k-holyの史跡巡り・歴史学習メモ

趣味の史跡巡りと歴史のことを書きます。戦国時代でも織田信長上洛以前の畿内と西国が多め。内容には素人の根拠無い想像が混ざってるのでお気をつけください。

英賀城跡と本徳寺巡り(前編)『軍師官兵衛』が触れなかった英賀城と三木一族の歴史

英賀城は、夢前川の河口一帯に瀬戸内水運の拠点として発展し、本願寺の播磨における拠点となった本徳寺の寺内町として栄えた城郭都市です。

英賀を発展させた英賀城主・三木一族

戦国期に英賀城主を務めた三木氏は伊予河野氏の一族で、讃岐三木郡を相続したという河野通堯の子・通近を祖としています。しかし、河野氏側の系譜には三木氏との関係が記録されておらず、事実かどうかは定かではありません。

永享2年(1430)に飾東郡恋ノ浜城へと移った通近は三木氏を名乗り、『播州英城日記』は4代目の通武が嘉吉3年(1443)に英賀へ入部、12月から翌文安元年(1444)11月にかけて「芝」の地に居館を築き、同2年正月に移り住んだと伝えています。

三木氏以前の英賀は、鎌倉期に福井荘の地頭であった吉川氏の支配下にあったことや、永享年間に播磨守護赤松満祐の弟・常陸介祐尚が「英城」に居したことが、上郡町の宝林寺や法雲寺といった赤松氏ゆかりの寺院に伝わる文書に記されていますが、確かなことは分かっていません。

三木氏が英賀に進出したのは、嘉吉元年(1441)6月に赤松氏が将軍・足利義教を自邸で殺害するという前代未聞の事件を起こして幕府から討伐を受けた「嘉吉の乱」の終結から間もない頃ですが、三木氏はその間に初代から4代まで立て続けに交代しており、かなりの混乱があったことが窺えます。また、三木通武の母は赤松満祐の娘であったとも伝わっていますが、嘉吉の乱後に播磨を得た山名持豊(宗全)は三木氏の英賀進出を容認したようです。

亀山本徳寺がまとめた『播州真宗年表』によると、永享12年(1440)に関東で勃発した結城合戦に際して、三木通重が軍船40隻を率いて飾磨沖から赤穂の警固にあたったそうで、すでに相当な勢力を持っていたことが窺えます。また「三木氏は武家ではなく、英賀代官の統制下にあった裕福な交易業者であり、後に武士化したと思われる」と推測されています。

あるいは、永享年間に恋ノ浜城を拠点に赤松氏の下で水軍を統括していた三木氏が、嘉吉の乱を通じて山名氏に従い、赤松氏に代わって英賀城を占拠したとも考えられます。(英賀城主・赤松祐尚は嘉吉の乱以前に亡くなっており、後継者の則尚は乱の当時まだ10代でした)

享徳3年(1454)には、将軍・足利義政が赤松満祐の甥・則尚を赦免したばかりか、上意に背いたという理由で山名持豊に対して討伐軍を招集する事件が起きました。『播州真宗年表』によると、この際に山名氏による英賀侵攻の風聞を受けた三木通武は、大規模な築城工事を行い、南側に田井ヶ浜を城内深く引き入れて港とし、北側は十の出入口(広辻口、芝之口、駒芝口、井上口、大木口、河下口、北芝口、岡芝口、野中口、山科口)を土塁で結んで防備を固め、その外側にある沼沢地帯を濠(大木之濠)としました。岩を繋いだような強固な城「岩繋城」と呼ばれた英賀城の城域は、この頃にほぼ確定したようです。

なお、山名持豊の婿であった管領細川勝元が将軍に従わず逐電したため山名討伐は中止されましたが、梯子を外される形となった赤松則尚は播磨に下向して旧臣達と共に挙兵します。翌享徳4年(1455)4月には山名氏の大軍が播磨に侵攻、赤松方も坂本城や壇特山に篭って抗戦したものの、山名是豊ら備後勢が篭もる室山を落とせず敗走した則尚は備前鹿久居島に逃れて自害、その首は赤松円心開基の法雲寺で晒されました。

(三木通武も赤松方として参戦したとの説もありますが、結局は山名氏によって許されたようで、経緯はよく分かりません。)

その後、長禄元年(1457)には南朝方に奪われていた神璽を奪回した功績により、赤松満祐の弟義雅の孫・政則を当主として再興が認められた赤松氏は、応仁・文明の乱において東軍方として活躍し、播磨の奪還に成功します。三木氏5代目の通安は当初、西軍山名氏に従って大内・河野軍を先導し20隻の軍船を率いて摂津に出向したものの、後に東軍赤松氏の麾下に入って武功を上げ、従四位下宮内少輔に任ぜられました。

その水軍力を武器に山名氏と赤松氏の間で巧みに立ち回り、英賀城を発展させた三木通安は、北方の山崎山に初代通近から四代通武までの頭首とその妻の墓を建てました。そして三木一族は城内に市庭家、井上家、土井家、堀内家の「四本家」と山崎家、薮内家、町之坪家の「三連家」がそれぞれ居館を構え、七家の合議によって英賀の町を運営したと伝えられています。

播磨における本願寺の興隆と「英賀御堂」本徳寺

英賀城を発展させた三木氏は浄土真宗本願寺に帰依し、本願寺一家衆を本徳寺に迎えることで、やがて「英賀門徒」と呼ばれる強力な門徒集団を抱えるに至ります。

西国においては仏光寺系の布教が先行していたようですが、明応年間には「播磨六坊」(円光寺、光善寺、永応寺、万福寺、光源寺、光触寺)に代表される各地の寺院が次々と本願寺の系列に入り、中には天台宗禅宗から転派する寺院も現れるようになります。

江戸中期に三木知識が編纂したという『姫路船場本徳寺開基略』は、蓮如の命を受けて播磨へ下向した弟子の法専坊空善によって、明応2年(1493)2月28日に道場が開創され、蓮如により英賀東「苅屋道場」に本尊が授けられたと伝えています。

また『播州英城日記』よると、三木氏6代目の通規が英賀城主を務めた永正年間にはますます「専念一向宗」に帰依する者が増えたため、やがて門徒の中で一家衆(宗主の一族)を迎えたいとの声が高まり、永正9年(1512)8月には天満九郎四郎近村が上京して本願寺に参じて一家衆の下向を懇請した結果、実如上人はこれを受け入れました。

『栄玄聞書』には、この頃の播磨では守護赤松氏が怨みにより一向宗を禁止していたところ、実如上人が秘蔵の名馬「ちゞみ栗毛」を赤松氏へ贈ったことにより、禁制が解かれたというエピソードが記されているそうです。

実如上人御代に、御馬五十疋仙飼候、其中にちゞみ栗毛と申御馬、御秘蔵の名馬にて候。然ば播磨の国赤松[是は備前、はりま、みまさか三ヶ国の守護也]このちゞみ栗毛の事を承り及び、上野[蓮秀と云云]まで度々所望の由申入られ候へども、蓮秀御耳にもたてられず候、其故は、御秘蔵の御馬にて候あひだ、中々くだされまじきと存ぜられ、申あげられず候

…中略…

総じて赤松と申ものは、御一宗に怨をなし、播磨一国の門徒の者に、念仏をさへこゝろやすく申させぬ者にて候、播磨一国の尼入に、こゝろやすく念仏をも申させ、仏法をも聴聞させ候はゞ、たとへば御身をうらるゝともおしからずと、思召候と御意候、この仰せを御前の人々承り、数剋落涙のよし候、さて御馬をば京へ引こさせられ、赤松へくだされ候、赤松悦喜申され候事、是非なく候、すなはちこれより、播磨一国の仏法こゝろやすくひろまり申候なり

このような実如上人の意志により、まず永正9年(1512)に五子の実玄が英賀本徳寺に入寺したものの、永正12年(1515)3月に夭逝したため、その後は三河土呂本宗寺の住持であった六子・実円が英賀本徳寺を兼帯することになりました。永正10年(1513)9月2日、芝之館において実円と対面した英賀衆「七家」をはじめ89人が剃髪し、浄土真宗の歓化を受けたと伝えられています。

また『播州英城日記』によると、永正10年(1513)2月には東西一町、南北二十間の地を定めて坊舎の建築が開始され、2年後の永正12年(1515)6月2日には南北九間、東西七間という規模の「英賀御堂」が完成、翌日から七日間の遷仏法要が営まれるとともに、実円より七家以下各分家へ蓮如直筆の六字名号(「南無阿彌陀佛」と記した掛け軸)五十余軸が授与されました。

大永5年(1525)に実如上人が没した後、実円は後継者となった証如の後見役として大坂本願寺にいることが多かったようですが、英賀へも何度か下向しており、天文6年(1537)頃には播磨へ進出した尼子氏の動静を証如に伝えるなど、政治的な面でも本願寺教団の重鎮として活躍しました。

(実円の報告を受けてか証如は尼子詮久に宛てて「御出張の由承り候、ことに早速御本意に属し候条珍重に候」とその進出を祝う書状を送っています。)

また、戦国期の本願寺は各地の門徒を御堂番として上山させていましたが、播磨門徒でも天文7年(1538)以降およそ年2回、万福寺、播磨衆、英賀衆というグループに分かれて御堂番を勤めたほか、証如上人の日記『天文日記』には英賀の俗人門徒である英賀徳正、すみや甚兵衛、英賀市場与三兵衛、英賀丈重新衛門らの死去や年忌に際して、遺族が本願寺へ斎(仏事における食事)の調進を行ったという記録が残されており、信仰活動の中にも英賀衆の経済力が窺えます。

英賀城主・三木氏は自ら門徒となることで「英賀御堂」本徳寺を中核とした阿弥陀信仰を共通の精神基盤とし、地縁的共同体の統率者として強固な関係を築きますが、英賀と本願寺の強い繋がりは、やがて畿内の覇者となった信長との間に勃発する「石山合戦」に強く影響を受けることになります。

軍師官兵衛』が触れなかった姫路時代の黒田家と英賀の関係

大河ドラマ軍師官兵衛』では主君・小寺政職を説き伏せて信長方となった官兵衛が、海上から攻め寄せる毛利氏の水軍を撃退したという天正5年(1577)5月の「英賀合戦」において、侍女のうち何人かが本願寺門徒であったため官兵衛の元を離れて英賀本徳寺に駆け込み、敗戦後再び黒田家を頼った末、侍女の1人「お道」が栗山善助の妻になるというストーリーが描かれました。

しかし、実際の黒田家と英賀の関係はもっと深いもので、『寛政重修諸家譜』によると官兵衛の姉妹に当たる黒田職隆の長女が英賀城主・三木氏の元に嫁いでおり、官兵衛が母里一族24人の戦死という犠牲を払いつつ辛勝したと『黒田家譜』が伝える永禄12年(1569)8月「青山合戦」では、三木氏も小寺方として援軍を送っています。

また、英賀本徳寺の後身である亀山本徳寺には、英賀城主・三木通明と見られる「三木宗太夫入道慶栄」が永禄9年(1566)5月に英賀本徳寺へ寄進したという梵鐘が伝えられていますが、この製作者である芥田五郎右衛門尉家久は姫路城近くの野里村に在住して播磨鋳物師を統括した人物で、永禄12年(1569)8月22日には小寺政職から弟の善五郎と共に青山面における戦功を賞する感状を与えられており、同じ小寺氏の被官として、黒田氏とも親しい関係にありました。

芥田五郎右衛門は個人的にも官兵衛と親しかったようで、後に福岡時代の官兵衛から五郎右衛門に宛てて、池田輝政が発展させた姫路城下町の繁栄ぶりを喜ぶ内容の書状が残されています。

姉妹の嫁ぎ先でもありかつて良好な関係を築いていた英賀を攻撃目標とする「英賀合戦」は、主家の小寺氏ともども生き残るため織田方に付いた結果とはいえ、官兵衛にとって辛い戦いだったのではないでしょうか。

ちなみに「ひめじ大河ドラマ館 かわら版」によると、亀山本徳寺では『軍師官兵衛』の英賀合戦に際して、毛利軍の大将・浦宗勝が英賀御堂に本陣を構えるシーンと、本願寺顕如をはじめ僧侶が念仏を唱えるシーンが撮影されたそうです。

その際、書写山圓教寺のお坊さんが僧侶役のエキストラとして参加したそうですが、旧仏教である天台宗は当時の新興宗教であった本願寺教団を目の敵にしていたため、『播州英城日記』には書写山の僧徒がたびたび英賀に攻め込んで死者が出る争いになったことが記されており、大永5年(1525)には僧徒によって強奪された鐘を英賀衆が山崎辺りで取り戻すという事件も起きています。

カンペを見ながら違う宗派のお経を読んだというお坊さん達は、ご存知だったでしょうか…。

英賀城跡を巡る

英賀城跡の遺構はほとんど残っておらず、十口の城門跡に石碑が建てられているものの、三木通武が築いたという「岩繋城」の姿は現状からはなかなか想像できません。ですが、実際に歩いてみることでその広さを実感することはできました。

山陽電鉄西飾磨駅前にある史跡地図。「付城公園」「清水公園」「矢倉公園」といった公園にも当時を偲ぶ地名が残っています。

付城は織田勢を警戒した三木氏が築いた出城もしくは、秀吉が英賀城攻略の際に築いた付城の跡と考えられます。

清水はおそらく秀吉による英賀城攻略の際に最前線となった「清水構」で、ここには宮部善祥坊が配置されていたと伝わっています。

現在の水尾川。英賀城は東に水尾川、西に夢前川が天然の堀を形成していました。

「城内に 眠り一村 水ぬるむ」

広辻口は英賀城の十口の一つで、水尾川に面した東側に当たります。

本丸跡に建つ石碑と復元図。上が南です。

英賀城は本丸と二ノ丸が随分と東に偏っていますが、この近くには「芝之口」や「駒芝口」があり、おそらく英賀へ入部した三木通武が最初に築き、英賀衆が実円と対面したという「芝之館」が二ノ丸もしくは本丸の原型だったと思われます。

「田井ヶ浜 おぼろがつゝむ 英賀城史」

三木通武が南側に港を引き入れたという田井ヶ浜の跡。落城後荒れ果てていたというこの地を清めた熊谷家が地蔵尊を祀り、英賀神社の辰巳の方角に当たるため「巽地蔵」と呼ばれるようになったそうです。

田井ヶ浜跡の碑文には「天正四年(一五七六) この地は毛利水軍五千人の上陸地」とありますが、この年次は『黒田家譜』による誤伝で、実際には天正5年(1577)5月のことです。

夢前川にかかる山陽電鉄の鉄橋。山陽電鉄の線路辺りが英賀城の南端になりますが、ちょうどこの辺りには英賀津の船溜まりがあったようです。

なお、現在の夢前川は昭和13年の日本製鐵広畑製鐵所の建設に伴う付替工事のため、かつての流路から東に大きくずれています。

夢前川にかかる歌野橋より。夢前川の付替工事によって川底に埋まったという本徳寺跡地は、歌野橋上流約100mの河川敷中央辺りにあったそうです。この辺でしょうか?

歌野橋を渡って夢前川東の堤防を少し北上したところにある「英賀本徳寺(英賀御坊)跡」の案内板と、天正5年の英賀本徳寺建物配置復元図。かつてこの地には「御坊」という字名が残っていたそうです。

本徳寺跡にある英賀城跡区域復元図は、現在の地図の上に土塁や堀が重ねて描かれ、館跡や十口の位置も記入されていて分かりやすいです。

これを見ると、まさしく現在の夢前川の真ん中にかつての本徳寺があったことが分かります。

明蓮寺は永正14年(1527)に三木通規の家臣である神出左衛門の母・妙蓮尼によって建立され、秀吉による寺内町解体後も唯一この地に残った寺院です。ここには石山合戦期に顕如から英賀惣中に宛てた書状が伝えられていますが、それは次回に紹介します。

昭和3年に英賀青年会が建立したという石碑はかつて本徳寺跡にあったもので、夢前川の付替工事に伴って明蓮寺の境内に移設されました。

なお、周りには北条(北條)さん宅が多かったのですが、明蓮寺の斜め向かいには三木さん宅がありました。(三木氏の末裔の方でしょうか…?)

「英賀御坊ハ今ヲ去ル四百三十七年明應元年蓮如上人ノ開基ニシテ播州真宗發祥ノ霊地ナリ」 昭和3年当時はこのように伝承されていたようです。

英賀神社は英賀彦神、英賀姫神主祭神とし、播磨風土記にも英賀の地名はこの神名に因ることが記されているそうです。英賀城下に本徳寺以下35ヶ寺を数える中、唯一の古い由緒を持つ神社であったようです。

英賀神社には永禄10年(1567)に三木宗太夫慶栄が寄進した英賀本徳寺鬼瓦や、英賀落城の2年後に当たる天正10年に薬師入道道定が撰述したという『播州英城日記』が伝えられています。

奉納された玉垣には「付城」「矢倉東」「清水」「山崎」といった町名が多く見られましたが、あるいは英賀城の戦いに縁ある方々かもしれません。

英賀神社は絵馬堂もなかなか見応えがあります。

中には東塚嬉楽と門人らによる「算術自問答」なる奉納額も。算額というやつですね。ずいぶん新しく見えますが、復元されたものでしょうか。附城村の三木さん三名も名を連ねています。

英賀神社の本殿裏には英賀城の土塁跡が残されています。

英賀城跡公園には復元された石垣(?)があります。『播磨灘物語』の文学碑が英賀神社境内に建立され司馬遼太郎が訪れた際、地元で英賀城を見直そうという運動が盛り上がったそうですが、その際に整備されたものでしょうか。

「花万朶 三木十代の 城の址」

英賀城跡公園には十口の一つ、野中口の石碑も。復元図によると付近には「北野中館」があったようです。

十口の一つ、山科口の石碑。ここは北西の角に当たり、現在「矢倉公園」の敷地になっています。この辺りには英賀城の櫓が建っていたのでしょうか。

十口の一つ、岡芝口の石碑。

十口の一つ、河下口の石碑と、北側土塁の外に当たる沼沢地帯を濠としたという「大木之濠」の石碑。大きな交差点の歩道にあります。

「水田にビルが立ち野が枯てゆく」という歌が物哀しさを漂わせていますが、これより北の沼沢地帯は後に水田として利用されていたのでしょうか。復元図を見たところ、この石碑自体も建物の建設により移動されているようです。

英賀薬師(法寿寺)の跡。法寿寺は延宝9年(1681)に三木氏の後裔古今によって中興創建された寺院で、浄土宗知恩院幡念寺の末寺だったそうです。浄土真宗に帰依したはずの三木氏がなぜ浄土宗に?

