「三木合戦絵図」絵解き - 三木合戦と天正年間の播磨国の情勢
先日、兵庫県立考古博物館で行われました『「三木合戦絵図」絵解き』を見てきました。
三木合戦絵図の由来と絵解きについて
「三木合戦絵図」は三幅で構成された絵図で、天保12年(1841)に讃岐在住の別所氏末裔・別所九兵衛長善が画師・中条竹趣に模写させ、三木合戦時の城主・別所長治の菩提寺である法界寺に奉納したもの。
原本図は別所方として三木城に籠城した来住安芸守の子孫によって寄進され、寛永年間頃に制作されたものと伝えられており、金箔が貼られた豪華なものとのこと。
現在、絵解きの語り手をされている生田さん(別所氏旧臣の末裔だそうです)もまだ見たことがないそうです。
絵解きは毎年法界寺にて別所公法要と合わせて命日の2月17日(旧暦1月17日)に行われていましたが、観光行事として公開されるようになって、真冬の開催では参加者も大変だろうということで、月命日の4月17日に改めたそうです。
由来については、こちらのブログ (4/17)別所軍と羽柴秀吉軍の戦いを再現する「三木合戦絵解き」 が詳しいです。
三木合戦絵図
元が模写図のカラーコピーなので鮮明ではありませんが、後半は首や胴が両断されているなど凄惨な描写が続くのでご注意ください。
平井山の秀吉方本陣。
天正7年2月、別所方が秀吉方本陣に決戦を挑んだ平井山の合戦の様子。左下の馬上の若武者は長治の弟・小八郎治定。
十文字槍を振るって勇戦する別所小八郎治定。敵を組伏せて首を取ろうとしているところでしょうか。
この後、槍を鎧に引っ掛けてしまった隙に組伏せられ、討死にしたと伝わっています。
天正7年5月、三木合戦における別所方唯一の勝利となった、淡河城の合戦の様子。
知勇に秀でた淡河弾正定範は予め買い揃えておいた雌馬を攻め寄せる敵軍に向かって一斉に解き放ち、馬がいきり立って混乱したところに突撃し、羽柴秀長率いる寄せ手の軍勢を撃退したと伝わっています。
しかし、雪辱を期して攻め来るであろう敵勢を支えることは難しいと判断、淡河勢は城を引き払って三木城へ入城しました。
三木城大手門での最後の激戦の様子。
力攻めに利のないことを悟った織田信忠は兵を率いて帰国したため、後を託された秀吉は三木城を包囲して外部との連絡を絶ち、平井山に堅固な砦を築いて兵糧の欠乏を待つ作戦を取りました。
なお、その最中の天正7年6月には、兵糧攻めの策を練ったという竹中半兵衛が平井山の本陣で病没しています。
左下の方にはもはや武装する体力も失ったのか、具足も身に付けずに刀をかざしている兵の姿が見えます。
兵糧が尽きた城内の様子。馬を切断して肉を焼いている一方で、集団で自刃している者達が描かれています。
切り分けた馬の肉を食べる者の隣で、鼠か何かをまな板に乗せている者もいます。また、こちらにも自刃している者達が。
平井山の秀吉本陣へ降伏の使者。左側が秀吉、右側が織田信忠。
切腹、開城と決まり、秀吉から差し入れを貰って最期の宴会が催された城内の様子。中央の三つ巴紋の若者が別所長治。
長治は妻子達の自害を見届けた後、弟の友之とともに切腹します。介錯は老臣・三宅治忠が行ったそうです。
二人の辞世の句が伝わっています。
友之 命をも 惜しまざりけりあずさ弓 末の世までも 名を思う身は
長治 今はただ 恨みもあらじ諸人の いのちに代はるわが身と思へば
生き残った人々が、鐘を打ち鳴らして鎮魂する様子。
別所方の遺臣とその家族達が、三木合戦で亡くなった者達の菩提を弔うために、毎年集まるようになったという話。
凄惨な戦場の様子。乱戦の中、両断されている人。
今まさに討ち取った首を、高々と掲げている人。
御恩報謝と鎮魂を語り継ぐために行われるという「絵解き」、中にはこのように凄惨な光景も描かれている絵図ですが、これらを指し示しながら淡々と語られるものでした。
