天文の錯乱・山科本願寺焼失と『祇園執行日記』に見える京都周辺の情勢
かなり間が開いてしまいましたが、内容的には英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史からの続き、というか補足になります。
「石山合戦」について書く前に、本願寺と畿内政権の関係の変遷を追う上で重要な事件、「天文の錯乱」について紹介します。
本願寺の門徒同士の内紛「大一揆・小一揆の乱」も含めて「享禄・天文の乱」と呼ばれたり、あるいは当初この乱に本願寺の敵として参加し後に延暦寺と結んだ幕府によって焼き討ちされた法華宗に焦点を当てて「天文法華の乱」と呼ばれる兵乱にも関係する内容ですが、今回は特に天文期の山科本願寺焼き討ちに至った事件から、幕府との和睦までの時期に絞ってまとめてみます。
「天文の錯乱」の勃発と山科本願寺焼き討ちに至るまでの情勢
京兆家の家督を巡る幕府の分裂抗争「両細川の乱」において、享禄4年(1531)6月に将軍・足利義晴を擁する細川高国が敗死した「大物崩れ」により、「堺公方」足利義維を擁する細川晴元が京都を制圧しましたが、晴元の寵臣として畿内に勢力を築く三好政長と、阿波勢を率いて戦功のあった三好元長が対立を深め、これに河内畠山氏の内衆でありながら晴元への接近を図った木沢長政と、その主君である河内守護・畠山義宣(義堯)の対立が絡んで、晴元方の内部抗争に拍車をかけます。
享禄5年(1532)6月、本願寺法主の証如は細川晴元の要請を受けてこの抗争に介入、飯盛山城に木沢長政を攻囲していた畠山・三好連合軍を、10万あるいは20万とも伝えられた門徒の動員によって撃破し、紀伊への逃亡を図った畠山義宣を自害に追い込んだ上、その勢いで三好元長をも堺に攻め滅ぼしました。
堺における阿波勢の敗退で失脚した足利義維が淡路へと没落したことにより、将軍・足利義晴と細川晴元方との間に和睦の機運が高まったのですが、門徒の猛勢は証如の思惑を越えてその制御を離れ、7月には大和に挙兵して興福寺を襲撃、諸院家や僧坊が焼かれ、遂には晴元や木沢長政ら幕府方を攻撃するに至ったため、将軍は京都の町衆および法華宗門徒に本願寺との戦いを命じました。
こうして幕府を敵に回してしまった本願寺は、天文元年(1532)8月、近江守護・六角定頼と法華宗を中心とする幕府軍の攻撃によって山科本願寺を焼き討ちされてしまったのです。
公卿の鷲尾隆康は日記『二水記』の中で「一向宗として、今度法華宗へ発向すべきよしの風聞あり」と、一向宗門徒が法華宗を標的として攻め込んで来るという噂があったことを記すと共に、山科本願寺の没落については「今日一時に滅亡、しかしながら天道なり」と記しており、当時の京都の人々は一向宗門徒の動向に恐れを抱いていた様子が窺えます。
『二水記』によれば、六角軍の加勢を得た法華宗の軍勢が山科本願寺への総攻撃を開始したのは8月24日の早朝のことでしたが、午前中には攻め落とされたようで、寺や在家は一屋残らず焼かれてしまい、その煙は天を覆う程であったそうです。
山科本願寺は濠と土塁に囲れた寺内町を持つ一種の城郭都市でしたが、あっけなく攻め落とされたのは、すでに6月に証如上人と坊主ほか内衆以下は山科から退去しており、おそらく今後の戦いに備えて本山を大坂へと移すことが決定されていたためと思われます。
京都府教育委員会の発掘調査終了を受けて開催された、山城郷土資料館の企画展「山城の中世城館を掘る」では、山科本願寺跡からの出土品として多数の陶磁器が展示されており、その栄華の一端を見ることができました。
また「御本寺」とよばれる地域の南西隅では土塁や石組の暗渠排水口が発見され、石組の一部は火を受けた形跡があったとのこと。当時の記録を裏付ける物が実際に出てきたわけです。
なお「山城の中世城館を掘る」は平成27年4月25日(土)~6月28日(日)開催です。(まだ間に合います!)
「天文の錯乱」が終結し、幕府は足利義晴-細川晴元体制となる
文明6年、蓮如上人が「御文」にて「守護地頭方ニムキテモ、ワレハ信心ヲエタリトイヒテ、粗略ノ儀ナク、イヨイヨ公事ヲマタクスヘシ」と在地の武家勢力に対する反抗を戒めているように、本願寺教団は武家との衝突を望んでいたわけではありません。
しかし、加賀の支配権を巡る門徒同士の内紛「大一揆・小一揆の乱」で大一揆を主導して戦った坊官の下間頼秀、頼盛兄弟が本山へと帰って指導に当たると、一揆は一層その勢いを増すことになります。
京都周辺や摂津で戦い続けた本願寺門徒は、天文2年(1533)には細川晴元を淡路へと追い落とし、一方で細川高国の弟・八郎晴国を擁立する旧高国方の国人達とも結託しましたが、晴元方と法華一揆の反撃によって戦況は拮抗します。
そこで両者の和睦の仲介人として担ぎ出されたのが、三好元長の嫡子・千熊丸、後の三好長慶でした。
天文2年(1533)6月に将軍を義晴、細川京兆家の家督を晴元とするとの条件で両者の和睦が成立しますが、これで両者が矛を収めたわけではなかったようで、天文3年(1534)3月には晴元との和睦に反対していた下間頼盛が証如を人質に取って旧高国方と結んで挙兵、幼い長慶を後見していた一族の三好連盛までもが一時、この動きに同調しています。
しかし、三好連盛は木沢長政の仲介によって晴元方に帰参、天文5年(1536)8月には旧高国方の三宅国村が細川晴国を裏切って自害に追い込み、本願寺でも天文4年には細川晴元との和睦に際して好戦派の下間頼秀、頼盛兄弟を破門としたことで、ようやく幕府は管領・細川晴元が六角定頼と連合して将軍・足利義晴を擁立する体制で安定へと向かい、本願寺も将軍より赦免を受けるに至りました。
当時の本願寺教団を実質的に主導していたのは、まだ幼い法主・証如を後見する蓮淳(実如の弟)でした。「大一揆・小一揆の乱」に下間頼秀、頼盛兄弟を派遣したのも蓮淳だったようですが、教団は両者に責任を取らせて一揆の幕引きを図ったものと思われます。 下間兄弟は「前代未聞之狼藉人」とされ、後に教団の刺客により殺害されてしまいました。
この「天文の錯乱」の反省からか、本願寺はこれ以降、門徒の動員を控えて幕府と良好な関係構築に務めました。
(なお、下間兄弟と入れ替わるように帰参したのが下間頼慶ですが、頼慶の孫・頼龍が池田恒興の養女を妻とした関係で、頼龍の子・頼広は後に池田輝政の嫡子・利隆に仕えて戦功を立て、一門衆に迎えられて「池田重利」を名乗り、播磨新宮藩の大名となります。)
『祇園執行日記』に見える「天文の錯乱」
『祇園執行日記』は京都祇園社(現在の八坂神社)の執行が記した日記ですが、群書類従に収録されているものには天文元年7月から天文4年9月にかけての記録が含まれており、天文の錯乱における京都周辺の情勢を窺うことができます。
以下、その中からいくつか抜粋して紹介します。
天文元年七月の条には、乱の発端について以下のように簡潔に記載されています。
天文元年 七月 廿八日 抑天下將軍御二人候所ニ 同細川モリ兩人候也。四國方衆ハ、皆々堺邊ニ御入候由所承也。就中御一人ノ將軍ハ、近江ノ観音邊ニ御入候。六角モリ申所也。コン本御幼少ヨリ常桓モリ被申候ニ近江ニ御浪人ノ砌、堺方ヘ御ナリ候所也。マタキラリトハナキ也。又常桓津國ニテウチ死セラレ候テ後、八郎代ニ也候後、先以御敵分也。仍八郎ハ西國田舎邊ニイラレゲニ候シ。カクト不知カク候所ニ、山シナニ法観寺トイツシ一向宗候ガ、澄元六郎ノ用トテ、津國ヘマカリコシ候ガ、又澄元ト中ワロク成ル。折節カノ一向宗都ノ日蓮宗退治候ハン由、風聞候トテ、法華宗謀叛企テ、六郎ノ衆ト一所ニテ、山科ヲ攻メント云ノ由、サリナガラ法観寺ハイマダ津國ニ候也。山村ト云者ハ、柳本ト云シ者ノ中者也。當寺ノケン也。先威勢ヲ以テ也。
当時から足利義晴・義維の兄弟が「天下將軍御二人候」と見られていたことが興味深いです。「常桓」は細川高国の晩年の法名。その討ち死に後に跡を継いだのが弟の「八郎」細川晴国で、ちょっと分かりづらいですが途中から「澄元」と誤記されている「六郎」は細川晴元のことです。
本願寺のことは「法観寺」と記されており、一向宗本山の名は京都でも正しく認知されていなかったことが窺えます。
また「澄元六郎ノ用トテ、津國ヘマカリコシ候」の部分は晴元(澄元ではなく)に協力して堺に三好元長を攻めたこと、しかしながら「又澄元ト中ワロク成」っていたところ、「一向宗都ノ日蓮宗退治候ハン由、風聞候トテ、法華宗謀叛企テ」つまり本願寺の方から法華宗を敵として攻めてくる噂があったため、京都の法華門徒は先手を打って蜂起し、細川晴元の軍勢と手を組んで山科を攻撃したというのです。
このような風聞は前述の鷲尾隆康の日記『二水記』にも記されていましたが、奈良で一向宗の挙兵によって興福寺が焼かれたという情報もすでに都に届いていたのでしょうか。
一向宗に対する敵意は京都の人々に共通していたのか、この7月28日にも記されている、柳本賢治(丹波波多野氏の一族で晴元方の有力者だったがすでに死去)の家臣・山村正次が上京と下京の一揆を率いて行った「打ち回り」(武装して巡回すること)には、日蓮宗および町人、野伏、足軽などが参加したことが記されています。
七日 山村京ノ上下ノ一揆ヲ引グシテ、ウチマワリシ候。
十日 今夜奈良夜中ノマヘヨリ、今日一日ヤケ候。今日山村ウチマハリシ候テ、所々ノ一向門徒ノ寺ヲヤキ候。又山科ノ中モ打マハリシ候由候。
十一日 山村、下京上京ノ日蓮宗町人ヲ引催、東山ヲウチマハリシ候。
十二日 下京上京ノ日蓮宗野伏共ウチマハリ心々セイヅカイシ、野伏ヤガテ引候。
十六日 山科ヨリ將軍塚マデ足輕カケ、マタノロシ上ゲ候。
十七日 山科ヨリ東山ヲウチマハリシ候處ニ彼ノ京ノ者共懸付候テ、花山ノ上ニテ軍候處、山科ノ一向宗共崩候テ、百二三十人討死候由申候。シカジカ不知候。都ノ方ハ無沙汰候間不知候。
山村正次は8月7日から連日、一揆を率いて打ち回りを続け、一向宗門徒の寺を焼き山科にまで進出、24日の山科本願寺への総攻撃が開始される以前から、すでに門徒との衝突が始まっており、「百二三十人」もの一向宗が討ち取られたようです。
一方、堺においても8月初頭から「聡明殿」(細川晴元)と「法観寺」(本願寺)門徒の衝突が起き、多くの一揆が討たれたとの風聞が記されています。
この頃まだ将軍・足利義晴も近江桑実寺に、細川晴元もまた堺におり、両者共に上洛を果たしていない状況でしたが、前述の通り、山科本願寺への攻撃は近江で将軍を後見する六角氏も含めた両勢力の連携によって行われました。
山科本願寺の攻略後も摂津を舞台に一向宗との戦いが続けられ、晴元の家臣達と法華一揆、それに将軍に従う西岡の国人たちが揃って摂津芥川まで進出したことが記されています。
九月
七日 六郎ノ衆、又ハ京ノ法華宗共、又ハ西岡ノ者、皆津國芥川ノ邊マデウチマハリシ候。書ノ四時程ニ行キ、暮ノ六時程ニ歸候。
十二日 鞍馬口ヘ八郎衆陣札打ニ出候トテ、皆々京衆笑ヒニ行候。二三人四五人打候ゲニ候。
一方この頃、旧高国党を糾合した細川晴国の軍勢も京都近郊まで進出してきていたようで、「鞍馬口ヘ八郎衆陣札打ニ出候」、鞍馬口に禁制を掲示しにやってきた晴国の家臣を京衆が笑いに行き、数人を討ち取ったとあります。
また、9月末頃の山崎における合戦では一向宗側が勝利し、柳本家臣の「中山」が討ち取られる場面もあったようです。
廿六日 打明ヨリ又六角堂鐘撞候。何事トモ不知、今夜山サキノ彼方ヤケ候ツル。残リ候法華町人ドモ、東寺ノアタリマデウチマハリシ候。
廿八日 山崎ニ合戦候テ、朝打明ニ京衆崩候トミヘ、書程ニキコヘ候。山崎ノ彼方皆崩候テ、イマダ山崎ヲバ持候由キコヘ候。此崩候時柳本カ中山ナドト云シ者、其外ヂヤウニ死候ゲニ候。又書程ヨリ京ノ法華宗共鳥羽ノアタリマデウチマハリシ候。コゝヘ七時ニ歸候時、聲アゲ候。
翌天文2年も戦いは続き、連日晴元方の軍勢や法華宗が摂津へと出陣している様子が記されています。
三月
廿七日 京ノ六郎ノ衆共、日蓮宗モ少ト交リ、津國ヘ立候。
廿八日 今日モ日蓮宗共立候。聡明殿用ニツイテ皆々上候。敵退治ノ用カ。
丗日 今日モマタ法華宗立候トキ、朝ヨリヨリ鐘ツキ震動シ候。
四月
廿六日 法華宗陣立候。下京上京ノ諸日蓮宗、京ニ居候六郎衆ニ交リ、大坂ヲタイヂニ今日立候也。彼法クハンジ發向ニ立候ヤ。今皆一向宗大坂ニ居候。六郎ノ敵也。
「法クハンジ」は法観寺=本願寺のことです。「今皆一向宗大坂ニ居候」つまり、大坂以東の一向宗寺院はこれまでの戦いで全て攻め落とされてしまったということでしょうか。
摂津にはこの頃、蓮如八男の蓮芸(兼琇)が入寺した「富田道場」教行寺を中心に繁栄していた富田寺内町がありましたが、道場や信徒の家々は残らず焼き払われたと伝わっています。おそらくこの頃のことでしょう。
(なお、教行寺は天文5年に再建され、後の三好氏の時代、永禄2年に蓮芸の長男で二世の実誓(兼詮)の娘が、阿波三好氏家老の篠原長房の元へ嫁いでいます。天文から永禄期の三好氏の動向と併せて、いずれ改めて紹介したいです。)
このような状況の中、5月26日には一向宗と手を組んだ「八郎」細川晴国が再び大軍を催して挙兵し、丹波から高雄へと進出、以後京都が騒然としていた状況が窺えます。
五月
廿六日 今日高雄栂尾ヘムケテ、八郎衆三千計ニテ出候由申候。今八郎ハ丹波ニ居ラレ候由申候。中比丹波ノ波多野ハ敵ニテ候ツルガ、今悉皆八郎ヲ取立ル躰ニテ候。先八郎衆二三千計ニテ、高雄栂尾ヘ來候。處々津ノ國ノ守護代ニ、薬師寺ト云シ者、是等ガ者京ノルス也。千本ニ皆居、敵ニムカヒ候躰ニテ候也。シカジカ京ニハ人衆ナク候。
廿八日 西ノ衆北野ヘ出候テ、ドコナランシラズ少ヤケ候。北野社ニテハ候ハズ。京震動シ候。京衆モ少懸合候。敵モヤガテ高雄ヘ引候。六時ニ丹波口ニ篝廿計候也。其外西ニ所々ニヲホク候。
廿九日 晩景ニ、丹波口カゞリ二ツ候。
丗日 朝トクヨリ京ノ日蓮宗六郎衆、高雄ヘカケ候トテ震動シ候。西カラモ出、ドコゾ道ニテイクサ候ツルゲニ候。京中ノ衆十人計シ死ニ候由申候。京衆ハ皆引候ヤ。ドコヤラ少ト其アタリヤケ候。
大永から享禄年間当初、波多野一族を率いていた波多野元清(稙通)は、義弟の柳本賢治と共に高国に背いて晴元方に与していたものの、元清の後継者と見られる秀忠は晴元に背き、「今悉皆八郎ヲ取立ル躰ニテ候」とあるように丹波に潜伏していた晴国に味方しました。
摂津守護代の薬師寺氏(細川勝元以来、代々京兆家に仕えた重臣)が迎撃に向かったものの、法華宗の多くが大坂本願寺攻めで出兵していたためか、京都には軍勢が足りていなかったことが窺えます。
高雄に陣取っていた晴国勢と、京都の法華宗・晴元勢の間で小競り合いがあり、「京中ノ衆十人計シ死ニ候由申候」京方が退いたようです。
(「西ノ衆」や「西」が何を指しているのか分かりませんが、この「西ノ衆」は以後も何度か法華宗の敵対勢力としてその動向が記録されています。)
そして、6月にも晴国勢との戦闘で晴元勢が大敗する事態に陥ります。
六月
十八日 京ニ残リ候法華宗、又ハ京残候武士共交リ候テ、八郎ノ衆居候所、高雄栂尾へウチマハリガテラニ行候處ニ、八郎衆モ出候テイクサ候。京衆クヅレ候。人三百計死ニ候由申候。シカジカトシラズ候。京迄クヅレ候。京迄ハ八郎衆候ハズ候。此クヅレニ摂津ノ國ノ守護代薬師寺備後ナド死ニ候也。今日近江モ來候也。
再び京都に残留していた法華宗や武士たちが、晴国方が陣を張る高雄へと打ち回りに行ったところで戦闘となり、京都に攻め込まれるまでは至らなかったものの、摂津守護代の薬師寺備後守などが討ち死にしたのです。京勢だけでは持ちこたえられないと見たのか、近江からも援軍が来ていたようです。
このような状況に至っては、もはや大坂を攻めている場合ではなかったのでしょう。早々と本願寺との和睦を果たした晴元方の武士や法華宗たちは、次々に京都へと引き返したようです。
ただし、この和睦はあくまで義晴・晴元と本願寺との間に結ばれたもので、細川晴国方の軍勢はその後も京都を窺っていたことが記されていますが、以後は割愛します。
なお、将軍義晴は天文3年6月末には桑実寺から坂本へと移り、9月には南禅寺に入っていますが、吉田神社祠官・吉田兼右の日記『兼右卿記』によると直後に南禅寺の裏山に城を築いており、「上意、城ヲサセラレルモ珍事也」と驚きをもって記されています。
前述の通り、天文2年6月の和睦は一時的なものに終わり、本願寺は再び晴国方と結んで挙兵していました。このような情勢を受けて、将軍義晴は自衛のため自ら東山に詰城を築くことを決意したのでしょう。
この後も義晴とその跡を継いだ義輝は、細川晴元や三好長慶といった畿内の実力者と対立に及ぶたび、東山に築いた城に立て籠もることを繰り返すことになりますが、その始まりが天文3年9月、享禄元年6月以来の京都帰還を果たした、義晴による南禅寺山城の築城となったわけです。
いわば「天文の錯乱」は、京都における将軍の有り様にまで影響を及ぼす事件であったと捉えることもできそうです。
「野田御坊」極楽寺、円満寺に伝えられた証如上人の感状
大坂本願寺の海の玄関口となる野田には、天文2年8月に野田・福島の門徒達が証如上人を助けて六角定頼軍と戦い、21人が討死したことが伝えられています。
現在「野田城趾」ともされている極楽寺(東本願寺の末寺)の石碑には、このように記されています。
大坂城がまだ本願寺であった室町時代に野田城[北は玉川四丁目交差点(旧名城の内)より東は恵比須神社の東側(旧名弓の町)迄が城域でその中心地が当地(旧名奥の町)]を訪れた本願寺第十世証如上人が六角定頼に包囲されたときに、蓮如上人の教化を受けていた野田福島の念仏者が証如上人を守護せんとして、二十一人が殉教された(天文二年八月九日)これらの討死衆の菩提寺として建立されたのが当時極楽寺でその後、本願寺南御堂の掛所となり、野田御坊と名付けられ今日に至っている
天文2年6月20日にはいったん講和しているはずですが、早くも8月9日に再び晴元方との戦闘があったのでしょうか。
証如上人から授かった感状は「野田御書」と呼ばれ円満寺(西本願寺の末寺)に伝えられているそうです。
また、近くにある恵美須神社の社伝には「天文二年兵火に罹り小祠を建て奉祀せしが元亀元年三好山城守社殿を造営し厚く崇敬せらる」とあります。
天文二年の兵火とはおそらく、本願寺と晴元方の抗争によるものでしょう。
元亀元年の方は「石山合戦」勃発時、野田城・福島城を修築して立て籠もっていた三好三人衆方が本願寺との連携によって、信長率いる義昭方を撃退した時のことと思われます。三好山城守は三好笑岩(康長)ですね。
参考書籍、参考資料

一向一揆―封建社会の形成と真宗の関係 (1955年) (日本歴史新書)
- 作者:笠原 一男
- 出版社/メーカー: 至文堂
- 発売日: 1955
- メディア: 新書
第30回平安京・京都研究集会「室町将軍と居館・山城 ―権力・器量・武威―」より
- 山田康弘「戦国時代における足利将軍の城館」配布資料
↑このイベント、まさに今読んでいる本(吉川弘文館『近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編』)や過去に読んだことのある本の著者の方々が何人も参加されていて、ずぶの素人は自分一人じゃないかってヒヤヒヤしましたが、とても興味深い内容で面白かったです。今後も機会があれば参加させていただこうと思います。
伊予国・松山城は屏風折の高石垣がすごい!
