赤松氏ゆかりの山城・感状山城
感状山城跡は相生市矢野町瓜生および森にまたがる感状山の尾根にあり、多段に渡る石垣造りの曲輪が特徴的な中世山城の遺跡です。
謎に包まれた感状山城の歴史
近世に成立した地誌『播磨鑑』には、建武3年(1336)、赤松円心が赤松氏の本拠地である白旗城に籠もって新田義貞率いる追討軍を50日以上に渡り足止めした際、円心の三男・則祐が出城として築いたのがこの城で、ここで勇戦した戦功によって足利尊氏から感状を授かったことから「感状山城」と呼ばれたという伝承が記されています。
『ひょうごの城』の感状山城の項(橘川真一氏)によると、『播備作城記』には「岡豊前守居城也元亀年中落城也」とあり、地元の史料『岡城記』には嘉吉元年(1441)に「感状山城等の城郭悉く没落す」、文正元年(1466)に「竹内祐太夫義昌 当時守護代なり」とあるそうです。
そして、地域の支配者は赤松氏→浦上氏→龍野赤松氏→浦上氏→宇喜多氏と変わっていますが、地元の豪族であった岡氏が引き続き矢野庄を領有していたと推測されています。
また、『日本城郭大系12巻』(昭和56年)では天正5年に秀吉の上月城攻めに際して落城したと推測され、兵庫県教育委員会『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』(昭和57年)でも赤松則房の代に至って天正5年、秀吉の攻略に遭って落城したと書かれおり、地元でもその時のこととする落城伝説が伝えられているようです。
しかし、同時代の史料やその他の文献に感状山城の名は現れておらず、実際の築城、廃城の時期や城主の名前など具体的なことは分かっていません。
昭和60年から63年にかけて実施された発掘調査では3つの曲輪と大手門跡が発見されたほか、15世紀から16世紀と見られる備前焼の大鼇、中国産の白磁や青磁、青花磁器などの破片が数多く出土しました。
兵庫県立考古博物館の岡田章一氏によると、その中には備前焼の耳付小壺や筒型容器など茶器として利用されたと思われるものや高級品の貿易陶磁など、播磨の中世遺跡では御着城や姫路の城下町でしか出土例のない物が含まれていることから、城主は唐物趣味の茶の湯を嗜んだ有力者で、西播磨地域に勢力を拡げた龍野赤松氏、あるいは備前を本拠として瀬戸内航路の要衝である室津に拠点を築いていた浦上氏が考えられるそうです。
感状山城跡を歩く…登山道から物見台まで
感状山への登山道の入口は 羅漢の里 という自然体験施設の中にあります。
自動車の場合は施設の駐車場が2ヶ所あるので、どちらかに停めると良いです。(無料でした)
石造りのモニュメントと、現代の刀工「桔梗隼光」(ききょうはやみつ)鍛刀場の水車小屋が目印になります。
この側を通って奥の方へと進みます。
ここは古くから十六羅漢の石仏が有名で、かつては「羅漢渓」と呼ばれた名勝だったようです。
入口付近には、大正時代に建てられた石碑や歌碑が散見されました。
それら石碑の中に「感状山光専寺貫主 赤松性真」と記された物がありました。「性○」は赤松家の戒名なので気になりますね…。(政則=性雲、義村=性因、晴政=性煕)
物見台まで続く登山道は結構歩きやすく整備されています。
途中から少しずつ岩が増えてきますが、運動靴さえ履いていれば、軽装でも問題ないレベルです。
登山道からの眺め。朝8時頃ですが、霧が出ていてとても綺麗でした。
物見台に近付くとともに段々と山城感が出てきて、テンション上がります!