英賀薬師跡には英賀城主・三木氏一族の墓所があります。延宝9年(1681)山崎山に亀山本徳寺西山御廟が建立されることになったため、同所にあった一族の墓所をこの地に移転したそうですが、当時の亀山本徳寺と三木氏の間で何かあったのでしょうか?

東本願寺派である船場本徳寺の視点による本徳寺の由緒記『船場本徳寺開基略記』をまとめたのが「三木通識」というのも気になります。三木一族も本願寺東西分裂の影響を受けたのでしょうか…? (疑問は尽きませんが、「石山合戦」での英賀城の動向と後の本徳寺分裂については次回に紹介します)

「俗名越智姓三木右馬頭通近」とある通り、こちらは初代三木氏となった通近の墓のようです。河野氏の本姓は越智のためそれに習っているのでしょう。

最後の城主となった三木通秋は秀吉による英賀落城時に船で脱出し、2年後に許されて英賀へ戻ったと伝えられていますが、河野に姓を改めて帰農した人もいるそうです。この方はその末裔でしょうか。

英賀薬師跡の北側には僅かながら土塁跡が残されています。

英賀薬師跡のすぐ傍には赤松義村が定めたという「播磨十水」の一つ、「大木之清水」の石碑と井戸の跡が残っています。この井戸は通称薬師の湯と呼ばれ、昔から「薬の井戸」として親しまれてきたそうです。

十口の一つ、井上口の石碑。復元図によると付近には七家の一つ井上家の館があったようです。

英賀薬師北側の土塁跡に沿って東西に小さな溝が残っており、水尾川まで延びていますが、地図を見たところどうやらこれも堀跡のようです。

参考

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

黒田官兵衛 作られた軍師像 (講談社現代新書)

ひょうごの城

ひょうごの城

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播磨佐用郡の山城・利神城の歴史と伝説

利神城跡は佐用郡佐用平福にあり、標高373.3mの山頂に総石垣作りの威容を誇り「雲突城」とも呼ばれたという山城の遺跡です。

利神城を築いた佐用別所氏

一般に別所氏といえば、赤松政則を支えて東播磨八郡の守護代を任された三木城主・別所則治と、その後裔である別所長治の三木別所氏が知られていますが、別所氏の諸系図では河西郡別所村から三木郡に移った赤松季則の二男頼清を別所氏の始祖とし、赤松圓心の弟「別所五郎入道」圓光がその名跡を継いだとしており、圓光から則治までの系譜は諸説あって定かではありません。

佐用郡歴史研究会が『佐用の史跡と伝説』にまとめた「別所氏略系図」には、貞和5年(1349)に別所五郎左衛門敦範が佐用郡豊福を賜って豊福構および利神城を築城した後、持則、則康、祐則と続き、祐則の五男・小二郎則治が三木城主となって別所家を再興、祐則の二男・五郎蔵人光則が利神城主を継いだものの、子の小太郎治光とともに嘉吉の乱で伊勢にて討死、その子日向守治定が応仁元年(1467)に利神城を再興したとされており、これが佐用別所氏の流れになります。

また『佐用の史跡と伝説』には、日向守治定の後、日向守静治、太郎左衛門定道の代に至り、天正5年(1577)に秀吉による侵攻を受けた際、定道は人質を出して和を乞うたものの、病弱の定道に代わって城主となった日向守林治は秀吉に反抗したため、天正6年(1578)正月に上月城に入っていた山中鹿介幸盛に攻められ落城したと記されているそうです。

秀吉の佐用侵攻については長浜城歴史博物館が所蔵する下村文書に秀吉自身が詳細を綴った書状が残されており、その中で秀吉に敵対する3つの城として福原城、「七条と申す城」上月城、そして「別所中務と申者之城」利神城(あるいは麓にある居館の別所構)が挙げられ、別所中務が降伏を願い出てきたため人質を3人召し取った上で翌年2月まで城を預けたと記していますが、佐用別所氏のその後の動向は明らかではありません。

(秀吉による上月城落城の悲惨な戦いについては 上月城の戦い第一幕・秀吉の播磨侵攻 で記事にしています。)

通説では、天正8年(1580)には赤穂郡佐用郡を領した宇喜多秀家が家老の服部勘介を利神城主として両郡を支配させたものの、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で宇喜多氏が西軍に与して敗れたため、服部勘介も城を退去したとされていますが、『浮田家分限帳』に記された宇喜多氏家臣団の中には服部勘介に相当する人物が見当たらないようです。

利神城を改修した築城の名人・池田由之

関ヶ原合戦の後、佐用郡は姫路城主となった池田輝政の領するところとなり、輝政の甥である池田由之(小牧・長久手の戦いで父とともに討死した輝政の兄・之助の子)が利神城主となりました。

由之は慶長5年、遺構を打ち崩して石垣を積み上げた城郭を造り始め、慶長10年にこれを完成させます。三層の天守に二の丸、三の丸、鵜の丸、大阪丸といった曲輪に回廊を巡らせた壮大な城で、山上にそびえ立つその姿は「雲突城」とも呼ばれたと伝えられています。

佐用郡誌』には以下のようなエピソードが記されています。

池田出羽守利神城主となり大いに加修造營三重の天守を築き城山の西方に諸士の屋敷を設け、又口長谷構の別荘を美にし大いに奢る。 偶々輝政此地に來らんとせしに釜須坂を越えし時其城郭を遠望し其美なるに驚き異圖あるものとし入城せずして釜須坂より直ちに姫路に引返す。 而して慶長十年の頃天守の破壊を命じ、且慶長十二年出羽守を退去せしめ輝政弟池田河内守長政をして代らしむ。

由之が自身の居館を華美に装飾した上、三層天守という大城郭を建ててしまったため、これを見た輝政は由之が良からぬことを企んでいると考えて姫路に引き返し、天守の破却を命じた後、城主を交代させたというのです。

これらの話は安永8年(1779)に記された『播州佐用郡平福古城由来』という記録が元だそうで、このような伝説や通説の類が示す通り、現存する利神城の遺構は全て池田由之によって普請されたものと考えられてきました。(『日本城郭大系』でも同様の記述が見られます)

しかし、城郭談話会の精査によって1993年にまとめられた『播磨利神城』では、遺構の築城法から織豊期のものと推定されており、石垣の角石や角脇石の使われ方も天正年間の普請と見られるほか、城跡に残っている瓦片に天正11年以前の製造法によるものが多数含まれているそうで、池田氏以前に瓦葺きの建物が存在していたことは間違いないようです。

また『佐用郡誌』が記す「又口長谷構の別荘」=別所構の発掘調査によると、出土遺物の大半が15世紀後半から16世紀後半のものであり、由之が城主の頃に「美にし大いに奢る」様子を示す物は発見されませんでした。

由之が輝政の一家臣であることに不満を抱いていたという伝承も誤りで、池田家の記録によると由之の地位は高く、備前下津井城や伯耆米子城など領内の重要拠点の普請に携わっただけでなく、駿府城篠山城名古屋城の普請にも派遣されているそうで、なかなかの築城名人であったようです。

元和4年(1618)に江戸から米子へと帰る途中、大小姓の神戸平兵衛の逆恨みによって刺殺されるという不幸な最期を迎えましたが、3人の子は岡山藩鳥取藩、徳島藩で家老を務めています。(徳島藩については由之の正室・即心院が蜂須賀家政の娘であったため)

姫路から訪ねてきた輝政おじさんが遠く峠からこの城の威容を見て驚いて引き返したという伝説も、どこからつっこめば…という感じで面白いのですが、由之の名誉のために補足しておきます。

2010年3月に利神城跡へ登った時の回想

利神城跡は智頭急行平福駅の背後にあります。

以下の写真は、2010年3月に利神城跡を訪れた際に撮影したものです。

当時は登城口への案内看板があり、ここから石垣を確認することができました。

「利神城跡」の看板に誘われつつ、線路の脇から目の前の山に登っていきます…。

※「利神城跡は、城郭の一部が破損し、大変危険な状態になっていますので、登山はご遠慮ください。 佐用町」との立て看板がありましたが、遠慮しませんでした…とにかく状況を自分の目で確かめて、本当に危険そうならそこで引き返そうと…。

尾根沿いの登山道からは佐用川と旧宿場町・平福の町並みがよく見えます。川屋敷と土蔵群の景観は有名ですが、この当時はまだ前年の台風9号と洪水の被害を受けて、復興の最中でした。

かつてハイキングコースだったという名残りが、そこかしこに見られました。

木々の間を抜けきると、山頂の石垣が目の前に見えてきました!

平福の町並みも段々小さく…。

尾根を登り切ったところで、二重に積まれた石垣群がはっきりと見えてきました。

大手口となる三の丸からの眺め。頂上にある曲輪が三層天守があったという「天守丸」で、その一段下が天守丸の虎口がある「本丸」です。

五角形の天守丸と本丸の石垣が格好良い! たまりません…。

三の丸から二の丸にかけて、足元にはかなり大きな石が散乱しています。城郭の破損というのはこのような状態のことだったのでしょうか? しかし天候も問題なく、ここで引き返そうとは思いませんでした。

登ってきた三の丸方面を振り返ります。

天守丸の真下から。

利神城の石垣と眺望の雄大さは、人気の竹田城にも決して引けを取らないものだと感じました。

ここで、道の駅ひらふくで購入していた「佐用特産 じねんじょまんじゅう」を取り出します。

このロケーションで食べる、おまんじゅう…最高でした!!!

更に石垣を見て回ります。

木が切り倒された様子もありますし、整備には来られていたのでしょうか。

鵜の丸側の景色も素晴らしいです。この時から4年を経た今でも、思い出すと当時の感動が蘇ってきます。

本丸の様子。

登山道自体はそれほど険しいものではないので、地元では良いハイキングコースだったんでしょうね…。

まだまだじっくり堪能したいところでしたが、この後は上月城に向かう予定がありました。本数が少ない智頭急行に乗り遅れると大変なので、別れを惜しみつつ下山しました。

少しだけ佐用川沿いを歩いてみましたが、まだ洪水の痛々しい爪痕が残っていました。

佐用川から仰ぎ見る利神城。

2014年12月現在、山上の城跡がどのような状態なのかは分かりませんが、佐用町からは登城を遠慮するよう案内しているのは変わっていないようです。その後も台風や大雨がありましたし、更に石垣の崩壊が進んでいることと思います。

史跡の中でも特に高地にある山城の遺跡は、遺構の現状を維持するだけでも大変でしょう。まして訪問者の安全に配慮した整備が求められるとなれば、とても困難なのだろうと思います。

しかし、これほどの素晴らしい石垣がただ朽ちていくのはあまりに惜しいです。何とか保存の道を探っていただきたいものです。

参考

  • 朽木史郎、橘川真一編著『ひょうごの城紀行 上』(神戸新聞総合出版センター)

ひょうごの城紀行 (上) (のじぎく文庫)

ひょうごの城紀行 (上) (のじぎく文庫)

  • 村田修三、服部英雄 監修『都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成15 近畿地方の中世城館 4兵庫・和歌山』(東洋書林

都道府県別日本の中世城館調査報告書集成 (15)

都道府県別日本の中世城館調査報告書集成 (15)

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尼子詮久の東征(上洛戦?)から郡山城攻めに至るまで

天文年間の尼子氏による上洛戦とも思われる東征については、侵攻を受けた赤松氏や浦上氏の側から触れてきましたが、今回は尼子氏の側から見た流れをまとめてみます。

畿内の混乱と西国の情勢

この頃の畿内では、天文元年から5年にかけて、細川晴元政権の内訌に端を発した本願寺門徒法華一揆による大混乱の真っ最中で、一時は晴元も本願寺門徒一揆勢に敗れて淡路へと逃れるほどでした。

また晴元政権では、晴元と本願寺の和睦を仲介したという三好千熊丸(後の長慶)ら阿波三好一族や、その後ろ盾となっていた讃岐および阿波守護・細川持隆との勢力争い、河内および紀伊守護・尾州家(政長流)の畠山稙長と総州家(義就流)の被官で細川晴元の寵臣として権勢を振るった木沢長政の争いなど、たびたび内部抗争を繰り返しており、将軍義晴も元々は細川高国政権において近江守護・六角定頼の協力により擁立されたこともあってか、細川氏を頼みとせず近江へと逃れることがありました。

畿内情勢の混乱を見た豊後の大友義鑑は、将軍義晴の京都帰還を名目とする上洛を計画しており、天文元年には将軍入洛への馳走を大内義隆の悪行によって妨げられているとして、尼子氏および安芸武田氏、熊谷氏、伊予河野氏、宇都宮氏、能島村上氏らに大内氏包囲網の形成を呼びかけました。

大友義鑑書状(切紙、熊谷家文書)

就江州 公方様御入洛之儀、度々被成 御下知候之条、相応之忠儀、無余儀存候之處、依大内造意、干今相滞候、近日猶以悪行令顕然之条、近々豊筑発向之覚悟候、然者、連々如申談候、其堺之儀、無油断御調儀、併可為御忠節候、武田光和・尼子経久別而申合候、海上之事、河野通直・宇都宮・村上宮内大輔申合候、猶小笠原刑部少輔方可被達候、恐々謹言

七月廿日 義鑑 (花押)

熊谷民部少輔殿

(川岡勉先生の講演『尼子氏の勢力拡大と中央政界』配布資料より)

しかし、尼子氏はこれに応じず、独力で東征を開始します。

その背景には、尼子氏では享禄3年以来続いた尼子経久の三男・塩冶興久の反乱によって出雲国内を二分する内乱状態に陥っており、一方の大内義隆も北九州で大友・少弐氏と戦っていたため、相互不可侵協定を結んだことがあったと見られています。

(これに伴い、享禄4年7月10日付で経久嫡孫の三郎四郎(詮久)と元就が兄弟として協力するとの契約を結んでいます。)

尼子詮久の備中・美作への侵攻

天文元年(1532)5月、備中新見荘の代官・新見国経が領主である東寺へ送った書状によると、尼子氏は美作高田城を本拠とする三浦氏への攻撃を進めており、かねてより尼子方であった新見氏にも協力が要請されています。

この時すでに齢七十を越えていた尼子経久に代わって軍を率いたのは、嫡孫の詮久でした。

永正13年(1516)10月19日付の新見国経の書状によると、新見氏は備中守護・細川氏や備中の国人三村氏、多治部氏らの圧迫に対して、伯州、雲州衆と提携して対抗しており、この頃には尼子勢が美作への進出経路となる備中北部へと勢力を拡げていたと見られます。

尼子勢は天文元年からの侵攻で三浦氏の居城勝山城を攻略したものの、天文2年(1533)6月23日付の新見国経の書状に「伯州東半国と作州一国申し合わせ、尼子方に敵となり候」とあり、応仁・文明期の伯耆守護山名家分裂による内乱以来、美作の国人と結び尼子方に付いていた東伯耆の南条氏や小鴨氏が敵対したことで苦戦を強いられました。

天文2年(1533)12月には詮久が美作二宮(高野社)の社人注連大夫に安堵状を出しており、同年中には美作中央部まで進出していたことが窺えますが、天文5年末に亀井安綱から近江の小谷城主・浅井亮政に宛てた書状で、備中・美作が「両国悉く落去」したと報じており、美作の平定には足掛け5年が費やされたようです。

また、この時すでに「明春は早々播州えその働きいたすべく候」と伝えていることから、早くから播磨への侵攻を予定していたことが窺えます。

「尼子十勇士」の一人として名を知られる秋上庵介の本家で、神魂神社の神主を務めたという秋上家に、天文5年10月10日付、詮久自筆の和歌が残されています。

あきあけは とみとたからに あひかして おもふことなく なかいきをせむ

備中・美作両国の平定を終えた状況で、その心境を詠ったものでしょうか。

尼子詮久の播磨進出と竹生島奉加

尼子詮久は天文6年11月に播磨へ侵攻、証如が詮久に送った書状には「御出張の由承り候、ことに早速御本意に属し候条珍重に候」とありますが、「本国にて越年すべき由」と記しており、この時は年末までには帰国したようです。

天文7年(1538)に経久の隠居により家督を継いだ詮久は、再び本格的に播磨侵攻を開始します。

実際に尼子勢が攻め込んだのは同年9月下旬のことですが、7月にはすでに播磨守護・赤松政村が高砂に没落したという噂が京都で流れており、詮久が上洛するかどうかが取り沙汰されています。播磨国内は「正体なき式」となり、赤松政村は淡路に没落、11月には別所村治が三木城に包囲を受けましたが、攻略には至りませんでした。

また天文8年10月には、尼子勢は赤松政村の要請を受けて備中に渡海した阿波守護・細川持隆の軍勢を撃破しています。

(天文8年に浦上政宗室津で尼子勢を迎え撃ったというのも、この頃のことでしょうか。)

播磨國美嚢郡の法光寺には、対外交渉の窓口を担当したという湯原幸清の天文8年(1539)12月25日付の禁制が残されており、すでに尼子氏の勢力が播磨東部に及んでいたことが窺えます。

尼子氏の快進撃の背景には、畿内における旧高国党や畠山稙長、紀伊湯河氏などと連携の動きもあったようです。

本願寺宗主・証如上人の日記『天文日記』天文七年八月十四日条には、以下のような内容が記されています。(尾州=政長流畠山氏、畠山稙長)

従湯河宮内少輔以書状、就尼子出張尾州被出候間、彼人も可上洛候、然者得指南候ハんよし申候

(川岡勉先生の講演『尼子氏の勢力拡大と中央政界』配布資料より)

また、尼子氏の主家に当たる京極氏を擁立していた江北の雄・浅井亮政からも、竹生島の造営経費に対する奉加の要請を受けていますが(天文9年8月19日付、竹生島造営奉加人数書上)、これ以前の天文7年(1538)9月に国友河原の合戦に敗れるなど、浅井氏は六角定頼との戦いに苦戦しており、上洛を目指す尼子氏との連携を目論んでいたものと思われます。

播磨国内に滞在していた尼子勢は天文10年初頭には撤退することになりますが、同年に京極高延が亮政に反旗を翻し、浅井亮政は天文11年正月に死去、その後継者となった久政が六角氏への臣従を選択したことも、何か象徴的に感じます。(尼子贔屓の引き倒しでしょうか?)

