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k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りと歴史のことを書きます。戦国時代でも織田信長上洛以前の畿内と西国が多め。内容には素人の根拠無い想像が混ざってるのでお気をつけください。

岡山県立博物館企画展『岡山の城と戦国武将』の感想(前編)

先日、岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』を観てきました。

岡山の城ということで扱われた地域は備前・備中・美作の三ヶ国、宇喜多氏の岡山城大河ドラマでも取り上げられた備中高松城はもちろんのこと、浦上氏の三石城や天神山城、三村氏の備中松山城、三村元親の妹・鶴姫と女軍の伝説がある常山城、森忠政の津山城、そして意外な所では関東における戦国大名の嚆矢となった伊勢盛時(北条早雲)の出身地、備中伊勢氏の高越城に関する史料など、小規模ながら興味深い物もありなかなか楽しめました。

今回の展示では写真撮影は禁止、図録の販売もなかったので、出品目録と断片的なメモと記憶を頼りに感想を書きます。

個人的には、独立して扱われることが皆無と言っていい浦上氏に関わる文書がいくつか展示されていたのが良かったです。

以下、横書きでちょっと読みづらいですが、翻刻文は展示内容のメモからそのまま掲載します。

浦上村宗書状(和気町大國家蔵)

三石城の関連史料として展示されていた、和気町の大國家に伝えられたという浦上村宗の書状です。

新田庄内商売、 馬三ケ国中塩 公事率分料 駒足等、諸公事免許事、 御代々被定置訖、殊更 今度錯乱中、各 忠儀在之、旁以不可 有其煩之由也、仍而執達 如件、

大永元 十二月朔日 村宗(花押)

所々役人衆御中

大永元年(1521)といえば、将軍義稙が淡路へと出奔したことから管領・細川高国の要請を受け、赤松家によって養育されていた足利亀王丸(義晴)を上洛させた後、隠居幽閉の身であった旧主の赤松義村を弑逆したという、浦上村宗にとって激動の年でした。

展示解説によると、書状にある「今度錯乱中」というのは、この時の混乱のことではないかとのこと。

ちなみに翌大永2年9月には、淡路へと逃れていた反村宗方の小寺村職と浦上村国が播磨に上陸し、別所村治も加わって再び播磨を二分する争いとなった後、但馬の山名誠豊が侵攻してきたことから、結局両者は和解して山名勢を何とか撃退するという、相変わらずもグダグダな展開になってます。

完舟宍甘与三左衛門尉宛 浦上宗景書状(岡山県立記録資料館蔵)

浦上宗景の書状が二通、天神山城の関連史料として展示されていました。

尼子贔屓として特に気になったのが「雲州衆」と戦ったという、完舟宍甘与三左衛門尉に宛てたものです。

今度者、至沼城雲 州衆取懸候処、則 遂入城昼夜粉 骨段、忠勤無比類候、 必恩賞可相計候也、 恐々謹言

八月十二日 宗景(花押)

完舟与三衛門尉殿

年次不詳ですが、展示解説では「至沼城雲州衆取懸候処…」という部分を指して、明禅寺合戦に関連するものではないかとありました。

明禅寺合戦であれば永禄10年(1567)、沼城は岡山進出以前の宇喜多直家が居城としており、相手は当時まだ毛利方だった三村氏のはずで、そうすると「雲州衆」はどこの勢力だろうという疑問が…。

尼子晴久は天文20年(1551)10月に美作へ侵攻して備前にまで到達、やがて浦上宗景は尼子方に与した兄の政宗と袂を分かち、備前における反尼子方の盟主として活動しますが、その頃の出来事という可能性は?

そう考えて、渡邊大門先生の『備前 浦上氏』を確認したところ、宗景方の沼城が尼子勢による攻撃を受け、宗景配下の宍甘(しじかい)氏が軍功を挙げて勝利したとの記述がありました。