しかし、肝心の物見台はあまり展望はよくありませんでした…。
感状山城跡を歩く…Ⅲ曲輪群から大手門跡周辺へ
倉庫跡を経て、Ⅲ曲輪(近世城郭で言う三の丸)辺りはかなり広くなっています。
大手門跡方面にはこの辺から下りられます。
六段の石段で構成され、鶴翼状に配列された総石垣づくりの大手門とのことですが、かなり崩壊が進んでいます。
石積み技術の未熟さによるものか、あるいは廃城の際に中途半端に破壊したまま放置されたのでしょうか。
大手門の登り口を上から見るとこんな感じで、登山道と比べると荒れてます。
ここから下りてみたい気持ちもありましたが、地図を見ると結構離れた場所に出るようで時間の都合もあり諦めました。
大手門のすぐ内側には井戸があって、今でも水が湧き出ているようでした。(真夏でも涸れることがないそうです)
感状山城跡を歩く…Ⅲ曲輪群から腰曲輪群、北曲輪群を経てⅠ曲輪へ
建物の遺構も見つかったというⅢ曲輪群は複雑な段差を持つ構造だったようで、側面を見ると広範囲に渡って石垣が残っています。
こんな細い道が続いていたので、つい奥まで見に行ってしまいましたが…このルートはちょっと失敗でした。
一番の見どころの南曲輪群を避けて、裏から攻める形になってしまったので…。
腰曲輪群には、少しだけ石垣が残っていました。
北曲輪群はよく分かりませんでした…。
あっさりと、山頂のⅠ曲輪まで到達してしまいました。
感状山城跡を歩く…Ⅰ曲輪から南北Ⅱ曲輪群を経て圧巻の南曲輪群へ
城山の北端に当たるⅠ曲輪には建物の礎石が残っていて、敷地いっぱいに御殿が建てられていたと推定されているとのこと。
この写真から見ると、確かにもうギリギリのような…。
北Ⅱ曲輪との間から見たⅠ曲輪の側面。見ての通り山頂付近まで岩が結構ごろごろしている山なので、未熟ながら結構早くから自然石に石積みを組み合わせた城だったように思えます。
Ⅰ曲輪から北Ⅱ曲輪へ。
南北Ⅱ曲輪の西側面には広範囲に渡って石垣が残っており、「犬走り」と呼ばれる帯曲輪が配置されていたようです。
しかし、時間の経過もあるかもしれませんが、結構スカスカな状態です。そのうち大雨で自然崩壊してしまいそうで、ちょっと心配してしまいます。
南Ⅱ曲輪でも大規模な建築と見られる礎石群が発見されているそうで、Ⅰ曲輪の本丸御殿に対して、常の御殿(日常生活の場所)であった可能性があるとのこと。
これも何かの跡でしょうか。
正直なところ、大規模な遺跡とはいえ現状はいまいち迫力に欠けると思っていたら…ここから先の南曲輪群は、素晴らしかったです。
ここは眺望も良いです。
この二段目の腰曲輪の石垣は全長21m、高さ4.5mで、感状山城の中では最大の物だそうです。
ゆるい曲線状で粗さが残る石積みではありますが、尾根を利用して六段に渡り削平された曲輪群は、非常に見応えがあります。
下から登ってきたところでこの曲輪群に出会っていたら、もっと興奮しただろうなと、少し後悔しました。
ちょっと離れたところから、側面も眺めてみたいですね。
初めて訪れる方にはぜひ、まずはⅢ曲輪群からこの南曲輪群を経て、山頂へと向かうルートをおすすめします。
ここが南曲輪群に向かって登ってくるメインルート。
下から見るとこんな感じ。崩落があったのか、ロープが張ってありました。
土の城から石垣の城へと発展したように言われることがありますが、この感状山城跡を見て、そう単純なものではないと感じました。石積み技術の発達具合に関わらず、石があればそれを活用しようとするのは自然なことでしょう。
感状山城と光専寺と赤松氏
「羅漢渓」入口の石碑に記された「感状山光専寺貫主 赤松性真」が気になったので調べてみました。
光専寺は感状山城の大手門側に現存する真宗本願寺派の寺院で、相生市矢野町の公式Webサイトに以下のような記述がありました。
本尊 阿弥陀仏。開基は赤松義村の孫小林義光、その頃蓮如上人の御代で六字名号を拝領、その後第六代教誓に至り実如上人より寺号・木仏を賜わる。経堂 天保12年建立。鐘楼 宝暦10年。昭和17年、福田眉仙画伯が襖絵を描いたことから、別名、眉仙寺という。
赤松宗家以外の人物で将軍家由来の「義」を名乗っているというのは不可解ですし、義村の孫の世代であれば蓮如(明応8年没)のはずはないと思いますが…。
亀山本徳寺から発行されている『播州真宗年表 (第2版)』を確認したところ、以下のような記述がありました。
1509年(永正6年)といえば義村はまだ元服したばかりで、洞松院尼が後見していた頃です。
ちょうどこの年に英賀城主・三木通規が実如上人の御連枝の下向を願い出ていることからも察せられますが、すでに英賀では在地の長衆(富裕な商人などの有力者)や寺の坊主によって門徒集団が組織されていたようです。
播磨国内では公的には守護赤松氏が先代政則以来、真宗の布教を禁じていましたが、永正9年(1512)に実如の第四子・実円が下向するとともに三木氏一族が一向宗に帰依、翌年には実如上人から赤松義村へ名馬が寄贈されたことで真宗禁制が解かれ、布教の一大拠点となる本徳寺「英賀御堂」の建立に繋がりました。
義村は後に浦上村宗によって弑逆されますが、その村宗も義村の子・政村(晴政)によって討たれ、息つく暇もなく浦上国秀の後見を受けた浦上政宗が蜂起して赤松氏と再び争い、更に但馬の山名氏、そして山陰の雄・尼子氏による侵攻を受けました。
