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k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りと歴史のことを書きます。戦国時代でも織田信長上洛以前の畿内と西国が多め。内容には素人の根拠無い想像が混ざってるのでお気をつけください。

大内義興が帰国に至った背景―在京中に起きた「安芸国人一揆」と「有田合戦」の関係、遣明船の永代管掌権を獲得した件について

今回は永正5年に前将軍足利義尹を奉じて上洛して以来、約10年に渡って在京し幕政に携わってきた大内義興がついに帰国するに至った経緯をまとめつつ、考察してみました。

時系列はややこしいですが、だいたい以前の記事 『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(中編)将軍義尹の甲賀出奔事件の背景』 の後で、 讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛 の前くらいの話になります。

大内義興の在京中に起きていた領国の混乱と「安芸国一揆」、毛利元就の武名を高めた「有田合戦」の背景

上洛直後から何度か帰国の意志を仄めかしていた義興ですが、国許の情勢悪化を受けていよいよその意志を固くしたのか、永正12年(1515)10月頃には義興と共に在京していた重臣の陶興房太宰府天満宮に宛てた書状の中で「来年においては、定めて御下向あるべく候や」と伝えました。

以下、少し長くなり余談も増えますが、義興の在京中に帰国した国人たちによって結成された「安芸国一揆」が、大内領国で起きていた混乱とどう繋がっているのかを追っていきます。

永正5年(1508)に大内義興が義尹(義稙)を擁立した際、領国で互いに対立関係にあった国人たちを仲裁した上で上洛に臨んでいたのですが、大内氏に従って上洛した安芸や石見の国人達の中には、永正8年の船岡山合戦の前に無断で帰国した者や、参戦して忠節を尽くした後に無断で、あるいは了承の元で帰国した者などがおり、その動向は様々でした。しかし、畿内での抗争に関わっても疲弊するばかりで利益にならないというのは、多くの国人たちに共通する不満であったようです。

安芸においては永正9年(1512)3月3日、9名の国人たちが「安芸国一揆」と呼ばれる一揆契約を結び、将軍や諸大名からの軍勢催促に対して共に相談して決めることや、衆中で被官人が逃亡した場合にこれを許容しないことなどを定めました。

軍記では毛利興元や吉川国経、それに尼子経久までもが船岡山合戦に参加したことになっていますが、この「安芸国一揆」に参加した9名のうち実際に将軍や義興から与えられた感状が確認できるのは平賀弘保、竹原小早川弘平、天野元貞の3名のみであり、他の国人たちは合戦の前に無断で帰国したものと思われます。

とりわけ、毛利興元、高橋元光、吉川元経はこの頃、相互に婚姻関係を結んでおり、彼ら先行帰国組が幕府や大内氏を含む上位権力からの干渉に対抗するために結束し、更に後から帰国した者たちを引き込んだというのが「安芸国一揆」の実態ではなかったかと考えます。


余談: 毛利氏、高橋氏、吉川氏の婚姻関係を分かりやすく毛利側から見ると、当主の毛利興元が高橋元光の娘を娶って後に生まれた嫡子が幸松丸で、興元の妹は吉川元経に嫁ぎ、そして弟の元就に嫁いできたのが吉川元経の妹、いわゆる妙玖夫人(毛利隆元吉川元春小早川隆景の生母)という関係です。
(軍記では毛利興元正室の父は高橋元光ではなくその父の久光とされていますが、高橋氏の系譜については不明な部分が多く、今回はとりあえず確かな史料に表れている元光を当主としておきます。)

なお、兄の興元が健在であった当時の毛利元就はあくまで「多治比殿」と称された分家の当主に過ぎず、毛利の惣領家自体も長らく有力庶家の伸長に悩まされてきた経緯があって、まだ国内の領主たちを被官として統制するような段階には至っていません。
元就は永正10年、執権の志道広良と共に当主興元への忠節を誓う書状を提出していますが、永正13年に興元が急死して以後はこの二人が協力して毛利家の体制強化に務めることになります。


中でも石見、安芸、備後の三ヶ国の国境地帯に広く勢力を持っていた高橋元光は独立志向が強かったようで、永正10年頃に毛利氏の援軍を得て備後国人の三吉氏を攻撃する事件が起きています。その一方で、船岡山合戦にも参加し義興と共に在京中であった石見国人の益田宗兼が幕府から三吉氏の救援を命じられていることから、彼ら芸石両国の国人たちを統率するべき立場の大内義興としても、看過できない状況となっていたことが窺えます。