余談:安芸宍戸氏と結んで石見高橋氏を討滅し、勢力を拡大した毛利元就

塩冶興久の乱が勃発する以前の享禄2年(1529)5月、石見に勢力を持つ高橋氏が大内方から離反して尼子氏と結んだため、大内氏は重臣の弘中氏と毛利氏に命じて高橋氏の討伐を開始しました。

かつて「三歳子牛の毛数ほど人数持ちたり」と強勢を唄われたという高橋大九郎久光は、元就の兄・興元の死後に家督を継いだ幸松丸の外祖父として強い発言力を持っており、元就も高橋氏に長女を嫁がせて姻戚を結んでいました。しかし、夭逝した幸松丸に代わって元就が家督を継ぐことになり、更に大九郎久光とその嫡子・元光が共に三吉氏との戦いで戦死したことから、次第に高橋氏と毛利氏との関係も微妙なものになっていったようです。

そして、元就は高橋氏が大内方から離反したことを好機としてこれを一挙に討滅し、享禄3年(1530)7月には大内義隆から高橋氏の旧領を与えられることになりました。

興久の乱に際して劣勢の経久方を支援するよう大内義隆を説得したのも元就でしたが、さすがの経久も興久方への対応で手一杯な状況では、毛利氏による高橋氏討滅を黙認せざるを得なかったようです。

また元就は高橋氏攻めに際して、かつて親細川・反大内方として毛利氏と敵対関係にあった五龍城主・宍戸元源と手を結んでおり、高橋氏の本拠地である阿須那藤根城の攻略には宍戸氏も協力しています。天文3年正月に元就は娘を元源の嫡孫・隆家に嫁がせて姻戚を結び、宍戸氏は後の毛利氏の飛躍に伴って、毛利一門六家の筆頭として厚遇されることになりました。

(なお石見高橋氏の庶流からは、後に尼子方として石見銀山の防衛拠点である山吹城主を務めた須佐高櫓城主・本城常光が出ています。)

阿須那の賀茂神社には、元就によって滅ぼされた高橋大九郎興光を祀る「剣神社」があります。

狩野秀頼筆「神馬図額」は、永禄12年(1569)に「大宅朝臣就光」(高橋就光)によって奉納されたものです。

高橋興光の敗死後、高橋氏の名跡は元就によって掌握されたのでしょう。

大内氏が大友氏と和睦、そして郡山城攻めへ

塩冶興久の乱を通じて協定を結んだ大内氏と尼子氏の間では一時的な小康状態が続いていましたが、天文4年(1535)から大内氏と大友氏の和睦交渉開始に伴って北九州の戦乱が沈静化すると、尼子詮久は石見・安芸・備後方面への圧力を強化し、再び両者の緊張が高まっていきます。

天文5年に尼子氏は塩冶興久の乱で背いた備後甲山城の山内直通を降伏させて家督に介入し、安芸・備後・石見では大内方毛利氏との衝突も起き始めていました。

安芸では頭崎城の平賀興禎が父の弘保と対立して尼子方に通じたため、大内氏は東西条代官・弘中隆兼を送り込みましたが、尼子方の支援を受けた城は容易には落とせず、天文9年6月に至ってようやく、毛利氏を主力とする大内方が造賀において平賀興禎勢と交戦して勝利しました。

また、すでに天文7年(1538)には大内氏と大友氏が和睦を結んだことで大内氏包囲網は崩壊しており、天文9年4月には尼子方に付いていた沼田小早川氏が大内方に転じ、6月には同じく尼子方であった安芸守護・武田光和が死去するなど、備後・安芸方面において尼子氏の不利が続いていました。

こうした情勢の変化を受け、ついに詮久は播磨に遠征していた軍勢を安芸方面に転進させることにしました。天文9年8月から翌年正月にかけて尼子氏が行った毛利氏の本拠地・吉田郡山城に対する攻撃は、このような状況で開始されたのです。

なお、軍記物では血気に逸る若き当主・詮久と叔父の刑部少輔国久ら新宮党に対して、ただ一人慎重策を唱えてこれを諌めようとした大叔父の下野守久幸が「臆病野州」と罵られ、郡山城攻めからの撤退戦で戦死する様が描かれていますが、多くは虚構と見られています。また、系図の記述や竹生島奉加帳の記名順や受領官途などから考えて、そもそも久幸は経久の弟ではなく弟の子であるとの指摘もあります。(系図と軍記物 尼子久幸について

尼子下野守義勝のものと伝えられる墓。

広瀬町富田の尼子氏史跡

尼子清定・経久を祀る洞光寺。

尼子清定・経久父子のものと伝えられる宝篋印塔。

洞光寺から月山富田城跡を望む。

飯梨川沿いの三日月公園にある尼子経久銅像

以前の記事 三日月公園に立つ尼子経久公銅像 にもたくさん載せています。

月山富田城跡の麓、「小守口」にある塩冶興久の墓。

月山富田城跡より

「花ノ壇」にはこんな顔出しも…!!

参考

西国の戦国合戦 (戦争の日本史12)

西国の戦国合戦 (戦争の日本史12)

浅井長政と姉川合戦: その繁栄と滅亡への軌跡 (淡海文庫)

浅井長政と姉川合戦: その繁栄と滅亡への軌跡 (淡海文庫)

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室津海駅館 特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』の感想

10月26日、たつの市御津町室津にあります、室津海駅館の特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』を観てきました。

もうそろそろ終盤に入ろうとする大河ドラマ軍師官兵衛』ですが、そこで描かれた官兵衛の播磨時代では、信長との関係(というか一方的な憧れ)ばかりが強調されて、小寺氏が擁立していた赤松宗家の存在は無かったことにされるわ、織田と毛利の間で揺れる播磨や備前の情勢を描く上で重要な役割となるはずの浦上宗景は名前すら出てこないわ、序盤の強敵として登場したはずの龍野赤松氏の赤松政秀も、ナレーションすらなくいつの間にか代替わりしている始末…。

渡邊大門先生の『戦国誕生』を読んで戦国時代の前期に興味を持って以来、赤松氏を入口として播磨戦国史を学んできた自分としては、せっかく播磨が大河ドラマの舞台となったというのに、あれでは織田と毛利の間で苦渋の選択を迫られた中小勢力の悲哀が全く視聴者に伝わらないし、何より福岡で大名として大成してからも播磨時代の地縁を大事にしたことは官兵衛の人柄を描く上で重要な要素だろうに、それが黒田家臣団の結束という形でしか描かれなかったことは実に勿体ないと感じます。

ドラマももうすぐ終わろうというこの時期に『播磨を生きた官兵衛』と題した展示が催されたのも、そういう消化不良な気持ちを汲み取ってのことかなと、勝手に想像した次第です。

前置きが長くなりましたが、今回の展示では官兵衛に限らず播磨の戦国時代の背景を知る史料と、室津と官兵衛の関わりとして今も残る「八朔のひな祭り」、黒田家の研究で知られる本山一城先生のコレクションなどが見られたほか、この日はその本山先生による「黒田官兵衛とたつの」と題した講演が開かれました。

会場内は撮影は禁止ですが、幸いなことに図録を購入できましたので、これを頼りに感想を書きます。

浦上村宗禁制札(備前市吉永美術館蔵)

永正十八年(1521)九月、播磨・備前・美作の国境にあるという天台宗の寺院、八塔寺に宛てて出された禁制です。

定 八塔寺

一、可被再興本堂造立仏像事

一、可被専勤行事

一、座方之輩不可背衆徒下知事

一、四方一里之内山留事

一、守護使不入事

右条々、任先規掟之旨、可有其沙汰、若於 違反之族者、 就交名注進、可被処罪科也、 仍所定如件

永正十八年九月 日

掃部助 (花押)

永正18年(1521)といえば、浦上村宗にとっては非常に重要な年になります。

村宗は先代赤松政則の夫人・洞松院の後見のもと宗家を継いだ赤松義村を主家としてきましたが、永正16年に自立を図ろうとした義村によって出仕を停止させられて以来、2年近くに渡って派遣された討伐軍を撃退し、永正17年11月にはすでに義村を出家させるとともに、義村嫡子の政村と義母の洞松院、義村正室の3人を室津に迎え入れており、守護としての実権をも掌握しようという状況にありました。

この永正18年に義村は再び挙兵するも一族の裏切りにより失敗、和睦という形で両者の対立は終結し、村宗は同年5月、細川高国の要請を受け、赤松宗家の置塩館で養育されていた前将軍・足利義澄の遺児亀王丸(後の義晴)を上洛させた後、室津の見性寺に幽閉していた義村を殺害したのです。

畿内では、将軍家を巡って義稙(義材)派と義澄派に分かれていた有力守護家同士の争いに加え、畿内随一の勢力を誇る細川家が政元亡き後の管領の座を巡り讃州家出身の澄元派と野州家出身の高国派に分裂、永正17年(1520)には澄元方の有力者であった三好之長が敗死、間もなく澄元も病死したことで弱体化していた澄元派に対して、京都を制圧した高国派の方でも、大永元年(1521)3月に将軍義稙が淡路へと出奔し、幕府は肝心の将軍を欠くという事態に陥っていました。

そんな状況の中、これまで澄元派であった赤松氏の実権を握った村宗が、義澄の遺児を将軍として擁立するという離れ業によって高国派に多大な貢献を果たし、これから飛躍しようという頃に出されたのが、この禁制というわけです。

この時期に村宗が八塔寺の辺りまで勢力を広げていたことが分かる史料で、内容的には仏事に専念することを奨励しているものですが、これまで定めてきた条々を引き継ぐもののようで、ここから60年以上も経た天正10年(1582)8月6日付にも、「仍所定如件」を「仍下知如件」に変えただけのほぼ同じ禁制が「八郎」(宇喜多秀家)の記名で出されています。

なおWikipediaによると、この4年前に当たる永正14年(1517)に置塩城主・赤松義村と三石城主・浦上村宗との間で八塔寺合戦が行われ、本堂・伽藍等が焼失したとのこと。八塔寺はかつて「西の高野山」と称された大きな寺院だったようですが、三ヶ国の国境に当たるため度々兵火に遭ったようです。

禁制に記された「可被再興本堂造立仏像事」の背景にはそういう経緯があったのですね。

浦上政宗感状(高橋秀知蔵)

こちらは天文9年(1540)と見られる、浦上村宗の子・政宗から家臣の高橋平左衛門に宛てて出された感状です。

去年於室構、日夜 粉骨無比類、殊於和泉 堺、被相届候条神妙也、 必恩賞可申沙汰候也、恐々謹言

四月十一日 政宗 (花押)

高橋平左衛門尉殿

享禄4年(1531)6月、摂津天王寺の戦いで赤松政村が細川六郎(澄元の子、後の晴元)を擁する堺方に寝返った「大物崩れ」の敗戦によって高国政権は一挙に崩壊、浦上村宗も乱戦の中で討死しましたが、同年10月には村宗の嫡子・虎満丸を叔父の国秀が後見する体制で立て直した浦上方が蜂起、今度は政村が敗退して明石城へと逃れる事態になり、播磨では天文5年(1536)頃に至るまで、再び赤松方と浦上方に分かれた内戦が続きました。

そのような状況で、すでに美作・備中・備前へと進出していた山陰の雄・尼子氏は、祖父経久から家督を継いだばかりの詮久が大軍を起こし、天文6年(1537)末頃から播磨への侵攻を開始しました。

浦上氏は政村と和睦して共に尼子氏に抗戦する道を選んだようで、政村の偏諱を受けた浦上政宗はまだ元服して間もない年頃と思われますが、天文8年(1539)に「室の構」で尼子勢を迎え撃つことになりました。

皮肉なことに、これまで浦上氏との対立で赤松宗家を支えてきた重臣の小寺則職や明石修理亮などはすでに尼子方に降伏しており、天文7年(1538)11月に赤松政村は本拠地の置塩城を捨て、淡路へと逃れる事態に陥っていました。

天文8年(1539)4月、政村は阿波守護・細川持隆の援助を受けて播磨へ帰国し、三木城の別所氏を頼ったものの、別所氏も尼子方に通じたと疑われたため、再び播磨を離れて堺へと逃れています。

現在の室津港から見た室山城跡

赤松晴政感状(中村文書)

浦上政宗は前述の高橋平左衛門尉に宛てたものと同じ日付で、ほぼ同じ内容の感状を中村三郎左衛門に宛てて出しているのですが、足利義晴偏諱を授かって名を改めた赤松晴政からも、その3日前に当たる四月八日に感状が出されています。

これは今回の展示品ではないのですが、2004年に開催された特別展『室山の城 -語りつがれた謎の歴史-』の図録に掲載されているものです。

去年室要害、浦上 与四郎相践之処、無別儀 楯籠、殊今度、至和泉堺、 馳来之条神妙候、弥忠義 肝要候、必可褒美、恐々謹言

四月八日 晴政 (花押)

中村三郎左衛門殿

室津での戦いの詳細は分かりませんが、ここでも「室要害」において浦上与四郎(政宗)と共に戦ったことが記されており、政宗は赤松方として室津で防戦したものの敵わず、政村と共に堺へと落ち延びていたと察せられます。(政宗は踏みとどまって戦ったとする説もあって、よく分かりませんが…。)

晴政の播磨帰国が叶ったのはそれから1年以上を経た天文10年(1541)3月のことですが、それも自力ではなく、尼子氏が天文9年9月から天文10年1月にかけて行った安芸侵攻で、大内方の毛利氏が篭もる郡山城の攻略に失敗するという結果を受けてのことでした。

なお、後の天文21年(1552)以降、備前・美作を含む八ヶ国の守護職に補任された尼子晴久が再び侵攻した際、浦上政宗は尼子方に付きますが、政宗の弟・宗景は兄と袂を分かって毛利氏の支援のもと反尼子の戦いを繰り広げ、一方で将軍義晴によって備前・美作守護職を奪われた赤松晴政は、晴元政権を打倒して畿内の覇者となっていた三好長慶を頼ることになります。

岡山県立博物館企画展『岡山の城と戦国武将』の感想(前編)をご参照ください。)

播磨国古城所在図(姫路市立城内図書館蔵)

近世に描かれたと思われる地図で、この図録の表紙にもなっている史料です。

東は三木郡・明石郡から西は佐用郡赤穂郡までの播磨国内の各城と街道が描かれており、時代にばらつきがありますが、城には城主の来歴なども記されています。

室津には多くの舟らしき絵とともに町並みや城らしき建物が描かれ「置塩二代将 赤松兵部少輔政村住」と記されています。

御着城らしき城に「小寺相模守頼秀住 天河元祖」、妻鹿城に「小寺藤兵衛尉政職住」と記されているなど、興味深い箇所もあります。(後者については、芥田文書には天文17年に小寺則職が別所家臣の妻鹿氏を討った記録があるそうで、その時のことでしょうか?)

また、宍粟郡安志には「別所安治住」と記されていて、別所氏が足利義昭を擁する信長の上洛に伴い幕府方となった永禄11年から元亀年間にかけてのことと思われますが、別所氏の勢力が相当西まで食い込んで来ていることが察せられます。

個人的には「後尼子助四郎勝久」と記された赤穂郡「尼子山高野山城」も気になるところです。尼子山といえば尼子将監のものと伝えられる墓なども現存していて、尼子氏による播磨侵攻の数少ない痕跡には興味が湧きます。

なお、前回紹介した感状山城には「初赤松則祐住」とだけ記されており、やはり戦国時代の動向は伝わっていないようです。

村田出羽伝(村田家文書)

井口(いのくち)兵助こと村田出羽守吉次の外曾孫、吉田定俊の著作で、講談本「夢幻物語」の原本だそうで、有名な広峯神社に関わる黒田家の目薬伝説が記された内容とのこと。

村田出羽は「黒田二十四騎」に数えられ、朝鮮における虎退治で名高い菅六之助正利と並んで朱具足の着用を許された勇将とのことです。

(以下、本山一城先生の講演配布資料による)

井口氏は古くから赤松氏に仕え、印南郡井口城主となった井口家全は嘉吉の乱で戦死、揖西郡栄城に移った家繁は天文3年(1534)に浦上方と戦った朝日山合戦で戦死しています。

黒田家とは天文年間に栄にいた頃から関係を持っていたようで、黒田重隆の三男(官兵衛の叔父)で井手氏を継いだ勘右衛門友氏は、天文7年(1538)に井口家で生まれたとのこと。(青山合戦で討死)

吉次と共に官兵衛に仕えた三人の兄は皆討死しており、吉次は筑前入国後に官兵衛の命で鍋島直茂重臣の村田姓を名乗ったそうです。

なお「夢幻物語」は黒田家の目薬伝説がフィクションであると示す時によく名前を挙げられますが、本山一城先生曰く、実は読みやすく翻刻された本が存在しないそうで、今その作業を行っているとのことでした。直接子孫の方を訪ね回っておられることといい、フィクションだからと読みもせずに切り捨てるのではなく、そこから丹念に玉を探し出そうとする本山先生の姿勢には敬服しました。

本山一城先生の講演「黒田官兵衛とたつの」より、青山合戦のこと

官兵衛と黒田家を中心とした本山先生の講演も面白かったです。

多伎に渡る内容で詳細はあまり覚えていないのですが、永禄12年(1569)の青山合戦がスケールの大きい戦いであったことを強く仰っていたのが特に印象に残っています。

おそらく前述の別所安治が播磨北西部にかけて広く勢力を拡大したのもこの時のことで、別所氏は織田軍とともに幕府方の先陣として龍野の赤松政秀と連携し、これに対して置塩城の赤松義祐を擁する小寺・黒田氏が抗戦したのが8月の青山合戦で、母里一族24名が戦死という大きな犠牲を払いつつ何とか撃退したとされています。

しかし、戦いはこれで終わったわけではなく、更に翌9月には備前浦上宗景が置塩方に加勢して室津を攻撃、10月に織田軍が室津を奪取、11月に赤松政秀が再び青山へと進軍した隙を突いて浦上宗景龍野城を攻撃して政秀を降伏させ、12月には織田軍を撤退させたとのこと。

元亀元年には海路加古郡から上陸した浦上宗景は、別所氏の三木城にまで進出して城下を焼いており、一連の戦いで浦上宗景の果たした役割は非常に大きかったようです。英賀城の三木氏も小寺の与党ですし、室津を確保したことで制海権を掌握できたのが大きかったのでしょう。

青山合戦のことは、当時幕府方であった織田と毛利の間で使僧を務めた朝山日乗の書状にも書かれているそうです。(日乗は青山合戦の際に軍監を務めており、敗戦により失脚したとのこと)

室津の史跡

室山城跡は現在、その一部が「室津二ノ丸公園」として整備されています。

二ノ丸に当たる場所は平成9年から14年にかけて5回の発掘調査が行われ、5つに分かれた曲輪から備前焼の鉢、白磁青磁などの貿易磁器、更に安土桃山時代と思われる瀬戸・美濃焼の椀や皿に加えて、江戸時代初期の唐津焼も出土しているそうです。

なお、17世紀中頃からは遺物の見られない空白期を経て、「室津千軒」と称された18世紀中頃の繁栄期後再び生活道具が現れているため、廃城の時期は17世紀初頭から中頃と考えられるそうです。

発掘調査で見つかった土塁や竪堀の跡も、今は何も残っていません。

室津の観光案内板。室津城跡からも程近い中央部には、赤松義村が最期を迎えたと伝わる見性寺も見えます。

現在の見性寺。

解説板には戦国時代のことは何も触れられていませんでしたが…。

現在でも浦上氏の子孫の方が関わりを持っているようです。

治承4年(1180)3月、厳島参詣の途中に室津で一泊した平清盛が旅の安全を祈願したという、賀茂神社

文政9年(1826)にはシーボルトも立ち寄ったとか。

大きな社殿は江戸時代の繁栄ぶりを彷彿とさせてくれます。

賀茂神社には狩野元信の「神馬図額」2面も伝わっていたそうですが、現在は東京国立博物館に保管されているとのこと。

狩野元信といえば、甲冑姿の細川澄元像や道服姿の細川高国像が有名ですね。(自分の中では!)

