k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

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三好長慶の畿内制覇と本願寺「石山合戦」への道

引き続き本願寺畿内政権の関係の変遷を追いますが、今回は畿内第一の勢力として台頭した三好長慶との関係を軸に、本願寺が社会的地位を向上させていった背景を見ていきます。

また「天文の錯乱」の後、武家の勢力争いから距離をおいていた本願寺が、なぜ「石山合戦」を起こし織田信長との対決を選択したのかを考えます。

摂津に勢力基盤を築き、畿内第一の勢力に成長した三好長慶

天文末期から永禄年間は、阿波細川氏の被官から台頭し、やがて主家の細川晴元と将軍・足利義晴を破って京都を制圧、畿内の覇者となった三好長慶の時代でした。

三好長慶は「天文の錯乱」で本願寺や旧高国党の細川晴国方と戦った後、正式に細川晴元の麾下に入り、天文8年(1539)より越水城主として摂津に勢力基盤を築いていましたが、天文12年(1543)以降は高国の跡目を称して河内で挙兵した細川氏綱方との戦いに明け暮れました。

幕府では、将軍義晴が六角定頼の後見のもと近臣を中心とする幕政運営を行っていたのに対して、管領細川晴元は阿波守護・細川持隆や三好宗家からは積極的な支持を得られず、頼りの側近・木沢長政は背いて自滅するなど、その権力基盤は脆く不安定でした。

天文15年(1546)には摂津国人の多くが氏綱方へと寝返り、細川国慶によって京都を追われた晴元は丹波に落ち延びますが、この時近江へと逃れた将軍義晴は晴元を見捨て、六角定頼を管領代として嫡子義藤(後の義輝)に将軍位を譲るような状況に陥りました。

追い詰められた晴元方でしたが、三好長慶は弟の実休が率いる阿波勢および晴元方の畠山勢を糾合して反撃、京都へと侵攻したため、三好勢に対抗して勝軍地蔵山城に籠った義晴・義輝父子も、再び近江へと逃れることになりました。

(なお、天文16年には阿波平島で細川持隆の保護を受けていたかつての「堺公方足利義維が再び堺へと渡海し、上洛への援助を証如に依頼しており、義維は晴元方の新たな将軍候補となるべく上洛の機会を窺っていたものと思われます。)

天文16年(1547)7月、三好長慶を主力とする晴元方は「舎利寺の合戦」に大勝し、翌年には再び晴元と結んだ六角定頼の仲介によって氏綱方と和睦しますが、その後長慶は正室の波多野氏を離縁し、氏綱方の重鎮であった河内高屋城主・遊佐長教の娘を迎え入れるなど、晴元を見限って自立の動きを見せ始めます。

そして天文17年(1548)、これまでも何度か対立してきた三好政長父子の成敗を細川晴元に訴え、これが受け入れられないと見るや、その討伐を名目として挙兵、畿内国人の多くを味方につけ、天文18年(1549)6月「江口の戦い」でついに父元長の仇でもあった政長を敗死させ、晴元および将軍義晴、義輝父子を再び近江坂本へと追いやり、細川氏綱を奉じて上洛を果たしました。

(この時、義輝の義父に当たる関白・近衛稙家が将軍と共に近江へと逃れた一方、前関白・九条稙通三好長慶の弟・十河一存に養女を嫁がせています。その一存の嫡子は早世した長慶の嫡子・義興に代わって三好宗家の家督を継ぎ、後に将軍義輝を殺害、「三好義継」と名乗ることになります。)

その後も細川氏綱三好長慶方と将軍足利義輝管領細川晴元・六角定頼方の争いは続きましたが、天文21年(1552)に定頼の後を継いだ六角義賢は将軍義輝と長慶の和睦を仲介、晴元が嫡子聡明丸を長慶に預けて出家し、若狭へと落ち延びることとなった一方、氏綱は京兆家家督を正式に認められ、長慶は義輝の御供衆に任じられたことで正式に将軍の直臣となりました。