幸いにも、高橋元光は永正12年3月に三吉氏との合戦で討死したため、義興は高橋氏の一族で船岡山合戦にも参加した高橋弘厚の子・興光を新たに後継者と定め、高橋氏の問題はいったん落ち着いたようですが、ちょうどその頃、やはり先行して帰国していた石見国人の三隅興兼が、長らく対立関係にあった益田氏の領地を攻撃する事件も起きていました。

(高橋氏の顛末については、『尼子詮久の東征(上洛戦?)から郡山城攻めに至るまで 』において「余談:安芸宍戸氏と結んで石見高橋氏を討滅し、勢力を拡大した毛利元就」として簡単に書いています。)

そして永正12年には、義興の了承の元で帰国していた安芸武田氏の武田元繁が反旗を翻し、大内傘下の己斐城に攻め込むという事件が発生したのです。

安芸国では山名氏が守護職を持っていましたが、在地においてはかつての守護家で数郡を領する安芸武田氏が強勢であり、応仁・文明の乱では東軍に属して大内氏と敵対関係にありました。

義興は武田氏を傘下に収めるため、親交があった公卿・飛鳥井雅俊(歌道と蹴鞠で有名な飛鳥井家の当主)の娘を養女として武田元繁に嫁がせていたのですが、元繁は義興の不在を好機と考えたのか、その娘を離縁して、再び反大内の姿勢を露わにしたわけです。

武田元繁の謀反を受け、義興は毛利興元に己斐城の救援を命じますが、興元は元繁の鋭鋒を避けようと策を講じたものか、別の武田方の拠点であった有田城を攻略した結果、元繁はいったん己斐城から撤退しました。興元はその後どういうわけか有田城を吉川元経に譲ったのですが、間もなく24歳という若さで死去してしまったために、永正14年2月には再び元繁が有田城を奪回すべく攻め寄せてきたのです。

しかし、興元の子幸松丸の後見人となった毛利元就は吉川元経と協力し、劣勢ながらも武田元繁を討ち取ることに成功、20歳という少々遅めの初陣を見事な戦果で飾りました。これが元就の武勇伝として名高い「有田合戦」です。

このような経緯から、永正の「安芸国一揆」は義興の密命により安芸武田氏への対策として契約されたとする説もありますが(永正の安芸国衆協約の成立事情とその効力 | 備陽史探訪の会)、前述したように高橋元光が三吉氏を攻撃した際、毛利氏が高橋氏に協力したのに対して、逆に幕府は三吉氏の救援を命じていることから、この時点での高橋・毛利両氏は義興の意向に背いて独自に行動していたと思われます。

吉川氏でもまた、惣領家の元経に従わずに在京し続けた石見吉川氏の吉川経典は「永正八年御敵出張の刻、惣領次郎三郎闕落の砌、同心せしめず在京忠節の賞」として石見国邇摩郡に給地を与えられ、後年その譲状の中で「元経・毛利・高橋両三人京都下向の刻、惣領に同心せしめず堪忍を遂げ候」と由来を記していることから、やはり彼らの無断帰国は義興の心象を大きく損ねていたのでしょう。

むしろ、義興の帰国が近づくとともに、高橋氏の当主交代に続く当主興元の病死によって路線を変更せざるを得なくなった毛利氏が、同様の立場であった吉川氏と協力して再び大内与党として働く意志を示したというのが「有田合戦」の実態ではないでしょうか。

大内氏が遣明船の永代管掌権を獲得し、ついに京都を離れて周防に帰国したこと

前述のように永正12年(1515)10月頃には帰国の意志を固めていた義興ですが、決して手ぶらで帰ろうとしたわけではなく、永正13年4月19日に将軍義稙より、かねてからの念願であった遣明船の永代管掌の権利を獲得しました。

大内氏は14世紀頃からすでに朝鮮貿易を重要な財政基盤としており、北九州への進出に伴って博多商人とも関係を結んで莫大な利益を得ていたのですが、応仁・文明の乱で西軍方についたために、堺商人と結んだ東軍方の細川氏の画策によって勘合貿易から締め出されたという経緯がありました。

義尹(義稙)の上洛に伴って、永正8年(1511)の遣明船では3隻のうち1隻が細川氏、2隻が大内氏という構成となったのですが、今度はいよいよ3隻全てを大内氏が独占することになったわけです。

明国との貿易は大内氏傘下の国人たちにも大いに利益を与えたようで、讃岐国人の香西元定は大内氏の遺徳を偲んで堂を建て、義興の像を造立したと伝えられています。(『讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛』 参照)