連休で伊予国は道後に湯築城跡、そして松山城を訪ねてきました。
湯築城跡と河野氏にまつわる話はまた別の機会においといて、今回は松山城のすごい石垣を写真で紹介します。
近世になって建てられた城だし、初代城主は加藤嘉明か…そんなにときめかないなぁ…などと思いつつ、「坂の上の雲ミュージアム」を見るついでくらいのテンションで行ったんですが、これが予想外の感動がありました。
松山城の概略
松山城は勝山の山頂に本丸、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸が設けられたいわゆる連郭式平山城で、築城したのはいわゆる賤ヶ岳の七本槍に数えられ叩き上げの武将として名高い加藤嘉明です。
伊予正木城10万石の城主だった加藤嘉明は、慶長7年(1602)、関ヶ原合戦の戦功によって10万石の加増を受け、藤堂高虎(仲が悪いことで知られる)とともに伊予半国の領主となります。そして勝山に新たな城を築くこととし、翌年に居を移すとともにこの地を「松山」と名付けました。
しかし、加藤嘉明は松山城の完成間近の寛永4年(1627)、お家騒動により減封となった蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)と入れ替わる形で、会津40万石への転封を命じられてしまいました。(この転封は藤堂高虎の推薦によるものだそうですが…嘉明は感謝したのか恨んだのか…)
松山城は築城当時、五層の天守を持っていたそうですが、寛永11年(1634)に蒲生忠知が病没により断絶した後、桑名からの転封で城主となった松平定行によって、寛永16年(1639)から3年がかりで三層の天守に改築されています。
(五層から三層に改築された理由は、天守の安全確保のためだとか、幕府への配慮だとか諸説あるようです。)
しかし、9代松平定国の時に天明4年(1784)の元旦に落雷で天守をはじめ本壇が焼失、11代松平定通が文政3年(1820)に復興工事に着手したものの16年にして頓挫、12代松平勝善が弘化4年(1847)に城郭の復興を再開し、ようやく嘉永5年(1852)に天守をはじめ城郭が完成、安政元年(1854)に落成となりました。
大天守と小天守、隅櫓を連ねた連立式天守を備えた松山城は、このような経緯で幕末に完成されたため、我が国最後の城郭建築とも言われています。
幕末の動乱と松山城
親藩であった松山藩は幕末の動乱では二度の長州征伐で先鋒を務め、慶応3年(1867)に14代藩主となった松平定昭は老中に就任しますが1か月後には大政奉還、鳥羽伏見の戦いで朝敵とされ、新政府軍による追討令を受けました。
抗戦か恭順かで藩論は割れたそうですが、藩主定昭は恭順を決断、財政難の中で15万両を朝廷に献上して、蟄居謹慎の上すべての官位を返上、藩主も元藩主の勝成に交代したことで赦されました。また同年、源姓松平氏と葵紋を返上して菅原姓久松氏に復姓しています。
藩士たちの無念を思うと心苦しいですが、もし徹底抗戦していれば、今の松山城の姿はなく「現存12天守」に数えられることもなかったのではないでしょうか。
余談になりますが、「賊軍」松山藩の下級武士という立場から陸軍大将にまで上り詰めた秋山好古は、明治20年(1887)に騎兵大尉への任官後、旧藩主久松家の当主・久松定謨に伴ってフランスの陸軍士官学校で騎兵戦術を学びました。大正4年(1915)、秋山好古が近衛師団長に就任した際、近衛歩兵第1連隊長を務めていたのが久松定謨で、二人は「これで賊軍の汚名が晴らせた」と喜び合ったとのこと。
(久松定謨のお孫さん、久松定成氏の靖国神社崇敬奉賛会会長就任を祝う会で紹介された話だそうです。【靖国神社崇敬奉賛会会長就任を祝う会を開催】)
松山城本丸の紹介
本丸へは麓からロープウェイに乗って行きました。
ロープウェイから下りて本丸へ向かう途中、いきなり心を鷲掴みにされたのが、この高石垣です。
打込み接ぎの頑丈そうな石垣で、迫力があります。
こちらは太鼓櫓の石垣。
ここもいいですよ!
奥から天守がちらりと顔を覗かせる、中ノ門跡からの眺めもおすすめです。
途中で振り向いて。
石垣に登って、少し高いところから。
この門は筒井門。本丸へと向かう大手を固める最も堅固な門で、築城の際に正木城から移築されたと伝えられているそうです。
こちらは隠門といい、大手から攻め寄せる敵を急襲するための門だそう。
太鼓門。これに加えて太鼓門南続櫓、太鼓門北続櫓、太鼓櫓、巽櫓が石垣上に続けて構築されており、筒井門からの敵に備えているとのこと。
太鼓門を本丸側から見るとこんな感じ。
続櫓を本丸側から。
本丸に入ってすぐのところにある、井戸の跡。
本丸に入ってから天守の建つ本壇まで、結構距離があります。
素晴らしい眺めです…。
本壇に近付くとつい、天守に目を奪われてしまいますが…。
ここから見る石垣も忘れてはいけません。
小天守と南隅櫓。
天守の鬼瓦には葵の御紋。現存12天守の中で唯一の葵紋だそうです。
天守の中には解説パネルのほか、松山城と松山藩にまつわる様々な物が展示されていました。あまりじっくり見る時間はなかったのですが、以下印象深かった二品を紹介します。
(写真は北隅櫓と南隅櫓を連結する渡櫓、十間廊下)
加藤嘉明の物と伝わる甲冑です。嘉明といえば三角形のイカみたいな兜で有名ですが、これもなかなかおしゃれです。
嘉明と不仲だったという藤堂高虎は並外れた巨漢で有名ですが、対する嘉明はけっこう小柄だったようですね。
松山藩が新政府に恭順した際、松平勝成と定昭父子がこの書をしたためたそうです。
(ちなみに勝成は高松藩松平家から、定昭は津藩藤堂家からの養嗣子)
窓から覗いてみるのもよいです。
こちらは大手方面。
大天守の展望台から、道後方面。真ん中辺りに見える森が道後公園、湯築城跡です。
湯築城と比較すると、松山城がいかに巨大な城郭か分かるでしょうか。
大天守から、再び大手方面。
天守を出て、本丸から同じ馬具櫓を。
馬具櫓は松山城で唯一、鉄筋コンクリート製の建物だそうで、現在は管理事務所として利用されています。
馬具櫓から大手寄りの突き出たところから天守方面を見ると、屏風折の素晴らしい高石垣が見られます。
この本丸の壮大な石垣は、加藤嘉明の頃にほぼ完成されていたそうです。同じ加藤で一般によく知られる加藤清正も築城の名手として有名ですが、嘉明も引けを取りませんね。
他にも、松山城では山上の天守と山麓の居館(現在は二之丸史跡庭園になっています)を連結した「登り石垣」という珍しいものがあるそうですが、予習不足と時間不足で見ることができませんでした…。
おまけ
本丸へはロープウェイのほか、リフトでも昇り降りできます。なかなか気持ちいいですよ。
こんなところに鯉のぼりが(笑)
マスコットキャラクターの「よしあきくん」もお忘れなく。
顔出しもあります。
工事の看板も、加藤嘉明リスペクト!
嘉明は三河出身ですが、地元の英雄ではなくても最初に松山城と城下町を築いた領主なので、人気があるんですね。
近くにある松山東雲学園はプロテスタント系の女学校ですが、まるで松山城の一部のようなデザインが面白いです。
参考資料
- 松山城のパンフレット(かなり詳しいです!)
兵庫津遺跡と兵庫城 - 兵庫津遺跡第62次調査 第4回現地説明会の感想と兵庫津の歴史+α
さる3月28日、兵庫津遺跡第62次調査の第4回現地説明会に参加してきました。
前日の神戸市からのプレスリリースで「兵庫城の天守台か」と発表され、一部のニュースサイトには「信長の中国攻め拠点」との見出しで掲載されたものです。
兵庫城築城の経緯
兵庫城は天正8年(1580)7月に荒木村重の乱を鎮圧した戦功によって織田信長から摂津12万石を与えられた池田恒興が、その翌年に兵庫津に築いた城です。
享保17年 (1732)に記された『花熊落城記』には、荒木村重の乱における最後の戦いの舞台となった花隈城を解体し、その材料を転用したことが記録されているそうです。
九年の正月より池田勝入、此城を割給ふ。兵庫に屋舗を被成、此大石を此所へ引給ふ
池田恒興は花隈城の戦いにおいて、兵庫津から須磨一の谷までを焼き払って海上からの輸送路を断った上で、1年以上もの時間を掛けて兵糧攻めを行って、これを落城させました。
岡山大学が所蔵する池田文庫の「摂津国花隈城図」によると、花隈城は西国街道の北側に築かれていたそうで、恒興は自ら城攻めを指揮した戦いを通じてその弱点を熟知していたため、花隈城を破棄して兵庫津を守るための城を築いたのです。
兵庫城は主郭部となる本丸の周りに内堀と二の丸(帯郭)、外堀を巡らせるとともに、町の外郭にも「都賀堤」と呼ばれる堤防を築き、兵庫津全体の城塞化を進めたと伝わっています。
そのような経緯で西国に通じる要衝の軍事拠点として築かれた兵庫城でしたが、豊臣政権期の情勢の変化に伴って城郭としての機能は廃止され、元和3年(1617)には兵庫津が尼崎藩領となったことで、兵庫城跡には兵庫津奉行による支配拠点として陣屋が設けられました。
元禄9年(1696)に描かれた「摂州八部郡福原庄兵庫津絵図」に「御屋敷」と記されている場所が、築城時の兵庫城の主郭部に当たりますが、2012年に行われた第57次調査の際にも、ここで天正年間と推定される四段に積まれた野面積みの石垣が発見されていました。
今回の調査ではそれに続いて、本丸跡で天守台と推定される石垣が発見されたのです。
石垣は横幅1m内外の石で前後二重に構築され、それぞれの裏側には大量の栗石(ぐりいし)が充填されており、石垣の下には建物の不等沈下を防ぐための胴木(どうぎ)組によって築かれた非常に重厚な造りで、3mから5m程度の高石垣が存在したと推定されるそうです。
この胴木組は、織田信長が永禄12年(1569)に将軍・足利義昭のために築いた旧二条城や、天正4年(1576)に築かれた安土城でも発見されており、今回の発見はそれに次ぐ最古級のもので、兵庫城の築城にも信長による最新の築城技術が用いられていたことが明らかになったということです。
兵庫城跡の写真
以下、現地説明会で撮影した写真です。
遺跡の全景はこんな感じ。
列を作っている左側が本丸になります。二重の石垣があり、真ん中辺りの平坦な部分が内堀です。
胴木組の跡。
乾燥による傷みを防ぐため、定期的に霧吹きで水を撒いておられました。
石垣には一石五輪塔や石塔など多くの転用石が見受けられ、まさに乱世の城といった趣があります。
仏様のアップです。右側の石にも仏様が見えます。
さらにアップ。
このような墓石や石仏などからの転用石は、仏罰を恐れない信長の姿勢を表すものと捉えられがちですが、別に信長の城に限ったものではなく、戦国期の城には広く見られるものです。
栗石がたくさん。
転用石もゴロゴロと。
本丸跡には井戸も見つかっていますが、こちらも転用石だらけ。
こういう何気ない杭も、築城当時、あるいはそれ以前の建物の跡かもしれないとのことでした。
今回の石垣も天守台か?という形で発表したものの、当時の建物の記録が残っておらず、石垣の上の建造物についてはおそらく江戸時代に解体されたようで、瓦などはほとんど出土していないため、まだよく分かっていないようです。
説明会の際に専門家らしき方の話を立ち聞きしたんですが、築城当時に瓦葺きの天守なり櫓なりの建物があったとしても、尼崎藩領の時代に尼崎へ運び出されたのではないかと仰ってました。
出土品の写真もいくつか展示してありました。
以前の調査で近世の町屋跡も発見されているので、そこから出た物でしょうか。
奥の壁は明治時代に築かれた新川運河で、この掘削のために本丸跡の大半が破壊されてしまっています。
神戸港の開港によって貿易の中心地が東へと移動するに伴い、兵庫運河は工業地域としての隆盛を支えましたが、現在はウォーターフロントとしての開発が進められています。
ここで発掘調査が行われてきたのもその一環として中央卸売市場が移設されたことによるもので、調査が終われば遺跡の上にはイオンモールが建てられる予定です。
天正8年という戦国末期の築城当初の遺構が、住宅開発による破壊を受けることなくこのような状態で発見されるのは本当に貴重だそうで、担当の方も残念そうでしたが、できるだけ遺構を破壊せずに建ててもらうよう、イオンの方にお願いするほかないようです。
奥の建物が移転した中央卸売市場です。将来はここがイオンモールと接続される計画のようです。
建物の2階には食堂など一般客が利用できる店舗があります。
この看板もいつまで見られるでしょうか…。
新川運河のキャナルプロムナードには、兵庫城跡の石碑が建てられています。
説明板もありますが、かなり字が読みづらくなっている状態です。発掘調査が完了した暁には、その内容を盛り込んだものに新調していただけることを期待しましょう。
三好長慶と松永久秀と兵庫津 - 三好氏とともに成長した正直屋
兵庫津は平清盛が日宋貿易の拠点とした「大輪田泊」で、中世には勘合貿易の発着港として、あるいは畿内と讃岐や阿波を結ぶ短距離航路の要港として、東瀬戸内を支配した細川氏や三好氏にとって重要な拠点でした。
阿波を本拠地とする三好氏の畿内港湾都市との関わりでは、連歌や茶の湯など文化面でも先進的な役割を果たした堺との関係が知られていますが、三好長慶が摂津に勢力を拡げた天文年間は、堺よりも兵庫が重視されていたようです。
天文8年(1539)、長慶(当時は孫次郎利長)は河内十七箇所の代官職を巡る三好政長との対立から主家の細川晴元と交戦しましたが、六角定頼の調停を受けて和睦、晴元の麾下に入った長慶は8月に越水城の城主となり、摂津下郡郡代(事実上の摂津西半国守護代)としての権限の掌握を進めました。
兵庫津においても、天文9年(1540)末、正直屋の屋号を持つ捶井甚左衛門尉に宛てて買得地を安堵する判物を発給しており、その後も捶井氏の保護によって間接支配を進めています。松永久秀の名が史上に現れるのもちょうどこの頃で、『捶井家文書』には「松永弾正忠久秀」と記された副状が残されています。
買得の地所々の事、御知行全うあるべき旨、御折紙の上は、向後相違あるべからず、もし謂われざる族理不尽の催促等、これあるにおいては、相拘え御註進あるべし、御糾明をもって、仰せ付けらるべきの由候也、恐々謹言、
松永弾正忠
十二月廿七日 久秀(花押)
捶井甚左衛門尉殿
当時まだ30代前半と思われる久秀、すでに「松永弾正」を名乗っています。でもまさか将来本当に従四位下の位を受け弾正少弼に任官されるなんて、思いもよらなかったでしょうね。
兵庫津はかつて東大寺が北関、興福寺が南関を支配し、中央権門の管理下にありましたが、応仁の乱では西軍の大内政弘率いる大軍に制圧された後、 山名是豊率いる東軍の攻撃で焼き討ちされ、壊滅的な打撃を受けました。
(『応仁記』には、都の争乱から逃れて家領の福原庄に下向していた一条政房(兼良の孫)が、兵庫津にある福厳寺で東軍勢の乱入によって殺害されたという話も伝えられています。)
しかし、天文年間頃からは在地の商人が主導する港となり、三好氏の御用商人としての地位を得た捶井氏は、後に江戸時代にまで続く岡方・北浜・南浜という三つの自治組織のうち、岡方の名主を独占する程の豪商に成長したのです。
秀吉時代の兵庫津
兵庫城を築いた池田恒興は、賤ヶ岳の合戦後の所領再配置によって、わずか2年程で美濃へ転封となりましたが、その後に兵庫城へ入ったのは三好康長の養子となっていた秀吉の甥・三好孫七郎、後の関白秀次でした。
天正11年(1583)と推定される書状で秀吉は孫七郎に対して、兵庫城と三田城の受け取りに当たって兵庫に残って政道に専念するよう指示しています。
尚以其方事、兵庫ニ残候て政道已下堅可申付候、三田へハ人を可遣候
兵庫城・三田城両城可請取之由、得其意候、塩儀遣候て早々可請取候、猶追而可申越候、恐々謹言
筑前守
五月廿五日 秀吉(花押)
三好孫七郎殿
その秀次も四国平定後の天正13年(1585)に43万石を与えられて近江へ転封となり、兵庫津は秀吉の直轄領となりましたが、下代官として実際の支配を行っていたのはかつて三好氏の御用商人を務めた捶井氏の正直屋宗与で、秀次の時代から引き続き兵庫の諸座公事銭徴収に関わっていたようです。
兵庫津はその後も天正15年(1587)の九州平定、天正18年(1590)の小田原出兵、天正19年(1591)の朝鮮出兵の準備で兵站港として利用されますが、正直屋宗与は文禄3年(1594)10月に「地子役并町役之下代」を召し上げられ、以後は慶長5年(1600)の関ヶ原合戦まで増田長盛が代官を務めました。