かつては子供達により口伝で受け継がれていたそうですが、泰平の時代に生まれ育った子供に、どのような思いを託して続けられてきたのでしょうか。
三木合戦までの別所氏と織田政権の関係は良好だった
天正6年(1578)2月末、毛利攻めのため下向した秀吉が播磨の諸将を集めて加寿屋氏館で開いたいわゆる「加古川評定」の直後、これまで織田方であった三木城主・別所長治とそれに呼応した周辺の諸城主が毛利方へと離反しました。
遡ること十数年、永禄年間の播磨では嫡子・義祐によって追放された赤松性煕(晴政)が龍野城主・赤松政秀の元へと逃れ、義祐を擁する御着城主・小寺政職と対立していましたが、早くから東播八郡を支配し独立性が強かった別所氏は守護赤松氏から離れて、独自に畿内勢力との連係を図ってきました。
永禄11年(1568)末には織田信長の援助によって上洛した足利義昭が将軍となりますが、永禄12年(1569)正月に三好三人衆の一党が京都を襲撃した際、当時の三木城主・別所安治は信長の要請に応じて弟の重棟を派遣し、名馬と感状を授かっています。
また、永禄11年(1568)9月頃に赤松政秀が娘を将軍・足利義昭の元へ送ろうとした際、義祐の命を受けた小寺氏によって抑留されるという事件が起きていますが、翌永禄12年(1569)8月に別所安治は摂津の池田氏らと共に信長の命を受けた秀吉に従い、庄山城など義祐方の城を次々と攻略し、小寺氏を降伏させています。
(この一連の戦いの中で起きたのが、黒田官兵衛が勇名を轟かせたという「青山・土器山の戦い」です)
元亀元年(1570)10月には13歳で当主となった長治が重棟とともに信長に謁見、元亀3年(1572)末から4年にかけて足利義昭が信長に反旗を翻して京都を追放されますが、毛利勢力下の備後鞆に亡命していた天正3年(1575)10月にも、別所長治は小寺政職、赤松広秀、浦上宗景といった、播磨に割拠した領主たちと共に信長の宿所を訪れています。
このように播磨の諸勢力の中でも早くから織田政権と良好な関係にあった別所氏が、突如として反旗を翻した原因は何だったのでしょう。
軍記には、評定に参加した別所氏の老臣(別所吉親、あるいは三宅治忠という説もあり)が兵法の長講釈をして秀吉の勘気を蒙ったとか、元々別所氏は信長から直接に中国攻めの先導を依頼されていたものを、大将として派遣されてきたのが成り上がり者の秀吉で、その態度が極めて横柄であったことが別所氏の反感を買ったとか、様々に書かれています。
しかし、ただ感情的なことが理由で周辺の諸城主を糾合して反乱を起こす訳はなく、当時の織田政権が非常に不安定で、特に備後鞆に将軍・足利義昭を擁する毛利氏との戦況が影響したものと考えるのが妥当でしょう。
天正年間の織田と毛利の戦い
天正年間の織田政権は戦線の拡大が限界に来ており、畿内周辺でも離反する城主が相次いでいた不安定な状況でした。
天正2年末から3年頃にかけて、まず浦上氏とともに織田方に属していた宇喜多氏が毛利方に付き、長らく毛利方であった三村氏が宇喜多への反発から離反して毛利に滅ぼされたいわゆる「備中兵乱」を経て、浦上宗景が宇喜多直家によって天神山城を追われて没落を余儀なくされるなど、備前・備中に勢力を拡大し播磨へと進出しようとする宇喜多氏を毛利氏が支援する形で衝突が始まります。
丹波では天正4年1月、赤井直正が篭る黒井城を包囲中の明智光秀の軍勢が、離反した八上城主・波多野秀治らの軍によって急襲され、丹波攻略の中断を余儀なくされるという事態も起きています。
別所長治は波多野秀治の娘を正室に迎えていて同盟関係にあり、隣国である丹波の情勢も別所氏が毛利方につく要因の一つになったことは間違いありません。
また、摂津においても天正4年4月に本願寺が再び挙兵し、7月には本願寺を支援する毛利方の水軍が織田方の水軍を破っています。(第一次木津川口の戦い)