また大内氏は永正14年頃、応仁・文明の乱以後、実効支配が続いていた石見国守護職を幕府から正式に獲得するとともに、義興の留守を預かっていた在国被官筆頭の陶弘詮(在京していた周防国守護代陶興房の叔父で陶一族の長老)を責任者として、島津豊州家の島津忠朝と遣明船に関して交渉させています。

かつて義尹(義稙)が相国寺領堺南庄を帰洛支援の恩賞として大内氏に与えようとした際、義興はこれを辞退し、代わりに山城守護職を与えられています。その頃から遣明船の独占を目論んでいたのであれば、かつて大内義弘が行ったように京都と瀬戸内海を結ぶ要衝である堺を拠点とした方が得策であったはずですが、そうしなかったところを見ると、義興は上洛時点では長期に渡って在京するつもりはなかったのかもしれません。

ただし、永正8年に入明を果たした貿易船がその2年後に帰国した永正10年の時点で、大内氏は正式な貿易船の証明となる「正徳勘合」(明の正徳帝から与えられたためこのように呼ばれています)を幕府に返さず懐に入れたようで、おそらくその頃には将来の遣明船の独占を計画していたものと思われます。

これらのことから、義興は高国と対立の末に帰国したとされる事もありますが、在京当時の史料からは、両者は幕政運営においてはむしろ積極的に協力関係を築いており、共に将軍義稙の政権を支えるパートナーとして親密に交際していたことが窺えます。

衝突といえば、永正6年1月に義興傘下の国人三隅氏が前関白一条家の敷地の使用を巡って高国被官の柳本氏と対立し、死者を出す騒動を起こしたくらいでしたが、この時は将軍義稙自らが恥辱を受けた義興の邸宅に赴き、高国を招いて仲裁するという形を取ったため、両者は元通り和解したと伝えられています。

ただ、今度の大内氏による遣明船の独占は当然ながら細川氏からの反発が予想されたはずです。これが高国の了承を得た上での事だったのか、あるいは帰国の意志を固めたために方針を変えたのかは分かりませんが…。

いぜれにせよ、長期間に渡る在京生活は大きな負担となっていたことは間違いなく、永正13年から14年頃にかけての遣明船の永代管掌権およびの石見守護職の獲得は、帰国準備の一環と捉えるのが適当ではないかと思います。

義興は自身の利益だけを求めて上洛したわけではないにせよ、従三位左京大夫という名誉を獲得して幕府を再興できれば充分などという程、愚直な性分でもなかったのでしょう。

永正14年8月30日には、将軍御所にて大内義興の主催で猿楽興行が催され、将軍義稙や管領細川高国をはじめ、義興が昵懇にしていた飛鳥井雅俊ら公卿たちが客として招かれました。おそらく義興にとってはこれが京都で参加した最後の行事であり、10年近くに渡る在京生活を通じて交流を深めた人々との別れのつもりで饗応に臨んだのではないでしょうか。


余談: なお、義興は上洛直後の永正5年7月に飛鳥井雅俊から蹴鞠書を伝授されたのですが、この永正14年12月にも義興の嫡子で後の義隆と推定される「亀童丸殿」が蹴鞠書を伝授されています。義興の父政弘もまた長享3年に雅俊の父政親から伝授されており、父子代々に渡って親しく交流していました。そのようなも縁あってか、飛鳥井雅俊はこの後、永正17年3月には義興を頼って周防山口へと下向し、大永3年に死去するまで同地で過ごしています。


そして永正14年閏10月、将軍義稙は義興の心中を知ってか知らずか、中風の病の湯治のために、20日間もの長期に渡って有馬温泉に出掛ける計画を発表します。

将軍が京都を留守にすることに対して都で不穏な噂が広まったため、後柏原天皇は延期するよう勧告し、高国も道中の警備を増強するよう助言したものの、義稙は有馬行きを強行してしまいました。その2日後のこと、義興は突然京都を去って堺に移ったのです。

そのまま堺に逗留した義興は、12月26日には先行帰国して「安芸国一揆」にも連署していた竹原小早川弘平と平賀弘保の「遺恨之儀」を仲裁し、弘平に宛てて在京の忠節を謝するとともに、来春には下国することを告げ、静謐たるよう入魂を求める書状を送っています。

翌永正15年正月には、将軍義稙の命を受けた伊勢貞陸が堺を訪れて、帰京するよう説得したものの、義興はこれに応じることなく8月まで堺に滞在し続けた後、ついに周防へ向けて出発しました。

ここに至って義稙も義興の気持を汲んだのか、8月27日付で上洛の労を謝するとともに帰国を許可する御内書を出したのですが、義興はそれを受け取る前に、帰国の途についていたのでした。

大内義興尼子経久に留守を狙われたために帰国したわけではない?

