k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りを楽しむために学んだことを公開している「学習メモ」です。

伏見稲荷大社と稲荷山の歴史

伏見稲荷大社は全国に3万2千社を数えるという、稲荷神社の総本宮

稲荷大社の創建…古代の豪族・秦氏の伝承

大社創建を伝える最古の文献『山背国風土記逸文の伊奈利社条には、始皇帝の末裔を称して古代山城国に勢力を誇った秦氏にまつわるエピソードが記されているそうです。

伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具秦公、稲梁を積みて富み裕ひき。乃ち、餅を用て的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峰に居り

伊侶巨秦公は餅を的として矢を射たところ、餅は白鳥となって飛び去り山の峰に留まった。

「伊侶具秦公」(いろぐはたのきみ)は「伊侶具」(名) + 「秦」(氏) + 「公」(姓)と解され、同じ逸文の鳥部里条には「秦公伊侶巨」と記されていること、また室町時代吉田兼倶の覚書のある『神名帳頭註』逸文には「伊侶臣」と誤写されたと見られることから、現在は「伊侶巨秦公」(いろこはたのきみ)であったと解釈されています。

そして、この後に続くのは「伊奈利山」「子生」「伊禰奈利生」と書物によってまちまちだそうで、かつては江戸時代の国学者伴信友による表記「伊禰奈利生」から稲が生えたと解釈されてきましたが、最も古い写本には「生子」とあるため、最近の説では「子を生んでいた」と解釈されているようです。

餅が白鳥になる「穂落とし伝説」は、優れた灌漑の技術を持ち山城盆地を開拓した秦一族が、稲作の発展に伴って穀霊信仰を取り込んだものとも言われています。

山城国葛野郡には秦氏が創祀し酒の神として信仰されている松尾大社愛宕郡には賀茂氏と共に奉斎した賀茂別雷神社上賀茂神社)と賀茂御祖神社下鴨神社)、そして紀伊郡にあるのが現在の伏見稲荷大社です。

秦氏の祖神を祀る境内末社の「長者社」。

現在の社殿は江戸時代前期の建立ですが、古くは明応8年(1499)の記録『明応遷宮記録』に境内社として記されているとのこと。

長者社の隣にあるのは荷田社で、同じく稲荷大社の旧社家である荷田氏の祖神が祀られています。

稲荷大神…五柱の神々と稲荷山

伏見稲荷大社主祭神穀物神として知られる宇迦之御魂大神で、四柱の神々を相殿に「五社相殿」の形で祀られています。

以下、向かって左から

これら五柱の神々の総称が「稲荷大神」とされていますが、『山背国風土記』には具体的な神名は記されておらず、平安の初期に「稲荷神三前」あるいは『延喜式神名帳』には「稲荷神社三座」と記されているそうです。

すなわち、稲荷神は古く一柱の神のように伝えられていたものが、平安時代には下社、中社、上社に三座の神々が祀られ、やがて新たに二座を加えて現在の形になったと見られています。

また、三座の神々は古墳時代にまで遡る稲荷山の神奈備信仰(山を神の依代とする信仰)とも結びついており、今でも一ノ峰(上之社神蹟=末廣大神)、二ノ峰(中之社神蹟=青木大神)、三ノ峰(下之社神蹟=白菊大神)の三ヶ峯への信仰が色濃く残っていますが、それぞれの祭神については時代の移り変わりによって諸説ありました。

江戸中期に秦氏出身の毛利公治によって撰述された由緒記『水台記』には、下社=伊弉冉尊、中社=倉稲魂命、上社=素戔嗚尊

また、江戸末期に国学者の前田夏蔭が著した『稲荷神社考』において、室町時代の『神名帳頭注』では中社を倉稲魂命、他の二柱を素戔嗚尊と大市姫神とし、『二十二社註式』では下社=大宮能売神、中社=宇迦之御魂神、上社=猿田彦神とされているとの説を挙げつつ、下社=大宮能売神、中社=宇迦之御魂神、上社=須佐男命とし、主祭神を宇迦之御魂神とする説が正しいとされています。

現在の大社の見解では、下社=宇迦之御魂大神、中社=佐田彦大神、上社=大宮能売大神として、下社摂社の田中大神、中社摂社の四大神については由緒不明であるものの、「元は稲荷神と何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着的傾向が濃厚」としています。

真言密教との習合…稲荷山と東寺を結びつけた荷田氏

一方で稲荷信仰は平安時代真言密教と習合し、東寺に伝わる『稲荷大明神流記』には稲束を携えて婦女と童子を従える老翁姿の稲荷神と弘法大師の出会いが縁起として描かれました。

稲荷大明神縁起』には荷田氏の祖神伝承があり、稲荷山に古くから住んでいた「竜頭太」という龍面の神が弘法大師に山を譲り渡す話とともに、稲を荷っていたことに由来して荷田氏を名乗ったとしています。

荷田氏は秦氏の移住以前から深草に土着した豪族であったと考えられており、天長3年(826)空海による東寺五重塔建立の際に稲荷山が材木供給地となったこと、空海の母の実家で東寺執行職を務めた阿刀氏とも姻戚関係にあったことから、歴史的に見ても稲荷社が東寺を通じて時の中央政権と関わりを深めた背景には、荷田氏の存在があったようです。

各地の稲荷神社の御札には、今でも白狐に跨り如意宝珠と稲穂を持った老人姿の稲荷神が描かれたものが見られますが、中世における大師信仰の広がりとともに各地に伝わったものでしょう。

また、歴史上の荷田氏の祖で稲荷社に「僕」として仕えたという荷大夫の没後、安元2年(1176)に「稲荷山の命婦社の南に社を造り霊魂を祀る」との記録があり、『明応遷宮記録』(1499)にも「命婦ノ南ニハ荷大夫明神在之云々」と記されていて、現在も稲荷山には間ノ峰の荷田社神蹟(伊勢大神)の信仰が伝えられています。

荷田社と石造りの珍しい「奴袮鳥居」

明治の神仏分離政策を受け、稲荷大社は信仰の形を変えることになりましたが、稲荷山には現在も密教との関わりが色濃く残っています。

こちらは弘法ヶ瀧周辺の様子。

これらの石碑は稲荷神を信仰する方が私的な守護神としてそれぞれ名前を付けて奉納したもので、「お塚」と呼ばれています。

(稲荷山のお塚信仰について記事を書きました。私のおいなりさん…稲荷山のお塚信仰

戦乱の時代…荷田氏を冒称して稲荷社の実権を握った羽倉氏

荷田氏は鎌倉末期から元弘、建武の動乱期に一旦歴史から姿を消しますが、南北朝期に稲荷山社領の代官を務める小早川氏に仕えた羽倉氏が荷田氏を冒称(無関係な他家の姓氏を名乗ること)し、稲荷社の祠官に加わって実権を握ります。

稲荷社の神主家は代々、秦氏の一族である大西、松本、森の三家とその分家が務めましたが、羽倉氏がそこに加わるために荷田氏の名を必要としたものと見られています。

長禄元年(1457)には徳政一揆を起こした暴徒鎮圧のため幕府軍が稲荷社に乱入、羽倉延幹が所司代の元に抑留される事件が起きていますが、この頃から関係を持っていたのでしょうか、応仁の乱において東軍に与した羽倉延幹は、かつて侍所所司代・多賀高忠の元で目付を務めていた「骨皮道賢」という男と共に稲荷山に籠城し、西軍と戦っています。

足軽の頭領であった骨皮道賢は、洛中洛外の境域に寄宿したという「都鄙悪党」を代表する存在であり、この時代の稲荷山は、戦乱に活路を見出そうとする彼らの住処でもあったのでしょう。

稲荷社はまた戦国時代の宗教勢力に相応しく、隣接する東福寺との相論でたびたび抗争を繰り返しており、稲荷社神人が祭の最中に神輿に矢を射掛けられたため東福寺衆徒と乱闘したことや、東福寺によって往来を止められたことが記録に残っています。

応仁の乱の戦火によって稲荷山の社殿は焼失してしまいますが(骨皮道賢は女装して逃れようとしたところを討ち取られたと伝わっています)、難を逃れた羽倉氏はその後も中央政権に働きかけ、明応元年(1492)には稲荷社本殿の再建工事が始まって、明応8年(1499)に復興され遷宮となりました。

(なお、社殿の再建には多くの勧進僧が活躍しましたが、彼等が居住したという本願所は江戸時代には「愛染寺」と称し、密教色の濃い荼枳尼天の信仰を背景に独自の教線を伸ばすとともに、京都奉行を通じて幕府に接近していきます。)

羽倉氏は東羽倉、西羽倉の両家とそれぞれの分家へと発展しますが、東羽倉家出身の国学者荷田春満(かだのあずままろ)は現在も境内に「東丸(あずままろ)神社」として祀られ、学問の神様として崇敬されています。

史蹟「荷田春満旧宅」は春満の生家の一部で、大正11年に国の史蹟に指定されたもの。

春満は赤穂浪士の吉良邸討ち入りに際して、浪士に吉良邸の図面を渡したとか、前日の動静を伝えた人物ともされています。

旧宅には春満を祭神とする東丸神社が隣接しています。

古典の中の稲荷山

稲荷山は標高233mという小さな山ですが、お山を巡拝する人々の様子は平安時代の古典や今様(当世風歌謡)にも唄われており、かの清少納言も稲荷山に参詣しています。

当時の参道には石段も築かれておらず小さい山ながら険しい山道だったようで、『枕草子』第一五八段には、中の御社辺りの参道の険しさに苦しんだ清少納言が、坂の途中で涙を流して休んでいたところ、もう三度詣でて今日は七度詣でるつもりだと語る女性の姿を見て羨ましく思ったと記されています。

また『今昔物語』には、2月の初午の日に仲間と稲荷詣でに訪れた舎人の重方という男が、中の御社あたりで美しく着飾った女性に「妻は猿そっくりで物売り同然の女だから、離縁しようと思っている」などと口説いてしつこく言い寄ったところ、実はその女性は自分の妻で、髪を掴まれ頬を引っ叩かれたという話(近衛舎人共稲荷詣重方値女語)が記されています。

大中臣能宣の家集にも2月の初午の稲荷詣でのこととして、梅の花の下で腰を下ろして休んでいる女性のところへ近寄って歌を詠みかける男の姿が記されており、男女の出会いの場という意味もあったようです。

これら古典に登場する「中の御社」は当時の記録によると、現在の御膳谷神蹟にあたると言われています。

御膳谷は稲荷大社によって明治期に定められた「七神蹟」(一ノ峰、二ノ峰、間ノ峰、三ノ峰、御劔社、御膳谷、荒神峰)にも数えられ、古くから御饗殿、御竈殿があったと伝えられている由緒のある場所で、現在も各峰の神々に御日供が捧げられています。

宵宮祭の御膳谷神蹟。

神蹟の由来から、周辺には食品関係の会社によるお塚が多く建てられ、信仰されています。

長者社神蹟(御剱社)から一ノ峰に向かう長い石段。清少納言が苦しんだのは、この坂という説もあります。

200段の石段は、「大正の広重」吉田初三郎による『伏見稲荷全境内名所図絵』でも一際目立って描かれており、この左手の尾根はかつて「僧正峰」と呼ばれ修験者の修行場としても使われていたそうです。

この辺りは鳥居に囲まれた参道では最も山深いところで、夏の夕暮れ時にはヒグラシの鳴き声が響き渡り、幻想的な雰囲気に包まれます。

稲荷山のお山巡りについては、また別の機会にじっくり書きたいと思います。

境内の石灯籠に見る旧社家の名残り

境内には現在も旧社家の名残りがいくつか見られます。

奉納された石灯籠には秦氏の一族大西氏や、荷田氏を冒称した羽倉氏と思われる名が記されていました。

なおWikipediaによると、現存する旧社家は大西家のみのようです。

大西家といえば幕末の頃、新選組に狙われていた長州藩桂小五郎(後の木戸孝允)が、東大西家の土蔵に匿われたという話が伝わっています。

祈祷所 社司大西下総守

祈祷所 大西播磨

取次 羽倉摂津守

宿坊 愛染寺

かつて明応遷宮で活躍した勧進僧の宿所を前身とする愛染寺は、江戸時代には京都奉行の庇護を受け、経済的にも稲荷社の神主家よりも裕福だったため、「目の上の瘤」というべき存在となっていたようです。

愛染寺は将軍の休憩所としても利用され、文久3年(1863)から慶応3年(1867)にかけて、伏見街道を行き来した徳川家茂徳川慶喜が計10回、休息に立ち寄ったことが記録されています。

明治維新によって廃寺とされたのは、神仏分離令だけではなく幕府との繋がりが強かったことも影響したのでしょう。

なお、愛染寺の本尊とも言われる、白狐に跨った荼枳尼天に聖天と弁財天が合体した三面十二臂の「三天和合尊像」は、東寺が所蔵しているそうです。(愛染寺の僧侶たちは東寺へと逃れたのでしょうか…)

参考

  • 中村陽 監修『イチから知りたい日本の神さま2 稲荷大神 お稲荷さんの起源と信仰のすべて』(戎光祥出版

稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)

稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 戎光祥出版
  • 発売日: 2009/12/01
  • メディア: 単行本

足軽の誕生 室町時代の光と影 (朝日選書)

足軽の誕生 室町時代の光と影 (朝日選書)

この本がとても充実していて、稲荷大社のみならず深草から東福寺にかけての史跡にまつわる情報がまとめられています。

吉田初三郎『伏見稲荷全境内名所図絵』などとともに、稲荷山の中にいくつかある茶屋で売られています。

武田信虎の戦いはこれからだ!(武田・今川・北条の戦国黎明期その2)

武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期) の続きです。

甲斐国内を平定して躑躅ヶ崎館に守護所を移し、駿河今川氏の侵攻という最大の危機を切り抜けた武田信虎ですが、今度は北条氏を相手に関東へと出兵します。

扇谷上杉氏を支援して対北条氏包囲網に参戦

信虎の関東出兵は何の利益もない無謀な外征だったとして、後の追放に繋がる悪評の一例に挙げられることがありますが、実際のところはどうだったのでしょうか。

山内上杉憲房と和睦した扇谷上杉朝興の要請に応じた信虎は、関東制覇を進める北条氏綱と交戦しており、対北条氏包囲網の一員として活動していることが伺えます。

大永4年(1524)7月に上杉朝興が岩付城を北条氏綱から奪回し、10月には上州衆を動員した上杉憲房も加わって毛呂要害を攻撃、毛呂開城を条件に北条氏綱が上杉方と和睦したことから、同年11月には信虎も北条氏と一旦和睦しました。

氏綱は上杉方との和睦にあたって、同盟者である越後守護代長尾為景への書状の中で「対信虎無意趣儀候上、先任申候、但彼国之事、例式表裏申方ニ候間、始末之儀如何」とし、信虎に対して意趣はないが甲斐のことは信用出来ないと記しています。

事実、信虎はその後も北条氏との交戦と和睦を繰り返すのですが、なぜそれほどまでに関東への進出にこだわったのでしょうか。

武田氏は鎌倉期、南北朝期とも幾度か追討を受け領国支配は安定していたわけではないものの、代々続いた甲斐源氏嫡流と言うべき家柄であり、信虎も実力で国内を統一したとはいえ、その正当性は守護としての権威によるものでした。

これに対して北条氏は、政所執事を務めた伊勢氏の出身とはいえ、今川氏の家臣から成り上がったに過ぎず、関東においては拠るべき権威を内に持たない新興勢力でした。

戦乱に乗じて拡大を続ける北条氏は周辺諸国にとって脅威であり、北条氏を抑えて関東管領を中心とした体制の再構築を目指す動きに一定の役割を果たし、関東への影響力を高めることが、武田家の発展に繋がると考えたのではないでしょうか。

高国政権で義稙に代わり将軍となった義晴が信虎に上洛を促す

畿内では永正15年(1518)8月に大内義興が帰国して以来、将軍足利義稙管領細川高国の仲は次第に険悪となり、永正17年(1520)2月に高国が澄元方に敗れて近江へと逃亡した際、義稙は同行を拒否し、澄元方の有力被官である三好之長を京都に迎え入れるとともに、澄元を細川京兆家家督に付けたことがありました。

高国方は同年5月の等持寺合戦に勝利して再び政権を奪還しますが、高国と義稙の溝は埋まらず、大永元年(1521)3月には義稙が淡路へと出奔するに至り、高国は足利義澄の遺児・亀王丸を義稙に代わる新たな将軍として擁立しました。