室津海駅館特別展「播磨を生きた官兵衛~乱世の中の室津~」は11月24日まで開催中です!

なお、11月16日には展示説明会も行われるようです。

参考

  • 室津海駅館 特別展『播磨を生きた官兵衛 ~乱世の中の室津~』図録(たつの市教育委員会

  • 室津海駅館 特別展『室山の城 -語りつがれた謎の歴史-』図録(御津町教育委員会

  • 播磨学研究所・編『赤松一族 八人の素顔』(神戸新聞総合出版センター)

    • 小林基信『浦上則宗・村宗と守護赤松氏』
    • 依藤保『晴政と置塩山城』

赤松一族 八人の素顔

赤松一族 八人の素顔

  • 渡邊大門『備前 浦上氏』(戎光祥出版)

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

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赤松氏ゆかりの山城・感状山城

感状山城跡は相生市矢野町瓜生および森にまたがる感状山の尾根にあり、多段に渡る石垣造りの曲輪が特徴的な中世山城の遺跡です。

謎に包まれた感状山城の歴史

近世に成立した地誌『播磨鑑』には、建武3年(1336)、赤松円心が赤松氏の本拠地である白旗城に籠もって新田義貞率いる追討軍を50日以上に渡り足止めした際、円心の三男・則祐が出城として築いたのがこの城で、ここで勇戦した戦功によって足利尊氏から感状を授かったことから「感状山城」と呼ばれたという伝承が記されています。

『ひょうごの城』の感状山城の項(橘川真一氏)によると、『播備作城記』には「岡豊前守居城也元亀年中落城也」とあり、地元の史料『岡城記』には嘉吉元年(1441)に「感状山城等の城郭悉く没落す」、文正元年(1466)に「竹内祐太夫義昌 当時守護代なり」とあるそうです。

そして、地域の支配者は赤松氏→浦上氏→龍野赤松氏→浦上氏→宇喜多氏と変わっていますが、地元の豪族であった岡氏が引き続き矢野庄を領有していたと推測されています。

また、『日本城郭大系12巻』(昭和56年)では天正5年に秀吉の上月城攻めに際して落城したと推測され、兵庫県教育委員会兵庫県の中世城館・荘園遺跡』(昭和57年)でも赤松則房の代に至って天正5年、秀吉の攻略に遭って落城したと書かれおり、地元でもその時のこととする落城伝説が伝えられているようです。

しかし、同時代の史料やその他の文献に感状山城の名は現れておらず、実際の築城、廃城の時期や城主の名前など具体的なことは分かっていません。

昭和60年から63年にかけて実施された発掘調査では3つの曲輪と大手門跡が発見されたほか、15世紀から16世紀と見られる備前焼の大鼇、中国産の白磁青磁、青花磁器などの破片が数多く出土しました。

兵庫県立考古博物館の岡田章一氏によると、その中には備前焼の耳付小壺や筒型容器など茶器として利用されたと思われるものや高級品の貿易陶磁など、播磨の中世遺跡では御着城や姫路の城下町でしか出土例のない物が含まれていることから、城主は唐物趣味の茶の湯を嗜んだ有力者で、西播磨地域に勢力を拡げた龍野赤松氏、あるいは備前を本拠として瀬戸内航路の要衝である室津に拠点を築いていた浦上氏が考えられるそうです。

感状山城跡を歩く…登山道から物見台まで

感状山への登山道の入口は 羅漢の里 という自然体験施設の中にあります。

自動車の場合は施設の駐車場が2ヶ所あるので、どちらかに停めると良いです。(無料でした)

石造りのモニュメントと、現代の刀工「桔梗隼光」(ききょうはやみつ)鍛刀場の水車小屋が目印になります。

この側を通って奥の方へと進みます。

ここは古くから十六羅漢の石仏が有名で、かつては「羅漢渓」と呼ばれた名勝だったようです。

入口付近には、大正時代に建てられた石碑や歌碑が散見されました。

それら石碑の中に「感状山光専寺貫主 赤松性真」と記された物がありました。「性○」は赤松家の戒名なので気になりますね…。(政則=性雲、義村=性因、晴政=性煕)

物見台まで続く登山道は結構歩きやすく整備されています。

ここでは相生市教育委員会発行の小冊子を忘れずにゲット。

途中から少しずつ岩が増えてきますが、運動靴さえ履いていれば、軽装でも問題ないレベルです。

登山道からの眺め。朝8時頃ですが、霧が出ていてとても綺麗でした。

物見台に近付くとともに段々と山城感が出てきて、テンション上がります!

しかし、肝心の物見台はあまり展望はよくありませんでした…。

感状山城跡を歩く…Ⅲ曲輪群から大手門跡周辺へ

倉庫跡を経て、Ⅲ曲輪(近世城郭で言う三の丸)辺りはかなり広くなっています。

大手門跡方面にはこの辺から下りられます。

六段の石段で構成され、鶴翼状に配列された総石垣づくりの大手門とのことですが、かなり崩壊が進んでいます。

石積み技術の未熟さによるものか、あるいは廃城の際に中途半端に破壊したまま放置されたのでしょうか。

大手門の登り口を上から見るとこんな感じで、登山道と比べると荒れてます。

ここから下りてみたい気持ちもありましたが、地図を見ると結構離れた場所に出るようで時間の都合もあり諦めました。

大手門のすぐ内側には井戸があって、今でも水が湧き出ているようでした。(真夏でも涸れることがないそうです)

感状山城跡を歩く…Ⅲ曲輪群から腰曲輪群、北曲輪群を経てⅠ曲輪へ

建物の遺構も見つかったというⅢ曲輪群は複雑な段差を持つ構造だったようで、側面を見ると広範囲に渡って石垣が残っています。

こんな細い道が続いていたので、つい奥まで見に行ってしまいましたが…このルートはちょっと失敗でした。

一番の見どころの南曲輪群を避けて、裏から攻める形になってしまったので…。

腰曲輪群には、少しだけ石垣が残っていました。

北曲輪群はよく分かりませんでした…。

あっさりと、山頂のⅠ曲輪まで到達してしまいました。

感状山城跡を歩く…Ⅰ曲輪から南北Ⅱ曲輪群を経て圧巻の南曲輪群へ

城山の北端に当たるⅠ曲輪には建物の礎石が残っていて、敷地いっぱいに御殿が建てられていたと推定されているとのこと。

この写真から見ると、確かにもうギリギリのような…。

北Ⅱ曲輪との間から見たⅠ曲輪の側面。見ての通り山頂付近まで岩が結構ごろごろしている山なので、未熟ながら結構早くから自然石に石積みを組み合わせた城だったように思えます。

Ⅰ曲輪から北Ⅱ曲輪へ。

南北Ⅱ曲輪の西側面には広範囲に渡って石垣が残っており、「犬走り」と呼ばれる帯曲輪が配置されていたようです。

しかし、時間の経過もあるかもしれませんが、結構スカスカな状態です。そのうち大雨で自然崩壊してしまいそうで、ちょっと心配してしまいます。

南Ⅱ曲輪でも大規模な建築と見られる礎石群が発見されているそうで、Ⅰ曲輪の本丸御殿に対して、常の御殿(日常生活の場所)であった可能性があるとのこと。

これも何かの跡でしょうか。

正直なところ、大規模な遺跡とはいえ現状はいまいち迫力に欠けると思っていたら…ここから先の南曲輪群は、素晴らしかったです。

ここは眺望も良いです。

この二段目の腰曲輪の石垣は全長21m、高さ4.5mで、感状山城の中では最大の物だそうです。

ゆるい曲線状で粗さが残る石積みではありますが、尾根を利用して六段に渡り削平された曲輪群は、非常に見応えがあります。

下から登ってきたところでこの曲輪群に出会っていたら、もっと興奮しただろうなと、少し後悔しました。

ちょっと離れたところから、側面も眺めてみたいですね。

初めて訪れる方にはぜひ、まずはⅢ曲輪群からこの南曲輪群を経て、山頂へと向かうルートをおすすめします。

ここが南曲輪群に向かって登ってくるメインルート。

下から見るとこんな感じ。崩落があったのか、ロープが張ってありました。

土の城から石垣の城へと発展したように言われることがありますが、この感状山城跡を見て、そう単純なものではないと感じました。石積み技術の発達具合に関わらず、石があればそれを活用しようとするのは自然なことでしょう。

感状山城と光専寺と赤松氏

「羅漢渓」入口の石碑に記された「感状山光専寺貫主 赤松性真」が気になったので調べてみました。

光専寺は感状山城の大手門側に現存する真宗本願寺派の寺院で、相生市矢野町の公式Webサイトに以下のような記述がありました。

本尊 阿弥陀仏。開基は赤松義村の孫小林義光、その頃蓮如上人の御代で六字名号を拝領、その後第六代教誓に至り実如上人より寺号・木仏を賜わる。経堂 天保12年建立。鐘楼 宝暦10年。昭和17年、福田眉仙画伯が襖絵を描いたことから、別名、眉仙寺という。

赤松宗家以外の人物で将軍家由来の「義」を名乗っているというのは不可解ですし、義村の孫の世代であれば蓮如(明応8年没)のはずはないと思いますが…。

亀山本徳寺から発行されている『播州真宗年表 (第2版)』を確認したところ、以下のような記述がありました。

1509 正西、赤穂郡矢野森村に光専寺を開基す『播磨国末寺帳』

1509年(永正6年)といえば義村はまだ元服したばかりで、洞松院尼が後見していた頃です。

ちょうどこの年に英賀城主・三木通規が実如上人の御連枝の下向を願い出ていることからも察せられますが、すでに英賀では在地の長衆(富裕な商人などの有力者)や寺の坊主によって門徒集団が組織されていたようです。

播磨国内では公的には守護赤松氏が先代政則以来、真宗の布教を禁じていましたが、永正9年(1512)に実如の第四子・実円が下向するとともに三木氏一族が一向宗に帰依、翌年には実如上人から赤松義村へ名馬が寄贈されたことで真宗禁制が解かれ、布教の一大拠点となる本徳寺「英賀御堂」の建立に繋がりました。

義村は後に浦上村宗によって弑逆されますが、その村宗も義村の子・政村(晴政)によって討たれ、息つく暇もなく浦上国秀の後見を受けた浦上政宗が蜂起して赤松氏と再び争い、更に但馬の山名氏、そして山陰の雄・尼子氏による侵攻を受けました。

その間の感状山城の動向は明らかではありませんが、後に光専寺が再興されるに当たり、赤松氏ゆかりとされる感状山の麓で、本願寺との関係改善を果たした赤松義村との繋がりを強調する縁起を後世に伝えようとしたものかもしれません。

感状山城の落城伝説

時期は明らかではありませんが、地元では落城時に井戸の中へと身を投じた姫の伝説が残されているようです。

(1)感状山城が落城した日、城には何人かの姫がいました。

 押し寄せる大軍に逃げ迷った姫の1人は、人手にかかって恥をさらすよりはと、日頃、可愛がっていた金色の羽を持つ鶏を抱いて、城内にあった井戸に身を投じました。

 それ以来、毎年、元旦がくると、その井戸の中から鶏の鳴く声がきこえるといいます。

(2)もう1人の姫は、城を逃れて、城下の藤堂(とうどう)村にたどりつきました。藤堂村の人々は、姫を大事にかくまい、その後も大切にもてなしました。姫は死ぬ直前に、「お世話になったお礼に、この村では、美人ばかりが生まれるようにお祈りします」と言ったそうです。

 それ以来、藤堂村では、代々、美人が生れるといいます。

(3)感状山城には、非常に備えて、ぬけ穴を作っていました。それは、森の光専寺(こうせんじ)の北山手から流れる水を通す大溝(みぞ)が、寺屋敷の地底を抜け、鐘楼(しょうろう)の横手を通って、南側の溝と合流するというものでした。

 感状山城が落城した日、ぬけ穴をたどって逃れようとした1人の武士がいました。しかし、思うようにぬけ出られず、死んでしまったのです。

 その後、武士の亡霊(ぼうれい)がこの溝に出て、毎夜、通行人に墨つけをするというのです。

相生市の伝説(03)-感状山城と落城悲話 より

ここにも光専寺が登場していますが、城からの抜け穴が通っていたということは、それだけ親しい関係だったのでしょうか。

瓜生の八柱神社

「羅漢の里」の手前には八柱神社がありますが、ここがなかなか素敵な神社だったので、写真を掲載しておきます。

奉納絵馬がずらり。

中でも、明治42年に奉納されたという赤穂四十七義士の数々は壮観です。

天保十三年(1842)…古いですね、これは。意外と色が残っています。

郷土の歴史が刻まれた、絵馬たち。

境内に向かって右手には「バクの道」と呼ばれる感状山への登山道があるようで、再訪の機会があればこちらから登るか、あるいは光専寺から大手側を登ってみたいです。

追記:感状山城と光専寺の縁起について推測

『播磨鑑』を再度確認したところ、光専寺については項がありませんでしたが、感状山城の項では「城主ハ赤松彌太郎義村 字道松丸後號政村 父ハ刑部介政資」「又赤松義村居住ス(後改政村)初メ竹内助太夫義昌ノ養子タリ 後政則ノ養子トナル 政則コレヲ婿トシ置鹽山ニヲク 後義村鞍掛ヘ移ル」と記されていました。

道松丸は道祖松丸の誤記として、どうも地元では感状山城の城主が義村であったと伝わっているようで、光専寺の縁起にはその辺りの事情が関わっていると思います。

神戸新聞文化部編『杜を訪ねて ひょうごの神社とお寺[下]』の光専寺の項によると、現住職の赤松誠真さんが語られた寺の縁起には、赤松円心が創建したという円応寺が前身で、正和年間に矢野庄が東寺領となったため真言宗に転じ、その後赤松義村の孫・小林義光(のちに釈正西)が実如上人の感化を受けて真宗に転じ、六代教誓に至って寺谷から現在地へ移転したとあるそうです。

また住職は、寺谷以前の経緯は全く不明だそうですが、付近には「改宗」という地名があって住民のほとんどが門徒なので、真宗に転じた頃の光専寺はそこにあったのではと推察されています。

亀山本徳寺播州真宗年表 (第2版)』の記述「1509 正西、赤穂郡矢野森村に光専寺を開基す」を合わせて考えると、実如上人の感化を受けた正西=小林義光が1509年に開基あるいは真宗へと転派した後、六代の教誓に至って、長らく廃城となっていた感状山城跡の麓へ寺院を移転する際、山号を「感状山」と改めるとともに、赤松円心ゆかりの円応寺との繋がりと、城主として地元に伝えられていた「赤松義村」の末裔を称したのではないでしょうか。

地元の史料『岡城記』が伝える、嘉吉の乱後の文正元年(1466)に守護代となったという竹内義昌に、赤松七条家出身で道祖松丸(赤松宗家の幼名)と名付けられていた義村が養子入りしたという話は色々とおかしいのですが、近世に至ってから光専寺がこの地元の伝承を元に正西=小林義光は「赤松義村」の孫であったと称したとすると、大幅な年代の差異も辻褄が合ってしまうことになります。

おそらくその頃には地元でも、赤松氏と感状山城の関係について確かなことは分かっていなかったのでしょう。今後の感状山城跡の調査研究に要注目です。

参考

  • 神戸新聞文化部編『杜を訪ねて ひょうごの神社とお寺 [下]』

杜を訪ねて―ひょうごの神社とお寺〈下〉 (のじぎく文庫)

杜を訪ねて―ひょうごの神社とお寺〈下〉 (のじぎく文庫)

  • 朽木史郎、橘川真一編著『ひょうごの城紀行 上』(神戸新聞総合出版センター)

ひょうごの城紀行 (上) (のじぎく文庫)

ひょうごの城紀行 (上) (のじぎく文庫)

  • 村田修三、服部英雄 監修『都道府県別 日本の中世城館調査報告書集成15 近畿地方の中世城館 4兵庫・和歌山』(東洋書林

都道府県別日本の中世城館調査報告書集成 (15)

都道府県別日本の中世城館調査報告書集成 (15)

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武田信虎の甲斐追放と「武田入道」の在京奉公

今川氏の跡目争いを機に方針を転換し、家督相続以前から敵対してきた今川氏と同盟を結んだ武田信虎は、諏訪氏と共同して信濃佐久郡へ進出、次いで北信濃の村上氏とも連合して信濃小県郡へ出兵し、ようやく甲斐国外に勢力を広げた矢先のこと、実の息子である晴信によって駿河へと追放されてしまいました。

今回は信虎追放の背景と、その後の在京奉公を通じて信虎の魅力を紹介します。

内容的には 武田信虎の甲斐統一と要害山城(武田・今川・北条の戦国黎明期) 武田信虎の戦いはこれからだ!(武田・今川・北条の戦国黎明期その2) の続きになります。

「信虎平生悪逆無道也」信虎追放の背景にあった災害と飢饉

信虎の追放に関して、向嶽寺の歴代住職が著したとされる『塩山向岳禅庵小年代記』に有名な記述があります。

信虎平生悪逆無道也、国中人民牛馬畜類共愁悩、然駿州太守義元娶信虎之女、依之辛丑六月中旬行駿府、晴信欲済万民愁、足軽出河内境、断其帰道、即位保国々、人民悉含快楽咲

信虎は平生悪逆無道で、そのために人民はおろか牛馬畜類まで愁悩していた。娘婿の今川義元に会うために天文10年(1541)6月中旬に信虎が駿府に赴いた際、晴信は万民を愁いから救おうとして、河内の国境に足軽を出兵させてその帰路を断った。信虎に代わって守護となった晴信は国を保ち、人民は悉くそれを喜んだ、というのです。