長慶に擁立されることを潔しとしない義輝は、密かに細川晴元と連携しつつ、反長慶派の近臣たちと共に長慶の排除を図りますが、朝廷からもその実力を認められた長慶は、天文22年(1553)3月、義輝・晴元・氏綱に並ぶ従四位下の位に上りました。

天文22年(1553)7月には、将軍義輝は晴元率いる丹波勢を京都に迎え入れて長慶との対決姿勢を明らかにしましたが、河内・和泉・大和・摂津・紀伊の援軍を加え二万五千の大軍で上洛した長慶勢を前に戦わずして逃亡、更に長慶は将軍に従う者の知行を没収すると宣言したため、わずか40人余で朽木へと退く凋落ぶりを晒す羽目になり、山科言継はこの様を「あさましき体たらくなり」「御不運の至りなり」と評しています。

そして三好長慶は越水城からより京都に近い芥川山城へと本拠地を移し、将軍と管領が共に不在という状況の中、政所執事・伊勢貞孝や足利義維から引き継いだ奉行人・斎藤基速の協力を得て、氏綱の意を奉じる形式での共同統治から、やがて独力の裁許による支配体制を構築するに至ったのです。

三好氏と関係を深め、社会的地位を向上させた本願寺

本願寺にとって三好長慶は「天文の錯乱」で幕府との和睦を仲介して貰った縁があり、また阿波や淡路に勢力基盤を持ちつつ摂津下郡という交通の要衝を中心に支配を拡大した三好氏との友好関係は、本願寺が西国に教線を広げる上でも欠かせないものでした。

本願寺三好長慶細川氏綱方に与して管領晴元と敵対に至ると、元々「天文の錯乱」では氏綱と同じ旧高国党の国人と共闘関係にあったことも手伝ってか、長慶を支持しました。しかし、天文21年(1552)に六角義賢の仲介で長慶と将軍義輝の和睦が成立した後、弘治3年(1557)には法主顕如細川晴元正室の妹を妻としています。

この女性が東本願寺の宗主となる教如西本願寺の宗主となる准如の母で、後に本願寺東西分立の中心人物となる如春尼です。

如春尼は公卿・三条公頼の娘で、すでに長女は細川晴元、次女は甲斐守護・武田晴信に嫁いでおり、末の妹が顕如に嫁ぐことになったわけです。顕如が証如の跡を継いで宗主となったのは天文23年(1554)8月のことですが、その歳はわずか12歳。まだお互いに子供でしたが、おそらく証如の生前、本願寺細川晴元の和睦がなった天文21年(1552)を契機に婚約したものでしょう。

義父の晴元は出家することになりましたが、この三条家を通じた甲斐武田氏との関係は、後に武田信玄が信長との同盟関係を破棄し、本願寺が挙兵に至る「石山合戦」まで繋がっていきます。

また、英賀本徳寺では、証如の補佐役として活躍した実円が弘治元年(1555)に死去しましたが、孫の証専(教什)が引き続き本徳寺と三河土呂本宗寺を兼帯、一門衆の筆頭格として、顕如の妹である有子(後の顕妙尼)を妻に迎えています。

(顕妙尼は後の秀吉による播磨攻めの際に本徳寺住職を代行し、教如派としてその影響力を発揮することになります。)

弘治4年(1558)2月、正親町天皇践祚に伴い永禄元年へと改元されましたが、本来天皇と将軍の合意によって行われるはずの改元が自身に了承なく行われたことで大いに面目を失った将軍義輝は激怒し、細川晴元三好政長の子・政勝ら丹波勢と呼応して京都奪還を図ります。長慶はこれを撃退したものの、将軍不在の状況が続くことに限界を感じたためか、再び六角氏の仲介を受けて和睦が成立、将軍義輝を京都に迎え入れました。

これによって、ひとまず将軍義輝と三好長慶による幕府の再興が始まることとなり、翌年には織田信長斎藤義龍長尾景虎が相次いで上洛して義輝に謁見、各々が官途や領国支配の公認を獲得しています。