大永6年(1526)6月、その将軍義晴が武田信虎に上洛を促すべく、諏訪上社大祝、木曽氏に協力を求めており、信虎は幕府からも有力な守護大名の一人に認められていたことが伺えます。

大永6年は、7月に細川高国が有力被官の香西元盛を謀殺したことをきっかけとして、元盛義兄の波多野稙通実弟柳本賢治丹波勢が謀叛を起こし、将軍義晴の弟で阿波細川氏の元で育てられた義維と、細川澄元の遺児・六郎(後の晴元)を擁立した阿波勢がこれに乗じて摂津へ上陸を開始したという、畿内の情勢が大きく動いた年でした。

この時期、義維方によって京都を追われていた将軍義晴は、近江から畿内周辺の守護大名や有力国人に対して上洛支援を呼びかけています。

このような動きを受けてか甲斐国内でも「御屋形様在京めさるる」との風聞が流れましたが、北条氏との和睦が進まなかったため、将軍の要請に応じることはできませんでした。

諏訪上社大祝家の諏訪氏との関係も芳しくなく、大永5年(1525)4月、諏訪頼満の攻撃によって没落していた諏訪下社大祝家の金刺昌春が甲斐へ逃れて来ており、信虎はこれをきっかけに諏訪への侵攻を進めますが、やがて重臣達の反乱を招くことになります。

今川氏と和睦し諏訪氏と戦う、飯富虎昌の謀叛

大永6年(1526)6月、以前から中風を患っていた今川氏親が死去し、14歳の氏輝が実母・寿桂尼の後見のもと家督を継いだことから、今川氏と武田氏は翌年には一旦和睦、その後もしばらく直接の衝突は起きていません。

信虎は今川氏との和睦を機に諏訪侵攻を開始したものの、享禄元年(1528)8月の境川合戦で諏訪頼満・頼隆父子に大敗を喫しました。

この敗戦を受けてか、享禄2年(1529)には武田・北条両氏領国の境目に当たる都留郡の領主、小山田越中守信有が北条・今川方へ通じたようで、信虎によって路次封鎖されています。

信虎は今川氏の仲介を受けて都留郡への封鎖を解除するとともに棟別賦課を実施、享禄3年(1530)1月には扇谷上杉朝興の江戸侵攻に呼応して小山田信有を派遣しようとしたものの、同年4月に八坪坂で北条軍に遭遇した小山田軍は大敗を喫しました。

そして、翌享禄4年(1531)1月には譜代重臣の飯富虎昌が今井氏、栗原氏とともに反旗を翻し、諏訪頼満がこれに同調して韮崎へ侵攻したため、大規模な内乱へと発展しました。

飯富虎昌の謀叛の原因には、享禄3年(1530)に信虎が関東管領上杉憲房の後室(扇谷上杉朝興の叔母)を側室に迎えたことへの不満があったとのことで、家中には関東の争乱に参戦する信虎の方針への反発が少なからずあったようです。

(なお、飯富虎昌は赤備えの猛将としても名高い山県三郎兵衛昌景の兄ですが、『甲陽軍鑑』では信玄に意見を用いられなかったことに不満を抱いたとか、信玄の嫡男義信に謀叛を唆したとか、あまり良い評価をされておらず、義信を死に追いやった信玄の責任が転嫁されているようにも感じられます。)

しかし、享禄4年(1531)3月、信虎は韮崎郊外の河原辺の合戦で諏訪氏甲斐国人衆の連合軍を破って反乱軍を壊滅させ、その後12月の諏訪頼満との戦いにも勝利し、天文元年(1532)9月には今井信元が篭る獅子吼城を降しました。

再び国内の反乱を制圧した信虎は天文2年(1533)、扇谷上杉朝興の娘を嫡男・太郎(後の信玄)の正室に迎えており、関東進出への意欲を失っていなかったようです。

(ちなみに太郎はまだ13歳で元服前でしたが、懐胎した上杉夫人は翌年11月に難産のため亡くなっています。夫人の年齢は伝わっていませんが、気の毒な話です…。)

今川・北条連合との戦いに苦戦し、諏訪氏と和睦

天文3年(1534)7月、駿河遠江・伊豆三ヶ国の国衆一万余が甲斐へと侵攻して一戦交えており、この頃には今川氏との和睦は破綻していたようです。

その翌年の天文4年(1535)7月、信虎は報復のため今川氏輝の領国駿河へと侵攻し、8月には駿河国境の万沢口で今川軍と交戦します。

しかし、北条氏綱がその隙を突いて甲斐国都留郡へと侵入、小山田信有と信虎の弟・勝沼信友が北条軍を迎え撃ったものの、信友が討ち死にする大敗を喫してしまいました。

北条氏綱は早々に郡内から撤退、同年9月には扇谷上杉朝興が相模へ侵攻しており、武田・上杉方と今川・北条方の双方が互いの隙を突く陽動作戦を展開していたようです。

こうして、大永4年(1524)から天文4年(1535)にかけて、信虎は山内・扇谷両上杉氏と同盟関係を結んで今川・北条連合に対抗しましたが、諏訪侵攻の失敗から重臣や国衆の謀叛を招いてしまい、新たに領地を得られるどころか、何度か今川・北条軍の甲斐への侵攻を許してしまいました。

信虎はこの苦境を打開すべく、天文4年(1535)9月に国境の境川で諏訪頼満と和睦、以後は諏訪氏と協調関係を結び、後の天文9年(1540)には娘の禰々を頼満の嫡孫・頼重に嫁がせることになります。

今川氏の跡目争い「花倉の乱」を通じて甲駿同盟が成立

天文5年(1536)は武田氏にとって後々まで影響を及ぼす方針転換の年になります。というのも、今川氏の当主・氏輝が急死したことで、その跡目を巡って家臣を二つに分けた内乱「花倉の乱」が勃発したのです。

氏輝に嫡子はおらず二人の弟が共に僧籍に入っており、氏親正室寿桂尼を母とする栴岳承芳を擁立した主流派に対して、重臣の福島氏はこれに反対し、側室の福島氏を母とする玄広恵探を擁立しました。

しかし、還俗して将軍義晴から偏諱を賜り義元と名乗った承芳は、実母寿桂尼や後に軍師として名を馳せる太原雪斎の支持を受けるとともに、北条氏からも支援を得て、同年6月には花倉城に玄広恵探を討ち滅ぼして内乱を平定しました。

信虎は、かつて福島氏率いる大軍によって追い詰められたこともあってか、この乱に際して義元を支持しました。

またこれ以前、信虎嫡男の太郎は天文5年(1536)正月に16歳で元服、将軍義晴の偏諱を授かって「晴信」と名乗るとともに従五位下を拝領しましたが、正室の上杉夫人を亡くしていたことから、今川義元の斡旋によって三条公頼の次女を新たに正室として迎えることになりました。

(晴信の正室となった三条夫人の姉は管領細川晴元正室で、妹は後に本願寺顕如上人の正室となります。)

(なお、武田氏が義晴から「晴」の字を賜ったのに対して、今川氏は「義」の字を賜っており、幕府から高い家格を認められていたことが伺えます。)

そして、翌天文6年(1537)2月には信虎の息女が今川義元正室に迎えられたことで、今川氏と武田氏の間に強固な同盟関係が成立したのです。

なお、この頃の畿内の動きは複雑で、享禄4年(1531)6月4日「大物崩れ」の大敗によって細川高国政権は崩壊し、代わって上洛した細川晴元管領となりましたが、やがて晴元方の内部対立によって阿波勢の有力者であった三好元長三好長慶の父)が討ち死にし、堺で機会を伺っていた足利義維も将軍に就くことなく阿波へと逃れ、結局は六角定頼の斡旋で義晴が再び京都へ戻っています。

細川高国が擁立する将軍を義稙から義晴に変えたこと、更にその義晴が高国政権の崩壊とともに晴元方に移ったことで、幕府と畿内周辺の諸勢力の関係は複雑な捻じれが生じてます。今川義元武田信虎との同盟は今川氏が義維方から義晴方へと鞍替えしたことを示すとの説もありますが、義維は義稙の系譜を継ぐ形になったとはいえ御内書の発給数は義晴と比べて少なく、義晴に対抗できる程の存在と認められていたとは思えません。)

信濃佐久郡・小県郡への侵攻と関東進出の挫折

一方で、何の連絡もなく今川氏が武田氏と同盟を結んだことに激怒した北条氏はすぐさま駿河へと侵攻し、富士川以東を占拠しました。(河東一乱)

信虎は今川氏を支援するため出兵しましたが、今川氏は家督相続後の混乱から間もない中、領内にも井伊氏ら敵対勢力を抱えている状況で、領土を奪還するには至りませんでした。

北条氏としても、関東の上杉氏のみならず武田氏と今川氏をも敵に回すのは避けたかったようで、両者とは一旦停戦し、信虎も北条氏と和睦することになります。

奇しくも同年4月には、信虎が関東進出に際して同盟関係を結んだ扇谷上杉朝興が死去しており、武田氏の十数年に渡る外征は何ら利益をもたらさないまま、信虎は関東進出を断念して信濃へと矛先を転じることになりました。

そして、天文9年(1540)に諏訪氏と同盟を結んだ信虎は、更に村上義清とも同盟を結び、同年から天文10年にかけて佐久郡に大井氏を、小県郡海野棟綱を攻略し、ようやく甲斐国外での勢力拡大に成功しました。

(なお、海野氏は信濃の名族滋野一族の嫡流で、その係累だった真田幸綱(いわゆる真田弾正幸隆、真田昌幸の父)も本領を追われて上野に亡命し、関東管領上杉憲政の元で雌伏の時を過ごすことになります。)

こうして、ようやく信濃に新たな領土を得て帰陣した信虎でしたが、天文10年(1541)6月14日、今川義元を訪問するために駿河へと出発したところ、突如として嫡男晴信によって甲斐を追放されることになります。

参考

武田信虎のすべて

武田信虎のすべて

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2007/01
  • メディア: 単行本

武田信玄合戦録 (角川選書)

武田信玄合戦録 (角川選書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

諏訪氏の関連史跡

以下、2010年8月に諏訪氏の本拠地、上原城とその周辺を訪れた際の写真です。

諏訪氏居館跡。

諏訪頼満は天文8年に死去し、晴信の妹・禰々を正室とする諏訪頼重が跡を継いでいましたが、晴信は天文10年に信虎を追放した翌年、諏訪氏庶流の高遠頼継を味方につけるとともに、同盟関係であったはずの諏訪頼重上原城に攻めて降伏させ、甲府の東光寺に幽閉した後に切腹を命じます。

晴信は更にその後、惣領の座を狙って上原城を占拠した高遠頼継に対し、頼重の遺児・寅王丸を擁立して諏訪大社および頼重旧臣を味方につけて安国寺の戦いに勝利し、高遠城や福与城を降伏させて諏訪郡全域を支配下に置きました。

諏訪郡代に就任した宿老の板垣信方はこの居館を中心として町割を行い、以後武田氏滅亡までの四十年間、諏訪地方最大の城下町として栄えたそうで、今も居館跡には「板垣平」の字名が残っています。

上原城跡は金毘羅山の山頂にあります。

三の郭跡に建つ金比羅神社は、文化2年(1805)に頼岳寺の鎮守神として讃岐の金毘羅大権現を勧請したものだそうです。

山頂からの眺望は、上原城下町をはじめ諏訪盆地一帯を一望できる素晴らしいものだったそうです。

実際、この日ここから見た景色は、この旅で一番印象に残っています。

追記

この記事の続きを書きました。

『地志 播磨鑑』と御着城落城の伝説

大河ドラマ軍師官兵衛』、次回は有岡城から救出された官兵衛が小寺政職と顔を合わせる展開となるようです。

史実においても荒木村重と示し合わせて毛利方に付いたと見られる小寺政職ですが、ドラマでは村重すらただ信長に反抗して孤立した挙句に逃げ去ったかのような描かれ方に終わりましたし、当然ながら政職の戦いぶりなど触れられそうにもありません。

ドラマでは描かれない歴史の一幕として、江戸時代の中頃に播磨の郷土史家・平野庸脩が編纂したという『地志 播磨鑑』に記されている、御着城の落城にまつわる伝説を紹介します。

『御着落城之事』

寄手は勇み進めども 此城北より西南に天川と云川あり

四方に堀二重三重にして要害堅く見へければ 攻落すべき様なし

御着方の精兵城中より見澄して弓鉄砲を射かけ打かけしてければ

窓の雀を射る如く あだ矢は一つも無かりけり

寄手の大勢手負處を城方の諸侍 川を渡して戦うべし 今ぞ勝利を得る所と申ければ

城兵ども尤然るべしとて さっと一同に打渡り 火花を散らして相戦ふ

寄手は川を渡されて気勢怯衰し逃る所を 城兵追詰々々逐回し 面も振らずなぎ立たり

寄手の兵 今日を限りの軍ならずと 秀吉馬に鞭打て馳せ去らるれば

右往左往に敗走し 辰巳の谷へ引退く 其時より此谷を引入れ谷とば 名付たり

中にも原小五郎は名誉の射手にて 羽柴の瓢箪印に当る矢を秀吉取らせ見賜ふに

原小五郎と姓名を書付たる矢 数多あり

寄手の人々 其弓勢を誉にけり

然れども秀吉の大勢此城を落とさで置べきかと

前日の恥をすすがんとて 新手を入替々々 大筒石火矢を打掛攻立させける程に

寄手は多勢城兵無勢にて 今は防ぎがたく見へければ

城の大将小寺政職 城を開きて 飾西郡英賀城へ退きしによりて

大将を始め諸士皆々退散し 天正六年七月に終に落城したりけり

一時は秀吉勢を蹴散らしたという小寺勢の奮戦ぶりが描かれていますが、中でも原小五郎なる弓の名人が秀吉の馬印に自分の名を書いた矢を多数命中させたという話が面白いです。

なお、この伝承を求めて『播磨鑑』を読んだきっかけは『戦え!官兵衛くん。』のこの話でした。

実際のところは、天正6年10月に秀吉から政職に宛てて、毛利方へ離反した別所氏の知行地を与えると伝えられており、まだ天正6年7月時点では小寺氏の離反すら表沙汰になっていなかったようで、落城時期について明らかな誤りが見られます。

内容的にもあくまで地元に伝わった逸話として楽しむ程度のものかもしれませんが、このような話が掲載された『播磨鑑』とはどんな書物なのでしょうか。

播磨鑑について

『播磨鑑』は播磨国の史跡名勝や人物にまつわる情報を収集したもので、多岐に渡る内容から小寺氏や黒田氏の系譜について掻い摘んで読んだだけでも、現在の通説と異なる記述が多く記載されており、興味深い書物です。

もちろん、信憑性については玉石混淆なので一次史料と照らし合わせる必要はありますが、相互に重複や矛盾する内容もそのまま掲載しつつ、不確かな情報や著者自身の推測についてはそう分かるように書いており、誠実な姿勢で記述されていると感じます。

播磨には何の縁もない貝原益軒福岡藩の命で編纂し、偽書として有名な『江源武鑑』を下敷きにした記述やあからさまな虚飾が見られる『黒田家譜』などよりは、史料として参考になる情報が多く含まれていると思います。

播磨の伝承における官兵衛と小寺職隆

例えば『姫路御城主御代々始記』という項目では、現在の通説で官兵衛の実父とされている小寺職隆について、このように記述しています。

(読みづらいのでカタカナをひらがなに変えています。)

小寺美濃守職隆

始は御着の城に居し永禄十二年の頃姫路に移る

黒田の系図には黒田下野守重隆の子とし 小寺の系図には小寺加賀守則職の長子と有

然ども此下野守姫路に移ると云こと播磨の古記に不見

佐用軍記に小寺姫路に於て飾東飾西の両郡を領すと云々是不審なり

飾西郡に赤松則房と云大身あり 飾東郡御着に小寺藤兵衛政職と云大身あり

殊に則房は播磨の旗頭たるべし 但し飾東郡飾西郡の内に知行有と云ふことか

此職隆は小寺の家老たり 小寺の名字を賜はる

其頃御着の城主小寺藤兵衛政職は両播の豪傑にて国中に威を振ひしが美濃守職隆と交り深かりし故に名字をば小寺と改め剃髪して入道宗圓と号す

小寺官兵衛尤志を秀吉公によす 官兵衛は美濃守の婿たり 故に本姓黒田を捨て小寺を名乗る

此時に美濃守も秀吉公に内通有けると云々

これを素直に読むと、職隆が黒田重隆の子なのか小寺則職の子なのかは分からないけども、御着城主の小寺政職より小寺の名字を賜って入道し宗圓と号したこと、官兵衛は職隆の実子ではなく黒田家から迎えられた養子であり、そのために小寺を名乗ったというわけです。