永正5年に上洛した大内義興が約10年に渡る在京活動を終え、永正15年に帰国するに至った経緯について、「安芸国一揆」と「有田合戦」そして「遣明船」に関する動向を中心にまとめましたが、ここまで尼子経久の動向に触れていないことに疑問を抱く方もいると思います。

Webで検索しても、大内義興が帰国したのは在京中に尼子経久が留守を狙って侵攻したためだといった説明がとても多く見受けられますし、僕自身もこれまでに読んだ一般向け書籍の影響もあって、そのように捉えていました。

しかし、これまで見たような大内氏上洛以後の経緯を考えると、義興の帰国はそのような急激な情勢の変化によるものではないと判断せざるを得ません。

義興は上洛直後から帰国の意志を表していたものの、「船岡山合戦」の勝利により京都の治安回復に多大な貢献を果たすとともに、従三位への上階という名誉を獲得してからは、細川高国・畠山尚順・畠山義元といった在京守護と共に腰を据えて幕政に参加し、将軍義尹(義稙)を支える道を選んだのでしょう。

先行帰国した安芸や石見の国人たちが幾度となく騒動を起こしますが、西国一の大名として幕府の再興に貢献しようとの自負心によって、何とか踏み留まり続けていたというのが実情ではなかったでしょうか。

そして、義興がついに帰国を決意して具体的な準備を進めたのが、永正13年から永正14年頃にかけての遣明船の永代管掌権と石見守護職の獲得だったわけです。

この時、前石見守護である山名氏の守護代尼子経久と提携して抵抗したことはあったようですが、『御内書案』(「続群書類従 第23輯 下 武家部」収録)には永正14年4月、伊勢貞陸から「佐々木尼子伊予守」(尼子経久)に宛てて、太刀や馬などが贈られてきたことに対する礼状が残されています。

このことから、幕府は尼子氏を敵視していないことが窺えますし、当時在京して幕政に携わっていた大内義興も、まだ尼子氏を脅威とは考えていなかったのではないでしょうか。

義興が帰国を決意した永正12年末に至るまでの間、先行帰国組の高橋元光が毛利氏と組んで勝手に侵略をはじめたことや、義興の了承の元で帰国した武田元繁が離反したことについても、尼子経久の調略を受けたためとされますが、実際その頃の尼子氏はまだ出雲一国さえ統一できていない状況で、そのような余裕があったとは思えません。

つまり、大内義興尼子経久に留守を狙われたために帰国したわけではない、とするのが妥当と考えます。

…とは言っても、僕はこの時期の尼子側の動向を詳しく追ったわけではありませんので、もし大内義興が永正15年8月に帰国する以前に、尼子氏が大内領に侵攻したという記録をご存知でしたら、ご教示いただけると幸いです。


余談: なお、尼子経久の上洛は史料からは確認できないものの、経久の次男「国久」、三男「興久」の諱はそれぞれ細川高国、大内義興からの偏諱と考えられることから、尼子氏は確かに永正5年の義尹(義稙)上洛前後には大内氏の傘下にあったと推測できます。

そして帰国後の義興が日明貿易を巡って高国と対立した一方、尼子氏は引き続き高国の与党として活動しています。高国は義晴を将軍に擁立した永正18年(1521)から享禄4年(1531)の「大物崩れ」により死去するまでの間は紛れもなく幕府の主導者ですから、大内氏の方が先に幕府に背いたとも言えるわけです。


参考にさせていただいた書籍、資料等の紹介

藤井崇『大内義興 西国の「覇者」の誕生』(戎光祥出版)

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

大内義興―西国の「覇者」の誕生 (中世武士選書)

今回、大内義興の帰国の経緯について詳しく書くきっかけとなった本です。

永正の「安芸国一揆」加盟者による船岡山合戦以前の先行帰国の問題と、武田元繁の離反問題を含む、大内義興在京中に領国で起きた混乱については主にこちらから学びました。
軍記物で流布されている尼子経久の暗躍については史料的な根拠があるわけではないのか、否定的な印象を持っておられるように感じられましたので、今回の記事もその方向で考察しました。

