  • 香西氏(勝賀城)…阿野郡(綾南條郡、綾北條郡)、香川郡(香東郡、香西郡)
  • 安富氏(雨滝城)…三木郡
  • 寒川氏(昼寝城)…寒川郡、大内郡
  • 植田氏(戸田城)…山田郡

このうち、香川氏と安富氏と奈良氏はいずれも主君の細川氏に従って関東から讃岐へと移住した御家人で、香西氏、寒川氏、植田氏(三谷、神内、十河)は讃岐土着の武士です。
ややこしいのですが、香川氏は相模国高座郡香川村を出自とする一族で、讃岐国の香川郡とは関係ないそうです。(僕はずっと勘違いしてました…)

このように讃岐の多くに関東出身の一族が配されたのは、南北朝期に幕府方として西国平定に多大な貢献を果たした細川氏の活躍によるものですが、香西氏は細川の麾下に入った讃岐の国衆の中で、特に戦功を認められたようです。

『蔭涼軒日録』明応2年(1493)6月18日条には「讃岐国者十三郡也、六郡香川領之、七郡者安富領之、国衆大分限者惟多也、雖然香西党為首皆各々三昧不相従安富者惟多也」とあり、讃岐の国衆には富裕な者が多く、好き勝手に事を行って安富氏に従わない者が多くいたようで、とりわけ香西氏はその代表格と見なされていたことが窺えます。

讃岐の国衆達が富裕を誇るに至ったのは、彼らが京都へと繋がる瀬戸内航路の要衝を掌握していたことが大きかったのでしょう。
東大寺領であった兵庫津北関の関税徴収記録『兵庫北関入船納帳』にも「香西」の名が見られるほか、香西氏は備讃瀬戸の要衝で造船・航海技術に優れた「塩飽衆」を擁する塩飽島や直島に一族を配していたと伝えられており、香西氏は有力内衆として政事や軍事に貢献するとともに、物流においても畿内における細川家の活動を支えたのではないでしょうか。 前述した大内堂の縁起が伝えている永正年間の「香西豊前守海上ノ警衛ヲ奉テ廻船ノ非常ヲ制ス」も、そのような経緯によるものと考えられます。

丹波守護代に抜擢された香西常建と、丹波守護代を失った香西元資

讃岐生え抜きの武士であった香西氏が、細川京兆家の内衆として畿内で活動する切っ掛けとなったのが、細川頼之(入道常久)に仕えた香西常建です。

細川頼之観応の擾乱で西国において南朝方の掃討に活躍しましたが、京都の政争で失脚して南朝方に降り阿波へと逃れた従兄・清氏を討伐し、以後、細川家の嫡流は清氏から頼之へと移りました。
有名な軍記『太平記』の最後は、幼少の将軍義満を補佐する細川頼之の執事(管領)就任をもって天下泰平を祝福して終わっていますが、実際にはその後も斯波氏との政争に敗れて阿波へと下国したり、また復権したりと波瀾万丈の生涯を送っています。


なお、本宗家と阿波守護家に分かれたのは頼之の弟、頼元と詮春からで、頼元が継いだ本宗家は代々「右京大夫」の官途を継承して「京兆家」と呼ばれ、詮春が継いだ阿波守護家は代々「讃岐守」の官途を継承して「讃州家」と呼ばれるようになったのです。
また、京兆家は摂津、丹波、讃岐、土佐の四ヶ国守護を合わせて継承し、庶流家は和泉、淡路、阿波、備中の各国をそれぞれ継承しました。(和泉は上下半国守護制)


いわば、室町期における細川家の繁栄の礎を築いたのが細川頼之ですが、香西常建は頼之の死後も後継者の頼元に仕え、細川氏が明徳3年(1392)に「明徳の乱」の戦功によって山名氏の領国丹波守護職を獲得するに至り、応永21年(1414)には小笠原成明の跡を継いで丹波守護代に補任されました。

『康富記』応永29年(1422)6月8日条には「細河右京大夫内者香西今日死去云々、丹波国守護代也、六十一云々」とあり、常建は細川京兆家の元で一代で讃岐国衆から京兆家内衆の一員に抜擢され、その晩年に丹波守護代を務めたことが分かります。

この香西常建の次に丹波守護代を継いだのが香西豊前守元資ですが、元資は永享3年(1431)7月には当時の京兆家当主・細川持之によって罷免され、丹波の代表的国衆である内藤氏(備前入道)と交代させられています。