その後、片桐貞隆(片桐且元の弟)が代官を務めましたが、江戸幕府が開かれた後の兵庫津は外交拠点へとその役割を変え、慶長12年(1607)、また尼崎藩領となることが決定していた元和3年(1617)にも、片桐貞隆が朝鮮通信使の接待を行った記録が残されているそうです。
近世の兵庫津と岡方惣會所跡
尼崎藩領の時代の兵庫津には町場の中心に西国街道が引き込まれ、陸運と海運の要衝として、城下町尼崎よりも多くの人口を抱える都市に発展しました。
岡方・北浜・南浜の自治組織は「方角」と呼ばれる個別町の連合体で、岡方は宿駅機能(陸運)、北浜・南浜の総称「浜方」が港湾機能(海運)を担当し、藩や幕府から課される諸役を請け負ったそうです。
方角ごとに数名の名主と惣代がおり、名主は家業との兼務で方角内の組頭中の入札によって選出される役人で、一方の惣代は専業で従事し方角から給銀を支給される役人でした。
そして昭和2年、正直屋が名主を独占したという岡方の会所跡に、兵庫商人の社交場として石造りの近代建築が建てられ、この建物は現在「よみがえる兵庫津連絡協議会」の活動拠点「兵庫津歴史館 岡方倶楽部」として利用されています。
岡方倶楽部の展示パネルより、兵庫津への航路を示した地図。
5つ描かれた城は兵庫津の左が明石城、兵庫津の右が尼崎城、尼崎城の下が大坂城、大坂城の左下が岸和田城、大坂城の右が高槻城です。
岡方倶楽部では「神戸・清盛隊」も活動されています。(この写真はちょっと古いですが…)
そういえば元々、大河ドラマ「平清盛」に合わせた観光PR事業「KOBE de 清盛2012」の一環で結成された「神戸・清盛隊」の活動拠点は、今回訪れた兵庫津遺跡の一角に建てられた歴史館でしたね。
岡方倶楽部で展示されているパネルは、当時この歴史館で展示されていたものです。
実は神戸・清盛隊のファンでもあるので、岡方繋がりで最後に無理やりねじ込んでみました。(笑)
参考書籍、参考資料
神戸市教育委員会 兵庫津遺跡第62次調査 現地説明会資料(第1回~第4回)
英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史
英賀城は、夢前川の河口一帯に瀬戸内水運の拠点として発展し、本願寺の播磨における拠点となった本徳寺の寺内町として栄えた城郭都市です。
英賀を発展させた英賀城主・三木一族
戦国期に英賀城主を務めた三木氏は伊予河野氏の一族で、讃岐三木郡を相続したという河野通堯の子・通近を祖としています。しかし、河野氏側の系譜には三木氏との関係が記録されておらず、事実かどうかは定かではありません。
永享2年(1430)に飾東郡恋ノ浜城へと移った通近は三木氏を名乗り、『播州英城日記』は4代目の通武が嘉吉3年(1443)に英賀へ入部、12月から翌文安元年(1444)11月にかけて「芝」の地に居館を築き、同2年正月に移り住んだと伝えています。
三木氏以前の英賀は、鎌倉期に福井荘の地頭であった吉川氏の支配下にあったことや、永享年間に播磨守護赤松満祐の弟・常陸介祐尚が「英城」に居したことが、上郡町の宝林寺や法雲寺といった赤松氏ゆかりの寺院に伝わる文書に記されていますが、確かなことは分かっていません。
三木氏が英賀に進出したのは、嘉吉元年(1441)6月に赤松氏が将軍・足利義教を自邸で殺害するという前代未聞の事件を起こして幕府から討伐を受けた「嘉吉の乱」の終結から間もない頃ですが、三木氏はその間に初代から4代まで立て続けに交代しており、かなりの混乱があったことが窺えます。また、三木通武の母は赤松満祐の娘であったとも伝わっていますが、嘉吉の乱後に播磨を得た山名持豊(宗全)は三木氏の英賀進出を容認したようです。
亀山本徳寺がまとめた『播州真宗年表』によると、永享12年(1440)に関東で勃発した結城合戦に際して、三木通重が軍船40隻を率いて飾磨沖から赤穂の警固にあたったそうで、すでに相当な勢力を持っていたことが窺えます。また「三木氏は武家ではなく、英賀代官の統制下にあった裕福な交易業者であり、後に武士化したと思われる」と推測されています。
あるいは、永享年間に恋ノ浜城を拠点に赤松氏の下で水軍を統括していた三木氏が、嘉吉の乱を通じて山名氏に従い、赤松氏に代わって英賀城を占拠したとも考えられます。(英賀城主・赤松祐尚は嘉吉の乱以前に亡くなっており、後継者の則尚は乱の当時まだ10代でした)
享徳3年(1454)には、将軍・足利義政が赤松満祐の甥・則尚を赦免したばかりか、上意に背いたという理由で山名持豊に対して討伐軍を招集する事件が起きました。『播州真宗年表』によると、この際に山名氏による英賀侵攻の風聞を受けた三木通武は、大規模な築城工事を行い、南側に田井ヶ浜を城内深く引き入れて港とし、北側は十の出入口(広辻口、芝之口、駒芝口、井上口、大木口、河下口、北芝口、岡芝口、野中口、山科口)を土塁で結んで防備を固め、その外側にある沼沢地帯を濠(大木之濠)としました。岩を繋いだような強固な城「岩繋城」と呼ばれた英賀城の城域は、この頃にほぼ確定したようです。
なお、山名持豊の婿であった管領・細川勝元が将軍に従わず逐電したため山名討伐は中止されましたが、梯子を外される形となった赤松則尚は播磨に下向して旧臣達と共に挙兵します。翌享徳4年(1455)4月には山名氏の大軍が播磨に侵攻、赤松方も坂本城や壇特山に篭って抗戦したものの、山名是豊ら備後勢が篭もる室山を落とせず敗走した則尚は備前鹿久居島に逃れて自害、その首は赤松円心開基の法雲寺で晒されました。
(三木通武も赤松方として参戦したとの説もありますが、結局は山名氏によって許されたようで、経緯はよく分かりません。)
その後、長禄元年(1457)には南朝方に奪われていた神璽を奪回した功績により、赤松満祐の弟義雅の孫・政則を当主として再興が認められた赤松氏は、応仁・文明の乱において東軍方として活躍し、播磨の奪還に成功します。三木氏5代目の通安は当初、西軍山名氏に従って大内・河野軍を先導し20隻の軍船を率いて摂津に出向したものの、後に東軍赤松氏の麾下に入って武功を上げ、従四位下宮内少輔に任ぜられました。
その水軍力を武器に山名氏と赤松氏の間で巧みに立ち回り、英賀城を発展させた三木通安は、北方の山崎山に初代通近から四代通武までの頭首とその妻の墓を建てました。そして三木一族は城内に市庭家、井上家、土井家、堀内家の「四本家」と山崎家、薮内家、町之坪家の「三連家」がそれぞれ居館を構え、七家の合議によって英賀の町を運営したと伝えられています。
播磨における本願寺の興隆と「英賀御堂」本徳寺
英賀城を発展させた三木氏は浄土真宗本願寺に帰依し、本願寺一家衆を本徳寺に迎えることで、やがて「英賀門徒」と呼ばれる強力な門徒集団を抱えるに至ります。
西国においては仏光寺系の布教が先行していたようですが、明応年間には「播磨六坊」(円光寺、光善寺、永応寺、万福寺、光源寺、光触寺)に代表される各地の寺院が次々と本願寺の系列に入り、中には天台宗や禅宗から転派する寺院も現れるようになります。
江戸中期に三木知識が編纂したという『姫路船場本徳寺開基略』は、蓮如の命を受けて播磨へ下向した弟子の法専坊空善によって、明応2年(1493)2月28日に道場が開創され、蓮如により英賀東「苅屋道場」に本尊が授けられたと伝えています。
また『播州英城日記』よると、三木氏6代目の通規が英賀城主を務めた永正年間にはますます「専念一向宗」に帰依する者が増えたため、やがて門徒の中で一家衆(宗主の一族)を迎えたいとの声が高まり、永正9年(1512)8月には天満九郎四郎近村が上京して本願寺に参じて一家衆の下向を懇請した結果、実如上人はこれを受け入れました。
『栄玄聞書』には、この頃の播磨では守護赤松氏が怨みにより一向宗を禁止していたところ、実如上人が秘蔵の名馬「ちゞみ栗毛」を赤松氏へ贈ったことにより、禁制が解かれたというエピソードが記されているそうです。
実如上人御代に、御馬五十疋仙飼候、其中にちゞみ栗毛と申御馬、御秘蔵の名馬にて候。然ば播磨の国赤松[是は備前、はりま、みまさか三ヶ国の守護也]このちゞみ栗毛の事を承り及び、上野[蓮秀と云云]まで度々所望の由申入られ候へども、蓮秀御耳にもたてられず候、其故は、御秘蔵の御馬にて候あひだ、中々くだされまじきと存ぜられ、申あげられず候
…中略…
総じて赤松と申ものは、御一宗に怨をなし、播磨一国の門徒の者に、念仏をさへこゝろやすく申させぬ者にて候、播磨一国の尼入に、こゝろやすく念仏をも申させ、仏法をも聴聞させ候はゞ、たとへば御身をうらるゝともおしからずと、思召候と御意候、この仰せを御前の人々承り、数剋落涙のよし候、さて御馬をば京へ引こさせられ、赤松へくだされ候、赤松悦喜申され候事、是非なく候、すなはちこれより、播磨一国の仏法こゝろやすくひろまり申候なり
このような実如上人の意志により、まず永正9年(1512)に五子の実玄が英賀本徳寺に入寺したものの、永正12年(1515)3月に夭逝したため、その後は三河土呂本宗寺の住持であった六子・実円が英賀本徳寺を兼帯することになりました。永正10年(1513)9月2日、芝之館において実円と対面した英賀衆「七家」をはじめ89人が剃髪し、浄土真宗の歓化を受けたと伝えられています。
また『播州英城日記』によると、永正10年(1513)2月には東西一町、南北二十間の地を定めて坊舎の建築が開始され、2年後の永正12年(1515)6月2日には南北九間、東西七間という規模の「英賀御堂」が完成、翌日から七日間の遷仏法要が営まれるとともに、実円より七家以下各分家へ蓮如直筆の六字名号(「南無阿彌陀佛」と記した掛け軸)五十余軸が授与されました。
大永5年(1525)に実如上人が没した後、実円は後継者となった証如の後見役として大坂本願寺にいることが多かったようですが、英賀へも何度か下向しており、天文6年(1537)頃には播磨へ進出した尼子氏の動静を証如に伝えるなど、政治的な面でも本願寺教団の重鎮として活躍しました。
(実円の報告を受けてか証如は尼子詮久に宛てて「御出張の由承り候、ことに早速御本意に属し候条珍重に候」とその進出を祝う書状を送っています。)
また、戦国期の本願寺は各地の門徒を御堂番として上山させていましたが、播磨門徒でも天文7年(1538)以降およそ年2回、万福寺、播磨衆、英賀衆というグループに分かれて御堂番を勤めたほか、証如上人の日記『天文日記』には英賀の俗人門徒である英賀徳正、すみや甚兵衛、英賀市場与三兵衛、英賀丈重新衛門らの死去や年忌に際して、遺族が本願寺へ斎(仏事における食事)の調進を行ったという記録が残されており、信仰活動の中にも英賀衆の経済力が窺えます。
英賀城主・三木氏は自ら門徒となることで「英賀御堂」本徳寺を中核とした阿弥陀信仰を共通の精神基盤とし、地縁的共同体の統率者として強固な関係を築きますが、英賀と本願寺の強い繋がりは、やがて畿内の覇者となった信長との間に勃発する「石山合戦」に強く影響を受けることになります。
『軍師官兵衛』が触れなかった姫路時代の黒田家と英賀の関係
大河ドラマ『軍師官兵衛』では主君・小寺政職を説き伏せて信長方となった官兵衛が、海上から攻め寄せる毛利氏の水軍を撃退したという天正5年(1577)5月の「英賀合戦」において、侍女のうち何人かが本願寺門徒であったため官兵衛の元を離れて英賀本徳寺に駆け込み、敗戦後再び黒田家を頼った末、侍女の1人「お道」が栗山善助の妻になるというストーリーが描かれました。
しかし、実際の黒田家と英賀の関係はもっと深いもので、『寛政重修諸家譜』によると官兵衛の姉妹に当たる黒田職隆の長女が英賀城主・三木氏の元に嫁いでおり、官兵衛が母里一族24人の戦死という犠牲を払いつつ辛勝したと『黒田家譜』が伝える永禄12年(1569)8月「青山合戦」では、三木氏も小寺方として援軍を送っています。
また、英賀本徳寺の後身である亀山本徳寺には、英賀城主・三木通明と見られる「三木宗太夫入道慶栄」が永禄9年(1566)5月に英賀本徳寺へ寄進したという梵鐘が伝えられていますが、この製作者である芥田五郎右衛門尉家久は姫路城近くの野里村に在住して播磨鋳物師を統括した人物で、永禄12年(1569)8月22日には小寺政職から弟の善五郎と共に青山面における戦功を賞する感状を与えられており、同じ小寺氏の被官として、黒田氏とも親しい関係にありました。
芥田五郎右衛門は個人的にも官兵衛と親しかったようで、後に福岡時代の官兵衛から五郎右衛門に宛てて、池田輝政が発展させた姫路城下町の繁栄ぶりを喜ぶ内容の書状が残されています。
姉妹の嫁ぎ先でもありかつて良好な関係を築いていた英賀を攻撃目標とする「英賀合戦」は、主家の小寺氏ともども生き残るため織田方に付いた結果とはいえ、官兵衛にとって辛い戦いだったのではないでしょうか。
ちなみに「ひめじ大河ドラマ館 かわら版」によると、亀山本徳寺では『軍師官兵衛』の英賀合戦に際して、毛利軍の大将・浦宗勝が英賀御堂に本陣を構えるシーンと、本願寺に顕如をはじめ僧侶が念仏を唱えるシーンが撮影されたそうです。
その際、書写山圓教寺のお坊さんが僧侶役のエキストラとして参加したそうですが、旧仏教である天台宗は当時の新興宗教であった本願寺教団を目の敵にしていたため、『播州英城日記』には書写山の僧徒がたびたび英賀に攻め込んで死者が出る争いになったことが記されており、大永5年(1525)には僧徒によって強奪された鐘を英賀衆が山崎辺りで取り戻すという事件も起きています。
カンペを見ながら違う宗派のお経を読んだというお坊さん達は、ご存知だったでしょうか…。
英賀城跡を巡る
英賀城跡の遺構はほとんど残っておらず、十口の城門跡に石碑が建てられているものの、三木通武が築いたという「岩繋城」の姿は現状からはなかなか想像できません。ですが、実際に歩いてみることでその広さを実感することはできました。
山陽電鉄西飾磨駅前にある史跡地図。「付城公園」「清水公園」「矢倉公園」といった公園にも当時を偲ぶ地名が残っています。
付城は織田勢を警戒した三木氏が築いた出城もしくは、秀吉が英賀城攻略の際に築いた付城の跡と考えられます。
清水はおそらく秀吉による英賀城攻略の際に最前線となった「清水構」で、ここには宮部善祥坊が配置されていたと伝わっています。
現在の水尾川。英賀城は東に水尾川、西に夢前川が天然の堀を形成していました。
「城内に 眠り一村 水ぬるむ」
広辻口は英賀城の十口の一つで、水尾川に面した東側に当たります。
本丸跡に建つ石碑と復元図。上が南です。
英賀城は本丸と二ノ丸が随分と東に偏っていますが、この近くには「芝之口」や「駒芝口」があり、おそらく英賀へ入部した三木通武が最初に築き、英賀衆が実円と対面したという「芝之館」が二ノ丸もしくは本丸の原型だったと思われます。
「田井ヶ浜 おぼろがつゝむ 英賀城史」
三木通武が南側に港を引き入れたという田井ヶ浜の跡。落城後荒れ果てていたというこの地を清めた熊谷家が地蔵尊を祀り、英賀神社の辰巳の方角に当たるため「巽地蔵」と呼ばれるようになったそうです。
田井ヶ浜跡の碑文には「天正四年(一五七六) この地は毛利水軍五千人の上陸地」とありますが、この年次は『黒田家譜』による誤伝で、実際には天正5年(1577)5月のことです。
夢前川にかかる山陽電鉄の鉄橋。山陽電鉄の線路辺りが英賀城の南端になりますが、ちょうどこの辺りには英賀津の船溜まりがあったようです。
なお、現在の夢前川は昭和13年の日本製鐵広畑製鐵所の建設に伴う付替工事のため、かつての流路から東に大きくずれています。
夢前川にかかる歌野橋より。夢前川の付替工事によって川底に埋まったという本徳寺跡地は、歌野橋上流約100mの河川敷中央辺りにあったそうです。この辺でしょうか?
歌野橋を渡って夢前川東の堤防を少し北上したところにある「英賀本徳寺(英賀御坊)跡」の案内板と、天正5年の英賀本徳寺建物配置復元図。かつてこの地には「御坊」という字名が残っていたそうです。
本徳寺跡にある英賀城跡区域復元図は、現在の地図の上に土塁や堀が重ねて描かれ、館跡や十口の位置も記入されていて分かりやすいです。
これを見ると、まさしく現在の夢前川の真ん中にかつての本徳寺があったことが分かります。
明蓮寺は永正14年(1527)に三木通規の家臣である神出左衛門の母・妙蓮尼によって建立され、秀吉による寺内町解体後も唯一この地に残った寺院です。ここには石山合戦期に顕如から英賀惣中に宛てた書状が伝えられていますが、それは次回に紹介します。
昭和3年に英賀青年会が建立したという石碑はかつて本徳寺跡にあったもので、夢前川の付替工事に伴って明蓮寺の境内に移設されました。
なお、周りには北条(北條)さん宅が多かったのですが、明蓮寺の斜め向かいには三木さん宅がありました。(三木氏の末裔の方でしょうか…?)