同時代の史料『勝山記』などにも同様の記述があり、確かに信虎の評判は悪かったようですが、その「悪逆無道」の具体的な内容は記されていません。

『勝山記』の天文十年条には、当時の甲斐が過去百年に例がないほどの深刻な飢饉に見舞われていたとあり、この飢饉の様子に続けて信虎の追放のことが記されています。

此年春致餓死候而、人馬共死ル事無限、百年ノ内ニモ無御座候ト人々申来リ候、千死一生ト申候

此年六月十四日ニ武田大夫殿様、親ノ信虎ヲ駿河国ヘ押越申候、余リニ悪行ヲ被成候間、加様被食候、去程ニ地下、侍、出家、男女共喜致満足候事無限、信虎出家被成候而駿河ニ御座候

飢饉の原因は、天文9年(1540)5月と6月の大雨による被害に追い打ちをかけるように、8月には西は紀伊国から東は東北地方にまで甚大な被害をもたらしたという、巨大台風が東海・中部地方を襲ったことによるものでした。

北条氏・今川氏との長い戦いに疲弊していた人々の不満は、この災害と飢饉によって頂点に達したと想像できます。

そのような状況の同年11月末に、信虎は諏訪頼重に息女を嫁がせて同盟を強化し、12月にかけて互いに面会した後、村上義清とも連携し、翌天文10年(1541)5月には小県郡へ出兵します。

そして5月25日、海野平の戦いによって海野棟綱をはじめとする滋野一族を打ち破りましたが、その残党が関東管領・山内上杉憲政の元に亡命して助けを求めたため、憲政は彼等の旧領回復のために佐久郡へ軍勢を派遣するに至りました。

信虎は甲斐へ帰国しますが、この戦いの最中にも信虎追放の計画が密かに進められていたのでしょう。帰国から間もない6月14日、今川義元と面会のために甲府を出発して駿府へと向かった後、無血の当主交代劇が実行されたのです。

つまり、信虎の「悪逆無道」とは、飢饉によって頂点に達した人々の不満を解消できる政策を施さないまま、再び外征を行った結果、更に山内上杉氏の介入を招いてしまったことに対する評価と考えられるのです。

平山優氏はこれに加えて、晴信が当主交代後に一国平均の徳政を実施して民衆の支持を得たのではないかと推察されています。

そうした結果、信虎が「信虎平生悪逆無道也」と厳しく評価されたのに対して、その後を継いだ晴信は「即位保国々、人民悉含快楽咲」と評価されるに至ったという訳です。

また晴信は、翌天文11年(1542)に釜無川の洪水への対策として堤防の構築を発願し、十余年がかりでこれを完成させました。

いわゆる「信玄堤」で、一次史料に直接現れないことから否定的な見方もされていますが、永禄3年(1560)8月に堤防の後背地に当たる竜王宿への作家居住が奨励されており、晴信の治水事業が成果を上げたことは間違いないようです。

この「信玄堤」に代表されるように、地元甲斐における後世の評価は作為的な神格化だけではなく、実際に行われた政策の結果が反映されたものでしょう。

なお、『勝山記』には信虎が享禄元年(1528)に甲斐一国に徳政を施したことが記されていますが、当時は一揆も起きていないことから、災害への対応のために発令したものではないかと考えられています。

このことから、信虎が晴信とは対照的に民衆を顧みない好戦的な暴君であったと捉えることもまた、無理がありそうです。

余談:信虎追放を主導した板垣信方の功績とその不審な最期

甲陽軍鑑』では、譜代宿老の筆頭であり晴信の傅役でもあった板垣信方が、密かに甘利虎泰や飯富虎昌ら有力家臣を説得して事前に意見をまとめたことで、血を流すことなく当主の交代を成し遂げたとされています。

駿河に向かった信虎は政変後も混乱なく今川氏に迎え入れられていることから、晴信派による今川義元との共謀説が古くからありますが、丸島和洋氏は河東一乱に介入した信虎が北条氏の和睦を受け入れたことが義元の不信を招き、そこで今川氏との折衝を務めていた板垣信方が主導して信虎の駿河への追放計画が進められたと推測されていて、なかなか説得力があります。

晴信は天文11年(1542)に諏訪氏惣領の座を狙う庶流の高遠頼継を味方につけ、諏訪頼重との同盟関係を一方的に破って諏訪へ侵攻、やがては高遠頼継をも陥れて諏訪郡全域を支配下に置きますが、信虎の追放に最大の功績を果たした板垣信方上原城主と兼ねて郡代に任命し、諏訪郡の統治という大役を一任します。

板垣信方は信虎追放の功績によって、譜代宿老の中でも突出した存在となったわけですが、その晩年には不穏な空気が感じられるようになります。

天文17年(1548)2月、信方は上田原の戦いで村上義清の反撃を受けて討ち死にしてしまったのですが、『甲陽軍鑑』はその頃の信方が増長のあまり独断で首実検を行うようになったと記しており、結局そのために油断したところを村上勢に討ち取られたことになっています。

信方は『甲陽軍鑑』において、信虎の追放後に学問や文芸に耽って政治を顧みなくなった晴信に対し、詩歌を学び即興で詩を返した上でこれを諌めたというエピソードが描かれ、その忠義が讃えられていますが、当時の守護大名と譜代家臣の関係は近世的な忠義によって成り立つものではなく、世代交代に伴う権力の委譲もそう簡単ではありません。

忠臣と讃えられる信方の不審な最期が描かれた背景には、当主として権力を掌握したい晴信にとって、信方のような宿老の存在が障害になっていたことがあるのではないしょうか。

信方の後を継いだ信憲は天文21年(1552)、不行跡を理由に諏訪郡代を解任された上に成敗されますが、この件についても『甲陽軍鑑』では信憲が越後の上杉謙信に内通していたことが原因とされており、その意図があからさまに隠蔽されているようにも感じます。

桶狭間合戦以前から京都に邸宅を構えていた「武田入道」信虎

追放後の信虎について『甲陽軍鑑』では、永禄3年(1560)5月に桶狭間合戦今川義元が討死して以後、後継者の氏真に疎まれて駿河から追放されたとして、晴信に対して駿河への出兵を促すに至ったと伝えています。

しかし、この記述は信玄による駿河侵攻を正当化するための脚色であることが明らかで、『言継卿記』には永禄年間、すでに出家して「武田入道」と呼ばれていた信虎が京都に邸宅を構え、幕府に出仕していたことが記されています。

『言継卿記』には、山科言継が永禄元年正月四日条に年始の挨拶回りで「甲州武田入道」と会ったことや、三月十六日条に信虎へ手紙を出したが不在であったことが記されているほか、永禄2年、3年、6年、7年と年始挨拶で信虎を訪問しており、今川氏の支援のもと幕府に出仕していたと思われる信虎との交流が伺えます。

また、養母が今川義元の生母・寿桂尼の妹であったことから、言継は弘治2年(1556)から3年にかけて半年ほど駿河に下向し、弘治3年2月25日には連歌会に招かれていますが、その連歌会には信虎ではなく子の信友(武田左京亮)が参加していることから、信虎はその頃からすでに在京していた可能性もあるようです。

少なくとも、今川義元の存命中には信虎が京都で活動していたことが明らかですが、その頃の畿内の情勢は、天文21年(1552)に将軍・足利義輝を擁立する細川晴元を実力で京都から追い出し、名実ともに畿内の覇者「天下人」となっていた三好長慶が、永禄元年(1558)11月に近江朽木谷へ亡命していた将軍を京都へ迎え入れたことで、再び三好政権による幕府再興が開始されたという時期です。

近年、今川氏の大軍による尾張侵攻の主な目的は伊勢湾制海権を掌握することであったと言われますが、義元はその先に何を見据えていたのでしょうか。

京都で詠われた落首に、信虎の人柄を表す面白いものがあります。

桶狭間合戦の数ヶ月前になる永禄3年正月9日、信虎は22歳の青年公卿、菊亭晴季に17歳の末娘を嫁がせたのですが、気が早い信虎は婚儀がまとまらぬうちに、婿の顔を見るために菊亭宅へ押しかけたという逸話を詠ったものです。

むこいりをまだせぬ先の舅入り きくていよりはたけた入道

「菊亭」と「聞く体」、「武田」と「猛けた」を掛けて、入道姿の信虎が話に聞く以上に猛々しいと詠っているものですが、「武田入道」こと信虎は都で噂になるほどの有名人だったようです。

(この落首はお笑いの祖と言われる安楽庵策伝が著した『醒睡笑』に収録されています。)

信虎がどのような役割で在京していたのか、また三好政権との関係など詳しいことは分かりませんが、この婚儀も京都との結びつきを重視する今川氏の意向が反映されたものでしょうか。

余談:信虎と名刀「宗三左文字」来歴の謎

桶狭間合戦今川義元を討ち取った際にその差料を手に入れた織田信長は、これを記念に「永禄三年五月十九日義元討補刻彼所持刀」と彫り込んで愛刀とし、更に秀吉、家康と天下人と呼ばれる三人の手を渡った結果、「義元左文字」として徳川将軍家の家宝に数えられることになりました。

この名刀の来歴には武田信虎も絡んでいるようで、元々は細川晴元の腹心として権勢を誇った三好政長(宗三)が所持し「宗三左文字」と呼ばれていたものが、政長から信虎に贈られ、更に信虎から婿の今川義元に贈られたと伝えられています。

信虎が将軍義晴から息子の太郎(晴信)に偏諱を賜ったのが天文5年(1536)3月、義元の斡旋で三条公頼の娘を正室に迎えたのが同年7月、細川晴元の正室も三条公頼の娘であり、政長から贈られたという「宗三左文字」も、この時期の信虎と義晴・晴元政権の繋がりを示すものと捉えることができそうですが…WikipediaをはじめWeb上に多く見られる、信虎が娘の輿入れに際してこの名刀を義元に贈ったという説には、どうも明確な根拠がないようです。

何より、当時から「宗三左文字」と呼ばれていたのであれば、三好政長が出家して「半隠軒宗三」を名乗るのは木沢長政を滅ぼした天文11年(1542)10月が契機と見られているため、娘が義元へ輿入れした天文6年(1537)2月に贈ったとすると全く時期が合わないのです。

別の説としては、天文18年(1549)6月の江口の戦いで敗死するまでは三好政長が所持しており、どういう訳か当時大坂にいた信虎がその戦利品を手に入れたという話が『戦国阿波おもしろ百話』という本に書かれているようですが、こちらも未確認のため根拠は分かりません。

なお、信虎は天文12年(1543)6月に上洛して奈良や高野山を遊歴した際、甲斐追放以前の天文9年頃から書状をやり取りしていた証如と交流しているのですが、三好氏の研究で著名な天野忠幸氏は、この時に政長が信虎と面会して礼を交わし、記念に刀を贈ったのではないかと推測されています。(それだと前述の「宗三」を名乗る時期とも矛盾しません)

いずれにせよ、甲斐源氏武田氏の嫡流で前甲斐守護としての家格は認められていたとはいえ、すでに甲斐を追放され実権を失っていた信虎にそれ程の影響力があったとも思えませんので、むしろ今川氏への贈り物が信虎に託されたものと捉えるべきでしょうか?

将軍暗殺後に再び上洛した信虎

今川義元が永禄3年(1560)5月に桶狭間合戦で敗死した後も、信虎は引き続き在京が確認されています。

余談ですが、武田家によって没落させられた旧信濃守護の小笠原長時父子も永禄4年(1561)頃には越後から上洛して京都で活動しており、三男の貞慶が三好長慶から偏諱を受けるなど三好政権に近い立場でした。

『言継卿記』の永禄七年十月十八日条に記された信虎の席次は、公家衆の直後で武家衆の筆頭とのこと。すでに信濃守護職は将軍義輝によって武田晴信に与えられた後ですし、信虎は前甲斐守護として小笠原長時より高い家格を認められていたようです。

永禄5年(1562)または7年(1564)と見られる信玄書状には信虎の駿河帰国を尋ねるよう命じたものがあり、『言継卿記』では永禄8年から9年にかけて信虎の姿が現れず、永禄10年(1567)正月の年始挨拶に訪問するも留守、同年4月24日には門前で信虎および伊勢備中守とすれ違ったことが記されています。

この頃の畿内は混乱を極めており、永禄7年(1564)7月に三好長慶が病没、その死は3年間秘密とされたものの、翌永禄8年(1565)5月に将軍義輝が殺害され、同年11月にはすでに三好三人衆松永久秀が衝突して松永方が敗北、永禄9年(1566)7月に三人衆が入京し、永禄10年(1567)10月には再び反三好勢を糾合した松永方が奈良において三好方と交戦、大仏殿が炎上するという状況でした。

武田氏の動きは、永禄8年(1565)10月に飯富虎昌ら義信派が密謀露見により処刑、義信が幽閉され夫人も駿河に送還、永禄10年(1567)3月には寿桂尼が死去、8月には家臣団に忠誠を誓わせる起請文が奉納されており、永禄11年(1568)12月から駿河侵攻が開始されています。

永禄7年頃から9年頃にかけて、京都では三好長慶の死と将軍の暗殺という大事件が起きている間、すでに武田家では駿河侵攻の準備が着々と進められていたわけですが、駿河に帰国していたと見られる信虎はその後再び上洛しています。

実は信虎は武田家の京都雑掌を務めていたという説もあるようですが、この時期に関して言えばあながち的外れではないのかもしれません。

信虎の最後の戦い

永禄11年(1568)9月には織田信長が義昭を奉じ幕府再興の大義を掲げて上洛、怒涛の進撃で三好勢を京都から追い出し、畿内の平定に乗り出します。武田氏は織田氏とは以前から友好関係を結んでいたためか、信虎は引き続き在京し将軍義昭の下で幕府に出仕していたようです。

なお、三好方として摂津芥川城で戦った小笠原長時は、永禄12年(1567)正月に三好三人衆とともに信長の留守を突いて将軍義昭を襲撃した「本圀寺の変」に敗れたことで、一族ともども再び牢人することになりました。長時の三男貞慶がただ一人、京都に残って義昭に仕えています。(その後、貞慶は信長に仕えて旧領回復の朱印状を授かり、対武田・北条戦に奔走しますが、武田家滅亡後その約束は反故にされました…。)

その後、元亀年間には将軍義昭と信長の不和が決定的になるわけですが、丸島和洋氏によると、元亀4年(1573)3月の将軍義昭挙兵に際し信長に内通した細川藤孝への3月7日付の信長書状に、甲賀に滞在していた信虎が近江への出兵を企てているとの報告があったことが記されていて、反信長方として抵抗を続けていた六角氏と協力して近江を攻撃しようとした様子が伺えるそうです。

一方、信玄の方も将軍義昭の要請に応えて元亀3年(1572)10月には信長との同盟関係を破棄、12月に三方ヶ原で徳川勢を打ち破り、元亀4年(1573)2月には野田城を攻略します。その動きは将軍の挙兵に呼応したものでしたが、同年4月に信玄が死去したことで、あえなく甲斐へと撤退しました。

甲陽軍鑑』によると、信玄没後に甲斐帰国を打診した信虎は、天正2年(1574)に子の逍遙軒信綱(信廉)が城代を務める高遠城で孫の勝頼と対面、その後間もない3月5日、ついに甲斐へと帰ることなく81歳で波乱の生涯を終えました。

これまで信虎の最期は、甲斐への帰国を希望するも信玄の生前には叶わず、信玄の死後に訪れた高遠城においても見知った家臣の顔はなく、まるで「悪逆無道」の報いであるかのように、孤独に死去したとされてきました。

しかし、永禄10年以後の動きを見ると、もはや我が子に国主の座を奪われ追放された恨みなど微塵もなく、年老いてもなお武田家のために引き続き幕府の一員として活動し、信玄の上洛を支援しようとしたのだと思えてなりません。

信虎の葬儀が行われた大泉寺

信虎の葬儀が行われた甲府の大泉寺は、大永元年(1521)に信虎の開基による曹洞宗の寺院です。

武田逍遙軒信綱が描いたというあの有名な信虎画像もここの所蔵品で、葬儀に際して奉納されたものと伝えられています。

永慶寺から移築されたと伝えられる、黄檗宗様式の総門。

国守武田信虎公霊廟之地

信虎の墓がある堂は「御霊殿」と名付けられています。

中を覗いてみると、風林火山の旗が。

左から勝頼、信虎、信玄の墓(というか供養塔?)だそうです。

武田三代の戒名

大泉寺殿泰雲康大庵主(信虎)

法性院殿機山玄公大居士(晴信)

景徳院殿頼山勝公大禅定門(勝頼)

参考

武田信虎のすべて

武田信虎のすべて

醒睡笑 全訳注 (講談社学術文庫)

醒睡笑 全訳注 (講談社学術文庫)

天正壬午の乱

天正壬午の乱

産経記者のコラムに、武田信虎について書かれた素晴らしいものがありますので、合わせて紹介します。

信虎はこういうコラムに採り上げられるだけの魅力がある人物だと思います。

Web上にはまだ『甲陽軍鑑』で形作られた信虎像に捕らわれているような文章が多いですが、歴史研究者の間ではすでに再評価が定着しているようですし、そのうち一般向け作品等にも反映されていくことでしょう。

さすがにもういないと思いますが、もし「信虎は妊婦の腹を裂いた」などと言ってる人を見かけたら、 「えーマジ腹裂き!?キモーイ」「腹裂きが許されるのは紂王までだよね!」 とか返してあげてください。

「備中兵乱」と常山城の鶴姫 - 岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』より(後編)

前回の記事 岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』(前編) の続きです。

今回は展示品の感想とともに、以前の記事 天正2~3年の「備中兵乱」の背景と備中松山城、備前常山城 でも少し取り上げた、備中三村氏と常山城の「鶴姫」について書きます。

『寂弁中興開基通生山血脈』(倉敷市 般若院蔵)と常山城の「鶴姫」

常山城には「備中兵乱」の終幕となる戦いで毛利方の攻囲を受けた際、城主の奥方が女軍を率いて戦った末に城内で尽く自刃したという悲劇が伝わっています。

備中松山城主・三村元親の妹でもあるこの女性の名前は「鶴姫」とされていますが、その由来となる書物真言宗の寺院、般若院の記録『寂弁中興開基通生山血脈』が展示されていました。