満済准后日記』永享3年7月24日条には「右京大夫丹波守護代事、申入処此間守護代香西政道以外無正体間、可切諌由被仰了」「丹波守護代可為内藤備前入道」とあり、細川持之が将軍義教の護持僧であった満済に相談して丹後守護代を内藤備前入道に交替したらよいか将軍に尋ねるよう申し出たところ、その後訪れた将軍は香西は政治のやりかたがでたらめである、厳しく処罰するよう伝えよと言ったようで、どうも罷免の原因は永享元年の丹波国一揆を招いたことにあったようです。

「香西備後守元資」を「細川家ノ四天王」として紹介する『南海通記』には常建の事績が紹介されていないばかりか、元資が丹波守護代であったことも記されていないのですが、常建が傍系の出身であったか、あるいは『南海通記』を記した香西成資が先祖に当たる元資の不名誉に触れたくなかったのではないかと推察されています。
(藤井公明『香西氏研究』)

上香西と下香西に分かれた香西氏

『香西記』の系図によると、香西元資の後継者に当たる元直と元顕の兄弟(?)で、元直が上香西氏、元顕が下香西氏の二流に分かれたとされています。

『蔭凉軒日録』長享3年(1489)8月12日条には「又香西党太多衆也、相傳云、藤家七千人、自余諸侍不及之、牟礼鴨井行吉等、亦皆香西一姓者也、只今亦於京都相集、則三百人許有之乎云々、」とあり、京兆家主催の犬追物のために集まった香西氏の一党(牟礼・鴨井・行吉を含む)は300人に及んだと記されており、中でも細川政元の信頼を得た香西又六、香西五郎左衛門、牟礼次郎兄弟らの活動は史料によく登場しており、政元が主催した犬追物にもたびたび参加しました。

『蔭涼軒日録』には香西又六と香西五郎左衛門の二人が「両香西」とも称されていることから、又六が上香西、五郎左衛門が下香西を代表する人物であったとも考えられます。

香西又六は明応6年(1497)10月に山城守護代に任じられ、やがて細川政元の養子澄之を擁立、政元暗殺の首謀者として知られる、香西元長です。
(香西元長と上香西氏の動向については、また別の機会に書く予定です。)

一方の香西五郎左衛門は、延徳3年(1491)10月に京兆家内衆で備中守護代を務める庄伊豆守元資が備中に下国し、備中守護の細川勝久に対し挙兵した「備中大合戦」において、西備前の松田氏らと共に庄氏に味方して戦いましたが、延徳4年(1492)3月の戦いに敗れて讃岐勢の大半と共に討死してしまいました。

この「備中大合戦」は京兆家が内衆を使って備中守護家へ介入しようとしたものと捉えられていますが、その背景には当時の将軍・足利義材が讃州家や備中守護家の取り込みを図ったため(讃州家出身で備中守護家の養子となっていた細川之勝が将軍から偏諱を授かり「義春」を名乗ったのもこの頃)、対立を深めていたという流れがありました。
これが政元による讃州家の懐柔策を招き、引いては政元の後継者問題を通じて、内衆の派閥抗争を激化させてしまうことになるわけです。


ちなみに庄伊豆守元資は前回の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 でも紹介した「細川政元拉致事件」において安富新左衛門尉元家と共に一宮方へ討ち入った人物ですが、その時の感状を巡って安富氏と対立関係にありました。
また、応仁・文明の乱において、西備前一帯を支配する金川城主・松田氏が山名氏と手を組んで赤松氏・浦上氏と戦った際にも、庄元資は松田方に味方したようです。この一連の戦いで嫡子の則景を失った浦上則宗は、後に安富元家の子を養嗣子に迎えることになりました。

更にずっと後のことですが、宇喜多直家に滅ぼされた松田元賢の弟元脩は毛利家に属し、関ヶ原合戦の敗北によってしばらく直島に逃れた後、香西に移り住んだとの伝承があります。
元脩は香西・植松両氏の世話を受けて堀の内に居住し、高松藩の命により塩田開発に従事、その子孫は藤尾山の南東麓に郎党の五輪塔を立てて先祖の松田左近将監元親の木像を祀り、表向きは竈(へっつい)神社=かまどの神様として崇敬していたそうです。
現在、松田左近将監の像は宇佐八幡宮の摂社白峯神社に合祀され、竈神社の跡地にています。
(参考:発見!キラッと☆香西 ヘッツヒ神社

備前の松田氏は、讃岐の香西氏とは不思議な縁がありますね。


勝賀山と香西の史跡を巡ってみた

今年の正月とお盆、二度に渡って香西に訪問した時の写真です。
勝賀山は時間と装備不足で残念がら山頂の城跡までは見られなかったんですが、中腹までから各城の位置関係や高低差を見ることで、香西氏が天正年間に佐料城から藤尾城へと本拠地を移した理由が何となく感じられました。