「英賀御坊ハ今ヲ去ル四百三十七年明應元年蓮如上人ノ開基ニシテ播州真宗發祥ノ霊地ナリ」 昭和3年当時はこのように伝承されていたようです。
英賀神社は英賀彦神、英賀姫神を主祭神とし、播磨風土記にも英賀の地名はこの神名に因ることが記されているそうです。英賀城下に本徳寺以下35ヶ寺を数える中、唯一の古い由緒を持つ神社であったようです。
英賀神社には永禄10年(1567)に三木宗太夫慶栄が寄進した英賀本徳寺鬼瓦や、英賀落城の2年後に当たる天正10年に薬師入道道定が撰述したという『播州英城日記』が伝えられています。
奉納された玉垣には「付城」「矢倉東」「清水」「山崎」といった町名が多く見られましたが、あるいは英賀城の戦いに縁ある方々かもしれません。
英賀神社は絵馬堂もなかなか見応えがあります。
中には東塚嬉楽と門人らによる「算術自問答」なる奉納額も。算額というやつですね。ずいぶん新しく見えますが、復元されたものでしょうか。附城村の三木さん三名も名を連ねています。
英賀神社の本殿裏には英賀城の土塁跡が残されています。
英賀城跡公園には復元された石垣(?)があります。『播磨灘物語』の文学碑が英賀神社境内に建立され司馬遼太郎が訪れた際、地元で英賀城を見直そうという運動が盛り上がったそうですが、その際に整備されたものでしょうか。
「花万朶 三木十代の 城の址」
英賀城跡公園には十口の一つ、野中口の石碑も。復元図によると付近には「北野中館」があったようです。
十口の一つ、山科口の石碑。ここは北西の角に当たり、現在「矢倉公園」の敷地になっています。この辺りには英賀城の櫓が建っていたのでしょうか。
十口の一つ、岡芝口の石碑。
十口の一つ、河下口の石碑と、北側土塁の外に当たる沼沢地帯を濠としたという「大木之濠」の石碑。大きな交差点の歩道にあります。
「水田にビルが立ち野が枯てゆく」という歌が物哀しさを漂わせていますが、これより北の沼沢地帯は後に水田として利用されていたのでしょうか。復元図を見たところ、この石碑自体も建物の建設により移動されているようです。
英賀薬師(法寿寺)の跡。法寿寺は延宝9年(1681)に三木氏の後裔古今によって中興創建された寺院で、浄土宗知恩院幡念寺の末寺だったそうです。浄土真宗に帰依したはずの三木氏がなぜ浄土宗に?
英賀薬師跡には英賀城主・三木氏一族の墓所があります。延宝9年(1681)山崎山に亀山本徳寺西山御廟が建立されることになったため、同所にあった一族の墓所をこの地に移転したそうですが、当時の亀山本徳寺と三木氏の間で何かあったのでしょうか?
東本願寺派である船場本徳寺の視点による本徳寺の由緒記『船場本徳寺開基略記』をまとめたのが「三木通識」というのも気になります。三木一族も本願寺東西分裂の影響を受けたのでしょうか…? (疑問は尽きませんが、「石山合戦」での英賀城の動向と後の本徳寺分裂については次回に紹介します)
「俗名越智姓三木右馬頭通近」とある通り、こちらは初代三木氏となった通近の墓のようです。河野氏の本姓は越智のためそれに習っているのでしょう。
最後の城主となった三木通秋は秀吉による英賀落城時に船で脱出し、2年後に許されて英賀へ戻ったと伝えられていますが、河野に姓を改めて帰農した人もいるそうです。この方はその末裔でしょうか。
英賀薬師跡の北側には僅かながら土塁跡が残されています。
英賀薬師跡のすぐ傍には赤松義村が定めたという「播磨十水」の一つ、「大木之清水」の石碑と井戸の跡が残っています。この井戸は通称薬師の湯と呼ばれ、昔から「薬の井戸」として親しまれてきたそうです。
十口の一つ、井上口の石碑。復元図によると付近には七家の一つ井上家の館があったようです。
英賀薬師北側の土塁跡に沿って東西に小さな溝が残っており、水尾川まで延びていますが、地図を見たところどうやらこれも堀跡のようです。
参考
播磨佐用郡の山城・利神城の歴史と伝説
利神城跡は佐用郡佐用町平福にあり、標高373.3mの山頂に総石垣作りの威容を誇り「雲突城」とも呼ばれたという山城の遺跡です。
利神城を築いた佐用別所氏
一般に別所氏といえば、赤松政則を支えて東播磨八郡の守護代を任された三木城主・別所則治と、その後裔である別所長治の三木別所氏が知られていますが、別所氏の諸系図では河西郡別所村から三木郡に移った赤松季則の二男頼清を別所氏の始祖とし、赤松圓心の弟「別所五郎入道」圓光がその名跡を継いだとしており、圓光から則治までの系譜は諸説あって定かではありません。
佐用郡歴史研究会が『佐用の史跡と伝説』にまとめた「別所氏略系図」には、貞和5年(1349)に別所五郎左衛門敦範が佐用郡豊福を賜って豊福構および利神城を築城した後、持則、則康、祐則と続き、祐則の五男・小二郎則治が三木城主となって別所家を再興、祐則の二男・五郎蔵人光則が利神城主を継いだものの、子の小太郎治光とともに嘉吉の乱で伊勢にて討死、その子日向守治定が応仁元年(1467)に利神城を再興したとされており、これが佐用別所氏の流れになります。
また『佐用の史跡と伝説』には、日向守治定の後、日向守静治、太郎左衛門定道の代に至り、天正5年(1577)に秀吉による侵攻を受けた際、定道は人質を出して和を乞うたものの、病弱の定道に代わって城主となった日向守林治は秀吉に反抗したため、天正6年(1578)正月に上月城に入っていた山中鹿介幸盛に攻められ落城したと記されているそうです。
秀吉の佐用侵攻については長浜城歴史博物館が所蔵する下村文書に秀吉自身が詳細を綴った書状が残されており、その中で秀吉に敵対する3つの城として福原城、「七条と申す城」上月城、そして「別所中務と申者之城」利神城(あるいは麓にある居館の別所構)が挙げられ、別所中務が降伏を願い出てきたため人質を3人召し取った上で翌年2月まで城を預けたと記していますが、佐用別所氏のその後の動向は明らかではありません。
(秀吉による上月城落城の悲惨な戦いについては 上月城の戦い第一幕・秀吉の播磨侵攻 で記事にしています。)
通説では、天正8年(1580)には赤穂郡・佐用郡を領した宇喜多秀家が家老の服部勘介を利神城主として両郡を支配させたものの、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で宇喜多氏が西軍に与して敗れたため、服部勘介も城を退去したとされていますが、『浮田家分限帳』に記された宇喜多氏家臣団の中には服部勘介に相当する人物が見当たらないようです。
利神城を改修した築城の名人・池田由之
関ヶ原合戦の後、佐用郡は姫路城主となった池田輝政の領するところとなり、輝政の甥である池田由之(小牧・長久手の戦いで父とともに討死した輝政の兄・之助の子)が利神城主となりました。
由之は慶長5年、遺構を打ち崩して石垣を積み上げた城郭を造り始め、慶長10年にこれを完成させます。三層の天守に二の丸、三の丸、鵜の丸、大阪丸といった曲輪に回廊を巡らせた壮大な城で、山上にそびえ立つその姿は「雲突城」とも呼ばれたと伝えられています。
『佐用郡誌』には以下のようなエピソードが記されています。
池田出羽守利神城主となり大いに加修造營三重の天守を築き城山の西方に諸士の屋敷を設け、又口長谷構の別荘を美にし大いに奢る。 偶々輝政此地に來らんとせしに釜須坂を越えし時其城郭を遠望し其美なるに驚き異圖あるものとし入城せずして釜須坂より直ちに姫路に引返す。 而して慶長十年の頃天守の破壊を命じ、且慶長十二年出羽守を退去せしめ輝政弟池田河内守長政をして代らしむ。
由之が自身の居館を華美に装飾した上、三層天守という大城郭を建ててしまったため、これを見た輝政は由之が良からぬことを企んでいると考えて姫路に引き返し、天守の破却を命じた後、城主を交代させたというのです。
これらの話は安永8年(1779)に記された『播州佐用郡平福古城由来』という記録が元だそうで、このような伝説や通説の類が示す通り、現存する利神城の遺構は全て池田由之によって普請されたものと考えられてきました。(『日本城郭大系』でも同様の記述が見られます)
しかし、城郭談話会の精査によって1993年にまとめられた『播磨利神城』では、遺構の築城法から織豊期のものと推定されており、石垣の角石や角脇石の使われ方も天正年間の普請と見られるほか、城跡に残っている瓦片に天正11年以前の製造法によるものが多数含まれているそうで、池田氏以前に瓦葺きの建物が存在していたことは間違いないようです。
また『佐用郡誌』が記す「又口長谷構の別荘」=別所構の発掘調査によると、出土遺物の大半が15世紀後半から16世紀後半のものであり、由之が城主の頃に「美にし大いに奢る」様子を示す物は発見されませんでした。
由之が輝政の一家臣であることに不満を抱いていたという伝承も誤りで、池田家の記録によると由之の地位は高く、備前下津井城や伯耆米子城など領内の重要拠点の普請に携わっただけでなく、駿府城、篠山城、名古屋城の普請にも派遣されているそうで、なかなかの築城名人であったようです。
元和4年(1618)に江戸から米子へと帰る途中、大小姓の神戸平兵衛の逆恨みによって刺殺されるという不幸な最期を迎えましたが、3人の子は岡山藩、鳥取藩、徳島藩で家老を務めています。(徳島藩については由之の正室・即心院が蜂須賀家政の娘であったため)
姫路から訪ねてきた輝政おじさんが遠く峠からこの城の威容を見て驚いて引き返したという伝説も、どこからつっこめば…という感じで面白いのですが、由之の名誉のために補足しておきます。
2010年3月に利神城跡へ登った時の回想
以下の写真は、2010年3月に利神城跡を訪れた際に撮影したものです。
当時は登城口への案内看板があり、ここから石垣を確認することができました。
「利神城跡」の看板に誘われつつ、線路の脇から目の前の山に登っていきます…。
※「利神城跡は、城郭の一部が破損し、大変危険な状態になっていますので、登山はご遠慮ください。 佐用町」との立て看板がありましたが、遠慮しませんでした…とにかく状況を自分の目で確かめて、本当に危険そうならそこで引き返そうと…。
尾根沿いの登山道からは佐用川と旧宿場町・平福の町並みがよく見えます。川屋敷と土蔵群の景観は有名ですが、この当時はまだ前年の台風9号と洪水の被害を受けて、復興の最中でした。
かつてハイキングコースだったという名残りが、そこかしこに見られました。
木々の間を抜けきると、山頂の石垣が目の前に見えてきました!
平福の町並みも段々小さく…。
尾根を登り切ったところで、二重に積まれた石垣群がはっきりと見えてきました。
大手口となる三の丸からの眺め。頂上にある曲輪が三層天守があったという「天守丸」で、その一段下が天守丸の虎口がある「本丸」です。
五角形の天守丸と本丸の石垣が格好良い! たまりません…。
三の丸から二の丸にかけて、足元にはかなり大きな石が散乱しています。城郭の破損というのはこのような状態のことだったのでしょうか? しかし天候も問題なく、ここで引き返そうとは思いませんでした。
登ってきた三の丸方面を振り返ります。
天守丸の真下から。
利神城の石垣と眺望の雄大さは、人気の竹田城にも決して引けを取らないものだと感じました。
ここで、道の駅ひらふくで購入していた「佐用特産 じねんじょまんじゅう」を取り出します。
このロケーションで食べる、おまんじゅう…最高でした!!!
更に石垣を見て回ります。
木が切り倒された様子もありますし、整備には来られていたのでしょうか。
鵜の丸側の景色も素晴らしいです。この時から4年を経た今でも、思い出すと当時の感動が蘇ってきます。
本丸の様子。
登山道自体はそれほど険しいものではないので、地元では良いハイキングコースだったんでしょうね…。
まだまだじっくり堪能したいところでしたが、この後は上月城に向かう予定がありました。本数が少ない智頭急行に乗り遅れると大変なので、別れを惜しみつつ下山しました。
少しだけ佐用川沿いを歩いてみましたが、まだ洪水の痛々しい爪痕が残っていました。
佐用川から仰ぎ見る利神城。
2014年12月現在、山上の城跡がどのような状態なのかは分かりませんが、佐用町からは登城を遠慮するよう案内しているのは変わっていないようです。その後も台風や大雨がありましたし、更に石垣の崩壊が進んでいることと思います。
史跡の中でも特に高地にある山城の遺跡は、遺構の現状を維持するだけでも大変でしょう。まして訪問者の安全に配慮した整備が求められるとなれば、とても困難なのだろうと思います。
しかし、これほどの素晴らしい石垣がただ朽ちていくのはあまりに惜しいです。何とか保存の道を探っていただきたいものです。
参考
- 朽木史郎、橘川真一編著『ひょうごの城紀行 上』(神戸新聞総合出版センター)

- 作者:
- 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
- 発売日: 1998/04
- メディア: 単行本
尼子詮久の東征(上洛戦?)から郡山城攻めに至るまで
天文年間の尼子氏による上洛戦とも思われる東征については、侵攻を受けた赤松氏や浦上氏の側から触れてきましたが、今回は尼子氏の側から見た流れをまとめてみます。
畿内の混乱と西国の情勢
この頃の畿内では、天文元年から5年にかけて、細川晴元政権の内訌に端を発した本願寺門徒と法華一揆による大混乱の真っ最中で、一時は晴元も本願寺門徒の一揆勢に敗れて淡路へと逃れるほどでした。
また晴元政権では、晴元と本願寺の和睦を仲介したという三好千熊丸(後の長慶)ら阿波三好一族や、その後ろ盾となっていた讃岐および阿波守護・細川持隆との勢力争い、河内および紀伊守護・尾州家(政長流)の畠山稙長と総州家(義就流)の被官で細川晴元の寵臣として権勢を振るった木沢長政の争いなど、たびたび内部抗争を繰り返しており、将軍義晴も元々は細川高国政権において近江守護・六角定頼の協力により擁立されたこともあってか、細川氏を頼みとせず近江へと逃れることがありました。
畿内情勢の混乱を見た豊後の大友義鑑は、将軍義晴の京都帰還を名目とする上洛を計画しており、天文元年には将軍入洛への馳走を大内義隆の悪行によって妨げられているとして、尼子氏および安芸武田氏、熊谷氏、伊予河野氏、宇都宮氏、能島村上氏らに大内氏包囲網の形成を呼びかけました。
大友義鑑書状(切紙、熊谷家文書)
就江州 公方様御入洛之儀、度々被成 御下知候之条、相応之忠儀、無余儀存候之處、依大内造意、干今相滞候、近日猶以悪行令顕然之条、近々豊筑発向之覚悟候、然者、連々如申談候、其堺之儀、無油断御調儀、併可為御忠節候、武田光和・尼子経久別而申合候、海上之事、河野通直・宇都宮・村上宮内大輔申合候、猶小笠原刑部少輔方可被達候、恐々謹言
七月廿日 義鑑 (花押)
熊谷民部少輔殿
(川岡勉先生の講演『尼子氏の勢力拡大と中央政界』配布資料より)
しかし、尼子氏はこれに応じず、独力で東征を開始します。
その背景には、尼子氏では享禄3年以来続いた尼子経久の三男・塩冶興久の反乱によって出雲国内を二分する内乱状態に陥っており、一方の大内義隆も北九州で大友・少弐氏と戦っていたため、相互不可侵協定を結んだことがあったと見られています。
(これに伴い、享禄4年7月10日付で経久嫡孫の三郎四郎(詮久)と元就が兄弟として協力するとの契約を結んでいます。)
尼子詮久の備中・美作への侵攻
天文元年(1532)5月、備中新見荘の代官・新見国経が領主である東寺へ送った書状によると、尼子氏は美作高田城を本拠とする三浦氏への攻撃を進めており、かねてより尼子方であった新見氏にも協力が要請されています。
この時すでに齢七十を越えていた尼子経久に代わって軍を率いたのは、嫡孫の詮久でした。
永正13年(1516)10月19日付の新見国経の書状によると、新見氏は備中守護・細川氏や備中の国人三村氏、多治部氏らの圧迫に対して、伯州、雲州衆と提携して対抗しており、この頃には尼子勢が美作への進出経路となる備中北部へと勢力を拡げていたと見られます。
尼子勢は天文元年からの侵攻で三浦氏の居城勝山城を攻略したものの、天文2年(1533)6月23日付の新見国経の書状に「伯州東半国と作州一国申し合わせ、尼子方に敵となり候」とあり、応仁・文明期の伯耆守護山名家分裂による内乱以来、美作の国人と結び尼子方に付いていた東伯耆の南条氏や小鴨氏が敵対したことで苦戦を強いられました。
天文2年(1533)12月には詮久が美作二宮(高野社)の社人注連大夫に安堵状を出しており、同年中には美作中央部まで進出していたことが窺えますが、天文5年末に亀井安綱から近江の小谷城主・浅井亮政に宛てた書状で、備中・美作が「両国悉く落去」したと報じており、美作の平定には足掛け5年が費やされたようです。
また、この時すでに「明春は早々播州えその働きいたすべく候」と伝えていることから、早くから播磨への侵攻を予定していたことが窺えます。
「尼子十勇士」の一人として名を知られる秋上庵介の本家で、神魂神社の神主を務めたという秋上家に、天文5年10月10日付、詮久自筆の和歌が残されています。
あきあけは とみとたからに あひかして おもふことなく なかいきをせむ
備中・美作両国の平定を終えた状況で、その心境を詠ったものでしょうか。
尼子詮久の播磨進出と竹生島奉加
尼子詮久は天文6年11月に播磨へ侵攻、証如が詮久に送った書状には「御出張の由承り候、ことに早速御本意に属し候条珍重に候」とありますが、「本国にて越年すべき由」と記しており、この時は年末までには帰国したようです。
天文7年(1538)に経久の隠居により家督を継いだ詮久は、再び本格的に播磨侵攻を開始します。
実際に尼子勢が攻め込んだのは同年9月下旬のことですが、7月にはすでに播磨守護・赤松政村が高砂に没落したという噂が京都で流れており、詮久が上洛するかどうかが取り沙汰されています。播磨国内は「正体なき式」となり、赤松政村は淡路に没落、11月には別所村治が三木城に包囲を受けましたが、攻略には至りませんでした。
また天文8年10月には、尼子勢は赤松政村の要請を受けて備中に渡海した阿波守護・細川持隆の軍勢を撃破しています。
(天文8年に浦上政宗が室津で尼子勢を迎え撃ったというのも、この頃のことでしょうか。)
播磨國美嚢郡の法光寺には、対外交渉の窓口を担当したという湯原幸清の天文8年(1539)12月25日付の禁制が残されており、すでに尼子氏の勢力が播磨東部に及んでいたことが窺えます。
尼子氏の快進撃の背景には、畿内における旧高国党や畠山稙長、紀伊湯河氏などと連携の動きもあったようです。
本願寺宗主・証如上人の日記『天文日記』天文七年八月十四日条には、以下のような内容が記されています。(尾州=政長流畠山氏、畠山稙長)
従湯河宮内少輔以書状、就尼子出張尾州被出候間、彼人も可上洛候、然者得指南候ハんよし申候
(川岡勉先生の講演『尼子氏の勢力拡大と中央政界』配布資料より)
また、尼子氏の主家に当たる京極氏を擁立していた江北の雄・浅井亮政からも、竹生島の造営経費に対する奉加の要請を受けていますが(天文9年8月19日付、竹生島造営奉加人数書上)、これ以前の天文7年(1538)9月に国友河原の合戦に敗れるなど、浅井氏は六角定頼との戦いに苦戦しており、上洛を目指す尼子氏との連携を目論んでいたものと思われます。
播磨国内に滞在していた尼子勢は天文10年初頭には撤退することになりますが、同年に京極高延が亮政に反旗を翻し、浅井亮政は天文11年正月に死去、その後継者となった久政が六角氏への臣従を選択したことも、何か象徴的に感じます。(尼子贔屓の引き倒しでしょうか?)