播磨では天正5年12月、秀吉が間隙をついて上月城を奪取し、再興の悲願をかける尼子勝久と山中鹿介ら出雲尼子氏の遺臣たちを尖兵として入城させますが、翌年3月には別所氏ら播磨の諸将が一斉に織田方を離反し、続いて毛利輝元が大軍を率いて播磨へと侵攻を開始しました。
事態を重く見た織田方では5月、当主の織田信忠をはじめ、北畠信雄、織田信包、神戸信孝、細川藤孝、佐久間信盛など諸軍が播磨に出陣しますが、三木城攻略を優先する信長の判断によって上月城の尼子勢は孤立、6月には秀吉も高倉山で大敗して滝川一益、明智光秀、丹羽長秀らの援護のもと書写山へと撤退しました。
毛利氏の大軍に包囲され糧道を絶たれた上月城は為す術もなく降伏し、尼子勝久は自刃、首謀者として危険視されていた山中鹿介は捕らわれて毛利輝元の本陣へ送られる途中、備中阿井の渡で殺害されました。
別所氏に呼応して離反した播磨の諸城は大軍を投入した織田方によって各個撃破され、7月には神吉城、続いて志方城が落とされますが、三木城はまだまだ抵抗を続けており、10月には有岡城主・荒木村重、御着城主・小寺政職が離反するという事態を招き、織田方としても決して予断を許さない状況が続いていました。
しかし、天正6年11月には第二次木津川口の戦いで織田方の水軍が本願寺を支援する毛利方の水軍を破り、翌年6月には八上城が降伏して波多野秀治は処刑、9月には荒木村重が有岡城から脱出して尼崎城、後に花隈城へと移り、10月には宇喜多氏が毛利方を離反するなど、徐々に織田方の優勢が確実となっていきました。
この間、御着城も織田信忠によって落城、小寺政職は毛利氏の元へ亡命しています。
そして天正8年1月、22ヶ月に渡って抵抗を続けた三木城も、城主の別所長治らが切腹、城兵の助命を条件に開城した次第です。
このように、毛利氏と織田氏の狭間で揺れ動いた播磨・備前の諸勢力を巻き込む戦いとなった三木合戦ですが、荒木村重の説得のために有岡城へと赴き虜囚の身となった黒田官兵衛は一命をとりとめ、秀吉の元で活躍し、竹中半兵衛の機転により命を救われた嫡子・長政(松寿丸)とともに、福岡藩52万石の基礎を築くことになります。
(なお、黒田重臣の中には、一族あるいは本家が三木城に入城した栗山四郎右衛門や後藤又兵衛、別所方の端谷城主・衣笠範景の次男という衣笠久右衛門などがいる他、播磨出身者が大勢います)
参考
- 渡邊大門『備前 浦上氏』
三木市の関連史跡(2012年4月訪問)
三木城址に近い雲龍寺のはずれにある、別所長治の首塚と伝わる墓。
正室の照子夫人の墓と並んで建てられています。
別所長治の菩提寺・法界寺
法界寺にある別所公墓所
墓所の近くにはまだ新しい「別所長治公像」や、辞世の句が刻まれた碑が建てられています。
三ツ山大祭と赤松氏
20年に一度、播磨国総社(射楯兵主神社)にて行われる「三ツ山大祭」について。
先日ようやく入手した BanCul 2013冬号(No.86)に、三ツ山大祭と赤松氏の関わりについて書かれていたので、これまで調べたことと合わせてまとめがつつ振り返ってみます。
三ツ山大祭の起源
『射楯兵主神社略記』には三ツ山大祭の元となった一ツ山大祭について、以下のように記されています。
兵主大神の欽明天皇廿五年六月十一日丁卯の日御鎮座になりし紀念といひ一は延暦六年丁卯年坂上将軍の所願に依り国衙小野江に奉遷し射楯大神を合祀して射楯兵主神社と奉稱するに至れる
所謂御鎮座の紀念するものの如し之を一名一ツ山とも云ふは此の祭典には境内に高さ五丈余尺の大造山を一基造りて祭典を行ふに依りて此の名あり
而して其前に舞台を設けて能楽を興行し競馬流鏑馬神子渡一つ物弓鉾指等の諸神事を行ふ
又此の祭典には市内の各町屋上に夫々数寄を凝したる大造物をなして之を奉祝する古来よりの慣例なり
斯る特種の祭典なるを以て往古より総社の一ツ山神事とてその殷盛なる事中国に冠たる有名なる大祭典と云ひ囃せり
そして、三ツ山大祭については