標高360mを超え、山城としては結構高い方と思われる勝賀山ですが、山全体にみかん畑が広がっていて、平成に完成した勝賀農免道路が走ってます。この道路を通って登山口付近まで車で近寄れました。
(駐車場はありませんが道幅が広くなっているところがあり、ちょうど山の陰になっていたのでそこに停めました。)

勝賀山と佐料城、薬師山、大内堂などの位置関係はこんな感じ。勝賀山は大きくて、この絵が大げさではないくらいのスケール感です。

こちらは勝賀城登山道からの眺望です。足元に広がるのはみかん畑。
真ん中が神宮寺山、その右側が薬師山、その右奥が峰山、その左奥辺りが高松港、さらに奥にうっすら見える台形が源平合戦で有名な屋島。左側に女木島も見えてます。

香西氏が佐料城から移転したという藤尾城には、宇佐八幡宮が建っています。

藤尾山は今でこそ内陸ですがかつて「磯崎山」と呼ばれ、『香西記』にも「又昔香西氏居城藤尾山の邊地を指て、香西浦と云事最可也」とある通り、当時は香西浦の水辺に面していました。
(藤尾というのは香西資村が勧請した宇佐八幡宮の元の遷座地の名前だそうです。参考:発見!キラッと☆香西 宇佐八幡宮

香西氏は長宗我部氏の侵攻に備えて、水上交通の要衝として発展してきた香西浦を包摂する海城を新たな主城として、周辺丘陵地の支城による防衛網を敷き、瀬戸内方面からの支援ルートを確保することで、長期戦に耐えうる体制の構築を図ったのではないでしょうか。

八幡宮のすぐ側には香西神社があります。香西小学校の校庭に建立された忠魂社が戦後に名を改めて移転されたそうです。
祭神は香西左近将監資村公を始め十余の先賢と、二百三十余柱の英霊が合祀されているとのこと。

ここからは、香西氏の出城であったという芝山城跡です。

天正年間には直島を本拠地としていた渡辺氏の一族、市之丞と三之丞兄弟が守っていたと伝わります。

芝山の頂上には現在、芝山神社が建っています。祭神は大国主命(大黒様)、事代主命(恵比須様)、市杵島姫命(弁天様)。

神社の裏に立つ宝篋印塔は、香川郡笠居の「紀伊國屋」によって奉納されたもの。

芝山の東側が現在の香西港になります。イオンモール高松やマルナカが建っています。真ん中の奥の方に見える台形のが屋島です。

芝山から見た勝賀山です。佐料の方からだと山頂が削られた跡なのか結構べったりして見えますが、海側から見ると美しく感じました。
(『香西記』に「勝れて高く美しき山也」と評されているのはこちら側からの眺めでしょうか?)

芝山から見て、真ん中の小さい森が藤尾山、その奥が薬師山です。

全体を収めるとこんな感じ。勝賀山の大きさが分かりますよね。香西の人々にとっては常に仰ぎ見る、特別な山なんだろうと思いました。

本文に記載したものの他、参考にさせていただいた書籍、資料、Webサイト等の紹介

今回は香西氏ということで、参考になる書籍が見つからず、かなりWeb上で公開されている情報に頼る結果となりました。
特に瀬戸内の港町や水軍と幕府、あるいは地域権力との関わりについては、知識の不足を痛感させられます…。

角川日本地名大辞典」編纂委員会『角川日本地名大辞典 37 香川県』(角川書店

角川日本地名大辞典 (37) 香川県

角川日本地名大辞典 (37) 香川県

1985年と少し古い本ですが、地名としての「香西」の起源や香西氏の関わり、塩飽諸島の略歴を学びました。
こういう辞典を初めて読んだのですが、知らない地域の経歴や史跡について調べるのに意外と役立ちますね。

宇田川武久『瀬戸内水軍』(教育社歴史新書)

瀬戸内水軍 (教育社歴史新書 日本史 65)

瀬戸内水軍 (教育社歴史新書 日本史 65)

ずいぶん昔に購入した新書ですが、あまり記憶に残らないまま本棚に眠っていたものです。
大内義興報恩堂」にちなんで、香西氏と日明貿易の関わりについて少しでも書いてるかもと考えて久しぶりに開いたら、冒頭から香西成資が『南海通記』に記した水軍に関する内容が強く批判されていて、苦笑してしまいました。
香西氏とその麾下の水軍については直接触れられてはいませんが、「警固衆」と呼ばれる大内氏麾下の水軍が遣明船の警固に当たった経緯などを学びました。

