k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りを楽しむために学んだことを公開している「学習メモ」です。

英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史

英賀城は、夢前川の河口一帯に瀬戸内水運の拠点として発展し、本願寺の播磨における拠点となった本徳寺の寺内町として栄えた城郭都市です。

英賀を発展させた英賀城主・三木一族

戦国期に英賀城主を務めた三木氏は伊予河野氏の一族で、讃岐三木郡を相続したという河野通堯の子・通近を祖としています。しかし、河野氏側の系譜には三木氏との関係が記録されておらず、事実かどうかは定かではありません。

永享2年(1430)に飾東郡恋ノ浜城へと移った通近は三木氏を名乗り、『播州英城日記』は4代目の通武が嘉吉3年(1443)に英賀へ入部、12月から翌文安元年(1444)11月にかけて「芝」の地に居館を築き、同2年正月に移り住んだと伝えています。

三木氏以前の英賀は、鎌倉期に福井荘の地頭であった吉川氏の支配下にあったことや、永享年間に播磨守護赤松満祐の弟・常陸介祐尚が「英城」に居したことが、上郡町の宝林寺や法雲寺といった赤松氏ゆかりの寺院に伝わる文書に記されていますが、確かなことは分かっていません。

三木氏が英賀に進出したのは、嘉吉元年(1441)6月に赤松氏が将軍・足利義教を自邸で殺害するという前代未聞の事件を起こして幕府から討伐を受けた「嘉吉の乱」の終結から間もない頃ですが、三木氏はその間に初代から4代まで立て続けに交代しており、かなりの混乱があったことが窺えます。また、三木通武の母は赤松満祐の娘であったとも伝わっていますが、嘉吉の乱後に播磨を得た山名持豊(宗全)は三木氏の英賀進出を容認したようです。

亀山本徳寺がまとめた『播州真宗年表』によると、永享12年(1440)に関東で勃発した結城合戦に際して、三木通重が軍船40隻を率いて飾磨沖から赤穂の警固にあたったそうで、すでに相当な勢力を持っていたことが窺えます。また「三木氏は武家ではなく、英賀代官の統制下にあった裕福な交易業者であり、後に武士化したと思われる」と推測されています。

あるいは、永享年間に恋ノ浜城を拠点に赤松氏の下で水軍を統括していた三木氏が、嘉吉の乱を通じて山名氏に従い、赤松氏に代わって英賀城を占拠したとも考えられます。(英賀城主・赤松祐尚は嘉吉の乱以前に亡くなっており、後継者の則尚は乱の当時まだ10代でした)

享徳3年(1454)には、将軍・足利義政が赤松満祐の甥・則尚を赦免したばかりか、上意に背いたという理由で山名持豊に対して討伐軍を招集する事件が起きました。『播州真宗年表』によると、この際に山名氏による英賀侵攻の風聞を受けた三木通武は、大規模な築城工事を行い、南側に田井ヶ浜を城内深く引き入れて港とし、北側は十の出入口(広辻口、芝之口、駒芝口、井上口、大木口、河下口、北芝口、岡芝口、野中口、山科口)を土塁で結んで防備を固め、その外側にある沼沢地帯を濠(大木之濠)としました。岩を繋いだような強固な城「岩繋城」と呼ばれた英賀城の城域は、この頃にほぼ確定したようです。

なお、山名持豊の婿であった管領細川勝元が将軍に従わず逐電したため山名討伐は中止されましたが、梯子を外される形となった赤松則尚は播磨に下向して旧臣達と共に挙兵します。翌享徳4年(1455)4月には山名氏の大軍が播磨に侵攻、赤松方も坂本城や壇特山に篭って抗戦したものの、山名是豊ら備後勢が篭もる室山を落とせず敗走した則尚は備前鹿久居島に逃れて自害、その首は赤松円心開基の法雲寺で晒されました。

(三木通武も赤松方として参戦したとの説もありますが、結局は山名氏によって許されたようで、経緯はよく分かりません。)

