k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

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武田信虎の甲斐追放と「武田入道」の在京奉公

今川氏の跡目争いを機に方針を転換し、家督相続以前から敵対してきた今川氏と同盟を結んだ武田信虎は、諏訪氏と共同して信濃佐久郡へ進出、次いで北信濃の村上氏とも連合して信濃小県郡へ出兵し、ようやく甲斐国外に勢力を広げた矢先のこと、実の息子である晴信によって駿河へと追放されてしまいました。

今回は信虎追放の背景と、その後の在京奉公を通じて信虎の魅力を紹介します。

内容的には 武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期) 武田信虎の戦いはこれからだ!(武田・今川・北条の戦国黎明期その2) の続きになります。

「信虎平生悪逆無道也」信虎追放の背景にあった災害と飢饉

信虎の追放に関して、向嶽寺の歴代住職が著したとされる『塩山向岳禅庵小年代記』に有名な記述があります。

信虎平生悪逆無道也、国中人民牛馬畜類共愁悩、然駿州太守義元娶信虎之女、依之辛丑六月中旬行駿府、晴信欲済万民愁、足軽出河内境、断其帰道、即位保国々、人民悉含快楽咲

信虎は平生悪逆無道で、そのために人民はおろか牛馬畜類まで愁悩していた。娘婿の今川義元に会うために天文10年(1541)6月中旬に信虎が駿府に赴いた際、晴信は万民を愁いから救おうとして、河内の国境に足軽を出兵させてその帰路を断った。信虎に代わって守護となった晴信は国を保ち、人民は悉くそれを喜んだ、というのです。

同時代の史料『勝山記』などにも同様の記述があり、確かに信虎の評判は悪かったようですが、その「悪逆無道」の具体的な内容は記されていません。

『勝山記』の天文十年条には、当時の甲斐が過去百年に例がないほどの深刻な飢饉に見舞われていたとあり、この飢饉の様子に続けて信虎の追放のことが記されています。

此年春致餓死候而、人馬共死ル事無限、百年ノ内ニモ無御座候ト人々申来リ候、千死一生ト申候

此年六月十四日ニ武田大夫殿様、親ノ信虎ヲ駿河国ヘ押越申候、余リニ悪行ヲ被成候間、加様被食候、去程ニ地下、侍、出家、男女共喜致満足候事無限、信虎出家被成候而駿河ニ御座候

飢饉の原因は、天文9年(1540)5月と6月の大雨による被害に追い打ちをかけるように、8月には西は紀伊国から東は東北地方にまで甚大な被害をもたらしたという、巨大台風が東海・中部地方を襲ったことによるものでした。

北条氏・今川氏との長い戦いに疲弊していた人々の不満は、この災害と飢饉によって頂点に達したと想像できます。

そのような状況の同年11月末に、信虎は諏訪頼重に息女を嫁がせて同盟を強化し、12月にかけて互いに面会した後、村上義清とも連携し、翌天文10年(1541)5月には小県郡へ出兵します。

そして5月25日、海野平の戦いによって海野棟綱をはじめとする滋野一族を打ち破りましたが、その残党が関東管領山内上杉憲政の元に亡命して助けを求めたため、憲政は彼等の旧領回復のために佐久郡へ軍勢を派遣するに至りました。

信虎は甲斐へ帰国しますが、この戦いの最中にも信虎追放の計画が密かに進められていたのでしょう。帰国から間もない6月14日、今川義元と面会のために甲府を出発して駿府へと向かった後、無血の当主交代劇が実行されたのです。

つまり、信虎の「悪逆無道」とは、飢饉によって頂点に達した人々の不満を解消できる政策を施さないまま、再び外征を行った結果、更に山内上杉氏の介入を招いてしまったことに対する評価と考えられるのです。