なお、黒田氏播磨多可郡黒田庄出身説の根拠として近年話題になった『荘厳寺本 黒田家略系図』にも似たような内容が記載されていますが、歴史家の渡邊大門先生は系図が書かれた時期から考えて『播磨鑑』の内容を手がかりとして創作を加えられたものではないかと推測しています。

また、職隆の初見史料である芥五郎右衛門に宛てた文書(黒田職隆算用状)の端裏書からは、永禄元年当時に職隆が黒田姓を称したことが覗えるので、小寺氏の出身というのも誤りと思われます。

ただし、播磨国総社(射楯兵主神社)所蔵の宝物に、天正12年8月に水野與八郎、鯰江相模とともに「小寺宗圓」と連名で記された禁制が残っており、官兵衛が黒田に復姓したとされる天正10年以降も、国府山城に隠居していたと思われる職隆が小寺を名乗っていたことが分かります。

(これはどちらかというと、まず官兵衛が黒田に復姓した時期の方を疑うべきでしょうか。)

職隆が官兵衛とともに「秀吉公に内通」したと表現されていることも興味深いのですが、『信長公記』には天正3年10月に小寺政職が信長に謁見、黒田家文書の信長から荒木村重への書状には天正5年5月に小寺政職が織田方として英賀を攻撃したことが分かっています。

毛利方である政職の意に反して職隆と官兵衛が秀吉に内通したのが実情とは思えませんが、『御着落城之事』に描かれた政職の印象や、その後も政職は英賀城で毛利方として戦ったと見られることから、編纂当時の播磨ではそのように捉えられていた可能性はあるでしょう。

参考

  • 平野庸脩『地志 播磨鑑』(昭和44年10月 歴史図書社覆刻版)
  • 渡邊大門『黒田官兵衛 作られた軍師像』(講談社

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

現在の御着城

御着城の跡は城址公園として整備されています。

お城風の建物は、姫路市役所東出張所です。

大河ドラマに合わせて建てられたと見られる「黒田官兵衛 顕彰碑」もあります。

かつての本丸跡には小寺一族を祀る「小寺大明神」が建っています。

姫路市教育委員会の説明によると、宝暦5年(1755)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に「今此所ニ小寺殿社アリ」と記されているそうで、古くから地元の方によって祀られてきたもののようです。

小寺大明神境内にある石碑には、政職の子が天川久兵衛と名乗り代々御着に家系を継いだとする内容が書かれています。

ここにも「その頃羽柴秀吉に攻められ政職一族の精兵は秀吉軍勢を一時辰巳の谷に退陣させ奮戦したが衆寡敵せず遂に天正六年七月落城した」とありますが、播磨鑑の内容を参考にされたものか、あるいは天川家にそのような話が伝えられているのでしょうか。

武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期)

はじめに:武田信虎の後世の評価への疑問

武田信虎といえば、強引な拡大政策で民衆の支持を失ったとして、板垣信方甘利虎泰ら譜代重臣たちに擁立された実の息子・晴信(後の信玄)によって領国甲斐を追放されたという、力ずくの交代劇で知られています。

武田家滅亡後に多くの遺臣を召抱えるとともに金山開発の技術をも取り込んだ徳川幕府にとって、若き家康を打ち負かした信玄の神格化は歓迎すべきことだったのでしょう、甲州流軍学の隆盛を牽引した軍学書『甲陽軍鑑』では、実父を追放したという信玄の負い目を隠すためか信虎の暴虐ぶりが強調され、後世の軍記物などにも多大な影響を及ぼしました。

残虐性を示す逸話として「妊婦の腹裂き」が付加されたことなどは分かりやすい一例ですが、信虎の生涯について調べてみると、そのような悪行は同時代の史料には残されていないようです。

また、度重なる戦争に民衆が辟易していたとされますが、追放に至るまではほとんどが国内統一のための必然的な戦争で、追放時の状況にしても、今川氏だけではなく諏訪氏や村上氏といった信濃国衆とも同盟を結んでおり、むしろその後を継いだ晴信の方が領土拡大の戦争に駆り立てられているように見えます。

若くして家督を継ぎながら外敵の介入にも屈せず甲斐統一を果たし、守護大名として武田家をまとめ上げた功績は、信玄に優るとも劣らないもので、そんな彼がなぜ追放されるに至ったのかという疑問から、その経歴を追ってみました。

甲斐守護・武田氏の内乱と駿河守護・今川氏、伊勢(北条)氏の関係

信虎が生まれたのは明応3年(1494)ですが、その頃の武田家は一族同士による内戦の真っ最中でした。

信虎の祖父・武田信昌はわずか9歳で家督を継ぎ、やがて守護代として抬頭した跡部氏を滅ぼし、19歳という若さで甲斐守護としての実権を回復した英傑でしたが、嫡男の信縄に家督を譲って隠居しておきながらも実権を譲らず、次男の信恵を溺愛するあまり家督を信恵に譲ろうとしたため、信縄は延徳4年(1492)に父に背いて反乱を起こし、骨肉の争いは甲斐の国人達を二分する内戦へと発展したのです。

一方、隣国の駿河では、文明8年(1476)に遠江へ侵攻した駿河守護・今川義忠が討ち死にしたことにより、義忠の嫡子・竜王丸と義忠の弟・小鹿範満の間で後継者争いが勃発、長享元年(1487)頃には甥の竜王丸を支援するため伊勢新九郎盛時(後の早雲庵宗瑞)が下向、同年11月には小鹿範満が討伐されて竜王丸(氏親)が今川家当主となっています。

そして明応2年(1493)、畿内では細川政元日野富子伊勢貞宗らが将軍足利義材を追放、香厳院清晃(堀越公方足利政知の子、足利義高、後の義澄)を新将軍に据えた「明応の政変」が起き、新将軍方に属していた盛時は堀越公方足利政知家督継承で不安定な状況にあった伊豆へと乱入し、足利茶々丸を追放しました。

内戦の最中にあった甲斐は明応元年(1492)9月以降、幾度となく今川氏の侵入を受けてきましたが、足利茶々丸が伊豆奪回を図って甲斐武田氏を頼ったことから、明応7年(1498)に盛時改め伊勢宗瑞は再び甲斐へ侵攻し、茶々丸を追討しています。

なお、かつて通説では伊勢盛時は「伊勢新九郎長氏」とされ、応仁年間に伊勢へと下って足利義視に仕えた後、義兄今川義忠を頼って駿河に下向、義忠死後の内訌に介入してきた関東管領・扇谷上杉定正の家宰太田道灌と談判してこれを調停し、竜王丸から与えられた興国寺城を足がかりとして伊豆に討ち入り、今川家からの独立を果たした下剋上の代表とされてきました。

しかし現在は、盛時が文明15年(1483)10月から長享元年(1487)4月にかけて将軍足利義尚の申次衆として在京していたことが分かっており、足利茶々丸討伐についても明応の政変に連動した動きであり、新将軍・足利義高の生母と同母弟の潤童子を殺害した茶々丸に対する報復という目的があったと説明されています。

このように、内乱が続いた甲斐では、隣国駿河畿内における政変の余波を受けることで今川氏との敵対関係が生じるとともに、山内・扇谷の両上杉氏を相手に抗争を繰り広げ、やがて関東の一大勢力へと成長する伊勢(北条)氏の動向にも影響を受けることになります。

14歳で守護を継いだ信直(信虎)の甲斐統一

信虎の父・信縄は一族の多くを敵に回しただけでなく、今川氏の介入も受けて劣勢にありましたが、明応3年(1493)3月の合戦で信恵を破って優位に立ち、明応7年(1498)には父の信昌とも和解を果たしたことで、ようやく甲斐国内の戦乱も落ち着いてきました。

しかしそれも束の間、長く実権を握り続けた信昌が永正2年(1505)9月に死去、更に元々病弱だった信縄も永正4年(1507)2月に急死してしまい、甲斐を二分する内乱が再燃します。

この時、甲斐守護として父・信縄の後を継いだのが14歳の五郎信直、後の武田信虎でした。

かつて兄信縄と争った叔父の油川信恵は、これを好機と見て、甲斐東部の都留郡内に勢力を持つ小山田弥太郎(信恵の舅)らと手を組み反旗を翻します。

しかし、信直は永正5年(1508)10月の坊ヶ峰合戦で信恵を討ち果たして武田宗家を統一し、永正7年(1510)4月には戦死した小山田弥太郎の子・越中守信有に自身の妹を嫁がせ、都留郡を平定しました。

(武田家滅亡の危機に際して勝頼を裏切ったことで悪評の高い小山田左兵衛尉信茂は、越中守信有の孫にあたります。)

なお、小山田氏とともに信直に反旗を翻して敗れ、伊豆韮山の伊勢宗瑞の元へ逃れた工藤氏の子が、後に武田家の副将格として名を馳せた内藤修理亮昌秀と推定されています。

また『甲陽軍鑑』には、下総千葉氏の一族である原友胤・虎胤父子が、永正10年(1513)頃に甲斐へと逃れて信直に仕えたことが記されており、相模を制圧した宗瑞が上総の真里谷武田氏と下総千葉氏の争いに介入、永正14年(1517)に原氏が没落したことが背景にあるようです。

伊勢宗瑞とその主である駿河今川氏親は甲斐の内乱にしばしば介入しており、永正12年(1515)10月には、西郡の強豪・大井信達が今川氏の支援を受けて挙兵しています。

信直は大井信達との戦いに苦戦を強いられますが、永正14年(1517)に正月に小山田軍が吉田城を攻略したことで、大井方の国人達が続々と帰参したため、孤立した今川軍は降伏、次いで大井信達も娘を信直の正室に差し出すことで講和が成立しました。

(この時に信直が娶った娘が、後の信玄とその弟・信繁、信廉の生母となる大井夫人です。)

大井氏の反乱を鎮圧した信直は永正16年(1519)、守護所を石和から躑躅ヶ崎へと移して大規模な居館を建て、ここを甲斐の府中と定め「甲府」と名付けました。

城下町建設に当たり、国人衆の屋敷を建てて強制的に移住させることで権力の集中を図った信直に対して、再び栗原氏、今井氏、大井氏が反抗したものの、永正17年(1520)6月にこれを鎮圧し、その後、躑躅ヶ崎館の北に防衛のための詰城である丸山城(積翠寺要害山城)を建設します。

こうして長きに渡った内戦を制した信直は、大永元年(1521)4月には従五位下左京太夫陸奥守に任ぜられて名を信虎と改め、名実ともに甲斐の国主となりました。

伊勢宗瑞と協力して西へ勢力を延ばした今川氏親

武田氏が内乱に明け暮れた明応から文亀年間、駿河守護・今川氏親は叔父の伊勢宗瑞と共に、亡き父義忠の悲願でもあった遠江へ侵攻し、その大半を平定して東三河まで進出しています。

明応の政変においては義澄方として足利茶々丸を追討した今川氏でしたが、文亀元年(1501)には管領細川政元からの支援要請に応じた信濃守護・小笠原氏と遠江守護・斯波氏の連合軍と戦って勝利しており、この頃は前将軍派に属して幕府(義澄方)と敵対していたようです。

また、今川氏は扇谷上杉方として関東にまで出兵し、永正元年(1504)9月には宗瑞が武蔵立河原合戦で関東管領上杉顕定の軍と戦っています。

(なお、かつては宗瑞の関東進出=「下剋上」と捉えられていましたが、実際には今川氏を主体とする軍事行動を担っていたもので、独立した動きを見せるのは永正6年(1509)8月の扇谷上杉氏への敵対以後と考えられています。)

一方、畿内では永正4年(1507)に細川政元が暗殺され(永正の錯乱)、細川高国と細川澄元の両派に分かれた争乱が続いていましたが、永正5年(1508)4月には高国の要請を受けた周防守護・大内義興が、かつて明応の政変で京都を追われて諸国を流浪していた前将軍・足利義尹(義材改め)を擁立し、大軍を率いて上洛しました。

そして永正5年(1508)7月、今川氏親は将軍に復帰した義稙(義尹改め)により、斯波氏に代わる遠江守護に任じられました。

(なお、この頃に氏親は中御門家の娘を正室に迎えていますが、この夫人が今川義元の母で、氏親亡き後の今川家を支え続ける寿桂尼です。)

今川氏はその後も遠江奪回を目指す斯波氏と、これに呼応して度々反旗を翻した大河内貞綱と戦いました。

永正12年(1515)から翌13年にかけて、今川氏は武田信虎に叛逆した大井信達を支援していますが、その最中にも大河内貞綱は尾張守護・斯波義達や信濃の国人衆と連携して今川氏に背いており、大河内氏は信虎と協力関係にあったのかもしれません。

そして斯波氏を破った氏親は、末子の氏豊に斯波義達の娘を娶せるとともに、今川家庶流の那古野氏を継がせ、清須城の監視役として那古野城に入れました。

こうして、かつて越前、遠江尾張の三ヶ国守護を務めた名門の斯波氏も、応仁・文明の乱を通じて越前を朝倉氏に、そして遠江を今川氏に奪われて凋落し、以後は尾張守護代織田氏の傀儡として辛うじて命脈を保つに至ります。

余談になりますが、尾張の争乱の中で海上交通の要衝である津島湊を支配して勢力を拡大し、やがて那古野城を今川氏から奪取したのが勝幡城主・織田信秀(信長の父)で、その際の逸話として、城主の氏豊と連歌のやりとりを行って油断させ、仮病を使った奇策で城を奪い取ったことが伝わっています。

信虎最大の危機と太郎の誕生

長く続いた内乱を平定して新たな守護所を築き、朝廷からも甲斐の国主と認められた信虎でしたが、駿河から遠江三河へと大きく領国を広げた今川氏と対立を深めたことで、最大の危機を迎えることになります。

大永元年(1521)2月、今川氏親の側室の出身である福島氏を大将とする、1万8千とも1万5千とも言われる大軍が甲斐へ侵攻したのです。

河内を制圧して甲府盆地へ進出する足がかりとした今川軍に対して、信虎は8月に河内を攻撃して富士氏の軍勢を破ったものの、9月の大島合戦に敗北、穴山氏など国人衆が今川方に寝返り、敵軍が甲府へと近付く中、覚悟を決めた信虎は、懐妊していた大井夫人を積翠寺要害山城へと避難させます。

そして、わずかに集まった2千の兵を率いて、同年10月16日に飯田河原で決戦を挑んで大勝し、今川軍を勝山城まで退去させました。

大井夫人は飯田河原の合戦後間もない11月3日に男子を出産、太郎と名付けられたこの男子が後の武田晴信(信玄)で、積翠寺には「信玄公産湯の井戸」とされる井戸が伝えられています。

勢いに乗った武田軍は11月26日、再び上条河原で今川軍に壊滅的打撃を与え、翌大永2年(1522)1月14日には富田城を開城させました。

甲陽軍鑑結要』には、かつて下総から逃れて信虎の家臣となった原虎胤が上条河原の合戦で小畠虎盛とともに活躍し、虎胤は敵の大将福島兵庫の首級を挙げ、虎盛は福島の伯父山県淡路守を討ち取ったことが記されています。

(この縁で原虎胤と交流を深めた小畠虎盛は、後に虎胤の娘を嫡男昌盛の室に迎えますが、その昌盛の三男が『甲陽軍鑑』の編者と言われる小幡景憲です。)

最大の危機を脱した信虎は、大永2年(1522)8月に富士登山を行い、須山浅間社に太刀、具足、馬を奉献しました。

これ以後、国外へと目を向けた信虎は扇谷上杉氏と手を組んでたびたび関東へと進出し、扇谷・山内両上杉氏と決別し、今川氏からも独立して関東制覇を進めた北条氏綱(宗瑞の子)との戦いを続けることになります。

参考

  • 市村高男『戦争の日本史10 東国の戦国合戦』(吉川弘文館

東国の戦国合戦 (戦争の日本史10)

東国の戦国合戦 (戦争の日本史10)

  • 柴辻俊六編『信玄の戦略 組織、合戦、領国経営』(中央公論新社

信玄の戦略―組織、合戦、領国経営 (中公新書)

信玄の戦略―組織、合戦、領国経営 (中公新書)

積翠寺と要害山城

以下、2010年8月に甲府を訪れた際の写真です。

信玄が生まれたと伝わる積翠寺。

鐘には武田菱が!

