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k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りと歴史のことを書きます。戦国時代でも織田信長上洛以前の畿内と西国が多め。内容には素人の根拠無い想像が混ざってるのでお気をつけください。

「三木合戦絵図」絵解き - 三木合戦と天正年間の播磨国の情勢

先日、兵庫県立考古博物館で行われました『「三木合戦絵図」絵解き』を見てきました。

三木合戦絵図の由来と絵解きについて

「三木合戦絵図」は三幅で構成された絵図で、天保12年(1841)に讃岐在住の別所氏末裔・別所九兵衛長善が画師・中条竹趣に模写させ、三木合戦時の城主・別所長治の菩提寺である法界寺に奉納したもの。

原本図は別所方として三木城に籠城した来住安芸守の子孫によって寄進され、寛永年間頃に制作されたものと伝えられており、金箔が貼られた豪華なものとのこと。

現在、絵解きの語り手をされている生田さん(別所氏旧臣の末裔だそうです)もまだ見たことがないそうです。

絵解きは毎年法界寺にて別所公法要と合わせて命日の2月17日(旧暦1月17日)に行われていましたが、観光行事として公開されるようになって、真冬の開催では参加者も大変だろうということで、月命日の4月17日に改めたそうです。

由来については、こちらのブログ (4/17)別所軍と羽柴秀吉軍の戦いを再現する「三木合戦絵解き」 が詳しいです。

三木合戦絵図

元が模写図のカラーコピーなので鮮明ではありませんが、後半は首や胴が両断されているなど凄惨な描写が続くのでご注意ください。

平井山の秀吉方本陣。

天正7年2月、別所方が秀吉方本陣に決戦を挑んだ平井山の合戦の様子。左下の馬上の若武者は長治の弟・小八郎治定。

十文字槍を振るって勇戦する別所小八郎治定。敵を組伏せて首を取ろうとしているところでしょうか。

この後、槍を鎧に引っ掛けてしまった隙に組伏せられ、討死にしたと伝わっています。

天正7年5月、三木合戦における別所方唯一の勝利となった、淡河城の合戦の様子。

知勇に秀でた淡河弾正定範は予め買い揃えておいた雌馬を攻め寄せる敵軍に向かって一斉に解き放ち、馬がいきり立って混乱したところに突撃し、羽柴秀長率いる寄せ手の軍勢を撃退したと伝わっています。

しかし、雪辱を期して攻め来るであろう敵勢を支えることは難しいと判断、淡河勢は城を引き払って三木城へ入城しました。

三木城大手門での最後の激戦の様子。

力攻めに利のないことを悟った織田信忠は兵を率いて帰国したため、後を託された秀吉は三木城を包囲して外部との連絡を絶ち、平井山に堅固な砦を築いて兵糧の欠乏を待つ作戦を取りました。

