三ツ山大祭と赤松氏
20年に一度、播磨国総社(射楯兵主神社)にて行われる「三ツ山大祭」について。
先日ようやく入手した BanCul 2013冬号(No.86)に、三ツ山大祭と赤松氏の関わりについて書かれていたので、これまで調べたことと合わせてまとめがつつ振り返ってみます。
三ツ山大祭の起源
『射楯兵主神社略記』には三ツ山大祭の元となった一ツ山大祭について、以下のように記されています。
兵主大神の欽明天皇廿五年六月十一日丁卯の日御鎮座になりし紀念といひ一は延暦六年丁卯年坂上将軍の所願に依り国衙小野江に奉遷し射楯大神を合祀して射楯兵主神社と奉稱するに至れる
所謂御鎮座の紀念するものの如し之を一名一ツ山とも云ふは此の祭典には境内に高さ五丈余尺の大造山を一基造りて祭典を行ふに依りて此の名あり
而して其前に舞台を設けて能楽を興行し競馬流鏑馬神子渡一つ物弓鉾指等の諸神事を行ふ
又此の祭典には市内の各町屋上に夫々数寄を凝したる大造物をなして之を奉祝する古来よりの慣例なり
斯る特種の祭典なるを以て往古より総社の一ツ山神事とてその殷盛なる事中国に冠たる有名なる大祭典と云ひ囃せり
そして、三ツ山大祭については
境内に大造山を三基造るに依りて此名あり其他は丁卯祭と大同小異の特種神事にして市中屋上の造り物等同じくその殷盛なること亦前者と異ることなし
としています。
『臨時祭由来』には三ツ山大祭の由来が以下のように記されています。
三ツ山臨時大祭と云ふは二十一年目毎に執行さる最も厳しく賑しき大祭にて約一千年の昔天慶の乱に当り逆賊追討の祈願を為せし時に始まり爾来国家の大事変に際し執行し来りしを播備作の太守赤松政則の時に至り二十一年目に定まりたるなりといふ
延暦6年(787)丁卯(ひのとう)の年に行われたことから「丁卯祭」と呼ばれた一ツ山大祭の臨時祭として、天慶の乱の際に逆賊追討の祈願を行ったことを始まりとして、国家の大事変に際して執行されてきたという話です。
(「赤松政則の時」とありますが、これは誤りのようです)
置山の起源と赤松氏
神戸新聞出版センター『播磨の祭り』には、この三ツ山大祭の置山は、播磨地方の祭で有名な担ぎ屋台の起源とされる神降の座所、ヤマの古態を残したものだとありました。
しかし『惣社記事略』によると、大永元年(1521)6月に行われた一ツ山大祭で車付きの曳山が造られており、『惣社集日記』にはその翌年の三ツ山大祭から御屋形様(赤松政村)の下知によって飾り山の形式を改め、国府寺村、宿村、福中村の有力者が木竹で高さ三間二尺の山を三ヶ所に造り色絹を巻いたのが始まりだと記されているそうです。
祇園祭の山鉾が史料に現れるのは14世紀中頃で、15世紀中頃とされる『月次祭礼図』に描かれた山鉾の姿は四人で担ぐ枠台に笠鉾が乗る曳山の形態とのこと。
三ツ山大祭の置山は、赤松氏によって播磨国一宮・伊和神社の三つの聖山に降臨する神々を迎える三ツ山神事を模した姿に改められたもの、というのが実情でしょうか。
(余談ですが、慶長6年に池田輝政によって姫路城の縄張りが改められた際、惣社が鎮守として城内に取り込まれましたが、国府寺村、宿村、福中村の三ヶ村は新たな町割りによって村が解体された後も三ツ山の山元としての役割を受け継いでいったようで、享保18年に行われた三ツ山大祭でも三ヶ村の名前で特別に大きな桟敷が割り当てられています。)
ただし、この置山の形態が定められたという大永元年(1521)6月は、赤松義村はまだ辛うじて存命ながら隠居状態で、嫡子・政村を擁立した浦上村宗が細川高国の要請を受け、義村が養育していた足利亀王丸(後の義晴)を上洛させた頃です。