境内に大造山を三基造るに依りて此名あり其他は丁卯祭と大同小異の特種神事にして市中屋上の造り物等同じくその殷盛なること亦前者と異ることなし
としています。
『臨時祭由来』には三ツ山大祭の由来が以下のように記されています。
三ツ山臨時大祭と云ふは二十一年目毎に執行さる最も厳しく賑しき大祭にて約一千年の昔天慶の乱に当り逆賊追討の祈願を為せし時に始まり爾来国家の大事変に際し執行し来りしを播備作の太守赤松政則の時に至り二十一年目に定まりたるなりといふ
延暦6年(787)丁卯(ひのとう)の年に行われたことから「丁卯祭」と呼ばれた一ツ山大祭の臨時祭として、天慶の乱の際に逆賊追討の祈願を行ったことを始まりとして、国家の大事変に際して執行されてきたという話です。
(「赤松政則の時」とありますが、これは誤りのようです)
置山の起源と赤松氏
神戸新聞出版センター『播磨の祭り』には、この三ツ山大祭の置山は、播磨地方の祭で有名な担ぎ屋台の起源とされる神降の座所、ヤマの古態を残したものだとありました。
しかし『惣社記事略』によると、大永元年(1521)6月に行われた一ツ山大祭で車付きの曳山が造られており、『惣社集日記』にはその翌年の三ツ山大祭から御屋形様(赤松政村)の下知によって飾り山の形式を改め、国府寺村、宿村、福中村の有力者が木竹で高さ三間二尺の山を三ヶ所に造り色絹を巻いたのが始まりだと記されているそうです。
祇園祭の山鉾が史料に現れるのは14世紀中頃で、15世紀中頃とされる『月次祭礼図』に描かれた山鉾の姿は四人で担ぐ枠台に笠鉾が乗る曳山の形態とのこと。
三ツ山大祭の置山は、赤松氏によって播磨国一宮・伊和神社の三つの聖山に降臨する神々を迎える三ツ山神事を模した姿に改められたもの、というのが実情でしょうか。
(余談ですが、慶長6年に池田輝政によって姫路城の縄張りが改められた際、惣社が鎮守として城内に取り込まれましたが、国府寺村、宿村、福中村の三ヶ村は新たな町割りによって村が解体された後も三ツ山の山元としての役割を受け継いでいったようで、享保18年に行われた三ツ山大祭でも三ヶ村の名前で特別に大きな桟敷が割り当てられています。)
ただし、この置山の形態が定められたという大永元年(1521)6月は、赤松義村はまだ辛うじて存命ながら隠居状態で、嫡子・政村を擁立した浦上村宗が細川高国の要請を受け、義村が養育していた足利亀王丸(後の義晴)を上洛させた頃です。
その数ヶ月後に義村は暗殺されてますので、社伝の年代が事実であれば「御屋形様の下知」は赤松氏というよりもむしろ浦上村宗の意志が反映されたものと考えた方が良さそうです。
『播磨鑑』より、赤松義村の作と伝わる歌
ひめち成國ぬしの神光りましいつもまうつる里のもろ人
義村を弑逆して下剋上を果たし、細川高国政権との繋がりを深めつつも、再び政村を推戴せざるを得なかった浦上氏にとって、播磨で広く信仰されている伊和大神の神事を取り入れて三ツ山大祭を確立したことは、領国支配を展開する上で重要な意義があったと考えられます。
なお、政村は享禄4年(1531)6月のいわゆる大物崩れで父の仇である浦上村宗を討ちますが、帰国してわずか四ヶ月後には浦上一族が蜂起、英賀の館を追われ明石城へと逃れる羽目に陥ってしまいます。
政村はその後勢力を盛り返して庄山城へと移ったとされていますが、社伝によれば、まだ浦上氏との対立が続いていたと思われる天文2年(1533)9月に再び三ツ山大祭が行われ、政村の下知によって、これまで不定期に行われてきた臨時大祭を以後21年毎に行うよう定めたとあります。
浦上村宗と赤松政村、それぞれの状況で行われた三ツ山大祭に込められた意志を考えると、興味深いです。
なお、その後も浦上氏との対立は続き、天文3年(1534)8月にも福井庄朝日山で大規模な合戦が起きていますが、天文6年(1537)末頃からの尼子氏による播磨侵攻が行われたことで、政村は小寺氏や明石氏にまで背かれ、長く播磨を離れることになりました。