平山優氏はこれに加えて、晴信が当主交代後に一国平均の徳政を実施して民衆の支持を得たのではないかと推察されています。

そうした結果、信虎が「信虎平生悪逆無道也」と厳しく評価されたのに対して、その後を継いだ晴信は「即位保国々、人民悉含快楽咲」と評価されるに至ったという訳です。

また晴信は、翌天文11年(1542)に釜無川の洪水への対策として堤防の構築を発願し、十余年がかりでこれを完成させました。

いわゆる「信玄堤」で、一次史料に直接現れないことから否定的な見方もされていますが、永禄3年(1560)8月に堤防の後背地に当たる竜王宿への作家居住が奨励されており、晴信の治水事業が成果を上げたことは間違いないようです。

この「信玄堤」に代表されるように、地元甲斐における後世の評価は作為的な神格化だけではなく、実際に行われた政策の結果が反映されたものでしょう。

なお、『勝山記』には信虎が享禄元年(1528)に甲斐一国に徳政を施したことが記されていますが、当時は一揆も起きていないことから、災害への対応のために発令したものではないかと考えられています。

このことから、信虎が晴信とは対照的に民衆を顧みない好戦的な暴君であったと捉えることもまた、無理がありそうです。

余談:信虎追放を主導した板垣信方の功績とその不審な最期

甲陽軍鑑』では、譜代宿老の筆頭であり晴信の傅役でもあった板垣信方が、密かに甘利虎泰や飯富虎昌ら有力家臣を説得して事前に意見をまとめたことで、血を流すことなく当主の交代を成し遂げたとされています。

駿河に向かった信虎は政変後も混乱なく今川氏に迎え入れられていることから、晴信派による今川義元との共謀説が古くからありますが、丸島和洋氏は河東一乱に介入した信虎が北条氏の和睦を受け入れたことが義元の不信を招き、そこで今川氏との折衝を務めていた板垣信方が主導して信虎の駿河への追放計画が進められたと推測されていて、なかなか説得力があります。

晴信は天文11年(1542)に諏訪氏惣領の座を狙う庶流の高遠頼継を味方につけ、諏訪頼重との同盟関係を一方的に破って諏訪へ侵攻、やがては高遠頼継をも陥れて諏訪郡全域を支配下に置きますが、信虎の追放に最大の功績を果たした板垣信方上原城主と兼ねて郡代に任命し、諏訪郡の統治という大役を一任します。

板垣信方は信虎追放の功績によって、譜代宿老の中でも突出した存在となったわけですが、その晩年には不穏な空気が感じられるようになります。

天文17年(1548)2月、信方は上田原の戦いで村上義清の反撃を受けて討ち死にしてしまったのですが、『甲陽軍鑑』はその頃の信方が増長のあまり独断で首実検を行うようになったと記しており、結局そのために油断したところを村上勢に討ち取られたことになっています。

信方は『甲陽軍鑑』において、信虎の追放後に学問や文芸に耽って政治を顧みなくなった晴信に対し、詩歌を学び即興で詩を返した上でこれを諌めたというエピソードが描かれ、その忠義が讃えられていますが、当時の守護大名と譜代家臣の関係は近世的な忠義によって成り立つものではなく、世代交代に伴う権力の委譲もそう簡単ではありません。

忠臣と讃えられる信方の不審な最期が描かれた背景には、当主として権力を掌握したい晴信にとって、信方のような宿老の存在が障害になっていたことがあるのではないしょうか。

信方の後を継いだ信憲は天文21年(1552)、不行跡を理由に諏訪郡代を解任された上に成敗されますが、この件についても『甲陽軍鑑』では信憲が越後の上杉謙信に内通していたことが原因とされており、その意図があからさまに隠蔽されているようにも感じます。

桶狭間合戦以前から京都に邸宅を構えていた「武田入道」信虎

追放後の信虎について『甲陽軍鑑』では、永禄3年(1560)5月に桶狭間合戦今川義元が討死して以後、後継者の氏真に疎まれて駿河から追放されたとして、晴信に対して駿河への出兵を促すに至ったと伝えています。