この頃の本願寺にとって重要な出来事は、永禄2年(1559)12月、天皇践祚に際しての貢献により門跡寺院に列せられたことで、その翌年には三河土呂本宗寺、長島願証寺、河内顕証寺など蓮如以来の有力寺院も勅許院家に列せられました。

『考信録』はその様子をこのように伝えています。

永禄二年禁裡より万里小路前内府秀房卿を勅使として御門跡になし給ひぬ。下間一党をも坊官となし給ふ由にて各剃髪し法眼法橋に任叙せられける。それに付て本宗寺(本徳寺)顕証寺願證寺院家の望み天聴を経給ひて御門跡に願ひ入れられ勅許の上永禄第三冬の比より巣絹紫袈裟にて出仕あり。又其より後教行寺、順興寺、慈敬寺、勝興寺、常楽寺も院家に定りけり

天文18年(1549)にはすでに証如が僧正の地位を獲得していましたが、本願寺はこの三好長慶の時代、ついに名実共に延暦寺興福寺などの顕密仏教に並ぶ社会的地位を獲得するに至ったのです。それは三好家という新興の武家が天下の執権たる地位に上ったことと無縁ではないでしょう。

その半年前に当たる永禄2年(1559)6月、蓮如の連枝である一家衆寺院の一つ、摂津富田教行寺の住職・実誓(兼詮)の12歳になる娘が阿波三好家の家老・篠原長房の元へと嫁いでおり、本願寺は再び三好氏と誼を深めていました。

(長房の父・長政は三好元長の代から畿内で活躍しており、天文15年には証如から贈り物も受け取っています。篠原氏は阿波三好氏の重臣として、早くから本願寺に名が知られていたのでしょう。長房自身も永禄元年の将軍との戦いにおいて、嵯峨清涼寺に対して寄宿免許を認める直状形式の書状を出しており、すでに三好一族に次ぐ高い地位にあったことが窺えます。)

蓮如の末子で証如の側近となり、後に枚方元町の順興寺で住持を務めた実従(兼智)の日記『私心記』では、その時のことを「富田息女、阿波篠原所ヘヨメ入也。悉皆是ヨリサセラレ候。福島マデ御送候。屋クラヘ行見物候」と記録されています。

(元亀元年には三好三人衆が淀川河口の中洲に当たるこの野田・福島の砦を改修し、8千の兵で立て篭もって信長・幕府軍と戦うことになりますが、この頃からすでに福島は櫓を備えた城郭であったことが窺えます。)

三好氏は永禄2年から3年にかけて河内・大和に畠山氏を討ちこれを平定、丹波から若狭にかけてまでも勢力を伸ばし、これまでで最大の版図を築き上げると共に、様々な栄典を授与され家格を上昇させました。

永禄2年12月には長慶の嫡子孫次郎が将軍義輝直筆で「義」の偏諱を授与され「義長」(後に義興)と名を改めており、永禄3年1月には長慶が修理大夫、義興が筑前守に任官。また正親町天皇即位式にあたっては百貫文を納めると共に警護の任に就き、長慶・義興父子は天皇に謁見して天盃を与えられ、御剣を下賜されました。永禄3年2月には義興と松永久秀も御供衆に加えられ、久秀は正式に弾正少弼に任じられています。

本願寺門跡寺院に列せられたのはまさにこのような時期であり、三好氏の栄達が武家社会の家格秩序に変革を促したことと表裏一体に感じるのです。

既存の都市や宗教との共存共栄を進めた三好政権と、本願寺寺内町ネットワーク

三好長慶は天文22年(1553)、摂津西宮の越水城からより京都に近い芥川山城へと本拠地を移してここを畿内の政庁と定め、永禄期に大和・河内両国へと進出した後は、嫡子の義興に三好家の家督と芥川山城を譲って河内飯盛山城に居城を移しました。

三好政権の都市政策の特徴は、これらの政治拠点に城下町を築かず、堺、尼崎、兵庫など戦国期を通じて流通の拠点あるいは法華宗真宗本願寺寺内町として各地で発展を遂げていた都市に対し、新たに町割りを行い代官を置いて支配するのではなく、有力商人や寺院の特権を認めて、経済発展をその手に委ねていたことです。