黒田官兵衛と惣社
天正4年(1576)6月から7月に伊勢参宮を行った西園寺宣久の紀行文『伊勢参宮海陸之記』には、宣久が惣社で休息した後、城主である官兵衛に志方までの案内者をつけてもらい、三木で宿泊したことが記されているそうです。
当時の姫路城は小寺氏の本拠・御着城の支城という位置付けですが、国府・惣社と一体のものとして記されている通り、重要な意味を持つ拠点だったようです。
また、永禄10年(1567)の惣社拝殿再興棟札には、官兵衛の父・職隆の名が記されています。
諸仏皆威徳 羅漢皆行満
一切曰皆善 一切宿皆賢 以斯誠實言 願我成吉祥
永禄拾年卯丁玖月十五日吉辰
藤原朝臣小寺美濃守職隆(花押)
この頃の播磨の情勢は小寺政職、別所長治、龍野赤松氏の赤松広秀、いずれもが織田氏に臣従しています。
かつて信長によって「播備作之朱印」を与えられた浦上宗景は、浦上氏の麾下を離れて毛利方についた宇喜多直家によって没落しており、旧領回復のため織田方の援助を願っています。
しかし、天正6年(1578)2月頃に秀吉が毛利攻略に先がけて開いた加古川評定の直後、三木城の別所長治ら播磨の諸将が一斉に織田方を離反したことから、播磨は再び織田方と毛利方の主戦場となります。
天正8年(1580)1月には約2年に渡って抵抗した三木城の別所長治が切腹開城、惣社には同年4月に「藤吉良」の名で公布された禁制が残されていますが、このように混乱した情勢が続き、赤松政村が定めたという三ツ山大祭も長く中断されることになりました。
三ツ山大祭の復活は、姫路城主・木下家定によって式年祭が執行された文禄2年(1593)9月。
それ以後は今日に至るまで(嘉永6年の黒船来航など何度か延期されたことはありましたが)、60年に一度の一ツ山大祭とともに絶えることなく受け継がれています。
次回、2033年の三ツ山大祭は無事に観られるでしょうか。
参考
- 北村泰生 写真 藤木明子 文『播磨の祭り』(神戸新聞総合出版センター)
三日月公園に立つ尼子経久公銅像
出雲尼子氏の本拠地・月山富田城のある島根県安来市広瀬町、飯梨川沿いにある三日月公園には、馬上の尼子経久公銅像が建てられています。
2008年に初めて広瀬に訪れた際、一目見て気に入りました。出来の良い銅像は史跡めぐりのテンションUPに直結するので、とても重要です。
2008年8月訪問時
2012年8月訪問時
銅像は彫刻家・田畑功氏の作品。
1997年の大河ドラマ「毛利元就」に合わせて立てられたものと思われますが、緒形拳さんが演じられた経久のイメージも感じられます。
(実はドラマ自体は観たことがありません…1991年の「太平記」以降、就職やら何やらで長らく大河ドラマから離れていたもので)
作者ご本人の「銅像ブログ」もありました。
Wikipediaによれば、田畑功氏は和歌山県庁前の「徳川吉宗騎馬像」、荒子駅前の「前田利家騎馬像」、それに大井競馬場の「ハイセイコー像」と、人物像だけでなく馬も得意とされている方のようです。
http://www.habiro-art.com/index.php?page=gyarery
こちらには一部価格も掲載されていますが、1/1ハイセイコー像は1000万円でした。
岐阜駅前のキンキラキンの信長像は参考価格3000万円だそうです。わーお
最後にこちらも。
尼子魂よ永遠なれ
沖縄の城跡めぐり(浦添城)と三山時代
めぐり、という程は巡れていませんが、先日の沖縄旅行で浦添城(うらそえグスク)に訪れました。
浦添城と中山王国の流れ(英祖王まで)
13~14世紀にかけて、各地で「按司」と呼ばれる指導者が石垣によって築かれた城塞「グスク」を拠点として抬頭、沖縄本島は北山、中山、南山の三大勢力に統合されていきます。