しかし、この記述は信玄による駿河侵攻を正当化するための脚色であることが明らかで、『言継卿記』には永禄年間、すでに出家して「武田入道」と呼ばれていた信虎が京都に邸宅を構え、幕府に出仕していたことが記されています。

『言継卿記』には、山科言継が永禄元年正月四日条に年始の挨拶回りで「甲州武田入道」と会ったことや、三月十六日条に信虎へ手紙を出したが不在であったことが記されているほか、永禄2年、3年、6年、7年と年始挨拶で信虎を訪問しており、今川氏の支援のもと幕府に出仕していたと思われる信虎との交流が伺えます。

また、養母が今川義元の生母・寿桂尼の妹であったことから、言継は弘治2年(1556)から3年にかけて半年ほど駿河に下向し、弘治3年2月25日には連歌会に招かれていますが、その連歌会には信虎ではなく子の信友(武田左京亮)が参加していることから、信虎はその頃からすでに在京していた可能性もあるようです。

少なくとも、今川義元の存命中には信虎が京都で活動していたことが明らかですが、その頃の畿内の情勢は、天文21年(1552)に将軍・足利義輝を擁立する細川晴元を実力で京都から追い出し、名実ともに畿内の覇者「天下人」となっていた三好長慶が、永禄元年(1558)11月に近江朽木谷へ亡命していた将軍を京都へ迎え入れたことで、再び三好政権による幕府再興が開始されたという時期です。

近年、今川氏の大軍による尾張侵攻の主な目的は伊勢湾制海権を掌握することであったと言われますが、義元はその先に何を見据えていたのでしょうか。

京都で詠われた落首に、信虎の人柄を表す面白いものがあります。

桶狭間合戦の数ヶ月前になる永禄3年正月9日、信虎は22歳の青年公卿、菊亭晴季に17歳の末娘を嫁がせたのですが、気が早い信虎は婚儀がまとまらぬうちに、婿の顔を見るために菊亭宅へ押しかけたという逸話を詠ったものです。

むこいりをまだせぬ先の舅入り きくていよりはたけた入道

「菊亭」と「聞く体」、「武田」と「猛けた」を掛けて、入道姿の信虎が話に聞く以上に猛々しいと詠っているものですが、「武田入道」こと信虎は都で噂になるほどの有名人だったようです。

(この落首はお笑いの祖と言われる安楽庵策伝が著した『醒睡笑』に収録されています。)

信虎がどのような役割で在京していたのか、また三好政権との関係など詳しいことは分かりませんが、この婚儀も京都との結びつきを重視する今川氏の意向が反映されたものでしょうか。

余談:信虎と名刀「宗三左文字」来歴の謎

桶狭間合戦今川義元を討ち取った際にその差料を手に入れた織田信長は、これを記念に「永禄三年五月十九日義元討補刻彼所持刀」と彫り込んで愛刀とし、更に秀吉、家康と天下人と呼ばれる三人の手を渡った結果、「義元左文字」として徳川将軍家の家宝に数えられることになりました。

この名刀の来歴には武田信虎も絡んでいるようで、元々は細川晴元の腹心として権勢を誇った三好政長(宗三)が所持し「宗三左文字」と呼ばれていたものが、政長から信虎に贈られ、更に信虎から婿の今川義元に贈られたと伝えられています。

信虎が将軍義晴から息子の太郎(晴信)に偏諱を賜ったのが天文5年(1536)3月、義元の斡旋で三条公頼の娘を正室に迎えたのが同年7月、細川晴元正室三条公頼の娘であり、政長から贈られたという「宗三左文字」も、この時期の信虎と義晴・晴元政権の繋がりを示すものと捉えることができそうですが…WikipediaをはじめWeb上に多く見られる、信虎が娘の輿入れに際してこの名刀を義元に贈ったという説には、どうも明確な根拠がないようです。

