k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りを楽しむために学んだことを公開している「学習メモ」です。

設楽原古戦場めぐり

設楽原の合戦後、戦死者の後片付けに従事した竹広の村人達によって築かれたという「信玄塚」

こちらの大塚は武田方の兵士が眠っているそうな。

一帯には慰霊碑や供養塔もたくさん建てられていました。

武田家旧温会創立五十周年 記念事業実行委員会名簿」もあり、萩原、山形、土屋、馬場、甘利、秋山、曽根、横田、両角といった馴染みのある名前が並んでました。(中には穴山信雪さんも…)

原隼人佑昌胤。父の加賀守昌俊ゆずりの地勢を見る才能により陣場奉行として活躍、信玄の時代には山県昌景とともに「両職」を務めたという名臣です。

設楽原では昌景とともに左翼を担当して徳川軍に当たり、最期は乱戦の中で亡くなったとか。

山縣三郎兵衛昌景。兄の飯富虎昌から引き継いだ赤備えで有名、家康が最も恐れたという猛将ですが、信玄の側近として行政文書にも多く関わっています。

設楽原では徳川軍の柵を迂回して連吾川を渡り背後に回ろうと図るも、それを察知した大久保忠世兄弟に防がれ、最期は馬上で銃弾に斃れたと伝えられています。

設楽原歴史資料館で購入した『設楽原戦場考』より

歴戦の勇将山県昌景は、背は低く、みつ口、胸は一枚あばらで、疲れを知らぬ強靭なからだの持主で黒字に白桔梗の旗指物を背に、戦場を駆け巡る姿は、敵味方、両軍の注目の的であった。それ故に、徳川方銃手の格好の標的となった。

昌景は、からだ中蜂の巣のように銃弾を浴びて、遂に両腕の自由を失ってしまったが、采配を口にくわえて指揮を続けたという。が、さすがの猛将山県も、飛び来った弾丸が鞍の前輪を撃ち抜いたため、落馬してしまった。彼の従者、志村又右衛門が走り寄り、主人をかかえ後方に退き、打ち寄せる敵軍を前に、志村は主人の首級を切り落とし、遺体にはくれぐれも供養をお願いする旨の書状と短刀「小烏丸」を添えて残し置き、自らは主人の首級をかかえて立ち去ったという。

戦いが終わり、竹広の里人は、昌景の遺体を懇ろに葬り、その塚の上に松を植えて、「胴切りの松」と名付けたが、今は名前だけで実体はなく、短刀「小烏丸」も長く峰田家に所蔵されていたが、第二次大戦後、軍に接収されたままであるという。

決戦後、このあたりの地名を「山形」と呼び、この塚を「山県様」と敬慕し続け、四季絶えることなく香華が手向けられている。

ここで出会った地元の方と少し話をしたんですが、神戸から来たことを伝えると嬉しそうな表情で「良い所に来たな、きっと良いことがある」と言われたのが印象に残っています。

小幡上総介信貞。上野国峯城の城主で身内の反乱により亡命するも、武田麾下に属して旧領を回復。

先方衆では最大の五百騎の赤備えを率い、特に三方ヶ原と高天神城攻めでは抜群の戦功を立てたといわれています。

ただし『設楽原戦場考』によれば、実は信貞は戦死しておらず、武田家滅亡後は織田信長に、本能寺の変後は北条氏に従い、小田原落城前に家康に降った後、真田信之の客分となったそうで、設楽原で死んだのは小幡又八郎昌定かと推論されています。

ちなみに、足軽大将として有名な小畠山城守虎盛(入道日意)、豊後守昌盛とは別系統で、『甲陽軍鑑』ではむしろ小幡氏にあやかるよう小畠から小幡に改めさせたとされています。

甘利郷左衛門信康。晴信の若年期に板垣信方とともに「両職」を務めた甘利虎泰の子で、父の後を継いで上野侵攻時には国衆と晴信の取次役を務めた昌忠の弟。

信康は鉄砲衆を務めたそうで、その事績は明確ではないものの、設楽原では山県隊の最後の戦闘に加わり、一柵を奪取したところで戦死したと伝わっています。

土屋右衛門尉昌次、正しくは昌継。元の名を金丸平八郎といい、「使番十二人衆」の一人・金丸虎義の次男で、若くして不慮の死を遂げた兄に代って惣領となり、若年ながら信玄側近の奉行として活躍しました。

武将としても、三方ヶ原の合戦では乱戦の中で鳥居信元という大剛と切り結び、兜を割られながらも討ち取る手柄を立てています。

信玄に殉死しようとしたところを高坂弾正に諭されて思い留まったという話もよく知られています。

設楽原では馬場、真田兄弟らとともに右翼を担当、柵を破って突入しようとしたところを織田軍に狙い撃ちされたと伝わっており、『長篠合戦図屏風』にも柵際で落馬して戦死する姿が描かれています。

古文献と時代考証により復元されたという「名和式 鉄砲構え」

連吾川にかかる柳田橋には鉄砲足軽の姿が。

両軍の布陣図。

毎年8月15日の夜に行われる「火おんどり」は、戦死者の魂を弔うための祭だそうです。