積翠寺にある「信玄公産湯の井戸」

積翠寺の後方の山が、躑躅ヶ崎館の詰城にあたる要害山城です。

要害山の麓にはいわゆる「信玄の隠し湯」の一つと言われる要害温泉があり、旅館「要害」が建っています。

Wikipediaによると、元山梨県知事の山本栄彦氏のご実家だそうです。)

ここにも武田菱!

要害山城への登城口は旅館の目の前です。

本丸までの道のりには虎口や竪堀などの遺構らしきものもあります。

不動曲輪には…

お不動さん。

なんだか信虎のように思えてきました。

途中、細くなっているところもあります。

本丸跡です。

こちらにも「武田信玄公誕生之地」の石碑があります。

追記

この記事の続きを書きました。

天正2~3年の「備中兵乱」の背景と備中松山城、備前常山城

「備中兵乱」までの備中松山城の歴史

上月城の戦い第二幕・尼子再興戦の終焉 で、天正6年(1578)7月17日に山中鹿介が最期を迎えた備中高梁の「阿井の渡」について触れましたが、この時に毛利輝元が本陣を置いていたのが、備中松山城です。

毛利輝元が入城するまでは、元就の代から毛利方として各地を転戦して活躍した備中成羽の国人・三村家親が、尼子方であった庄氏を追い落としたことから、松山城は成羽から移った三村氏の本拠地となっていました。

松山城は今の天守閣が建つ「小松山」の背後に、鎌倉時代に秋庭氏が最初に築いたという「大松山」の城があり、三村氏の頃には小松山と大松山の間に「天神丸」の存在が記録されています。

松山城を築いたのは元弘の頃に駿河から下国した高橋氏(観応の擾乱で宮方に付き、石見国阿須那を本拠地とした高橋大九郎師光の家)で、24年間と長期に渡って備中高梁を領しています。

その後は備中守護・高師秀、ふたたび守護代秋庭氏と移り、永正5年(1508)に足利義尹を擁する細川高国大内義興の連合政権が成立するとともに、足利支流で奉公衆の上野頼久が城主となってます。

この辺りから、大内と尼子の二大勢力、そして尼子と毛利の戦いの舞台になってくるわけですが、備中守護細川氏守護代として台頭した庄氏が尼子方、以前から成羽を領していた三村氏が毛利方となって争い、尼子晴久死後の衰退に伴って毛利氏が勢力を拡大するとともに、三村家親がほぼ備中を制圧しました。

しかし家親は、当時は毛利と敵対関係にあった宇喜多氏との争いの中、宇喜多直家の手の者によって鉄砲で狙撃され殺害されてしまいます。

家親の跡を継いだ三村元親は以後、宇喜多直家を仇敵として復讐の機会を待っていたのですが、元亀3年9月、毛利氏が宇喜多氏と和睦するに至ったため、やがて三村氏は豊後大友氏や瀬戸内水軍の村上武吉、阿波三好氏ら毛利氏の敵対勢力と結び、毛利方から離反することになります。

こうした経緯により、松山城の三村氏と宇喜多氏の対立を軸として備中全土に渡った争乱が、いわゆる「備中兵乱」です。

「備中兵乱」以前の毛利と織田の関係

三村氏が毛利方から離反したのは天正2年(1574)10月頃とされていて、元和元年(1615)に中島大炊助元行が著した『中国兵乱記』(『備中兵乱記』の元ネタとされる)には、毛利氏を頼って備後鞆の津に下向した将軍・足利義昭が上洛軍を起こそうとしたため、信長は三村氏へ密使を送り、将軍の上洛を阻止したあかつきには備中・備前両国を宛がう旨の誓紙を与えたことが記されています。

『中国兵乱記』では足利義昭若江城に落ちた後、毛利家を頼って難波から船で鞆の津に着いたとしており、これを出迎えた小早川隆景に涙を流しながらこんなことを言わせています。

「昨日まで頼みとしていた織田信長が今日は敵となり、尼子氏一族を近年討手に下された。毛利家は今日よりお味方と頼りに思召され、これまでご下向くださったのは当家の名誉であり、代々の御恩に報いるために忠節を尽くしたい」

しかし、実際には義昭はまだこの時期には鞆に下向していなかったようで、槇島城落城が天正元年7月18日、本願寺の斡旋によって若江城の三好義継の元に逃れた後、24日には毛利家に援助要求を出したものの無視されたためか、その後11月に堺を経て紀伊へと逃れています。

(信長から毛利氏へも、義昭の策動で敵対した者は全て打ち破ったと関東を平定した情勢を報告しており、義昭に与しないよう念を押している様子が伺えます。)

永禄から元亀年間にかけては織田政権の方でも、西播磨で反抗を続ける浦上宗景小寺政職に対して、永禄12年(1569)8月に摂津池田氏や別所氏の軍勢とともに木下秀吉を派遣して小寺方の城を次々と攻略、永禄13年(1570)3月には毛利元就の求めに応じて播磨・備前へ軍勢の派遣を約束するとともに、義昭がかねてより大友氏に働き掛けていた毛利氏との和睦に従うよう求めるなど、毛利氏との強調姿勢を保ってきました。

元亀2年6月に毛利元就が没した際も弔問の使者を派遣するとともに、篠原長房ら阿波・讃岐勢を撃退したことを祝福しており、元亀3年に大友宗麟が上洛を望んだ際には大友氏と敵対する毛利氏との関係を慮り、毛利氏の賛同を得ることを通達するなど、現在もドラマで描かれているような強大な武力を背景に「天下統一」を進める覇王というイメージとは異なった姿が見て取れます。

毛利と織田の関係は、本心はともかく表面的には敵対するには至っていなかったのです。

宇喜多直家浦上宗景の対決が後の織田と毛利の衝突を招いた?

永禄12年(1569)頃、浦上宗景宇喜多直家と共に大友氏と結んで毛利包囲網の一角を担っていました。

元亀元年(1570)8月には直家が毛利方であった石川久式の備中国幸山城を攻撃、10月には宗景が三好三人衆と結んで織田方であった別所氏の三木城を攻撃、元亀2年(1571)5月には篠原長房率いる阿波勢や三好方の香西氏ら讃岐勢と共に、毛利氏の備前侵攻の重要拠点であった児島へ侵攻するなど、浦上・宇喜多氏は畿内に蠢動する三好三人衆や阿波三好氏とも協力し、毛利-足利義昭-織田に対抗しましたが、児島合戦に敗れて阿波・讃岐勢も撤退し、備前は毛利方の勢力下に置かれています。

ところが、今度の三村氏の毛利方離反に際しては、備中幸山城の石川久式、備前常山城の上野隆徳は共に三村家親の娘婿であることから元親に味方したため、毛利軍の攻撃を受けて落城しています。

(余談ですが、後に備中高松城の戦いで水攻めを受けて切腹開城し後世に名を残した清水長左衛門宗治は、備中石川氏の一族で高松城主であった石川久孝の娘婿です。)

三村氏離反の背景には、天正2年(1574)3月、宇喜多直家浦上宗景に対して反旗を翻したため、宗景も直家に対抗する形で信長に援軍を要請するとともに、尼子勝久を擁する山中鹿介や美作三浦氏などの反毛利勢力と連携した経緯がありました。

(ちなみに、かつて宇喜多直家浦上宗景の被官と捉えられ「下剋上」の典型とされましたが、近年の研究ではこの頃の両者はほぼ対等の関係であったと考えられています。)

織田と毛利の対立以前に、浦上氏と宇喜多氏の決定的な対立が引き金となり、宇喜多氏を仇敵とする三村氏は宗景の呼びかけに応じて反毛利方へと転じたわけです。

なお、『備中兵乱記』では毛利方に包囲され籠城軍からも逃亡や降伏する者が続出する中、切腹を決意した三村元親を説得しようとした石川久式が、落ち延び先に天神(浦上宗景の居城)や高田(三浦貞広の居城)を挙げて「豊後の誓紙」を守るよう進言し、元親の方も久式に対して、讃岐へ落ち延びて阿波、因幡、丹後に援軍を求めて本意を遂げるよう勧めていることが示唆的です。

美作三浦氏は天文年間に尼子氏の侵攻を受けて尼子方となり、当時毛利方だった三村家親(元親の父)によって没落させられてますが、後に山中鹿介に支援されて復帰したという経緯があります。

阿波三好氏は天正元年5月に三好長治が名将・篠原長房を討伐、その後阿波一国に日蓮宗を強制して宗論を起こすなど、かなり傾いていますが(実際、常山城からの援軍要請は無視された)、因幡ではまだ尼子再興軍が大友氏の支援を受けつつ粘っている状況でした。

毛利氏にとっては「備中兵乱」を平定した戦況と合わせて、天正3年(1575)1月に因幡・但馬方面で尼子再興軍を支持していた山名氏と和睦したことで、反毛利勢力を織田方に走らせた結果、自らの元に将軍を呼び込む要因となってしまったように思えます。

信長の失策が招いた混乱

宇喜多直家浦上宗景との対決に当たって、今は亡き浦上政宗浦上宗景の兄)の孫で、小寺政職の元で養育されていた浦上氏嫡流の久松丸を擁立しており、小寺氏が宇喜多氏に協力したことが伺えます。

天正元年(1573)12月の安国寺恵瓊書状には、浦上宗景が信長によって備前・播磨・美作三ヶ国の朱印を与えられたことが記されています。

一 備・播・作之朱印、宗景江被出候、是も対芸州進之由、事外之口納ニて候、 一 別所・宗景間の儀も当時持候と相定候、別所も自身罷上候、一ツ座敷にて両方江被申渡候、宗景江三个国之朱印礼、従夕庵過分ニ申懸候、おかしく候、

浦上宗景は長らく敵対していた別所氏と共に信長の元に上洛して和睦を申し渡された際、信長から「備播作之朱印」を与えられますが、恵瓊はそのことが毛利氏にとって意外であったこと、夕庵(信長の右筆)から過分な礼を要求されたことがおかしいという感想を述べています。

この時に同席していた別所氏は播磨の諸勢力中で早くから織田方として活動しており、この一件は別所氏の信長への不信を招き、後に反旗を翻す一因にもなったと考えられますし、宗景と共同歩調を取っていた宇喜多直家も同様だったのではないでしょうか。

しかし、信長も宗景を積極的に支援したわけではなかったようで、天正3年9月頃に居城天神山城を追われた宗景は、9月12日には御着城小寺政職の元へと逃れ、その後は何度か上洛して信長に面会した記録はあるものの、没落の一途を辿っています。

小寺政職宇喜多直家の離反に協力したのは何だったのかと思ってしまいますが、政職の行動も浦上宗景への不信感が原因だったと考えると、信長の失策が招いた結果とも言えるのではないでしょうか。

織田と毛利の対立と宇喜多氏の飛躍

毛利氏が信長との断交に踏み切ったのは天正4年(1576)5月頃のことで、4月には信長が前年の10月に一旦和睦した石山本願寺との戦闘を再開、5月3日には原田直政(塙直政、南山城守護と大和守護を務めて信長上洛以降の畿内において最も重用された人物)をはじめ塙一族の多くが討死、明智光秀荒木村重、三好康長らが篭る天王寺砦が逆襲を受け、信長が自ら救援に向かうも軍勢が思うように集まらず苦戦しているところでした。

信長もその頃には毛利氏による本願寺への兵糧搬入の風聞を耳にして、安宅信康(淡路水軍を率いた三好長慶の弟・安宅冬康の子)に対してその阻止を命じるとともに、別所長治に命じて水軍の着岸地点となる播磨高砂城の梶原平三兵衛を攻略させるなど、警戒を強めています。

紀伊へと落ち延びていた足利義昭天正4年(1576)2月には備後鞆の津に下向し、毛利氏に対して幕府の再興を命じており、その後の本願寺方の善戦も影響したのか、ついに毛利氏は瀬戸内水軍の派遣を決断、7月15日に木津川口において織田水軍を撃破し(第一次木津川口の戦い)、本願寺への兵糧搬入に成功します。

その後、天正5年(1577)2月に信長の紀州攻めを受け、播磨侵攻を開始した毛利方の尖兵となったのもまた、宇喜多直家でした。

天正2年から3年にかけて、毛利方を離反した三村元親とそれに与した勢力を討つとともに、共闘関係にあった浦上宗景を没落させた宇喜多直家は、この時期最も巧い立ち回りを見せ、美作・備前西播磨にかけて勢力を広げました。

参考

新釈 備中兵乱記

新釈 備中兵乱記

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 山陽新聞社
  • 発売日: 1987/10
  • メディア: 単行本

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

備中松山城

備中松山城は日本三大山城に数えられ、貴重な現存12天守のひとつでもあります。

明治以来放置され天守も倒壊寸前でしたが、昭和14年、大戦前の厳しい状況の中、町民一丸となって復元に尽力されたとか。

天然の岩盤と組み合わされた石垣が、実に壮観です。

右側の岩盤には亀裂が見つかっており、京都大学防災研究所の変動監視システムが取り付けられていて、20分間隔で岩盤斜面の動きが計測されているそうです。 山上にある文化遺産の監視・保護技術開発のための貴重な試験地になっているとか。

天守内では備中兵乱を紙芝居で紹介するDVDも見られました。

約30分の力作で、備中松山城の落城までの経緯と備前常山城における三村方の終焉を『備中兵乱記』に沿って分かりやすく紹介する内容でした。

後ろ姿もお忘れなく。

大松山や天神丸跡にはまだ行ったことがありませんが、いずれ見に行きたいところです。

城下町高梁の「備中兵乱」関連情報

細川高国政権期、永正年間に松山城主となった上野頼久が再興した頼久寺には、頼久の墓とともに三村家親・元親・勝法師丸の三代の墓があります。

まるで城郭のようにも見える頼久寺ですが、関ヶ原の戦功で小堀正次が初代松山藩主に封じられた後、子の政一(遠州)によって作られたという枯山水庭園があります。一般的にはそちらの方で有名な史跡ですね。

家親・元親父子の墓。

松山落城となった天正3年(1575)5月21日、元親は石川久式ら家臣の説得に応じて落ち延びたものの途中で怪我を負い、家僕達も逃亡あるいは捕らえられ殺されたため、6月2日、通りかかった樵に頼んで毛利方の大将・小早川隆景の本陣から検死を呼び、切腹したと伝えられています。

元親の嫡子・勝法師丸の墓。

『備中兵乱記』には、勝法師丸は備前賀茂虎倉城主・伊賀左衛門久隆が生け捕りにし、小早川隆景の本陣に引き渡して出家させるよう申し出たたものの、わずか8歳でありながら毛利方の兵が皆驚いたほどの口才を見せたため、後顧を憂いた隆景によって殺害されたと伝えられています。

(なお、この話は『中国兵乱記』では石川久式の子・石川勝法師とされています。)

昭和50年6月2日、三村家親四百遠年忌に建てられた供養碑。

八幡神社のすぐ側にある「三村元親公腰掛岩」 特に説明書きはなかったのですが、落ち延びた元親がここに腰掛けたという伝承があるのでしょうか。

八幡神社はこんな立地です。

こちらは市街地にあります「城下町高梁 歴史文化ギャラリー」

館長をされていたのは郷土史研究家で篆刻家という方で、城下町高梁や松山城の古写真、周辺史跡の資料など充実していました。

訪問したのは4年以上前ですが、松山藩主・水谷勝隆が定林寺に伝えたという、軍配についての話を伺ったことを覚えています。

水谷氏は下総の大名・結城氏の重臣を務めた家柄で、水谷勝俊が関ヶ原の戦功によって常陸下館藩の大名となった後、子の勝隆が備中成羽、次いで備中松山に移封されました。

備中松山藩主としての水谷勝隆は城下町の基礎を築いただけでなく、高梁川の水運整備や玉島新田の開発など産業の育成に力を入れ、現在の倉敷地方の繁栄にも繋がった名君として、高く評価されています。

(岡山と倉敷は結構仲が悪いという話を聞きますが、岡山の基礎は宇喜多氏が築いたのに対して、倉敷は水谷氏という成り立ちの違いが影響しているのかも?)