常山ノ城主三村上野介殿ヨリ米十石白銀五枚御内證 鶴姫様ヨリ御寄進也

同十八日結縁潅頂ニ御入リ也 鶴姫様ノ御歳十八九ニ御見被成 侍女三十一人御侍ラヒ

天文23年(1554)11月の記録からの引用ですが、ここに記された名前が根拠とのことでした。

鶴姫が嫁いだ常山城主の名は上野隆徳、上野備前守隆式、あるいは三村上野介高徳などが伝わっていますが、この史料から当時は三村上野介と呼ばれていたことが伺えます。

鶴姫の年齢が仮にこの時18,9歳だったとすると、常山城の戦いは天正3年(1575)6月なので40歳近くになりますね。

手元の資料は加原耕作編著『新釈 備中兵乱記』だけなのですが、『備中兵乱記』や『中国兵乱記』にも鶴姫の年齢は記載されていないようです。

(なお、鶴姫には兄の元親の他、新見にある楪城主の城主を務めた元範、鬼身城主を務めた実親という二人の弟がいたようで、実親は20歳の若さで自刃したとありました。未確認ながら元親の年齢を23歳としている物もあるようで…)

「侍女三十一人御侍ラヒ」という一文には、『備中兵乱記』で三十余人の女性軍を率いたという話が思い起こされます。

「結縁潅頂」というのは検索したところ現在にも残っている用語で、在家者が仏縁を結ぶ儀式のようです。

また展示解説によると、常山城落城の際に般若院の住職を務めていた幸勢は三村家親の子で、鶴姫の弟にあたるとのことでしたが、記録を伝えた般若院のWebサイトに以下のような情報がありました。

中興第十三世権大僧都法印幸勢代、毛利勢(吉川・小早川勢)が常山城に立て籠もる三村氏を攻めるため、児島一帯の城を攻めた。 五月二十二日戦禍のため当寺は経蔵を残して一山悉く焼かれ、八十石の御朱印も焼失した。幸勢は阿弥陀・薬師の二躰を目篭に入れ、備中阿弥陀院(宝島寺)へ逃れた。(この時湊山城も焼失した。)

幸いに難を逃れ現存しているのは、本尊阿弥陀如来、十一面観音などの仏像・仏画・仏典・山王権現御神体・千仏堂の馬頭観音像などである。

翌年の涅槃会は菰張りの仮屋で奉修した。

常山落城後、幸勢は常山城主夫妻、湊山城主夫妻に法名を授け供養した。(常山城主夫妻の法名は常光院高月徳本禅定門、常鶴院超山本明信尼。湊山城主夫妻の法名は、超頓覺壽居士、林月常遊信女であった。)

般若院は毛利勢の常山城攻めによって戦禍を被り、幸勢も一時は仏像を持って備中へと避難したようです。

常山城主は法名「常光院高月徳本禅定門」とありますが、ここでは上野氏の諱を「高徳」とされているのでしょうか。

鶴姫の法名「常鶴院超山本明信尼」というのも、その名に因んで付けられたものと思われます。

(湊山城というのは常山城の支城でしょうか?『日本城郭大系』にも記載がありませんでした。)

「備中兵乱」までの備中三村氏のあらすじ

備中三村氏は信濃から移住したと伝わっていて、その時期や経緯は明確ではありませんが、『太平記』によると元弘3年(1333)に隠岐を脱出した後醍醐天皇が船上山に挙兵した際、備中から馳せ参じた武士として、庄氏、真壁氏、新見氏、那須氏らとともに三村氏が名を連ねており、その頃にはすでに備中に土着していたようです。

その後、成羽に進出した三村氏は、大内義興が前将軍・足利義尹を擁し上洛した永正5年(1508)頃には、他の備中の諸将と同様その麾下に属しました。『陰徳太平記』には義尹に供奉した武将として庄為資、石川左衛門尉らと共に三村宗親が名を連ねており、その宗親の子が、三村氏の勢力を大きく拡げた三村家親です。

天文初期の尼子氏の山陽方面への進出に際し、猿掛城主・庄為資(穂田為資とも)が尼子方に与して松山城主・上野頼氏を討ち、備中は尼子氏の勢力下に入ります。その頃は成羽の鶴首城主であった三村家親も尼子氏の麾下に属していましたが、やがて郡山合戦での敗退をきっかけに尼子方の影響力が弱まると、家親は同じ大内方である毛利氏と手を組んで活動、天文22年には庄為資と講和して嫡子の元祐をその養子とするとともに、守護細川氏の下で守護代を務めた有力な一族の幸山城主・石川久式や、上野氏支族の常山城主・上野高徳と姻戚を結びました。この際に輿入れしたのが鶴姫です。

陶隆房による当主の弑逆で弱体化した大内氏に代わって、大内方から自立した毛利元就勢力を拡大するに伴い、家親は毛利麾下で美作、伯耆備前と広範囲に渡って転戦して活躍、永禄4年(1561)には松山城へと進出し、備中のほぼ全域を制圧して美作と備前の一部にまで勢力を拡げました。

一方で、天文末期に尼子氏が再び美作・備前へ進出してきた際には同じ反尼子方として共闘したこともある備前の浦上・宇喜多両氏との関係は次第に悪化し、永禄9年(1566)には宇喜多直家の家臣である遠藤兄弟によって家親が鉄砲で狙撃され死去するという事件が起こります。庄氏を継いでいた兄の元祐に代わって家親の跡を継いだ元親は、すぐさま報復のために備前へ進出したものの、直家の巧妙な作戦によって返り討ちにされてしまいました。(明善寺合戦)

更にその後、将軍・足利義昭が毛利氏によって迎え入れられ、その調停を受けた宇喜多氏が浦上氏から離反して毛利方となるに及び、宇喜多直家を仇敵とする三村氏は長年に渡り毛利方として戦ったにも関わらず、逆に浦上氏に与して反毛利方となったため、天正2年(1575)末から翌年5月末頃にかけて毛利氏の討伐を受けることになります。これが「備中兵乱」です。

備中兵乱の終焉と三村一族その後

『備中兵乱記』によると11月18日に佐井田山城と猿掛城、12月29日に国吉城、翌年正月に寄手が松山城に達した後も引き続き、8日に楪城、19日に荒平城、29日に鬼身山城と、次々と属城を落とされ、3月には成羽に本陣を移した毛利勢と三村勢の間で野戦が繰り返された後、やがて松山城内にも心変わりする者が現れ、5月20日に元親らが篭もる小松山の本丸と詰め城の大松山の間にある「天神丸」が毛利方の手に落ちたことが決め手となりました。

元親は僅かに残った家人らに伴われて城から逃れたものの、道中で深手を負って一人残されてしまい、6月2日、休んでいたところに通りかかった樵夫に小早川の陣へ使いを頼み、最期は旧知であったという粟屋三左衛門尉元方の介錯により、検使の前で切腹しました。また、生年八歳で利発だったという元親嫡子の勝法師丸も、後難を憂えた小早川隆景によって殺害されました。

松山城の落城後、6月4日には毛利方の本陣が成羽から常山表に移され、最後に残った常山城も毛利勢の包囲を受け、7日には毛利水軍を率いた名将・浦兵部丞宗勝によって攻め滅ぼされてしまいました。

元親従兄(伯父とも)の成羽鶴首城主・三村孫兵衛親成父子が挙兵に反対し、一族に背いて毛利方に身を投じていたため、三村氏の血は後世に残されました。

三村親成は、諸国を流浪したとして知られる猛将「鬼日向」水野勝成を厚遇したため、後に勝成が備後福山藩主となった際に家老として迎え入れられたと伝えられています。親成の曾孫にあたる親澄の代で、水野家改易とともに備中玉島で帰農したようです。

他にも、美作・備中の三村一族の縁者では、元親の妹婿である美作月田城主・楢崎元兼や、石川久式の父久智の娘婿で高松城主・清水長左衛門宗治は、引き続き毛利方に付きました。

清水宗治は後の高松城での最期から毛利氏の忠臣と讃えられていますが、三村氏一族の主家に背いて勢力を拡大したため元々毛利家臣ではありません。開城にあたり宗治が切腹に拘ったのは毛利家に対して子孫の厚遇を約束させるためだと感じます。また、兄の月清が出家して家督を譲り、後に宗治と共に切腹したのも同様なのではと…。)

なお、三村家親の正室は阿波三好氏の出身とあり、その縁からか『備中兵乱記』では自刃を覚悟した三村元親が石川久式に対して讃岐へ落ち延びて再起を図るよう促しているほか、常山城主・上野高徳も郎党から同様に勧められています。

また『中国兵乱記』には元親の伯父に当たる国吉城主・右京亮政親の父子3人が因幡・丹後へと落ち延びたとあります。丹後にも反毛利勢力がいたのでしょうか?

備中高梁の頼久寺にある三村家親・元親父子の墓。

『備中兵乱記』と『中国兵乱記』が描く鶴姫と女軍の姿

常山城が毛利軍の包囲を受けた際、鶴姫は侍女達三十余人を従えて浦兵部の陣に切り込んだ後、城に戻って自害したと伝えられています。

その様子は『中国兵乱記』にこのように記されているそうです。

(以下、引用は加原耕作『新釈 備中兵乱記』より)

隆式の内室は三村家親の娘であった。女性に似合わず、織田具足を肩に掛け、上に経帷子を着て、二尺七寸の国平の太刀を差し、鉢巻をして隆式の側にいたが、隆式が「太刀」とつぶやくのを聞いて、

「この太刀は三村家に伝わっていた重代の名刀である。家親と一緒に居ると思い、肌身離さず持っていたが、死後には隆景卿に言上し、供仏施僧のために使って欲しい」

と言って敵勢へ切りかかり、木美十郎左衛門を切り伏せ、本太五郎兵衛・三宅勘介に手疵を負わせ、そのうえ、浦兵部宗勝の一備えを負い崩して城に立ち帰り、隆式と連座して、

「南無西方教主の如来、今日三途の苦を離れた者共、並びに元親・久式・元範・実親と同じ蓮台に迎え給え。南無阿弥陀仏

と高声で念仏を唱え、刺し違えて果てた。舎弟高橋小七郎が介錯し、小七郎もまた腹十文字に掻き切り、隆式の死骸に寄りかかって同じ枕に伏せた。見る人、聞く人、皆袖を濡らさぬ者は無かった。

女だてらに太刀を振るって最後の抵抗を見せた後、家族とともに自刃する様子が描かれていますが、鶴姫の名や侍女達を率いたことは記されていません。

(この前には隆式はすでに切腹を決意していて、検使を給わるよう毛利方に伝えた後、継母、嫡子の源五郎隆秀をはじめ一族の死を確認しているので、斬りかかられた毛利方が気の毒な状況に見えますが…)

一方、三村家臣の子孫によって記されたと見られている『備中兵乱記』には、鶴姫の勇ましい姿や自害を決意してなお敵に切り込んだ際の心情、それに付き従った三十余人の女性と家僕達の姿が生き生きと描かれているようです。

高徳の女房は、修理進元親の妹で、日頃から男にも勝る勇気と力を持っていた。

「私は女性の身ではあるが、武士の妻や子が最後に敵の一騎も討たず、むざむざと自害するのは返す返すも残念である。況んや、三好修理大夫の従弟は叛逆した一族であり、女の身ではあってもひと軍しないわけにはいかぬ」

と鎧を着け、上帯を締め、太刀を佩き、長い黒髪を解いてさっと乱し、三枚兜の緒を締め、紅の薄衣を取って着て、裾を引き揚げて腰で結び、白柄の薙刀を小脇に挟んで広庭に躍り出た。

端下の者に至るまで三十余人は、

「これはいかなるお考えであろうか。そうでなくても女人は五障三従の罪が深く、成仏できないというのに、どうして修羅の罪業を逃れることが出来よう。ただ、思いとどまられ、心静かに自害して下さい」

と鎧の袖を掴むと、高徳の女房は打ち笑い、

「貴女たちは女性の身であり、敵も強いて殺しはしない。いずれの国へでも、ひとまず落ち延びるか、もし自害をされるならよく念仏を唱えて後世を助けて貰われるがよい。自分には正も邪もひとつであり、この戦場を西方浄土とし、修羅の苦患も極楽となせば、どうして苦しいことがあろうか」

と袖を引き放って出て行くと、春日の局らは、

「さては自分達を捨ててしまわれるのか。どうせ散る花なれば、同じ嵐に誘われて、死出の山、三途の川までお供しよう」

と髪を掻き乱し、鉢巻を締め、ここかしこに立てかけてあった長柄の槍を携えて三十余人が馳せ出すと、長年恩顧を蒙っていた家僕共もこれを見て、八十三騎が一緒に死のうと馳せ出した。

この内容がどこまで実態を表しているのかは分かりませんが、なかなか興味深いところがあります。

「三好修理大夫の従弟は叛逆した一族」との台詞は三村家親の正室(つまり鶴姫の母)が三好氏の出であったことを表しているのでしょう。三好修理大夫は長慶のことですが、文字通り「従弟」と解釈すると義継のことでしょうか?であれば、執筆当時は将軍を弑逆したのは義継であると正しく認識されていたことが伺えます。

(なお、事件当時は長慶の死が秘匿されていたためか『信長公記』等では長慶が将軍を殺害したと書かれているそうです。そして江戸時代中期に成立し広く流布された『常山紀談』によって、その罪は松永久秀が背負わされることになります…。)

叛逆者の一族だから戦わなければいけないという理屈は、どういう事なのか分かりませんが…汚名返上したいという意味でしょうか。

また、鶴姫たちが浦宗勝(ここでは「浦野兵部丞宗勝」となっています)の陣に討ち入った後、城内に戻るまでの様子はこのように描かれています。

宗勝はこれを見て、

「敵が女人の装束を着けて押し寄せてくるのはおかしい。”処女の如くして脱兎が功を作す謀”と孫子の秘法にもあり、また、”偽って実をとる”とも言うが、これはこのような謀を言うのかも知れぬ。欺かれて、不覚を取るな、面々」

と陣を固めて控えていたため、討ち破ることは出来なかった。しかしながら、屈強の勇士が死を恐れず、一目散に突き立てると、寄せ手は足並みを乱し、疵を被り、死ぬ者百余騎、慌てふためくのを見て、高徳の女房は腰から銀の采配を抜き、真っ先に進んで、

「討ち敗れ、者共」

と大勢の中に割って入った。宗勝の兵はさすがに武勇を嗜んでおり、女人に立ち向かっていく者は無かった。勇士が槍を合わすところを、女性が傍から潜んで「ぽかっ」と突き、手負う敵は数知れなかった。暫く戦っている間に、寄せ手の軍勢が大勢馳せ集まり、攻め戦ったため、高徳の兵で残るものは一騎もいなくなった。高徳の女房は、浦野兵部丞の馬前に立ち止まって、大声を張り上げ、

「どうした宗勝、あなたは西国で勇士の名を得ておられると聞いている。自分は女人の身ではあるが、ひと勝負仕りたい。そこを引き給うな、浦野殿」

と喚き叫んで、長刀を水車のように廻して攻め寄せた。兵部丞は四、五間ばかり後ずさりし、

「いやいや、貴女は鬼ではなく、女である。武士が相手には出来ない」

と身を引くと、傍の兵五十余騎が攻めかかってくるのを、長刀を取って七騎を薙ぎ伏せ、薄手を負って、また大音声を張り上げ、

「女の首を取ろうとなさるな、人々」

と呼ばわり、腰から三尺七寸の太刀を抜き、

「これは我が家重代の国平の作である。この太刀は一度父家親に進上し、家親が特に秘蔵していたが、重代の太刀であると聞いて返してきたものである。父家親だと思って肌身離さず持っていたが、死後には宗勝殿に進上する。後世を弔ってたまえ」

と言い捨て、城中に馳せ入った有様は、まるで毘沙門が喜見城を守護されていた時、吉祥天女と一緒に修羅を攻め討った勢いもこのようではなかったかと思われ、見る人に舌を巻かないものはなかった。

自陣に討ち入ってきた女軍に対して、宗勝が冷静かつ紳士的な対応を続けたために、ただ一人生き残って一騎討ちを挑んだ鶴姫も意気を削がれたのか、宗勝に父家親の形見である国平の太刀を託し、後世の弔いを請うて城へ戻ったという筋書きになっています。

切腹を決意し太刀を求めた夫に対して「供仏施僧のために使って欲しい」と言いながら敵勢に討ち入るという、少々往生際が悪いようにも読める『中国兵乱記』の内容とは異なった印象を受けますね。

鶴姫と夫高徳の最期についても、

「自分は西方十万億土の弥陀を頼むのではない。巳心の弥陀、唯心の浄土が、今ここに出現している。あゝ、仏も生命は露のようであり、また稲妻のようなものであると説いておられる。誠に”夢の世に幻の身の影留りて、露に宿かる稲妻の、はや立ち帰る元の道”である。南無阿弥陀仏

と念仏を唱え、太刀を口に含んで臥してしまったのは、例の少ないことであった。

さて、高徳も西に向かい、

「南無西方教主の如来、今日三途の苦を離れ、元親・久式・元範・実親と同じ蓮台に迎えたまえ」

と念仏を唱えながら、腹を掻き切ると、舎弟小七郎が介錯し、小七郎もまた自害して高徳の死骸に寄りかかり、同じ枕に伏せた。見る人、聞く人、それぞれ皆涙を流さぬものはなかった。

このように、夫と刺し違えて果てたという『中国兵乱記』とは異なるもので、悲壮な中にも鶴姫の勇ましさが強調されています。

他にも常山合戦の顛末を記したという著者不明の『児島常山軍記』なる書物があって、鶴姫以下三十四人の女軍の奮戦が描かれているそうです。

昭和12年、城主一族と鶴姫以下34人の侍女達の冥福を祈って建立されたという、40基の墓石と墓碑。北二ノ丸跡にあります。『備中兵乱記』では見られない「三十四」という数字は『児島常山軍記』に由来するものでしょうか。

『備中兵乱記』の内容から読み取ると、城主上野高徳、女房の鶴姫、高徳の継母(57歳)、嫡子源五郎高透(15歳)、その弟(8歳)、高徳の妹(16歳)、これに34人の侍女を合わせて40人ということでしょうか。

しかし、高徳を介錯したという舎弟小七郎も「高徳の死骸に寄りかかり、同じ枕に伏せた。」とあって、よく分かりません。『中国兵乱記』には舎弟「高橋小七郎」とあるので、一族には数えられていないのかもしれません。