その後、長禄元年(1457)には南朝方に奪われていた神璽を奪回した功績により、赤松満祐の弟義雅の孫・政則を当主として再興が認められた赤松氏は、応仁・文明の乱において東軍方として活躍し、播磨の奪還に成功します。三木氏5代目の通安は当初、西軍山名氏に従って大内・河野軍を先導し20隻の軍船を率いて摂津に出向したものの、後に東軍赤松氏の麾下に入って武功を上げ、従四位下宮内少輔に任ぜられました。

その水軍力を武器に山名氏と赤松氏の間で巧みに立ち回り、英賀城を発展させた三木通安は、北方の山崎山に初代通近から四代通武までの頭首とその妻の墓を建てました。そして三木一族は城内に市庭家、井上家、土井家、堀内家の「四本家」と山崎家、薮内家、町之坪家の「三連家」がそれぞれ居館を構え、七家の合議によって英賀の町を運営したと伝えられています。

播磨における本願寺の興隆と「英賀御堂」本徳寺

英賀城を発展させた三木氏は浄土真宗本願寺に帰依し、本願寺一家衆を本徳寺に迎えることで、やがて「英賀門徒」と呼ばれる強力な門徒集団を抱えるに至ります。

西国においては仏光寺系の布教が先行していたようですが、明応年間には「播磨六坊」(円光寺、光善寺、永応寺、万福寺、光源寺、光触寺)に代表される各地の寺院が次々と本願寺の系列に入り、中には天台宗禅宗から転派する寺院も現れるようになります。

江戸中期に三木知識が編纂したという『姫路船場本徳寺開基略』は、蓮如の命を受けて播磨へ下向した弟子の法専坊空善によって、明応2年(1493)2月28日に道場が開創され、蓮如により英賀東「苅屋道場」に本尊が授けられたと伝えています。

また『播州英城日記』よると、三木氏6代目の通規が英賀城主を務めた永正年間にはますます「専念一向宗」に帰依する者が増えたため、やがて門徒の中で一家衆(宗主の一族)を迎えたいとの声が高まり、永正9年(1512)8月には天満九郎四郎近村が上京して本願寺に参じて一家衆の下向を懇請した結果、実如上人はこれを受け入れました。

『栄玄聞書』には、この頃の播磨では守護赤松氏が怨みにより一向宗を禁止していたところ、実如上人が秘蔵の名馬「ちゞみ栗毛」を赤松氏へ贈ったことにより、禁制が解かれたというエピソードが記されているそうです。

実如上人御代に、御馬五十疋仙飼候、其中にちゞみ栗毛と申御馬、御秘蔵の名馬にて候。然ば播磨の国赤松[是は備前、はりま、みまさか三ヶ国の守護也]このちゞみ栗毛の事を承り及び、上野[蓮秀と云云]まで度々所望の由申入られ候へども、蓮秀御耳にもたてられず候、其故は、御秘蔵の御馬にて候あひだ、中々くだされまじきと存ぜられ、申あげられず候

…中略…

総じて赤松と申ものは、御一宗に怨をなし、播磨一国の門徒の者に、念仏をさへこゝろやすく申させぬ者にて候、播磨一国の尼入に、こゝろやすく念仏をも申させ、仏法をも聴聞させ候はゞ、たとへば御身をうらるゝともおしからずと、思召候と御意候、この仰せを御前の人々承り、数剋落涙のよし候、さて御馬をば京へ引こさせられ、赤松へくだされ候、赤松悦喜申され候事、是非なく候、すなはちこれより、播磨一国の仏法こゝろやすくひろまり申候なり

このような実如上人の意志により、まず永正9年(1512)に五子の実玄が英賀本徳寺に入寺したものの、永正12年(1515)3月に夭逝したため、その後は三河土呂本宗寺の住持であった六子・実円が英賀本徳寺を兼帯することになりました。永正10年(1513)9月2日、芝之館において実円と対面した英賀衆「七家」をはじめ89人が剃髪し、浄土真宗の歓化を受けたと伝えられています。

また『播州英城日記』によると、永正10年(1513)2月には東西一町、南北二十間の地を定めて坊舎の建築が開始され、2年後の永正12年(1515)6月2日には南北九間、東西七間という規模の「英賀御堂」が完成、翌日から七日間の遷仏法要が営まれるとともに、実円より七家以下各分家へ蓮如直筆の六字名号(「南無阿彌陀佛」と記した掛け軸)五十余軸が授与されました。