備前常山城の関連史跡

天正3年(1575)6月7日、備中兵乱における三村方の終焉を迎えた常山城は、児島湖、児島湾を見渡す山上にあります。

最後の城主となった上野隆徳(高徳、隆式とも)の碑。

松山城に入った奉公衆の上野氏との関係については、庄氏によって滅ぼされてしまった松山城の上野兵部少輔頼久-頼氏は上野氏の庶流で、常山城の上野氏は鬼邑山城に入った本家の上野民部大輔信孝の流れとされています。

また、同時期に備中へ入国した将軍近臣達の中に二階堂氏があり、その子孫の中島大炊助元行が書いたのが『中国兵乱記』で、これが『備中兵乱記』の元ネタと言われています。

落城に際して敵陣に切り込んだと伝えられる、女軍の墓が三十四基あります。(暗くてすみません…後で知った話ですが、どうも地元では心霊スポット扱いされているとか…。)

『備中兵乱記』には、上野高徳の妻は男勝りの勇敢な女性で、小早川隆景麾下の勇将・浦兵部丞宗勝率いる毛利軍に一矢報いるべく侍女達三十余人を従えて切り込み、名のある武士数名を切り伏せ手疵を負わせ、浦宗勝と一騎討ちを望んだものの、「女は相手にできない」と拒否され、やむなく城に戻って自刃したと伝えられています。

麓にある戸川友林の墓と友林堂。毛利氏の支配下に置かれた常山城は宇喜多直家に預けられ、重臣の戸川秀安(友林)が城主となりました。

登城通の途中で見かけた「底無井戸」

常山城址には石積みも残っていたようですが、この時は時間が足りず見ることが叶いませんでした。 でも、代わりに見られた夜景はなかなか印象的でした。

追記

この記事の補足的な記事を書きました。

上月城の戦い第二幕・尼子再興戦の終焉

別所氏の離反と毛利方による上月城包囲

上月城の戦い第一幕・秀吉の播磨侵攻 からの続きです。

天正5年(1577)12月、播磨佐用郡を平定した秀吉は、最前線となった上月城を尼子主従に守らせて自身は龍野へと移り、網干郷に禁制を与えるなど戦後処理を行った後、一旦長浜城へ戻りました。

播磨をほぼ制圧し順調に見えた秀吉の中国経略でしたが、その裏では毛利方による離反工作が進んでいました。

天正6年(1578)2月下旬、中国攻めを再開するため、別所氏家臣・賀須屋内膳の城に播磨の諸将を招集したという「加古川評定」の後、三木城の別所長治が東播磨の諸城主と示し合わせ、信長に反旗を翻したのです。

三木城は京都と姫路を結ぶ交通の要衝に位置し、織田方としてはこれを無視するわけにはいかないため、別所氏の離反を知った秀吉は姫路の書写山圓教寺に要害を構えて本陣とし、三木城攻略を開始しました。

なお、別所氏が離反する以前の天正5年(1577)12月、秀吉は信長上洛の頃から織田方として活動していた別所重棟(長治の叔父)の娘と、小寺官兵衛の嫡子・長政との縁談を進めています。(事態の急変もあってか履行はされなかったようですが…。)

そのような経緯もあり、天正6年(1578)4月2日、別所氏を支援するために毛利水軍雑賀衆と共同して別府に上陸し、織田方に留まった別所重棟が守る阿閉城に攻め寄せた際、秀吉は小寺官兵衛を援軍として派遣し、毛利勢を撃退しています。

(しかし官兵衛は翌年10月、三木城攻略の最中に反旗を翻した荒木村重の元へ説得に赴き、囚われの身となってしまうわけです…。)

別所氏に与同した城主は、志方城の櫛橋左京亮、神吉城の神吉民部少輔、淡河城の淡河弾正、高砂城の梶原平三兵衛、野口城の長井四郎左衛門、端谷城の衣笠豊前守などで、その他にも周辺の小城主が三木城に入城し、総勢7500にも及びました。

(ちなみに『軍師官兵衛』では櫛橋左京進が官兵衛と同格の家臣として登場していますが、実際の櫛橋氏は赤松政則に重用された三奉行の筆頭・櫛橋則伊を輩出した赤松惣領家累代の重臣の家柄であり、むしろ小寺氏と同格の領主と言える存在でした。)

秀吉は4月12日に野口城を攻め落としたものの、その直後の4月18日、吉川元春率いる3万の大軍が播磨へと進出し、上月城に到着します。

そして、4月28日には早くも毛利勢による攻撃が開始され、前年末の上月合戦で秀吉によって苦杯をなめた、宇喜多直家の兵も出陣しています。

なお、宇喜多直家は出陣に当たって毛利氏に人質を差し出しており、この時点ではまだ毛利方として活動していますが、5月24日には宇喜多氏の家臣で赤穂郡八幡山城主の明石飛騨守が竹中半兵衛に内応の相談をしており、直家も本心から毛利氏に従っている訳ではなかったようです。

備前軍記』には、この時直家は病気を装って岡山に残り、代わりに弟の七郎兵衛忠家を遣わしたと記されており、事実、上月城落城後に毛利軍が帰国すると、翌天正7年(1579)9月頃には織田方へ鞍替えし、佐用郡赤穂郡を安堵されることになります。

毛利方は上月城攻略に際して周辺に数多くの陣所を築きましたが、吉川元春の書状によると「仕寄」を設けて攻め口を固め「帰鹿垣」を三重四重に巡らせたとあり、前年の秀吉による上月城攻めと同様に、補給路を断って城兵の逃亡を防ぎ、厳重に包囲した様子が伺えます。

上月城への援軍到着と秀吉の苦悩

姫路に本陣を置いていた秀吉ですが、東播磨における別所方の離反に続き、毛利攻めの橋頭堡であった上月城も逆に毛利方の大軍による包囲を受け、東西両面に兵を割かざるを得ないという苦しい状況に陥っていました。

この情勢を重く見た信長は4月29日、滝川一益筒井順慶明智光秀上月城の救援を命じ、5月には自らも播磨へ出陣しようとしますが、佐久間信盛滝川一益に止められて思い直し、代わりに信忠、北畠信雄神戸信孝細川藤孝佐久間信盛らの大軍を派遣することを決めました。

そして5月4日、上月城の救援に向かった秀吉が荒木村重とともに高倉山に着陣しますが、吉川元春は書状に敵の軍勢が予想よりも少なかったと記しており、毛利方3万に対して劣勢だったようです。

また、援軍を率いて書写山に到着した明智光秀連歌師の里村紹巴に送った書状には、敵は陣所に立て篭もったままで合戦に及ぶ様子はないと記しており、早くも長期戦になることを予想していたようです。

もっとも、秀吉の焦りに反して織田方の士気が上がらなかった理由として、援軍の諸将に秀吉の失態を本気で援護するつもりがなかったとか、鹿介が光秀の仲介で信長を頼ったにも関わらず秀吉の麾下に移ったため、光秀は尼子主従のことを快く思っていなかったとか、すでに荒木村重はこの頃から二心を抱いていたとも言われています。

秀吉の織田政権における立場は、天正5年7月23日に小寺官兵衛へ宛てた自筆の書状にも表れていて、自分と親密になることで官兵衛が他人から蔑まれることを心配し、官兵衛のことは兄弟同然に思っているという、泣き落としのような内容が記されています。

毛利方による上月城への包囲と織田方の援軍との睨み合いが続く中、5月28日には大亀山の毛利本陣から上月城に対して大砲が撃ち込まれ、櫓が次々と破壊され多くの死者を出したと伝えられています。

これを裏付けるように宝暦年間には上月城二の丸の辰巳の岸の崩れから五百匁(約2kg)の鉛弾が発見され、当時の三日月藩主・森対馬守に献上されています。

なお軍記物には、上月城の尼子軍はこの砲撃への対抗策として、十人の強者が密かに大亀山に登り、大砲を担ぎ上げて谷底に投げ落とそうとするも、山麓に生えていた大木の根に引っ掛かって果たせなかったことが記されています。

上月合戦(高倉山麓の合戦)と秀吉軍の撤退

6月16日、秀吉は上洛して信長の元に赴いて今後の戦略を仰ぎましたが、信長は三木城の攻略を優先することを決定し、上月城の援軍を撤退するよう命じました。

この時点では瀬戸内の制海権は毛利氏の水軍によって掌握されており、三木城との連携を遮断するために、水軍が着岸できる港を持つ高砂城や、街道の要衝に位置する志方城を攻略する必要があったため、上月城はもはや見捨てるほかなかったのでしょう。

軍記物によると、秀吉はこの時、自分の元にいた亀井新十郎(尼子旧臣で鹿介の娘婿)に上月城への伝令を命じ、鹿介に対して、後日また再起の機会を与えることを約束し、城中の兵士は残らず切って出るよう伝えさせようとします。

6月24日、新十郎は何とか城内へ忍び込み秀吉の策を伝えたものの、すでに覚悟を決めていた鹿介は、一人でも多くの軍卒の命を全うするために自分が身代わりとなると言い、自分の志を継いで尼子再興に尽くせと諭し、新十郎を秀吉の元に脱出させたといいます。

しかし、実際にはそれに先立つ6月21日、秀吉は本陣を構えていた高倉山の麓で毛利軍と交戦して大敗したようで、毛利方諸将への「高倉麓合戦」「羽柴陣麓合戦」における戦功を賞した感状が数多く残っています。

毛利方ではこの時の戦いを「上月合戦」と呼称しており、狭義での上月合戦とはこの6月21日に高倉山麓で行われた合戦を指すとのことです。

そして6月26日、秀吉軍は滝川一益明智光秀丹羽長秀を三日月山に上らせて援護を受けつつ本陣を引き払い、その日のうちに書写山まで撤退してしまいました。

これにより孤立無援となった上月城と尼子再興軍の運命は、まさに風前の灯となりました。

上月城の開城降伏と鹿介の最期

4月18日の吉川元春による包囲からすでに2ヶ月が経ちましたが、5月末に元春嫡男・元長が記した書状には、この頃にはすでに城内の水と食糧が尽きており、逃亡者が出だしていたことが記されています。

そして7月5日、鹿介からの申し入れによってついに上月城は開城、降伏することとなりました。

開城に際して、首領である尼子勝久および弟助四郎の切腹と、毛利家に敵対する者の処刑が行われましたが、尼子方の日野五郎、立原源太兵衛、山中鹿助に宛てて、毛利方の吉川元春小早川隆景、口羽中務大輔春良、宍戸隆家連署した起請文には、城兵の身の上を保障することが記されており、その他の多くの者は命を助けられたようです。

『陰徳太平記』などの軍記物には、7月1日の夜に城内で評議した結果、7月2日に老臣の神西三郎左衛門元通が上月城の尾崎に出て、敵味方が見守る中で切腹したことや、7月3日に尼子勝久山中鹿介、立原源太兵衛に対し、命を永らえて尼子再興の悲願を達成するよう最後の主命を下した後、潔く切腹した様子が描かれています。

また、下城した鹿介が吉川元春・元長に面会した際、勝久から賜った名刀で元春を刺し殺そうと企んだものの、警戒されて果たせず、逆に元春は鹿介の殺害を決心したとも伝えています。

上月城落城直後の天正6年7月8日、鹿介が家来の遠藤勘介に宛てた書状が残されています。

永々被遂牢、殊当城籠城之段無比類候、於向後聊忘却有間敷候、然者何ヘ成共可有御奉公候、恐々謹言 七月八日 幸盛(花押)

長年に渡る牢人の苦労と上月城籠城の忠節は今後いささかも忘れることはないが、ここで主従の縁を断って、何処へでも奉公せよと勧めているのです。

鹿介が自身の運命をどのように捉えていたのかは定かではありませんが、7月17日、備中松山城毛利輝元本陣へ連行される道中、甲部川と成羽川の合流点である「阿井の渡」で殺害されました。

なお、鹿介の享年は通説では34歳とされていますが、鹿介の最期を描いた諸軍記の中で最も古い、天正8年に尼子旧臣の河本隆正が記したという『雲陽軍実記』には39歳と記されています。

山中鹿介幸盛の評価について

鹿介は吉川元長の書状に「鹿介当世のはやり物を仕候、只今こそ正真之天下無双ニ候、無申事候」と評されており、この一文について、鹿介の往生際の悪さを嘲ったものだとか、主君を渡り歩く当時の武士の風潮に同調することで犠牲を最小限に食い止めたことを評価するものだとか、様々に解釈されています。

ともあれ、毛利氏に仕えて家名を残した武士たちも覚書に鹿介と戦ったことを特筆しており、当時から武勇に優れた武将として評価されていたようです。

鹿介は江戸時代から幕末にかけて、御家再興に力を尽くした忠臣として知られるようになり、頼山陽勝海舟にも高く評価されたほか、岡谷繁実が記した逸話集『名将言行録』にも掲載され、史実から離れて英雄「山中鹿之助」として人気を博すようになります。

そして昭和11年(1936)、かつて月山富田城があった広瀬で幼時を過ごした文部省図書監修官・井上赳の尽力で、小学国語読本に「山中鹿之助」を主人公とする『三日月の影』が収録されるに至り、その名は全国的に知れ渡りました。

戦後、忠君愛国教育の反動から鹿介の評価は一転しますが、尼子再興の悲願達成のため最後まで命を惜しみ、諦めることなく戦い続けたその精神が、多くの人の心を捕らえたことは間違いありません。

参考

  • 妹尾豊三郎『山中鹿介幸盛』(ハーベスト出版)

山中鹿介幸盛(戦国ロマン広瀬町シリーズ(4))

山中鹿介幸盛(戦国ロマン広瀬町シリーズ(4))

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ハーベスト出版
  • 発売日: 2010/10/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

  • 山下晃誉『上月合戦 ~織田と毛利の争奪戦~』(兵庫県上月町)
  • 福本錦嶺『別所氏と三木合戦』(三木市観光協会
  • 島根県立古代出雲歴史博物館『戦国大名 尼子氏の興亡』図録より
    • 藤岡大拙『富田城落城後の尼子氏』
    • 中野賢治『「鹿之助」像の変遷』

なお、三木合戦の概要については以下の記事にも書いていますので、併せてお読みいただけると幸いです。

上月城の尼子関連史跡

尼子氏関連の顕彰碑が並ぶ場所には「尼子橋」が掛けられています。

尼子勝久公四百年遠忌追悼碑」と「山中鹿之介追頌之碑」

上月城戦没者合同慰霊碑」歴史研究会代表とあります。

「神西三郎左衛門元通公追悼之碑」出雲市長とあります。

神西氏は承久の乱後に出雲神西庄の地頭となったという、尼子氏の下国以前からの有力な国人で、『雲陽軍実記』に尼子氏の本拠・月山富田城の防衛網「尼子十旗」の第七として挙げられる神西城(龍王竹生城)の城主を務めた一族です。

神西元通は毛利氏による月山富田城攻めにおいて降伏しましたが、永禄12年(1569)6月に尼子勝久が出雲へ上陸した頃から再興軍に加わり、上月合戦では開城に際して勝久とともに自刃しました。

その最期について『陰徳太平記』に、城の尾崎に出て包囲軍の前で「鐘馗」の曲舞を謡った後、腹を十文字に掻き切ったと記されており、教養のある老将であったことが伝わっています。

鹿介終焉の地、備中高梁の関連史跡

阿井の渡にある「山中鹿之介墓」

元々は正徳3年(1713)、備中松山藩士の前田時棟と佐々木群六によって五輪塔が建立されたもので、洪水によって流されたため、新たに建てられたものとのことです。

バス停の名も「鹿之助前」(笑)

こちらは観泉寺にある鹿介の墓

鹿介が阿井の渡で最期を迎えた際、観泉寺の住職が遺体を引き取って供養して付近に葬ったものの、明治35年に至って新たに墓石を建立し、菩提を弔うこととしたものだそうです。

上月城の戦い第一幕・秀吉の播磨侵攻

上月城と赤松七条家と上月氏

上月城播磨国佐用郡の西端に位置し、美作・備前に通じる交通の要衝に築かれた城です。

天正6年(1578)に尼子勝久山中鹿介ら旧臣達が織田方の一員として御家再興を掛けて戦った最後の舞台として知られていますが、中世における経緯はあまりよく分かっていません。

赤松円心の嫡子・範資を祖とする赤松七条家が14世紀頃から佐用郡一帯を領しており、秀吉の書状においても「七条城」と記されていることから、代々赤松七条家が城主を務めた城であったと見られています。

七条家からは、赤松政則の養子として惣領家を継承した赤松義村が出ていますが、その当時の上月城主の名前は一次史料からは明らかではありません。

江戸時代に成立したという『播州佐用軍記』には、弘治3年(1557)に赤松義村の子・政元が上月城を再興し、その子・政範の代に宇喜多直家を通じて毛利方になったと記されていますが、この書物に掲載されている七条家の系譜には誤りがあるようで、信頼することはできません。