「児島富士」と呼ばれる常山の山頂、常山城本丸跡にある城主上野隆徳の碑。

鶴姫の活躍に比べると高徳は影が薄いように見えますが、『備中兵乱記』『中国兵乱記』いずれにも、翌朝に切腹するとの決意を打ち明けて一族以外の脱出を促した後、悪口を浴びせながら攻めかかる敵勢に対して「辛抱の出来ない奴らだ」と、嫡子源五郎とともに鉄砲を撃ちかけて応戦する場面が描かれています。

『中国兵乱記』『備中兵乱記』『備前軍記』『児島常山軍記』のいずれも『吉備群書集成』第三巻に所収とのことです。(誤植もあるそうですが…)

いつか機会があれば、『児島常山軍記』ともども釈文を読んでみたいものです。

参考

新釈 備中兵乱記

新釈 備中兵乱記

  • 西本省三・葛原克人 編『日本城郭大系 第13巻 広島・岡山』(新人物往来社

岡山県立博物館企画展『岡山の城と戦国武将』の感想(前編)

先日、岡山県立博物館の企画展『岡山の城と戦国武将』を観てきました。

岡山の城ということで扱われた地域は備前・備中・美作の三ヶ国、宇喜多氏の岡山城大河ドラマでも取り上げられた備中高松城はもちろんのこと、浦上氏の三石城や天神山城、三村氏の備中松山城、三村元親の妹・鶴姫と女軍の伝説がある常山城、森忠政の津山城、そして意外な所では関東における戦国大名の嚆矢となった伊勢盛時北条早雲)の出身地、備中伊勢氏の高越城に関する史料など、小規模ながら興味深い物もありなかなか楽しめました。

今回の展示では写真撮影は禁止、図録の販売もなかったので、出品目録と断片的なメモと記憶を頼りに感想を書きます。

個人的には、独立して扱われることが皆無と言っていい浦上氏に関わる文書がいくつか展示されていたのが良かったです。

以下、横書きでちょっと読みづらいですが、翻刻文は展示内容のメモからそのまま掲載します。

浦上村宗書状(和気町大國家蔵)

三石城の関連史料として展示されていた、和気町の大國家に伝えられたという浦上村宗の書状です。

新田庄内商売、 馬三ケ国中塩 公事率分料 駒足等、諸公事免許事、 御代々被定置訖、殊更 今度錯乱中、各 忠儀在之、旁以不可 有其煩之由也、仍而執達 如件、

大永元 十二月朔日 村宗(花押)

所々役人衆御中

大永元年(1521)といえば、将軍義稙が淡路へと出奔したことから管領・細川高国の要請を受け、赤松家によって養育されていた足利亀王丸(義晴)を上洛させた後、隠居幽閉の身であった旧主の赤松義村を弑逆したという、浦上村宗にとって激動の年でした。

展示解説によると、書状にある「今度錯乱中」というのは、この時の混乱のことではないかとのこと。

ちなみに翌大永2年9月には、淡路へと逃れていた反村宗方の小寺村職と浦上村国が播磨に上陸し、別所村治も加わって再び播磨を二分する争いとなった後、但馬の山名誠豊が侵攻してきたことから、結局両者は和解して山名勢を何とか撃退するという、相変わらずもグダグダな展開になってます。

完舟宍甘与三左衛門尉宛 浦上宗景書状(岡山県立記録資料館蔵)

浦上宗景の書状が二通、天神山城の関連史料として展示されていました。

尼子贔屓として特に気になったのが「雲州衆」と戦ったという、完舟宍甘与三左衛門尉に宛てたものです。

今度者、至沼城雲 州衆取懸候処、則 遂入城昼夜粉 骨段、忠勤無比類候、 必恩賞可相計候也、 恐々謹言

八月十二日 宗景(花押)

完舟与三衛門尉殿

年次不詳ですが、展示解説では「至沼城雲州衆取懸候処…」という部分を指して、明禅寺合戦に関連するものではないかとありました。

明禅寺合戦であれば永禄10年(1567)、沼城は岡山進出以前の宇喜多直家が居城としており、相手は当時まだ毛利方だった三村氏のはずで、そうすると「雲州衆」はどこの勢力だろうという疑問が…。

尼子晴久は天文20年(1551)10月に美作へ侵攻して備前にまで到達、やがて浦上宗景は尼子方に与した兄の政宗と袂を分かち、備前における反尼子方の盟主として活動しますが、その頃の出来事という可能性は?

そう考えて、渡邊大門先生の『備前 浦上氏』を確認したところ、宗景方の沼城が尼子勢による攻撃を受け、宗景配下の宍甘(しじかい)氏が軍功を挙げて勝利したとの記述がありました。

更にWebで「宍甘与三衛門尉」と検索したところ、ふーむ(畑和良)氏の 落穂ひろい がヒットしました。この方の情報であれば間違いないと思います。

以下、 備前沼城 より引用です。

天文末年(1554年ごろ)になると、幕府から備前守護職に任命された尼子晴久が何度も備前国侵攻を企てた。尼子氏への対応をめぐって、浦上政宗・宗景の兄弟は意見が対立、政宗は尼子方に味方し、宗景は反尼子氏を貫いて天神山城(岡山県佐伯町)に立て籠もった(畑和良氏「浦上宗景権力の形成過程」)。浦上兄弟の分裂を受け、備前の領主層も両派に分かれた。中山備中守は宗景に馳せ参じたらしく、沼城は政宗を支援する尼子晴久の攻撃にさらされることになった。年未詳八月十二日付けの浦上宗景感状(池木氏所蔵文書)によれば、宍甘与三左衛門尉が沼城に入城し、「雲州衆」相手に奮戦したことがわかる。浦上政宗の支配地は砂川の上流鳥取庄(山陽町・赤坂町付近)と下流一帯(岡山市西大寺付近)に分布しており、両者を分断する位置にある宗景方の沼城は、何としても攻略しなくてはならない要害だった。

全文は記載がありませんが、感状の一節として掲載されている画像には「今度者 至沼城」とあり、内容から考えてもこれに間違いないでしょう。

そういうわけで、浦上宗景が出雲から美作・備前へと侵攻してきた尼子氏への対応を巡って兄の政宗と対立していた頃、中山氏の沼城に援軍として入城して戦功を挙げた、「完舟」ではなく「宍甘与三衛門尉」宛の感状のようです。

年次はおそらく天文23年(1554)だと思います。

文書そのものの画像もWebで見られるようになってました。(ここの所蔵資料は検索システムで見られるみたいです)

「完舟」ではなく「宍甘」(しじかい)で間違いないですね。

内容備考として、

至沼城雲州衆の件につき恩賞。天文23年ヵ(参考:畑和良「浦上宗景権力の形成過程」『岡山地方史研究』100、2003年)

とありますので、そもそもこれを解読されたのが、ふーむ氏ということのようです。

(道理で 落穂ひろい がピンポイントでヒットするわけです…)

渡邊大門先生の『備前 浦上氏』でも「浦上宗景の動向に関しては、畑和良氏が詳しく検討をしている」と述べつつ、参考文献に上記論文『浦上宗景権力の形成過程』を挙げられているので、そもそもの情報源はこの論文なのかもしれません。

天文末年頃の尼子氏の備前進出と三好政権の動き

川岡勉先生によれば、この天文21年頃から繰り返された尼子氏の美作・備前・播磨への進出は、天文18年(1549)に三好長慶が細川晴元方から細川氏綱方へと離反して晴元政権を打倒、天文21年(1552)1月には六角義賢の斡旋によって将軍・足利義藤(義輝)が帰京し、足利義藤-細川氏綱-三好長慶の新体制によって幕府再建が進められたことなど、畿内政治情勢の大変動に呼応した動きと考えられています。

尼子晴久が天文21年(1552)3月に御相伴衆に召し抱えられ、4月に因幡伯耆備前・美作・備後・備中、6月に出雲・隠岐と合わせて八ヶ国の守護職に補任されたのも、かつて西国最強の雄であった大内氏が天文20年(1551)に重臣・陶隆房による当主の弑逆によって弱体化し、また播磨・備前・美作の守護職を担うべき赤松氏も尼子氏によって領国を追われるという、現地の状況も鑑みてのことだと思われます。

先の宍甘与三衛門尉宛の浦上宗景書状に記されている、天文23年(1554)と思われる尼子氏の備前沼城への侵攻が示しているのは、単に政宗と宗景の兄弟がそれぞれ敵対する外部勢力を引き込んで争ったという事実だけではなく、大内方から自立した勢力に抬頭しつつある毛利氏とその麾下にあった備中三村氏の支援を受けて抵抗する浦上宗景と、松田氏と姻戚関係を結んで新守護・尼子晴久の進出に協力する浦上政宗という構図が浮かび上がってきます。

その一方で、当初は浦上政宗に擁立されていた赤松晴政も方針を転換したのか、旧赤松重臣ではなく三好長慶を頼っており、同じく天文23年(1554)8月から9月にかけて三好長逸が播磨に侵攻し、有馬村秀を支援して三木城の別所村治方の城を攻略、更に10月から11月にかけて安宅冬康と篠原長房が先行して播磨明石へ侵攻、翌天文24年(1555)1月には実休と長慶も播磨へ出陣し明石氏は降伏、三木城の別所村治は赤松氏との和睦を受け入れることになります。

幕府の新体制もその頃には破綻していて、天文22年(1553)には強硬派の直臣に引きずられて再び細川晴元と結んだ義輝が晴元方残党の敗退に伴って近江朽木へと退いており、三好長慶としても将軍の権威を必要としない体制の構築に踏み切ったのでしょう。同年6月に三好長慶実弟・実休が旧主の阿波守護・細川持隆を弑逆したこと、赤松晴政の要請に応じる形で西摂から播磨へと侵攻したことは、その一環ではないでしょうか。

完舟宍甘又兵衛尉宛 浦上宗景書状(岡山県立記録資料館蔵)

宍甘氏に宛てたもう一通の浦上宗景書状も紹介します。

完舟ではなく宍甘氏だということが分かりましたが、展示されていた翻刻文のメモそのままで記載します。

今度小早川起大軍 取向之処、僅小城楯籠 堅固ニ相保之故、敵失 勢無程令敗走之段、誠 忠勤不浅、神妙之至 感悦不尠、猶直家可申候 也、恐々謹言

十一月廿八日 宗景(花押)

完舟又兵衛尉殿

こちらは展示解説では毛利水軍備前進出時のものかとありました。

前述の与三左衛門尉宛とセットの史料なので、同じく岡山県立記録資料館の検索システムで、文書そのものの画像を見られるようになってます。

小早川起大軍取向の件につき。元亀2年ヵ(参考:畑和良「浦上宗景権力の形成過程」『岡山地方史研究』100、2003年)

こちらもやはり畑和良氏の研究成果から、元亀2年と推定されています。

また検索したところ、渡邊大門先生の論文『中近世移行期における宇喜多氏の権力構造』にヒットしました。

「猶直家可申候也」の部分から、直家を宗景の取次等の家臣とみなす説もあるそうで、これに対して近年提唱されているのが、直家が備前衆の盟主として浦上氏と対等の地位にあったという説ですね。

元亀2年の備前における合戦

さて、元亀2年(1571)の毛利氏の備前進出といえば、個人的にかなり興味深い出来事で、前の書状の頃から比較すると、まず畿内では三好長慶の死後に分裂した三好政権に代わって、三好政権に弑逆された将軍義輝の弟・義昭を奉じる織田信長が六角氏を蹴散らして幕府を再興、一方で西国で抬頭した毛利氏は厳島陶晴賢を破り大内氏を併呑しただけでなく、尼子晴久の死後に尼子氏をも降伏させており、その毛利氏によってたびたび侵攻を受けた大友氏は尼子残党を支援して毛利領国の後方を撹乱しつつ、阿波三好氏とも協力して毛利包囲網を築いています。

浦上宗景は尼子氏の侵攻に対しては毛利氏の支援を受けて抵抗し、尼子氏の没落に伴って次第に兄の政宗を圧倒して勢力を拡大したものの、情勢の変化を受けて、この時期には宇喜多直家とともに反毛利方の一員として活動しています。宇喜多直家も三村家親を暗殺、その後の明善寺合戦でも兵力に優る三村方を破って着々と勢力を拡大しています。

余談になりますが、これに対して幕府に接近したのが大河ドラマ軍師官兵衛』にも登場した龍野の赤松政秀で、官兵衛とその主君・小寺政職は父の晴政を追放した赤松義祐を支持し、織田や毛利といった幕府方に対抗していました。浦上政宗は晩年には弟の宗景と和解して黒田職隆と同盟しますが、その婚礼で赤松政秀の急襲を受け親子ともども殺害された事件は、大河ドラマでは官兵衛の初恋の人が殺されるというストーリーに脚色されました。(なお宇喜多直家はこの頃に一度、浦上宗景から離反して幕府方に与していますが、省略します。)

この備前における戦いは、いわば幕府方の毛利軍と反毛利連合が激突したもので、毛利氏の東進に対して大友氏とともに挟撃を図る浦上・宇喜多両氏と、同じ反幕府方であった三好氏が、陸海協同で展開した激戦だったわけです。

この時児島から上陸した四国衆を率いたのは阿波三好氏の重鎮・篠原長房ですが、五月七日付乃美宗勝小早川隆景書状には、

上口之儀、児島無正躰候、高島郡之事、はやはや可破趣候、敵も見候はぬに、阿讃備前衆におとされ候て無正儀聞候、取分程遠候條短息不行届趣ニ候 今保、妹尾、是又一大事に候、宗景福林島まて出張之由候、宇喜多是又浮出候、両口之心遣に候之間、一段彼堺之衆太儀と存、弱々敷覚悟に候

と記されているそうで、篠原長房、浦上宗景宇喜多直家の三者で電撃戦を展開した連合軍に対する、毛利方の焦りが見受けられます。

間もなく毛利氏は小早川隆景を総指揮官として現地に派遣し反撃を開始しますが、宍甘氏はその際にいずれかの城に籠って防衛したのでしょうか。

その後の展開は、浦上・宇喜多両氏は四国衆が児島から撤退した後も反毛利方として抗戦を続けていたものの、翌元亀3年(1572)10月に宇喜多氏が将軍義昭の調停を受けて毛利氏と和睦に及び、天正2年(1574)には小寺氏の元で養育されていたという浦上政宗の嫡孫・久松丸を担ぎ出して宗景に反旗を翻すことになります。

備前児島の戦いには備中松山城の三村氏からも庄元祐・三村元親の兄弟が毛利方として参戦しましたが、宇喜多直家が毛利と結んで宗景から離反するに及び、三村元親は父の仇である宇喜多直家への遺恨を理由として逆に宗景と結んで毛利方を離反、毛利氏からの討伐を受けることになるわけです。

(この辺りは以前 天正2~3年の「備中兵乱」の背景と備中松山城、備前常山城 でも触れました)

宇喜多直家というと暗殺ばかりが引き合いに出されますが、そんなのはただの手段であって、むしろ際立つのは時流を見極めて巧みに立ち回る手腕の見事さです。浦上宗景も大した人物だと思いますが、どうしても直家と比較されて割を食ってる感じですね。

穴の開いた「金箔押烏帽子形兜」と宇喜多与太郎元家

他に宇喜多氏関連では岡山城の関連史料として、宇喜多元家(基家)所用と伝えられる「金箔押烏帽子形兜」(大賀島寺)が展示されていました。

兜は鉄製ですが、烏帽子の部分に鉄砲弾が貫通した穴が残っていました。

展示されていた兜は宇喜多元家が戦死した時に着用していたという「紅糸素懸威銀箔押二枚胴具足」とともに、菩提寺の大賀島寺(瀬戸内市邑久町豊原)に伝えられた物とのこと。

宇喜多与太郎元家は宇喜多直家の甥で、天正7年(1579)10月に宇喜多氏が毛利方を離反して織田方に付いた際、直家の名代として織田信忠に謝礼を述べたという人物。

宇喜多直家が病死した後、天正10年(1582)2月21日に八浜城を拠点とする宇喜多忠家(直家の弟、秀家を補佐)と共に毛利軍と戦った「八浜合戦」において、流れ弾に当たり戦死したと伝わっています。

八浜合戦の時期は天正9年2月、同年8月など諸説ありますが、現在は天正10年2月が有力だそうです。)

またこの戦いでは、前述の浦上宗景書状で触れた宍甘氏の一族と思われる「宍甘太郎兵衛」が、毛利軍の追撃を退けた「八浜七本槍」の一人として名を挙げられており、宍甘氏も明石氏や花房氏と同様、宇喜多直家の台頭に伴って浦上宗景から離反し、宇喜多家臣となったことが伺えます。

なお、岡山県教育委員会発行の小冊子『高松城水攻め前後のおかやま』(この冊子、表紙にはマスコットキャラクターが描かれ文章もふりがな多めで小中学生向けのようですが、書状の解説などもあって非常にしっかりした内容です。)によると、若くして死んだ元家は村人たちによって「与太郎様」として神社に祀られ、現在は足の病が治るとされて信仰を受けているそうです。

この与太郎神社については、社殿を改築されたという東海建設のサイトに関連記事がありました。

バス停「与太郎様」や「名物 与太郎せんべい」もあるようです。

他に宇喜多氏関連では、「豊臣秀家」の黒印状(吉備津彦神社)も展示されていました。

思い出しながら気になったことを調べるうちに、随分と長くなってしまったので、次回に続きます…。

参考

  • 渡邊大門『備前 浦上氏』(戎光祥出版)

備前浦上氏 中世武士選書12

備前浦上氏 中世武士選書12

  • 若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』(戎光祥出版)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

戦国三好氏と篠原長房 (中世武士選書)

追記

この記事の続きを書きました。

私のおいなりさん…稲荷山のお塚信仰

伏見稲荷大社と稲荷山の歴史 に引き続き、伏見稲荷について。

稲荷山とお塚信仰

稲荷山の参道を歩いていると、無数の鳥居はもちろんですが、山中のあちこちに建てられた「お塚」の数々にも興味を惹かれます。

これらのお塚は、稲荷神を信仰する方が私的な守護神として思い思いの名前を付けて奉納したものですが、その歴史は意外と新しく、明治時代に稲荷大社によって「七神蹟」(一ノ峰、二ノ峰、間ノ峰、三ノ峰、御劔社、御膳谷、荒神峰)が定められて以後、急速に増えていったそうです。

稲荷山全体でのお塚の数は、昭和初めには約2500基、昭和41年には7762基、そして現在では一万を下らないと言われています。

一般の参道を巡って最初に目を引くのは、熊鷹社の手前右手にあるお塚群です。

ひたすら頂上を目指す心境なのか、参道の鳥居から外れてはいけないと思うのか分かりませんが、結構スルーされる方が多いです。もったいない…。

熊鷹社なら「○鷹大神」「熊○大神」というように神蹟にちなんだ名前が多く目につきますが、一つの石碑には複数の神名が書かれていたり、更にそれが複数あったりもします。

よく見ると…。

猫が寝ていました。稲荷山の中には猫がたくさん棲んでいるようですが、特に夏場は参道やお塚で座ったり伸びたりしているところに出会います。

稲荷山は猫好きにもオススメなのですよ。

たくさんの石碑が並ぶお塚。

企業が建てたお塚には、個人の人名を元に名付けられたと思われるものもよく見られます。

こちらのお塚は石造りの扁額に「天地の大神」とありますが、「ヤエコ姫大明神」とも書かれていて、創業者の名前のようです。

そして、時にはこのように進化することも。

こちらは三ツ辻から四ツ辻の間にある「大松大神」のお塚。

このように、稲荷山には七神蹟の他にも神名が付けられて何らかのご利益の信仰を受けている社がいくつかあります。

(三徳社、大杉社、眼力社、薬力社、傘杉社など)

大松大神のひょうたん型のお塚は、吉田初三郎『伏見稲荷全境内名所図絵』(大正14年)にも描かれており、古くから有名だったようです。

こちらは御膳谷のお塚から。湿気が篭りやすいのでしょうか?滝場にあるお塚のように、苔がたくさん生えています。

狐像にもびっしりと苔が。

不思議な名前が印象深い「豆ちゃん大神」その由来は何でしょうか?