余談:安芸宍戸氏と結んで石見高橋氏を討滅し、勢力を拡大した毛利元就
塩冶興久の乱が勃発する以前の享禄2年(1529)5月、石見に勢力を持つ高橋氏が大内方から離反して尼子氏と結んだため、大内氏は重臣の弘中氏と毛利氏に命じて高橋氏の討伐を開始しました。
かつて「三歳子牛の毛数ほど人数持ちたり」と強勢を唄われたという高橋大九郎久光は、元就の兄・興元の死後に家督を継いだ幸松丸の外祖父として強い発言力を持っており、元就も高橋氏に長女を嫁がせて姻戚を結んでいました。しかし、夭逝した幸松丸に代わって元就が家督を継ぐことになり、更に大九郎久光とその嫡子・元光が共に三吉氏との戦いで戦死したことから、次第に高橋氏と毛利氏との関係も微妙なものになっていったようです。
そして、元就は高橋氏が大内方から離反したことを好機としてこれを一挙に討滅し、享禄3年(1530)7月には大内義隆から高橋氏の旧領を与えられることになりました。
興久の乱に際して劣勢の経久方を支援するよう大内義隆を説得したのも元就でしたが、さすがの経久も興久方への対応で手一杯な状況では、毛利氏による高橋氏討滅を黙認せざるを得なかったようです。
また元就は高橋氏攻めに際して、かつて親細川・反大内方として毛利氏と敵対関係にあった五龍城主・宍戸元源と手を結んでおり、高橋氏の本拠地である阿須那藤根城の攻略には宍戸氏も協力しています。天文3年正月に元就は娘を元源の嫡孫・隆家に嫁がせて姻戚を結び、宍戸氏は後の毛利氏の飛躍に伴って、毛利一門六家の筆頭として厚遇されることになりました。
(なお石見高橋氏の庶流からは、後に尼子方として石見銀山の防衛拠点である山吹城主を務めた須佐高櫓城主・本城常光が出ています。)
阿須那の賀茂神社には、元就によって滅ぼされた高橋大九郎興光を祀る「剣神社」があります。
狩野秀頼筆「神馬図額」は、永禄12年(1569)に「大宅朝臣就光」(高橋就光)によって奉納されたものです。
高橋興光の敗死後、高橋氏の名跡は元就によって掌握されたのでしょう。
大内氏が大友氏と和睦、そして郡山城攻めへ
塩冶興久の乱を通じて協定を結んだ大内氏と尼子氏の間では一時的な小康状態が続いていましたが、天文4年(1535)から大内氏と大友氏の和睦交渉開始に伴って北九州の戦乱が沈静化すると、尼子詮久は石見・安芸・備後方面への圧力を強化し、再び両者の緊張が高まっていきます。
天文5年に尼子氏は塩冶興久の乱で背いた備後甲山城の山内直通を降伏させて家督に介入し、安芸・備後・石見では大内方毛利氏との衝突も起き始めていました。
安芸では頭崎城の平賀興禎が父の弘保と対立して尼子方に通じたため、大内氏は東西条代官・弘中隆兼を送り込みましたが、尼子方の支援を受けた城は容易には落とせず、天文9年6月に至ってようやく、毛利氏を主力とする大内方が造賀において平賀興禎勢と交戦して勝利しました。
また、すでに天文7年(1538)には大内氏と大友氏が和睦を結んだことで大内氏包囲網は崩壊しており、天文9年4月には尼子方に付いていた沼田小早川氏が大内方に転じ、6月には同じく尼子方であった安芸守護・武田光和が死去するなど、備後・安芸方面において尼子氏の不利が続いていました。
こうした情勢の変化を受け、ついに詮久は播磨に遠征していた軍勢を安芸方面に転進させることにしました。天文9年8月から翌年正月にかけて尼子氏が行った毛利氏の本拠地・吉田郡山城に対する攻撃は、このような状況で開始されたのです。
なお、軍記物では血気に逸る若き当主・詮久と叔父の刑部少輔国久ら新宮党に対して、ただ一人慎重策を唱えてこれを諌めようとした大叔父の下野守久幸が「臆病野州」と罵られ、郡山城攻めからの撤退戦で戦死する様が描かれていますが、多くは虚構と見られています。また、系図の記述や竹生島奉加帳の記名順や受領官途などから考えて、そもそも久幸は経久の弟ではなく弟の子であるとの指摘もあります。(系図と軍記物 尼子久幸について)
尼子下野守義勝のものと伝えられる墓。
広瀬町富田の尼子氏史跡
尼子清定・経久を祀る洞光寺。
尼子清定・経久父子のものと伝えられる宝篋印塔。
洞光寺から月山富田城跡を望む。
以前の記事 三日月公園に立つ尼子経久公銅像 にもたくさん載せています。
月山富田城跡の麓、「小守口」にある塩冶興久の墓。
月山富田城跡より
「花ノ壇」にはこんな顔出しも…!!
参考
室津海駅館 特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』の感想
10月26日、たつの市御津町室津にあります、室津海駅館の特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』を観てきました。
もうそろそろ終盤に入ろうとする大河ドラマ『軍師官兵衛』ですが、そこで描かれた官兵衛の播磨時代では、信長との関係(というか一方的な憧れ)ばかりが強調されて、小寺氏が擁立していた赤松宗家の存在は無かったことにされるわ、織田と毛利の間で揺れる播磨や備前の情勢を描く上で重要な役割となるはずの浦上宗景は名前すら出てこないわ、序盤の強敵として登場したはずの龍野赤松氏の赤松政秀も、ナレーションすらなくいつの間にか代替わりしている始末…。
渡邊大門先生の『戦国誕生』を読んで戦国時代の前期に興味を持って以来、赤松氏を入口として播磨戦国史を学んできた自分としては、せっかく播磨が大河ドラマの舞台となったというのに、あれでは織田と毛利の間で苦渋の選択を迫られた中小勢力の悲哀が全く視聴者に伝わらないし、何より福岡で大名として大成してからも播磨時代の地縁を大事にしたことは官兵衛の人柄を描く上で重要な要素だろうに、それが黒田家臣団の結束という形でしか描かれなかったことは実に勿体ないと感じます。
ドラマももうすぐ終わろうというこの時期に『播磨を生きた官兵衛』と題した展示が催されたのも、そういう消化不良な気持ちを汲み取ってのことかなと、勝手に想像した次第です。
前置きが長くなりましたが、今回の展示では官兵衛に限らず播磨の戦国時代の背景を知る史料と、室津と官兵衛の関わりとして今も残る「八朔のひな祭り」、黒田家の研究で知られる本山一城先生のコレクションなどが見られたほか、この日はその本山先生による「黒田官兵衛とたつの」と題した講演が開かれました。
会場内は撮影は禁止ですが、幸いなことに図録を購入できましたので、これを頼りに感想を書きます。
浦上村宗禁制札(備前市吉永美術館蔵)
永正十八年(1521)九月、播磨・備前・美作の国境にあるという天台宗の寺院、八塔寺に宛てて出された禁制です。
定 八塔寺
一、可被再興本堂造立仏像事
一、可被専勤行事
一、座方之輩不可背衆徒下知事
一、四方一里之内山留事
一、守護使不入事
右条々、任先規掟之旨、可有其沙汰、若於 違反之族者、 就交名注進、可被処罪科也、 仍所定如件
永正十八年九月 日
掃部助 (花押)
永正18年(1521)といえば、浦上村宗にとっては非常に重要な年になります。
村宗は先代赤松政則の夫人・洞松院の後見のもと宗家を継いだ赤松義村を主家としてきましたが、永正16年に自立を図ろうとした義村によって出仕を停止させられて以来、2年近くに渡って派遣された討伐軍を撃退し、永正17年11月にはすでに義村を出家させるとともに、義村嫡子の政村と義母の洞松院、義村正室の3人を室津に迎え入れており、守護としての実権をも掌握しようという状況にありました。
この永正18年に義村は再び挙兵するも一族の裏切りにより失敗、和睦という形で両者の対立は終結し、村宗は同年5月、細川高国の要請を受け、赤松宗家の置塩館で養育されていた前将軍・足利義澄の遺児亀王丸(後の義晴)を上洛させた後、室津の見性寺に幽閉していた義村を殺害したのです。
畿内では、将軍家を巡って義稙(義材)派と義澄派に分かれていた有力守護家同士の争いに加え、畿内随一の勢力を誇る細川家が政元亡き後の管領の座を巡り讃州家出身の澄元派と野州家出身の高国派に分裂、永正17年(1520)には澄元方の有力者であった三好之長が敗死、間もなく澄元も病死したことで弱体化していた澄元派に対して、京都を制圧した高国派の方でも、大永元年(1521)3月に将軍義稙が淡路へと出奔し、幕府は肝心の将軍を欠くという事態に陥っていました。
そんな状況の中、これまで澄元派であった赤松氏の実権を握った村宗が、義澄の遺児を将軍として擁立するという離れ業によって高国派に多大な貢献を果たし、これから飛躍しようという頃に出されたのが、この禁制というわけです。
この時期に村宗が八塔寺の辺りまで勢力を広げていたことが分かる史料で、内容的には仏事に専念することを奨励しているものですが、これまで定めてきた条々を引き継ぐもののようで、ここから60年以上も経た天正10年(1582)8月6日付にも、「仍所定如件」を「仍下知如件」に変えただけのほぼ同じ禁制が「八郎」(宇喜多秀家)の記名で出されています。
なおWikipediaによると、この4年前に当たる永正14年(1517)に置塩城主・赤松義村と三石城主・浦上村宗との間で八塔寺合戦が行われ、本堂・伽藍等が焼失したとのこと。八塔寺はかつて「西の高野山」と称された大きな寺院だったようですが、三ヶ国の国境に当たるため度々兵火に遭ったようです。
禁制に記された「可被再興本堂造立仏像事」の背景にはそういう経緯があったのですね。
浦上政宗感状(高橋秀知蔵)
こちらは天文9年(1540)と見られる、浦上村宗の子・政宗から家臣の高橋平左衛門に宛てて出された感状です。
去年於室構、日夜 粉骨無比類、殊於和泉 堺、被相届候条神妙也、 必恩賞可申沙汰候也、恐々謹言
四月十一日 政宗 (花押)
高橋平左衛門尉殿
享禄4年(1531)6月、摂津天王寺の戦いで赤松政村が細川六郎(澄元の子、後の晴元)を擁する堺方に寝返った「大物崩れ」の敗戦によって高国政権は一挙に崩壊、浦上村宗も乱戦の中で討死しましたが、同年10月には村宗の嫡子・虎満丸を叔父の国秀が後見する体制で立て直した浦上方が蜂起、今度は政村が敗退して明石城へと逃れる事態になり、播磨では天文5年(1536)頃に至るまで、再び赤松方と浦上方に分かれた内戦が続きました。
そのような状況で、すでに美作・備中・備前へと進出していた山陰の雄・尼子氏は、祖父経久から家督を継いだばかりの詮久が大軍を起こし、天文6年(1537)末頃から播磨への侵攻を開始しました。
浦上氏は政村と和睦して共に尼子氏に抗戦する道を選んだようで、政村の偏諱を受けた浦上政宗はまだ元服して間もない年頃と思われますが、天文8年(1539)に「室の構」で尼子勢を迎え撃つことになりました。
皮肉なことに、これまで浦上氏との対立で赤松宗家を支えてきた重臣の小寺則職や明石修理亮などはすでに尼子方に降伏しており、天文7年(1538)11月に赤松政村は本拠地の置塩城を捨て、淡路へと逃れる事態に陥っていました。
天文8年(1539)4月、政村は阿波守護・細川持隆の援助を受けて播磨へ帰国し、三木城の別所氏を頼ったものの、別所氏も尼子方に通じたと疑われたため、再び播磨を離れて堺へと逃れています。
現在の室津港から見た室山城跡
赤松晴政感状(中村文書)
浦上政宗は前述の高橋平左衛門尉に宛てたものと同じ日付で、ほぼ同じ内容の感状を中村三郎左衛門に宛てて出しているのですが、足利義晴の偏諱を授かって名を改めた赤松晴政からも、その3日前に当たる四月八日に感状が出されています。
これは今回の展示品ではないのですが、2004年に開催された特別展『室山の城 -語りつがれた謎の歴史-』の図録に掲載されているものです。
去年室要害、浦上 与四郎相践之処、無別儀 楯籠、殊今度、至和泉堺、 馳来之条神妙候、弥忠義 肝要候、必可褒美、恐々謹言
四月八日 晴政 (花押)
中村三郎左衛門殿
室津での戦いの詳細は分かりませんが、ここでも「室要害」において浦上与四郎(政宗)と共に戦ったことが記されており、政宗は赤松方として室津で防戦したものの敵わず、政村と共に堺へと落ち延びていたと察せられます。(政宗は踏みとどまって戦ったとする説もあって、よく分かりませんが…。)
晴政の播磨帰国が叶ったのはそれから1年以上を経た天文10年(1541)3月のことですが、それも自力ではなく、尼子氏が天文9年9月から天文10年1月にかけて行った安芸侵攻で、大内方の毛利氏が篭もる郡山城の攻略に失敗するという結果を受けてのことでした。
なお、後の天文21年(1552)以降、備前・美作を含む八ヶ国の守護職に補任された尼子晴久が再び侵攻した際、浦上政宗は尼子方に付きますが、政宗の弟・宗景は兄と袂を分かって毛利氏の支援のもと反尼子の戦いを繰り広げ、一方で将軍義晴によって備前・美作守護職を奪われた赤松晴政は、晴元政権を打倒して畿内の覇者となっていた三好長慶を頼ることになります。
(岡山県立博物館企画展『岡山の城と戦国武将』の感想(前編)をご参照ください。)
播磨国古城所在図(姫路市立城内図書館蔵)
近世に描かれたと思われる地図で、この図録の表紙にもなっている史料です。
東は三木郡・明石郡から西は佐用郡・赤穂郡までの播磨国内の各城と街道が描かれており、時代にばらつきがありますが、城には城主の来歴なども記されています。
室津には多くの舟らしき絵とともに町並みや城らしき建物が描かれ「置塩二代将 赤松兵部少輔政村住」と記されています。
御着城らしき城に「小寺相模守頼秀住 天河元祖」、妻鹿城に「小寺藤兵衛尉政職住」と記されているなど、興味深い箇所もあります。(後者については、芥田文書には天文17年に小寺則職が別所家臣の妻鹿氏を討った記録があるそうで、その時のことでしょうか?)
また、宍粟郡安志には「別所安治住」と記されていて、別所氏が足利義昭を擁する信長の上洛に伴い幕府方となった永禄11年から元亀年間にかけてのことと思われますが、別所氏の勢力が相当西まで食い込んで来ていることが察せられます。
個人的には「後尼子助四郎勝久」と記された赤穂郡「尼子山高野山城」も気になるところです。尼子山といえば尼子将監のものと伝えられる墓なども現存していて、尼子氏による播磨侵攻の数少ない痕跡には興味が湧きます。
なお、前回紹介した感状山城には「初赤松則祐住」とだけ記されており、やはり戦国時代の動向は伝わっていないようです。
村田出羽伝(村田家文書)
井口(いのくち)兵助こと村田出羽守吉次の外曾孫、吉田定俊の著作で、講談本「夢幻物語」の原本だそうで、有名な広峯神社に関わる黒田家の目薬伝説が記された内容とのこと。
村田出羽は「黒田二十四騎」に数えられ、朝鮮における虎退治で名高い菅六之助正利と並んで朱具足の着用を許された勇将とのことです。
(以下、本山一城先生の講演配布資料による)
井口氏は古くから赤松氏に仕え、印南郡井口城主となった井口家全は嘉吉の乱で戦死、揖西郡栄城に移った家繁は天文3年(1534)に浦上方と戦った朝日山合戦で戦死しています。
黒田家とは天文年間に栄にいた頃から関係を持っていたようで、黒田重隆の三男(官兵衛の叔父)で井手氏を継いだ勘右衛門友氏は、天文7年(1538)に井口家で生まれたとのこと。(青山合戦で討死)
吉次と共に官兵衛に仕えた三人の兄は皆討死しており、吉次は筑前入国後に官兵衛の命で鍋島直茂重臣の村田姓を名乗ったそうです。
なお「夢幻物語」は黒田家の目薬伝説がフィクションであると示す時によく名前を挙げられますが、本山一城先生曰く、実は読みやすく翻刻された本が存在しないそうで、今その作業を行っているとのことでした。直接子孫の方を訪ね回っておられることといい、フィクションだからと読みもせずに切り捨てるのではなく、そこから丹念に玉を探し出そうとする本山先生の姿勢には敬服しました。
本山一城先生の講演「黒田官兵衛とたつの」より、青山合戦のこと
官兵衛と黒田家を中心とした本山先生の講演も面白かったです。
多伎に渡る内容で詳細はあまり覚えていないのですが、永禄12年(1569)の青山合戦がスケールの大きい戦いであったことを強く仰っていたのが特に印象に残っています。
おそらく前述の別所安治が播磨北西部にかけて広く勢力を拡大したのもこの時のことで、別所氏は織田軍とともに幕府方の先陣として龍野の赤松政秀と連携し、これに対して置塩城の赤松義祐を擁する小寺・黒田氏が抗戦したのが8月の青山合戦で、母里一族24名が戦死という大きな犠牲を払いつつ何とか撃退したとされています。
しかし、戦いはこれで終わったわけではなく、更に翌9月には備前の浦上宗景が置塩方に加勢して室津を攻撃、10月に織田軍が室津を奪取、11月に赤松政秀が再び青山へと進軍した隙を突いて浦上宗景が龍野城を攻撃して政秀を降伏させ、12月には織田軍を撤退させたとのこと。
元亀元年には海路加古郡から上陸した浦上宗景は、別所氏の三木城にまで進出して城下を焼いており、一連の戦いで浦上宗景の果たした役割は非常に大きかったようです。英賀城の三木氏も小寺の与党ですし、室津を確保したことで制海権を掌握できたのが大きかったのでしょう。
青山合戦のことは、当時幕府方であった織田と毛利の間で使僧を務めた朝山日乗の書状にも書かれているそうです。(日乗は青山合戦の際に軍監を務めており、敗戦により失脚したとのこと)
室津の史跡
室山城跡は現在、その一部が「室津二ノ丸公園」として整備されています。
二ノ丸に当たる場所は平成9年から14年にかけて5回の発掘調査が行われ、5つに分かれた曲輪から備前焼の鉢、白磁や青磁などの貿易磁器、更に安土桃山時代と思われる瀬戸・美濃焼の椀や皿に加えて、江戸時代初期の唐津焼も出土しているそうです。
なお、17世紀中頃からは遺物の見られない空白期を経て、「室津千軒」と称された18世紀中頃の繁栄期後再び生活道具が現れているため、廃城の時期は17世紀初頭から中頃と考えられるそうです。
発掘調査で見つかった土塁や竪堀の跡も、今は何も残っていません。
室津の観光案内板。室津城跡からも程近い中央部には、赤松義村が最期を迎えたと伝わる見性寺も見えます。
現在の見性寺。
解説板には戦国時代のことは何も触れられていませんでしたが…。
現在でも浦上氏の子孫の方が関わりを持っているようです。
治承4年(1180)3月、厳島参詣の途中に室津で一泊した平清盛が旅の安全を祈願したという、賀茂神社。
文政9年(1826)にはシーボルトも立ち寄ったとか。
大きな社殿は江戸時代の繁栄ぶりを彷彿とさせてくれます。
賀茂神社には狩野元信の「神馬図額」2面も伝わっていたそうですが、現在は東京国立博物館に保管されているとのこと。
狩野元信といえば、甲冑姿の細川澄元像や道服姿の細川高国像が有名ですね。(自分の中では!)