なお、その最中の天正7年6月には、兵糧攻めの策を練ったという竹中半兵衛が平井山の本陣で病没しています。

左下の方にはもはや武装する体力も失ったのか、具足も身に付けずに刀をかざしている兵の姿が見えます。

兵糧が尽きた城内の様子。馬を切断して肉を焼いている一方で、集団で自刃している者達が描かれています。

切り分けた馬の肉を食べる者の隣で、鼠か何かをまな板に乗せている者もいます。また、こちらにも自刃している者達が。

平井山の秀吉本陣へ降伏の使者。左側が秀吉、右側が織田信忠

切腹、開城と決まり、秀吉から差し入れを貰って最期の宴会が催された城内の様子。中央の三つ巴紋の若者が別所長治。

長治は妻子達の自害を見届けた後、弟の友之とともに切腹します。介錯は老臣・三宅治忠が行ったそうです。

二人の辞世の句が伝わっています。

友之 命をも 惜しまざりけりあずさ弓 末の世までも 名を思う身は

長治 今はただ 恨みもあらじ諸人の いのちに代はるわが身と思へば

生き残った人々が、鐘を打ち鳴らして鎮魂する様子。

別所方の遺臣とその家族達が、三木合戦で亡くなった者達の菩提を弔うために、毎年集まるようになったという話。

凄惨な戦場の様子。乱戦の中、両断されている人。

今まさに討ち取った首を、高々と掲げている人。

御恩報謝と鎮魂を語り継ぐために行われるという「絵解き」、中にはこのように凄惨な光景も描かれている絵図ですが、これらを指し示しながら淡々と語られるものでした。

かつては子供達により口伝で受け継がれていたそうですが、泰平の時代に生まれ育った子供に、どのような思いを託して続けられてきたのでしょうか。

三木合戦までの別所氏と織田政権の関係は良好だった

天正6年(1578)2月末、毛利攻めのため下向した秀吉が播磨の諸将を集めて加寿屋氏館で開いたいわゆる「加古川評定」の直後、これまで織田方であった三木城主・別所長治とそれに呼応した周辺の諸城主が毛利方へと離反しました。

遡ること十数年、永禄年間の播磨では嫡子・義祐によって追放された赤松性煕(晴政)が龍野城主・赤松政秀の元へと逃れ、義祐を擁する御着城主・小寺政職と対立していましたが、早くから東播八郡を支配し独立性が強かった別所氏は守護赤松氏から離れて、独自に畿内勢力との連係を図ってきました。

永禄11年(1568)末には織田信長の援助によって上洛した足利義昭が将軍となりますが、永禄12年(1569)正月に三好三人衆の一党が京都を襲撃した際、当時の三木城主・別所安治は信長の要請に応じて弟の重棟を派遣し、名馬と感状を授かっています。

また、永禄11年(1568)9月頃に赤松政秀が娘を将軍・足利義昭の元へ送ろうとした際、義祐の命を受けた小寺氏によって抑留されるという事件が起きていますが、翌永禄12年(1569)8月に別所安治は摂津の池田氏らと共に信長の命を受けた秀吉に従い、庄山城など義祐方の城を次々と攻略し、小寺氏を降伏させています。

(この一連の戦いの中で起きたのが、黒田官兵衛が勇名を轟かせたという「青山・土器山の戦い」です)

元亀元年(1570)10月には13歳で当主となった長治が重棟とともに信長に謁見、元亀3年(1572)末から4年にかけて足利義昭が信長に反旗を翻して京都を追放されますが、毛利勢力下の備後鞆に亡命していた天正3年(1575)10月にも、別所長治は小寺政職、赤松広秀、浦上宗景といった、播磨に割拠した領主たちと共に信長の宿所を訪れています。

このように播磨の諸勢力の中でも早くから織田政権と良好な関係にあった別所氏が、突如として反旗を翻した原因は何だったのでしょう。

軍記には、評定に参加した別所氏の老臣(別所吉親、あるいは三宅治忠という説もあり)が兵法の長講釈をして秀吉の勘気を蒙ったとか、元々別所氏は信長から直接に中国攻めの先導を依頼されていたものを、大将として派遣されてきたのが成り上がり者の秀吉で、その態度が極めて横柄であったことが別所氏の反感を買ったとか、様々に書かれています。

しかし、ただ感情的なことが理由で周辺の諸城主を糾合して反乱を起こす訳はなく、当時の織田政権が非常に不安定で、特に備後鞆に将軍・足利義昭を擁する毛利氏との戦況が影響したものと考えるのが妥当でしょう。

天正年間の織田と毛利の戦い

天正年間の織田政権は戦線の拡大が限界に来ており、畿内周辺でも離反する城主が相次いでいた不安定な状況でした。

天正2年末から3年頃にかけて、まず浦上氏とともに織田方に属していた宇喜多氏が毛利方に付き、長らく毛利方であった三村氏が宇喜多への反発から離反して毛利に滅ぼされたいわゆる「備中兵乱」を経て、浦上宗景宇喜多直家によって天神山城を追われて没落を余儀なくされるなど、備前・備中に勢力を拡大し播磨へと進出しようとする宇喜多氏を毛利氏が支援する形で衝突が始まります。

