k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りを楽しむために学んだことを公開している「学習メモ」です。

伊予国・松山城は屏風折の高石垣がすごい!

連休で伊予国は道後に湯築城跡、そして松山城を訪ねてきました。

湯築城跡(道後公園)は、すっかり公園な感じ…。

湯築城跡と河野氏にまつわる話はまた別の機会においといて、今回は松山城のすごい石垣を写真で紹介します。

近世になって建てられた城だし、初代城主は加藤嘉明か…そんなにときめかないなぁ…などと思いつつ、「坂の上の雲ミュージアム」を見るついでくらいのテンションで行ったんですが、これが予想外の感動がありました。

松山城の概略

松山城は勝山の山頂に本丸、中腹に二ノ丸、山麓に三ノ丸が設けられたいわゆる連郭式平山城で、築城したのはいわゆる賤ヶ岳の七本槍に数えられ叩き上げの武将として名高い加藤嘉明です。

伊予正木城10万石の城主だった加藤嘉明は、慶長7年(1602)、関ヶ原合戦の戦功によって10万石の加増を受け、藤堂高虎(仲が悪いことで知られる)とともに伊予半国の領主となります。そして勝山に新たな城を築くこととし、翌年に居を移すとともにこの地を「松山」と名付けました。

しかし、加藤嘉明松山城の完成間近の寛永4年(1627)、お家騒動により減封となった蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)と入れ替わる形で、会津40万石への転封を命じられてしまいました。(この転封は藤堂高虎の推薦によるものだそうですが…嘉明は感謝したのか恨んだのか…)

松山城は築城当時、五層の天守を持っていたそうですが、寛永11年(1634)に蒲生忠知が病没により断絶した後、桑名からの転封で城主となった松平定行によって、寛永16年(1639)から3年がかりで三層の天守に改築されています。

(五層から三層に改築された理由は、天守の安全確保のためだとか、幕府への配慮だとか諸説あるようです。)

しかし、9代松平定国の時に天明4年(1784)の元旦に落雷で天守をはじめ本壇が焼失、11代松平定通が文政3年(1820)に復興工事に着手したものの16年にして頓挫、12代松平勝善が弘化4年(1847)に城郭の復興を再開し、ようやく嘉永5年(1852)に天守をはじめ城郭が完成、安政元年(1854)に落成となりました。

天守と小天守、隅櫓を連ねた連立式天守を備えた松山城は、このような経緯で幕末に完成されたため、我が国最後の城郭建築とも言われています。

幕末の動乱と松山城

親藩であった松山藩は幕末の動乱では二度の長州征伐で先鋒を務め、慶応3年(1867)に14代藩主となった松平定昭は老中に就任しますが1か月後には大政奉還鳥羽伏見の戦いで朝敵とされ、新政府軍による追討令を受けました。

抗戦か恭順かで藩論は割れたそうですが、藩主定昭は恭順を決断、財政難の中で15万両を朝廷に献上して、蟄居謹慎の上すべての官位を返上、藩主も元藩主の勝成に交代したことで赦されました。また同年、源姓松平氏と葵紋を返上して菅原姓久松氏に復姓しています。

藩士たちの無念を思うと心苦しいですが、もし徹底抗戦していれば、今の松山城の姿はなく「現存12天守」に数えられることもなかったのではないでしょうか。

余談になりますが、「賊軍」松山藩の下級武士という立場から陸軍大将にまで上り詰めた秋山好古は、明治20年(1887)に騎兵大尉への任官後、旧藩主久松家の当主・久松定謨に伴ってフランスの陸軍士官学校で騎兵戦術を学びました。大正4年(1915)、秋山好古近衛師団長に就任した際、近衛歩兵第1連隊長を務めていたのが久松定謨で、二人は「これで賊軍の汚名が晴らせた」と喜び合ったとのこと。

(久松定謨のお孫さん、久松定成氏の靖国神社崇敬奉賛会会長就任を祝う会で紹介された話だそうです。【靖国神社崇敬奉賛会会長就任を祝う会を開催】

松山城本丸の紹介

本丸へは麓からロープウェイに乗って行きました。

ロープウェイから下りて本丸へ向かう途中、いきなり心を鷲掴みにされたのが、この高石垣です。

打込み接ぎの頑丈そうな石垣で、迫力があります。

こちらは太鼓櫓の石垣。

ここもいいですよ!