一方で赤松氏の一族衆に上月氏がおり、文明13年(1481)までは上月に所領を保持していたことが確認できるものの、上月氏上月城との関わりについては一次史料から見出すことができていないようです。

(上月氏出身の人物では、相国寺蔭涼軒主として幕政に参与し、嘉吉の乱足利義教の首級を受け取ったと伝わる季瓊真蘂、赤松家の旧臣達が南朝方から神璽を奪還した経緯を『南方御退治条々』と題して書き残した上月満吉がいます。)

備前軍記』には、秀吉の攻略によって城主・赤松政範が自刃した後に入城した尼子再興軍と、挽回を図る宇喜多軍との間で三度に渡る争奪戦が繰り広げられる様子が描かれており、その中で宇喜多直家の家臣として真壁彦九郎治次・次郎四郎治時の兄弟とともに、上月出身の勇将・上月十郎景貞なる人物を登場させています。

現在放映中の大河ドラマ軍師官兵衛』では、官兵衛の妻・光の姉「力」の嫁ぎ先を上月城主・上月景貞としています。

後に三木合戦に際して光の実家である櫛橋氏は織田方を離反しますが、その原因を補強する上でも、このような設定が好都合だったのでしょう。

惣領家すら登場することなく、龍野赤松氏だけが「赤松」と呼ばれている作品なので、七条家の存在も無視されて当然かもしれません。

織田と毛利の衝突、小寺官兵衛の英賀合戦での活躍

両勢力の衝突は天正4年(1576)、毛利氏が信長と敵対していた将軍・足利義昭を鞆に迎え、同じく以前から信長と敵対し孤立した状況にあった一向宗の総本山・石山本願寺を援助するため、瀬戸内水軍を差し向けたことから始まります。

毛利方の水軍は第1次木津川口の戦いで織田方の船団を破り、石山本願寺への物資の搬入に成功して戦況を有利に進めました。

また、天正5年(1577)2月に信長が紀州雑賀へ一向宗門徒の討伐に向かった隙を突いて、翌月には毛利方の尖兵を務める備前宇喜多直家龍野城へ侵攻を開始し、4月には小早川隆景麾下の軍勢も室津に上陸、陸海両面から進軍した毛利方の軍勢は、水運の要衝である英賀で合流しようとしていました。

英賀城は伊予河野氏の氏族と伝わる三木氏の居城で、16世紀初めに英賀御堂本徳寺を建立して以来、播磨における一向宗の一大拠点となっていました。

黒田氏からは官兵衛の妹(または姉)が三木氏に嫁いでいましたが、英賀衆は毛利氏とともに本願寺を支援し信長に敵対しため、織田方となった小寺氏とは疎遠になっていたようです。

そして天正5年(1577)5月14日、小寺官兵衛は主君政職とともに英賀に出陣し、毛利軍と交戦して多くの敵を討つ活躍をしました。

軍師官兵衛』では英賀に攻め寄せてきた毛利の大軍を迎え撃つという描写になるようですが、実際には(おそらくは信長の命によって)妹の嫁ぎ先を攻撃するという、非情な決断をせざるを得なかったということです。

東播磨では別所氏を代表とする諸勢力がかねてから織田方に付いていましたが、英賀合戦の勝利によって西播磨での戦況も好転したことを受け、信長は秀吉を播磨に派遣することを決定します。

秀吉の播磨佐用郡への侵攻

天正5年(1577)10月15日、秀吉は播磨出陣に先立って小寺官兵衛に起請文を送りました。

その内容は「佐用郡之内七条殿分領、同淡川(淡河)之事」を与えること、官兵衛を粗略に扱うことなく何事も直接相談すること、人質の身の安全を保障すること、官兵衛の居城を借用すること、そして英賀合戦での軍功を褒め称えるもので、秀吉は小寺政職よりもむしろ官兵衛の力量を頼みとして、強固な関係を結ぼうとしていたことが伺えます。

一方、信長も秀吉の出陣に先立って、美作の江見九郎次郎や備中の庄市助といった有力な国人に対して書状を送り、秀吉に従って忠節を尽くすよう申し付けています。

なお、ちょうどこの頃、松永久秀・久通父子が大和信貴山城に籠って謀叛を起こしており、信長は織田信忠を大将として細川藤孝明智光秀筒井順慶らを派遣し、大和の諸城を攻略していますが、信貴山城への攻撃には秀吉も従軍していたようです。

信貴山城は10月10日に松永父子の割腹自焼によって落城しましたが、秀吉は10月22日に上洛した後、その翌日には播磨へと出陣しています。

また秀吉は10月26日、江見九郎次郎に対して播磨への着陣を命じるとともに、山中鹿介を通じてきた内々のことを承諾したと信長の御朱印状が発給されたことを伝え、忠節を尽くすよう申し付けています。

後に尼子旧臣達が上月城に入ることになりますが、山中鹿介はそれ以前から美作方面で調略に奔走していたことが伺えます。

播磨に入国した秀吉は国衆から人質を集めた後、まず但馬南部の朝来郡を攻略し、太田垣輝延の竹田城を攻め落として弟の小一郎を城番に入れ置き、次いで播磨佐用郡へと侵攻しました。

佐用郡では福原城上月城、利神城(別所中務の城とあります)が秀吉に敵対していましたが、まずは11月27日に福原城から迎撃に出てきた城兵と交戦し、城主とその弟の首を討ち取って落城させました。なお福原城主の名は則尚と伝わっていますが、一次史料にはその存在は明らかでないようです。

また、福原城下の戦いでは小寺官兵衛と竹中半兵衛のドリームタッグが先遣隊となって活躍し、多くの敵を討ち取ったと伝わっています。

秀吉の上月城攻め「子ともをハくしニさし、女をハはた物にかけならへ置候事」

原城を落とした秀吉軍は、翌11月28日に上月城を包囲して水の手を奪ったところ、上月城の援軍にやって来た宇喜多直家の軍勢と交戦、散々に切り崩された宇喜多勢は備前との国境付近まで敗走し、多くの兵を失いました。(秀吉の書状には六百十九の首級を討ち取り、雑兵達は切り捨てたと記されています)

上月町には「戦」という地名や「戦橋」という名前の橋が今も残っており、秀吉と宇喜多の軍勢が激しく戦ったことが伝えられています。

宇喜多勢を破った秀吉が再び上月城に攻めかかったところ、すでに水の手を奪われた城方は降伏を申し入れてきましたが、秀吉はこれを拒絶し、「返り猪垣」を三重に設けて逃亡を防いだ上で、出入口に「仕寄」を設けて攻め口を固め、12月3日には城内へと攻め込んで敵兵の首を悉く切り落としました。

そして秀吉は、敵方への見せしめのために、女子供二百余人を備前・美作・播磨の国境において、子供は串刺しに、女は磔に掛けて並べ置いたと、自らの書状に記しています。

軍師官兵衛』において秀吉は庶民の味方で戦を嫌う人物として描かれていますが、討ち取った首級や人数には誇張があるにしろ、実際にはこのような残酷な処刑の様子を書状に記すような人物だったということです。

この第1次上月合戦における小寺官兵衛の具体的な働きは分かりませんが、信長は官兵衛に対して佐用での活躍を称え、感状を与えています。

ドラマではおそらく上月合戦における秀吉の酷薄さも、それに絡む官兵衛の姿も描かれることはないでしょう。そのような姿勢で果たして得意の城攻めの実態をどの程度伝えられるのか、疑問に感じますが…。

原城に次いで上月城を落城させた後、残る利神城も降伏を願い出てきたため、秀吉は人質を三人召し取って来年2月まで別所中務に城を預けることにしました。

上月城を拠点に再興を目指した尼子旧臣たち

織田方の中国経略における最前線となった上月城には、山中鹿介ら尼子再興軍が留め置かれましたが、鹿介は引き続き江見氏や草刈氏といった美作の国人達を織田方に引き入れるために働いています。

山中鹿介ら尼子旧臣たちは、永禄9年の毛利元成による月山富田城の落城以来、新宮党の尼子誠久の遺児で東福寺に逃れて僧となっていた勝久を還俗させて擁立し、山名氏や大友氏などの反毛利勢力と連携して旧領である出雲や伯耆に侵攻したり、但馬から因幡へと攻めこんで鳥取城を奪うなど、毛利の勢力圏を荒らし回ってきました。

しかし天正3年(1575)正月、尼子を支援していた但馬の山名祐豊が生野銀山の支配権を巡って信長と対立したことから、山名氏は毛利氏と和睦するに至り、次第に戦況は不利に傾いていったため、天正4年(1576)5月には因幡における最後の拠点であった若桜鬼ヶ城を退去して、信長を頼ることになりました。

尼子氏の再興を掛けて戦ってきた鹿介たちでしたが、あえて最前線である上月城に踏みとどまって戦功を立てることで、出雲復帰への道を開こうとしていたのだと思います。

以下、上月城へ入城した尼子再興軍の戦いぶりを『陰徳太平記』や『備前軍記』などの軍記物から、ざっと紹介します。

上月城に入った鹿介は、京都で待機していた尼子勝久を迎えるため少数の兵を残して城を出ましたが、その隙を突いて奇襲してきた宇喜多直家の部将・真壁彦九郎治次によって上月城を奪われてしまいます。

しかし、鹿介が勝久を奉じて引き返してくると、臆病風に吹かれた真壁彦九郎は備前岡山へと逃げ帰ったため、尼子主従は難なく再入城を果たし、亀井新十郎、神西三郎左衛門、川副右京亮、加藤彦四郎ら尼子の残党二千余が参集したとあります。

また天正6年(1578)1月、兄に代って上月城の奪回に出陣した真壁次郎四郎治時を夜襲によって討ち取った尼子再興軍は、物資が心許なかったため秀吉と相談して密かに姫路へと退いたとありますが、これを受けた宇喜多直家上月城の守将として遣わしたのが、上月出身で武勇の誉れも高いという上月十郎景貞だとしています。

しかし、3月には秀吉が再び大軍を率いて上月城を攻略、城の四方から火を放って城山一帯を火の海と化し、たまらず城を出た景貞は秀吉本陣の高倉山を目指して駆け上ったものの、鹿介が切り込んだため本陣に近づけず、諦めて自刃したと記しています。

なお『宇喜多戦記』では上月十郎景貞の死について、秀吉は降伏を申し入れてきた十郎を許さずに切腹を命じ、その首を安土に送った後、さらに城内の兵は見せしめとして蓑笠を付けて磔にした上で火をつけて焼き殺したため、その地は「張付谷」とも「地獄谷」とも呼ばれるようになったと記しているそうです。

上月城を巡る宇喜多勢と尼子主従の争奪戦は、江戸時代以降に成立した軍記物で描かれたものですが、現代の作品には赤松七条家と上月氏を混同して上月城主を「上月政範」などとしているものも見られ、『軍師官兵衛』をきっかけに調べた方がまた混乱するんじゃないかと思い紹介しました。

長くなったので、尼子再興軍と鹿介の最期については次回に続きます…。

参考

  • 妹尾豊三郎『山中鹿介幸盛』(ハーベスト出版)

山中鹿介幸盛(戦国ロマン広瀬町シリーズ(4))

山中鹿介幸盛(戦国ロマン広瀬町シリーズ(4))

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: ハーベスト出版
  • 発売日: 2010/10/01
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

以下、4年前に上月城跡に訪れた際の写真です。

尼子再興軍の最後の舞台ということで、どれほどの要害なのかと期待しましたが、想像していたよりも小さな丘陵地で、正直なところ、この地に篭って3万にも及ぶ毛利の大軍に立ち向かったということが、とても信じられませんでした。

「赤松蔵人大輔政範君之碑」

秀吉の佐用郡侵攻時に落城した際の城主と伝わる赤松政範の慰霊碑で、落城時の守将の末裔・大谷義章氏が文政八年(1825)に250回忌を営んだ際に建立されたものだとか。

「上月氏発祥之地」の碑

実は訪問当時、赤松氏のこともよく知らなかったくらいだったので、当然七条家も上月氏もピンときませんでした…。

尼子ファンということで訪れた上月城でしたが、地元の人たちにとっては秀吉も尼子再興軍も等しく余所者であって、特に秀吉には残酷な仕打ちを受けているだけに、案内板にもそういう記述が目立ちました。

三木城などもそうですが、播磨の人々にとって秀吉には恨みの方が大きいのかもしれません。

沙沙貴神社と近江源氏佐々木一族と黒田家

沙沙貴神社は安土にあります、近江源氏佐々木一族ゆかりの神社です。

近江は佐々木源氏だらけ

沙沙貴神社は元々は蒲生郡に勢力を誇った古代豪族「佐々貴山君」(ささきのやまのきみ)氏の氏神を祀る神社でしたが、平安時代中期に宇多天皇の皇子敦実親王に連なる源成頼が近江へと下り、更にその孫である経方の代に蒲生郡佐々木庄の下司となって佐々木氏を名乗り、やがてこの佐々木源氏の一族が沙沙貴神社氏神として信仰するとともに、佐々貴山君の一族を取り込んでいったという経緯のようです。

源平の争乱で活躍した佐々木氏は鎌倉幕府の元で近江国守護に任じられ、承久の乱で一族の多くが上皇方についたため一旦は縮小を余儀なくされたものの、佐々木氏惣領の六角家を近江守護として、大原、高島、京極とそれぞれが庶流家を立てて近江国内に割拠することになります。

京極家からは婆沙羅大名として名高い京極高氏(道誉)が出て、惣領家を差し置いて近江守護に任じられたこともあり、近江北郡に多くの所領を獲得した京極家は、室町時代後期に至って六角家と近江の統治を巡って争うことになりました。

また、高島家はその支流と合わせて「高島七頭」と呼ばれて湖西地域に勢力を広げ、室町時代には将軍の直属部隊である奉公衆を務めて幕府を支えました。

(後に三好長慶によって度々京都を追われた足利義輝を保護し、織田信長の越前金ヶ崎から京都への撤退を助けた朽木氏は、高島七頭の一家です。)

惣領家の六角家は近江守護から戦国大名

文安元年(1444)に始まった六角家の内紛に際して、幕府と京極持清の力を借りて反乱を収めた六角久頼は京極家の干渉という屈辱により割腹自殺するという事件も起きましたが、応仁の乱が勃発するや、京極家や延暦寺が幕府方(東軍)に付いたのに対して、久頼の嫡子・亀寿丸(後の高頼)は西軍に付き、京極持清の死後に劣勢から挽回しています。

後に六角高頼は寺社本所領や奉公衆領の押領を訴えられたことから、将軍足利義尚・義材の二代に渡って幕府からの討伐を受けることになりますが、元より近江守護・六角家にとっては、京極家だけでなく、奉公衆を務めた高島七頭と呼ばれる佐々木氏の庶家、延暦寺、そして佐々木氏の同族で守護代を務めた伊庭氏などの諸勢力は、近江の支配権を確立する上で乗り越えなければいけない相手でした。

その過程において必然的に六角家は彼等の所領を奪取することとなり、幕府からの討伐を招いたもののこれに耐え抜き、その後も文亀・永正(1501-1521)の二度に渡る伊庭貞隆の乱に打ち勝って、守護から戦国大名への道を歩むことになりました。

高頼の後を継いだ定頼とその子義賢(承禎)は、細川晴元政権期には、京都を追われた将軍・足利義晴とその子義輝を支援してたびたび畿内へ出兵するとともに、長年対立していた江北の浅井氏を従属させ、安定期をもたらしました。

六角氏はこの時期、楽市を開いて観音寺城の城下町を発展させたことでも知られています。

しかし、義賢の子・義治の代には有力家臣の後藤氏を殺害して逆に家臣達の支持を失うとともに、織田信長の怒涛の侵攻を受けて没落しました。

沙沙貴神社に奉納された「佐々木観音寺城」絵図

京極家は後継者争いで勢力を失うも後に復活

京極家は、出雲・隠岐・飛騨の三ヶ国の守護を務め、室町幕府において京都の治安維持を司る侍所頭人を歴任した四職家(赤松・一色・京極・山名)にも数えられている名家です。

応仁・文明の乱の頃に侍所頭人を務めた京極持清と、その腹心で侍所所司代を務めた多賀高忠の活躍が知られますが、持清の死後は政高(政経)と政光・高清の二派に分かれた後継者争いにより、有力被官の抬頭や周辺勢力の介入を招くとともに、実権を失っていきました。