大永5年(1525)に実如上人が没した後、実円は後継者となった証如の後見役として大坂本願寺にいることが多かったようですが、英賀へも何度か下向しており、天文6年(1537)頃には播磨へ進出した尼子氏の動静を証如に伝えるなど、政治的な面でも本願寺教団の重鎮として活躍しました。

(実円の報告を受けてか証如は尼子詮久に宛てて「御出張の由承り候、ことに早速御本意に属し候条珍重に候」とその進出を祝う書状を送っています。)

また、戦国期の本願寺は各地の門徒を御堂番として上山させていましたが、播磨門徒でも天文7年(1538)以降およそ年2回、万福寺、播磨衆、英賀衆というグループに分かれて御堂番を勤めたほか、証如上人の日記『天文日記』には英賀の俗人門徒である英賀徳正、すみや甚兵衛、英賀市場与三兵衛、英賀丈重新衛門らの死去や年忌に際して、遺族が本願寺へ斎(仏事における食事)の調進を行ったという記録が残されており、信仰活動の中にも英賀衆の経済力が窺えます。

英賀城主・三木氏は自ら門徒となることで「英賀御堂」本徳寺を中核とした阿弥陀信仰を共通の精神基盤とし、地縁的共同体の統率者として強固な関係を築きますが、英賀と本願寺の強い繋がりは、やがて畿内の覇者となった信長との間に勃発する「石山合戦」に強く影響を受けることになります。

軍師官兵衛』が触れなかった姫路時代の黒田家と英賀の関係

大河ドラマ軍師官兵衛』では主君・小寺政職を説き伏せて信長方となった官兵衛が、海上から攻め寄せる毛利氏の水軍を撃退したという天正5年(1577)5月の「英賀合戦」において、侍女のうち何人かが本願寺門徒であったため官兵衛の元を離れて英賀本徳寺に駆け込み、敗戦後再び黒田家を頼った末、侍女の1人「お道」が栗山善助の妻になるというストーリーが描かれました。

しかし、実際の黒田家と英賀の関係はもっと深いもので、『寛政重修諸家譜』によると官兵衛の姉妹に当たる黒田職隆の長女が英賀城主・三木氏の元に嫁いでおり、官兵衛が母里一族24人の戦死という犠牲を払いつつ辛勝したと『黒田家譜』が伝える永禄12年(1569)8月「青山合戦」では、三木氏も小寺方として援軍を送っています。

また、英賀本徳寺の後身である亀山本徳寺には、英賀城主・三木通明と見られる「三木宗太夫入道慶栄」が永禄9年(1566)5月に英賀本徳寺へ寄進したという梵鐘が伝えられていますが、この製作者である芥田五郎右衛門尉家久は姫路城近くの野里村に在住して播磨鋳物師を統括した人物で、永禄12年(1569)8月22日には小寺政職から弟の善五郎と共に青山面における戦功を賞する感状を与えられており、同じ小寺氏の被官として、黒田氏とも親しい関係にありました。

芥田五郎右衛門は個人的にも官兵衛と親しかったようで、後に福岡時代の官兵衛から五郎右衛門に宛てて、池田輝政が発展させた姫路城下町の繁栄ぶりを喜ぶ内容の書状が残されています。

姉妹の嫁ぎ先でもありかつて良好な関係を築いていた英賀を攻撃目標とする「英賀合戦」は、主家の小寺氏ともども生き残るため織田方に付いた結果とはいえ、官兵衛にとって辛い戦いだったのではないでしょうか。

ちなみに「ひめじ大河ドラマ館 かわら版」によると、亀山本徳寺では『軍師官兵衛』の英賀合戦に際して、毛利軍の大将・浦宗勝が英賀御堂に本陣を構えるシーンと、本願寺顕如をはじめ僧侶が念仏を唱えるシーンが撮影されたそうです。