そのうち後の琉球王国の前身である中山王国の拠点が浦添城で、正史では保元の乱に敗れて琉球へと流れ着いた源為朝と大里按司の妹との間に生まれた尊敦が浦添の按司となって中山を平定、1187年に舜天と名乗って舜天王統の祖となったとされています。
(この辺りはいわゆる日琉同祖論の起源となった為朝来琉伝説が、17世紀に羽地朝秀によって編纂された琉球王国の正史『中山世鑑』に盛り込まれたものと言われています。日本と琉球の関係構築に関わる政治的な問題も背景にあるようで、深入りするのはちょっと難しそうなところですが…)
舜天王統は3代の義本王の時に飢饉によって国が乱れ、1260年に伊祖城を拠点とする英祖が王位を譲り受けて浦添城に入ったとされ、実際にグスクが建築されたのはこの英祖王の頃と言われています。
ここは山の中腹にある「浦添ようどれ」(夕凪の意)と呼ばれる琉球王国初期の王陵へと続く御門で、かつては「暗しん御門(うじょう)」と呼ばれるトンネル状の門だったものが、先の沖縄戦で上部の岩が崩されてしまったそうです。
浦添城は北西方面の海岸と首里の間にある要地のため、城全体が米軍の集中砲撃を受けて石垣のほとんどが破壊され、基礎石を残すのみとなってしまいました。
再建された浦添ようどれ一番庭の門。
向かって左側の東室が、浦添に生まれて第二尚氏王統7代目の王位についた尚寧王の王陵。
右側の西室が、英祖王の王陵です。
王陵を守護する石獅子。元々は左右一対だったものですが、右側の石獅子は沖縄戦で破壊されてしまいました。
1997年から始まったようどれの復元事業は2005年に完了しましたが、グスクの石垣の復元工事は現在も続いているようです。
グスクとようどれを結ぶ階段
ようどれの説明板
城壁を見上げて
一部、古い石積みが残っているようです。
グスク内にいくつかある御嶽(拝所)のひとつ、ディーグガマ。
「浦添王子遺跡」とありましたが、由来は分かりませんでした。
ディーグガマの上には、1952年に建てられたという沖縄戦の慰霊塔「浦和の塔」があり、その真下の洞窟は納骨堂になっています。
以下、説明板より
この慰霊塔は 西暦一九四五年 昭和二十年の沖縄戦で護国の神と殉じた忠霊の冥福を祈り 併せて再び侵すまじき戦争えの道と地上永劫の平和の祈りをこめて 西暦一九五二年 昭和二十七年三月 浦添村民の浄財により建立され 更に 一九六三年三月 昭和三十八年 南方同胞救護會の援助で補修工事がなされた 塔名は津津浦浦の平和の守護神として忠霊の照覧鎮座を願い「浦和の塔」と命名したものである
納骨堂には村内各地で散華した軍人軍属及び民間人五千余柱を安置し 毎年十月に村主催の慰霊祭を行っている
一九六三年三月 浦添村
石垣の美しさに興奮して軽く高揚していた心に、ずしりと重く響きました。
このような個人で建てられたと思われる慰霊碑もありました。
ここは琉球王国の始まりの地として重要な史跡であるとともに、沖縄戦の戦跡でもあるわけで…そういう意味でも、首里城だけではなくこの浦添城にもぜひ訪れてみてください。
中山王国から琉球王国へ(察度王統から第二尚氏王統樹立まで)
5代90年続いた英祖王統の次に政権を奪取したのが、中山国北東で威勢を誇った勝連按司の娘を妻に迎え、積極的な交易により力を蓄えたと伝えられる察度で、前王が死去した翌1350年に察度王統を樹立しました。
察度王は1372年、建国間もない明朝の招きに応じて初めて入貢し、後の琉球王国まで続く大陸との貿易と文化交流の嚆矢となりました。
読谷山宇座出身の泰期は進貢使として琉球で初めて大陸へ渡ったことから、説明板には大交易時代を先導した「商売の神様」として商売繁盛を期して建立した、といったことが書かれていました。
察度王統は2代56年続きましたが、1406年には佐敷城を拠点としていた尚思紹とその子・巴志が浦添に攻め入って武寧王を滅ぼしました。