更にWebで「宍甘与三衛門尉」と検索したところ、ふーむ(畑和良)氏の 落穂ひろい がヒットしました。この方の情報であれば間違いないと思います。

以下、 備前沼城 より引用です。

天文末年(1554年ごろ)になると、幕府から備前守護職に任命された尼子晴久が何度も備前国侵攻を企てた。尼子氏への対応をめぐって、浦上政宗・宗景の兄弟は意見が対立、政宗は尼子方に味方し、宗景は反尼子氏を貫いて天神山城(岡山県佐伯町)に立て籠もった(畑和良氏「浦上宗景権力の形成過程」)。浦上兄弟の分裂を受け、備前の領主層も両派に分かれた。中山備中守は宗景に馳せ参じたらしく、沼城は政宗を支援する尼子晴久の攻撃にさらされることになった。年未詳八月十二日付けの浦上宗景感状(池木氏所蔵文書)によれば、宍甘与三左衛門尉が沼城に入城し、「雲州衆」相手に奮戦したことがわかる。浦上政宗の支配地は砂川の上流鳥取庄(山陽町・赤坂町付近)と下流一帯(岡山市西大寺付近)に分布しており、両者を分断する位置にある宗景方の沼城は、何としても攻略しなくてはならない要害だった。

全文は記載がありませんが、感状の一節として掲載されている画像には「今度者 至沼城」とあり、内容から考えてもこれに間違いないでしょう。

そういうわけで、浦上宗景が出雲から美作・備前へと侵攻してきた尼子氏への対応を巡って兄の政宗と対立していた頃、中山氏の沼城に援軍として入城して戦功を挙げた、「完舟」ではなく「宍甘与三衛門尉」宛の感状のようです。

年次はおそらく天文23年(1554)だと思います。

文書そのものの画像もWebで見られるようになってました。(ここの所蔵資料は検索システムで見られるみたいです)

「完舟」ではなく「宍甘」(しじかい)で間違いないですね。

内容備考として、

至沼城雲州衆の件につき恩賞。天文23年ヵ(参考:畑和良「浦上宗景権力の形成過程」『岡山地方史研究』100、2003年)

とありますので、そもそもこれを解読されたのが、ふーむ氏ということのようです。

(道理で 落穂ひろい がピンポイントでヒットするわけです…)

渡邊大門先生の『備前 浦上氏』でも「浦上宗景の動向に関しては、畑和良氏が詳しく検討をしている」と述べつつ、参考文献に上記論文『浦上宗景権力の形成過程』を挙げられているので、そもそもの情報源はこの論文なのかもしれません。

天文末年頃の尼子氏の備前進出と三好政権の動き

川岡勉先生によれば、この天文21年頃から繰り返された尼子氏の美作・備前・播磨への進出は、天文18年(1549)に三好長慶が細川晴元方から細川氏綱方へと離反して晴元政権を打倒、天文21年(1552)1月には六角義賢の斡旋によって将軍・足利義藤(義輝)が帰京し、足利義藤-細川氏綱-三好長慶の新体制によって幕府再建が進められたことなど、畿内政治情勢の大変動に呼応した動きと考えられています。

尼子晴久が天文21年(1552)3月に御相伴衆に召し抱えられ、4月に因幡伯耆備前・美作・備後・備中、6月に出雲・隠岐と合わせて八ヶ国の守護職に補任されたのも、かつて西国最強の雄であった大内氏が天文20年(1551)に重臣・陶隆房による当主の弑逆によって弱体化し、また播磨・備前・美作の守護職を担うべき赤松氏も尼子氏によって領国を追われるという、現地の状況も鑑みてのことだと思われます。

先の宍甘与三衛門尉宛の浦上宗景書状に記されている、天文23年(1554)と思われる尼子氏の備前沼城への侵攻が示しているのは、単に政宗と宗景の兄弟がそれぞれ敵対する外部勢力を引き込んで争ったという事実だけではなく、大内方から自立した勢力に抬頭しつつある毛利氏とその麾下にあった備中三村氏の支援を受けて抵抗する浦上宗景と、松田氏と姻戚関係を結んで新守護・尼子晴久の進出に協力する浦上政宗という構図が浮かび上がってきます。

その一方で、当初は浦上政宗に擁立されていた赤松晴政も方針を転換したのか、旧赤松重臣ではなく三好長慶を頼っており、同じく天文23年(1554)8月から9月にかけて三好長逸が播磨に侵攻し、有馬村秀を支援して三木城の別所村治方の城を攻略、更に10月から11月にかけて安宅冬康と篠原長房が先行して播磨明石へ侵攻、翌天文24年(1555)1月には実休と長慶も播磨へ出陣し明石氏は降伏、三木城の別所村治は赤松氏との和睦を受け入れることになります。