その際、書写山圓教寺のお坊さんが僧侶役のエキストラとして参加したそうですが、旧仏教である天台宗は当時の新興宗教であった本願寺教団を目の敵にしていたため、『播州英城日記』には書写山の僧徒がたびたび英賀に攻め込んで死者が出る争いになったことが記されており、大永5年(1525)には僧徒によって強奪された鐘を英賀衆が山崎辺りで取り戻すという事件も起きています。

カンペを見ながら違う宗派のお経を読んだというお坊さん達は、ご存知だったでしょうか…。

英賀城跡を巡る

英賀城跡の遺構はほとんど残っておらず、十口の城門跡に石碑が建てられているものの、三木通武が築いたという「岩繋城」の姿は現状からはなかなか想像できません。ですが、実際に歩いてみることでその広さを実感することはできました。

山陽電鉄西飾磨駅前にある史跡地図。「付城公園」「清水公園」「矢倉公園」といった公園にも当時を偲ぶ地名が残っています。

付城は織田勢を警戒した三木氏が築いた出城もしくは、秀吉が英賀城攻略の際に築いた付城の跡と考えられます。

清水はおそらく秀吉による英賀城攻略の際に最前線となった「清水構」で、ここには宮部善祥坊が配置されていたと伝わっています。

現在の水尾川。英賀城は東に水尾川、西に夢前川が天然の堀を形成していました。

「城内に 眠り一村 水ぬるむ」

広辻口は英賀城の十口の一つで、水尾川に面した東側に当たります。

本丸跡に建つ石碑と復元図。上が南です。

英賀城は本丸と二ノ丸が随分と東に偏っていますが、この近くには「芝之口」や「駒芝口」があり、おそらく英賀へ入部した三木通武が最初に築き、英賀衆が実円と対面したという「芝之館」が二ノ丸もしくは本丸の原型だったと思われます。

「田井ヶ浜 おぼろがつゝむ 英賀城史」

三木通武が南側に港を引き入れたという田井ヶ浜の跡。落城後荒れ果てていたというこの地を清めた熊谷家が地蔵尊を祀り、英賀神社の辰巳の方角に当たるため「巽地蔵」と呼ばれるようになったそうです。

田井ヶ浜跡の碑文には「天正四年(一五七六) この地は毛利水軍五千人の上陸地」とありますが、この年次は『黒田家譜』による誤伝で、実際には天正5年(1577)5月のことです。

夢前川にかかる山陽電鉄の鉄橋。山陽電鉄の線路辺りが英賀城の南端になりますが、ちょうどこの辺りには英賀津の船溜まりがあったようです。

なお、現在の夢前川は昭和13年日本製鐵広畑製鐵所の建設に伴う付替工事のため、かつての流路から東に大きくずれています。

夢前川にかかる歌野橋より。夢前川の付替工事によって川底に埋まったという本徳寺跡地は、歌野橋上流約100mの河川敷中央辺りにあったそうです。この辺でしょうか?

歌野橋を渡って夢前川東の堤防を少し北上したところにある「英賀本徳寺(英賀御坊)跡」の案内板と、天正5年の英賀本徳寺建物配置復元図。かつてこの地には「御坊」という字名が残っていたそうです。

本徳寺跡にある英賀城跡区域復元図は、現在の地図の上に土塁や堀が重ねて描かれ、館跡や十口の位置も記入されていて分かりやすいです。

これを見ると、まさしく現在の夢前川の真ん中にかつての本徳寺があったことが分かります。

明蓮寺は永正14年(1527)に三木通規の家臣である神出左衛門の母・妙蓮尼によって建立され、秀吉による寺内町解体後も唯一この地に残った寺院です。ここには石山合戦期に顕如から英賀惣中に宛てた書状が伝えられていますが、それは次回に紹介します。

昭和3年に英賀青年会が建立したという石碑はかつて本徳寺跡にあったもので、夢前川の付替工事に伴って明蓮寺の境内に移設されました。

なお、周りには北条(北條)さん宅が多かったのですが、明蓮寺の斜め向かいには三木さん宅がありました。(三木氏の末裔の方でしょうか…?)