御膳谷の辺りは少し開けているためか、奥の方にはまだ新しいお塚も見られます。

新しいだけあって(?)、結構まめに手入れされているようです。

株式会社サンガレージで「日の丸大神」社名にちなんだものかな?

豊受大神伊勢神宮の外宮に主祭神として祀られている食物の女神ですが、同じ農耕神ということで宇迦之御魂大神とも同一視されることがあります。

豊川大神はおそらく現在の豊川閣妙厳寺、いわゆる豊川稲荷の荼枳尼真天のことですね。稲荷山においてはどちらも同じ神でもあり、別の神でもあり…?

それに、成田山不動明王高野山弘法大師。稲荷山らしいお塚だと思います。

こちらは三ノ峰、白菊大神が祀られた下之社。

民間の方が建てた数々のお塚は、これら神蹟の社のミニチュア版のようにも見えますね。

稲荷大社神道神仏分離政策の影響を受けたのに対して、お塚への信仰を「庶民による自然神信仰の再生」として、稲荷山全体が二重三重の信仰構造を持つことを象徴するとの意見もあります。

稲荷信仰の歴史を遡れば、密教と習合した稲荷信仰の広まりによって老翁姿の稲荷神が各地に伝えられた後には、中世の神仏習合の時代には蛇を眷属とする宇賀弁才天、狐を眷属とする荼枳尼天と習合し、白狐に跨り白蛇と狐を頭上に戴く女神の姿として描かれるようになりました。

白狐に跨った荼枳尼天に聖天と弁財天が合体した三面十二臂の「三天和合尊」はかつての本願所、愛染寺の本尊といわれ、また大黒天や毘沙門天をも取り込んだ「稲荷曼荼羅図」は今も伏見稲荷大社が所蔵しているそうです。

14世紀の『稲荷記』には東の峰は大威徳・天照大神荼枳尼天、南の峰には降三世・丹生明神・訶梨帝母、西の峰には愛染・弁財天、北の峰には不動・三大神、中の峰には稲荷神・阿弥陀・辰孤王と記されているそうで、まさに中世の稲荷山は多様な信仰を取り込み混沌とした曼荼羅世界を構築していたことが伺えます。

明治政府の神仏分離政策によって衰退したかに見える神仏習合の信仰ですが、今では稲荷山のお塚信仰に形を変え、庶民の間で脈々と受け継がれているのかもしれません。

それは私のおいなりさんだ

お塚は私的な稲荷神を祀ったものということで、要するに「私のおいなりさん」です。

そう考えると、この神名が気になって頭から離れなくなってしまうわけですよ…!!

じっくり探してみると、意外と色んな所で見つかります。これが。

夜になっても目についてしまう。

ああっ、惜しい。とか思うようになって…これはいけない。

しまいには、こんなのまで気になるように…。

もはや、重症です。

最後は綺麗に閉めましょう。

2009年の本宮祭、大雨の後に撮影しました。

落雷騒ぎで消防隊も来たほどの悪天候の中、三脚を担いで行って良かった。思い出の写真です。

今は本宮祭も人出がすごいことになってますし、こういう状況で撮影できる機会はなかなかなさそうです。

参考

  • 中村陽 監修『イチから知りたい日本の神さま2 稲荷大神 お稲荷さんの起源と信仰のすべて』(戎光祥出版)

稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)

稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)

伏見稲荷大社と稲荷山の歴史

伏見稲荷大社は全国に3万2千社を数えるという、稲荷神社の総本宮

稲荷大社の創建…古代の豪族・秦氏の伝承

大社創建を伝える最古の文献『山背国風土記逸文の伊奈利社条には、始皇帝の末裔を称して古代山城国勢力を誇った秦氏にまつわるエピソードが記されているそうです。

伊奈利と称ふは、秦中家忌寸等が遠つ祖、伊侶具秦公、稲梁を積みて富み裕ひき。乃ち、餅を用て的と為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峰に居り

伊侶巨秦公は餅を的として矢を射たところ、餅は白鳥となって飛び去り山の峰に留まった。

「伊侶具秦公」(いろぐはたのきみ)は「伊侶具」(名) + 「秦」(氏) + 「公」(姓)と解され、同じ逸文の鳥部里条には「秦公伊侶巨」と記されていること、また室町時代吉田兼倶の覚書のある『神名帳頭註』逸文には「伊侶臣」と誤写されたと見られることから、現在は「伊侶巨秦公」(いろこはたのきみ)であったと解釈されています。

そして、この後に続くのは「伊奈利山」「子生」「伊禰奈利生」と書物によってまちまちだそうで、かつては江戸時代の国学者伴信友による表記「伊禰奈利生」から稲が生えたと解釈されてきましたが、最も古い写本には「生子」とあるため、最近の説では「子を生んでいた」と解釈されているようです。

餅が白鳥になる「穂落とし伝説」は、優れた灌漑の技術を持ち山城盆地を開拓した秦一族が、稲作の発展に伴って穀霊信仰を取り込んだものとも言われています。

山城国葛野郡には秦氏が創祀し酒の神として信仰されている松尾大社愛宕郡には賀茂氏と共に奉斎した賀茂別雷神社上賀茂神社)と賀茂御祖神社下鴨神社)、そして紀伊郡にあるのが現在の伏見稲荷大社です。

秦氏の祖神を祀る境内末社の「長者社」。

現在の社殿は江戸時代前期の建立ですが、古くは明応8年(1499)の記録『明応遷宮記録』に境内社として記されているとのこと。

長者社の隣にあるのは荷田社で、同じく稲荷大社の旧社家である荷田氏の祖神が祀られています。

稲荷大神…五柱の神々と稲荷山

伏見稲荷大社主祭神穀物神として知られる宇迦之御魂大神で、四柱の神々を相殿に「五社相殿」の形で祀られています。

以下、向かって左から

これら五柱の神々の総称が「稲荷大神」とされていますが、『山背国風土記』には具体的な神名は記されておらず、平安の初期に「稲荷神三前」あるいは『延喜式神名帳』には「稲荷神社三座」と記されているそうです。

すなわち、稲荷神は古く一柱の神のように伝えられていたものが、平安時代には下社、中社、上社に三座の神々が祀られ、やがて新たに二座を加えて現在の形になったと見られています。

また、三座の神々は古墳時代にまで遡る稲荷山の神奈備信仰(山を神の依代とする信仰)とも結びついており、今でも一ノ峰(上之社神蹟=末廣大神)、二ノ峰(中之社神蹟=青木大神)、三ノ峰(下之社神蹟=白菊大神)の三ヶ峯への信仰が色濃く残っていますが、それぞれの祭神については時代の移り変わりによって諸説ありました。

江戸中期に秦氏出身の毛利公治によって撰述された由緒記『水台記』には、下社=伊弉冉尊、中社=倉稲魂命、上社=素戔嗚尊

また、江戸末期に国学者の前田夏蔭が著した『稲荷神社考』において、室町時代の『神名帳頭注』では中社を倉稲魂命、他の二柱を素戔嗚尊と大市姫神とし、『二十二社註式』では下社=大宮能売神、中社=宇迦之御魂神、上社=猿田彦神とされているとの説を挙げつつ、下社=大宮能売神、中社=宇迦之御魂神、上社=須佐男命とし、主祭神を宇迦之御魂神とする説が正しいとされています。

現在の大社の見解では、下社=宇迦之御魂大神、中社=佐田彦大神、上社=大宮能売大神として、下社摂社の田中大神、中社摂社の四大神については由緒不明であるものの、「元は稲荷神と何らかの深い関わりがある地主神、あるいは土着的傾向が濃厚」としています。

真言密教との習合…稲荷山と東寺を結びつけた荷田氏

一方で稲荷信仰は平安時代真言密教と習合し、東寺に伝わる『稲荷大明神流記』には稲束を携えて婦女と童子を従える老翁姿の稲荷神と弘法大師の出会いが縁起として描かれました。

稲荷大明神縁起』には荷田氏の祖神伝承があり、稲荷山に古くから住んでいた「竜頭太」という龍面の神が弘法大師に山を譲り渡す話とともに、稲を荷っていたことに由来して荷田氏を名乗ったとしています。

荷田氏は秦氏の移住以前から深草に土着した豪族であったと考えられており、天長3年(826)空海による東寺五重塔建立の際に稲荷山が材木供給地となったこと、空海の母の実家で東寺執行職を務めた阿刀氏とも姻戚関係にあったことから、歴史的に見ても稲荷社が東寺を通じて時の中央政権と関わりを深めた背景には、荷田氏の存在があったようです。

各地の稲荷神社の御札には、今でも白狐に跨り如意宝珠と稲穂を持った老人姿の稲荷神が描かれたものが見られますが、中世における大師信仰の広がりとともに各地に伝わったものでしょう。

また、歴史上の荷田氏の祖で稲荷社に「僕」として仕えたという荷大夫の没後、安元2年(1176)に「稲荷山の命婦社の南に社を造り霊魂を祀る」との記録があり、『明応遷宮記録』(1499)にも「命婦ノ南ニハ荷大夫明神在之云々」と記されていて、現在も稲荷山には間ノ峰の荷田社神蹟(伊勢大神)の信仰が伝えられています。

荷田社と石造りの珍しい「奴袮鳥居」

明治の神仏分離政策を受け、稲荷大社は信仰の形を変えることになりましたが、稲荷山には現在も密教との関わりが色濃く残っています。

こちらは弘法ヶ瀧周辺の様子。

これらの石碑は稲荷神を信仰する方が私的な守護神としてそれぞれ名前を付けて奉納したもので、「お塚」と呼ばれています。

(稲荷山のお塚信仰について記事を書きました。私のおいなりさん…稲荷山のお塚信仰

戦乱の時代…荷田氏を冒称して稲荷社の実権を握った羽倉氏

荷田氏は鎌倉末期から元弘、建武の動乱期に一旦歴史から姿を消しますが、南北朝期に稲荷山社領の代官を務める小早川氏に仕えた羽倉氏が荷田氏を冒称(無関係な他家の姓氏を名乗ること)し、稲荷社の祠官に加わって実権を握ります。

稲荷社の神主家は代々、秦氏の一族である大西、松本、森の三家とその分家が務めましたが、羽倉氏がそこに加わるために荷田氏の名を必要としたものと見られています。

長禄元年(1457)には徳政一揆を起こした暴徒鎮圧のため幕府軍が稲荷社に乱入、羽倉延幹が所司代の元に抑留される事件が起きていますが、この頃から関係を持っていたのでしょうか、応仁の乱において東軍に与した羽倉延幹は、かつて侍所所司代・多賀高忠の元で目付を務めていた「骨皮道賢」という男と共に稲荷山に籠城し、西軍と戦っています。

足軽の頭領であった骨皮道賢は、洛中洛外の境域に寄宿したという「都鄙悪党」を代表する存在であり、この時代の稲荷山は、戦乱に活路を見出そうとする彼らの住処でもあったのでしょう。

稲荷社はまた戦国時代の宗教勢力に相応しく、隣接する東福寺との相論でたびたび抗争を繰り返しており、稲荷社神人が祭の最中に神輿に矢を射掛けられたため東福寺衆徒と乱闘したことや、東福寺によって往来を止められたことが記録に残っています。

応仁の乱の戦火によって稲荷山の社殿は焼失してしまいますが(骨皮道賢は女装して逃れようとしたところを討ち取られたと伝わっています)、難を逃れた羽倉氏はその後も中央政権に働きかけ、明応元年(1492)には稲荷社本殿の再建工事が始まって、明応8年(1499)に復興され遷宮となりました。

(なお、社殿の再建には多くの勧進僧が活躍しましたが、彼等が居住したという本願所は江戸時代には「愛染寺」と称し、密教色の濃い荼枳尼天の信仰を背景に独自の教線を伸ばすとともに、京都奉行を通じて幕府に接近していきます。)

羽倉氏は東羽倉、西羽倉の両家とそれぞれの分家へと発展しますが、東羽倉家出身の国学者荷田春満(かだのあずままろ)は現在も境内に「東丸(あずままろ)神社」として祀られ、学問の神様として崇敬されています。

史蹟「荷田春満旧宅」は春満の生家の一部で、大正11年に国の史蹟に指定されたもの。

春満は赤穂浪士の吉良邸討ち入りに際して、浪士に吉良邸の図面を渡したとか、前日の動静を伝えた人物ともされています。

旧宅には春満を祭神とする東丸神社が隣接しています。

古典の中の稲荷山

稲荷山は標高233mという小さな山ですが、お山を巡拝する人々の様子は平安時代の古典や今様(当世風歌謡)にも唄われており、かの清少納言も稲荷山に参詣しています。

当時の参道には石段も築かれておらず小さい山ながら険しい山道だったようで、『枕草子』第一五八段には、中の御社辺りの参道の険しさに苦しんだ清少納言が、坂の途中で涙を流して休んでいたところ、もう三度詣でて今日は七度詣でるつもりだと語る女性の姿を見て羨ましく思ったと記されています。

また『今昔物語』には、2月の初午の日に仲間と稲荷詣でに訪れた舎人の重方という男が、中の御社あたりで美しく着飾った女性に「妻は猿そっくりで物売り同然の女だから、離縁しようと思っている」などと口説いてしつこく言い寄ったところ、実はその女性は自分の妻で、髪を掴まれ頬を引っ叩かれたという話(近衛舎人共稲荷詣重方値女語)が記されています。

大中臣能宣の家集にも2月の初午の稲荷詣でのこととして、梅の花の下で腰を下ろして休んでいる女性のところへ近寄って歌を詠みかける男の姿が記されており、男女の出会いの場という意味もあったようです。

これら古典に登場する「中の御社」は当時の記録によると、現在の御膳谷神蹟にあたると言われています。

御膳谷は稲荷大社によって明治期に定められた「七神蹟」(一ノ峰、二ノ峰、間ノ峰、三ノ峰、御劔社、御膳谷、荒神峰)にも数えられ、古くから御饗殿、御竈殿があったと伝えられている由緒のある場所で、現在も各峰の神々に御日供が捧げられています。

宵宮祭の御膳谷神蹟。

神蹟の由来から、周辺には食品関係の会社によるお塚が多く建てられ、信仰されています。

長者社神蹟(御剱社)から一ノ峰に向かう長い石段。清少納言が苦しんだのは、この坂という説もあります。

200段の石段は、「大正の広重」吉田初三郎による『伏見稲荷全境内名所図絵』でも一際目立って描かれており、この左手の尾根はかつて「僧正峰」と呼ばれ修験者の修行場としても使われていたそうです。

この辺りは鳥居に囲まれた参道では最も山深いところで、夏の夕暮れ時にはヒグラシの鳴き声が響き渡り、幻想的な雰囲気に包まれます。

稲荷山のお山巡りについては、また別の機会にじっくり書きたいと思います。

境内の石灯籠に見る旧社家の名残り

境内には現在も旧社家の名残りがいくつか見られます。

奉納された石灯籠には秦氏の一族大西氏や、荷田氏を冒称した羽倉氏と思われる名が記されていました。

なおWikipediaによると、現存する旧社家は大西家のみのようです。

大西家といえば幕末の頃、新選組に狙われていた長州藩桂小五郎(後の木戸孝允)が、東大西家の土蔵に匿われたという話が伝わっています。

祈祷所 社司大西下総守

祈祷所 大西播磨介

取次 羽倉摂津守

宿坊 愛染寺

かつて明応遷宮で活躍した勧進僧の宿所を前身とする愛染寺は、江戸時代には京都奉行の庇護を受け、経済的にも稲荷社の神主家よりも裕福だったため、「目の上の瘤」というべき存在となっていたようです。

愛染寺は将軍の休憩所としても利用され、文久3年(1863)から慶応3年(1867)にかけて、伏見街道を行き来した徳川家茂徳川慶喜が計10回、休息に立ち寄ったことが記録されています。

明治維新によって廃寺とされたのは、神仏分離令だけではなく幕府との繋がりが強かったことも影響したのでしょう。

なお、愛染寺の本尊とも言われる、白狐に跨った荼枳尼天に聖天と弁財天が合体した三面十二臂の「三天和合尊像」は、東寺が所蔵しているそうです。(愛染寺の僧侶たちは東寺へと逃れたのでしょうか…)

参考

  • 中村陽 監修『イチから知りたい日本の神さま2 稲荷大神 お稲荷さんの起源と信仰のすべて』(戎光祥出版)

稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)

稲荷大神 (イチから知りたい日本の神さま)

足軽の誕生 室町時代の光と影 (朝日選書)

足軽の誕生 室町時代の光と影 (朝日選書)

  • 深草稲荷保勝会『深草稲荷』

この本がとても充実していて、稲荷大社のみならず深草から東福寺にかけての史跡にまつわる情報がまとめられています。

吉田初三郎『伏見稲荷全境内名所図絵』などとともに、稲荷山の中にいくつかある茶屋で売られています。