国立国会図書館デジタルコレクション

久々にこのサイトに当たりましたが、『香西記』や『南海通記』が丸ごと収録されていて驚きました。

『南海通記』は江戸時代前期の兵法家・香西成資によって記された四国の通史です。
いわゆる軍記物語として扱われていますが、荒唐無稽な内容ではなく、概ね時系列順で例えば「細川高国與細川澄元諍管領職記」「讃州香西氏建大内堂記」「讃州河野氏建不動堂記」「讃州塩木合戦記」「讃州津柳合戦記」のようにエピソード毎に分けて書かれていて読みやすく、郷土史料としても有用な内容です。
まだ通読はしていませんが、四国の戦国史を調べる上では避けては通れない書物のようで、内容も多彩で面白いので、今後も読む機会がありそうです。

『香西記』は藤尾八幡宮の祠官・新居香流軒直矩が、地元の伝承を集めた史料です。
西周辺の名所旧跡や神社の縁起などが多く、現地を訪ねるに当ってイメージを膨らませるのに役立ちそうです。
「讃州藤家香西氏略系譜」も収録されており、香西氏を知る上でこちらも必読だと思います。

古野貢「室町幕府-守護体制下の分国支配構造-細川京兆家分国丹波国を事例に」

確かな史料に基いて、丹波一国で約200年に及ぶ京兆家と守護代たる内衆、そして国人たちの変遷を解説されています。
香西氏について参考にしたのはごく一部ですが、荻野氏が関わった「丹波国一揆」や波多野氏の地域権力化(守護権からの自立)について多く触れられており、今後も何度か読み返すことになりそうです。
「細川氏守護補任以後の丹波守護と守護代の事跡」として、現存する文書の一覧が掲載されており、丹波に関する史料のインデックスとしても有用だと思います。
(上香西氏と関連して波多野氏の経歴にも触れざるを得ないので、また読むことになるでしょう。)

高松短期大学『研究紀要』

それぞれ昭和56年、昭和58年と古いものですが、Webで読める香西氏の研究としては唯一かもしれません。

香西氏の祖とされる資村の経歴のみならず、当時から香西の地がどのように発展していったのかが考察されていて、実際に現地を巡る際にも往時を偲ぶ上で役立ちそうです。
資村が進めた漁業振興政策が水軍の養成に繋がったとの説明も、香西氏の特質を知る上で学ぶところが多かったです。
香西=笠居=「かさい」説に強くこだわっておられるようで、わざわざ「かさい」とふりがなされていたり、「室町時代になると、立身出世の夢を追うて、都あたりの戦争に明けくれたのであった」と、京兆家内衆としての畿内進出については否定的な見方をされているのも特徴的です。

香西氏の経歴について非常に詳しく解説されています。特に畿内進出の先駆けとなった香西常建について学びました。
出家して讃岐宇多津に帰った細川頼之(入道常久)の親衛隊の一人として香西氏から加わったのが、若き日の常建ではなかったかと想像されていて、面白いです。
白峰寺に奉納された「頓証寺法楽百首」に収録されているという、常建と元資が詠んだ和歌についても紹介されています。

飯倉書屋

「香川史学」第17号『細川家内衆香西氏の年譜ー香西又六の山城守護代任命までー』より抜粋、とのことですが、香西氏の初見となる建武4年6月20日から、明応6年10月の香西又六(元長)の山城守護代就任までの、確かな史料に見える香西氏の動きが列挙されていて、参考になります。

細川氏一門の守護支配と京兆家

-第二章 細川氏一門の同族連合体制の展開

政元主催の犬追物に参加した香西氏一党について記された、『蔭凉軒日録』長享三年八月十二日条の解説が参考になりました。
香西氏が京兆家のみならず和泉下守護家にも庶流の香西藤井将監を内衆として輩出し、同じ「香西党」として認識されていたことをもって「京兆家と庶流家の紐帯」と説明されていて、こちらも興味深いです。

香川県埋蔵文化財センター研究紀要

たまたま検索で見つけた資料ですが、「野原」=香東郡野原庄は現在の高松城付近のことで、香西と同じ高松平野で共に発展した港町ということで参考になりました。
市村高男先生からは、香西氏の家臣に紀州雑賀出身者がいることや、「香西氏が香西の港を掌握しながら外来の武装商人集団を引っ張ってきている可能性がある」との興味深い指摘もあります。

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