「英賀御坊ハ今ヲ去ル四百三十七年明應元年蓮如上人ノ開基ニシテ播州真宗發祥ノ霊地ナリ」 昭和3年当時はこのように伝承されていたようです。

英賀神社は英賀彦神、英賀姫神主祭神とし、播磨風土記にも英賀の地名はこの神名に因ることが記されているそうです。英賀城下に本徳寺以下35ヶ寺を数える中、唯一の古い由緒を持つ神社であったようです。

英賀神社には永禄10年(1567)に三木宗太夫慶栄が寄進した英賀本徳寺鬼瓦や、英賀落城の2年後に当たる天正10年に薬師入道道定が撰述したという『播州英城日記』が伝えられています。

奉納された玉垣には「付城」「矢倉東」「清水」「山崎」といった町名が多く見られましたが、あるいは英賀城の戦いに縁ある方々かもしれません。

英賀神社は絵馬堂もなかなか見応えがあります。

中には東塚嬉楽と門人らによる「算術自問答」なる奉納額も。算額というやつですね。ずいぶん新しく見えますが、復元されたものでしょうか。附城村の三木さん三名も名を連ねています。

英賀神社の本殿裏には英賀城の土塁跡が残されています。

英賀城跡公園には復元された石垣(?)があります。『播磨灘物語』の文学碑が英賀神社境内に建立され司馬遼太郎が訪れた際、地元で英賀城を見直そうという運動が盛り上がったそうですが、その際に整備されたものでしょうか。

「花万朶 三木十代の 城の址」

英賀城跡公園には十口の一つ、野中口の石碑も。復元図によると付近には「北野中館」があったようです。

十口の一つ、山科口の石碑。ここは北西の角に当たり、現在「矢倉公園」の敷地になっています。この辺りには英賀城の櫓が建っていたのでしょうか。

十口の一つ、岡芝口の石碑。

十口の一つ、河下口の石碑と、北側土塁の外に当たる沼沢地帯を濠としたという「大木之濠」の石碑。大きな交差点の歩道にあります。

「水田にビルが立ち野が枯てゆく」という歌が物哀しさを漂わせていますが、これより北の沼沢地帯は後に水田として利用されていたのでしょうか。復元図を見たところ、この石碑自体も建物の建設により移動されているようです。

英賀薬師(法寿寺)の跡。法寿寺は延宝9年(1681)に三木氏の後裔古今によって中興創建された寺院で、浄土宗知恩院幡念寺の末寺だったそうです。浄土真宗に帰依したはずの三木氏がなぜ浄土宗に?

英賀薬師跡には英賀城主・三木氏一族の墓所があります。延宝9年(1681)山崎山に亀山本徳寺西山御廟が建立されることになったため、同所にあった一族の墓所をこの地に移転したそうですが、当時の亀山本徳寺と三木氏の間で何かあったのでしょうか?

東本願寺派である船場本徳寺の視点による本徳寺の由緒記『船場本徳寺開基略記』をまとめたのが「三木通識」というのも気になります。三木一族も本願寺東西分裂の影響を受けたのでしょうか…? (疑問は尽きませんが、「石山合戦」での英賀城の動向と後の本徳寺分裂については次回に紹介します)

「俗名越智姓三木右馬頭通近」とある通り、こちらは初代三木氏となった通近の墓のようです。河野氏の本姓は越智のためそれに習っているのでしょう。

最後の城主となった三木通秋は秀吉による英賀落城時に船で脱出し、2年後に許されて英賀へ戻ったと伝えられていますが、河野に姓を改めて帰農した人もいるそうです。この方はその末裔でしょうか。

英賀薬師跡の北側には僅かながら土塁跡が残されています。

英賀薬師跡のすぐ傍には赤松義村が定めたという「播磨十水」の一つ、「大木之清水」の石碑と井戸の跡が残っています。この井戸は通称薬師の湯と呼ばれ、昔から「薬の井戸」として親しまれてきたそうです。

十口の一つ、井上口の石碑。復元図によると付近には七家の一つ井上家の館があったようです。

英賀薬師北側の土塁跡に沿って東西に小さな溝が残っており、水尾川まで延びていますが、地図を見たところどうやらこれも堀跡のようです。

参考

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

ひょうごの城

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 神戸新聞総合印刷
  • 発売日: 2011/02
  • メディア: 単行本