室津海駅館特別展「播磨を生きた官兵衛~乱世の中の室津~」は11月24日まで開催中です!
なお、11月16日には展示説明会も行われるようです。
参考

- 作者:
- 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
- 発売日: 2011/06/01
- メディア: 単行本
赤松氏ゆかりの山城・感状山城
感状山城跡は相生市矢野町瓜生および森にまたがる感状山の尾根にあり、多段に渡る石垣造りの曲輪が特徴的な中世山城の遺跡です。
謎に包まれた感状山城の歴史
近世に成立した地誌『播磨鑑』には、建武3年(1336)、赤松円心が赤松氏の本拠地である白旗城に籠もって新田義貞率いる追討軍を50日以上に渡り足止めした際、円心の三男・則祐が出城として築いたのがこの城で、ここで勇戦した戦功によって足利尊氏から感状を授かったことから「感状山城」と呼ばれたという伝承が記されています。
『ひょうごの城』の感状山城の項(橘川真一氏)によると、『播備作城記』には「岡豊前守居城也元亀年中落城也」とあり、地元の史料『岡城記』には嘉吉元年(1441)に「感状山城等の城郭悉く没落す」、文正元年(1466)に「竹内祐太夫義昌 当時守護代なり」とあるそうです。
そして、地域の支配者は赤松氏→浦上氏→龍野赤松氏→浦上氏→宇喜多氏と変わっていますが、地元の豪族であった岡氏が引き続き矢野庄を領有していたと推測されています。
また、『日本城郭大系12巻』(昭和56年)では天正5年に秀吉の上月城攻めに際して落城したと推測され、兵庫県教育委員会『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』(昭和57年)でも赤松則房の代に至って天正5年、秀吉の攻略に遭って落城したと書かれおり、地元でもその時のこととする落城伝説が伝えられているようです。
しかし、同時代の史料やその他の文献に感状山城の名は現れておらず、実際の築城、廃城の時期や城主の名前など具体的なことは分かっていません。
昭和60年から63年にかけて実施された発掘調査では3つの曲輪と大手門跡が発見されたほか、15世紀から16世紀と見られる備前焼の大鼇、中国産の白磁や青磁、青花磁器などの破片が数多く出土しました。
兵庫県立考古博物館の岡田章一氏によると、その中には備前焼の耳付小壺や筒型容器など茶器として利用されたと思われるものや高級品の貿易陶磁など、播磨の中世遺跡では御着城や姫路の城下町でしか出土例のない物が含まれていることから、城主は唐物趣味の茶の湯を嗜んだ有力者で、西播磨地域に勢力を拡げた龍野赤松氏、あるいは備前を本拠として瀬戸内航路の要衝である室津に拠点を築いていた浦上氏が考えられるそうです。
感状山城跡を歩く…登山道から物見台まで
感状山への登山道の入口は 羅漢の里 という自然体験施設の中にあります。
自動車の場合は施設の駐車場が2ヶ所あるので、どちらかに停めると良いです。(無料でした)
石造りのモニュメントと、現代の刀工「桔梗隼光」(ききょうはやみつ)鍛刀場の水車小屋が目印になります。
この側を通って奥の方へと進みます。
ここは古くから十六羅漢の石仏が有名で、かつては「羅漢渓」と呼ばれた名勝だったようです。
入口付近には、大正時代に建てられた石碑や歌碑が散見されました。
それら石碑の中に「感状山光専寺貫主 赤松性真」と記された物がありました。「性○」は赤松家の戒名なので気になりますね…。(政則=性雲、義村=性因、晴政=性煕)
物見台まで続く登山道は結構歩きやすく整備されています。
途中から少しずつ岩が増えてきますが、運動靴さえ履いていれば、軽装でも問題ないレベルです。
登山道からの眺め。朝8時頃ですが、霧が出ていてとても綺麗でした。
物見台に近付くとともに段々と山城感が出てきて、テンション上がります!
しかし、肝心の物見台はあまり展望はよくありませんでした…。
感状山城跡を歩く…Ⅲ曲輪群から大手門跡周辺へ
倉庫跡を経て、Ⅲ曲輪(近世城郭で言う三の丸)辺りはかなり広くなっています。
大手門跡方面にはこの辺から下りられます。
六段の石段で構成され、鶴翼状に配列された総石垣づくりの大手門とのことですが、かなり崩壊が進んでいます。
石積み技術の未熟さによるものか、あるいは廃城の際に中途半端に破壊したまま放置されたのでしょうか。
大手門の登り口を上から見るとこんな感じで、登山道と比べると荒れてます。
ここから下りてみたい気持ちもありましたが、地図を見ると結構離れた場所に出るようで時間の都合もあり諦めました。
大手門のすぐ内側には井戸があって、今でも水が湧き出ているようでした。(真夏でも涸れることがないそうです)
感状山城跡を歩く…Ⅲ曲輪群から腰曲輪群、北曲輪群を経てⅠ曲輪へ
建物の遺構も見つかったというⅢ曲輪群は複雑な段差を持つ構造だったようで、側面を見ると広範囲に渡って石垣が残っています。
こんな細い道が続いていたので、つい奥まで見に行ってしまいましたが…このルートはちょっと失敗でした。
一番の見どころの南曲輪群を避けて、裏から攻める形になってしまったので…。
腰曲輪群には、少しだけ石垣が残っていました。
北曲輪群はよく分かりませんでした…。
あっさりと、山頂のⅠ曲輪まで到達してしまいました。
感状山城跡を歩く…Ⅰ曲輪から南北Ⅱ曲輪群を経て圧巻の南曲輪群へ
城山の北端に当たるⅠ曲輪には建物の礎石が残っていて、敷地いっぱいに御殿が建てられていたと推定されているとのこと。
この写真から見ると、確かにもうギリギリのような…。
北Ⅱ曲輪との間から見たⅠ曲輪の側面。見ての通り山頂付近まで岩が結構ごろごろしている山なので、未熟ながら結構早くから自然石に石積みを組み合わせた城だったように思えます。
Ⅰ曲輪から北Ⅱ曲輪へ。
南北Ⅱ曲輪の西側面には広範囲に渡って石垣が残っており、「犬走り」と呼ばれる帯曲輪が配置されていたようです。
しかし、時間の経過もあるかもしれませんが、結構スカスカな状態です。そのうち大雨で自然崩壊してしまいそうで、ちょっと心配してしまいます。
南Ⅱ曲輪でも大規模な建築と見られる礎石群が発見されているそうで、Ⅰ曲輪の本丸御殿に対して、常の御殿(日常生活の場所)であった可能性があるとのこと。
これも何かの跡でしょうか。
正直なところ、大規模な遺跡とはいえ現状はいまいち迫力に欠けると思っていたら…ここから先の南曲輪群は、素晴らしかったです。
ここは眺望も良いです。
この二段目の腰曲輪の石垣は全長21m、高さ4.5mで、感状山城の中では最大の物だそうです。
ゆるい曲線状で粗さが残る石積みではありますが、尾根を利用して六段に渡り削平された曲輪群は、非常に見応えがあります。
下から登ってきたところでこの曲輪群に出会っていたら、もっと興奮しただろうなと、少し後悔しました。
ちょっと離れたところから、側面も眺めてみたいですね。
初めて訪れる方にはぜひ、まずはⅢ曲輪群からこの南曲輪群を経て、山頂へと向かうルートをおすすめします。
ここが南曲輪群に向かって登ってくるメインルート。
下から見るとこんな感じ。崩落があったのか、ロープが張ってありました。
土の城から石垣の城へと発展したように言われることがありますが、この感状山城跡を見て、そう単純なものではないと感じました。石積み技術の発達具合に関わらず、石があればそれを活用しようとするのは自然なことでしょう。
感状山城と光専寺と赤松氏
「羅漢渓」入口の石碑に記された「感状山光専寺貫主 赤松性真」が気になったので調べてみました。
光専寺は感状山城の大手門側に現存する真宗本願寺派の寺院で、相生市矢野町の公式Webサイトに以下のような記述がありました。
本尊 阿弥陀仏。開基は赤松義村の孫小林義光、その頃蓮如上人の御代で六字名号を拝領、その後第六代教誓に至り実如上人より寺号・木仏を賜わる。経堂 天保12年建立。鐘楼 宝暦10年。昭和17年、福田眉仙画伯が襖絵を描いたことから、別名、眉仙寺という。
赤松宗家以外の人物で将軍家由来の「義」を名乗っているというのは不可解ですし、義村の孫の世代であれば蓮如(明応8年没)のはずはないと思いますが…。
亀山本徳寺から発行されている『播州真宗年表 (第2版)』を確認したところ、以下のような記述がありました。
1509年(永正6年)といえば義村はまだ元服したばかりで、洞松院尼が後見していた頃です。
ちょうどこの年に英賀城主・三木通規が実如上人の御連枝の下向を願い出ていることからも察せられますが、すでに英賀では在地の長衆(富裕な商人などの有力者)や寺の坊主によって門徒集団が組織されていたようです。
播磨国内では公的には守護赤松氏が先代政則以来、真宗の布教を禁じていましたが、永正9年(1512)に実如の第四子・実円が下向するとともに三木氏一族が一向宗に帰依、翌年には実如上人から赤松義村へ名馬が寄贈されたことで真宗禁制が解かれ、布教の一大拠点となる本徳寺「英賀御堂」の建立に繋がりました。
義村は後に浦上村宗によって弑逆されますが、その村宗も義村の子・政村(晴政)によって討たれ、息つく暇もなく浦上国秀の後見を受けた浦上政宗が蜂起して赤松氏と再び争い、更に但馬の山名氏、そして山陰の雄・尼子氏による侵攻を受けました。
その間の感状山城の動向は明らかではありませんが、後に光専寺が再興されるに当たり、赤松氏ゆかりとされる感状山の麓で、本願寺との関係改善を果たした赤松義村との繋がりを強調する縁起を後世に伝えようとしたものかもしれません。
感状山城の落城伝説
時期は明らかではありませんが、地元では落城時に井戸の中へと身を投じた姫の伝説が残されているようです。
(1)感状山城が落城した日、城には何人かの姫がいました。
押し寄せる大軍に逃げ迷った姫の1人は、人手にかかって恥をさらすよりはと、日頃、可愛がっていた金色の羽を持つ鶏を抱いて、城内にあった井戸に身を投じました。
それ以来、毎年、元旦がくると、その井戸の中から鶏の鳴く声がきこえるといいます。
(2)もう1人の姫は、城を逃れて、城下の藤堂(とうどう)村にたどりつきました。藤堂村の人々は、姫を大事にかくまい、その後も大切にもてなしました。姫は死ぬ直前に、「お世話になったお礼に、この村では、美人ばかりが生まれるようにお祈りします」と言ったそうです。
それ以来、藤堂村では、代々、美人が生れるといいます。
(3)感状山城には、非常に備えて、ぬけ穴を作っていました。それは、森の光専寺(こうせんじ)の北山手から流れる水を通す大溝(みぞ)が、寺屋敷の地底を抜け、鐘楼(しょうろう)の横手を通って、南側の溝と合流するというものでした。
感状山城が落城した日、ぬけ穴をたどって逃れようとした1人の武士がいました。しかし、思うようにぬけ出られず、死んでしまったのです。
その後、武士の亡霊(ぼうれい)がこの溝に出て、毎夜、通行人に墨つけをするというのです。
ここにも光専寺が登場していますが、城からの抜け穴が通っていたということは、それだけ親しい関係だったのでしょうか。
瓜生の八柱神社
「羅漢の里」の手前には八柱神社がありますが、ここがなかなか素敵な神社だったので、写真を掲載しておきます。
奉納絵馬がずらり。
中でも、明治42年に奉納されたという赤穂四十七義士の数々は壮観です。
天保十三年(1842)…古いですね、これは。意外と色が残っています。
郷土の歴史が刻まれた、絵馬たち。
境内に向かって右手には「バクの道」と呼ばれる感状山への登山道があるようで、再訪の機会があればこちらから登るか、あるいは光専寺から大手側を登ってみたいです。
追記:感状山城と光専寺の縁起について推測
『播磨鑑』を再度確認したところ、光専寺については項がありませんでしたが、感状山城の項では「城主ハ赤松彌太郎義村 字道松丸後號政村 父ハ刑部介政資」「又赤松義村居住ス(後改政村)初メ竹内助太夫義昌ノ養子タリ 後政則ノ養子トナル 政則コレヲ婿トシ置鹽山ニヲク 後義村鞍掛ヘ移ル」と記されていました。
道松丸は道祖松丸の誤記として、どうも地元では感状山城の城主が義村であったと伝わっているようで、光専寺の縁起にはその辺りの事情が関わっていると思います。
神戸新聞文化部編『杜を訪ねて ひょうごの神社とお寺[下]』の光専寺の項によると、現住職の赤松誠真さんが語られた寺の縁起には、赤松円心が創建したという円応寺が前身で、正和年間に矢野庄が東寺領となったため真言宗に転じ、その後赤松義村の孫・小林義光(のちに釈正西)が実如上人の感化を受けて真宗に転じ、六代教誓に至って寺谷から現在地へ移転したとあるそうです。
また住職は、寺谷以前の経緯は全く不明だそうですが、付近には「改宗」という地名があって住民のほとんどが門徒なので、真宗に転じた頃の光専寺はそこにあったのではと推察されています。
亀山本徳寺『播州真宗年表 (第2版)』の記述「1509 正西、赤穂郡矢野森村に光専寺を開基す」を合わせて考えると、実如上人の感化を受けた正西=小林義光が1509年に開基あるいは真宗へと転派した後、六代の教誓に至って、長らく廃城となっていた感状山城跡の麓へ寺院を移転する際、山号を「感状山」と改めるとともに、赤松円心ゆかりの円応寺との繋がりと、城主として地元に伝えられていた「赤松義村」の末裔を称したのではないでしょうか。
地元の史料『岡城記』が伝える、嘉吉の乱後の文正元年(1466)に守護代となったという竹内義昌に、赤松七条家出身で道祖松丸(赤松宗家の幼名)と名付けられていた義村が養子入りしたという話は色々とおかしいのですが、近世に至ってから光専寺がこの地元の伝承を元に正西=小林義光は「赤松義村」の孫であったと称したとすると、大幅な年代の差異も辻褄が合ってしまうことになります。
おそらくその頃には地元でも、赤松氏と感状山城の関係について確かなことは分かっていなかったのでしょう。今後の感状山城跡の調査研究に要注目です。
参考
- 神戸新聞文化部編『杜を訪ねて ひょうごの神社とお寺 [下]』

- 作者:
- 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
- 発売日: 1990/12
- メディア: 単行本
- 朽木史郎、橘川真一編著『ひょうごの城紀行 上』(神戸新聞総合出版センター)

- 作者:
- 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
- 発売日: 1998/04
- メディア: 単行本
武田信虎の甲斐追放と「武田入道」の在京奉公
今川氏の跡目争いを機に方針を転換し、家督相続以前から敵対してきた今川氏と同盟を結んだ武田信虎は、諏訪氏と共同して信濃佐久郡へ進出、次いで北信濃の村上氏とも連合して信濃小県郡へ出兵し、ようやく甲斐国外に勢力を広げた矢先のこと、実の息子である晴信によって駿河へと追放されてしまいました。
今回は信虎追放の背景と、その後の在京奉公を通じて信虎の魅力を紹介します。
内容的には 武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期) 武田信虎の戦いはこれからだ!(武田・今川・北条の戦国黎明期その2) の続きになります。
「信虎平生悪逆無道也」信虎追放の背景にあった災害と飢饉
信虎の追放に関して、向嶽寺の歴代住職が著したとされる『塩山向岳禅庵小年代記』に有名な記述があります。
信虎平生悪逆無道也、国中人民牛馬畜類共愁悩、然駿州太守義元娶信虎之女、依之辛丑六月中旬行駿府、晴信欲済万民愁、足軽出河内境、断其帰道、即位保国々、人民悉含快楽咲
信虎は平生悪逆無道で、そのために人民はおろか牛馬畜類まで愁悩していた。娘婿の今川義元に会うために天文10年(1541)6月中旬に信虎が駿府に赴いた際、晴信は万民を愁いから救おうとして、河内の国境に足軽を出兵させてその帰路を断った。信虎に代わって守護となった晴信は国を保ち、人民は悉くそれを喜んだ、というのです。
同時代の史料『勝山記』などにも同様の記述があり、確かに信虎の評判は悪かったようですが、その「悪逆無道」の具体的な内容は記されていません。
『勝山記』の天文十年条には、当時の甲斐が過去百年に例がないほどの深刻な飢饉に見舞われていたとあり、この飢饉の様子に続けて信虎の追放のことが記されています。
此年春致餓死候而、人馬共死ル事無限、百年ノ内ニモ無御座候ト人々申来リ候、千死一生ト申候
此年六月十四日ニ武田大夫殿様、親ノ信虎ヲ駿河国ヘ押越申候、余リニ悪行ヲ被成候間、加様被食候、去程ニ地下、侍、出家、男女共喜致満足候事無限、信虎出家被成候而駿河ニ御座候
飢饉の原因は、天文9年(1540)5月と6月の大雨による被害に追い打ちをかけるように、8月には西は紀伊国から東は東北地方にまで甚大な被害をもたらしたという、巨大台風が東海・中部地方を襲ったことによるものでした。
北条氏・今川氏との長い戦いに疲弊していた人々の不満は、この災害と飢饉によって頂点に達したと想像できます。
そのような状況の同年11月末に、信虎は諏訪頼重に息女を嫁がせて同盟を強化し、12月にかけて互いに面会した後、村上義清とも連携し、翌天文10年(1541)5月には小県郡へ出兵します。
そして5月25日、海野平の戦いによって海野棟綱をはじめとする滋野一族を打ち破りましたが、その残党が関東管領・山内上杉憲政の元に亡命して助けを求めたため、憲政は彼等の旧領回復のために佐久郡へ軍勢を派遣するに至りました。