何より、当時から「宗三左文字」と呼ばれていたのであれば、三好政長が出家して「半隠軒宗三」を名乗るのは木沢長政を滅ぼした天文11年(1542)10月が契機と見られているため、娘が義元へ輿入れした天文6年(1537)2月に贈ったとすると全く時期が合わないのです。

別の説としては、天文18年(1549)6月の江口の戦いで敗死するまでは三好政長が所持しており、どういう訳か当時大坂にいた信虎がその戦利品を手に入れたという話が『戦国阿波おもしろ百話』という本に書かれているようですが、こちらも未確認のため根拠は分かりません。

なお、信虎は天文12年(1543)6月に上洛して奈良や高野山を遊歴した際、甲斐追放以前の天文9年頃から書状をやり取りしていた証如と交流しているのですが、三好氏の研究で著名な天野忠幸氏は、この時に政長が信虎と面会して礼を交わし、記念に刀を贈ったのではないかと推測されています。(それだと前述の「宗三」を名乗る時期とも矛盾しません)

いずれにせよ、甲斐源氏武田氏の嫡流で前甲斐守護としての家格は認められていたとはいえ、すでに甲斐を追放され実権を失っていた信虎にそれ程の影響力があったとも思えませんので、むしろ今川氏への贈り物が信虎に託されたものと捉えるべきでしょうか?

将軍暗殺後に再び上洛した信虎

今川義元が永禄3年(1560)5月に桶狭間合戦で敗死した後も、信虎は引き続き在京が確認されています。

余談ですが、武田家によって没落させられた旧信濃守護の小笠原長時父子も永禄4年(1561)頃には越後から上洛して京都で活動しており、三男の貞慶が三好長慶から偏諱を受けるなど三好政権に近い立場でした。

『言継卿記』の永禄七年十月十八日条に記された信虎の席次は、公家衆の直後で武家衆の筆頭とのこと。すでに信濃守護職は将軍義輝によって武田晴信に与えられた後ですし、信虎は前甲斐守護として小笠原長時より高い家格を認められていたようです。

永禄5年(1562)または7年(1564)と見られる信玄書状には信虎の駿河帰国を尋ねるよう命じたものがあり、『言継卿記』では永禄8年から9年にかけて信虎の姿が現れず、永禄10年(1567)正月の年始挨拶に訪問するも留守、同年4月24日には門前で信虎および伊勢備中守とすれ違ったことが記されています。

この頃の畿内は混乱を極めており、永禄7年(1564)7月に三好長慶が病没、その死は3年間秘密とされたものの、翌永禄8年(1565)5月に将軍義輝が殺害され、同年11月にはすでに三好三人衆松永久秀が衝突して松永方が敗北、永禄9年(1566)7月に三人衆が入京し、永禄10年(1567)10月には再び反三好勢を糾合した松永方が奈良において三好方と交戦、大仏殿が炎上するという状況でした。

武田氏の動きは、永禄8年(1565)10月に飯富虎昌ら義信派が密謀露見により処刑、義信が幽閉され夫人も駿河に送還、永禄10年(1567)3月には寿桂尼が死去、8月には家臣団に忠誠を誓わせる起請文が奉納されており、永禄11年(1568)12月から駿河侵攻が開始されています。

永禄7年頃から9年頃にかけて、京都では三好長慶の死と将軍の暗殺という大事件が起きている間、すでに武田家では駿河侵攻の準備が着々と進められていたわけですが、駿河に帰国していたと見られる信虎はその後再び上洛しています。

実は信虎は武田家の京都雑掌を務めていたという説もあるようですが、この時期に関して言えばあながち的外れではないのかもしれません。

信虎の最後の戦い

永禄11年(1568)9月には織田信長が義昭を奉じ幕府再興の大義を掲げて上洛、怒涛の進撃で三好勢を京都から追い出し、畿内の平定に乗り出します。武田氏は織田氏とは以前から友好関係を結んでいたためか、信虎は引き続き在京し将軍義昭の下で幕府に出仕していたようです。