その数ヶ月後に義村は暗殺されてますので、社伝の年代が事実であれば「御屋形様の下知」は赤松氏というよりもむしろ浦上村宗の意志が反映されたものと考えた方が良さそうです。
『播磨鑑』より、赤松義村の作と伝わる歌
ひめち成國ぬしの神光りましいつもまうつる里のもろ人
義村を弑逆して下剋上を果たし、細川高国政権との繋がりを深めつつも、再び政村を推戴せざるを得なかった浦上氏にとって、播磨で広く信仰されている伊和大神の神事を取り入れて三ツ山大祭を確立したことは、領国支配を展開する上で重要な意義があったと考えられます。
なお、政村は享禄4年(1531)6月のいわゆる大物崩れで父の仇である浦上村宗を討ちますが、帰国してわずか四ヶ月後には浦上一族が蜂起、英賀の館を追われ明石城へと逃れる羽目に陥ってしまいます。
政村はその後勢力を盛り返して庄山城へと移ったとされていますが、社伝によれば、まだ浦上氏との対立が続いていたと思われる天文2年(1533)9月に再び三ツ山大祭が行われ、政村の下知によって、これまで不定期に行われてきた臨時大祭を以後21年毎に行うよう定めたとあります。
浦上村宗と赤松政村、それぞれの状況で行われた三ツ山大祭に込められた意志を考えると、興味深いです。
なお、その後も浦上氏との対立は続き、天文3年(1534)8月にも福井庄朝日山で大規模な合戦が起きていますが、天文6年(1537)末頃からの尼子氏による播磨侵攻が行われたことで、政村は小寺氏や明石氏にまで背かれ、長く播磨を離れることになりました。
黒田官兵衛と惣社
天正4年(1576)6月から7月に伊勢参宮を行った西園寺宣久の紀行文『伊勢参宮海陸之記』には、宣久が惣社で休息した後、城主である官兵衛に志方までの案内者をつけてもらい、三木で宿泊したことが記されているそうです。
当時の姫路城は小寺氏の本拠・御着城の支城という位置付けですが、国府・惣社と一体のものとして記されている通り、重要な意味を持つ拠点だったようです。
また、永禄10年(1567)の惣社拝殿再興棟札には、官兵衛の父・職隆の名が記されています。
諸仏皆威徳 羅漢皆行満
一切曰皆善 一切宿皆賢 以斯誠實言 願我成吉祥
永禄拾年卯丁玖月十五日吉辰
藤原朝臣小寺美濃守職隆(花押)
この頃の播磨の情勢は小寺政職、別所長治、龍野赤松氏の赤松広秀、いずれもが織田氏に臣従しています。
かつて信長によって「播備作之朱印」を与えられた浦上宗景は、浦上氏の麾下を離れて毛利方についた宇喜多直家によって没落しており、旧領回復のため織田方の援助を願っています。
しかし、天正6年(1578)2月頃に秀吉が毛利攻略に先がけて開いた加古川評定の直後、三木城の別所長治ら播磨の諸将が一斉に織田方を離反したことから、播磨は再び織田方と毛利方の主戦場となります。
天正8年(1580)1月には約2年に渡って抵抗した三木城の別所長治が切腹開城、惣社には同年4月に「藤吉良」の名で公布された禁制が残されていますが、このように混乱した情勢が続き、赤松政村が定めたという三ツ山大祭も長く中断されることになりました。
三ツ山大祭の復活は、姫路城主・木下家定によって式年祭が執行された文禄2年(1593)9月。
それ以後は今日に至るまで(嘉永6年の黒船来航など何度か延期されたことはありましたが)、60年に一度の一ツ山大祭とともに絶えることなく受け継がれています。
次回、2033年の三ツ山大祭は無事に観られるでしょうか。
参考
- 北村泰生 写真 藤木明子 文『播磨の祭り』(神戸新聞総合出版センター)