その間の感状山城の動向は明らかではありませんが、後に光専寺が再興されるに当たり、赤松氏ゆかりとされる感状山の麓で、本願寺との関係改善を果たした赤松義村との繋がりを強調する縁起を後世に伝えようとしたものかもしれません。
感状山城の落城伝説
時期は明らかではありませんが、地元では落城時に井戸の中へと身を投じた姫の伝説が残されているようです。
(1)感状山城が落城した日、城には何人かの姫がいました。
押し寄せる大軍に逃げ迷った姫の1人は、人手にかかって恥をさらすよりはと、日頃、可愛がっていた金色の羽を持つ鶏を抱いて、城内にあった井戸に身を投じました。
それ以来、毎年、元旦がくると、その井戸の中から鶏の鳴く声がきこえるといいます。
(2)もう1人の姫は、城を逃れて、城下の藤堂(とうどう)村にたどりつきました。藤堂村の人々は、姫を大事にかくまい、その後も大切にもてなしました。姫は死ぬ直前に、「お世話になったお礼に、この村では、美人ばかりが生まれるようにお祈りします」と言ったそうです。
それ以来、藤堂村では、代々、美人が生れるといいます。
(3)感状山城には、非常に備えて、ぬけ穴を作っていました。それは、森の光専寺(こうせんじ)の北山手から流れる水を通す大溝(みぞ)が、寺屋敷の地底を抜け、鐘楼(しょうろう)の横手を通って、南側の溝と合流するというものでした。
感状山城が落城した日、ぬけ穴をたどって逃れようとした1人の武士がいました。しかし、思うようにぬけ出られず、死んでしまったのです。
その後、武士の亡霊(ぼうれい)がこの溝に出て、毎夜、通行人に墨つけをするというのです。
ここにも光専寺が登場していますが、城からの抜け穴が通っていたということは、それだけ親しい関係だったのでしょうか。
瓜生の八柱神社
「羅漢の里」の手前には八柱神社がありますが、ここがなかなか素敵な神社だったので、写真を掲載しておきます。
奉納絵馬がずらり。
中でも、明治42年に奉納されたという赤穂四十七義士の数々は壮観です。
天保十三年(1842)…古いですね、これは。意外と色が残っています。
郷土の歴史が刻まれた、絵馬たち。
境内に向かって右手には「バクの道」と呼ばれる感状山への登山道があるようで、再訪の機会があればこちらから登るか、あるいは光専寺から大手側を登ってみたいです。
追記:感状山城と光専寺の縁起について推測
『播磨鑑』を再度確認したところ、光専寺については項がありませんでしたが、感状山城の項では「城主ハ赤松彌太郎義村 字道松丸後號政村 父ハ刑部介政資」「又赤松義村居住ス(後改政村)初メ竹内助太夫義昌ノ養子タリ 後政則ノ養子トナル 政則コレヲ婿トシ置鹽山ニヲク 後義村鞍掛ヘ移ル」と記されていました。
道松丸は道祖松丸の誤記として、どうも地元では感状山城の城主が義村であったと伝わっているようで、光専寺の縁起にはその辺りの事情が関わっていると思います。
神戸新聞文化部編『杜を訪ねて ひょうごの神社とお寺[下]』の光専寺の項によると、現住職の赤松誠真さんが語られた寺の縁起には、赤松円心が創建したという円応寺が前身で、正和年間に矢野庄が東寺領となったため真言宗に転じ、その後赤松義村の孫・小林義光(のちに釈正西)が実如上人の感化を受けて真宗に転じ、六代教誓に至って寺谷から現在地へ移転したとあるそうです。
また住職は、寺谷以前の経緯は全く不明だそうですが、付近には「改宗」という地名があって住民のほとんどが門徒なので、真宗に転じた頃の光専寺はそこにあったのではと推察されています。
亀山本徳寺『播州真宗年表 (第2版)』の記述「1509 正西、赤穂郡矢野森村に光専寺を開基す」を合わせて考えると、実如上人の感化を受けた正西=小林義光が1509年に開基あるいは真宗へと転派した後、六代の教誓に至って、長らく廃城となっていた感状山城跡の麓へ寺院を移転する際、山号を「感状山」と改めるとともに、赤松円心ゆかりの円応寺との繋がりと、城主として地元に伝えられていた「赤松義村」の末裔を称したのではないでしょうか。
地元の史料『岡城記』が伝える、嘉吉の乱後の文正元年(1466)に守護代となったという竹内義昌に、赤松七条家出身で道祖松丸(赤松宗家の幼名)と名付けられていた義村が養子入りしたという話は色々とおかしいのですが、近世に至ってから光専寺がこの地元の伝承を元に正西=小林義光は「赤松義村」の孫であったと称したとすると、大幅な年代の差異も辻褄が合ってしまうことになります。
おそらくその頃には地元でも、赤松氏と感状山城の関係について確かなことは分かっていなかったのでしょう。今後の感状山城跡の調査研究に要注目です。
参考
- 神戸新聞文化部編『杜を訪ねて ひょうごの神社とお寺 [下]』
- 作者:
- 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
- 発売日: 1990/12
- メディア: 単行本
- 朽木史郎、橘川真一編著『ひょうごの城紀行 上』(神戸新聞総合出版センター)
- 作者:
- 出版社/メーカー: 神戸新聞総合出版センター
- 発売日: 1998/04
- メディア: 単行本