幕府の新体制もその頃には破綻していて、天文22年(1553)には強硬派の直臣に引きずられて再び細川晴元と結んだ義輝が晴元方残党の敗退に伴って近江朽木へと退いており、三好長慶としても将軍の権威を必要としない体制の構築に踏み切ったのでしょう。同年6月に三好長慶の実弟・実休が旧主の阿波守護・細川持隆を弑逆したこと、赤松晴政の要請に応じる形で西摂から播磨へと侵攻したことは、その一環ではないでしょうか。

完舟宍甘又兵衛尉宛 浦上宗景書状(岡山県立記録資料館蔵)

宍甘氏に宛てたもう一通の浦上宗景書状も紹介します。

完舟ではなく宍甘氏だということが分かりましたが、展示されていた翻刻文のメモそのままで記載します。

今度小早川起大軍 取向之処、僅小城楯籠 堅固ニ相保之故、敵失 勢無程令敗走之段、誠 忠勤不浅、神妙之至 感悦不尠、猶直家可申候 也、恐々謹言

十一月廿八日 宗景(花押)

完舟又兵衛尉殿

こちらは展示解説では毛利水軍備前進出時のものかとありました。

前述の与三左衛門尉宛とセットの史料なので、同じく岡山県立記録資料館の検索システムで、文書そのものの画像を見られるようになってます。

小早川起大軍取向の件につき。元亀2年ヵ(参考:畑和良「浦上宗景権力の形成過程」『岡山地方史研究』100、2003年)

こちらもやはり畑和良氏の研究成果から、元亀2年と推定されています。

また検索したところ、渡邊大門先生の論文『中近世移行期における宇喜多氏の権力構造』にヒットしました。

「猶直家可申候也」の部分から、直家を宗景の取次等の家臣とみなす説もあるそうで、これに対して近年提唱されているのが、直家が備前衆の盟主として浦上氏と対等の地位にあったという説ですね。

元亀2年の備前における合戦

さて、元亀2年(1571)の毛利氏の備前進出といえば、個人的にかなり興味深い出来事で、前の書状の頃から比較すると、まず畿内では三好長慶の死後に分裂した三好政権に代わって、三好政権に弑逆された将軍義輝の弟・義昭を奉じる織田信長が六角氏を蹴散らして幕府を再興、一方で西国で抬頭した毛利氏は厳島陶晴賢を破り大内氏を併呑しただけでなく、尼子晴久の死後に尼子氏をも降伏させており、その毛利氏によってたびたび侵攻を受けた大友氏は尼子残党を支援して毛利領国の後方を撹乱しつつ、阿波三好氏とも協力して毛利包囲網を築いています。

浦上宗景は尼子氏の侵攻に対しては毛利氏の支援を受けて抵抗し、尼子氏の没落に伴って次第に兄の政宗を圧倒して勢力を拡大したものの、情勢の変化を受けて、この時期には宇喜多直家とともに反毛利方の一員として活動しています。宇喜多直家も三村家親を暗殺、その後の明善寺合戦でも兵力に優る三村方を破って着々と勢力を拡大しています。

余談になりますが、これに対して幕府に接近したのが大河ドラマ軍師官兵衛』にも登場した龍野の赤松政秀で、官兵衛とその主君・小寺政職は父の晴政を追放した赤松義祐を支持し、織田や毛利といった幕府方に対抗していました。浦上政宗は晩年には弟の宗景と和解して黒田職隆と同盟しますが、その婚礼で赤松政秀の急襲を受け親子ともども殺害された事件は、大河ドラマでは官兵衛の初恋の人が殺されるというストーリーに脚色されました。(なお宇喜多直家はこの頃に一度、浦上宗景から離反して幕府方に与していますが、省略します。)

この備前における戦いは、いわば幕府方の毛利軍と反毛利連合が激突したもので、毛利氏の東進に対して大友氏とともに挟撃を図る浦上・宇喜多両氏と、同じ反幕府方であった三好氏が、陸海協同で展開した激戦だったわけです。

この時児島から上陸した四国衆を率いたのは阿波三好氏の重鎮・篠原長房ですが、五月七日付乃美宗勝宛小早川隆景書状には、

上口之儀、児島無正躰候、高島郡之事、はやはや可破趣候、敵も見候はぬに、阿讃備前衆におとされ候て無正儀聞候、取分程遠候條短息不行届趣ニ候 今保、妹尾、是又一大事に候、宗景福林島まて出張之由候、宇喜多是又浮出候、両口之心遣に候之間、一段彼堺之衆太儀と存、弱々敷覚悟に候