丹波では天正4年1月、赤井直正が篭る黒井城を包囲中の明智光秀の軍勢が、離反した八上城主・波多野秀治らの軍によって急襲され、丹波攻略の中断を余儀なくされるという事態も起きています。

別所長治は波多野秀治の娘を正室に迎えていて同盟関係にあり、隣国である丹波の情勢も別所氏が毛利方につく要因の一つになったことは間違いありません。

また、摂津においても天正4年4月に本願寺が再び挙兵し、7月には本願寺を支援する毛利方の水軍が織田方の水軍を破っています。(第一次木津川口の戦い)

播磨では天正5年12月、秀吉が間隙をついて上月城を奪取し、再興の悲願をかける尼子勝久と山中鹿介ら出雲尼子氏の遺臣たちを尖兵として入城させますが、翌年3月には別所氏ら播磨の諸将が一斉に織田方を離反し、続いて毛利輝元が大軍を率いて播磨へと侵攻を開始しました。

事態を重く見た織田方では5月、当主の織田信忠をはじめ、北畠信雄織田信包神戸信孝細川藤孝佐久間信盛など諸軍が播磨に出陣しますが、三木城攻略を優先する信長の判断によって上月城の尼子勢は孤立、6月には秀吉も高倉山で大敗して滝川一益明智光秀丹羽長秀らの援護のもと書写山へと撤退しました。

毛利氏の大軍に包囲され糧道を絶たれた上月城は為す術もなく降伏し、尼子勝久は自刃、首謀者として危険視されていた山中鹿介は捕らわれて毛利輝元の本陣へ送られる途中、備中阿井の渡で殺害されました。

別所氏に呼応して離反した播磨の諸城は大軍を投入した織田方によって各個撃破され、7月には神吉城、続いて志方城が落とされますが、三木城はまだまだ抵抗を続けており、10月には有岡城主・荒木村重、御着城主・小寺政職が離反するという事態を招き、織田方としても決して予断を許さない状況が続いていました。

しかし、天正6年11月には第二次木津川口の戦いで織田方の水軍が本願寺を支援する毛利方の水軍を破り、翌年6月には八上城が降伏して波多野秀治は処刑、9月には荒木村重有岡城から脱出して尼崎城、後に花隈城へと移り、10月には宇喜多氏が毛利方を離反するなど、徐々に織田方の優勢が確実となっていきました。

この間、御着城も織田信忠によって落城、小寺政職は毛利氏の元へ亡命しています。

そして天正8年1月、22ヶ月に渡って抵抗を続けた三木城も、城主の別所長治らが切腹、城兵の助命を条件に開城した次第です。

このように、毛利氏と織田氏の狭間で揺れ動いた播磨・備前の諸勢力を巻き込む戦いとなった三木合戦ですが、荒木村重の説得のために有岡城へと赴き虜囚の身となった黒田官兵衛は一命をとりとめ、秀吉の元で活躍し、竹中半兵衛の機転により命を救われた嫡子・長政(松寿丸)とともに、福岡藩52万石の基礎を築くことになります。

(なお、黒田重臣の中には、一族あるいは本家が三木城に入城した栗山四郎右衛門や後藤又兵衛、別所方の端谷城主・衣笠範景の次男という衣笠久右衛門などがいる他、播磨出身者が大勢います)

参考

  • 渡邊大門『備前 浦上氏』

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

三木市の関連史跡(2012年4月訪問)

三木城址に近い雲龍寺のはずれにある、別所長治の首塚と伝わる墓。

正室の照子夫人の墓と並んで建てられています。

別所長治の菩提寺・法界寺

法界寺にある別所公墓所

墓所の近くにはまだ新しい「別所長治公像」や、辞世の句が刻まれた碑が建てられています。