なお、三好方として摂津芥川城で戦った小笠原長時は、永禄12年(1567)正月に三好三人衆とともに信長の留守を突いて将軍義昭を襲撃した「本圀寺の変」に敗れたことで、一族ともども再び牢人することになりました。長時の三男貞慶がただ一人、京都に残って義昭に仕えています。(その後、貞慶は信長に仕えて旧領回復の朱印状を授かり、対武田・北条戦に奔走しますが、武田家滅亡後その約束は反故にされました…。)

その後、元亀年間には将軍義昭と信長の不和が決定的になるわけですが、丸島和洋氏によると、元亀4年(1573)3月の将軍義昭挙兵に際し信長に内通した細川藤孝への3月7日付の信長書状に、甲賀に滞在していた信虎が近江への出兵を企てているとの報告があったことが記されていて、反信長方として抵抗を続けていた六角氏と協力して近江を攻撃しようとした様子が伺えるそうです。

一方、信玄の方も将軍義昭の要請に応えて元亀3年(1572)10月には信長との同盟関係を破棄、12月に三方ヶ原で徳川勢を打ち破り、元亀4年(1573)2月には野田城を攻略します。その動きは将軍の挙兵に呼応したものでしたが、同年4月に信玄が死去したことで、あえなく甲斐へと撤退しました。

甲陽軍鑑』によると、信玄没後に甲斐帰国を打診した信虎は、天正2年(1574)に子の逍遙軒信綱(信廉)が城代を務める高遠城で孫の勝頼と対面、その後間もない3月5日、ついに甲斐へと帰ることなく81歳で波乱の生涯を終えました。

これまで信虎の最期は、甲斐への帰国を希望するも信玄の生前には叶わず、信玄の死後に訪れた高遠城においても見知った家臣の顔はなく、まるで「悪逆無道」の報いであるかのように、孤独に死去したとされてきました。

しかし、永禄10年以後の動きを見ると、もはや我が子に国主の座を奪われ追放された恨みなど微塵もなく、年老いてもなお武田家のために引き続き幕府の一員として活動し、信玄の上洛を支援しようとしたのだと思えてなりません。

信虎の葬儀が行われた大泉寺

信虎の葬儀が行われた甲府の大泉寺は、大永元年(1521)に信虎の開基による曹洞宗の寺院です。

武田逍遙軒信綱が描いたというあの有名な信虎画像もここの所蔵品で、葬儀に際して奉納されたものと伝えられています。

永慶寺から移築されたと伝えられる、黄檗宗様式の総門。

国守武田信虎公霊廟之地

信虎の墓がある堂は「御霊殿」と名付けられています。

中を覗いてみると、風林火山の旗が。

左から勝頼、信虎、信玄の墓(というか供養塔?)だそうです。

武田三代の戒名

大泉寺殿泰雲康大庵主(信虎)

法性院殿機山玄公大居士(晴信)

景徳院殿頼山勝公大禅定門(勝頼)

参考

武田信虎のすべて

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2007/01
  • メディア: 単行本

醒睡笑 全訳注 (講談社学術文庫)

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天正壬午の乱

天正壬午の乱

産経記者のコラムに、武田信虎について書かれた素晴らしいものがありますので、合わせて紹介します。

信虎はこういうコラムに採り上げられるだけの魅力がある人物だと思います。

Web上にはまだ『甲陽軍鑑』で形作られた信虎像に捕らわれているような文章が多いですが、歴史研究者の間ではすでに再評価が定着しているようですし、そのうち一般向け作品等にも反映されていくことでしょう。

さすがにもういないと思いますが、もし「信虎は妊婦の腹を裂いた」などと言ってる人を見かけたら、 「えーマジ腹裂き!?キモーイ」「腹裂きが許されるのは紂王までだよね!」 とか返してあげてください。