武寧の世子を称して明国の冊封を受け「琉球国中山王」に封じられた思紹は、拠点を首里城へと移して各地へ侵攻を続け、1416年に北山の今帰仁城を攻略、1421年に思紹が死去して巴志が王位を継承、1429年には南山城を攻略して三山統一を果たしました。
こうして尚巴志によって琉球王国が成立、先代の尚思紹から数えて7代64年が第一尚氏王統とされていますが、その治世も決して盤石ではありませんでした。
王位継承を巡る「志魯・布里の乱」や、有力按司の反乱「護佐丸・阿麻和利の乱」を経て、1469年にはクーデターを起こして王族を追放した前摂政の金丸が「尚円」を名乗り、第二尚氏王朝を樹立します。
(武寧の世子を称した尚思紹もそうですが、明国との冊封関係を円滑に継続するためにこのような措置をとったものと思われます。)
護佐丸と阿麻和利については、昨年に訪れた中城城と勝連城が大きく関係しており、いずれ紹介したいところですが、今回はこのへんで。
参考書籍
座間味栄議『三山とグスク グスクの興亡と三山時代』(むぎ社)
- 作者:座間味 栄議
- 出版社/メーカー: むぎ社
- 発売日: 2012/06
- メディア: 単行本
読谷村の物産館で見かけて、パラパラと内容を見て即買いしました。
南山配下の12城、中山配下の8城、北山配下の5城が紹介され、それぞれ現在の様子と周辺の史跡や御嶽、それに歴史的な背景が解説されている本で、沖縄の城巡りが楽しみになりそうです。
旅先ではよく現地で出版されている歴史関連の本を探すのですが、沖縄は特にその数が多く感じました。
発行元「むぎ社」のWebサイトもありました。
むぎ社は沖縄県の歴史・民俗・自然を中心に、地方出版物を刊行する出版社です。
設楽原古戦場めぐり
設楽原の合戦後、戦死者の後片付けに従事した竹広の村人達によって築かれたという「信玄塚」
こちらの大塚は武田方の兵士が眠っているそうな。
一帯には慰霊碑や供養塔もたくさん建てられていました。
「武田家旧温会創立五十周年 記念事業実行委員会名簿」もあり、萩原、山形、土屋、馬場、甘利、秋山、曽根、横田、両角といった馴染みのある名前が並んでました。(中には穴山信雪さんも…)
原隼人佑昌胤。父の加賀守昌俊ゆずりの地勢を見る才能により陣場奉行として活躍、信玄の時代には山県昌景とともに「両職」を務めたという名臣です。
設楽原では昌景とともに左翼を担当して徳川軍に当たり、最期は乱戦の中で亡くなったとか。
山縣三郎兵衛昌景。兄の飯富虎昌から引き継いだ赤備えで有名、家康が最も恐れたという猛将ですが、信玄の側近として行政文書にも多く関わっています。
設楽原では徳川軍の柵を迂回して連吾川を渡り背後に回ろうと図るも、それを察知した大久保忠世兄弟に防がれ、最期は馬上で銃弾に斃れたと伝えられています。
設楽原歴史資料館で購入した『設楽原戦場考』より
歴戦の勇将山県昌景は、背は低く、みつ口、胸は一枚あばらで、疲れを知らぬ強靭なからだの持主で黒字に白桔梗の旗指物を背に、戦場を駆け巡る姿は、敵味方、両軍の注目の的であった。それ故に、徳川方銃手の格好の標的となった。
昌景は、からだ中蜂の巣のように銃弾を浴びて、遂に両腕の自由を失ってしまったが、采配を口にくわえて指揮を続けたという。が、さすがの猛将山県も、飛び来った弾丸が鞍の前輪を撃ち抜いたため、落馬してしまった。彼の従者、志村又右衛門が走り寄り、主人をかかえ後方に退き、打ち寄せる敵軍を前に、志村は主人の首級を切り落とし、遺体にはくれぐれも供養をお願いする旨の書状と短刀「小烏丸」を添えて残し置き、自らは主人の首級をかかえて立ち去ったという。
戦いが終わり、竹広の里人は、昌景の遺体を懇ろに葬り、その塚の上に松を植えて、「胴切りの松」と名付けたが、今は名前だけで実体はなく、短刀「小烏丸」も長く峰田家に所蔵されていたが、第二次大戦後、軍に接収されたままであるという。