(なお、連歌を好んだ長慶は家臣をも連歌会に参加させ、豪商や茶人、寺僧や神官、公家などと交わりを深めたことでも知られています。そんな長慶を「文弱」と評する人もいますが、当時の連歌はただの趣味や道楽ではありません。武家として京都を治める上で欠かせない朝廷工作、各地の都市で流通経済を担う豪商、あるいは都市共同体の精神的支柱を担う寺社との円滑な関係を築く上で、茶の湯連歌といった教養が「天下人」には必須だったのです。)

また、三好政権は宗教政策においても寛容で、長慶自身は堺南洲寺で多くの豪商を教化した臨済宗大徳寺派の大林宗套に深く帰依すると共に、宣教師たちが天敵とした法華宗の大檀越でもありましたが、キリスト教の布教にも理解を示し、河内飯盛山城の城下一帯は畿内におけるキリシタンの一大拠点となりました。

このような三好政権の方針は、本願寺にとっても相性の良いものでした。

当時の大坂本願寺は「天文の錯乱」を通じた武家との戦いを通じて、周囲を土塁と濠で囲んで惣構を巡らせ、摂津守護からの税免除や安全保障の特権を得ると共に、自衛のための軍事力をも保持していました。

そして本山のみならず、特に摂津・河内・和泉の各地では「大坂並」と呼ばれる都市特権(守護不入、地子免許、諸役免許)を認められた寺内町のネットワークが築かれており、その頂点に立つ本願寺の経済力は、永禄4年に宣教師ガスパル・ヴィレラからイエズス会への報告書において「諸人の彼(本願寺宗主)に与うる金銀ははなはだ多く、日本の富の大部分は、この坊主の所有なり」と記される程の莫大なものでした。

このような本願寺の特色について、大谷昭仁氏は「英賀御堂と亀山本徳寺」でこう評されています。

各地で勢力を顕在化させた門徒集団はしばしば一揆を構成し支配権力と衝突してきた。加賀のように一国を領国化した地域もある。 そのため、中世の本願寺戦国大名と同列に見なされることが多いが、それとは性格を異にしている。

一つは本願寺の組織は複数の領国に点在した非課税特権都市を交易要所に保持し、領国制のような一元的な租税制度は持っておらず、商業交易における付加価値的利潤による経済を基礎にしていた。

二つは、本願寺一門を構成する門徒は自参した流通・商工業者が主な構成員で、地域ごとの独自性と自立性を保持していた。

三つには、知行制度や国内法がなく、命令系統を明確にした専門的軍事部門を常備せず、武力行動は専ら門徒の臨時的兵力に頼っていた。

四つには、その財源の確保は門徒の自発的懇念に任されており、これによる資本の集中と運用は仏法領の特権的維持を可能にし、構成門徒の経済的行為の利便性に還元されていた。

ここには近代資本主義経済の萌芽すら見られる。

門徒に支えられた経済力と軍事力を持つ本願寺は、幕府や三好氏との良好な関係構築に努めつつも、「天文の錯乱」以来、各地の大名からの門徒化や一揆蜂起の要請は頑なに拒否しており、武家とは付かず離れず平和共存の道を選んできたわけです。

そのような本願寺がなぜ、織田信長に対しては三好三人衆と結託して挙兵するに至ったのでしょう。すでに三好方の将軍義栄は病に斃れ、信長はまだ将軍義昭と手切れしていなかったにも関わらずです。

顕如は永禄11年の信長からの矢銭要求には応じたものの、大坂を天下の要地と見抜いた信長がついにその地の明け渡しを要求するに及び、これに従うことは即ち本願寺が獲得していた都市特権を手放すことに他ならず、そうなると各地の寺内町も遠からず同じ運命を辿ることは間違いない、そう判断したのではないでしょうか。

信長が決して教団としての本願寺の解体を望んだわけではないことは、その後も三度にわたって和睦と敵対を繰り返しつつ、最終的にその存続を認めたことからも分かります。しかし信長が目指す武家政権の将来は、これまで本願寺が築いてきた寺内町ネットワークを許容するものではないと看破したからこそ、顕如はついに沈黙を破って挙兵したのです。