と記されているそうで、篠原長房、浦上宗景宇喜多直家の三者で電撃戦を展開した連合軍に対する、毛利方の焦りが見受けられます。

間もなく毛利氏は小早川隆景を総指揮官として現地に派遣し反撃を開始しますが、宍甘氏はその際にいずれかの城に籠って防衛したのでしょうか。

その後の展開は、浦上・宇喜多両氏は四国衆が児島から撤退した後も反毛利方として抗戦を続けていたものの、翌元亀3年(1572)10月に宇喜多氏が将軍義昭の調停を受けて毛利氏と和睦に及び、天正2年(1574)には小寺氏の元で養育されていたという浦上政宗の嫡孫・久松丸を担ぎ出して宗景に反旗を翻すことになります。

備前児島の戦いには備中松山城の三村氏からも庄元祐・三村元親の兄弟が毛利方として参戦しましたが、宇喜多直家が毛利と結んで宗景から離反するに及び、三村元親は父の仇である宇喜多直家への遺恨を理由として逆に宗景と結んで毛利方を離反、毛利氏からの討伐を受けることになるわけです。

(この辺りは以前 天正2~3年の「備中兵乱」の背景と備中松山城、備前常山城 でも触れました)

宇喜多直家というと暗殺ばかりが引き合いに出されますが、そんなのはただの手段であって、むしろ際立つのは時流を見極めて巧みに立ち回る手腕の見事さです。浦上宗景も大した人物だと思いますが、どうしても直家と比較されて割を食ってる感じですね。

穴の開いた「金箔押烏帽子形兜」と宇喜多与太郎元家

他に宇喜多氏関連では岡山城の関連史料として、宇喜多元家(基家)所用と伝えられる「金箔押烏帽子形兜」(大賀島寺)が展示されていました。

兜は鉄製ですが、烏帽子の部分に鉄砲弾が貫通した穴が残っていました。

展示されていた兜は宇喜多元家が戦死した時に着用していたという「紅糸素懸威銀箔押二枚胴具足」とともに、菩提寺の大賀島寺(瀬戸内市邑久町豊原)に伝えられた物とのこと。

宇喜多与太郎元家は宇喜多直家の甥で、天正7年(1579)10月に宇喜多氏が毛利方を離反して織田方に付いた際、直家の名代として織田信忠に謝礼を述べたという人物。

宇喜多直家が病死した後、天正10年(1582)2月21日に八浜城を拠点とする宇喜多忠家(直家の弟、秀家を補佐)と共に毛利軍と戦った「八浜合戦」において、流れ弾に当たり戦死したと伝わっています。

八浜合戦の時期は天正9年2月、同年8月など諸説ありますが、現在は天正10年2月が有力だそうです。)

またこの戦いでは、前述の浦上宗景書状で触れた宍甘氏の一族と思われる「宍甘太郎兵衛」が、毛利軍の追撃を退けた「八浜七本槍」の一人として名を挙げられており、宍甘氏も明石氏や花房氏と同様、宇喜多直家の台頭に伴って浦上宗景から離反し、宇喜多家臣となったことが伺えます。

なお、岡山県教育委員会発行の小冊子『高松城水攻め前後のおかやま』(この冊子、表紙にはマスコットキャラクターが描かれ文章もふりがな多めで小中学生向けのようですが、書状の解説などもあって非常にしっかりした内容です。)によると、若くして死んだ元家は村人たちによって「与太郎様」として神社に祀られ、現在は足の病が治るとされて信仰を受けているそうです。

この与太郎神社については、社殿を改築されたという東海建設のサイトに関連記事がありました。

バス停「与太郎様」や「名物 与太郎せんべい」もあるようです。

他に宇喜多氏関連では、「豊臣秀家」の黒印状(吉備津彦神社)も展示されていました。

思い出しながら気になったことを調べるうちに、随分と長くなってしまったので、次回に続きます…。

参考

  • 渡邊大門『備前 浦上氏』(戎光祥出版)

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

  • 若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』(戎光祥出版)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

追記

この記事の続きを書きました。