奥から天守がちらりと顔を覗かせる、中ノ門跡からの眺めもおすすめです。

途中で振り向いて。

石垣に登って、少し高いところから。

この門は筒井門。本丸へと向かう大手を固める最も堅固な門で、築城の際に正木城から移築されたと伝えられているそうです。

こちらは隠門といい、大手から攻め寄せる敵を急襲するための門だそう。

太鼓門。これに加えて太鼓門南続櫓、太鼓門北続櫓、太鼓櫓、巽櫓が石垣上に続けて構築されており、筒井門からの敵に備えているとのこと。

太鼓門を本丸側から見るとこんな感じ。

続櫓を本丸側から。

本丸に入ってすぐのところにある、井戸の跡。

本丸に入ってから天守の建つ本壇まで、結構距離があります。

素晴らしい眺めです…。

本壇に近付くとつい、天守に目を奪われてしまいますが…。

ここから見る石垣も忘れてはいけません。

天守と南隅櫓。

天守の鬼瓦には葵の御紋。現存12天守の中で唯一の葵紋だそうです。

天守の中には解説パネルのほか、松山城松山藩にまつわる様々な物が展示されていました。あまりじっくり見る時間はなかったのですが、以下印象深かった二品を紹介します。

(写真は北隅櫓と南隅櫓を連結する渡櫓、十間廊下)

加藤嘉明の物と伝わる甲冑です。嘉明といえば三角形のイカみたいな兜で有名ですが、これもなかなかおしゃれです。

嘉明と不仲だったという藤堂高虎は並外れた巨漢で有名ですが、対する嘉明はけっこう小柄だったようですね。

松山藩が新政府に恭順した際、松平勝成と定昭父子がこの書をしたためたそうです。

(ちなみに勝成は高松藩松平家から、定昭は津藩藤堂家からの養嗣子)

窓から覗いてみるのもよいです。

こちらは大手方面。

天守の展望台から、道後方面。真ん中辺りに見える森が道後公園湯築城跡です。

湯築城と比較すると、松山城がいかに巨大な城郭か分かるでしょうか。

天守から、再び大手方面。

天守を出て、本丸から同じ馬具櫓を。

馬具櫓は松山城で唯一、鉄筋コンクリート製の建物だそうで、現在は管理事務所として利用されています。

馬具櫓から大手寄りの突き出たところから天守方面を見ると、屏風折の素晴らしい高石垣が見られます。

この本丸の壮大な石垣は、加藤嘉明の頃にほぼ完成されていたそうです。同じ加藤で一般によく知られる加藤清正も築城の名手として有名ですが、嘉明も引けを取りませんね。

他にも、松山城では山上の天守山麓の居館(現在は二之丸史跡庭園になっています)を連結した「登り石垣」という珍しいものがあるそうですが、予習不足と時間不足で見ることができませんでした…。

おまけ

本丸へはロープウェイのほか、リフトでも昇り降りできます。なかなか気持ちいいですよ。

こんなところに鯉のぼりが(笑)

マスコットキャラクターの「よしあきくん」もお忘れなく。

顔出しもあります。

工事の看板も、加藤嘉明リスペクト!

嘉明は三河出身ですが、地元の英雄ではなくても最初に松山城と城下町を築いた領主なので、人気があるんですね。

近くにある松山東雲学園プロテスタント系の女学校ですが、まるで松山城の一部のようなデザインが面白いです。

参考資料

  • 松山城のパンフレット(かなり詳しいです!)