信虎は甲斐へ帰国しますが、この戦いの最中にも信虎追放の計画が密かに進められていたのでしょう。帰国から間もない6月14日、今川義元と面会のために甲府を出発して駿府へと向かった後、無血の当主交代劇が実行されたのです。
つまり、信虎の「悪逆無道」とは、飢饉によって頂点に達した人々の不満を解消できる政策を施さないまま、再び外征を行った結果、更に山内上杉氏の介入を招いてしまったことに対する評価と考えられるのです。
平山優氏はこれに加えて、晴信が当主交代後に一国平均の徳政を実施して民衆の支持を得たのではないかと推察されています。
そうした結果、信虎が「信虎平生悪逆無道也」と厳しく評価されたのに対して、その後を継いだ晴信は「即位保国々、人民悉含快楽咲」と評価されるに至ったという訳です。
また晴信は、翌天文11年(1542)に釜無川の洪水への対策として堤防の構築を発願し、十余年がかりでこれを完成させました。
いわゆる「信玄堤」で、一次史料に直接現れないことから否定的な見方もされていますが、永禄3年(1560)8月に堤防の後背地に当たる竜王宿への作家居住が奨励されており、晴信の治水事業が成果を上げたことは間違いないようです。
この「信玄堤」に代表されるように、地元甲斐における後世の評価は作為的な神格化だけではなく、実際に行われた政策の結果が反映されたものでしょう。
なお、『勝山記』には信虎が享禄元年(1528)に甲斐一国に徳政を施したことが記されていますが、当時は一揆も起きていないことから、災害への対応のために発令したものではないかと考えられています。
このことから、信虎が晴信とは対照的に民衆を顧みない好戦的な暴君であったと捉えることもまた、無理がありそうです。
余談:信虎追放を主導した板垣信方の功績とその不審な最期
『甲陽軍鑑』では、譜代宿老の筆頭であり晴信の傅役でもあった板垣信方が、密かに甘利虎泰や飯富虎昌ら有力家臣を説得して事前に意見をまとめたことで、血を流すことなく当主の交代を成し遂げたとされています。
駿河に向かった信虎は政変後も混乱なく今川氏に迎え入れられていることから、晴信派による今川義元との共謀説が古くからありますが、丸島和洋氏は河東一乱に介入した信虎が北条氏の和睦を受け入れたことが義元の不信を招き、そこで今川氏との折衝を務めていた板垣信方が主導して信虎の駿河への追放計画が進められたと推測されていて、なかなか説得力があります。
晴信は天文11年(1542)に諏訪氏惣領の座を狙う庶流の高遠頼継を味方につけ、諏訪頼重との同盟関係を一方的に破って諏訪へ侵攻、やがては高遠頼継をも陥れて諏訪郡全域を支配下に置きますが、信虎の追放に最大の功績を果たした板垣信方を上原城主と兼ねて郡代に任命し、諏訪郡の統治という大役を一任します。
板垣信方は信虎追放の功績によって、譜代宿老の中でも突出した存在となったわけですが、その晩年には不穏な空気が感じられるようになります。
天文17年(1548)2月、信方は上田原の戦いで村上義清の反撃を受けて討ち死にしてしまったのですが、『甲陽軍鑑』はその頃の信方が増長のあまり独断で首実検を行うようになったと記しており、結局そのために油断したところを村上勢に討ち取られたことになっています。
信方は『甲陽軍鑑』において、信虎の追放後に学問や文芸に耽って政治を顧みなくなった晴信に対し、詩歌を学び即興で詩を返した上でこれを諌めたというエピソードが描かれ、その忠義が讃えられていますが、当時の守護大名と譜代家臣の関係は近世的な忠義によって成り立つものではなく、世代交代に伴う権力の委譲もそう簡単ではありません。
忠臣と讃えられる信方の不審な最期が描かれた背景には、当主として権力を掌握したい晴信にとって、信方のような宿老の存在が障害になっていたことがあるのではないしょうか。
信方の後を継いだ信憲は天文21年(1552)、不行跡を理由に諏訪郡代を解任された上に成敗されますが、この件についても『甲陽軍鑑』では信憲が越後の上杉謙信に内通していたことが原因とされており、その意図があからさまに隠蔽されているようにも感じます。
桶狭間合戦以前から京都に邸宅を構えていた「武田入道」信虎
追放後の信虎について『甲陽軍鑑』では、永禄3年(1560)5月に桶狭間合戦で今川義元が討死して以後、後継者の氏真に疎まれて駿河から追放されたとして、晴信に対して駿河への出兵を促すに至ったと伝えています。
しかし、この記述は信玄による駿河侵攻を正当化するための脚色であることが明らかで、『言継卿記』には永禄年間、すでに出家して「武田入道」と呼ばれていた信虎が京都に邸宅を構え、幕府に出仕していたことが記されています。
『言継卿記』には、山科言継が永禄元年正月四日条に年始の挨拶回りで「甲州武田入道」と会ったことや、三月十六日条に信虎へ手紙を出したが不在であったことが記されているほか、永禄2年、3年、6年、7年と年始挨拶で信虎を訪問しており、今川氏の支援のもと幕府に出仕していたと思われる信虎との交流が伺えます。
また、養母が今川義元の生母・寿桂尼の妹であったことから、言継は弘治2年(1556)から3年にかけて半年ほど駿河に下向し、弘治3年2月25日には連歌会に招かれていますが、その連歌会には信虎ではなく子の信友(武田左京亮)が参加していることから、信虎はその頃からすでに在京していた可能性もあるようです。
少なくとも、今川義元の存命中には信虎が京都で活動していたことが明らかですが、その頃の畿内の情勢は、天文21年(1552)に将軍・足利義輝を擁立する細川晴元を実力で京都から追い出し、名実ともに畿内の覇者「天下人」となっていた三好長慶が、永禄元年(1558)11月に近江朽木谷へ亡命していた将軍を京都へ迎え入れたことで、再び三好政権による幕府再興が開始されたという時期です。
近年、今川氏の大軍による尾張侵攻の主な目的は伊勢湾制海権を掌握することであったと言われますが、義元はその先に何を見据えていたのでしょうか。
京都で詠われた落首に、信虎の人柄を表す面白いものがあります。
桶狭間合戦の数ヶ月前になる永禄3年正月9日、信虎は22歳の青年公卿、菊亭晴季に17歳の末娘を嫁がせたのですが、気が早い信虎は婚儀がまとまらぬうちに、婿の顔を見るために菊亭宅へ押しかけたという逸話を詠ったものです。
むこいりをまだせぬ先の舅入り きくていよりはたけた入道
「菊亭」と「聞く体」、「武田」と「猛けた」を掛けて、入道姿の信虎が話に聞く以上に猛々しいと詠っているものですが、「武田入道」こと信虎は都で噂になるほどの有名人だったようです。
(この落首はお笑いの祖と言われる安楽庵策伝が著した『醒睡笑』に収録されています。)
信虎がどのような役割で在京していたのか、また三好政権との関係など詳しいことは分かりませんが、この婚儀も京都との結びつきを重視する今川氏の意向が反映されたものでしょうか。
余談:信虎と名刀「宗三左文字」来歴の謎
桶狭間合戦で今川義元を討ち取った際にその差料を手に入れた織田信長は、これを記念に「永禄三年五月十九日義元討補刻彼所持刀」と彫り込んで愛刀とし、更に秀吉、家康と天下人と呼ばれる三人の手を渡った結果、「義元左文字」として徳川将軍家の家宝に数えられることになりました。
この名刀の来歴には武田信虎も絡んでいるようで、元々は細川晴元の腹心として権勢を誇った三好政長(宗三)が所持し「宗三左文字」と呼ばれていたものが、政長から信虎に贈られ、更に信虎から婿の今川義元に贈られたと伝えられています。
信虎が将軍義晴から息子の太郎(晴信)に偏諱を賜ったのが天文5年(1536)3月、義元の斡旋で三条公頼の娘を正室に迎えたのが同年7月、細川晴元の正室も三条公頼の娘であり、政長から贈られたという「宗三左文字」も、この時期の信虎と義晴・晴元政権の繋がりを示すものと捉えることができそうですが…WikipediaをはじめWeb上に多く見られる、信虎が娘の輿入れに際してこの名刀を義元に贈ったという説には、どうも明確な根拠がないようです。
何より、当時から「宗三左文字」と呼ばれていたのであれば、三好政長が出家して「半隠軒宗三」を名乗るのは木沢長政を滅ぼした天文11年(1542)10月が契機と見られているため、娘が義元へ輿入れした天文6年(1537)2月に贈ったとすると全く時期が合わないのです。
別の説としては、天文18年(1549)6月の江口の戦いで敗死するまでは三好政長が所持しており、どういう訳か当時大坂にいた信虎がその戦利品を手に入れたという話が『戦国阿波おもしろ百話』という本に書かれているようですが、こちらも未確認のため根拠は分かりません。
なお、信虎は天文12年(1543)6月に上洛して奈良や高野山を遊歴した際、甲斐追放以前の天文9年頃から書状をやり取りしていた証如と交流しているのですが、三好氏の研究で著名な天野忠幸氏は、この時に政長が信虎と面会して礼を交わし、記念に刀を贈ったのではないかと推測されています。(それだと前述の「宗三」を名乗る時期とも矛盾しません)
いずれにせよ、甲斐源氏武田氏の嫡流で前甲斐守護としての家格は認められていたとはいえ、すでに甲斐を追放され実権を失っていた信虎にそれ程の影響力があったとも思えませんので、むしろ今川氏への贈り物が信虎に託されたものと捉えるべきでしょうか?
将軍暗殺後に再び上洛した信虎
今川義元が永禄3年(1560)5月に桶狭間合戦で敗死した後も、信虎は引き続き在京が確認されています。
余談ですが、武田家によって没落させられた旧信濃守護の小笠原長時父子も永禄4年(1561)頃には越後から上洛して京都で活動しており、三男の貞慶が三好長慶から偏諱を受けるなど三好政権に近い立場でした。
『言継卿記』の永禄七年十月十八日条に記された信虎の席次は、公家衆の直後で武家衆の筆頭とのこと。すでに信濃守護職は将軍義輝によって武田晴信に与えられた後ですし、信虎は前甲斐守護として小笠原長時より高い家格を認められていたようです。
永禄5年(1562)または7年(1564)と見られる信玄書状には信虎の駿河帰国を尋ねるよう命じたものがあり、『言継卿記』では永禄8年から9年にかけて信虎の姿が現れず、永禄10年(1567)正月の年始挨拶に訪問するも留守、同年4月24日には門前で信虎および伊勢備中守とすれ違ったことが記されています。
この頃の畿内は混乱を極めており、永禄7年(1564)7月に三好長慶が病没、その死は3年間秘密とされたものの、翌永禄8年(1565)5月に将軍義輝が殺害され、同年11月にはすでに三好三人衆と松永久秀が衝突して松永方が敗北、永禄9年(1566)7月に三人衆が入京し、永禄10年(1567)10月には再び反三好勢を糾合した松永方が奈良において三好方と交戦、大仏殿が炎上するという状況でした。
武田氏の動きは、永禄8年(1565)10月に飯富虎昌ら義信派が密謀露見により処刑、義信が幽閉され夫人も駿河に送還、永禄10年(1567)3月には寿桂尼が死去、8月には家臣団に忠誠を誓わせる起請文が奉納されており、永禄11年(1568)12月から駿河侵攻が開始されています。
永禄7年頃から9年頃にかけて、京都では三好長慶の死と将軍の暗殺という大事件が起きている間、すでに武田家では駿河侵攻の準備が着々と進められていたわけですが、駿河に帰国していたと見られる信虎はその後再び上洛しています。
実は信虎は武田家の京都雑掌を務めていたという説もあるようですが、この時期に関して言えばあながち的外れではないのかもしれません。
信虎の最後の戦い
永禄11年(1568)9月には織田信長が義昭を奉じ幕府再興の大義を掲げて上洛、怒涛の進撃で三好勢を京都から追い出し、畿内の平定に乗り出します。武田氏は織田氏とは以前から友好関係を結んでいたためか、信虎は引き続き在京し将軍義昭の下で幕府に出仕していたようです。
なお、三好方として摂津芥川城で戦った小笠原長時は、永禄12年(1567)正月に三好三人衆とともに信長の留守を突いて将軍義昭を襲撃した「本圀寺の変」に敗れたことで、一族ともども再び牢人することになりました。長時の三男貞慶がただ一人、京都に残って義昭に仕えています。(その後、貞慶は信長に仕えて旧領回復の朱印状を授かり、対武田・北条戦に奔走しますが、武田家滅亡後その約束は反故にされました…。)
その後、元亀年間には将軍義昭と信長の不和が決定的になるわけですが、丸島和洋氏によると、元亀4年(1573)3月の将軍義昭挙兵に際し信長に内通した細川藤孝への3月7日付の信長書状に、甲賀に滞在していた信虎が近江への出兵を企てているとの報告があったことが記されていて、反信長方として抵抗を続けていた六角氏と協力して近江を攻撃しようとした様子が伺えるそうです。
一方、信玄の方も将軍義昭の要請に応えて元亀3年(1572)10月には信長との同盟関係を破棄、12月に三方ヶ原で徳川勢を打ち破り、元亀4年(1573)2月には野田城を攻略します。その動きは将軍の挙兵に呼応したものでしたが、同年4月に信玄が死去したことで、あえなく甲斐へと撤退しました。
『甲陽軍鑑』によると、信玄没後に甲斐帰国を打診した信虎は、天正2年(1574)に子の逍遙軒信綱(信廉)が城代を務める高遠城で孫の勝頼と対面、その後間もない3月5日、ついに甲斐へと帰ることなく81歳で波乱の生涯を終えました。
これまで信虎の最期は、甲斐への帰国を希望するも信玄の生前には叶わず、信玄の死後に訪れた高遠城においても見知った家臣の顔はなく、まるで「悪逆無道」の報いであるかのように、孤独に死去したとされてきました。
しかし、永禄10年以後の動きを見ると、もはや我が子に国主の座を奪われ追放された恨みなど微塵もなく、年老いてもなお武田家のために引き続き幕府の一員として活動し、信玄の上洛を支援しようとしたのだと思えてなりません。
信虎の葬儀が行われた大泉寺
信虎の葬儀が行われた甲府の大泉寺は、大永元年(1521)に信虎の開基による曹洞宗の寺院です。
武田逍遙軒信綱が描いたというあの有名な信虎画像もここの所蔵品で、葬儀に際して奉納されたものと伝えられています。
永慶寺から移築されたと伝えられる、黄檗宗様式の総門。
国守武田信虎公霊廟之地
信虎の墓がある堂は「御霊殿」と名付けられています。
中を覗いてみると、風林火山の旗が。
左から勝頼、信虎、信玄の墓(というか供養塔?)だそうです。
武田三代の戒名
大泉寺殿泰雲康大庵主(信虎)
法性院殿機山玄公大居士(晴信)
景徳院殿頼山勝公大禅定門(勝頼)
参考
産経記者のコラムに、武田信虎について書かれた素晴らしいものがありますので、合わせて紹介します。
- 【ベテラン記者のデイリーコラム・渡部裕明の奇人礼讃】武田信虎(上)信玄の父、「追放」の人生を楽しむ
- 【ベテラン記者のデイリーコラム・渡部裕明の奇人礼讃】武田信虎(下)糾える縄…信玄より長寿30年「戦国の楽天男」
信虎はこういうコラムに採り上げられるだけの魅力がある人物だと思います。
Web上にはまだ『甲陽軍鑑』で形作られた信虎像に捕らわれているような文章が多いですが、歴史研究者の間ではすでに再評価が定着しているようですし、そのうち一般向け作品等にも反映されていくことでしょう。
さすがにもういないと思いますが、もし「信虎は妊婦の腹を裂いた」などと言ってる人を見かけたら、 「えーマジ腹裂き!?キモーイ」「腹裂きが許されるのは紂王までだよね!」 とか返してあげてください。
「備中兵乱」と常山城の鶴姫 - 岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』より(後編)
前回の記事 岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』(前編) の続きです。
今回は展示品の感想とともに、以前の記事 天正2~3年の「備中兵乱」の背景と備中松山城、備前常山城 でも少し取り上げた、備中三村氏と常山城の「鶴姫」について書きます。
『寂弁中興開基通生山血脈』(倉敷市 般若院蔵)と常山城の「鶴姫」
常山城には「備中兵乱」の終幕となる戦いで毛利方の攻囲を受けた際、城主の奥方が女軍を率いて戦った末に城内で尽く自刃したという悲劇が伝わっています。
備中松山城主・三村元親の妹でもあるこの女性の名前は「鶴姫」とされていますが、その由来となる書物で真言宗の寺院、般若院の記録『寂弁中興開基通生山血脈』が展示されていました。
常山ノ城主三村上野介殿ヨリ米十石白銀五枚御内證 鶴姫様ヨリ御寄進也
同十八日結縁潅頂ニ御入リ也 鶴姫様ノ御歳十八九ニ御見被成 侍女三十一人御侍ラヒ
天文23年(1554)11月の記録からの引用ですが、ここに記された名前が根拠とのことでした。
鶴姫が嫁いだ常山城主の名は上野隆徳、上野備前守隆式、あるいは三村上野介高徳などが伝わっていますが、この史料から当時は三村上野介と呼ばれていたことが伺えます。
鶴姫の年齢が仮にこの時18,9歳だったとすると、常山城の戦いは天正3年(1575)6月なので40歳近くになりますね。
手元の資料は加原耕作編著『新釈 備中兵乱記』だけなのですが、『備中兵乱記』や『中国兵乱記』にも鶴姫の年齢は記載されていないようです。
(なお、鶴姫には兄の元親の他、新見にある楪城主の城主を務めた元範、鬼身城主を務めた実親という二人の弟がいたようで、実親は20歳の若さで自刃したとありました。未確認ながら元親の年齢を23歳としている物もあるようで…)