決戦後、このあたりの地名を「山形」と呼び、この塚を「山県様」と敬慕し続け、四季絶えることなく香華が手向けられている。
ここで出会った地元の方と少し話をしたんですが、神戸から来たことを伝えると嬉しそうな表情で「良い所に来たな、きっと良いことがある」と言われたのが印象に残っています。
小幡上総介信貞。上野国峯城の城主で身内の反乱により亡命するも、武田麾下に属して旧領を回復。
先方衆では最大の五百騎の赤備えを率い、特に三方ヶ原と高天神城攻めでは抜群の戦功を立てたといわれています。
ただし『設楽原戦場考』によれば、実は信貞は戦死しておらず、武田家滅亡後は織田信長に、本能寺の変後は北条氏に従い、小田原落城前に家康に降った後、真田信之の客分となったそうで、設楽原で死んだのは小幡又八郎昌定かと推論されています。
ちなみに、足軽大将として有名な小畠山城守虎盛(入道日意)、豊後守昌盛とは別系統で、『甲陽軍鑑』ではむしろ小幡氏にあやかるよう小畠から小幡に改めさせたとされています。
甘利郷左衛門信康。晴信の若年期に板垣信方とともに「両職」を務めた甘利虎泰の子で、父の後を継いで上野侵攻時には国衆と晴信の取次役を務めた昌忠の弟。
信康は鉄砲衆を務めたそうで、その事績は明確ではないものの、設楽原では山県隊の最後の戦闘に加わり、一柵を奪取したところで戦死したと伝わっています。
土屋右衛門尉昌次、正しくは昌継。元の名を金丸平八郎といい、「使番十二人衆」の一人・金丸虎義の次男で、若くして不慮の死を遂げた兄に代って惣領となり、若年ながら信玄側近の奉行として活躍しました。
武将としても、三方ヶ原の合戦では乱戦の中で鳥居信元という大剛と切り結び、兜を割られながらも討ち取る手柄を立てています。
信玄に殉死しようとしたところを高坂弾正に諭されて思い留まったという話もよく知られています。
設楽原では馬場、真田兄弟らとともに右翼を担当、柵を破って突入しようとしたところを織田軍に狙い撃ちされたと伝わっており、『長篠合戦図屏風』にも柵際で落馬して戦死する姿が描かれています。
古文献と時代考証により復元されたという「名和式 鉄砲構え」
連吾川にかかる柳田橋には鉄砲足軽の姿が。
両軍の布陣図。
毎年8月15日の夜に行われる「火おんどり」は、戦死者の魂を弔うための祭だそうです。
赤松五社八幡宮の絵馬に描かれた武将たち
赤松氏の苗字の地とされている、兵庫県赤穂郡上郡町赤松にあります、五社八幡宮。
奉納された絵馬の中に、平安~安土桃山時代にかけての著名な武将が描かれたものが多数ありましたので紹介します。
いくつか突っ込みどころに気付いたものもありますが、あえてそのまま掲載します。
菅原道真(明記されていませんが、おそらく。「武将」ではないですが…)
源三位頼政
上杉安房守入道謙信
小松内府平重盛
名和伯耆守長年
北條左京大夫氏政
伊達黄門藤原政宗
細川勝元入道
九郎判官源義経
右大将源頼朝
鎮西八郎源為朝
小早川筑前守隆景
従二位法印細川幽斎
大内左京大夫義弘
北條左馬権頭時宗
八幡太郎義家のところに「英雄三十六将図」とありますが、人選には元ネタがあったのでしょうか。
奉納されたのは明治の頃のようですが、郷土の英雄である赤松氏からの人選はありません。
ただ、単体ではありませんが「長山遠江守」とともに「赤松弾正」が描かれたものはありました。
赤松弾正とは円心の子で則祐の弟にあたる氏範のことで、兄弟の中で唯一、一貫して南朝方として戦い、播磨清水寺に散った武将です。
宝林寺円心館にある解説テープでも、かつて赤松氏が朝敵の汚名を着せられていたことが語られていましたが、地元においても例外ではなかったのかもしれません。
あと、唯一誰だか分からなかったのが「鈴木飛騨守重幸」なんですが、検索してみたところ、石山軍記に顕如上人の軍師として登場する人物で、いわゆる「雑賀孫市」(のうちの一人?)のことのようです。