本願寺寺内町・摂津富田を歩く

摂津富田の教行寺は蓮如上人の8男・蓮芸が入寺、御連枝として北摂の布教拠点となり、富田はその寺内町として発展しました。

教行寺の境内には「蓮如上人御愛樹築山紅梅」の碑があります。

教行寺が院家に列せられた永禄2年、蓮芸(兼琇)の長男で二世住職の実誓(兼詮)は、娘を阿波三好氏の家老・篠原長房の元へと嫁がせました。

長房の妻は法名を寿誓といい、天正元年に長房が上桜城で嫡男長重と共に悲運の討ち死にを遂げた際、敵方に加わっていた雑賀衆に保護され、4人の子と共に紀州へと逃れましたが、後に豊臣家の女官として仕え、更に子の1人篠原又右衛門は秀頼の招きに応じて大坂夏の陣で討ち死にしたと伝えられています。

教行寺は東西分立に当たって東本願寺の所属となりますが、豊臣の時代にも、讃岐守護代・安富氏に嫁いでいた長房の娘が、子息を東本願寺に寄宿させた話が伝わっており、寿誓の存在は大きかったものと思われます。

教行寺と合わせて興味深いのが、近くにある本照寺の存在です。

「応永34年に存如が創建した光照寺を前身としている」とあり、江戸時代に西本願寺13世・良如上人の弟が入寺し「富田御坊」の印を与えたとのこと。

本照寺の敷地は教行寺と比べてかなり広く、本堂も大きいです。

本照寺が前身とする光照寺は今はもうありませんが、その跡地には「蓮如上人御腰掛石」の伝承が残されています。

そして本照寺の入口近くにある「蓮如上人御旧跡」の碑には、「富田御坊」教行寺とあります。

東西分立の結果、江戸時代には教行寺と本照寺の双方が「富田御坊」の名を競い合う状況となったのでしょうか。

町場跡の北東部では水路沿いに石組みが見られ、わずかに土塁の名残りが感じられます。

普門寺は南北朝期に開創された禅宗の寺院で、富田庄が将軍家の御料所であったことに由来します。

長きに渡って反三好方として活動し続けた細川晴元は、永禄4年5月に長慶から富田庄を与えられ、出家してこの普門寺に入りました。ここで余生を過ごした晴元は永禄6年3月に死去、境内には晴元の墓と伝わる宝篋印塔があるそうです。

更に後、永禄9年6月から7月にかけて、阿波公方・足利義冬の嫡子義栄を奉じた篠原長房は、2万5千の四国勢を率いて摂津を平定し、12月にこの普門寺に入った義栄は次期将軍候補に授与される従五位下左馬頭に任ぜられ、翌年2月にはついに十四代将軍に就任しました。

阿波公方の顛末と義冬・義栄父子の話はまた、別の機会に書きたいと思います。

この石畳は、黄檗萬福寺開創までの6年間住職を務めた隠元禅師が手掛けたものだそうです。

こちらは普門寺に隣接しており、鎮守社とも伝えられている三輪神社。

富田は伊丹や灘が勢力を広げる前、江戸時代中頃までは摂津随一の酒造の町だったそうですが、三輪神社が勧請されたのもそのためでしょうか。

普門寺の裏手にあった地蔵。ちょっと分かりづらいですが、普門寺城と呼ばれたように土塁で囲まれていた名残が見えます。

このような化粧地蔵は京都市内で良く見られるほか、丹波、但馬、丹後、若狭といった京都周辺にも分布しています。

ここ富田で見られるのも、普門寺を通じて京都との繋がりがあったためでしょうか。

参考書籍、参考資料

近畿の名城を歩く 大阪・兵庫・和歌山編

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
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戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

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  • 神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社

宗教で読む戦国時代 (講談社選書メチエ)

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  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2010/02/11
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一向一揆―封建社会の形成と真宗の関係 (1955年) (日本歴史新書)

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