京極家の後継者争いの中で抬頭したのが浅井郡丁野を本拠とした浅井亮政(浅井長政の祖父)で、居城小谷城に京極政高(政経)との争いに勝った京極高清を迎えて、京極氏の内紛に乗じて勢力を延ばした六角高頼とも何度か交戦しています。

(なお、浅井亮政と六角高頼の戦いで六角方の援軍として参陣したのが、越前朝倉氏の老将として名高い朝倉宗滴で、現在の研究ではかつて言われた「父祖三代に渡る浅井・朝倉同盟」が誤りであることが明らかになっています。)

一方の京極政経は出雲に下国して守護代尼子経久の庇護を受けましたが、その死後には守護としての実権を完全に奪われてしまいました。

浅井氏に庇護された京極高吉の子・高次は織田信長に仕え、妹が秀吉の側室となったことから豊臣政権で出世し、関ヶ原合戦では東軍に付いて大津城で西軍を食い止めた功により、その子孫は明治まで大名家として存続しました。

沙沙貴神社の佐々木氏系図

話を佐々木氏惣領の六角家に戻します。

六角高頼の後継者は、若くして病死した高頼の嫡男・氏綱に代わり、弟が還俗して定頼と名乗ってその後を継いで当主となり、以後はその子義賢(承禎)-義弼(義治)と続いたというのが定説です。

しかし、佐々木氏の系図には六角定頼を当主ではなく陣代とし、氏綱の子義實から義秀、義郷と続く系譜を嫡流とするものが残されていて、沙沙貴神社の神主家に伝わった『佐々貴一家流々名字之分系』もその流れを汲む系図となっています。

この系図では定頼のところに「箕作」とある通り、六角氏の観音寺城ではなく、箕作城に移って箕作氏を称したとしています。

また、氏綱の子義實の弟、義景が朝倉家を継いだとされていることにも驚かされます。

『江源武鑑』と黒田家

沙沙貴神社の『佐々貴一家流々名字之分系』に影響を与えたと見られるのが、その系図において六角家の嫡流とされている「六角氏郷」が記したという日記形式の歴史書『江源武鑑』なのですが、実はこの書物、江戸時代に多くの系図を偽作したと言われている沢田源内の手による偽書とされていて、現在では史料として信頼できないと評価されています。

『江源武鑑』が後世に与えた影響は大きく、佐々木源氏の末裔と称する筑前黒田家の正史という位置付けの『黒田家譜』においても、著者の貝原益軒は官兵衛の父・職隆と祖父・重隆の事跡にこれを多く引用しているため、『黒田家譜』を史料として利用するには他の一次史料との突き合わせが欠かせないと言われています。

佐々木源氏の黒田氏については、室町時代の奉公衆名簿『永享以来御番帳』に御相伴衆として「佐々木黒田備前守高光」が記されているほか、他にも複数の史料に確認されていて、確かに実在していたようですが、『黒田家譜』や『寛政重修諸家譜』が系図に掲げる「黒田宗清」以下の人物については史料には確認できず、佐々木黒田氏と筑前黒田家の関係は不明です。

一方で、播磨多可郡黒田庄を本拠地とする播磨黒田氏も実在したようで、こちらを筑前福岡藩の黒田家に繋げる『荘厳寺本 黒田家略系図』も注目されていますが、この系図も近世に書かれたもので、官位の虚飾や史料との齟齬が指摘されており、真相はまだ明らかではありません。

佐々木氏の家紋「七ツ割 平四ツ目 目結紋」。『軍師官兵衛』をよく見ている人には見覚えのある家紋だと思います。

沙沙貴神社には「全国佐々木会」の本部もあります。

なお、京極家の末裔や筑前黒田家の末裔の方(東京在住)も奉納されているようでした。

明治時代に住友財閥を起こした伊庭貞剛も近江佐々木氏の支流、三井財閥も同様に佐々木氏支流の出身で、尼子氏支流の山中氏(あの「七難八苦」の鹿之介の山中です)を祖とする鴻池財閥もまた佐々木一族ということになります。

いわゆる日本の名家には佐々木一族の末裔が大勢いて、沙沙貴神社は現代においても全国の佐々木一族を繋ぐ役割を果たしているようです。おそらく江戸時代においても同様だったのでしょう。

参考

浅井長政と姉川合戦: その繁栄と滅亡への軌跡 (淡海文庫)

浅井長政と姉川合戦: その繁栄と滅亡への軌跡 (淡海文庫)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

なお『江源武鑑』が『黒田家譜』に与えた影響や播磨黒田氏については、「播磨黒田氏 黒田官兵衛」というサイトで詳細に検証されており、参考になります。

また、『江源武鑑』そのものについては、現代語訳を掲載されているサイト「江州侍 ~もう一つの佐々木六角氏~」があります。

「黒田宗清」について巻第三に書かれているほか、巻第四下には「江州観音寺城武備百人一首和歌」の一つとして、官兵衛の祖父・黒田重隆の和歌が、巻第九には重隆の死について記載があります。 巻第十六には「黒田美濃守識隆」が備前からて観音寺城へ出仕したという内容、巻第十八には「佐々木黒田美濃守源識隆」の死について記載があります。

大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)・続

大河ドラマ軍師官兵衛』に便乗して、官兵衛が生まれ育った播磨の戦国期についてあらすじをまとめてみる記事の続きです。

前回の記事 では、赤松家を再興し播磨・備前・美作三ヶ国を回復した赤松政則と、それを支えた浦上則宗、小寺則職、赤松政秀、別所則治ら重臣達のことを書きました。

今回は赤松政則の後を継いだ義村と、義村を後見した洞松院尼、義村を弑逆した浦上村宗の時代について、まとめてみました。

赤松政則の死後、未亡人の洞松院尼が幼い義村を後見

赤松政則と浦上則宗の死後、何度か訪れた危機をその人脈により救ったのが、政則夫人の洞松院尼(めし様)です。

父である細川勝元の死後、尼となって龍安寺でその菩提を弔っていた洞松院は、明応3年(1493)に齢三十にして赤松政則の元に嫁ぎました。

洞松院が堺で陣中にあった政則の元に輿入れした際、誰かがこのような落首を貼ったそうです。

天人と思ひし人は鬼瓦 堺の浦に天下るかな

相手は年増な上に、それほどまでの評判の醜女でした。

すでに猶子として七条家から迎えられた道祖松丸(義村)と、亡き先妻との間に生まれていた長女・松の縁組が済んでいた赤松氏にとって、幕府の中枢を握る細川京兆家との紐帯を強めるためだけの、完全な政略結婚だったと思います。

しかし、政則の死後、東西取合の争乱で家中が分裂し、有力な指導者であった浦上則宗も死去、弱体化していた赤松氏を統制する上で、洞松院は重要な役割を果たします。

洞松院は当主義村の後見役として守護の権限を行使し、自ら印判状を発給するとともに、細川京兆家との繋がりを利用して幕府との関係強化に力を尽くしました。

その執政は、文亀2年(1502)の浦上則宗の死後から永正14年(1517)頃まで続きますが、その間に畿内では後々まで続く「両細川の乱」が激化していきます。

細川政元の跡目を巡って「両細川の乱」が始まり、細川高国は義材派と結ぶ

畿内を舞台に約40年間に渡って繰り広げられた「両細川の乱」の始まりは、将軍・足利義尚の跡目争いまで遡ります。

延徳2年(1490)、足利義視の子である義材が義尚の跡を継いで将軍となったものの、かねてから義材と不仲であった細川政元は明応2年(1493)、義材が片腕と頼む管領畠山政長を討伐し、日野富子政所執事・伊勢氏らと共に足利政知堀越公方)の子・義澄を新たな将軍として擁立しました。

この「明応の政変」によって応仁・文明の乱以来の勢力図は一変、京都を追われた義材の誘いに応じる勢力もあり、義材派と義澄派に分かれた争いが始まります。

京兆家の権力強化に努めるとともに、管領として幕府を主導した細川政元でしたが、修験道に没頭したため妻帯しなかったことから、前関白・九条政基の子である澄之と、前阿波守護・細川成之の孫である澄元という2人の養子を迎えることになり、細川家では澄之派と澄元派に分かれた跡目争いが激化、永正4年(1507)、澄之方の香西元長によって政元が暗殺されるに至りました。(永正の錯乱)

しかし、家督を継いだ澄之も細川家庶流(野州家)の高国を中心に結束した反澄之派による反撃を受け、わずか三十余日で没落、今度は澄之に代わって家督を継いだ澄元とその家臣・三好之長ら阿波勢の抬頭に反発した高国が京都を脱出し、丹波や摂津の国人を味方につけただけでなく、諸国を流浪した末に大内氏の元で庇護されていた前将軍・足利義尹(義材改め)をも抱き込みました。

そして永正5年(1508)4月、義尹を擁し大軍を率いて上洛した大内勢を前に、将軍・義澄と澄元らはなす術なく近江に逃亡、義尹は再び将軍に就任し、高国を管領大内義興を山城守護とする連合政権が成立しました。

赤松家は澄元方に付いて将軍義澄の遺児を庇護、澄元方の敗北による危機を洞松院尼が救う

赤松氏は大内氏の上洛に際して義尹に供奉することを伝えており、当初は高国方に付いていたようですが、永正8年(1511)に澄元、三好之長らが摂津と淡路の軍勢を加えて再び京都へ迫ると、澄元の要請に応じて播磨から2万の大軍を率いて加勢しました。

高国を丹波へと追いやって京都を制圧した澄元方ですが、その優勢も束の間、近江で義澄が病没したこともあってか、澄元方は船岡山合戦で大敗したため、赤松氏も幕府から咎めを受けることになります。

洞松院尼はこの窮地を脱するために尽力し、自ら高国と面会して将軍・義稙(義尹改め)との和睦に成功しました。

その一方で、赤松家では近江から逃れてきた足利義澄の二人の遺児(後の義晴と義維)を庇護しており、そのうちの弟が澄元方によって阿波へ連れ去られるという事件も起きています。

播磨は阿波や淡路の澄元勢が上洛する際、背後に当たることもあり、どちらに転んでもいいよう対処したのかもしれません。

なお、黒田氏を近江佐々木源氏の出自とする『黒田家譜』では、官兵衛の曽祖父にあたる黒田高政が義稙に従って船岡山合戦に参陣したものの、軍令に背いて勘気を被り、後に子の重隆を連れて備前福岡へと移住したとしています。

赤松義村は抬頭する浦上村宗の排除に失敗して没落

今川義元の死後、孫の氏真を後見して今川家を支えた寿桂尼と並んで「女戦国大名」とも呼ばれる洞松院尼ですが、寿桂尼と大きく違うのは、義村との間には血の繋がりがなかったことです。

そのことが影響したのかどうか、洞松院による執政は本来、義村が幼い間の緊急的な体制だったはずですが、義村が成人した後もなかなか実権を委譲しなかったようです。

また、義村が家中で抬頭する浦上村宗の排除に失敗した際には、洞松院尼は松の方とともに義村を見限って、嫡子・才松丸(後の政村/晴政)を連れて村宗の拠点である室津に赴いています。

永正17年(1520)から18年にかけての義村と村宗の対立では、御着城主・小寺則職、浦上一族の浦上村国、村宗の弟で備前守護代・浦上宗久などが義村方に付きましたが、村宗はこれを破って赤松氏の実権を掌握するとともに、備前支配の一元化に成功し、幕府からも一目置かれる存在となりました。

なお、この時村宗方として最も活躍したのが宇喜多能家で、ドラマにも登場する直家の祖父に当たります。(小寺則職は一連の戦いで敗死しており、小寺政職にとって宇喜多氏は曽祖父の仇になります。)

一方の義村は、切り札であった足利義澄の遺児・亀王丸(後の義晴)を、高国政権(仲違いにより将軍義稙に逃亡されていた)への手土産として奪われた挙句、ついに村宗の手兵によって謀殺されてしまいました。

長く表舞台に出ることが叶わず、冷泉為広に師事し置塩館で和歌三昧の生活を送っていたという義村にとって、自分と同様に幼くして浦上宗家を継ぎ、自分よりも年下でありながら、対立した弟を討滅してまで権力を求めた村宗の力強い姿は、羨望の対象でもあったのではないでしょうか。

東西和睦して山名氏の侵攻を撃退し、政村を擁する村宗は播磨の代表者に

義村の死後、淡路へと亡命していた義村方の小寺村職や浦上村国は、大永2年(1522)9月に再び播磨へと戻って挙兵、村宗派と反村宗派に分かれた争いが始まります。

村宗は反村宗派の三木城主・別所村治を攻めるも撃退され、小寺村職と別所村治は連合して再び書写山で村宗を破ったものの、浦上村国と赤松村景が但馬の山名誠豊を招き入れたことから、結局村宗は小寺氏らと和解することになります。

(村宗への対抗のために反村宗派が山名氏の力を借りようとしたものの、思惑通りいかなくなったということでしょうか…)

大永3年(1523)10月、書写山の交戦で山名氏の軍勢を撃退した村宗は、同年6月には守護並の家格にしか許されない白傘袋・毛氈鞍覆の使用を幕府から許可されており、高国政権の元で名実ともに播磨の代表者として認められることになりました。

なお、かつて最強の兵力を誇った大内義興は、尼子氏による領国への侵攻を受けて永正15年(1518)8月に帰国していたため、高国にとって村宗は最も頼りになる存在となりました。

丹波勢が高国方から離反、阿波勢による堺幕府が成立

一方、中央では大永6年(1526)に細川尹賢(高国の弟)が、尼崎城の改築に伴う人足同士のいざこざから、高国方の有力被官であった香西元盛を讒言により謀殺させたことで、元盛の兄弟、波多野稙通柳本賢治丹波勢が、高国政権と対立する阿波勢と示し合わせて謀反を起こします。

丹波守護代・内藤国貞までもが離反したことで幕府軍は敗走し、三好勝長・政長らの阿波勢も堺から上陸、翌大永7年(1527)には柳本賢治率いる丹波勢によって摂津の高国方は大半が降伏、桂川の決戦でも幕府軍は阿波・丹波連合軍に敗れ、高国は将軍義晴と共に近江へと逃れました。

義晴は大永6年(1526)11月に赤松政村と赤松氏被官人、浦上村宗に対して出陣を促しましたが、応じなかったようで、その後も村宗に対して政村を説得するよう御内書を送るとともに、龍野赤松氏の村秀に対しては村宗と相談するよう促しています。

また一方で、別所村治、小寺村職らに対しても早々に和睦を結んで忠節を尽くすよう促しており、山名軍の撃退後は再び東西で対立していたようです。

なお、阿波勢は三好之長の後継者・元長と三好一族の政長らを中心に、細川澄元の遺児・六郎(晴元)と、かつて赤松氏の元から連れ去った現将軍義晴の弟・義維を擁立して堺に上陸、義稙に伴って淡路に逃れていた奉行人とともに新たな政権を立てています。(いわゆる堺幕府)

高国方の反撃と村宗の上洛開始

京都・摂津・河内・和泉はほぼ晴元方が掌握したものの、近江へと逃亡した高国は諦めることなく、伊賀仁木氏、伊勢北畠氏、越前朝倉氏、また出雲尼子氏と諸国を巡って助力を要請するも容れられず、享禄2年(1529)9月、村宗の本拠三石城に訪れました。

同年11月には政村が英賀津に新館を造営し、独立して居住することが認められており、村宗は高国を擁して上洛する準備を進めていたようです。

一方、村宗と対立する別所村治は享禄3年(1530)に上洛して晴元方の柳本賢治を訪ね、隣接する同じ赤松被官の依藤氏の討伐を要請、同年6月には賢治が播磨へ侵攻し依藤氏の城を包囲しました。

時を同じくして、村宗は高国とともに大軍を率いて上洛を開始、柳本賢治の暗殺に成功すると、翌月には小寺村職の居城を落城させ、別所氏や在田氏の拠点を次々と攻略し、播磨のほぼ全域を支配下に収め、8月には更に摂津へと進出しました。

(小寺村職は御着城を嫡子の則職に譲って庄山城へ移り敗死したと伝えられています。この頃には官兵衛の主君である政職もすでに生まれており、父とともに阿波細川氏の元で育ったものと思われます。)