「侍女三十一人御侍ラヒ」という一文には、『備中兵乱記』で三十余人の女性軍を率いたという話が思い起こされます。
「結縁潅頂」というのは検索したところ現在にも残っている用語で、在家者が仏縁を結ぶ儀式のようです。
また展示解説によると、常山城落城の際に般若院の住職を務めていた幸勢は三村家親の子で、鶴姫の弟にあたるとのことでしたが、記録を伝えた般若院のWebサイトに以下のような情報がありました。
中興第十三世権大僧都法印幸勢代、毛利勢(吉川・小早川勢)が常山城に立て籠もる三村氏を攻めるため、児島一帯の城を攻めた。 五月二十二日戦禍のため当寺は経蔵を残して一山悉く焼かれ、八十石の御朱印も焼失した。幸勢は阿弥陀・薬師の二躰を目篭に入れ、備中阿弥陀院(宝島寺)へ逃れた。(この時湊山城も焼失した。)
幸いに難を逃れ現存しているのは、本尊阿弥陀如来、十一面観音などの仏像・仏画・仏典・山王権現の御神体・千仏堂の馬頭観音像などである。
翌年の涅槃会は菰張りの仮屋で奉修した。
常山落城後、幸勢は常山城主夫妻、湊山城主夫妻に法名を授け供養した。(常山城主夫妻の法名は常光院高月徳本禅定門、常鶴院超山本明信尼。湊山城主夫妻の法名は、超頓覺壽居士、林月常遊信女であった。)
般若院は毛利勢の常山城攻めによって戦禍を被り、幸勢も一時は仏像を持って備中へと避難したようです。
常山城主は法名「常光院高月徳本禅定門」とありますが、ここでは上野氏の諱を「高徳」とされているのでしょうか。
鶴姫の法名「常鶴院超山本明信尼」というのも、その名に因んで付けられたものと思われます。
(湊山城というのは常山城の支城でしょうか?『日本城郭大系』にも記載がありませんでした。)
「備中兵乱」までの備中三村氏のあらすじ
備中三村氏は信濃から移住したと伝わっていて、その時期や経緯は明確ではありませんが、『太平記』によると元弘3年(1333)に隠岐を脱出した後醍醐天皇が船上山に挙兵した際、備中から馳せ参じた武士として、庄氏、真壁氏、新見氏、那須氏らとともに三村氏が名を連ねており、その頃にはすでに備中に土着していたようです。
その後、成羽に進出した三村氏は、大内義興が前将軍・足利義尹を擁し上洛した永正5年(1508)頃には、他の備中の諸将と同様その麾下に属しました。『陰徳太平記』には義尹に供奉した武将として庄為資、石川左衛門尉らと共に三村宗親が名を連ねており、その宗親の子が、三村氏の勢力を大きく拡げた三村家親です。
天文初期の尼子氏の山陽方面への進出に際し、猿掛城主・庄為資(穂田為資とも)が尼子方に与して松山城主・上野頼氏を討ち、備中は尼子氏の勢力下に入ります。その頃は成羽の鶴首城主であった三村家親も尼子氏の麾下に属していましたが、やがて郡山合戦での敗退をきっかけに尼子方の影響力が弱まると、家親は同じ大内方である毛利氏と手を組んで活動、天文22年には庄為資と講和して嫡子の元祐をその養子とするとともに、守護細川氏の下で守護代を務めた有力な一族の幸山城主・石川久式や、上野氏支族の常山城主・上野高徳と姻戚を結びました。この際に輿入れしたのが鶴姫です。
陶隆房による当主の弑逆で弱体化した大内氏に代わって、大内方から自立した毛利元就が勢力を拡大するに伴い、家親は毛利麾下で美作、伯耆、備前と広範囲に渡って転戦して活躍、永禄4年(1561)には松山城へと進出し、備中のほぼ全域を制圧して美作と備前の一部にまで勢力を拡げました。
一方で、天文末期に尼子氏が再び美作・備前へ進出してきた際には同じ反尼子方として共闘したこともある備前の浦上・宇喜多両氏との関係は次第に悪化し、永禄9年(1566)には宇喜多直家の家臣である遠藤兄弟によって家親が鉄砲で狙撃され死去するという事件が起こります。庄氏を継いでいた兄の元祐に代わって家親の跡を継いだ元親は、すぐさま報復のために備前へ進出したものの、直家の巧妙な作戦によって返り討ちにされてしまいました。(明善寺合戦)
更にその後、将軍・足利義昭が毛利氏によって迎え入れられ、その調停を受けた宇喜多氏が浦上氏から離反して毛利方となるに及び、宇喜多直家を仇敵とする三村氏は長年に渡り毛利方として戦ったにも関わらず、逆に浦上氏に与して反毛利方となったため、天正2年(1575)末から翌年5月末頃にかけて毛利氏の討伐を受けることになります。これが「備中兵乱」です。
備中兵乱の終焉と三村一族その後
『備中兵乱記』によると11月18日に佐井田山城と猿掛城、12月29日に国吉城、翌年正月に寄手が松山城に達した後も引き続き、8日に楪城、19日に荒平城、29日に鬼身山城と、次々と属城を落とされ、3月には成羽に本陣を移した毛利勢と三村勢の間で野戦が繰り返された後、やがて松山城内にも心変わりする者が現れ、5月20日に元親らが篭もる小松山の本丸と詰め城の大松山の間にある「天神丸」が毛利方の手に落ちたことが決め手となりました。
元親は僅かに残った家人らに伴われて城から逃れたものの、道中で深手を負って一人残されてしまい、6月2日、休んでいたところに通りかかった樵夫に小早川の陣へ使いを頼み、最期は旧知であったという粟屋三左衛門尉元方の介錯により、検使の前で切腹しました。また、生年八歳で利発だったという元親嫡子の勝法師丸も、後難を憂えた小早川隆景によって殺害されました。
松山城の落城後、6月4日には毛利方の本陣が成羽から常山表に移され、最後に残った常山城も毛利勢の包囲を受け、7日には毛利水軍を率いた名将・浦兵部丞宗勝によって攻め滅ぼされてしまいました。
元親従兄(伯父とも)の成羽鶴首城主・三村孫兵衛親成父子が挙兵に反対し、一族に背いて毛利方に身を投じていたため、三村氏の血は後世に残されました。
三村親成は、諸国を流浪したとして知られる猛将「鬼日向」水野勝成を厚遇したため、後に勝成が備後福山藩主となった際に家老として迎え入れられたと伝えられています。親成の曾孫にあたる親澄の代で、水野家改易とともに備中玉島で帰農したようです。
他にも、美作・備中の三村一族の縁者では、元親の妹婿である美作月田城主・楢崎元兼や、石川久式の父久智の娘婿で高松城主・清水長左衛門宗治は、引き続き毛利方に付きました。
(清水宗治は後の高松城での最期から毛利氏の忠臣と讃えられていますが、三村氏一族の主家に背いて勢力を拡大したため元々毛利家臣ではありません。開城にあたり宗治が切腹に拘ったのは毛利家に対して子孫の厚遇を約束させるためだと感じます。また、兄の月清が出家して家督を譲り、後に宗治と共に切腹したのも同様なのではと…。)
なお、三村家親の正室は阿波三好氏の出身とあり、その縁からか『備中兵乱記』では自刃を覚悟した三村元親が石川久式に対して讃岐へ落ち延びて再起を図るよう促しているほか、常山城主・上野高徳も郎党から同様に勧められています。
また『中国兵乱記』には元親の伯父に当たる国吉城主・右京亮政親の父子3人が因幡・丹後へと落ち延びたとあります。丹後にも反毛利勢力がいたのでしょうか?
備中高梁の頼久寺にある三村家親・元親父子の墓。
『備中兵乱記』と『中国兵乱記』が描く鶴姫と女軍の姿
常山城が毛利軍の包囲を受けた際、鶴姫は侍女達三十余人を従えて浦兵部の陣に切り込んだ後、城に戻って自害したと伝えられています。
その様子は『中国兵乱記』にこのように記されているそうです。
(以下、引用は加原耕作『新釈 備中兵乱記』より)
隆式の内室は三村家親の娘であった。女性に似合わず、織田具足を肩に掛け、上に経帷子を着て、二尺七寸の国平の太刀を差し、鉢巻をして隆式の側にいたが、隆式が「太刀」とつぶやくのを聞いて、
「この太刀は三村家に伝わっていた重代の名刀である。家親と一緒に居ると思い、肌身離さず持っていたが、死後には隆景卿に言上し、供仏施僧のために使って欲しい」
と言って敵勢へ切りかかり、木美十郎左衛門を切り伏せ、本太五郎兵衛・三宅勘介に手疵を負わせ、そのうえ、浦兵部宗勝の一備えを負い崩して城に立ち帰り、隆式と連座して、
「南無西方教主の如来、今日三途の苦を離れた者共、並びに元親・久式・元範・実親と同じ蓮台に迎え給え。南無阿弥陀仏」
と高声で念仏を唱え、刺し違えて果てた。舎弟高橋小七郎が介錯し、小七郎もまた腹十文字に掻き切り、隆式の死骸に寄りかかって同じ枕に伏せた。見る人、聞く人、皆袖を濡らさぬ者は無かった。
女だてらに太刀を振るって最後の抵抗を見せた後、家族とともに自刃する様子が描かれていますが、鶴姫の名や侍女達を率いたことは記されていません。
(この前には隆式はすでに切腹を決意していて、検使を給わるよう毛利方に伝えた後、継母、嫡子の源五郎隆秀をはじめ一族の死を確認しているので、斬りかかられた毛利方が気の毒な状況に見えますが…)
一方、三村家臣の子孫によって記されたと見られている『備中兵乱記』には、鶴姫の勇ましい姿や自害を決意してなお敵に切り込んだ際の心情、それに付き従った三十余人の女性と家僕達の姿が生き生きと描かれているようです。
高徳の女房は、修理進元親の妹で、日頃から男にも勝る勇気と力を持っていた。
「私は女性の身ではあるが、武士の妻や子が最後に敵の一騎も討たず、むざむざと自害するのは返す返すも残念である。況んや、三好修理大夫の従弟は叛逆した一族であり、女の身ではあってもひと軍しないわけにはいかぬ」
と鎧を着け、上帯を締め、太刀を佩き、長い黒髪を解いてさっと乱し、三枚兜の緒を締め、紅の薄衣を取って着て、裾を引き揚げて腰で結び、白柄の薙刀を小脇に挟んで広庭に躍り出た。
端下の者に至るまで三十余人は、
「これはいかなるお考えであろうか。そうでなくても女人は五障三従の罪が深く、成仏できないというのに、どうして修羅の罪業を逃れることが出来よう。ただ、思いとどまられ、心静かに自害して下さい」
と鎧の袖を掴むと、高徳の女房は打ち笑い、
「貴女たちは女性の身であり、敵も強いて殺しはしない。いずれの国へでも、ひとまず落ち延びるか、もし自害をされるならよく念仏を唱えて後世を助けて貰われるがよい。自分には正も邪もひとつであり、この戦場を西方浄土とし、修羅の苦患も極楽となせば、どうして苦しいことがあろうか」
と袖を引き放って出て行くと、春日の局らは、
「さては自分達を捨ててしまわれるのか。どうせ散る花なれば、同じ嵐に誘われて、死出の山、三途の川までお供しよう」
と髪を掻き乱し、鉢巻を締め、ここかしこに立てかけてあった長柄の槍を携えて三十余人が馳せ出すと、長年恩顧を蒙っていた家僕共もこれを見て、八十三騎が一緒に死のうと馳せ出した。
この内容がどこまで実態を表しているのかは分かりませんが、なかなか興味深いところがあります。
「三好修理大夫の従弟は叛逆した一族」との台詞は三村家親の正室(つまり鶴姫の母)が三好氏の出であったことを表しているのでしょう。三好修理大夫は長慶のことですが、文字通り「従弟」と解釈すると義継のことでしょうか?であれば、執筆当時は将軍を弑逆したのは義継であると正しく認識されていたことが伺えます。
(なお、事件当時は長慶の死が秘匿されていたためか『信長公記』等では長慶が将軍を殺害したと書かれているそうです。そして江戸時代中期に成立し広く流布された『常山紀談』によって、その罪は松永久秀が背負わされることになります…。)
叛逆者の一族だから戦わなければいけないという理屈は、どういう事なのか分かりませんが…汚名返上したいという意味でしょうか。
また、鶴姫たちが浦宗勝(ここでは「浦野兵部丞宗勝」となっています)の陣に討ち入った後、城内に戻るまでの様子はこのように描かれています。
宗勝はこれを見て、
「敵が女人の装束を着けて押し寄せてくるのはおかしい。”処女の如くして脱兎が功を作す謀”と孫子の秘法にもあり、また、”偽って実をとる”とも言うが、これはこのような謀を言うのかも知れぬ。欺かれて、不覚を取るな、面々」
と陣を固めて控えていたため、討ち破ることは出来なかった。しかしながら、屈強の勇士が死を恐れず、一目散に突き立てると、寄せ手は足並みを乱し、疵を被り、死ぬ者百余騎、慌てふためくのを見て、高徳の女房は腰から銀の采配を抜き、真っ先に進んで、
「討ち敗れ、者共」
と大勢の中に割って入った。宗勝の兵はさすがに武勇を嗜んでおり、女人に立ち向かっていく者は無かった。勇士が槍を合わすところを、女性が傍から潜んで「ぽかっ」と突き、手負う敵は数知れなかった。暫く戦っている間に、寄せ手の軍勢が大勢馳せ集まり、攻め戦ったため、高徳の兵で残るものは一騎もいなくなった。高徳の女房は、浦野兵部丞の馬前に立ち止まって、大声を張り上げ、
「どうした宗勝、あなたは西国で勇士の名を得ておられると聞いている。自分は女人の身ではあるが、ひと勝負仕りたい。そこを引き給うな、浦野殿」
と喚き叫んで、長刀を水車のように廻して攻め寄せた。兵部丞は四、五間ばかり後ずさりし、
「いやいや、貴女は鬼ではなく、女である。武士が相手には出来ない」
と身を引くと、傍の兵五十余騎が攻めかかってくるのを、長刀を取って七騎を薙ぎ伏せ、薄手を負って、また大音声を張り上げ、
「女の首を取ろうとなさるな、人々」
と呼ばわり、腰から三尺七寸の太刀を抜き、
「これは我が家重代の国平の作である。この太刀は一度父家親に進上し、家親が特に秘蔵していたが、重代の太刀であると聞いて返してきたものである。父家親だと思って肌身離さず持っていたが、死後には宗勝殿に進上する。後世を弔ってたまえ」
と言い捨て、城中に馳せ入った有様は、まるで毘沙門が喜見城を守護されていた時、吉祥天女と一緒に修羅を攻め討った勢いもこのようではなかったかと思われ、見る人に舌を巻かないものはなかった。
自陣に討ち入ってきた女軍に対して、宗勝が冷静かつ紳士的な対応を続けたために、ただ一人生き残って一騎討ちを挑んだ鶴姫も意気を削がれたのか、宗勝に父家親の形見である国平の太刀を託し、後世の弔いを請うて城へ戻ったという筋書きになっています。
切腹を決意し太刀を求めた夫に対して「供仏施僧のために使って欲しい」と言いながら敵勢に討ち入るという、少々往生際が悪いようにも読める『中国兵乱記』の内容とは異なった印象を受けますね。
鶴姫と夫高徳の最期についても、
「自分は西方十万億土の弥陀を頼むのではない。巳心の弥陀、唯心の浄土が、今ここに出現している。あゝ、仏も生命は露のようであり、また稲妻のようなものであると説いておられる。誠に”夢の世に幻の身の影留りて、露に宿かる稲妻の、はや立ち帰る元の道”である。南無阿弥陀仏」
と念仏を唱え、太刀を口に含んで臥してしまったのは、例の少ないことであった。
さて、高徳も西に向かい、
「南無西方教主の如来、今日三途の苦を離れ、元親・久式・元範・実親と同じ蓮台に迎えたまえ」
と念仏を唱えながら、腹を掻き切ると、舎弟小七郎が介錯し、小七郎もまた自害して高徳の死骸に寄りかかり、同じ枕に伏せた。見る人、聞く人、それぞれ皆涙を流さぬものはなかった。
このように、夫と刺し違えて果てたという『中国兵乱記』とは異なるもので、悲壮な中にも鶴姫の勇ましさが強調されています。
他にも常山合戦の顛末を記したという著者不明の『児島常山軍記』なる書物があって、鶴姫以下三十四人の女軍の奮戦が描かれているそうです。
昭和12年、城主一族と鶴姫以下34人の侍女達の冥福を祈って建立されたという、40基の墓石と墓碑。北二ノ丸跡にあります。『備中兵乱記』では見られない「三十四」という数字は『児島常山軍記』に由来するものでしょうか。
『備中兵乱記』の内容から読み取ると、城主上野高徳、女房の鶴姫、高徳の継母(57歳)、嫡子源五郎高透(15歳)、その弟(8歳)、高徳の妹(16歳)、これに34人の侍女を合わせて40人ということでしょうか。
しかし、高徳を介錯したという舎弟小七郎も「高徳の死骸に寄りかかり、同じ枕に伏せた。」とあって、よく分かりません。『中国兵乱記』には舎弟「高橋小七郎」とあるので、一族には数えられていないのかもしれません。
「児島富士」と呼ばれる常山の山頂、常山城本丸跡にある城主上野隆徳の碑。
鶴姫の活躍に比べると高徳は影が薄いように見えますが、『備中兵乱記』『中国兵乱記』いずれにも、翌朝に切腹するとの決意を打ち明けて一族以外の脱出を促した後、悪口を浴びせながら攻めかかる敵勢に対して「辛抱の出来ない奴らだ」と、嫡子源五郎とともに鉄砲を撃ちかけて応戦する場面が描かれています。
『中国兵乱記』『備中兵乱記』『備前軍記』『児島常山軍記』のいずれも『吉備群書集成』第三巻に所収とのことです。(誤植もあるそうですが…)
いつか機会があれば、『児島常山軍記』ともども釈文を読んでみたいものです。
参考
- 加原耕作 編著『新釈 備中兵乱記』(山陽新聞社)
- 西本省三・葛原克人 編『日本城郭大系 第13巻 広島・岡山』(新人物往来社)



































































































































































































































































