また、遣明船の永代管掌権を獲得するに至った経緯についても、上洛当初からその意志があったわけではないことが説明されています。
ただ、永正8年の遣明船が永正10年に帰国した際に「正徳勘合」を幕府に返さなかったこともあるので、当分は在京して幕政に積極的に関わることを決意した時点で、方針を変えたのではないかと考えた次第です。

岸田裕之『毛利元就 武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ』(ミネルヴァ書房

毛利氏を中心に西国の戦国大名について研究されている、岸田先生の本です。

安芸国一揆」と「有田合戦」の背景について毛利氏の視点から、藤井先生の義興本と相互補完的に学びました。

毛利元就個人の伝記というよりも、毛利氏の権力がどのようにして形作られていったのかを丹念に解説されていて、いくつか既読したミネルヴァ書房の同シリーズの中でも、かなり専門的な内容です。

浜口誠至『在京大名 細川京兆家の政治史的研究』(思文閣出版)

在京大名細川京兆家の政治史的研究

在京大名細川京兆家の政治史的研究

猿楽興行や大名邸御成の主客一覧があり、大内義興をはじめとする在京大名たちが儀礼面でどのように交流していたのか、また儀礼が当時の幕政においてどのような役割を果たしていたのかを学びました。

今のところ、細川高国の真価を知ることができる唯一無二の一冊だと思いますので、特に以前の僕と同じように三好氏の視点で「大内義興に便乗して権力握った要領のいいやつ」と捉えている方には、是非ともご一読いただきたいです。

山田康弘『足利義稙 戦国に生きた不屈の大将軍』(戎光祥出版)

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

足利義稙-戦国に生きた不屈の大将軍- (中世武士選書33)

将軍が有馬温泉に赴いた際に大内義興が京都から堺へと移った件については、主にこの本から学びました。

浜口先生が在京四大名による猿楽興行の共催を、高国が幕府における序列形成を図ったものと捉えられているのに対して、山田先生は将軍が1人を突出させないようバランスを図ったものと、真逆の評価をしているのが面白いです。

中央だけでなく地方の有力者との関わりも満遍なく紹介されていて、応仁の乱後からの畿内戦国史の入門書としても、おすすめの一冊です。

村井章介『分裂から天下統一へ シリーズ日本中世史④』(岩波新書

戦国時代における世界との繋がりから天下統一への道筋を説く内容で、以前の記事 『讃岐香西氏と大内堂の縁起が伝える大内義興の永正17年幻の上洛』 を通じて、自分には遣明船を始めとする世界との交流のイメージができていないことを思い知ったため、まずは通史的な観点ということで購入したものです。

日明国交断絶の切っ掛けとなった事件として有名な大永3年の「寧波の乱」が、以前からの大内氏と細川氏の対立の流れの延長だけではなく、義興が将軍義稙より遣明船の永代管掌権を得て帰国した後、将軍義稙の出奔によって高国が新たに将軍義晴を擁立した結果として起きたことが、よく分かりました。

「正徳勘合」を大内氏が幕府に返さなかったという件も、こちらの本で知りました。

シリーズ本ですが、実は各巻独立しているので単巻で読んでも問題ないみたいです。

山本啓介「蹴鞠伝授書から見た室町・戦国期における飛鳥井家とその周辺」

蹴鞠書の伝授を巡る飛鳥井家と大内氏の交流関係や、飛鳥井雅俊の動向についてはこの論文を参考にしました。

戦国時代で蹴鞠というと、何かと今川氏真などがネガティブな感じで採り上げられますが、実は歴代の飛鳥井家当主は斯波義将、畠山満家、斎藤妙椿、そして大内政弘朝倉孝景と、錚々たる名将たちに蹴鞠を伝授していて、なかなか興味深いです。

足利義材(義稙)の寵臣で「明応の政変」の際に諸将の標的にされたといわれる公家の葉室光忠も、大内政弘と同じく飛鳥井雅親(栄雅)から伝授されていて、義材(義稙)と葉室光忠、飛鳥井雅親・雅俊父子と大内政弘・義興父子という交流の繋がりを窺わせてくれます。

シリーズ記事『「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」』

今回の記事は、実はこのシリーズ記事の「後編」の一部とする予定でしたが、大内義興の帰国について書き連ねるうちに長くなってしまい、更にそれに合わせて他の部分まで長くなることが予想されましたので、独立させた次第です。

後編の公開については、またかなり先のことになると思います…。

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