11月には丹波の高国方残党が京都の将軍地蔵山に蜂起、戦線が分裂した晴元方は苦境に陥り、今度は高国方が京都奪還を果たしました。

村宗と三好元長の激突、そして「大物崩れ」

晴元方も手をこまねいていた訳ではなく、享禄4年(1531)2月には阿波へ帰国していた三好元長を再び担ぎ出し、阿波守護・細川持賢からの援軍とともに堺に到着、神崎川を渡って摂津欠郡に侵入し、元長は住吉郡の勝間に陣を構えた村宗を襲撃し、天王寺まで押し返すことに成功しました。

一方、赤松政村と小寺則職らは村宗の後詰として摂津神呪寺に参陣していましたが、その裏ではすでに晴元方の誘惑が及んでおり、密かに裏切りの好機を待っていました。

そして享禄4年(1531)6月4日、元長率いる阿波勢の攻勢を受けた村宗の軍勢に追い打ちをかけるように、明石修理亮を先陣とする赤松軍が急襲し、高国方は総崩れとなりました。

追い立てられた高国方は野里の渡しで政村の兵に襲撃され、数千に及ぶ兵が野里川で溺死、乱戦の中で和泉守護・細川澄賢、伊丹国扶、瓦林日向守、波々伯部兵庫助らが戦死、村宗もまた重臣の島村弾正左衛門と共に敗死しました。

『細川両家記』によると、島村弾正左衛門は敵の1人と組み付いて入水、その後野里川では武者の顔をした蟹が捕れるようになり、誰ともなく「島村蟹」と呼ぶようになったということです。

僅かな手勢に守られて尼崎城へ向かった高国でしたが、赤松氏の手が回っていたためやむなく町屋に紛れ込み、紺屋の大甕の中に隠れて身を潜めていたところ、追手の老将・三好一秀が智恵を働かせ、子供達に真桑瓜を与えて高国を探り当てさせたと伝えられています。

捕縛された高国は広徳寺で切腹、「大物崩れ」からわずか4日後のことでした。

次期将軍を上洛させて主君義村を弑逆、梟雄として絶頂期を迎えた浦上村宗でしたが、高国政権ともども「大物崩れ」の敗戦で崩壊し、播磨は再び諸勢力が割拠する状態となり、やがて尼子氏というかつてない強大な外部勢力の侵攻に曝されることになります。

参考

  • 播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)
    • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
    • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

戦国 三好一族―天下に号令した戦国大名 (洋泉社MC新書)

播磨のものはありませんが、「大物崩れ」関連の戦跡をいくつか巡った際の写真を。

浦上村宗が家臣の島村弾正左衛門らとともに散った野里川(旧中津川)にあったという「野里の渡し」の跡。

野里住吉神社は、享禄四年六月四日に細川常植と細川晴元が戦った際、常植方の本陣であったとあります。日付からすると大物崩れのことなので、常植=高国でしょうか。

尼崎にある「大物崩れ」の戦跡碑です。

なお過去の記事 三ツ山大祭と赤松氏 の中で、播磨国惣社で大永元年(1521)6月に行われた「一ツ山大祭」と、天文2年(1533)9月に行われた「三ツ山大祭」に関して、その背景について簡単に書いていますので、合わせて読んでいただけると幸いです。

大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)

現在、NHK大河ドラマ軍師官兵衛』が第2話まで放映されていますが、ここまでは黒田家が仕える御着城小寺政職と、龍野城赤松政秀という局地的な対立関係しか描かれておらず、その前提となる赤松惣領家の性煕(晴政)と義祐の父子対立はおろか、その存在すら触れられていません。

また、畿内を制していた三好政権の様子が全く話題に上らない一方で、今のところ何の関係もない織田氏の状況が伝えられています。

そして唐突に室津の浦上政宗が登場し、黒田(小寺)職隆との縁組に官兵衛の恋心を絡ませるという不思議な展開。

(当時の政宗は天神山城を本拠とする弟・宗景との抗争で落ち目になっていたことが背景にあるのですが、その辺の経緯も触れられず…)

このままでは、後々の上月合戦や三木合戦の背景がちゃんと描かれるのか不安になってきました。

ドラマに便乗して、この機会に官兵衛が生まれ育った播磨の戦国期についてあらすじをまとめてみます。

といっても、序盤はほとんど赤松氏の話になるわけですが…まずは没落からの再興を果たした赤松政則と、その頃に活躍した重臣たちについて。

赤松政則、赤松家を再興

嘉吉元年(1441)6月24日、赤松満祐が結城合戦の戦勝祝いと称し、将軍・足利義教を自邸に招いて暗殺した「嘉吉の変」は歴史の授業で習った方もいるかと思います。

これにより赤松惣領家は山名持豊(宗全)率いる幕府軍の討伐を受けて没落、領国であった播磨・備前・美作三ヶ国は山名氏に与えられましたが、嘉吉3年(1443)9月の旧南朝勢力による「禁闕の変」で強奪されていた神璽(三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉)を取り戻した功績により、長禄元年(1457)12月、赤松氏は満祐の弟・義雅の孫にあたる道祖松丸(政則)を家督として再興することを幕府から認められました。

この時、神璽奪還のため吉野に潜入した赤松牢人達を指揮したのが、京都雑掌を務めた小寺藤兵衛入道性説で、現在ドラマに登場している小寺政職の先々々々代に当たるようです。(性説…則職-村職-則職-政職)

赤松家は再興によって加賀半国守護に補任され、小寺氏を守護代として入部したものの前守護・富樫氏の勢力によって阻まれ、領国支配は困難を極めたようです。

応仁・文明の乱で播磨・備前・美作を奪回

その後、応仁の大乱が起こると赤松氏は東軍の一員として活動しましたが、この時幼少の政則とともに京都で軍勢を率いたのが、家宰とも呼ぶべき腹心の浦上美作守則宗です。

ドラマでは室津の浦上政宗が官兵衛の父・職隆の養女「たつ」を子息・清宗の嫁に迎えたところですが、則宗政宗の先々々代に当たります。(則宗-佑宗-村宗-政宗

則宗は幼い政則の後見役として共に在京し、侍所所司代として土一揆を鎮圧し将軍義政から太刀を拝領するなど、かねてより幕府の信頼は厚く、洛中の戦いでも赤松軍を率いて活躍しました。

特に応仁元年(1467)8月の南禅寺裏山の戦い(東岩倉の戦い)では、援軍として三千の兵を率いて入京した則宗大文字山に陣取って篝火を焚き、大石の投擲によって大内軍、山名軍、畠山軍、斯波軍と四度に渡って撃退したと伝わっています。

一方で、一族衆・下野守家の赤松政秀は山名軍が京都で戦っている隙を突いて播磨に攻め込み、僅か数日で播磨を回復。備前と美作においても現地勢力の協力を得て、山名氏が任じた守護代の軍勢を撃退し、念願の三ヶ国奪回に成功しました。

同姓同名で紛らわしいのですが、赤松政秀は現在ドラマに登場している赤松政秀の先々々代に当たります。(政秀-則貞-村秀-政秀)

また、播磨奪回戦にはドラマに登場し黒田家とも縁が深いとされている、廣峯神社の神官・廣峯氏も加わって活躍しています。

山名氏との戦いで別所氏が抬頭

長く続いた応仁・文明の乱は細川勝元山名宗全の死後、東西両軍の和睦がようやく成立しましたが、各守護家が国元で抱える対立関係は何ら解決していません。

赤松氏も力ずくで旧領を回復したとは言え幕府から正式な守護職を得たわけではなく、再び山名氏に領国が返還されると危惧したのか、最後まで和睦に反対しています。

そして案の定、文明15年(1483)12月、山名氏が失った三ヶ国を奪還するために本国但馬から播磨へと侵攻を開始し、血気に逸る赤松政則は迎撃に向かいましたが、国境付近の真弓峠で赤松軍と山名軍が激突、赤松氏は敗北して政則が逃亡、行方不明となってしまいました。

この結果を受けて浦上則宗、小寺則職をはじめとする年寄衆は政則を見限り、赤松庶流の有馬氏から猶子を迎えて家督を継がせることを幕府に申請しますが、山名氏との苦しい戦いが続く中、新たに赤松庶流を擁立して山名方につく者も現れるなど、領国は混乱に陥っていたようです。

一方この時、堺に逃亡していた政則を迎えて上洛し、文明16年(1484)2月に再び家督へと返り咲くのに尽力したのが赤松氏の一族、別所則治です。

則治は後に「三木の干殺し」によって滅ぼされた別所長治の、先々々々代に当たります。(則治-則定-村治/就治-安治-長治)

政則は、山名氏との戦いを前にかつて自分に背いた重臣達とも和解を果たして播磨に出陣、一進一退の攻防が続きましたが、次第に赤松氏が優勢となり、山名氏の領国因幡伯耆で起こった反乱も功を奏して、長享2年(1488)頃には再び播磨・備前・美作の三ヶ国から山名氏の勢力を駆逐することに成功しました。

この一連の戦いに多大な貢献を果たした別所則治は東播磨守護代に任ぜられ、西播磨守護代は龍野を本拠とする赤松政秀備前守護代は浦上氏の一族である浦上宗助、美作守護代は浦上氏の配下にあった中村氏が務め、領国からの財政を段銭奉行の小寺氏と薬師寺氏が統括する体制が確立されました。

政則死後の混乱と則宗の挫折

政則は明応5年(1496)2月、従三位への叙任という栄誉を受けた翌月に病死しました。

政則は京都で育った幼少期から威儀の正しい美男子との評判が高く、音曲や猿楽に才能を示し、作刀でも後世に名を残した才人でしたが、その権力は浦上則宗重臣たちの支持なくしては成り立たないものでした。

その一方で権勢を振るった浦上則宗も、一族を守護代とする備前を除けば、政則の権威なくしては領国を治めることはできませんでした。

また、主に幕府の一員として在京し寺奉行も務めた則宗は、幕府の基本方針である寺社本所領安堵を遵守する立場であったため、荘園を押領しようとする在国の被官人達とは対立する宿命にありました。

赤松氏が山名氏と激戦を繰り広げていた頃、幕府は奉公衆の所領や寺社本所領の押領が過ぎた近江の六角氏を討伐するため、将軍足利義尚自らが軍を率いて出陣、赤松氏からも則宗が参陣しましたが、鈎の陣中で義尚から「浦上カ家ヲ続酒承テ飲メ」と下句を求められた則宗は「天ヲ戴ク松之下草」と続け、これに感じ入った将軍から衣服を賜っています。

「天」とは将軍のことで、「松」とは赤松氏のことを指しているそうです。

それが本心からの言葉だったのかは分かりませんが、則宗は主君政則の死後、赤松七条家からの養子・道祖松丸(後の義村)を擁して守護の権限を掌握しようとし、他の被官人達からの反発を受けることになります。

一方、別所則治は政則の未亡人で管領細川政元の姉である洞松院尼を擁立、これによって播磨国内は「東西取合」と呼ばれる混乱に陥りました。

やがて、則宗が劣勢のうちに将軍と細川政元の仲介による和睦が成立しましたが、政則の死は則宗にとって好機とはならなかったわけです。

一族を守護代として備前の領国支配を強め、政則のもと権勢を振るった則宗でしたが、文亀2年(1502)6月に74歳で死去しました。

各地で続く争乱は、在地支配を進める守護代層の自立を促すとともに、在京守護達の下国を招きましたが、この頃はまだ畿内周辺において幕府-守護体制は健在で、将軍の方も守護家の庶子を直臣である奉公衆に任命するなど、特定の守護家が力を持ち過ぎることを忌避していました。

だからこそ、則宗のように有力守護家の被官でありながら、将軍からの信頼をも受けて権勢を振るう者が現れたのだと思います。

戦国大名が現れなかった播磨

赤松家を再興した政則の時代についてざっと紹介しましたが、現在ドラマが扱っている永禄年間から遡ること約60年、この時期に活躍した赤松重臣達によって、天正まで続く播磨の勢力図がすでに形作られていることが分かると思います。

この後、幕府では足利義材(義政の弟である義視の子)が、若くして陣中に没した義尚の跡を継ぎ再度の六角討伐に乗り出しますが、大した成果を上げないまま終結、やがて細川政元日野富子政所執事・伊勢氏らによる力ずくの将軍交代劇「明応の政変」により、再び義澄と義材という二人の将軍方に分かれた争いが始まり、これが政元の死後、細川高国と細川澄元(後に細川晴元)という細川家を二分する「両細川の乱」に繋がっていきます。

播磨では引き続き赤松重臣達が、畿内政権における勢力争いや山名氏、尼子氏といった外部勢力の侵攻を通じて自立性を強めつつ主導権を争う展開が繰り返されますが、惣領家が次第に権力の実体を失っていく一方で、彼等の中からも戦国大名と呼ぶべき突出した勢力は現れませんでした。

ただ一人、則宗に次ぐ浦上氏の傑物(と言っていいでしょう)浦上村宗は、時の管領細川高国と結び、赤松家で養育していた足利亀王丸(義晴)を上洛させるとともに、ついに主君の赤松義村を弑逆し高国政権下で最有力の大名にまでなったのですが、義村の嫡子・政村の裏切りによる「大物崩れ」の敗戦で野里川の露と消えてしまいました。

播磨から戦国大名が出なかった理由を播州人の気質に求める意見もありますが、畿内に近いため幕府内の勢力争いに巻き込まれざるを得なかったこと、大内氏や尼子氏といった西国の大大名の通り道となったことなど、地勢的な問題が大きかったように感じます。

ドラマではこれから、大内と尼子という大勢力の中から成長し中国を制した毛利氏と、三好政権を畿内から駆逐した織田氏の二大勢力に集約されていく様が描かれていくのでしょうけど、その狭間で苦闘した赤松氏とその旧臣達の姿もきちんと描いてくれることを期待しています。

続きはこちら 大河ドラマ『軍師官兵衛』以前の播磨の戦国時代あらすじ(ほぼ赤松氏の話)・続

参考

  • 播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)
    • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
    • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
  • 発売日: 2011/06/01
  • メディア: 単行本

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

  • 渡邊大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』(講談社

戦国誕生 中世日本が終焉するとき (講談社現代新書)

戦国誕生 中世日本が終焉するとき (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

私の戦国観の半分は、大門先生の著作でできています。(四分の一くらいが川岡勉先生、残りはその他…)

「史跡巡りメモ」なので一応それっぽい写真を…。

たつの市埋蔵文化財センター『特別展 西播磨の戦国時代 ~赤松氏の興亡~』のポスター。肖像は赤松政則です。ここが私の赤松歴のスタートとなりました。

赤松氏の系譜。政則の養子となった義村は、円心の長男・範資の流れ「赤松七条家」の生まれ。京都の屋敷が七条にあったことからそう呼ばれたそうです。

龍野城。と言ってもこれは脇坂氏入城後の近世城郭で、赤松時代の遺構は後方にそびえる鶏籠山上にあります。

小寺氏の居城、御着城址にて。現在は公園になっていて、お城風の姫路市役所東出張所が建っています。

小寺一族らを祀る小寺大明神にて。

御着城址の説明板にもありましたが、御着城を築城したという「小寺政隆」は「享禄三年浦上村宗に攻められ討死した」とあるので小寺村職のことですね。元の名が政隆で、義村からの偏諱を受けたということでしょうか。

「小寺豊職」は赤松政則偏諱を受けて則職と名乗ったようなので…これに碑文の内容を加えると、性説…豊職(則職)-政隆(村職?)-則職-政職-久兵衛政則…となりますね。

没落した小寺政職は毛利氏のもとに逃れて子孫は黒田家に仕えたという話をどこかで見ましたが、どうなんでしょうか。

あと、村職は則職に御着城を譲った後、庄山城で敗死したので、ここは間違いだと思います。

追記(2014-01-22)

軍師官兵衛』に関連しておすすめのブログを紹介します。

『戦え!官兵衛くん。 』 http://kurokanproject.blog.fc2.com

史実に即した内容で播磨・備前・美作を中心に戦国時代の流れを漫画で紹介されています。 ピンポイントで入る解説の丁寧さや俯瞰的な視点がとても参考になります。

序盤の官兵衛をとりまく人たちの人間関係 http://kurokanproject.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

上の記事の画像は播磨の状況を手っ取り早く知るのに役立つと思います。

追記(2014-01-24)

黒田官兵衛 作られた軍師像』を参考に小寺氏の系譜を訂正しました。

なお、則職のことを浦上村宗と交戦し永正17年(1520)に敗死したとする一方で、村職については「動向はほとんどわかっていない。若年で亡くなったと考えられる」と書かれています。

御着築城を始め色々なところで名前を見る「小寺政隆」の事跡については、一次史料からは確認できないのかもしれません。